太宰府一覧

第2627話 2021/12/03

水城築造年代の考古学エビデンス (6)

 水城基底部から出土した厚さ約1.5mの補強層(粗朶と約10cmの土層を交互に敷き詰めた全11層の敷粗朶工法)の築造に240年頃から660年頃まで400年もかけたとは到底考えられないのですが、炭素同位体比年代測定した最上層とその下層の敷粗朶測定値(注①)に200~400年のひらきがあるのはなぜでしょうか。もっとも可能性があるのは「古い時代の流木が積土中に混入した可能性も考えられよう。」(注②)とする見解です。
 現代の考古学出土物の科学的年代測定技術は飛躍的に進歩していますが、他方、サンプルの採取方法が不適切であれば、その遺構の年代とは無関係の測定値が出ることがあり、サンプリングの重要性が指摘されています。たとえば太宰府条坊都市を取り囲む土塁(前畑土塁)から出土した炭化物が土塁の築造年代(七世紀後半)とはかけ離れた弥生時代とする数値(紀元前7世紀から紀元4世紀)が出ています(注③)。この炭化物は土塁築造に使用した盛土に含まれていた古い時代の炭化木材片と考えられています。
 こうした事例が各遺構で見られることもあり、古代山城研究者の向井一雄さんは次のように警鐘を鳴らしています(注④)。

 〝内倉武久は、二〇〇二年に『大(ママ)宰府は日本の首都だった』(ミネルヴァ書房)で、観世音寺に保管されていた水城の木樋や対馬金田城の土塁中の炭化材の炭素年代測定値から「水城の築造は五、六世紀」「(最初の金田城は)六世紀末から七世紀初めごろにかけて築造された」とし、神籠石系山城の朝倉宮防御説も「なんの根拠もない憶測にすぎない」と否定する。山城の築造年代が「謎」のままなのは研究者らが理化学的分析を避けているためだという。金田城では、ビングシ山の掘立柱建物内部の炉跡炭化物や南門から出土した加工材など、考古学的イベントに伴う資料(確実に遺構に伴う炭化物――火焚き痕跡、土器付着の煤、人工的な加工材など)の測定値は六七〇年や六五〇年前後と築城年代と整合している。土中にはさまざまな時代の炭化物が混入しており、イベントに伴わない炭化物を年代測定しても意味がない。〟『よみがえる古代山城』54頁

 「イベントに伴わない炭化物を年代測定しても意味がない。」は、ちょっと言い過ぎと思いますが、理屈としては指摘の通りです。しかし、水城基底部から出土した敷粗朶は水城築造時の敷粗朶工法に使用されたものであり、まさに〝考古学的イベント〟に伴った資料です。その測定値がサンプルによって大きく異なっているのですから、やはり測定を担当したパリノ・サーヴェイ株式会社の報告(注⑤)にあるように、「各1点の測定であるため、今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」とするのが学問的解決方法と思われます。(つづく)

(注)
①GL-2.0m 中央値660年(最上層)、坪堀1中層第2層 中央値430年、坪堀2第2層 中央値240年。
②『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年、135頁。
③小鹿野亮・海出淳平・柳智子「筑紫野市前畑遺跡の土塁遺構について」『第9回 西海道古代官衙研究会資料集』(西海道古代官衙研究会編、2017年)に前畑遺跡筑紫土塁盛土から出土した次の炭片の炭素同位体比年代測定値が報告されている。「試料こ」cal BC0-cal AD89(弥生時代後期)、「試料い」cal AD238-354(弥生時代終末~古墳時代三~四世紀)、「試料き」cal BC695-540(弥生時代前期)。
④向井一雄『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』吉川弘文館、2017年。
⑤『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。「9 水城第三五次調査(出土粗朶年代測定)」。


第2625話 2021/12/01

水城築造年代の考古学エビデンス (5)

 水城基底部の補強材(11層の敷粗朶工法)として使用された粗朶の炭素同位体比年代測定値が、最上層を中央値660年、中層を中央値430年、最下層を中央値240年とする記事が『古田武彦記念 古代史セミナー2021 研究発表予稿集』(注①)に散見されますが、厚さ約1.5mの補強層(粗朶と約10cmの土層を交互に敷き詰めた全11層の敷粗朶工法)の築造に240年頃から660年頃まで400年もかけたとは到底考えられません。そこで、なぜ最上層と下層の敷粗朶測定値にこれほどのひらきがあるのかを調べるため、調査報告書(注②)を繰り返し精査しました。
 敷粗朶が検出されたのは水城跡第35次調査(2001)のときで、次のようにサンプル名と測定値が報告されています。

(1)GL-2.0m 中央値660年 (最上層)
(2)坪堀1中層第2層 中央値430年
(3)坪堀2第2層 中央値240年

 発見された敷粗朶層はSX172と命名されています。(1)のGL-2.0mとは地表の2m下から出土したことを意味し、11層からなる敷粗朶層の最上層と説明されています。(2)(3)の「坪堀」とは遺跡発掘面の一部分を更に坪のように掘ったもので、(1)とはサンプリング条件が異なります。最上層は発掘地区の広い範囲から検出しており、サンプリング条件としては最も安定しています。しかも最上層ですから、その測定値(中央値660年)は水城基底部の完成時期を表します。
 採取された敷粗朶などのサンプル数は32点とされ、その内の3点が測定されたのですが、その他のサンプル名に「坪堀2粗朶4層」もあることから、(3)の坪堀2第2層は敷粗朶層の最下層ではないようです。従って、(3)を「最下層」とする表記は適切ではありません。
 これら3点の測定値がかけ離れていることについて、報告書でも次の見解が示されており、戸惑っていることがうかがえます。

