多賀城碑「東海東山節度使」考(3)
―〝西の国界〟説への違和感―
古田先生は著書『真実の東北王朝』(注①)において、多賀城「蝦夷国内」説とともに多賀城碑が偽作ではないとする緒論を発表されました。特に重要な点は次の論証でした。
(1) 碑文の刻字や文字配列が稚拙であることを根拠とした江戸期における偽作とする説(実証)に対して、偽作であればこのような不格好な碑面ではなく、本物らしく立派なものを造るはずであり、それは逆に偽作ではない根拠であると論理的な反証(論証)をされた。
(2) 碑文の藤原朝獦の官位「從四位上」が『続日本紀』の記事「從四位下」と異なっているという偽作説(実証)に対して、後代史料よりも同時代金石文が優先するという史料批判の基本原則を明示(論理的反証)された。
(3) 多賀城からほぼ同距離に位置する「常陸國界」「下野國界」の里程について、碑文では「四百十二里」「二百七十四里」と大きく異なっていることを根拠とする偽作説に対して、碑文上部に記された「西」を根拠に〝西の国界〟という視点を提示され、それぞれの〝西の国界〟からの距離であれば碑文の里程は妥当とされた。
いずれも偽作説に対する優れた反証であり、学問的にも貴重な論点ですが、(3)についてはわたしは違和感がありました。〝西の国界〟説に対していだいた違和感の一つは、各里程記事の冒頭にある「去」の一字でした。
【多賀城碑文の里程記事部分】
西
多賀城
去京一千五百里
去蝦夷國界一百廿里
去常陸國界四百十二里
去下野國界二百七十四里
去靺鞨國界三千里
この「去」の字により、行程方向は〝京・各国界から多賀城へ(西から東へ)〟であり、たとえば「常陸國界」が〝西の国界〟であるとすると、その行程は「常陸国の西の国界」→「常陸国内」→「常陸国の東の国界」→「蝦夷国界」→「多賀城」となり、それこそ〝冗長〟です。多賀城への距離を示すのであれば「常陸国の東の国界」からでよく、既知である東海道諸国に含まれる「常陸国の西の国界」から「去る」必要はありません。「下野國界」についても同様です。
さらに、「去靺鞨國界三千里」も同様に〝西の国界〟と理解すると、その行程は、「靺鞨国の西の国界」→「靺鞨国内」→「靺鞨国の東の国界」を含むことになり、そうなると距離はとても「三千里」に収まらないのではないでしょうか。(注②)
こうした疑問があり、古田説中の〝西の国界〟説には違和感があったのです。しかし、距離の齟齬について解決できる代案が思いつかず、反対するまでには至りませんでした。そのようなときに知ったのが、田中巌さん(東京古田会・会長、発表当時は同会々員)の研究「多賀城碑の里程等について」(注③)でした。(つづく)
(注)
①古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂出版、1991年。後にミネルヴァ書房から復刊。
②古田先生は『真実の東北王朝』において、多賀城から「靺鞨国の西の国界」までの距離を三千里とすることに対して、「当たらずといえども、遠からず」とされている。
③田中巌「多賀城碑の里程等について」。『真実の東北王朝』ミネルヴァ書房版(2012年)に収録。