現代一覧

第1009話 2015/07/28

九州王朝の聖地「沖ノ島」が世界遺産候補に

 今日は出張で高松市に来ています。三年越しのビジネスが成立したこともあり、高松市にお住まいの西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)と夕食をご一緒し、祝杯につきあっていただきました。もちろん話題は最近の古代史研究についてと「古田史学の会」のこれからの展開についてでした。
 夜遅くホテルに戻りますと、テレビニュースで玄界灘の孤島「沖ノ島」が世界遺産候補になったと報道されていました。「海の正倉院」とも呼ばれている「沖ノ島」は島全体が古代祭祀遺跡ともいうべきもので、出土した遺物数万点は国宝に指定されています。
 女人禁制の島としても有名ですが、九州王朝の聖地でもあります。古田先生の『盗まれた神話』(ミネルヴァ書房より復刊)で詳しく論証されていますが、記紀の建国神話(国生み神話)に登場する「天両屋(あまのふたや)」は「沖ノ島」であると指摘されています。その決め手となった根拠は「沖ノ島」の傍らにある小さな島の名前が「小屋島」ですから、「沖ノ島」の本来の名前は「大屋島」となり、この大小二つの「屋島」が「天両屋」と呼ばれていたと考えられることです。「沖ノ島」という名前は宗像から見て沖にある島だからそう呼ばれたと思われます。
 九州王朝の聖地「沖ノ島」が世界遺産候補になったことは九州王朝説論者としては喜ばしいことであり、これを機会に更に「沖ノ島」の多元史観による研究の深化が期待されます。

『ここに古代王朝ありき』第四部 失われた考古学 第二章 隠された島 古田武彦 沖の島の探究


第1008話 2015/07/27

米團治さんとの京の一夕

 昨日、落語家の桂米團治さんと夕食をご一緒しました。とても上品で誠実な方でした。加えて、関西落語界のホープと目されるだけあって、「花」がある方でした。
 米團治さんと知り合うきっかけは、米團治さんのブログで四天王寺に関するわたしの説を紹介されたことでした。地名は「天王寺」なのに何故そこにあるお寺は「四天王寺」なのかということを「洛中洛外日記」で論じたことがあるのですが、そのことを知った米團治さんがご自身のブログで触れられたのです。今年になって、そのお礼として『盗まれた「聖徳太子」伝承』をお贈りし、昨日の食事会となったわけです。
 たまたまご近所に米團治さんのお父様の米朝師匠と親しかったご婦人がおられ、家族でおつき合いをしていたこともあって、米團治さんの連絡先を教えてもらえたことも幸いでした。
 米團治さんとはもちろん古代史の話で盛り上がったのですが、古代史関係の本を実にたくさん読んでおられたのには驚きました。わたしが知らない著者の本もお持ちでした。また、共通の知人に上岡龍太郎さんがおられることもわかり、上岡さんが古田ファンであることもご存じでした。わたしからは、古田学派による最先端研究の状況を説明させていただきました。
 前日に古田先生から『古代に真実を求めて』17集に米團治さん宛のサインを書いていただいていましたので、その本も進呈させていただきました。ちなみに、古田先生の奥様は米朝師匠のファンだったそうです。
 これをご縁に、これからも古代史談義の場を持てることとなりそうです。とても素敵な京の一夕でした。


第1006話 2015/07/22

「愛知サマーセミナー」の反省点

 7月19日に開催された「愛知サマーセミナー」の私自身の反省点についても考えてみたいと思います。思いつくだけでも次の技術上の反省点があります。

1.どのような参加者層なのかの事前調査が不十分だった。そのため、中学生の参加という想定外の事態が発生し、講義途中に反応を見ながら、説明の内容やレベルを修正する事態となった。マーケットリサーチの欠如との批判を免れません。企業活動では絶対に許されないミスでした。

2.高校生を対象としてパワーポイントの映像を作成したつもりだったのですが、ビジュアル化が不十分であり、印象に残るような画像演出ができていなかった。ただし、これは改善が容易です。既に技術的には解決策が確立されていますので、事前の準備時間をどれだけ確保できるかという問題です。

