第295話 2010/12/04

平城宮大極殿に立つ

 先日、奈良の平城宮址に行ってきました。遷都1300年祭のイベントが終了した後だったので見物客もまばらで、復原された大極殿をゆっくりと見学することができました。
 平城宮址に行った目的の一つは大極殿の見学ですが、もう一つは先行して造られていた朱雀門を久しぶりに訪れることでした。というのも、この朱雀門建設の現場責任者で2009年1月に物故された飯田満麿さん(当時本会副代表・大林組OB)を偲ぶためでした。この大極殿完成を飯田さんも天国から喜んで見守って おられることでしょう。
 それではなぜわたしが大極殿を見たかったかというと、8世紀初頭における日本列島の代表者が君臨した宮殿と、中央集権的律令体制の官僚群が執務する朝堂の規模を体感したかったからなのです。
 710年に平城遷都した近畿天皇家は、その直前の列島の代表者たる九州王朝の権威と支配領域を「禅譲」であれ「放伐」であれ引き継いだのですから、九州王朝とほぼ同規模の宮殿と官僚組織、そして官僚達が執務する役所・官衙を有したはずです。それが平城宮の規模なのですから、逆説的に考えれば九州王朝も平城宮と同程度の官僚組織と役所・官衙が持っていたことになります。
 このような視点から7世紀後半の宮殿址・官衙址として九州王朝の都としてその条件を満たしている遺構は、まだ全貌が未調査の近江京を除けば、前期難波宮とその官衙群しかないのです。あるいは近畿天皇家の都とされる藤原宮だけなのです。
 このような論理性と考古学的事実に導かれて、わたしは見事に復原された平城宮大極殿に立った瞬間、前期難波宮九州王朝副都説の新たな論理的確信を深めたのでした。もしかすると亡くなられた飯田さんが、わたしを平城宮址に呼んでくれたのかもしれません。


第294話 2010/11/30

九州国立博物館の「大宰府政庁」

 7世紀後半創建説

 11月27日、母校の久米高専で開催されたバリアフリー研究会で、「北部九州にあった大和朝廷以前の王朝と年号」というテーマで講演しました。古田史学の真髄ともいえる邪馬壹国説や九州王朝説について解説したもので、参加者からは驚きをもって賞讃の意見や熱心な質問が寄せられました。
 参加者の多くは久留米高専の教官やOBなど理系の人々でしたが、久留米市役所・大野城市役所からの参加者や佐賀大学・熊本学園大学の先生も見えておら れ、 業種を超えた同研究会の多彩な顔ぶれを前にしての講演は、わたしにも刺激的な経験となりました。招いて頂いた恩師の鳥井先生を初め関係者の皆さまに感謝申 し上げます。
 翌日、久留米市を後にしたのですが、来春に迫った九州新幹線全面開通に備えてリニューアルされたJR久留米駅の観光案内のフロアで、「九州国立博物館& 太 宰府天満宮」(監修・協力 太宰府天満宮・九州国立博物館・太宰府市・太宰府観光協会)というパンフレット(無料)を手に取ったのですが、そこに興味深い 紹介記事がありました。
 それには写真入りで「大宰府政庁」が紹介されており、その解説として、「7世紀後半、九州の政治の中心地、防衛と外交の拠点としての役割を担って創建された大宰府政庁。」とあったのです。恐らくはパンフレット監修に関わった九州国立博物館の見解に基づいた解説と思われるのですが、一元史観による従来説では、大宰府政庁は8世紀初頭に大宝律令下の役所として創建されたとするものでしたから、明らかに従来説とは異なった解説となっているのです。
 しかも7世紀後半の創建とするのであれば、大和朝廷初の条坊都市藤原京と同時期かそれよりも早い創建となります。さらに、井上信正氏の研究によれば、大宰府政庁よりも太宰府条坊の方が早いことが明らかになっていますから、日本最初の条坊都市は藤原京ではなく太宰府であることを認めたことになるのです。こ のことを意識した上での解説なのかどうかはわかりませんが、太宰府条坊編年の最新研究を地元の九州国立博物館が知らないはずがありませんので、観光案内用と はいえ、このパンフレットは通説に一撃を加える貴重な「宣言」と言えるのではないでしょうか。思わず、「頑張れ、九州国立博物館。九州王朝説まであと一歩 だ」とエールを送りたくなるパンフレットでした。


