第291話 2010/11/13

母校、久留米高専で講演

来る11月27日(土)、わたしの母校である国立久留米工業高等専門学校(福岡県久留米市)で古代史の講演をすることになりました。学生時代に有 機合成化学を教えていただいた恩師、鳥井昭美先生の要請によるものです。ちなみに、わたしの卒業研究は鳥井研での「アクリジン関連化合物の合成と反応性の 研究」でした。
鳥井先生は同校を退官された後も、「高専シンポジウム」などの教育活動に長く関わられており、日本化学会教育賞も受賞されています。その恩師の要請と あっては断れないどころか、専攻した化学ではありませんが、母校で日本古代史の講演ができるのですから、大変名誉なことと感謝しています。
主催は鳥井先生が立ち上げられた「バリアフリー研究会」で、異業種交流などを目的とした卒業生や在校生による研究会です。もちろん講演内容は古田史学・ 九州王朝説の紹介です。理系の人々への講演なので、初歩的な説明から行いますが、理系の論理的な頭脳は古田史学を理解し支持されるであろうことを確信して います。およそ三十年ぶりに訪れる母校に、今からドキドキしています。


第290話 2010/11/02

神籠石山城の固有名称

古代の山城や軍事施設には当たり前ではありますが固有の名称があったはずです。例えば大野城や水城は『日本書紀』(天智紀)に記されていますので、一応 は九州王朝内でもそのように呼ばれていたものと思われます。しかし、北部九州に点在する神籠石山城それぞれの固有名称は残念ながら文献には残っていませ ん。 失われた神籠石山城それぞれの名前を復原できないかと考えているのですが、久留米出身のわたしの土地鑑の範囲内で試案を考えてみました。まず杷木神籠石で すが、これはそのものズバリの「はき」あるいは「はぎ」ではないでしょうか。「き」は「城」ですから、語幹は「は」です。「は城」が後に杷木の字が当てら れたと考えています。「は」の意味はまだわかりませんが。
次に高良山神籠石ですが、高良山の旧名が高牟礼山(たかむれ)であること、古くからの地主神が高木神とされ、麓には高樹神社があります。ですから、高良山神籠石山城の固有名称は「高城」(たかき・たかぎ)ではなかったでしょうか。
今のところこの二つしか試案は出せませんが、他の神籠石山城も地元の地名や神社名から固有名称を類推できるのではないかと期待しています。どなたか調査研究されませんか。


第289話 2010/11/01

「河野氏まつり」

永納山山城を見学した翌日の10月24日には、合田さんと一緒に松山市北条ふるさと館で行われた「河野氏まつり」(第20回河野氏関係交流会)に 行ってきました。河野水軍で有名な河野氏は、古代氏族越智氏の子孫とされ、風早国(旧北条市)を発祥の地としています。その北条地区で毎年行われている 「河野氏まつり」は様々なイベントがあり、是非参加されることをお奨めします。 古田史学の会・四国の会長でもある竹田覚さん(風早歴史文化研究会々長)が主催者として歓迎の挨拶をされて始まった「河野氏まつり」は、講演会や北条高校 の女子生徒による薙刀演舞や水軍太鼓演奏などがあり、若い人たちもまつりに花を添えました。町おこしとしても郷土愛を育む取り組みとしても、とても素晴ら しい内容でした。
中でも、北条地区を取り囲む四つの山(鹿島・恵良山・雌甲山・宅並山)からの狼煙の実演は、古代史研究の視点からも大変有り難いものでした。あいにくの 雨空で曇っていたのですが、山頂からの狼煙がふるさと館最上階にある展望台からはっきりと見えました。古代に於いて、狼煙が効果的な連絡手段であったこと を自分の目で確かめられたのですから、感動しました。
講演会場では来賓紹介の後、他府県からの参加者としてわたしもご紹介いただき、いささか照れました。できればまた行きたいと思いました。