3.講演者間の事前打ち合わせがなされていなかった。そのため、当日になって他者のレジュメを見て、内容の重複を知り、これも講義内容を変更して対応するという事態が発生しました。事前打ち合わせを今後は徹底的に行う必要があります。あるいは講演者を一人とするという解決方法もあります。

4.レジュメも中高生向けのテキストとしてパンフレット様式で作成したほうが効果的でした。パンフレットの方が、その後の保管や利用にあたり便利だからです。これは講演者個人の課題ではなく、「古田史学の会」の事業として作成すべきと思われました。

 他にも演出上の工夫、テーマの選定など、様々な克服すべき課題がありましたが、逆にこれらの対策を確立できれば、来年以降はもっと素晴らしいセミナーとすることが可能ですし、未来の古田学派研究者の輩出も期待できます。「古田史学の会・東海」のみなさんとも相談して、ぜひ、戦略的に取り組んでみたいと思います。


第1002話 2015/07/19

愛知サマーセミナーで講義

 「古田史学の会」ではフェースブックを立ち上げることになりました。竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)の提案で、ホームーページだけではなく写真を中心にしたフェースブックで「古田史学の会」を発信することにしたのですが、ITやデジタル化時代ですから様々な成果や効果が期待されます。
 わたしは新しいものも好きで、このところPerfumeのライブビデオにはまっています。    Perfumeは広島県出身の女性三人組テクノポップユニットで、2006年に「ポリリズム」の大ヒットでブレークし、今では世界的な人気グループとなりました。メンバーがわたしの娘と同じくらいの年齢ということもあって、ファンの一人として注目しています。3Dやプロジェクションマッピングなどの最先端技術を駆使したライブパフォーマンスはそのダンスとともに高く評価されています。
 そんなこともあって、わたしも古代史の講演にプロジェクターを使用するようになりました。仕事のプレゼンや学会発表では早くから使用していましたが、遅ればせながら古代史講演でも使い始めました。ちなみに、「古田史学の会」では正木裕さんは一足早く使用されています。
 本日、愛知淑徳中学で開催された「愛知サマーセミナー2015」でもプロジェクターを使用しました。高校生をターゲットとした内容を話しましたが、思っていたよりも高校生は熱心に聴講されていました。質問も「卑弥呼と多利思北孤は同じ王朝ですか」という本質的なものもあり、とても感心しました。受講アンケートもまじめなもので、こうした高校生がこれからの日本を支えていくのではないでしょうか。
 講義の締めくくりとして、次の文を映し、わたしたちの志を高校生に訴えましたので、ご紹介します。

【最後のメッセージ】
わたしたちの考えと志(こころざし)

 歴史学は未来のための学問です。
 子供たちや子孫にどのような日本を残すのかを正しく考えるための学問です。
 その考える力と知識を歴史から学ぶための学問です。
 子供たちの未来よりも、子孫の幸福よりも、「お金」や「利権」の方が大切な「大人」と戦うために、真実を隠し、ウソをつく「大人」と戦うために、わたしたちは20年前に「古田史学の会」を創立しました。
 今日の「講義」もそのためのものです。


第999話 2015/07/16

JTCC近畿「フェスタ’15」で講演

 染料合成化学の大先輩である今田邦彦先生(元住友化学)からのご依頼により、JTCC(日本繊維技術士センター)近畿主催の「フェスタ’15」(2015/10/31、大阪市)で古代史の講演をさせていただくことになりました。わたしの他に東洋紡会長の坂元龍三さんも講演されるとのことです。
 今田先生とは学会の理事会などで懇意にさせていただいており、わたしが古代史研究をしていることもよく御存じて、今回の講演依頼になりました。
 わたしが研究開発にいたころ、近赤外線吸収色素開発で壁にぶつかり悩んでいたとき、今田先生のご自宅までうかがいアドバイスをいただいたこともありました。若い頃は今田先生が執筆された本や論文で染料合成化学を勉強しましたので、その大先輩から講演依頼をいただき光栄ですし、不思議なご縁を感じます。
 先日、講演の演題と概要が決まりましたので、ご紹介します。なお、一般参加が可能なようであれば、「洛中洛外日記」で改めて詳細をお知らせします。

