第340話 2011/10/01

「大歳庚寅」鉄刀銘と「金光」改元

 前話で紹介した「大歳庚寅」鉄刀銘文について、ちょっと気にかかる点がありました。それは「大歳庚寅正月六日庚寅日時作凡十二果(練)」という短い文に年干支と日付干支の両方が記され、しかも共に「庚寅」という点です。
 もちろん、古代金石文において年干支と日付干支の両方が記されている例はあるのですが、鉄刀の背という狭いスペースに象嵌という手の込んだ技術で作刀の時期を記す場合、年干支「大歳庚寅」と「正月六日」という日付表記で事足りるのに、わざわざ「正月六日庚寅」と日付干支まで丁寧に記されていることに、作刀者の強い意志と意図を感じるのです。しかも、年干支と同じ「庚寅」なのですから、これも偶然とは考えにくいと思います。
 日付干支が「庚寅」となる「正月六日」にたまたま作刀したのではなく、年干支と同じ「庚寅」となる「正月六日」を作刀日に選んだ可能性が濃厚なのです。 それほど「庚寅」という干支を意識したのです。その理由をわたしなりに考えてみました。それは九州年号「金光」への改元との関わりです。
 この鉄刀銘の庚寅が570年であることは確実ですが、この同じ年に九州年号が「和僧」から「金光」へと改元されているのです。この「金光」との関係で作刀日を「庚寅」にしたのではないでしょうか。古代中国では陰陽五行説(諸説あります)に基づいて鏡や刀の作成日を選んだり、吉祥句として記したりしている 例が少なくありませんが、この「庚寅」という干支も陰陽五行説によれば、庚は「金」と「陽」に相当し、寅も「陽」に相当するとされています。この「金」と 「陽」に基づいて、あるいは因果関係は逆かもしれませんが、「金光」という年号が制定されたように思われるのです。
 従来わたしは、九州年号の「金光」は九州王朝への金光経伝来を記念して制定された年号ではないかと考えていました。しかし、この推測には弱点がありました。それは『二中歴』年代歴の「金光」年号細注に何も記されていないということでした。ご存じのように、『二中歴』年代歴の九州年号の細注には仏教関連記事が少なからずあり、たとえば、「端政」の細注には「唐より初めて法華経渡る」とあり、「仁王」には「唐より仁王経渡る」、「僧要」には「唐より一切経三 千余巻渡る」などの仏教経典伝来記事がありますが、「金光」にはないのです。
従って、今回の鉄刀銘文の考察のように、一応、金光経伝来とは別に、陰陽五行説との関連で「金光」年号を捉えることができたのは、新たな理解(作業仮説)として有益と思われました。
 こうした仮説が正しければ、この「大歳庚寅」象嵌鉄刀は、前年の倭王崩御に伴い、新倭王が即位し、「大歳庚寅正月六日庚寅」に「和僧」から「金光」へと九州年号が改元されたことを記念して作られたのではないかという考えへと進まざるを得ないのですが、いかがでしょうか。
 なお、「大歳庚寅」(570)に即位した倭王は、多利思北孤の前代の倭王(玉垂命・襲名するため一人ではない)の可能性が濃厚です。『太宰管内志』(筑後国大善寺玉垂宮)によれば、玉垂命は端政元年(589)に崩御したとありますから、金光元年(570)即位の倭王は当時の玉垂命と推定できます。この時、 九州王朝の都となる太宰府条坊都市は未完成で、それ以前の筑後遷宮期の倭王ですから、本拠地は筑後です。
 恐らく、新倭王(玉垂命)の即位と「金光」への改元を記念して作られた「大歳庚寅」象嵌鉄刀が、九州王朝直属の有力者へ配られ、その内の一つが今回出土した鉄刀ではないでしょうか。
 (追補)第339話を読んだ正木裕さんからメールが届き、『善光寺縁起』に「金光元年庚寅歳天下皆熱病」という記事があり、前代の倭王の死因はこの熱病と関係しているのではないかという御指摘を得ました。大変面白い記事です。他の九州年号史料の調査が待たれます。