 「GL-2mの試料は敷粗朶最上層であり、664年の水城築堤記事に最も近い。他の2点は築堤記事から200~400年も遡った数値であり、にわかに信じがたい。この2点は、粗朶層を部分的に掘り下げた坪堀りからの抽出試料であり、A区付近が溜まり地形の上に積土を施している点を考慮すると古い時代の流木が積土中に混入した可能性も考えられよう。」『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』135頁

 他方、測定を担当したパリノ・サーヴェイ株式会社による報告部分には次の見解がみえます。

 「記録では、水城が構築されたのがAD664である。GL-2.0mの暦年代は、構築年代とほぼ一致する。このことから、最上位の粗朶層が水城構築とほぼ同時期であることが推定される。土塁の直下から検出されていることを考慮すると、水城構築直前に使用された可能性がある。一方、坪堀1中層第2層と坪堀2第2層は、水城構築年代よりも300~400年程古い年代を示している。このことから、水城構築以前の300~400年間に粗朶層が作られてことが推定される。しかし、各1点の測定であるため、今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」同142頁

 発掘に携わった考古学者と科学的年代測定の担当者とで認識の違いがありますが、後者も「今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」と慎重な姿勢を見せています。そして、後に追加測定が実施されます。(つづく)

(注)
①内倉武久「『倭(ヰ)の五王』は太宰府に都していた」『古田武彦記念 古代史セミナー2021 研究発表予稿集』2021年。
 なお、大下隆司「考古出土物から見た「倭の五王」の活躍領域と中枢部」も同様の測定値を記すが、「最下層」ではなく「下の層」という適切な表記となっている。
②『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。「7 水城第三五次調査(東土塁基底面の調査)」「9 水城第三五次調査(出土粗朶年代測定)」。
 『水城跡 上巻・下巻』九州歴史資料館、2009年。


第2623話 2021/11/28

水城築造年代の考古学エビデンス (4)

 本シリーズでは、水城の築造年代に関する考古学エビデンスとして木樋(観世音寺所蔵)や堤体内からの出土土器について説明してきました。いずれも7世紀以降の水城築造を指示しており、5世紀の「倭の五王」時代の築造とするものではありませんでした。
 八王子セミナーで「倭の五王」築造説の根拠とされたのが、水城基底部の補強材(11層の敷粗朶工法)として使用された粗朶の炭素同位体比年代測定でした。敷粗朶には小枝が使用されるため、年輪幅は多くても数年と考えられ、樹齢数百年から千年に及ぶであろう巨木を使用した木樋と比較して、サンプリングした年輪位置による誤差が小さく、炭素同位体比年代測定のサンプルとしては適しています。
 ところが、内倉武久さんが「『倭(ヰ)の五王』は太宰府に都していた」(注①)などで紹介された測定値は、最上層出土を中央値660年、中層出土を中央値430年、最下層出土を中央値240年であり、「太宰府都城は五世紀中ごろには完成」の根拠とされています。そして、「このことはまず、太宰府は元来卑弥呼が拠点のひとつとして築造を始めた都城だろうということだ。水城と太宰府が最初に造られたのは240年±で、卑弥呼が死んだという247年前後のことだからである。」と内倉さんは八王子セミナーで発表されました。
 水城基底部中の厚さ約1.5mの補強層(粗朶と約10cmの土層を交互に敷き詰めた全11層の敷粗朶工法)の築造に240年頃から660年頃まで400年もかけたとは到底考えられません。そのため、出土状況の詳細を確認するためにその発掘調査報告書を探しました。
 水城は基底部と版築による上層部からなり、敷粗朶工法は軟弱な地盤を強化するために採用されており、水城からは複数の敷粗朶工法遺構が検出されています。内倉さんが紹介した11層の敷粗朶工法遺構は『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』(注②)で報告されていました。同報告書によれば、粗朶を水城土塁と直角方向に敷く工法が採用されています。400年もかけて、台風や梅雨の風雨と夏の日射しに曝されながら、11層の敷粗朶層(厚さ約1.5m)が構築されたとはおよそ考えられないのです。それではなぜ最上層と下層の敷粗朶測定値に400年ものひらきがあるのでしょうか。(つづく)

(注)
①内倉武久「『倭(ヰ)の五王』は太宰府に都していた」『古田武彦記念 古代史セミナー2021 研究発表予稿集』2021年。
②『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。「7 水城第三五次調査(東土塁基底面の調査)」「9 水城第三五次調査(出土粗朶年代測定)」。


第2618話 2021/11/21

水城築造年代の考古学エビデンス (2)