第288話 2010/10/29

永納山山城を見る

10月23〜24日に四国へ行って来ました。23日は、合田さん(古田史学の会全国世話人)や今井久さん(古田史学の会・四国)のご案内で、永納 山山城を見学しました。四国で発見されたただ一つの神籠石山城とされていますが、今回実見した結果、いわゆる北部九州の神籠石山城との共通点や違いを確認 できました。
考古学界や古代史学界で、神籠石山城の定義が合意形成されているようには思えませんが、おおよそ次のような特徴が指摘できます。
(1)直方体状に加工された列石に囲まれており、その列石上に土塁がある。あるいは、柵なども設置されている。
(2)その列石と土塁の内部に水源があり、列石と水路の交点には石積みの水門がある。
(3)同じく内部に倉庫跡などがあり、「逃げ城」的性格が見て取れる。

永納山山城は列石が切石ではなく自然石であることが、この定義からは外れますが、その他は共通しているようです。従って、あえて定義命名するならば、「自然石利用型」神籠石山城と呼べるかもしれません。しかし、よく考えると「神籠石山城」という名称もあまり学問的論理的名称とは言えないのではないでしょうか。もともと、学界で長く続いた「神域説」と 「山城説」の論争があり、その神域説に基づいた名称が「神籠石」と呼ばれた歴史的背景だったからです(福岡県久留米市の高良山では学界論争以前から「神籠 石」という名称がありました。戦国末期の成立とされる『高良記』に「神籠石」と記されています)。その論争も発掘調査の結果、「山城説」で決着しているの ですから、神籠石山城という名称は論理的に矛盾しているのです。
そこで、より学問的な名称は無いものかと、永納山山城を見ながら考えたのですが、たとえば大野城などのような積石式山城が、「朝鮮式山城」と朝鮮半島の 古代山城との類似から呼ばれていることに倣えば、北部九州式山城と呼ぶのも一案ではないでしょうか。あるいは、九州王朝説の立場を明確にするのであれば、 ズバリ「九州王朝式山城」も良いかも知れません。その形状に着目するのであれば「列石・土塁式山城」というのもイメージしやすくて、考古学的な名称とは言 えないでしょうか。
これらを叩き台にして、まずは古田学派内での合意形成が図れればいいですね。なお、古田先生におたずねしたところ、「神籠石」というのは当て字であり、本来「コウゴイシ」には別の意味があったとされています。いずれ先生から詳しく発表されると思います。


第287話 2010/10/19

『古田史学会報』100号の紹介

記念すべき『古田史学会報』100号が発行されました。古田先生からの記念のご寄稿もいただきました。ページ数も通常の16頁から24頁となり、編集担当の西村さんのご苦労が偲ばれました。
もちろん、内容も充実しています。中でも6月に開催した「禅譲・放伐」シンポジウムの内容を大変要領よくまとめられた大下さんの報告は見事な内容です。 同じく発表の要旨を寄稿された正木稿も好論文です。なお、同シンポジウムのテープ起こしを『古代に真実を求めて』14集に掲載予定です。来春発行されます のでご期待下さい。
『古田史学会報』100号の内容
○忘れ去られた真実ーー100号記念に寄せて  古田武彦
○禅譲・放伐論争シンポジウム・要旨  豊中市 大下隆司
○地名研究と古田史学  京都市 古賀達也
○古代の大動脈・太宰府道を歩く  神戸市 岩永芳明
○「禅譲・放伐」論稿  川西市 正木 裕
○長屋王のタタリ  奈良市 水野孝夫
○越智国に在った「紫宸殿」地名の考察  松山市 合田洋一
○漢音と呉音  富田林市 内倉武久
○新羅本紀「阿麻来服」と倭皇天智帝  大阪市 西井健一郎
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会  関西例会のご案内


第286話 2010/10/17

卑弥呼は桜井にいたか?