第339話 2011/09/25

「大歳庚寅」象眼鉄刀銘の考察

 出張先の名古屋のホテルで読んだ中日新聞(9月22日)に、福岡市西区の元岡古墳群から出土した鉄刀に象眼があり、エックス線写真によると、「大歳庚寅正月六日庚寅日時作凡十二果(練)」の文字が確認されたとのことでした(「練」は推定)。
 「庚寅正月六日庚寅」と、年干支・日付干支があるので、570年の庚寅であることがわかります。九州王朝中枢領域から出土した6世紀後半の金石文ですか ら、わたしも大変貴重な史料が出たと喜びました。その後、今日まで銘文について検討を行い、いくつかの興味深い問題が見えてきました。
 まず第一は、その年・日付干支から、九州王朝では『三正綜覧』などで復原された「長暦」が少なくとも6世紀後半から7世紀全般にわたって使用されていたという事実がわかります。たとえば、この他に九州王朝系金石文で年・日付干支の両方が判明するものとして、法隆寺釈迦三尊像光背銘「(壬午)二月廿一日癸酉」(622)、妙心寺銅鐘「戊戌年四月十三日壬寅」(698)の存在があり、いずれも「長暦」によることがわかっていました。こうした九州王朝中枢の金石文が指し示す史料事実から九州王朝使用暦が一層明確となったわけです。
 九州王朝説論者の中には、『三正綜覧』による暦日干支復原を否定し、妙心寺銅鐘の戊戌年を638年とする見解もあるようですが、それは無理であったことが今回の鉄刀の出土により更に明らかとなりました。
 第二に注目されるのが「大歳庚寅」という大歳干支表記です。この「大歳○○」(○○は干支)という表記方法は『日本書紀』に見られる独特のもので、各天皇の即位元年条末尾に記載されています。神武天皇など若干の例外はありますが、各天皇の即位年干支の表記方法なのです。この大歳干支表記について、岩波 『日本書紀』補注では百済からもたらされたものではないかと説明されています。
 しかし今回の出土で、大歳干支表記が九州王朝下で使用されていた ことが判明し、『日本書紀』はその九州王朝の大歳干支表記を採用したこととなり、しかも天皇即位年の表記に使用されているという『日本書紀』の史料事実から、これも九州王朝史書からの模倣の可能性があることから、九州王朝でも歴代天子の即位年記録に大歳干支を使用していたものと推察できるのです。
 そうであれば、この庚寅年の570年に九州年号が「和僧」から「金光」に改元されていることから、もしかすると前年の和僧五年(569)に九州王朝の倭王が没し、翌年の庚寅に次の倭王が即位したことから、鉄刀には「大歳庚寅」と象眼されたように思われます。このように九州年号の改元と一致していることは示唆的です。
 以上のように、今回出土した鉄刀銘文は九州王朝史研究にとっても貴重な金石文であり、更なる研究が必要です。なお、出土した古墳が7世紀中頃と編年されていますが、鉄刀銘文の庚寅年(570)と離れていることから、北部九州の古墳編年についても検討の余地が必要かもしれません。更に同古墳から出土した古墳時代では国内最大級の銅鈴の検討なども今後の課題です。


第338話 2011/09/24

公卿補任のONライン

 9月17日の関西例会で、竹村さんが公卿補任(くぎょうぶにん)の調査結果を報告されました。公卿補任は近畿天皇家の歴代の職員録で従三位以上が記されています。著者や成立年代は不明とのことですが、そこに記された739年まで年別の登録人員数の集計をされました。
その結果、701年を境に人数が増えるという現象を発見されたのです。そしてその原因として、701年以降になって近畿天皇家は自らの官僚名を正確に記し、それ以前の九州王朝の官僚は記されていないため、人数が少ないのではないかとされました。正に王朝交代の画期点である701年(ONライン)が公卿補任にも反映している可能性を指摘されたのです。大変優れた調査結果と考察だと感心しました。
 竹村さんには、公卿補任だけでなく、例えば『二中歴』の「都督歴」なども調査されるよう要請しました。このところ、竹村さんの研究発表には刺激されることが多く、毎月の例会が楽しみです。
 奈良市の原さんからも久しぶりに発表があり、当麻寺の中将姫伝説などを教えていただきました。
当日の発表は次の通りでした。
 