八王子セミナー(注①)では水城の築造年代でも通説(七世紀中葉)とは異なる見解が発表されました(注②)。その考古学エビデンスとして提示されたのが、観世音寺に保管されている木樋や水城基底部に敷かれた粗朶の炭素同位体比年代測定値でした。それら測定の〝数値〟に異議はありませんが、資料としての取り扱いや位置づけに対する理解がわたしの見解とは異なっていましたので、その点について説明します。
 最初に観世音寺にある木樋ですが、水城基底部から出土したものとされており、その伐採年がわかれば、水城築造年代を特定するうえで有力根拠となります。その測定値について、内倉武久さんの『太宰府は日本の首都だった』(注③)によれば、観世音寺に保管されていた水城の木樋の炭素同位体比年代測定が九州大学の故坂田武彦氏によりなされており、430年±30年とのこと。この測定は1974年にまとめられたものなので、「最新データで測定値を補正してみると540年ごろになりそうだ。」(193頁)と内倉さんは記されています。わたしも年輪年代値による補正表(注④)で補正したところ約545年頃となり、内倉さんの補正とほぼ同じ年代を示しました。
 この補正により、木樋のサンプリングした部分の年輪の年代は540±30年頃ということがわかります。この木樋はかなり大きなものですから、年輪のどの位置からのサンプリングなのか不明ですし、伐採年は最外層より更に数十年新しいと考えざるを得ません。従って、この木樋に使用した木材の伐採年は6世紀後半以降となります。そうすると6世紀後半以降に伐採した木材を使用した木樋を基底部に埋設し、その上に版築工法による土塁や門を築造するわけですから、水城の完成は7世紀初頭以降と推定できます。
 なお、八王子セミナーの予稿集では年代補正をしていない「430年(中央値)」を内倉さんは採用され、「五世紀が中心の『倭の五王』と年代的にぴったりだ。」とされました。しかし、科学的には補正値の方を採用すべきであり、そうであれば木樋の測定値をエビデンスとして水城の築造年代を5世紀とすることはできません(注⑤)。(つづく)

(注)
①古田武彦記念 古代史セミナー2021 ―「倭の五王」の時代― 。公益財団法人大学セミナーハウス主催、2021年11月13~14日。
②内倉武久「『倭(ヰ)の五王』は太宰府に都していた」『古田武彦記念 古代史セミナー2021 研究発表予稿集』2021年。
 大下隆司「考古出土物から見た『倭の五王』の活躍領域と中枢部」同上。
③内倉武久『太宰府は日本の首都だった ─理化学と「証言」が明かす古代史─』ミネルヴァ書房、2000年。
④『鞠智城 第13次発掘調査報告』熊本県教育委員会、1992年、所収「二一表」。
⑤同様の指摘をわたしは次の論稿で行った。
 古賀達也「理化学的年代測定の可能性と限界 ―水城築造年代を考察する―」『九州倭国通信』186号、2017年5月。
 古賀達也「太宰府条坊と水城の造営時期」『多元』139号、2017年5月。


第2616話 2021/11/19

水城築造年代の考古学エビデンス (1)

  先日開催された八王子セミナー(注①)では、エビデンスを重視するという姿勢が従来以上に強調されました。他方、古代山城や水城の造営年代を「倭の五王」の頃(5世紀)とする見解が複数の方から発表されましたが、発掘調査報告書には造営年代が五世紀まで遡るという確かな考古学エビデンスは見えず、七世紀後半代とするものがほとんどであるとわたしは理解しています。セミナーでは説明時間が充分になかったこともあり、改めてそれらの考古学エビデンスを紹介します。
 まず古代山城ですが、鞠智城は七世紀初頭(多利思北孤の時代)まで造営年代が遡る可能性があります。その考古学エビデンスは、出土した炭化米の炭素同位体比年代測定で、AD590~640年(6世紀後半~7世紀中葉)の値が出されています。このことは「洛中洛外日記」などで紹介してきたところです(注②)。
 その他の古代山城の造営年代についても、たとえば鬼ノ城からの500余点の出土遺物は飛鳥Ⅳ~Ⅴ期(7世紀末~8世紀初頭)のものであり、古墳時代的な古い杯Hは出土していません。永納山城では城の東南隅の谷奥で築造当時の遺構面が発見され、7世紀末から8世紀初めの須恵器が出土しています。御所ヶ谷城からは7世紀第4四半期の須恵器長頸壺と8世紀前半の土師器(行橋市 2006年)、鹿毛馬城からは8世紀初めの須恵器水瓶などが出土しています。これらの出土事実も「洛中洛外日記」(注③)で紹介しました。仮に土器編年にぶれや誤りがあったとしても、5世紀まで200年も遡るとは考えられないのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古田武彦記念 古代史セミナー2021 ―「倭の五王」の時代― 。公益財団法人大学セミナーハウス主催、2021年11月13~14日。
②古賀達也「洛中洛外日記」1201話(2016/06/05)〝鞠智城出土炭化米のC14測定年代〟
 古賀達也「鞠智城創建年代の再検討 ―六世紀末~七世紀初頭、多利思北孤造営説―」『多元』135号、2016年9月。
③古賀達也「洛中洛外日記」2609話(2021/11/05)〝古代山城発掘調査による造営年代〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2612話(2021/11/11)〝鬼ノ城、礎石建物造営尺の不思議〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2613話(2021/11/12)〝鬼ノ城、廃絶時期の真実〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2614話(2021/11/13)〝古代山城の廃絶と王朝交替〟


第2596話 2021/10/17

両京制と複都制の再考

 栄原永遠男さんの「複都制」再考

 過日の多元的古代研究会月例会での西坂久和さんの発表(「筑紫の難波長柄豊碕宮を探る」)をリモート参加でお聞きしていて、古田先生と『日本書紀』孝徳紀について意見交換していたときのことを思い出しました。
 わたしから前期難波宮九州王朝副都説(後に「複都説」とした)のアイデアについて説明したところ、先生は「『日本書紀』孝徳紀の記事では孝徳がどの宮殿にいたのかよくわからない」と仰っていました。このようなやりとりがありましたので、改めて難波宮関連の記事を精査したところ、皇極四年条(大化元年)の次の〝細注〟記事が目にとまりました。

