第303話 2011/02/13

豊崎神社を訪問

 先週、大阪市北区豊崎の豊崎神社を訪問しました。第268話「難波宮と難波長柄豊崎宮」で紹介しましたが、豊崎神社は淀川沿いにあり、この地は孝徳天皇の難波長柄豊碕宮の比定地の一つとされてきました。一度、その地を自分の目で確かめたくて訪れました。
 豊崎神社は地下鉄御堂筋線の中津駅から徒歩10分くらいの所にあり、周囲は線路やビルに囲まれているため、地勢についてはよくわかりませんでしたが、淀川に近く、古代に於いては港としては良い場所かも知れません。しかし、評制を施行した全国支配の要所とは思えませんでした。少なくとも、上町台地上にある難波宮跡とは比較になりません。もちろん、都や宮殿の場所として圧倒的に難波宮跡がふさわしいと思います。
 他方、地名との関係でみれば、「長柄」「豊崎」という地名が現存する豊崎神社周辺の方が、「長柄」も「豊崎」も存在しない上町台地法円坂の難波宮跡よりも「難波長柄豊碕宮」候補地にふさわしいこと、言うまでもありません。
 しかも、同神社は孝徳天皇の難波長柄豊碕宮故地を偲んで正暦年間(990-994)に創建されたという伝承を有していることから、この地が難波長柄豊碕宮のあった場所と10世紀において認識されていたことになり、このことも難波長柄豊碕宮の比定地を考察する上で重要な「証言」となるでしょう。
 豊崎神社発行『豊崎宮』第1号(昭和50年11月)においても、難波長柄豊碕宮の候補地として法円坂の難波宮跡なども紹介した上で、豊崎神社が難波長柄豊碕宮の跡地であると説明しています。しかしその場合、それでは法円坂の前期難波宮は誰のための何のための宮殿かという説明が必要となりますが、大和朝廷一元説では説明しようがありません。また、通説のように法円坂の前期難波宮を難波長柄豊碕宮とした場合、地名との不一致が避け難い矛盾として現れてきま す。 これら、双方の持つ問題点を解決できる仮説が、わたしの前期難波宮九州王朝副都説なのです。
 この問題は、難波長柄豊碕宮を筑前や豊前などの北部九州とする説に於いても発生します。すなわち、それなら法円坂の前期難波宮は誰の宮殿なのか、という問題をやはり説明できないのです。7世紀中頃における日本列島中最大規模の朝堂院様式宮殿の説明ができないという大矛盾に遭遇するのです。


第302話 2011/01/29

『常陸国風土記』の倭武天皇

 東かがわ市の白鳥神社(しろとり神社)訪問を期に、『常陸国風土記』に見える倭武天皇について考えてみました。この倭武天皇を通説ではヤマトタケルとしていますが、天皇ではないヤマトタケルを倭武天皇とするのもおかしなことですが、その文字表記も『日本書紀』の「日本武尊」とも『古事記』の「倭建」とも異なり、記紀よりも僅かですが後(養老6〜7年頃)に成立した『常陸国風土記』であるにもかかわらず、記紀の表記とは異なる倭武天皇としていることから、 『常陸国風土記』編者は記紀以外の伝承記録に基づいたと考えざるを得ません。
 そうであれば、『宋書』倭国伝に見える倭王武(倭武=国名に基づく姓+中国風一字名称)の伝承記録、すなわち九州王朝系記録に倭武天皇とあり、それに基づいて『常陸国風土記』で倭武天皇として記録されたのではないでしょうか。
 更に言えば、当時の九州王朝の国王は「天皇」を自称していた可能性もありそうです。この時代、九州王朝は中国南朝の冊封体制に入っていましたから、「天子」を自称していたはずはありませんが、「天皇」であれば中国南朝の天子の下位であり、問題ないと思われます。とすれば、『日本書紀』継体紀25年条に見える「日本の天皇及び太子・皇子」の百済本紀の記事も、このことに対応していることになります。
 倭武天皇の活躍と『宋書』倭国伝に記された倭王武の軍功の対応も、倭武天皇=九州王朝倭王武説を支持するように思われます。従って、各地に残るヤマトタケル伝承をこうした視点から再検証する必要を感じています。たとえば、「阿波国風土記逸文」に見える「倭建天皇命」記事や、徳島県には倭武神社もあるようで、興味が尽きません。
 なお、『常陸国風土記』の倭武天皇は倭王武ではないとする見解(西村秀己さん)もあり、慎重に検討したいと思います。