〔古田史学の会・9月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 『俾弥呼』を読む(向日市・西村秀己)
2). 青木さんからの手紙(豊中市・木村賢司)
3). 「論争のすすめ」(会報105号)について(豊中市・大下隆司)
4). 公卿補任の大宰帥(木津川市・竹村順弘)
5). 大宰帥の家系図(木津川市・竹村順弘)
6). 当麻寺の曼陀羅由来・他(奈良市・原幸子)
7). 久留米・太宰府地名研究会講演会の報告(川西市・正木裕)
 
○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田氏近況・会務報告・住吉神社研究・他(奈良市・水野孝夫)

第337話 2011/09/10

畢生の書『俾弥呼(ひみか)』

 待望の一書が出ました。古田先生の新著、ミネルヴァ日本評伝選『俾弥呼(ひみか)』です(ミネルヴァ書房、2800円税別)。1971年に『「邪馬台国」はなかった』で衝撃の古代史デビューを飾った古田先生の「畢生の書」と、『俾弥呼(ひみか)』の「おわりに」で自ら書かれているように、古田史学のみならず日本古代史研究の歴史に残る一冊となりました。
 内容は、初めて古田史学に触れる読者にも理解できるよう、自らの学説の解説や、研究者にとっても貴重な「学問の方法」を明確に意識されたものとなってい ます。また、俾弥呼のことだけにとどまらず、倭人伝研究の精髄を縦横無尽に展開されていることは、その目次を見ただけでも明確です。
 古田学派の研究者にとって、同書は『「邪馬台国」はなかった』とともに必読(熟読玩味)の一書といえるでしょう。80歳を過ぎて、なおこのような名著を世に出される古田先生に敬意を表すると共に、心から同書の刊行をお祝いしたいと思います。
 なお、『俾弥呼(ひみか)』発刊と『「邪馬台国」はなかった』刊行40周年を記念して、古田先生による記念講演会「俾弥呼とは誰か」が、10月8日(土) 京都教育文化センター(京都市左京区・定員350名。資料代500円。13時30分~16時)で開催されます(主催:ミネルヴァ書房)。記念すべき1日と なるでしょう。是非、ご参加下さい。