 「舊本に云はく、是歳、京を難波に移す。而して板蓋宮の墟と為らむ兆しなりといふ。」

 「舊本」には「京を難波に移す」(移京於難波)という記事があると記されており、通説では孝徳紀大化元年十二月条の次の記事に対応すると理解されています。

 「天皇、都を難波長柄豊碕に遷す。」

 ここでは「移京」ではなく、「遷都」(遷都難波長柄豊碕)の語が使われています。ともに「みやこをうつす」と読まれているのですが、栄原永遠男さんの論文「『複都制』再考」(注①)によれば、古代日本では京と都とでは概念が異なり、京(天皇が都を置けるような都市)は複数存在しうるが、都はそのときの天皇が居るところであり、同時に複数は存在し得ないとされています。ですから、天皇が、ある「京」から別の「京」へ移動する「遷都」は可能でも、都市そのものが移動する「遷京」という概念はありえないことになります。
 従って、この栄原説に従えば、皇極四年条の「移京」は都市としての「難波京」へ移るという意味になり、「京」の存在、あるいは造営が前提となります。わたしの前期難波宮九州王朝複都説によれば、この「移京於難波」記事は九州王朝の難波京造営を示唆するものとなります。そして、大化元年条の「遷都難波長柄豊碕」記事は、九州王朝の難波京造営に伴っての、九州王朝の臣下である近畿天皇家孝徳の難波長柄豊碕への転居記事と解することができるのではないでしょうか。なお、ここでは「難波長柄豊碕宮」ではなく、「難波長柄豊碕」としていることから、まだ「宮」は完成していなかったように思われます(注②)。
 ちなみに、「長柄豊碕」は大阪市北区の豊崎神社がある「長柄」地区のことであり、南北に延びる上町台地の北端部に近い「豊崎」に対応した「碕」地名です。他方、「移京於難波」記事の「難波」こそ、大阪市中央区法円坂から出土した巨大遺構「前期難波宮」のことで、まさに難波全体を代表する宮、「難波宮」と呼ぶにふさわしいものです。たとえば、『続日本紀』に見える聖武天皇の「難波宮」(焼失後の前期難波宮の上に造営された後期難波宮)は一貫して「難波宮」と呼ばれており、「難波長柄豊碕宮」とはされていないことは重要です。
 更に孝徳紀白雉元年正月条には「味経宮(あじふのみや)」で賀正礼が行われ、白雉二年(651)十二月には、僧侶二千七百余人による法要が営まれていることから、そうした大規模な行事が可能なスペースは上町台地上には前期難波宮の場所しかなく、「難波宮」は「味経宮」とも称され、完成後には「難波宮」と命名されたとする説を正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は述べられています(注③)。
 以上の考察をまとめると、九州王朝(倭国)は7世紀前半(倭京元年、618年)に倭京(太宰府)を造営・遷都し、7世紀中頃(九州年号の白雉元年、652年)には難波京(前期難波宮)を造営・遷都し、両京制を採用したと思われます。その上で、倭京と難波京間を「遷都」し、ときの天子が居るところが「都」となり、留守にしたところには「留守官」を置いたのではないでしょうか。なお、7世紀後半(白鳳元年、661年)には近江京(大津宮)も造営し、三京制となったようです(注④)。
 最後に、古田史学の会・関西の研究者間では、藤原京も九州王朝による造営・遷都(九州年号の大化元年、695年)とする仮説が、近年、有力視されつつあります(注⑤)。慎重かつ活発な論議検証が期待されるテーマです。

(注)
①栄原永遠男「『複都制』再考」『大阪歴史博物館 研究紀要』17号、2019年。
②白雉元年(650)十二月条に、大郡から難波長柄豊碕宮(新宮)への孝徳転居記事がみえる。
③古賀達也「白雉改元の宮殿 ―「賀正礼」の史料批判―」『古田史学会報』116号、2013年6月。  正木裕「前期難波宮築造準備について」『古田史学会報』124号、2014年10月。
 古賀達也「洛中洛外日記」1418話(2017/06/09)〝前期難波宮は「難波宮」と呼ばれていた〟
 古賀達也「洛中洛外日記」1421話(2017/06/13)〝前期難波宮の難波宮説と味経宮説〟
④古賀達也「九州王朝の近江遷都」『古田史学会報』61号、2004年4月。『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年に収録。
 古賀達也「洛中洛外日記」580話(2013/08/15)〝近江遷都と王朝交代〟
 正木裕「『近江朝年号』の実在について」『古田史学会報』133号、2016年4月。
 古賀達也「九州王朝を継承した近江朝庭 正木新説の展開と考察」『古田史学会報』134号、2016年6月。『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』二十集。明石書店、2017年)に転載。
 正木裕「『近江朝年号』の研究」(『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』二十集。明石書店、2017年)に転載。
⑤「701年以前の藤原宮(京)には九州王朝の天子がいた」とする仮説を最初に述べたのは西村秀己氏(古田史学の会・全国世話人、高松市)である。「洛中洛外日記」361話(2011/12/13)〝「論証」スタイル(1)〟でそのことに触れた。


第2547話 2021/08/22

太宰府出土、須恵器と土師器の話(7)

 牛頸窯跡群の調査報告書『牛頸小田浦窯跡群Ⅱ』(注①)を読んでいて不思議な記述があり、わたしの太宰府土器編年研究が中断してしまいました。それは須恵器杯の様式名に、既存編年の名称とは異なる表記が散見されたからです。具体例二点を紹介します。

(1) 26頁第16図73・74の須恵器蓋には「つまみ」はないが、23頁の説明ではそれらを「杯G」とする。
(2) 37頁第24図83の須恵器蓋にも「つまみ」はないが、36頁の説明ではそれを「杯B」とする。

 須恵器様式については既に説明(注②)してきたところですが、それとは異なり、「つまみ」がない須恵器蓋を杯Gや杯Bとする説明をわたしは理解できませんでした。これでは太宰府土器編年の根幹が揺らぎかねませんので、大野城市ホームページの「問い合わせ」コーナーから、上記の点について質問しました。まもなくすると、同市ふるさと文化財課の上田さんから丁寧な回答が届きました。要約して紹介します。