第301話 2011/01/23

讃岐の白鳥神社訪問

 先日、東かがわ市の白鳥神社(しろとり神社)を訪問しました。以前から気になっていた神社で、一度訪れたいと思っていました。もちろん御祭神は日本武尊で、白鳥伝説に基づいた縁起を有していました。しかし、人間が死後白鳥になって飛んできたはずはありませんから、何か別の理由でこの神社が創建されたはずです。このことを確かめたかったのです。
『常陸国風土記』に見える倭武天皇は九州王朝の倭王武の伝承ではないかと古田先生は指摘されていますが、この白鳥神社の日本武尊伝承も、もともとは倭王武の伝承ではなかったのかとも考えています。
 例えば、ここの白鳥神社には日本武尊の他に、その正妃の両道入姫命(ふたじのいりひめ)と妃の橘姫命が御祭神として祀られています。猪熊兼年宮司からおうかがいしたところ、両道入姫命が祀られている神社は全国でも珍しいそうです。また、橘姫命は通常「弟橘姫」とされていますが、ここでは「弟」が付かない 「橘姫」命とのことでした。
 『常陸国風土記』の倭武天皇記事でも、橘皇后あるいは大橘比売命と記されていますから、倭王武の妃は橘姫だった可能性があり、この白鳥神社の伝承でも橘姫命とされていることは、『常陸国風土記』と同様に、日本武尊ではなく九州王朝の倭王武の伝承に基づいているのではないかと推察していますが、いかがで しょうか。
 白鳥神社を訪問した日は大変寒かったのですが、猪熊宮司さんからは長時間にわたり親切に御説明いただき、感謝しています。氏は大学で日本思想史を研究されたとかで、村岡典嗣先生のお名前もよくご存じで、話しが弾みました。


第300話 2011/01/16

両京制への展望

 昨日の関西例会では、わたしの前期難波宮九州王朝副都説の検証が行われました。事前に大下さんに多岐に渡る質問項目をレジュメとして用意していただいたので、有意義な質疑応答が繰り返されました。
 わたしも事前に自説を改めて見直したのですが、前期難波宮は副都に留まらず、難波京ともいうべき規模であることから、九州王朝は7世紀後半に倭京(太宰府)と難波京の「両京制」を採用していたのではないかと考えるようになりました。というのも、昨年、難波に条坊制の痕跡が確認されたことにより、その条坊区割り尺度から前期難波宮の造営と同時に条坊制の京域設計がなされたと考えられるに至ったからです。この点、『古田史学会報』に連載予定の拙稿「前期難波宮の考古学」にて詳細に説明したいと考えています。
 この他、例会では竹村さんによる『先代旧事本紀』の研究報告や、水野代表による東大寺「お水取り」長屋王鎮魂法要説は興味深いものでした。このように、新年最初の関西例会に相応しい発表や質疑応答があり、2011年も新発見続出の予感がしています。
1月例会の発表は次の通りでした。

〔古田史学の会・1月度関西例会の内容〕
○研究発表
(1) 米国防長官 (豊中市・木村賢司)
(2) 天子(帝)になれる条件 (豊中市・木村賢司)
(3) 陳寿の音韻 (豊中市・木村賢司)
(4) 「糊塗」 (豊中市・木村賢司)
(5) 出産の測定は曜日でする (豊中市・木村賢司)
(6) 倭人伝の「距離」と「旅行記」
ーー倭人伝に残された謎(1)の補足(姫路市・野田利郎)
(7) 其の北岸 ーー倭人伝に残された謎(2) (姫路市・野田利郎)
(8)先代旧事本紀「推古27年条」 (木津川市・竹村順弘)
(9) 唐の倭国駐留軍 (木津川市・竹村順弘)