  昨日の関西例会では久しぶりにビデオ鑑賞を行いました。弥生時代の宮殿跡が出土した纏向遺跡の発掘調査担当者である橋本輝彦氏の講演ビデオで、演題は「卑弥呼は桜井にいたか?」(本年9月25日「先人に学ぶ人間学塾」主催)。木村賢司さんが撮影されたものです。
 纏向遺跡が「邪馬台国」ではないことは、第237、238,239話などで指摘しましたし、古田学派内では「邪馬台国」論争はとっくに終わっています。しかし、畿内説論者の言い分も知っておいたほうが良いという木村さんの配慮により、ビデオ鑑賞することになったものです。
 そして、木村さんの意見は正解でした。邪馬台国畿内説の非論理性というものが良く理解できたからです。中でも、纏向遺跡から出土した小規模鍛冶遺構の痕跡とされる鉄くず(カナクソ)の説明には驚きました。橋本氏は畿内と北部九州の勢力は当時友好的であった証拠として説明されたのです。すなわち、武器や農具の材料となる製鉄技術が先進地である北部九州から纏向にもたらされたのは、両者が友好的であった証拠とされたのです。
 北部九州の勢力と纏向遺跡にいた勢力が友好的だったとするのは大賛成ですが、それならば当時の倭国の代表者であった「邪馬台国」(正しくは邪馬壹国)は 製鉄の先進地である北部九州にあったとするのが、学問的論理性というものではないでしょうか。同講演会では最後に参加者からの質問がありました。もしわたしが参加していたら、必ずこの質問をしたと思いますが、「邪馬台国」畿内説の橋本輝彦氏がどう返答されるのか、興味津々です。なお、ビデオで見た橋本氏のお人柄は誠実そうな方でした。だからこそ、正直に製鉄の先進地は北部九州と言われたのでしょう。   
 10月度関西例会の発表テーマは次の通りでした。

〔古田史学の会・10月度関西例会の内容〕
○研究発表
(1) 「尊卑・長幼」「近時中国寸評」(豊中市・木村賢司)

(2) ビデオ鑑賞「卑弥呼は桜井にいたか?」橋本輝彦氏講演(撮影・木村賢司)

(3) 磐井の乱の再検討(川西市・正木裕)
 『書紀』継体紀で、古田氏が九州王朝の天子「磐井」だとされる「委意斯移麻岐弥」(『書紀』では「穂積臣押山」)は、任那の四国や伴跛の己文*、加羅の多沙津を百済に割譲する等「親百済」で、これは当時の倭国の立場と一致する。逆に「近江毛臣」は南加羅等の新羅への割譲始め一貫して「親新羅」だ。
 従って毛臣が新羅討伐軍の大将とあるのは不自然だし、新羅から「磐井に」倭国への謀反要請があったとするのも、「磐井に」ではなく「毛臣に」であり、毛臣は新羅を討伐する側ではなく、新羅の要請で謀反を起し討伐される側と考えるのが自然だ。
 また毛臣が帰還の勅命に叛いたため、阿利斯等が謀反を企図し戦となった記事も、本来は毛臣の謀反・叛乱であり、これが「遂に戦ひて受けず」という磐井の叛乱記事として『書紀』に盗用されたと見るべき事を指摘した。
文* は、三水偏に文。JIS第3水準ユニコード6C76

(4) 大和川の水利(木津川市・竹村順弘)
(5) 後漢書・三国志の日付干支(木津川市・竹村順弘)

(6) 『日本書紀』と《『須田鏡』における男弟王の年紀》から割り出される真実(たつの市・永井正範)

○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・藤原不比等(顕彰)碑・神武東征とは南九州の話・他(奈良市・水野孝夫)


第285話 2010/10/12

「日の丸」の起源

10月9日の久留米地名研究会での講演会は御陰様で盛況でした。するどい質問もいただき、参加者の熱心さが伝わってきました。主催者の皆さまや参加していただいた皆さまにお礼申し上げます。
今回の京都からの往復の新幹線内では、『知っておきたい「日の丸」の話し』吹浦忠正著(学研新書)を読みました。著者はわが国における「国旗」研究の第一人者で、その博識ぶりが随所に記された好著でした。
中でも「日の丸」の起源について触れられた部分は参考になりました。氏の見解は「日の丸」は古代日本における太陽信仰に淵源するものとされていますが、 この点、古田先生と同見解です。更に、通例では「日の丸」の起源を『続日本紀』の文武天皇大宝元年正月朝賀の儀に飾られた日像が初見史料とされているよう ですが、著者はそれよりも早い時期に成立している法隆寺蔵「玉虫厨子」に描かれた日像、あるいは7世紀前半の珍敷塚古墳(福岡県)の壁画に描かれた太陽な どを起源として考えるべきではないかとされています。
いずれも九州王朝に関係しそうな史料・遺跡であることに興味を覚えました。もちろん、日本列島における太陽信仰は九州王朝以前から、恐らくは旧石器縄文 時代にまでさかのぼるものと推測されますが、「日の丸」に対して様々な視点から解説されている同書の読後感はとてもさわやかなものでした。