第293話 2010/11/29

例会での新たな取り組み

 11月20日の関西例会では原さんが初めて発表されました。葛城の古墳や遺跡などについて詳しく説明していただき、その方面に疎いわたしには勉強になりま した。岡下さんからは聖徳太子と善光寺如来のものとされる「消息往来」についての各種史料の紹介がありました。恐らくは九州王朝の利歌弥多弗利と善光寺と の往復書簡と思われる「消息往来」の更なる研究が期待されます。
 関西例会初の取り組みとして、それまで発表された説の当否を徹底的に検証するという質疑応答が西村さんの発案により行われました。その第一回として、提案者の西村さんの仮説「古事記序文に文武が記されている」の再検証が行われました。活発な討議がありましたが、全員一致の「結論」には当然ではありますが至りませんでした。わたしの個人的な感想としては、有力な仮説だが絶対そうだと言い切るには不安、という段階です。次回の再検証の対象となるのは、わたしの 「前期難波宮九州王朝副都説」だそうです。皆さん、お手柔らかに。

11月例会の発表は次の通りでした。

〔古田史学の会・11月度関西例会の内容〕
○研究発表
(1) 「忘れられた真実」を読んで(豊中市・木村賢司)
(2) 「残る、残す」(豊中市・木村賢司)
(3) 「風早歴史文化研究会」の旅(豊中市・木村賢司)

(4) 葛城(奈良市・原幸子)
葛城山麓地域の古墳について/二上山麓の石光寺・当麻寺について

(5) 九州王朝と近畿天皇家の名分(試論)
    −古賀氏の「王朝習合」説を検証する−(川西市・正木裕)
 白村江後、高宗の封禅の儀に列した倭国「酋長」は筑紫君薩夜麻以外に無い。従って九州王朝は高宗により承認された政権であり、近畿天皇家が七〇三年則天武后に「日本国」として承認されるまで、唐との「名分上」の正当性は九州王朝にあった。
『旧唐書』の「倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為す」とは、武后に承認を求めるに際し、「近畿天皇家(日本国)は既に承認済みの九州王 朝(倭国)と同じ」と装う為の主張ではないか。これは古賀氏のいう、「大和朝廷と邪馬壹国を同じものとする『習合』思想」の現れと言える。
 七〇四年近畿天皇家が九州王朝の一部を吸収した形で正当王朝となり「慶雲」と改元。「大長」を建てた九州王朝の抵抗勢力を武力討伐。『書紀』編纂時、多利思北孤や利を聖徳太子に見立てるなど「王朝習合」思想により、九州王朝の歴史を近畿天皇家の歴史に染め直したと考える。
(古賀氏とは、用語として教理的概念の「習合」より、政治的概念の「混斉(こんせい=まろかしひとしめる)」が相応しいのではないかと協議した)

(6) 「消息往来」の伝承(京都市・岡下英男)
2.いろいろの史料における消息往来/3.聖徳太子の伝記にはどのように書かれているか/4.誰が何のために、いつ頃作ったか/5.『法隆寺の謎と秘話』について

(7) 白鳳南海地震と聖武の彷徨(木津川市・竹村順弘)
(8) 新羅の地震と神功皇后(木津川市・竹村順弘)
(9) 中国正史の地震記事(木津川市・竹村順弘)
(10)古事記序文−西村説の再検証−質疑応答(向日市・西村秀己)
○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・藤原不比等碑・奈良市鴻ノ池は八代海の模型・他(奈良市・水野孝夫)