講師:古賀達也(古田史学の会・代表)
演題:理系が読む「倭人伝」-女王卑弥呼の末裔-
概要:『三国志』倭人伝に記録された「邪馬台国」の位置について、畿内説と九州説があり、今も論争が続いているが、理系の視点で倭人伝を読んだとき、その結論は既についている。最先端研究は「邪馬台国」の後継王朝や女王卑弥呼の御子孫の発見にまで進んでいるが、マスコミは報じない。


第998話 2015/07/10

祇園山鉾、昔は66基

 京都の町も祇園祭の準備が本格的に始まり、鉾町では鉾の組立が進められています。今日乗ったMKタクシーのドライバーの方は観光課所属とのことで、祇園祭についてかなり詳しく解説していただきました。さすがは京都を代表するタクシー会社らしく、博学な方でした。
 そのお話しによれば、現在の山鉾は33基ですが、本来は66基とのこと。そこで、わたしは「66基とは日本国内の国の数ですか」とたずねると、「その通りです」とのご返事。「聖徳太子」が分国して66国になったとする論文「『聖徳太子』による九州の分国」(『盗まれた「聖徳太子」伝承』収録)で、九州王朝の天子、多利思北孤が66国に分国したと書きましたので、それが京都の祇園祭にも影響を及ぼしていたことを知り、感慨深く思いました。
 祇園祭のクライマックス「山鉾巡行」は毎年7月17日に執り行われますが、鉾町に転居した新参者が商売の売り上げが増えるよう、土日に開催してはどうかと意見したところ、「祇園祭の伝統を何と心得る」と厳しい叱責を受けたとのエピソードもあったそうです。伝統文化を護る京都らしい話しです。
 なお、山鉾巡行が最も有名な行事ですが、一番重要な行事は御神体を乗せた3基の御神輿による八坂神社から御旅所への往復です。スサノオの命と奥さんと子供を乗せた3基の御神輿が祇園祭の「主人公」なのです。この御神輿の行列には厳しいしきたりがあり、少なくとも三年は参加しないと、担がせてもらえないと聞いたことがあります。
 祇園祭が終わると京都も梅雨明けします。そして本格的な夏を迎えるのですが、体調管理に気を付けて、今年も乗り切りたいと思います。


第996話 2015/07/08

「洛中洛外日記」【号外】好評配信中

 「洛洛メール便」配信希望者も増え続けており、「洛洛メール便」受信のため新たに入会される方もおられます。また、読者からのご質問や情報提供、誤字誤変換のご指摘までいただいており、感謝しています。
 今回、埼玉県所沢市の会員、肥沼さんから「十二弁の菊」の紋章が古代ユダヤにもあったとの情報が提供されました。このことについては肥沼さんご自身のホームページにも紹介されており、興味のある方は検索してみてください。「肥さん」「中学」「古田史学」などの検索ワードでヒットします。
 なぜ菊の紋章がユダヤで古代から使用されていたのか、とても興味深い情報ですが、わたしの知識や想像が及ぶところではなさそうです。これから少しずつでも勉強していければと思います。
 最近配信した「洛中洛外日記」【号外】のタイトルをご紹介します。【号外】はホームページには掲載しない会員限定情報です。「洛洛メール便」配信を希望される会員は、ぜひこの機会にお申し込みください。

「洛中洛外日記」【号外】(2015/06/12~07/08) タイトル
2015/06/12 『月刊 加工技術』連載コラム「万葉集の中の金属媒染」
2015/06/15 6月21日記念講演会講師、米田敏幸先生のご紹介
2015/06/22 箸墓古墳の絶対編年の謎
2015/06/23 『月刊 加工技術』連載コラム「太平洋を渡った縄文式土器」
2015/06/25 理系の古田ファン
2015/06/26 文系の古田ファン
2015/06/28 愛知サマーセミナーの日程のご連絡
2015/07/02 フェースブック開設を検討
2015/07/06 愛知サマーセミナーでの「高校生へのメッセージ」
2015/07/08 「古田史学の会・東海」役員と懇談