第284話 2010/10/02

久留米地名研究会 済み

 来る10月9日(土)に久留米地名研究会で講演をします。会場は「えーるピア久留米(久留米生涯学習センター)」(西鉄久留米駅から南徒歩10分)で午後1時半からです。演題は「筑後 地方の九州年号−九州王朝の地名研究とその方法−」で、九州年号を切り口にして九州王朝の実在を論じ、「九州」という地名が持つ論理性について触れます。 後半は具体的な地名研究の歴史学への応用として、『古事記』神武記の史料批判と北部九州の地名との関連を紹介する予定です。
 他方、筑後地方の九州年号や地名・神名調査の協力についてもお願いしたいと考えています。地名研究が歴史研究にどのように貢献できるかを参加者の皆さんと一緒に考える機会になればと楽しみにしています。
 下記に講演レジュメの一部を紹介します。ふるってご参加下さい。

1.九州年号の論理
1) 鶴峯戊申『襲国偽潜考』で古写本「九州年号」より九州年号を紹介。
2) 明治25年『日本史学新説』広池千九郎著 で古写本「九州年号」より九州年号を紹介。
3) 宇佐八幡宮文書『八幡宇佐宮繋三』元和三年(1617)五月、神祇卜部兼従編纂  「文武天皇元年壬辰大菩薩震旦より帰り、宇佐の地主北辰と彦山権現、當時〔筑紫の教到四年にして第廿八代安閑天皇元年なり、〕天竺摩訶陀國より、持来り 給ふ如意珠を乞ひ、衆生を済度せんと計り給ふ、」 ※〔 〕内は細注。
参考
九州年号・九州王朝説 ーー明治二五年 冨川ケイ子(会報68号)
「宇佐八幡宮文書」の九州年号古賀達也(会報五九号)

2.「九州」の論理
古田武彦氏との共著『九州王朝の論理』所収「九州」史料一覧参照

3.筑後地方の九州年号
『耳納』掲載「筑後地方の九州年号」参照

4.『古事記』神武記の地名と神名
○『古事記』「熊野村」「吉野河の河尻」「宇陀」「訶夫羅前」「井氷鹿(井光)」
○『筑後志』三瀦郡  「威光理明神社 同郡六丁原村にあり。」 「威光理明神社 同郡高津村にあり。」
参考
盗まれた降臨神話 『古事記』神武東征説話の新史料批判 古賀達也(会報48号)

5.「元壬子年」木簡の論理と衝撃
芦屋市三条九ノ坪遺跡出土(1996年)『市民タイムズ』(長野県松本市)2006/08/20 参照


第283話 2010/09/26

「洛中洛外日記」の出版構想

9月23日に水野代表宅で『古代に真実を求めて』14集の編集会議を行いました。採用稿の選考などを行った後、ひとしきり古代史談義の花が咲き、今後の「古田史学の会」運営などの雑談会となりました。
その中で、太田副代表より各人が著書を出版したらどうかとの意見が出されましたので、わたしとしてはこの「洛中洛外日記」をきりの良い時点で出版する考 えのあることを述べました。本にしておくと読み返すのに便利ですし、自らの思考や研究の変遷などを確認したり整理するのにも好都合ですから。
幸いにして、「洛中洛外日記」はわたしの予想以上に好評を博しているようですし、古田史学や「古田史学の会」の歴史を記録する役割も少しは果たしていますので、書籍として後世に残しておいても許されるのではないかとも思っています。
他方、関西例会等に参加できない遠方の会員から、「洛中洛外日記」の更新頻度を上げて欲しいという有り難い声も頂いていますが、新発見や新たなアイデ ア、古田学派内のニュースに触れた内容にすることを心がけていますので、今の程度の更新ペースになってしまいます。仕事が忙しいのを理由にはできません が、出張などが続くと、さすがに歴史研究にまで頭がまわらないのが実状です。
とは言え、「洛中洛外日記」の執筆はわたし自身の知的刺激にもなっていますので、これからも頑張って書き続けます。ご批判も含めた叱咤激励をお願いいたします。