第336話 2011/09/03

『勝山記』の観世音寺創建記事

 大型の台風12号の接近のため、今日は外出を控えて終日原稿執筆の予定ですが、昨日、山梨県の会員で井上さんからお便りが届き、九州年号史料としても有名な『勝山記』のコピーが同封されていました。
 『勝山記』は今から20年ほど前に読んだことがあるのですが、現在は当時よりも九州年号研究もはるかに進展していますし、問題意識も深まっていますので、送られたコピーを見ましたところ、いくつかの面白い記事が目にとまりました。
 その一つが観世音寺の創建に関する記載でした。『勝山記』の白鳳10年(670)の項に、「鎮西観音寺造」と記されているのですが、鎮西の観音寺とは太宰府の観世音寺のことと考えられ、その創建年次が具体的に記された史料としては管見では『勝山記』だけなのです。
 『二中歴』年代歴には白鳳年間の細注として、「観世音寺東院造」とあるのですが、白鳳の何年かまでは記されてはいません。従って、『勝山記』のように白鳳10年という具体的年次のわかる史料は貴重なものです。もちろん、『勝山記』の史料批判も含めて今後の課題として残されており、この白鳳10年記事が 歴史事実かどうかは総合的に判断しなければなりませんが、観世音寺の創建年次を記した史料として貴重なものであることに違いはありません。
 今回、『勝山記』の白鳳10年(670)「鎮西観音寺造」の記事に、わたしが興味を引かれたのには、ある理由がありました。それは、『二中歴』の白鳳年号細注の「観世音寺東院造」の読み方として、わしは「観世音寺を東院が造る」と解し、東院を人名とする読みが有力と考えているのですが、そうではなく「観世音寺の東院を造る」と読み、東院を建物とする理解も可能であり、そちらが正しいとする見解もあるからです。
 もちろん読み方としてはどちらも可能なのですが、年代歴の九州年号細注の記載方法として、「倭京二年難波天王寺聖徳建」という記事があり、こちらは「難波天王寺を聖徳が建てた」と読まざるを得ません。ですから同様の表記ルールで読むのが史料批判上まっとうな方法ですから、観世音寺の場合も東院という人物が造ったと読むべきですし、それに何よりも、もし東院とは別に観世音寺本体が創建されていたのなら、年代歴にはそちらが記載されるべきなのではないでしょうか。『二中歴』九州年号細注には「始めて~」という記載が多く、その始めての事例を記載することが目的のような年代歴なのですから、観世音寺本体の創建を記さず、その「東院」の創建記事のみを記したとは考えにくいのです。
 更にいうなら、白鳳年間に観世音寺の東院を造ったと読みたい論者の目的は、観世音寺創建年代を更に古くしたいということにあるようです。従って、『二中歴』の白鳳の記事を、その表記ルールを無視して、「白鳳年間に創建されたのは観世音寺の東院」としなければ、都合が悪かったのです。
 しかしこうした理解は、表記ルールだけでなく、考古学的にも無理があります。今までも度々指摘してきましたが、観世音寺創建瓦の「老司1式」は7世紀中頃から後半の瓦とされていますので、『二中歴』の白鳳年間創建でぴったり一致しています。その上、観世音寺遺構とは別に「東院」伽藍のような遺構は発見されていません。
 このように、『二中歴』年代歴の表記ルールや考古学的事実からも、観世音寺は白鳳年間に創建されたと理解せざるを得ないのです。その上で、今回「発見」した『勝山記』の白鳳10年(670)「鎮西観音寺造」の記事は、こうした理解を支持する史料根拠となるのです。他にも九州年号を用いた年代記に観世音寺創建記事が見つかるかもしれません。更に調査したいと思います。『勝山記』コピーを送っていただいた井上さんに感謝申し上げます。


第335話 2011/08/23

初伝時の仏像と三角縁仏像鏡

 8月20日の関西例会で、竹村氏がわが国への仏教初伝時の仏像の様式を検討され、初伝時の仏教は中国南朝ではなく北魏からの影響が強いという説を発表されました。この考えは有力な仮説だと思います。

 わたしも、「倭国に仏教を伝えたのは誰か」(『古代に真実を求めて』1集、1996年)という論文の中で、初伝僧として糸島雷山千如寺の清賀上人を提起しました。そして、その千如寺の本尊である千手観音の中に清賀上人の持仏とされる小仏像が埋め込まれているのですが、目がつり上がったちょっと異様な仏像なのです。
 ところが、今から10年ほど前に仕事で上海に行ったとき、上海博物館を訪れたのですが、時代別に展示してあった仏像の中で、北魏の仏像が千如寺の体内仏に顔がそっくりだったのです。従って、清賀上人は北魏の、あるいは北魏経由の僧侶ではないかと考えていたのです。今回の竹村さんの発表はわたしの考えと一 致するものであり、興味深く傾聴しました。
 なお、竹村さんが調査された対象は「仏像」だけでしたので、古墳時代に出土している「三角縁仏像鏡」の存在を指摘し、これらも調査対象にされることを要望しました。今後の継続調査に期待しています。
 当日の発表は次の通りでした。

〔古田史学の会・8月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 仏教初伝時の仏像(木津川市・竹村順弘)
2). 『古鏡銘文集成』の裏文字銘文(京都市・岡下英男)
3). 河内戦争後の畿内–律令制の始まり(横浜市・冨川ケイ子)
4). 厳然として凛として立つ国・他(豊中市・木村賢司)
5). 古代大阪湾の新しい地図(豊中市・大下隆司)
6). 論争の提起に応えて(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
  古田氏近況・会務報告・三井寺の「白鳳八年」・平城京の観世音寺・他(奈良市・水野孝夫)