(10)「飛鳥」は「筑紫小郡」か  (川西市・正木裕)
ーー書紀の編纂者は「飛鳥浄御原宮」の命名根拠を知らなかった

『書紀』では天武が六七二年飛鳥浄御原宮を造り即位したと記す一方、六八六年に朱鳥改元に因んで飛鳥浄御原宮と名づけたとする。この二つの記事の合理的解釈として、
1).飛鳥浄御原宮は九州王朝の宮で「飛鳥の明日香」と呼ばれた筑紫小郡にあった。
2).天武は壬申乱後この宮で即位した。
3).薩夜麻はここで育ち、その地名(山川・野の名)をとり幼名明日香皇子と名づけられた。
4).しかし、近畿天皇家が政権を奪取した九州年号大化期に明日香(飛鳥)は大和の地名とされ、筑紫明日香は阿志岐に変えられた。
5).『書紀』編者は「飛鳥浄御原宮」を近畿天皇家・天武の宮とする必要があったが、筑紫の現地地名に因む宮の名の由来を知らなかった為、「朱鳥改元」を根拠にせざるを得なかった。

以上を「大化改新詔」「古事記序文」「万葉歌」ほかを根拠に示した。

(11)前期難波宮九州王朝副都説の検証 (京都市・古賀達也)

○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・東大寺「お水取り」は長屋王鎮魂法要・他(奈良市・水野孝夫)


第299話 2011/01/09

ホームページが文字化け

 新年の御挨拶を申し上げます。
 新年が古田史学や皆さまにとって画期の良き一年となりますように。

 さて、年末から古田史学の会ホームページが文字化けし、皆さまにご心配とご迷惑をかおかけし、お詫び申し上げます。契約しているプロバイダーのシステム改訂に伴うトラブルのようで、現在はほとんど復旧しているとのことですが、一部では依然として文字化けが続いているようです。インターネット担当の横田さんも全力で対応されており、今しばらくお待ち下さい。といっても、文字化けしている方々には読めませんが。(文字化けしている方は、F5キーを押せば一時的に復旧いたします。)

 昨日は大阪で恒例の古田史学の会新年賀詞交換会と懇親会を開催し、古田先生に最新の発見について御講演いただきました。本年、85歳になられますが、お元気なお姿に接し、多くの参加者の皆さまも喜んでおられました。講演内容もバイブル創生神話の男女神についての発見など、画期的なものでした。本当にすごい先生です。
 賀詞交換会には東京から多元的古代研究会和田事務局長様を始め遠方からの参加者も多く、新年の幕開けに相応しい和気藹々としたものでした。
 わたしの年頭の抱負としては、洛中洛外日記の執筆と、『古田史学会報』への前期難波宮研究論文の連載を続けたいと考えています。本年も皆さまのご指導とご協力をお願い申し上げます。


第298話 2010/12/29

中国風一字名称の伝統

 九州王朝倭王が中国風一字名称を持っていたことが古田先生により『失われた九州王朝』で明らかにされています。例えば邪馬壹国の女王壹與の「與」、『宋書』の倭の五王「讃・珍・済・興・武」、七支刀の「旨」、隅田八幡人物画像鏡の「年」などです。
 更にその後、『隋書』に見える太子の利歌弥多弗利についても、「利」が一字名称であり、「太子を名付けて利となす、歌弥多弗(かみたふ)の利なり」とする読みを発表されました。ただ、本当にこの読みでよいのだろうかという疑問をわたしは抱いていたのですが、最近、これで間違いないと思うようになりました。
 それは、古代日本語にはラ行の音で始まる和語は無いということを、内田賢徳氏(京都大学大学院教授)から教えていただいたからです。理由は不明ですが、古代日本においては漢語では欄(らん)・櫓(ろ)・猟師(りょうし)といったラ行で始まる言葉はありますが、和語ではないのだそうです。
 従って、ラ行の「利」で始まる利歌弥多弗利(りかみたふり)という名前は考えにくく、古田先生のように「利」を中国風一字名として理解する他ないことを知ったのです。このことにより、九州王朝倭国では少なくとも3世紀から7世紀初頭に至るまで、中国風一字名称が使用されていたこととなるのです。
 近畿天皇家は中国風一字名称を用いた痕跡が無く、死後のおくり名(漢風諡号)も二字であり、この点、九州王朝とは伝統を異にしているようです。その理由も含めて今後の研究課題でしょう。