第282話 2010/09/19

孝徳紀「東国国司詔」の新展開

 関西例会では大化改新詔の研究が進められていますが、その中心的研究者の正木さんが今回も新たな仮説を発表されました。それは、孝徳紀の東国国司詔の中に文武天皇の即位の宣命が挿入されているというものです。ちょっと恐い仮説ですがなかなか説得力のある論証が試みられました。会報での発表が期待されます。 
 竹村さんからは今回も多数の発表がなされましたが、中でも日本書紀訓註の一覧データは示唆的でした。日本書紀には難解な字などに訓註(読み)が施されて いますが、万葉仮名が整理統一される以前の古い史料に基づいたと思われる神代紀や神武紀に特に訓註が多く施されています。ところが、皇極紀・孝徳紀・斉明紀・天武紀にも他の天皇紀に比べて訓註が頻出しているのです。他方、天智紀は訓註がゼロです。
 この現象は日本書紀編纂時の原史料の性格の違いによるものと思われますが、この現象が竹村さんの一覧データにより明白となりました。このような史料のデータ化は文献史学の地道な基礎研究に属すると思いますが、こうしたデータが例会に報告されることは研究者として大変ありがたいことです。
 9月度関西例会の発表テーマは次の通りです。

〔古田史学の会・9月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 武烈を誰が殺(や)った(豊中市・木村賢司)

2). 菩薩は全て女性(豊中市・木村賢司)

3). 「評」の淵源についての若干の考察(川西市・正木裕)
「評」の淵源は、前漢代の「廷尉評(平)」にあり、後漢の光武帝は詔獄(警察・裁判)を所掌させ、魏・晋以後もその職は強化された。一方、「都督」の淵 源も光武帝代の督軍御史(督軍制)にあり、魏の曹丕は地方諸州の軍政を所掌する都督を初めて常設し、数万〜十数万の軍の指揮を執らせた。 この様に、金印を授かった後漢から、倭国が臣従した魏・晋朝にかけ都督と評は並存しており、そうした状況の下、倭国が都督—評督制を創設したことは想像に 難くない。

4). 西村干支計算表を使って、日本書紀の干支の比較検討(木津川市・竹村順弘)
1)朔日干支の記事分布とその概要 2)干支記事の偏在有無の検証 3)例外記事の考察 4)結語

5). 日本書紀訓註の謎(木津川市・竹村順弘)

6). こなべ古墳の被葬者(木津川市・竹村順弘)

7). 新羅本紀「阿麻来服」記事と「倭皇天智天皇」(大阪市・西井健一郎)

8). 東国国司詔の実年代(川西市・正木裕)
(1)『書紀』大化元年(六四五)八月の「東国国司招集の詔」の発せられた実年は、九州年号大化元年(六九五)であり、近畿天皇家が、九州王朝により任命されていた国宰の権限を剥奪・縮小し、律令施行に向け新職務を課す主旨。
(2)大化二年(六四六)三月の「東国国司の賞罰詔」は、文武二年・九州年号大化四年(六九八)に、近畿天皇家が、新政権への忠誠度や新職務の執行状況により、国宰を考査し処断・賞罰を行う旨の表明。
(3) 賞罰詔中に記す「去年八月」の詔とは、文武元年八月(六九七)の文武即位の宣命を指し、文武への忠誠と、国法遵守を命じたもので、これを基に賞罰が行われたと考えられる。

9). 三国史記と日本書紀の二倍年暦(木津川市・竹村順弘)

10). 日本第四紀地図とナラ山(木津川市・竹村順弘)

○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・牽牛子塚古墳見学会・他(奈良市水野孝夫)