第334話 2011/08/21

『古田史学会報』105号の紹介

 8月8日発行の『古田史学会報』105号を御紹介します。今号でも上城稿や水野稿など紙上論争が掲載されており、中でも上城稿は会内での活発な論争を提唱されています。読者にとっても興味深い論争が展開されると思いますし、最新の研究の問題点や争点が明確になることも学問的に有益なことです。
 大下さんからは久留米大学公開講座での古田先生の講演要旨が報告されました。古田先生の最新の研究動向や問題意識に触れることができるので、ありがたい報告です。来春発刊予定の『古代に真実を求めて』15集には、詳細な講演録を掲載することを検討していますので、お楽しみに。なお、『古代に真実を求め て』15集の原稿受付締め切りも間近です。こちらにもふるってご投稿下さい(水野孝夫まで)。

『古田史学会報』105号の内容
○論争のすすめ 福岡市 上城誠
○古歌謡に現れた「九州王朝」の史実  世田谷区 西脇幸雄
○斎藤里喜代さんへの反論  奈良市 水野孝夫
○「橿(モチのキ)はアワギ」の発見  大阪市 西井健一郎
○古田武彦講演「九州王朝新発見の現在」要約  文責 大下隆司
○『古田史学会報』原稿募集
○古田史学の会会員総会の報告
○「星の子」(3)  深津栄美
○クマソタケルは女だった  西村秀己
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会  関西例会のご案内


第333話 2011/08/14

靖国神社参詣

 先週の8月9日、仕事で市ヶ谷に行った折、少し時間ができましたので猛暑の中、靖国神社を初めて訪れ参詣しました。歴史の研究調査で 日本各地の神社や仏閣を訪問参詣する機会が多いのですが、靖国神社だけは今まで行ったこともなかったのです。古代史とはあまり関係がなさそうということが、その理由でしたが、 日本思想史学や近代史の問題として、あるいは明日の終戦記念日に象徴される現代の問題と最も深く関わっている神社なのですから、どうしても一度は行かなければならないとも感じていたのでした。
 わたしが二十代の頃は、ご他聞にもれず「戦後民主教育」の影響により、靖国神社といえば「右翼」「軍国主義」の象徴という感覚と、他方、御国のために若くして戦没された特攻隊員のことを思うと粗末には扱えないなといった複雑な、あるいは宙ぶらりんの認識に留まっていました。
 その後、古田先生に歴史学や思想史学を学び、少しずつ認識を深め、かつ改めたのですが、決定的認識の変化をうながされたのが、古田先生の論文「靖国参拝の本質ーー「結恨横死」論」(『古田史学会報』46号、2001年10月)でした。
 同論文中の「A級戦犯。わたしは『この人々の霊を、断乎、靖国神社に祀るべし。』そう考える。なぜなら、右にあげたように『結恨横死の霊』こそ祀らるべきなのである。幸福な人生を遂げ、衆人の賛美の中にその十全の人生を過ごした人々より、この『結恨横死』の人々こそ祀らるべきだ。それが真実の宗教である。」や「天皇の任務。近年、『靖国参拝』問題が首相に関して語られること、不審だ。なぜなら、誰人よりも、この参拝をなすべきは、天皇その人である。靖国に祀られている人々は『天皇の名によって』戦い、死んだ人々だからである。外国の批議や非難を恐れ、参拝したり、中止したりする、いわゆる『A級戦犯の合祀』で、また態度を変える。醜い。」とする古田先生の指摘は衝撃的でした。
 あるいは、「『A級戦犯』というのは、政治だ。これに対し、『祭祀』は宗教である。政治を宗教に優先させる。これは天下の邪道だ。近代国家の傲慢である。 宗教は、政治の外、政治の上に立つ。これが人類史の到達してきた道標である。」という思想史学的考察には、さすがは古田先生だと思いました。
 これらの問題は人それぞれ意見が異なると思いますが、人類の歴史的普遍性を持った考察と思想性の観点が必要と思われ、古田先生の論文はとても示唆的です。