第297話 2010/12/28

倭人伝韓国内陸行の再検討

 18日に行われた関西例会において野田利郎さんから、倭人伝の韓国内水行陸行の出発地である帯方郡を従来説のソウル付 近ではなく、ソウルと平壌の中間付近に位置する沙里院(しゃりいん)とする説を発表されました。その根拠の一つとして、実測値としての距離が倭人伝に記された七千里となることを指摘されまし た。
 わたしとしては古田説のソウル付近で妥当と考えますが、野田さんが指摘された問題点は貴重な論点と思われ、今後の論争・検討の深化が期待されます。
 この他、竹村さんからの、韓国ドラマでは「奴」を「の」と発音しているという報告を興味深くお聞きしました。現代韓国語の漢字音は、いわゆる「日本漢音」と「日本呉音」のどちらに近いのか興味を覚えました。ご存じの方がおられれば御教示下さい。
   12月例会の発表は次の通りでした。

〔古田史学の会・12月度関西例会の内容〕
○研究発表
(1) 「箱物」「心物」(豊中市・木村賢司)
(2) 年の瀬・体験雑感(豊中市・木村賢司)
(3) 中国曲阜市に留学中の会員(青木氏)からの報告 代理報告・大下隆司
(4) 倭人伝に残された謎(姫路市・野田利郎)
(5) 韓ドラに嵌って(木津川市・竹村順弘)
(6) 河内戦争2(相模原市・冨川ケイ子)
(7) 九州年号資料は面白い(その1)−峯相紀の謎−(川西市・正木裕)
(8) 「斉明」とは誰か?(川西市・正木裕)
○水野代表報告
    古田氏近況・会務報告・京都東山の伊勢神宮(日向大神宮)・他(奈良市・水野孝夫)


第296話 2010/12/11

2011年 新年賀詞交換会を開催します

この度発行しました『古田史学会報』101号でもご案内を同封しましたが、来年1月8日に恒例の古田史学の会新年賀詞交換会を大阪で開催します。

日時 2011年1月8日(土) 午後1時30分〜4時30分
会場 大阪市立総合生涯学習センター 大阪駅前第2ビル5階第1研修室
主催 古田史学の会
参加費 1000円
※終了後に懇親会(有料)もあります。

地域の会や遠隔地からご参加の会員の御挨拶などを受けた後、古田先生にもご出席いただきま すので、最新の研究などについてお聞かせいただける予定です。皆さまのご参加をお待ちしております。『古田史学会報』101号の内容は次の通りです。 100号に続いて古田先生からご寄稿いただけました。

『古田史学会報』101号の内容
○九州王朝終末期の史料批判ーー白鳳年号をめぐって 古田武彦
○「漢代の音韻」と「日本漢音」
ーー内倉武久氏「漢音と呉音」の誤謬と誤断  京都市 古賀達也
○「東国国司詔」の真実  川西市 正木 裕
○「磐井の乱」を考える
ーー『日本書紀』記事と『筑後国風土記』の新解釈 姫路市 野田利郎
○星の子II **古田武彦著『古代は輝いていた』より** 深津栄美
○伊倉 十四 ーー天子宮は誰を祀るか 武雄市 古川清久
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会  関西例会のご案内
○新年賀詞交換会のご案内


第295話 2010/12/04

平城宮大極殿に立つ

 先日、奈良の平城宮址に行ってきました。遷都1300年祭のイベントが終了した後だったので見物客もまばらで、復原された大極殿をゆっくりと見学することができました。
 平城宮址に行った目的の一つは大極殿の見学ですが、もう一つは先行して造られていた朱雀門を久しぶりに訪れることでした。というのも、この朱雀門建設の現場責任者で2009年1月に物故された飯田満麿さん(当時本会副代表・大林組OB)を偲ぶためでした。この大極殿完成を飯田さんも天国から喜んで見守って おられることでしょう。
 それではなぜわたしが大極殿を見たかったかというと、8世紀初頭における日本列島の代表者が君臨した宮殿と、中央集権的律令体制の官僚群が執務する朝堂の規模を体感したかったからなのです。
 710年に平城遷都した近畿天皇家は、その直前の列島の代表者たる九州王朝の権威と支配領域を「禅譲」であれ「放伐」であれ引き継いだのですから、九州王朝とほぼ同規模の宮殿と官僚組織、そして官僚達が執務する役所・官衙を有したはずです。それが平城宮の規模なのですから、逆説的に考えれば九州王朝も平城宮と同程度の官僚組織と役所・官衙が持っていたことになります。
 このような視点から7世紀後半の宮殿址・官衙址として九州王朝の都としてその条件を満たしている遺構は、まだ全貌が未調査の近江京を除けば、前期難波宮とその官衙群しかないのです。あるいは近畿天皇家の都とされる藤原宮だけなのです。
 このような論理性と考古学的事実に導かれて、わたしは見事に復原された平城宮大極殿に立った瞬間、前期難波宮九州王朝副都説の新たな論理的確信を深めたのでした。もしかすると亡くなられた飯田さんが、わたしを平城宮址に呼んでくれたのかもしれません。