第292話 2010/11/14

前期難波宮大規模官衙の論理

 前期難波宮九州王朝副都説について、この数年間わたしは繰り返しその論証や傍証について述べてきました。そしてこの説の当否が、九州王朝から大和朝廷へ の権力交代の研究にとって非常に重要な論点とならざるを得ないことも明白になってきたように思われます。7世紀後半の九州王朝の宮殿や王都を北部九州内に留まるものとするのか、あるいはわたしのように難波副都を含めたスケールで考えるのかで、その様相が大きく変わってくるからです。
 そこで、2011年は前期難波宮九州王朝副都説を考古学の面から検証すべく、『古田史学会報』に「ここに九州王朝ありき ー前期難波宮の考古学ー」という論文を連載しようと計画しています。
 その一論点は、九州王朝が全国に施行した評制による中央集権体制を支えた官僚組織とその役所である大規模官衙を有した宮殿は、7世紀中頃においては前期難波宮しかなく、その宮殿は「大宰府政庁」をはるかに凌駕し、更にその宮殿の西と東には大規模官衙群が出土しているという考古学事実こそ、ここが九州王朝副都であったと解する他無い論理性を有しているというものです。 評制を九州王朝の制度とする九州王朝説に立つ限り、その全国支配の為の行政施設遺構を提示できなければなりませんが、そのような大規模遺構は7世紀中頃の日本列島に於いて前期難波宮しかないのです。評制を施行し全国を統治した官僚群とその官衙が筑前や豊前にあったとしたい論者は、わたしが指摘するこの論理性をクリアできる考古学的事実を提示する学問的義務がありますが、それができた論者をわたしは知りません。


第291話 2010/11/13

母校、久留米高専で講演

来る11月27日(土)、わたしの母校である国立久留米工業高等専門学校(福岡県久留米市)で古代史の講演をすることになりました。学生時代に有 機合成化学を教えていただいた恩師、鳥井昭美先生の要請によるものです。ちなみに、わたしの卒業研究は鳥井研での「アクリジン関連化合物の合成と反応性の 研究」でした。
鳥井先生は同校を退官された後も、「高専シンポジウム」などの教育活動に長く関わられており、日本化学会教育賞も受賞されています。その恩師の要請と あっては断れないどころか、専攻した化学ではありませんが、母校で日本古代史の講演ができるのですから、大変名誉なことと感謝しています。
主催は鳥井先生が立ち上げられた「バリアフリー研究会」で、異業種交流などを目的とした卒業生や在校生による研究会です。もちろん講演内容は古田史学・ 九州王朝説の紹介です。理系の人々への講演なので、初歩的な説明から行いますが、理系の論理的な頭脳は古田史学を理解し支持されるであろうことを確信して います。およそ三十年ぶりに訪れる母校に、今からドキドキしています。


第290話 2010/11/02

神籠石山城の固有名称

古代の山城や軍事施設には当たり前ではありますが固有の名称があったはずです。例えば大野城や水城は『日本書紀』(天智紀)に記されていますので、一応 は九州王朝内でもそのように呼ばれていたものと思われます。しかし、北部九州に点在する神籠石山城それぞれの固有名称は残念ながら文献には残っていませ ん。 失われた神籠石山城それぞれの名前を復原できないかと考えているのですが、久留米出身のわたしの土地鑑の範囲内で試案を考えてみました。まず杷木神籠石で すが、これはそのものズバリの「はき」あるいは「はぎ」ではないでしょうか。「き」は「城」ですから、語幹は「は」です。「は城」が後に杷木の字が当てら れたと考えています。「は」の意味はまだわかりませんが。
次に高良山神籠石ですが、高良山の旧名が高牟礼山(たかむれ)であること、古くからの地主神が高木神とされ、麓には高樹神社があります。ですから、高良山神籠石山城の固有名称は「高城」(たかき・たかぎ)ではなかったでしょうか。
今のところこの二つしか試案は出せませんが、他の神籠石山城も地元の地名や神社名から固有名称を類推できるのではないかと期待しています。どなたか調査研究されませんか。