《大野城市ふるさと文化財課の上田さんからの回答》
【質問1】26頁第16図73・74の「杯G」の認識
 ご指摘のとおり、一般的な「杯G蓋」は「つまみ」を有しており、大野城市でも「かえり」「つまみ」を有す蓋と身のセットを「杯G」と理解しています。
 ところが、本市の牛頸窯跡群では、「かえり」を有すものの「つまみ」を欠く蓋が一定量あり、「つまみ」がないものも含めて「杯G」と表現しています。

【質問2】37頁第24図83の「杯B」の認識
 ご指摘のとおり、一般的な「杯B蓋」には「つまみ」があり、杯身には「足=高台」を有しています。
 「杯G」と同様、牛頸窯跡群では、高台を有する杯身とセットになる蓋で「つまみ」を欠く蓋が一定量あり、「つまみ」がないものも含めて「杯B」と表現しています。

【参考資料】
 大野城市では、奈良文化財研究所の須恵器分類を採用しております。参考までに『牛頸窯跡群総括報告書Ⅰ』の「例言」を添付しておりますますので、参考にしていただければと思います。
 以上のとおり、牛頸窯跡群では、杯G蓋・杯B蓋につまみを欠くものが一定量存在しております。近畿地域では、つまみを有するものが一般的かと思いますが、この点は地域性が発現しているものと理解できるのかもしれません。
 簡単ではございますが、以上を回答とさせていただきます。何かご不明な点がございましたらご連絡いただければ幸いです。

 上記の丁寧な回答が寄せられました。資料として添付されていた『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ―』(注③)の「例言」には、次の説明がありました。

 「須恵器蓋杯については、奈良文化財研究所が使用している名称杯H(古墳時代通有の合子形蓋杯)、杯G(基本的にはつまみとかえりを持つ蓋と身のセット。ただし牛頸窯跡群産須恵器にはつまみのない蓋もある)、杯B(高台付きの杯)、杯A(無高台の杯)を使用する場合がある。」『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ―』

 こうした説明を受けて、わたしもようやく事情が飲み込めてきました。すなわち、蓋に「かえり」(注④)が付いているものは「つまみ」がなくても杯Gに分類されていたわけです。おそらく同一遺構から「つまみ」付きの杯G蓋が多数出土し、併出した「つまみ」無しの蓋でも「かえり」があれば、杯Gに見なすということのようです。蓋がない杯Bも同様です。
 わたしは、蓋に「つまみ」がなく、「かえり」があるものは杯Hの進化形とする見解を大阪の考古学者から聞いていましたので、土器の地域差の発現だけではなく、考古学者の認識にも地域差があるのかもしれません。あるいは、わたしの認識・理解がまだ浅いのかも知れません。この点、他地域の考古学者の意見も聞いてみたいと思います。
 こうして、牛頸窯跡群出土土器の疑問については一応の解決をみたのですが、これからは調査報告書を精査する際、「つまみ」の有無だけでの単純な様式判断で済ませることなく、報告書の土器分類・編年表も用心深く見なければならないことを学びました。大野城市の上田さんに改めてお礼申し上げたいと思います。(つづく)

(注)
①『牛頸小田浦窯跡群Ⅱ ―79地点の調査― 大野城市文化財調査報告書 73集』大野城市教育委員会、2007年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2537話(2021/08/14)〝太宰府出土、須恵器と土師器の話(2)〟にて、次のように説明した。
〝この須恵器は、なぜか七世紀になると様相が急に進化し始めるので、土器編年に使用されています。大きな変化の目安として、古墳時代から続く丸底で丸い蓋を持つ「杯(つき)H」から始まり、蓋につまみが付く「杯G」、更に底に足が付く「杯B」と変化し、その様相の違いを利用して相対編年が可能となります。実際には細部の形式変化や大きさ(法量)の変化も利用して、より詳しく分類・編年されています。〟
③『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ― 大野城市文化財調査報告書 第77集』大野城市教育委員会、2008年。
④須恵器の「かえり」とは、蓋と杯身の併せ部分にある内側に向いた縁のことで、杯Hの場合は杯身側に「かえり」があり、蓋がそこに被さるようになっている。蓋側に「かえり」があるものは進化形で、食器内の湯気が蓋の天井で冷やされ、その雫(しずく)が「かえり」によって杯身の内側に流れ込むように工夫されている。蓋に「かえり」がない古いタイプの杯Hの場合は、内部で発生した雫(しずく)が杯身と蓋の隙間から外側へこぼれてしまう。そのため同じ杯Hでも、蓋に「かえり」を有するものが、より新しく編年されてきた。


第2542話 2021/08/18

太宰府出土、須恵器と土師器の話(6)

 牛頸窯跡群を筆頭に各地の窯から太宰府条坊都市に食器用途の須恵器、煮炊き用途に使用された土師器が供給されています。ところが、太宰府の土師器は、他地域とは異なる特徴を持つことが知られています。それは製法に関することで、ある時期から回転台(ろくろ)を使用して土師器が造られるようになることです。
 回転台成形による土器製造技術は須恵器製造技術と共に伝わったと考えられていますが、その後も土師器は地域伝統の「手持ち成型」技法で造られていました。ところが太宰府では須恵器杯Bの流行と同時期に土師器も回転台により造られるようになりました。これは大和の「宮都」にだけ見られた現象とされているようで、中島恒次郞さん(太宰府市都市整備部)の「日本古代の大宰府管内における食器生産」(注①)では次のように説明されています。