第294話 2010/11/30

九州国立博物館の「大宰府政庁」

 7世紀後半創建説

 11月27日、母校の久米高専で開催されたバリアフリー研究会で、「北部九州にあった大和朝廷以前の王朝と年号」というテーマで講演しました。古田史学の真髄ともいえる邪馬壹国説や九州王朝説について解説したもので、参加者からは驚きをもって賞讃の意見や熱心な質問が寄せられました。
 参加者の多くは久留米高専の教官やOBなど理系の人々でしたが、久留米市役所・大野城市役所からの参加者や佐賀大学・熊本学園大学の先生も見えておら れ、 業種を超えた同研究会の多彩な顔ぶれを前にしての講演は、わたしにも刺激的な経験となりました。招いて頂いた恩師の鳥井先生を初め関係者の皆さまに感謝申 し上げます。
 翌日、久留米市を後にしたのですが、来春に迫った九州新幹線全面開通に備えてリニューアルされたJR久留米駅の観光案内のフロアで、「九州国立博物館& 太 宰府天満宮」(監修・協力 太宰府天満宮・九州国立博物館・太宰府市・太宰府観光協会)というパンフレット(無料)を手に取ったのですが、そこに興味深い 紹介記事がありました。
 それには写真入りで「大宰府政庁」が紹介されており、その解説として、「7世紀後半、九州の政治の中心地、防衛と外交の拠点としての役割を担って創建された大宰府政庁。」とあったのです。恐らくはパンフレット監修に関わった九州国立博物館の見解に基づいた解説と思われるのですが、一元史観による従来説では、大宰府政庁は8世紀初頭に大宝律令下の役所として創建されたとするものでしたから、明らかに従来説とは異なった解説となっているのです。
 しかも7世紀後半の創建とするのであれば、大和朝廷初の条坊都市藤原京と同時期かそれよりも早い創建となります。さらに、井上信正氏の研究によれば、大宰府政庁よりも太宰府条坊の方が早いことが明らかになっていますから、日本最初の条坊都市は藤原京ではなく太宰府であることを認めたことになるのです。こ のことを意識した上での解説なのかどうかはわかりませんが、太宰府条坊編年の最新研究を地元の九州国立博物館が知らないはずがありませんので、観光案内用と はいえ、このパンフレットは通説に一撃を加える貴重な「宣言」と言えるのではないでしょうか。思わず、「頑張れ、九州国立博物館。九州王朝説まであと一歩 だ」とエールを送りたくなるパンフレットでした。


第293話 2010/11/29

例会での新たな取り組み

 11月20日の関西例会では原さんが初めて発表されました。葛城の古墳や遺跡などについて詳しく説明していただき、その方面に疎いわたしには勉強になりま した。岡下さんからは聖徳太子と善光寺如来のものとされる「消息往来」についての各種史料の紹介がありました。恐らくは九州王朝の利歌弥多弗利と善光寺と の往復書簡と思われる「消息往来」の更なる研究が期待されます。
 関西例会初の取り組みとして、それまで発表された説の当否を徹底的に検証するという質疑応答が西村さんの発案により行われました。その第一回として、提案者の西村さんの仮説「古事記序文に文武が記されている」の再検証が行われました。活発な討議がありましたが、全員一致の「結論」には当然ではありますが至りませんでした。わたしの個人的な感想としては、有力な仮説だが絶対そうだと言い切るには不安、という段階です。次回の再検証の対象となるのは、わたしの 「前期難波宮九州王朝副都説」だそうです。皆さん、お手柔らかに。