第281話 2010/09/19

筑後の物部氏

第207話「九州王朝の物部」で、 九州王朝のある時期の王族は物部氏ではなかったかとする仮説を関西例会で発表したと述べましたが、その根拠の一つに高良玉垂命の系図(稲員家系図・松延家 系図・等)に玉垂命が物部であると記されていることにありました。あるいは高良大社文書の『高良記』にも玉垂命が物部であることは「秘すべし」とあり、も し外部に知れたなら「全山滅亡」とまで記されていることでした。
わたしは高良玉垂命は倭の五王時代の筑後遷宮した九州王朝の王たちではないかとする説を発表していましたから、そうすると倭の五王は物部氏になってしまうと考えざるを得ないことになったのです。もちろん、まだ断言できるほどの確信はありません。
そうしたことから、もう一つ気に掛かっていたのが、『和名抄』に記録されている筑後国生葉郡物部郷の存在でした。『太宰管内志』ではその物部郷は「今は 廃れてなし」とされており、所在地は謎に包まれていました。そこで、第222話「蘇我氏の出身地」で触れましたように、西村秀己さんの携帯による電話帳検 索により福岡県の物部さんの分布を調べてもらったところ、何とうきは市浮羽町に集中していたのでした。
わたしは福岡県内であれば筑豊地方に物部さんが多いと漠然と推定していたのですが、検索結果は浮羽町だったので、大変驚きました。そうすると物部郷も浮 羽町かその近隣にあったと考えて良いように思われます。ちなみに、わたしの本籍地は旧「浮羽郡浮羽町大字浮羽」でした。
そうすると、この物部郷の物部さんと高良大社玉垂命の物部との関係が気になりますが、今のところよくわかりません。また、浮羽郡在地の大氏族である「い くはの臣」と物部氏との関係も検討が必要です。10月9日(土)に久留米地名研究会主催で講演を予定していますので、この点を当地の皆さんにうかがってみ たいと考えています。


第280話 2010/09/12

ドラッカーと古田武彦

 最近、仕事上の必要性からピーター・F・ドラッカーの著作やその解説書を集中して読んでいます。ご存じの通り、ドラッカーは「経営学の父」「20世紀を代表する知の巨人」と称されている人物ですが、その難解な表現や概念に悪戦苦闘しながら読み進めています。
 難解ではあるのですが、その論理性や学問の方法が古田先生から教えられたフィロロギーの手法と相通じるものがあり、読んでいて大変波長があうのです。特
にドラッカーは歴史学者でもあり、その深い洞察力には驚かされ、勉強になります。もっと早くから読んでおけばよかったと少なからず後悔していますが、今か
らでも遅すぎることはないと毎日のように貪り読んでいます。
 そんな中、一昨日は『知の巨人ドラッカー自伝』(日経ビジネス人文庫)を読み終えました。それでドラッカーと古田先生との面白い共通点があることを知り
ました。たとえば、古田先生の初期三部作『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』(朝日新聞社刊。ミネルバ書房から古田武彦コレ
クションとして最近復刻されました)は有名ですが、ドラッカーにも初期三部作というものがあるそうです。『経済人の終わり』『産業人の未来』『会社という
概念』の3冊です。
 中でも、ドラッカーの処女作『経済人の終わり』は、台頭するファシズムや全体主義を批判し、ナチスドイツとソ連が手を組むと予想していたため、左翼や共
産主義者の妨害にあい出版の引受先がなかなか見つからなかったとのこと(1939年の出版の半年後、独ソ不可侵条約が締結され、ドラッカーの予言は的中し
ました)。  
 古田先生の親鸞研究の名著『親鸞思想』も真宗教団の圧力により、当初出版予定していた京都の某書肆からは出版予告までしておきながら出版されなかったと
いう歴史があり、この点もドラッカーとの共通点の一つでしょう(『親鸞思想』は後に冨山房から出版され、明石書店から復刻されました)。
 ドラッカーの信望者を「ドラッカリアン」とよぶそうですが、それに習えば私は「フルタリアン」ですが、もうすぐ「ドラッカリアン」にもなりそうな予感を持ちながら、酷暑の京都でドラッカーを読んでいます。