第995話 2015/07/06

愛知サマーセミナーの会場決定済み

 本日、「古田史学の会・東海」の竹内会長と林さんから「愛知サマーセミナー2015」での講義会場決定の連絡が入りました。下記の通りです。
 なお、わたしのテーマは「教科書に書けない本当の古代史! 卑弥呼のご子孫を教えます!」というもので、レジュメの他にパワーポイントによる映写も行い、「九州王朝系図(草壁氏系図)」などをお見せします。東海地方の方はぜひご参加ください。

〔日時〕
7月19日(日)
① 第3限(13:10〜14:30)
講師:古賀達也
② 第4限(14:50〜16:10)
講師:「古田史学の会・東海」会員

〔会場〕
・愛知淑徳中学校・高等学校本館・北棟(※同一棟に中学・高校が同居)4F 中学3年5組教室
(名古屋市千種区桜が丘23)

〔交通アクセス〕
・地下鉄東山線「星ヶ丘」駅、3番出口より徒歩5分
※東山線「名古屋駅」〜「星ヶ丘」駅:約25分


第992話 2015/07/03

九州王朝の家紋「十三弁の菊」説

 現在の皇室の御紋は「菊(十六八重表菊)」とされています。それでは九州王朝の家紋は何だったのかというのが、今日のテーマです。もっとも、九州王朝の時代に「家紋」などというものがあったのかも、はなはだ疑問ではありますが、「十三弁の菊」が九州王朝の「家紋」だという「説」があります。
 九州王朝の子孫で、高良玉垂命の末裔である稲員(いなかず)家では江戸時代に「菊」を家紋としていましたが、「上に差し障りがある」としてやめたと稲員家文書『家訓記得集』に記されています。また、稲員家墓地の墓石の上部の、家紋が彫られていたと思われる箇所が、現在では削られているのを随分昔に見たのですが、おそらくはその部分に「菊の紋」があったのではないでしょうか。
 こうした知見から、九州王朝の末裔は「菊の紋」を家紋としていたことは確かなのですが、それが古代の九州王朝の時代まで遡れるのだろうかと漠然と考えていました。そのようなとき、稲員家の分家筋にあたる松延さん(八女市在住)から次のような話をうかがいました。

「九州王朝の家紋は十三弁の菊で、筑後国府から出土した軒丸瓦に十三弁のものがある。弁の数は少ない方が偉い。」
(わたしはこの瓦は未見です。報告書を調査中)

 というものです。松延さんが何を根拠にそのように話されたのかはわかりませんが、不思議な「伝承」だなあと聞いていました。
 その後、筑後の浮羽郡にある「天の長者」伝承の現地調査を行ったとき、「天の長者」を現在も祀っておられる家(後藤家)が偶然見つかり、その家の近くに祀られていた石祀(「御大師様」と呼ばれていた)に彫られていた紋が「十三弁の菊」でした。しかも、均等に13分割されたものではなく、不均等に強引に13弁にしたものでした。12分割は簡単ですが、13分割は困難なため、無理に十三弁にしたと考えざるを得ない彫り方だったのです。
 この偶然とは思えないような「十三弁」が筑後国府出土軒丸瓦や「天の長者」伝説の地にあったことから、松延さんの「十三弁の菊」九州王朝家紋説もあながち荒唐無稽とは言いにくいと考えるようになりました。(拙稿「天の長者伝説と狂心の渠」を参照下さい)
 まだ学問的仮説と言えるレベルではありませんが、ちょっと気になったまま十数年たっていますので、このまま埋もれさせるにはもったいないと思い、今回、書いておくことにしました。将来の研究の進展や新たな発見を待ちたいと思います。