第289話 2010/11/01

「河野氏まつり」

永納山山城を見学した翌日の10月24日には、合田さんと一緒に松山市北条ふるさと館で行われた「河野氏まつり」(第20回河野氏関係交流会)に 行ってきました。河野水軍で有名な河野氏は、古代氏族越智氏の子孫とされ、風早国(旧北条市)を発祥の地としています。その北条地区で毎年行われている 「河野氏まつり」は様々なイベントがあり、是非参加されることをお奨めします。 古田史学の会・四国の会長でもある竹田覚さん(風早歴史文化研究会々長)が主催者として歓迎の挨拶をされて始まった「河野氏まつり」は、講演会や北条高校 の女子生徒による薙刀演舞や水軍太鼓演奏などがあり、若い人たちもまつりに花を添えました。町おこしとしても郷土愛を育む取り組みとしても、とても素晴ら しい内容でした。
中でも、北条地区を取り囲む四つの山(鹿島・恵良山・雌甲山・宅並山)からの狼煙の実演は、古代史研究の視点からも大変有り難いものでした。あいにくの 雨空で曇っていたのですが、山頂からの狼煙がふるさと館最上階にある展望台からはっきりと見えました。古代に於いて、狼煙が効果的な連絡手段であったこと を自分の目で確かめられたのですから、感動しました。
講演会場では来賓紹介の後、他府県からの参加者としてわたしもご紹介いただき、いささか照れました。できればまた行きたいと思いました。


第288話 2010/10/29

永納山山城を見る

10月23〜24日に四国へ行って来ました。23日は、合田さん(古田史学の会全国世話人)や今井久さん(古田史学の会・四国)のご案内で、永納 山山城を見学しました。四国で発見されたただ一つの神籠石山城とされていますが、今回実見した結果、いわゆる北部九州の神籠石山城との共通点や違いを確認 できました。
考古学界や古代史学界で、神籠石山城の定義が合意形成されているようには思えませんが、おおよそ次のような特徴が指摘できます。
(1)直方体状に加工された列石に囲まれており、その列石上に土塁がある。あるいは、柵なども設置されている。
(2)その列石と土塁の内部に水源があり、列石と水路の交点には石積みの水門がある。
(3)同じく内部に倉庫跡などがあり、「逃げ城」的性格が見て取れる。

永納山山城は列石が切石ではなく自然石であることが、この定義からは外れますが、その他は共通しているようです。従って、あえて定義命名するならば、「自然石利用型」神籠石山城と呼べるかもしれません。しかし、よく考えると「神籠石山城」という名称もあまり学問的論理的名称とは言えないのではないでしょうか。もともと、学界で長く続いた「神域説」と 「山城説」の論争があり、その神域説に基づいた名称が「神籠石」と呼ばれた歴史的背景だったからです(福岡県久留米市の高良山では学界論争以前から「神籠 石」という名称がありました。戦国末期の成立とされる『高良記』に「神籠石」と記されています)。その論争も発掘調査の結果、「山城説」で決着しているの ですから、神籠石山城という名称は論理的に矛盾しているのです。
そこで、より学問的な名称は無いものかと、永納山山城を見ながら考えたのですが、たとえば大野城などのような積石式山城が、「朝鮮式山城」と朝鮮半島の 古代山城との類似から呼ばれていることに倣えば、北部九州式山城と呼ぶのも一案ではないでしょうか。あるいは、九州王朝説の立場を明確にするのであれば、 ズバリ「九州王朝式山城」も良いかも知れません。その形状に着目するのであれば「列石・土塁式山城」というのもイメージしやすくて、考古学的な名称とは言 えないでしょうか。
これらを叩き台にして、まずは古田学派内での合意形成が図れればいいですね。なお、古田先生におたずねしたところ、「神籠石」というのは当て字であり、本来「コウゴイシ」には別の意味があったとされています。いずれ先生から詳しく発表されると思います。


第287話 2010/10/19

『古田史学会報』100号の紹介

記念すべき『古田史学会報』100号が発行されました。古田先生からの記念のご寄稿もいただきました。ページ数も通常の16頁から24頁となり、編集担当の西村さんのご苦労が偲ばれました。
もちろん、内容も充実しています。中でも6月に開催した「禅譲・放伐」シンポジウムの内容を大変要領よくまとめられた大下さんの報告は見事な内容です。 同じく発表の要旨を寄稿された正木稿も好論文です。なお、同シンポジウムのテープ起こしを『古代に真実を求めて』14集に掲載予定です。来春発行されます のでご期待下さい。
『古田史学会報』100号の内容
○忘れ去られた真実ーー100号記念に寄せて  古田武彦
○禅譲・放伐論争シンポジウム・要旨  豊中市 大下隆司
○地名研究と古田史学  京都市 古賀達也
○古代の大動脈・太宰府道を歩く  神戸市 岩永芳明
○「禅譲・放伐」論稿  川西市 正木 裕
○長屋王のタタリ  奈良市 水野孝夫
○越智国に在った「紫宸殿」地名の考察  松山市 合田洋一
○漢音と呉音  富田林市 内倉武久
○新羅本紀「阿麻来服」と倭皇天智帝  大阪市 西井健一郎
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会  関西例会のご案内


第286話 2010/10/17

卑弥呼は桜井にいたか?