 「大宰府官制成立時に発現する回転台成形の土師器生産は、宮都以外に発現した一大画期とでもいえる事象で、大宰府管内においても重要な出来事である。」671~672頁
 「古代官衙成立後に発現する回転台成形の土師器を国家的な食器として見た時、九州内においては成川式土器、兼久式土器のように様式名称を上げることができるように大宰府との距離と正比例する強度で在地伝統が強くなる。逆を述べると大宰府を国家的な様相の極としていることになる。(中略)在地伝統の技術として捉えた手持ち成形の土師器は、実は都を包括する畿内では通有の事象であり、九州において在地伝統の技術を保持している集落と都がある畿内が同じ保守的様相を保っていることになる。」672~673頁

 この説明の重要点は、わたしの理解するところ次の通りです。

(1) 太宰府の官制成立時・官衙成立後に回転台成形の土師器が発現する。
(2) 須恵器と土師器が共に回転台成形になるのは、大和の「宮都」と太宰府にのみ見られる〝国家的〟現象である。

 そして、中島さんは土師器も回転台成形になった背景として、世襲工人の崩壊(筑前・筑後・肥前)や食器製造工人集団の統合がなされたためとしています。

 「(筑前・肥前・筑後の)土師器は、回転台成形の製品が優勢な大宰府を一方の極とし、前代からの系譜を引く手持ち成形の製品が優勢な集落を一方の極とする様相が観察できる。ただし、時間の経過とともに集落様相は、Ⅲー2期(八世紀後半~九世紀前半)には回転台成形の土師器が優勢へと転換していく。その背景は、生産工人のあり方を文献史学ならびに考古資料観察から導き出した、世襲工人の崩壊による多様な人々による生産への転換を想定している。」667頁 ※()内は古賀による注。
 「食器構成においてみるとⅢー1期(八世紀前半)において律令制国家的様相である土師器―須恵器の器種互換性・法量分化が成立し、国家的様相下に入るとともに、食器製作技法を見ると、地域の利害を無視した生産体制として土師器―須恵器の生産工人を整理統合、再分離を行ったと解せる事象が顕在化することになる。この食器生産体制の編成と時期を同じくして条坊制施行、官道整備、水城・大野城・基肄城の再整備など大規模でかつ広範な分野で国家制度を体現するための諸制度が敷かれていくことになる。」673頁 ※同上。

 こうした中島さんの見解について、その編年(暦年とのリンク)には賛成できませんが、「土師器―須恵器の生産工人を整理統合、再分離」が行われたということについては、あり得ることと思います。既に論じられていることとは思いますが、そうした現象面の解釈以上に、なぜ律令官制成立時期に土師器も回転台成形になったのかという理由こそ追究すべき問題と思います。そこにも歴史的必要性があったと考えるからです。
 わたしは九州王朝説に基づいて、次のような背景を推定しています。すなわち、多利思北孤による太宰府遷都(倭京元年、618年。注②)と律令制統治体制確立による急激な人口増加が太宰府地区で発生したため、それに対応した食器量産体制拡充のため、より生産性が高い回転台成形が土師器にも採用されたとする理解です。当然、これは須恵器増産のための牛頸窯跡群拡大と軌を一にした政策と考えざるを得ません。そうすると、その時期は七世紀前半頃に位置づけるのが穏当となるのですが、中島さんの編年とは50年ほど異なり、太宰府土器編年の検討が必要となるわけです。
 なお、中島さんのいう「大宰府官制」とは、王朝交替後の『大宝律令』下における八世紀の「大宰府官制」を指していますから、そのこと自体は妥当な見方です。実際に七世紀中頃に減少した牛頸窯跡群は八世紀になると再び増加していることが知られています(注③)。ですから、七世紀中頃の九州王朝律令官制確立の時期と回転台成形土師器の発生時期との考古学的対応の検討が重要です(注④)。その当否はまだわかりません。これから精査したいと思います。(つづく)

(注)
①中島恒次郞「日本古代の大宰府管内における食器生産」『大宰府の研究』高志書院、2018年。
②古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
 古賀達也「太宰府建都年代に関する考察 ―九州年号『倭京』『倭京縄』の史料批判―」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
 正木裕「盗まれた遷都詔 ―聖徳太子の「遷都予言」と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
③石木秀哲(大野城市教育委員会ふるさと文化財課)「西海道北部の土器生産 ~牛頸窯跡群を中心として~」『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 ―発表資料集―』2017年。(同年2月に開催された「九州国立博物館『大宰府学研究』事業、熊本県『古代山城に関する研究会』事業、合同シンポジウム」の資料集)
④拙論〝前期難波宮九州王朝複都説〟によれば、「七世紀中頃の九州王朝律令官制確立の時期」には前期難波宮も含まれるので、検討範囲は難波地域(大阪市)や陶邑窯跡群(堺市)も対象となる。


第2540話 2021/08/16

太宰府出土、須恵器と土師器の話(5)

 本テーマで紹介した「須恵器杯Bや律令制国家官僚群は、七世紀の中葉頃、九州王朝(倭国)の都(太宰府)にて、他に先駆けて成立した」とする仮説には、有利な点と克服すべき課題を併せ持っています。このことについて説明します。
 まず、有利な点ですが、「飛鳥編年」など既存の土器編年を北部九州以外では基本的にそのまま採用できるということにあります。修正の対象が太宰府を中心とする北部九州(須恵器の先進地域)の土器編年であるため、新たな土器編年の検討作業を「九州編年」に集中することができます。
 克服すべき課題は、太宰府土器編年の見直しの方法論の確立です。具体的には次の諸点です。