第989話 2015/06/28

九州王朝の「集団的自衛権」

 連日のように国会やマスコミの集団的自衛権や憲法解釈、安保法制の論議や報道が続いています。この問題は、不幸なことに好戦的な国々に囲まれている日本を今後どのような形にして子供たちや子孫に残してあげるのかという歴史的課題ですから、小さなお子さんをお持ちの若いお父さんやお母さんが国会議員以上に真剣に考えるときではないでしょうか。わたしもそのような問題意識を持ちながら、遠回りではありますが、クラウゼヴィツの『戦争論』を再読しています。
 『戦争論』などでも指摘されているように、「好戦的」というのは国際政治における国家戦略の一つですから、いわゆる「善悪」の問題ではありません。その国が、「好戦的」で「軍事的」「威圧的」であることが自国の国益(自国民の幸福)に適うと考え、あるいは結果として国家間秩序(戦争ではない状態)を維持できると考えているということです。そこにおいては「善悪」の議論は残念ながらほとんど意味がありません。「好戦的」であることが自国にとって「善」と考えている国々なのですから。
 そこで、九州王朝の「集団的自衛権」について考えてみました。「洛中洛外日記」980話で、「九州王朝は本土決戦防御ではなく、百済との同盟関係を重視し、朝鮮半島での地上戦と白村江海戦に突入し、壊滅的打撃を受け、倭王の薩夜麻は捕らえられてしまいます。(中略)九州州王朝は義理堅かったのか、百済が滅亡したら倭国への脅威が増すので、国家の存亡をかけて朝鮮半島で戦うしかないと判断したのかもしれません。」と記しましたが、九州王朝(倭国)が九州本土決戦による防御ではなく、朝鮮半島での地上戦と白村江海戦を選んだ理由を考えてみました。
 一つは唐や新羅との対抗上から百済との同盟(集団的自衛)を自国防衛の基本政策としていたことです。朝鮮半島南部に親倭国政権(百済)の存在が不可欠と判断したのです。これには理由があります。倭国は新羅などからの侵攻をたびたび受けており、朝鮮半島南部たとえば釜山付近に新羅の軍事拠点ができると、倭国(特に都がある博多湾岸や太宰府)は軍事的脅威にさらされるからです。
 たとえば『二中歴』年代歴の九州年号「鏡當」(581〜584年)の細注に「新羅人来りて、筑紫より播磨に至り、之を焼く」とあるように、新羅など異敵からの攻撃を受けたことが多くの史料に見えます(『伊予大三島縁起』『八幡愚童訓』など)。ですから、九州王朝(倭国)にとって、朝鮮半島南部に親倭政権(同盟関係)があること、更には朝鮮半島に複数の国があり互いに牽制しあっている状態を維持することが自国の安全保障上の国家戦略であったと思われます。中国の冊封体制から離脱したからには、当然の「集団的自衛権」の行使として、唐・新羅連合軍に滅ぼされた百済再興を目指して、白村江戦まで突入せざるを得なかったのではないでしょうか。
 ところが思わぬ誤算が続きました。一つは倭王と思われる筑紫君薩夜麻が捕らえられ唐の捕虜となったこと。二つ目は国内の有力豪族であった近畿天皇家の戦線離脱です。おそらく唐と内通した上での離脱と思われますが、その内通の成功を受けて、唐は薩夜麻を殺さずに帰国させ、壬申の大乱を経て、日本列島に大和朝廷(日本国)という親唐政権の樹立に成功しました。こうして唐は戦争においても外交においても成功を収めます。
 現代も古代も国際政治における外交と戦争に関しては、人類はあまり成長することなく似たようなことを繰り返しているようです。歴史を学ぶことは未来のためですから、現在の安保法制問題も日本人は歴史に学んで意志決定をしなければならないと思います。


第987話 2015/06/24

「古田史学の会」新役員体制が発足

 6月21日に開催された「古田史学の会」第21回定期会員総会で全国世話人および新役員体制が承認されました。創立以来「古田史学の会」の代表を勤められていた水野孝夫さんが顧問に退かれ、代わってわたしが代表を務めさせていただくこととなりました。
 水野さんからは数年前から代表退任の要望をうかがっていたこともあり、創立20年の節目でもあることから新体制発足となりました。水野さんには引き続き顧問としてご指導いただくことになっています。また、古田先生との日常的な連絡・相談役も引き続きお願いをしております。水野代表と共に創立以来副代表をされてきた太田斉二郎さんも勇退されることとなりました。
 小林嘉朗副代表には留任していただき、事務局体制の復活により、正木裕さんには事務局長、竹村順弘さんには事務局次長として「古田史学の会」の運営にあたっていただきます。インターネット事務局は横田幸男さん、書籍部は不二井伸平さん、『古代に真実を求めて』編集責任者は服部静尚さん、会計は西村秀己さん、会計監査は杉本三郎さんという体制です。『古田史学会報』編集責任者はわたしが引き続き担当し、西村さん・不二井さんに同編集を担当していただきます。
 創立20年を越えて、「古田史学の会」は新たなステージへと向かいます。古田先生と古田史学を支持応援し、古田史学を世に広め、古田史学の発展と会員交流という創立以来の使命を胸に前進してまいります。全国の会員、支持者の皆様のご協力をお願い申しあげ、新体制発足のご報告と決意表明といたします。