  昨日の関西例会では久しぶりにビデオ鑑賞を行いました。弥生時代の宮殿跡が出土した纏向遺跡の発掘調査担当者である橋本輝彦氏の講演ビデオで、演題は「卑弥呼は桜井にいたか?」(本年9月25日「先人に学ぶ人間学塾」主催)。木村賢司さんが撮影されたものです。
 纏向遺跡が「邪馬台国」ではないことは、第237、238,239話などで指摘しましたし、古田学派内では「邪馬台国」論争はとっくに終わっています。しかし、畿内説論者の言い分も知っておいたほうが良いという木村さんの配慮により、ビデオ鑑賞することになったものです。
 そして、木村さんの意見は正解でした。邪馬台国畿内説の非論理性というものが良く理解できたからです。中でも、纏向遺跡から出土した小規模鍛冶遺構の痕跡とされる鉄くず(カナクソ)の説明には驚きました。橋本氏は畿内と北部九州の勢力は当時友好的であった証拠として説明されたのです。すなわち、武器や農具の材料となる製鉄技術が先進地である北部九州から纏向にもたらされたのは、両者が友好的であった証拠とされたのです。
 北部九州の勢力と纏向遺跡にいた勢力が友好的だったとするのは大賛成ですが、それならば当時の倭国の代表者であった「邪馬台国」(正しくは邪馬壹国)は 製鉄の先進地である北部九州にあったとするのが、学問的論理性というものではないでしょうか。同講演会では最後に参加者からの質問がありました。もしわたしが参加していたら、必ずこの質問をしたと思いますが、「邪馬台国」畿内説の橋本輝彦氏がどう返答されるのか、興味津々です。なお、ビデオで見た橋本氏のお人柄は誠実そうな方でした。だからこそ、正直に製鉄の先進地は北部九州と言われたのでしょう。   
 10月度関西例会の発表テーマは次の通りでした。

〔古田史学の会・10月度関西例会の内容〕
○研究発表
(1) 「尊卑・長幼」「近時中国寸評」(豊中市・木村賢司)

(2) ビデオ鑑賞「卑弥呼は桜井にいたか?」橋本輝彦氏講演(撮影・木村賢司)

(3) 磐井の乱の再検討(川西市・正木裕)
 『書紀』継体紀で、古田氏が九州王朝の天子「磐井」だとされる「委意斯移麻岐弥」(『書紀』では「穂積臣押山」)は、任那の四国や伴跛の己文*、加羅の多沙津を百済に割譲する等「親百済」で、これは当時の倭国の立場と一致する。逆に「近江毛臣」は南加羅等の新羅への割譲始め一貫して「親新羅」だ。
 従って毛臣が新羅討伐軍の大将とあるのは不自然だし、新羅から「磐井に」倭国への謀反要請があったとするのも、「磐井に」ではなく「毛臣に」であり、毛臣は新羅を討伐する側ではなく、新羅の要請で謀反を起し討伐される側と考えるのが自然だ。
 また毛臣が帰還の勅命に叛いたため、阿利斯等が謀反を企図し戦となった記事も、本来は毛臣の謀反・叛乱であり、これが「遂に戦ひて受けず」という磐井の叛乱記事として『書紀』に盗用されたと見るべき事を指摘した。
文* は、三水偏に文。JIS第3水準ユニコード6C76

(4) 大和川の水利(木津川市・竹村順弘)
(5) 後漢書・三国志の日付干支(木津川市・竹村順弘)

(6) 『日本書紀』と《『須田鏡』における男弟王の年紀》から割り出される真実(たつの市・永井正範)