11月例会の発表は次の通りでした。

〔古田史学の会・11月度関西例会の内容〕
○研究発表
(1) 「忘れられた真実」を読んで(豊中市・木村賢司)
(2) 「残る、残す」(豊中市・木村賢司)
(3) 「風早歴史文化研究会」の旅(豊中市・木村賢司)

(4) 葛城(奈良市・原幸子)
葛城山麓地域の古墳について/二上山麓の石光寺・当麻寺について

(5) 九州王朝と近畿天皇家の名分(試論)
    −古賀氏の「王朝習合」説を検証する−(川西市・正木裕)
 白村江後、高宗の封禅の儀に列した倭国「酋長」は筑紫君薩夜麻以外に無い。従って九州王朝は高宗により承認された政権であり、近畿天皇家が七〇三年則天武后に「日本国」として承認されるまで、唐との「名分上」の正当性は九州王朝にあった。
『旧唐書』の「倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為す」とは、武后に承認を求めるに際し、「近畿天皇家(日本国)は既に承認済みの九州王 朝(倭国)と同じ」と装う為の主張ではないか。これは古賀氏のいう、「大和朝廷と邪馬壹国を同じものとする『習合』思想」の現れと言える。
 七〇四年近畿天皇家が九州王朝の一部を吸収した形で正当王朝となり「慶雲」と改元。「大長」を建てた九州王朝の抵抗勢力を武力討伐。『書紀』編纂時、多利思北孤や利を聖徳太子に見立てるなど「王朝習合」思想により、九州王朝の歴史を近畿天皇家の歴史に染め直したと考える。
(古賀氏とは、用語として教理的概念の「習合」より、政治的概念の「混斉(こんせい=まろかしひとしめる)」が相応しいのではないかと協議した)

(6) 「消息往来」の伝承(京都市・岡下英男)
2.いろいろの史料における消息往来/3.聖徳太子の伝記にはどのように書かれているか/4.誰が何のために、いつ頃作ったか/5.『法隆寺の謎と秘話』について

(7) 白鳳南海地震と聖武の彷徨(木津川市・竹村順弘)
(8) 新羅の地震と神功皇后(木津川市・竹村順弘)
(9) 中国正史の地震記事(木津川市・竹村順弘)
(10)古事記序文−西村説の再検証−質疑応答(向日市・西村秀己)
○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・藤原不比等碑・奈良市鴻ノ池は八代海の模型・他(奈良市・水野孝夫)


第292話 2010/11/14

前期難波宮大規模官衙の論理

 前期難波宮九州王朝副都説について、この数年間わたしは繰り返しその論証や傍証について述べてきました。そしてこの説の当否が、九州王朝から大和朝廷へ の権力交代の研究にとって非常に重要な論点とならざるを得ないことも明白になってきたように思われます。7世紀後半の九州王朝の宮殿や王都を北部九州内に留まるものとするのか、あるいはわたしのように難波副都を含めたスケールで考えるのかで、その様相が大きく変わってくるからです。
 そこで、2011年は前期難波宮九州王朝副都説を考古学の面から検証すべく、『古田史学会報』に「ここに九州王朝ありき ー前期難波宮の考古学ー」という論文を連載しようと計画しています。
 その一論点は、九州王朝が全国に施行した評制による中央集権体制を支えた官僚組織とその役所である大規模官衙を有した宮殿は、7世紀中頃においては前期難波宮しかなく、その宮殿は「大宰府政庁」をはるかに凌駕し、更にその宮殿の西と東には大規模官衙群が出土しているという考古学事実こそ、ここが九州王朝副都であったと解する他無い論理性を有しているというものです。 評制を九州王朝の制度とする九州王朝説に立つ限り、その全国支配の為の行政施設遺構を提示できなければなりませんが、そのような大規模遺構は7世紀中頃の日本列島に於いて前期難波宮しかないのです。評制を施行し全国を統治した官僚群とその官衙が筑前や豊前にあったとしたい論者は、わたしが指摘するこの論理性をクリアできる考古学的事実を提示する学問的義務がありますが、それができた論者をわたしは知りません。