(1) 杯Gや杯Bの相対土器編年と絶対編年(暦年)とのリンク。
(2) 文献史学による太宰府遺跡の編年と土器編年の整合。
(3) 各太宰府遺跡(政庁Ⅰ期・Ⅱ期、観世音寺、朱雀大路、太宰府条坊、水城、大野城、基肄城、土塁、阿志岐山城、等)相互の造営年代の整合。

 以上の諸点ですが、なかでも(1)が最も重要で困難な作業になります。土器編年を暦年にリンクするためには、科学的年代測定か確かな文献史料との対応が必要となりますが、後者の九州王朝系史料は極めて少なく、仮にあったとしても通説支持者はそれを史実とは認めないと思います。
 前者の場合、近年精度を増したとはいえ、炭素同位体比年代測定法の測定値には年代幅があり、七世紀(百年間)のなかで、杯H・杯G・杯Bと変化した土器編年と正確にリンクさせるのは困難です(注)。その点、年輪年代測定法は樹皮が遺っていればピンポイントで伐採年を判定できますが、伐採年と遺跡造営年が一致するのかどうかについては、木材の転用・再利用などの可能性があり、やはり研究者の解釈による恣意性が発生しそうです。
 このようにわたしの仮説の証明には大きな壁が待ち受けています。(つづく)

(注)大宰府政庁や水城の炭素同位体比年代測定の難しさを指摘した次の論稿を筆者は発表した。
○「理化学的年代測定の可能性と限界 ―水城築造年代を考察する―」『九州倭国通信』186号、2017年5月。
○「太宰府条坊と水城の造営時期」『多元』139号、2017年5月。
○「太宰府都城の年代観 ―近年の研究成果と九州王朝説―」『多元』140号、2017年7月。
○「前畑土塁と水城の編年研究概況」『古田史学会報』140号、2017年8月。
○「太宰府『倭の五王』王都説の検証 ―大宰府政庁編年と都督の多元性―」『多元』164号、2021年7月。
○「太宰府『倭の五王』王都説の限界 ―九州大学「坂田測定」の検証―」『多元』165号、2021年9月(予定)。


第2539話 2021/08/15

太宰府出土、須恵器と土師器の話(4)

 七世紀における須恵器杯Bの発生と増加の背景に、机で執務・食事をする律令制官僚群の誕生があったとする作業仮説をわたしは抱いていますが、このことを九州王朝説の視点から考察すると次のようになります。

(1) 九州年号の倭京元年(618年)に筑後から太宰府に遷都した多利思北孤の時代は全国統治の初期段階と考えられ、太宰府官衙に机で執務・食事する国家官僚群が配置・増員された。
 これに対応するように牛頸窯跡群から官僚用食器として須恵器杯Bの製造と供給が開始された。同窯跡群の生産活動が六世紀末から七世紀初頭にかけて急増するという考古学的出土事実がある。
 従って、杯Bの発生は七世紀中葉頃と考えている。以前、わたしは北部九州での杯B発生を七世紀初頭と考えていたが(注①)、それでは通説との乖離が大きくなり、やや早すぎると思われることもあって、「中葉頃」とする表現がより適切と現時点では考えている。七世紀中葉(約634~666年)の内のどの時期が有力かは、まだ確定できていない。

(2) 九州王朝(倭国)の律令制による全国統治が進むにつれ、七世紀中葉~後葉にかけて各地に国衙・評衙が造営され、地方官僚の配備と地方長官の派遣が始まる。それに伴って杯Bが各地に伝播し、七世紀第3四半期頃には各地で杯Bが一斉に普及し始める。その痕跡として、660~670年頃の遺跡層位から杯Bが出土し始める。なお、この出土事実と『日本書紀』に基づいて飛鳥編年は作られた。

(3) 七世紀中頃には評制による本格的な全国統治体制が確立し始める(注②)。九州年号の白雉元年(652年)には、全国統治拠点として、巨大な難波複都(前期難波宮と条坊都市)が完成する。そこで執務する数千人に及んだであろう国家官僚のために、陶邑窯跡群(堺市)でも杯Bの製造が始まり、難波京や周辺各地に供給された。
 前期難波宮整地層からは杯Bの出土は見られず(注③)、前期難波宮の活動時期の層位から杯Bの出土がみられる事実は、この仮説に対応している。すなわち、それまでの近畿地方には杯Bを必要とするような律令制国家官僚群は存在していなかった(倭国の都は近畿地方になかった)。

 九州王朝説に立てば、以上のような解釈(歴史理解)が可能です。すなわち、須恵器杯Bや律令制国家官僚群は、七世紀の中葉頃、九州王朝(倭国)の都(太宰府)にて、他に先駆けて成立したとする仮説です。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1214話(2016/06/21)〝「須恵器杯B」発生の理由と時期〟において、次のように述べていた。
〝わたしは大阪歴博の考古学者の7世紀の難波の土器(須恵器)や瓦(四天王寺創建瓦:620年頃と展示。『二中歴』にも「倭京二年(619)の創建」と記されており、歴博の展示と一致)の編年は正確であると支持していますが、須恵器杯Bの発生について、九州王朝(北部九州、大宰府政庁1期下層出土など)において7世紀初頭頃と考えています。〟
②古賀達也「古田先生との論争的対話 ―「都城論」の論理構造―」『古田史学会報』147号、2018年8月
③前期難波宮水利施設造成時の客土層から出土した大型の〝杯Bの蓋〟(1点)について、江浦洋氏(大阪府文化財センター次長)は「普通の杯Bよりも大きめの坏で、いわゆる杯Bの範疇外」と筆者からの質問に返答された(2017年1月、「古田史学の会」新春古代史講演会にて)。
 また、佐藤隆『難波宮址の研究 第十一 前期難波宮内裏西方官衙地域の調査』(2000年3月、大阪市文化財協会)にも、前期難波宮整地層から須恵器杯Bは出土していないとされている。
 他方、小森俊寬『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 ―日本律令的土器様式の成立と展開、七~十九世紀―』(京都編集工房、2005年11月)において、前期難波宮整地層からの出土とされた杯Bは、いずれも後期難波宮整地層からの出土であり、前期難波宮整地層出土としたのは小森氏の誤認であることをわたしは次の論稿で指摘した。
○古賀達也「前期難波宮『天武朝造営』説の虚構 ―整地層出土「坏B」の真相―」『古田史学会報』151号、2019年4月。
○古賀達也「洛中洛外日記」1823~1839話(2019/01/12~02/17)〝難波宮整地層出土「須恵器坏B」の真相(1)~(5)(補)〟