○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・藤原不比等(顕彰)碑・神武東征とは南九州の話・他(奈良市・水野孝夫)


第285話 2010/10/12

「日の丸」の起源

10月9日の久留米地名研究会での講演会は御陰様で盛況でした。するどい質問もいただき、参加者の熱心さが伝わってきました。主催者の皆さまや参加していただいた皆さまにお礼申し上げます。
今回の京都からの往復の新幹線内では、『知っておきたい「日の丸」の話し』吹浦忠正著(学研新書)を読みました。著者はわが国における「国旗」研究の第一人者で、その博識ぶりが随所に記された好著でした。
中でも「日の丸」の起源について触れられた部分は参考になりました。氏の見解は「日の丸」は古代日本における太陽信仰に淵源するものとされていますが、 この点、古田先生と同見解です。更に、通例では「日の丸」の起源を『続日本紀』の文武天皇大宝元年正月朝賀の儀に飾られた日像が初見史料とされているよう ですが、著者はそれよりも早い時期に成立している法隆寺蔵「玉虫厨子」に描かれた日像、あるいは7世紀前半の珍敷塚古墳(福岡県)の壁画に描かれた太陽な どを起源として考えるべきではないかとされています。
いずれも九州王朝に関係しそうな史料・遺跡であることに興味を覚えました。もちろん、日本列島における太陽信仰は九州王朝以前から、恐らくは旧石器縄文 時代にまでさかのぼるものと推測されますが、「日の丸」に対して様々な視点から解説されている同書の読後感はとてもさわやかなものでした。


第284話 2010/10/02

久留米地名研究会 済み

 来る10月9日(土)に久留米地名研究会で講演をします。会場は「えーるピア久留米(久留米生涯学習センター)」(西鉄久留米駅から南徒歩10分)で午後1時半からです。演題は「筑後 地方の九州年号−九州王朝の地名研究とその方法−」で、九州年号を切り口にして九州王朝の実在を論じ、「九州」という地名が持つ論理性について触れます。 後半は具体的な地名研究の歴史学への応用として、『古事記』神武記の史料批判と北部九州の地名との関連を紹介する予定です。
 他方、筑後地方の九州年号や地名・神名調査の協力についてもお願いしたいと考えています。地名研究が歴史研究にどのように貢献できるかを参加者の皆さんと一緒に考える機会になればと楽しみにしています。
 下記に講演レジュメの一部を紹介します。ふるってご参加下さい。

1.九州年号の論理
1) 鶴峯戊申『襲国偽潜考』で古写本「九州年号」より九州年号を紹介。
2) 明治25年『日本史学新説』広池千九郎著 で古写本「九州年号」より九州年号を紹介。
3) 宇佐八幡宮文書『八幡宇佐宮繋三』元和三年(1617)五月、神祇卜部兼従編纂  「文武天皇元年壬辰大菩薩震旦より帰り、宇佐の地主北辰と彦山権現、當時〔筑紫の教到四年にして第廿八代安閑天皇元年なり、〕天竺摩訶陀國より、持来り 給ふ如意珠を乞ひ、衆生を済度せんと計り給ふ、」 ※〔 〕内は細注。
参考
九州年号・九州王朝説 ーー明治二五年 冨川ケイ子(会報68号)
「宇佐八幡宮文書」の九州年号古賀達也(会報五九号)

2.「九州」の論理
古田武彦氏との共著『九州王朝の論理』所収「九州」史料一覧参照

3.筑後地方の九州年号
『耳納』掲載「筑後地方の九州年号」参照

4.『古事記』神武記の地名と神名
○『古事記』「熊野村」「吉野河の河尻」「宇陀」「訶夫羅前」「井氷鹿(井光)」
○『筑後志』三瀦郡  「威光理明神社 同郡六丁原村にあり。」 「威光理明神社 同郡高津村にあり。」
参考
盗まれた降臨神話 『古事記』神武東征説話の新史料批判 古賀達也(会報48号)

5.「元壬子年」木簡の論理と衝撃
芦屋市三条九ノ坪遺跡出土(1996年)『市民タイムズ』(長野県松本市)2006/08/20 参照