第332話 2011/08/13

「海行かば」の王朝

 第331話で、さだまさしさんの名曲「防人の詩」に触れましたが、わたしはさださんのような作詩の才能や歌心はありませんから、『万葉 集』は専ら古代史研究の史料として読んでしまいます。そんな『万葉集』研究において、初めての古田先生との共著『「君が代」うずまく源流』(新泉社、 1991年)に収録していただいた論文が『「君が代」「海行かば」、そして九州王朝』で、初期(35歳の時)の論文でもあり、とても想い出深い一冊です。
 大伴家持の歌として有名な「海行かば水浸く屍 山行かば草むす屍 大君の辺にこそ死なめ 顧みはせじ」は『万葉集』巻十八(4094)の長歌の一節ですが、『続日本紀』天平21年四月条の聖武天皇の宣命中にも同じ様な歌が見えます。
 わたしは先の論文で、この歌は水軍を持たない大和朝廷の歌ではなく、大君と共に、海に山に最前線で戦い続けた大伴一族が歴代の倭王に捧げた歌であり、すなわち九州王朝に捧げられた歌であると結論づけました。稚拙な論証を積み重ねた若い頃の論文ですが、その論証自体は成立していると、今でも自信をもっています。
 共著者の内、古田先生を除く灰塚照明さんと藤田友治さんは既に他界されています。ちょっぴり淋しい想い出も持った一冊なのです。


第331話 2011/08/13

防人の詩

 EXILE魂というテレビ番組に、さだまさしさんがゲストで出ていました。同じ九州出身ということもあって、私はさださんの歌を学生時代から よく聞いたり歌ったりしていました。番組ではさださんの名曲「防人の詩」をエグザイルのメンバーが歌っていましたが、久しぶりに聞いて、いい曲だなあと改めて感動しました。
 この曲の詩は『万葉集』の歌に触発されて作られたと聞いていますが、恐らくそれは『万葉集』巻一六の3852番歌「鯨魚(いさな)とり 海や死にする山や 死にする死ぬれこそ 海は潮干(しほひ)で山は枯れすれ」の歌だったと思います。岩波古典文学大系『万葉集』の頭注には次のように大意が記されています。

「(問)海は死ぬだろうか。山は死ぬだろうか。
(答)死ぬからこそ、海は潮が干るし、山は草木が枯れるのに。」

 古代日本列島の人々の死生観の一つが歌いこまれたものと思いますが、さださんの「防人の詩」の最後のフレーズを今聴くと、震災と津波、そして原発事故で苦しんでいる東北の大地や海の姿とオーバーラップして、涙が出てきます。それは、次のフレーズです。

「海は死にますか 山は死にますか 
春は死にますか 秋は死にますか 
愛は死にますか 心は死にますか 
私の大切な故郷もみんな逝ってしまいますか」

 一日も早く東北の大地が徐染されることを願わずにはいられません。
 一日も早く東北の大地が徐染されることを願わずにはいられません。


第330話 2011/08/07

「ウィキペディア」の史料批判(3)