第2538話 2021/08/14

太宰府出土、須恵器と土師器の話(3)

 須恵器杯の様式が大きく変化する七世紀ですが、その変化の概要は次のようにとらえられています。古墳時代から長く続いた杯Hの様式に重なるように、七世紀中葉に杯Gが発生します。そして、後葉になって杯Bが出現し、杯Hは激減します。しかも、この変化はほぼ全国的に一斉に進みます。わたしはこうした須恵器杯の様式変化は、九州王朝の全国統治の歴史に連動しているという作業仮説を持っています。このことについて説明します。
 七世紀の須恵器杯様相変化で、わたしがもっとも注目するのが杯Bの発生理由で、その機能性が変化の主要因と考えています。既に指摘されてきたことでもありますが(注)、杯身の底に足が付いた杯Bの最大の機能は、平たい机や台の上に安定して置くことができるということであり、食事の容器と考えられる須恵器杯ですから、机の上に食器を並べて食事するという習慣が生まれたことが、杯B発生の背景にあったと考えられます。しかも、三大窯跡群の一つである牛頸窯跡で大量の土器が六世紀末から七世紀初頭に製造され始めるのですから、杯Bも大量に太宰府条坊都市に供給されたことを疑えません。
 そのことから、机の上に食器を置いて食事する大勢の人々が発生したと考えざるを得ず、結論を言えば、机の上で執務する多くの文書官僚が誕生したことが杯B発生の主要因と思われます。たとえば律令制により全国統治するためには行政文書(命令書、報告書、戸籍類、役務や徴税、徴兵などの記録、他)の作成管理が不可欠です。その際、官僚たちが毎日床に這いつくばって行政文書を書いたとは考えられず、やはり机の上で執務したと思います。そして、食事もその机で、あるいは執務とは別の机で取るようになったと思われます。
 そうした多くの中央官僚たちが執務・食事する所こそ、権力中枢の地、すなわち「都(みやこ)」ではないでしょうか。ですから、杯Bの発生とその大量消費は、多くの律令制中央官僚の誕生、すなわち王朝による建都や遷都に連動した動きとわたしは考えています。(つづく)

(注)古賀達也「洛中洛外日記」1214話(2016/06/21)〝「須恵器杯B」発生の理由と時期〟で、小田裕樹さん(奈良文化財研究所研究委員)へのインタビューコラム「土器が語る食卓の『近代化』」(2016年6月1日・朝日新聞夕刊)の次の記事を紹介した。
 「推古天皇や聖徳太子が活躍した7世紀前半は、丸底の食器を手に持ち、手づかみで食べる古墳時代以来のスタイル。しかし7世紀後半の天智・天武天皇の時代に、平底から高台つきの食器を机や台に置き、箸やさじで料理を口に運ぶ大陸風のスタイルに変わったようです」


第2537話 2021/08/14

太宰府出土、須恵器と土師器の話(2)

 牛頸(うしくび)窯跡群から太宰府条坊都市に供給された食器(土器)は須恵器と土師器です。土師器は淡いオレンジ色がかった土器で、主に煮炊き用に使用されたと考えられています。須恵器は青みがかった灰色の土器で、こちらは食事用の容器、今でいえばお茶碗として使用されていたようです。須恵器の方が高温の還元炎で焼成するため、堅くて丈夫です。五世紀初頭頃に朝鮮半島から九州王朝(倭国)に伝わったようで、わが国最古の須恵器窯跡遺跡は福岡県筑前町(小隈・山隈・八並窯跡群等)から発見されています(注)。
 この須恵器は、なぜか七世紀になると様相が急に進化し始めるので、土器編年に使用されています。大きな変化の目安として、古墳時代から続く丸底で丸い蓋を持つ「杯(つき)H」から始まり、蓋につまみが付く「杯G」、更に底に足が付く「杯B」と変化し、その様相の違いを利用して相対編年が可能となります。実際には細部の形式変化や大きさ(法量)の変化も利用して、より詳しく分類・編年されています。それについては専門的になりますので、ここでは説明を省きます。
 これら須恵器杯の中で、わたしが最も注目しているのが杯Bです。その様式変化の理由と背景、その発生時期が九州王朝史と密接な関係があると考えています。なぜなら、その様式変化には必ず理由(歴史的必要性)があったはずだからです。(つづく)

(注)古賀達也「洛中洛外日記」1488~1494話(2017/08/26~09/03)〝須恵器窯跡群の多元史観(1)~(5)〟
 古賀達也「須恵器窯跡群の多元史観 ―大和朝廷一元史観への挑戦―」『古田史学会報』144号、2018年2月。