第980話 2015/06/13

35年ぶりに『戦争論』を読む

 先日、京都駅新幹線ホーム内にある本屋で川村康之著『60分で名著快読 クラウゼヴィッツ「戦争論」』(日経ビジネス人文庫)が目にとまり、パラパラと立ち読みしたのですが内容が良いので購入し、出張の新幹線車内などで読んでいます。著者は防衛大学を卒業され自衛隊に任官、その後、同大学教授などを歴任され、昨年亡くなられたとのこと。日本クラウゼヴィッツ学会前会長とのことですので、どうりで『戦争論』をわかりやすく解説されているわけで、納得できました。
 クラウゼヴィッツの『戦争論』は古典的名著で、わたしも20代の頃、岩波文庫(全3冊)で読みましたが、当時のわたしの学力では表面的な理解しかできず、その難解な表現に苦しんだ記憶があります。集団的自衛権や安保法制、そして中国の海洋侵略やアメリカとイスラム国との戦争など、世界は大戦前夜のような時代に突入していますから、川村さんの解説に触発されて、書棚から35年前に読んだ『戦争論』を引っ張り出し、再読しています。
若い頃読んで重要と感じた部分には傍線を引いており、当時の自分が『戦争論』のどの部分に関心を示していたのかを知ることができます。傍線は主に「第一篇 戦争の本性について」「第二篇 戦争の理論について」「第三篇 戦略一般について」の部分に集中していることから、実践的な面よりも戦争理論や哲学性に興味をもって読んでいたようです。
 今回は「第六篇 防御」を読んでいます。その理由は、古代九州王朝における水城や大野城山城・神籠石山城がどの程度対唐戦争に効果的であったのかの参考になりそうだからです。というのも「第六篇」には「要塞」「防御陣地」「山地防御」「河川防御」といった章があり、防御側と攻撃側のそれぞれのメリット・デメリットが考察されており、九州王朝の防衛戦略を考察する上でとても参考になります。
 通常、攻撃よりも防御の方が戦術的には有利で、攻撃側は防御側の3倍の戦力が必要とされています。したがって、九州王朝は九州本土決戦で防御戦略を採用していれば唐に負けていなかったと思われます。もちろん「防御」ですから、戦力の極限行使による絶対的戦争の勝利は得られませんが、とりあえず国が滅亡することは避けられます。しかし、九州王朝は本土決戦防御ではなく、百済との同盟関係を重視し、朝鮮半島での地上戦と白村江海戦に突入し、壊滅的打撃を受け、倭王の薩夜麻は捕らえられてしまいます。現代の経営戦略理論でも同盟(アライアンス)は重視されますが、「行動は共にするが、運命は共にしない」というのが鉄則です。九州王朝は義理堅かったのか、百済が滅亡したら倭国への脅威が増すので、国家の存亡をかけて朝鮮半島で戦うしかないと判断したのかもしれません。この点、日露戦争や大東亜戦争の開戦動機との比較なども、今後の九州王朝研究のテーマの一つとなりそうです。
 他方、朝鮮半島で勝利をおさめた唐は賢明でした。倭国本土での絶対戦争ではなく、薩夜麻を生かして帰国させ、日本列島に「親唐政権」を樹立するという政治目的を自らの軍事力を直接的に行使することなく成功させました。やはり、軍事力でも戦争理論でも唐は九州王朝よりも一枚上手だったということでしょう。『戦争論』の再読が完了したら、これらのテーマについて深く考察したいと思います。