 第328話で、ウィキペディアの「九州王朝説」の解説に見える「いかがわしい表現」として「九州王朝の歴史を記した一次史料が存在しない。」を指摘しましたが、もう少し具体的に批判したいと思います。
 ここでいわれている「一次史料」の定義が問題なのですが、その後の文章に「記紀や支那や韓国の歴史書等に散見される間接的な記事」などに九州王朝説の論拠が止まっているとしたり、「この直接的記録が無いことが、九州王朝否定論の論拠の一つ」という記述が見られることから、彼らのいう「一次史料」とは九州王朝自身による自らの歴史書の類であるようです。
 この主張は一見もっともらしく見えますが、学問的にはまったくダメです。およそ理系や世界の歴史学の分野では通用しない主張で、いわば「死人に口無し」 論法ともいうべき詭弁なのです。たとえば世界の古代史では自らが編纂した歴史書や文字史料がない文明や王朝の遺跡や痕跡はいくらでもあり、それらは学問的にきちんと「文明」「王朝」の実在を認められています。世界の歴史学はそのレベルに達しているのです。
 大和朝廷に滅ぼされた九州王朝の歴史書が残っていないから九州王朝は存在しなかったというのは、まさに「死人に口無し」を利用した非学問的な暴論に過ぎません。しかし、こうした彼ら(大和朝廷一元史観に立つ「日本古代史」村)の主張も実は虚偽情報(ウソ)なのです。というのも、九州王朝の歴史や実在を記録した一次史料として、隣国の中国正史に「倭人伝」「倭国伝」として九州王朝のことを延々と記録してくれているからです。その中には大和朝廷の記紀よりも成立が古く、同時代史書もあるのです。
 例えば『後漢書』倭伝には倭奴国に金印を授与したと記していますが、その金印は大和ではなく北部九州の志賀島から出土しています。『宋書』倭国伝には宋と交流した歴代倭王の名前を記しており、いずれも大和朝廷には存在しない名称です。『隋書』イ妥国伝には同国が『後漢書』にある倭国から連綿と続いた王朝であり、その王の名前はタリシホコであり、その地には阿蘇山があると記しています。これらは全て記紀よりも成立が古く、こと日本列島に関する記録としては 客観的で、信頼性が高いのです。
 更に『旧唐書』では倭国伝と日本国伝を併記しており、倭国は古の倭奴国であり、他方、日本国は倭国の別種でもと小国だったが倭国の地を併せたと、日本列島内での王朝の交代までも記録しているのです。これらの記録こそ九州王朝の歴史を記した一次史料なのです。これらを「間接的な記事」と称して無視したり、「この直接的記録が無いことが、九州王朝否定論の論拠の一つ」と言うに及んでは、開いた口が塞がりません。
 これらを犯罪捜査の例でいうならば、殺された九州さん自身の直接証拠はないから、容疑者の大和さんの証言(『古事記』『日本書紀』)のみを採用し、事件はなかったことにするというものです。しかも隣人の目撃証言(歴代中国史書)や隣家の防犯カメラの画像記録(同時代一次史料)をすべて無視ないし軽視するという、とんでもない捜査方法なのです。
 福島原発事故以来、わが国では「原子力村」による「安全神話」がウソであったことが白日の下にさらけ出され批判されていますが、「日本古代史」村の「大和朝廷一元神話」も、いつの日かその虚構が国民周知のものとなり、批判を浴びる日が来ることでしょう。


第329話 2011/07/31

小松左京さんと古田先生

SF文学の巨匠、小松左京さんが亡くなられました。『日本沈没』を初め数々の名作を遺されま したが、オールド古田ファンなら、小松さんが古田先生の支持者であったことをご存じのことと思います。文学界にも古田ファンは少なくありませんが、司馬遼 太郎さんのエッセイにも古田先生は登場しますし、特に小松さんは古生と懇意にしておられたようです。
天才的な作家と歴史家とは相通ずるものをお互いに感じておられたのでしょう。その小松左京さんと古田先生との対談が『邪馬一国への道標』(講談社、 1978年刊)に収録されています。同書は今では古書店でも入手困難ですから、新しい古田ファンはご存じの方が少ないかもしれません。
1977年10月6日に行われたこの対談は、予定されていた2時間の倍近くの時間が過ぎたとのことで、「夢は地球をかけめぐる−小松左京さんと語る−」 というテーマで収録されています。内容は、古代における地球規模の人類の移動と交流についてで、次のような内容で対談が始まります。

小松「今度の本は、ほんとに東アジア古代史の謎の一番チャーミングなところを全部、古田さんにさらわれちゃった、という感じですね」
古田「いや、いや。わたしこそ、小松さんの小説『東海の島』(『最後の隠密』立風書房所収)というのを見せていただいて、びっくりしました。殷末の中国 人が山東半島から倭人たちの島に向う、という発想で、あんなに早く書いておられたとは、全く知りませんでした。」

同書にはお二人の若い頃の写真も掲載されており、感慨深いものがあります。心より、小松左京さんのご冥福をお祈り申し上げます。