古田武彦一覧

第778話 2014/09/05

「古田武彦先生講演録集」を読む

 「古田史学の会」の友好団体「多元的古代研究会」(安藤哲朗会長)の事務局長の和田昌美さんから、同会の発足20周年記念に出版された「古田武彦先生講演録集」が送られてきました。同講演録には古田先生の三つの記念講演が収録されており、いずれも古田先生にとっても記念すべき次の講演の記録です。

「信州の古代文明と歴史学の未来」1979年9月13日、松本深志高校にて、「古田武彦と古代史を研究する会」発行の同会の冊子より再録

記念講話「岡田先生と深志」1990年、松本深志高校にて、同校発行校内誌より再録

記念講演「筑紫舞と九州王朝」2014年3月2日、アクロス福岡イベントホール、宮地嶽神社主催「筑紫舞再興三十周年記念イベント」にて

 いずれも古田先生にとっても記念すべき講演で、とてもよい出版企画となっています。なかでも1990年の「岡田先生と深志」は感慨深く拝読しました。古田先生にとって歴史研究とは何かというテーマにもふれられており、わたしも若い頃から何度も先生からお聞きした次のような言葉です。

 「歴史学の目標は私は予言にあると思います。何故かというと、結局、過去を勉強する、何のために--骨董いじりのような過去を勉強するか、言うまでもなく、人類の未来を知りたいから過去を勉強するわけです。現在という一点に立って、未来を知るためには過去を知ることによって過去から現在へ延長させると、その行く先の未来がどの方向に行くかが分ってくるわけです。その意味で歴史を学ぶ目標は、未来を知るためだと、私はこの点は一度も疑ったことはありません。」(78頁)

 「歴史学は人類の未来のための学問である」この言葉は古田先生から学んだ歴史研究の原点です。すべての古田学派や古田ファン の皆さんにも是非とも知っていただきたいと願っています。そういう意味でも、「多元的古代研究会」の20周年記念出版事業にふさわしい冊子でした。ご恵送たまわり、ありがとうございます。


第770話 2014/08/21

『古代に真実を求めて』17集が発刊

 昨日、明石書店から出来上がったばかりの『古代に真実を求めて』17集(2800円+税)が一足早く送られて来ました。古田先生の米寿記念特集号にふさわしく、表紙には古田先生の写真と「真実の歴史を語れ」というタイトルとともに次の先生の言葉が掲載されています。

 「あのユダヤ民族が全世界に四散させられた悲運の中から、数多くの人類の天才、アインシュタインたちを生み出したように、ヒロシマやナガサキ、そしてフクシマの逆境の中で、この日本列島から人類の究極の誇りとしての真実、あらゆるイデオロギーに組みせず、真実のために真実を求める人々が生まれ出ることをわたしは片時も疑ったことはない。」

 この本を手に取った全ての古田学派研究者や古田ファンの皆さんとともに、この先生の言葉を魂に刻み込んで、これからも生きていきたいと思います。
 同書には古田先生の米寿のお祝いの言葉や、先生の講演録、優れた古田学派学究の論文が収録されています。ぜひ多くの皆さんに読んでいただきたいと願っています。なお、17集は2013年度賛助会員(会費5000円)に1冊送付します。2014年度賛助会員には来春発行予定の18集を進呈します。目次は次 の通りです。

『古代に真実を求めて』第17集 目次

〔巻頭言〕会員論集・第十七集発刊に当たって 古田史学の会 代表 水野孝夫

○ I 米寿によせて
米寿に臨んで — 歴史と学問の方法 古田武彦
論理の導くところに「筑紫時代」あり 新東方史学会 会長 荻上紘一
謹賀古田先生米寿 多元的古代研究会 会長 安藤哲朗
古田先生の米寿にあたり 古田武彦と古代史を研究する会(東京古田会) 会長 藤沢 徹
青春の「古田屋先生」 古田史学の会・まつもと 北村明也
米寿のお祝い 古田史学の会・北海道 代表 今井俊圀
古田武彦先生の米寿の記念に添えて 古田史学の会・仙台 原 廣通
古田先生の米寿を心からお祝い申し上げます 古田史学の会・東海 会長 竹内 強
古田武彦先生が米寿をお迎えになられたことを衷心よりお祝い申し上げます 古田史学の会・四国 名誉会長 竹田 覚
古田武彦先生の米寿を祝う 古田史学の会・四国 会長 阿部誠一

○II 特別掲載
〔講演録〕古田史学の会・新年賀詞交換会(2013年1月12日 大阪府立大学i-siteなんば)
「邪馬壹国」の本質と史料批判 古田武彦
〔講演録〕古田史学の会・新年賀詞交換会(2014年1月11日 大阪府立大学i-siteなんば)
歴史の中の再認識 — 論理の導くところへ行こうではないか。たとえそれがいずこに至ろうとも 古田武彦

○III 研究論文
聖徳太子の伝記の中の九州年号 岡下英男
邪馬壹国の所在と魏使の行程 — 『魏志倭人伝』の里程・里数は正しかった 川西市 正木裕
奴国はどこに 中村通敏
須恵器編年と前期難波宮 — 白石太一郎氏の提起を考える 八尾市 服部静尚
天武天皇の謎 — 斉明天皇と天武天皇は果たして親子か 松山市 合田洋一
歴史概念としての「東夷」について 張莉・出野正
『赤渕神社縁起』の史料批判 京都市 古賀達也
白雉改元の宮殿 — 「賀正礼」の史料批判 古賀達也
「廣瀬」「龍田」記事について — 「灌仏会」、「盂蘭盆会」との関係において 札幌市 阿部周一

○IV 付録 会則/原稿募集要項/他
古田史学の会・会則
「古田史学の会」全国世話人・地域の会 名簿
第18集投稿募集要項
古田史学の会 会員募集
編集後記(古谷弘美)


第760話 2014/08/06

研究者、受難の時代

 昨日、理研の笹井副センター長が自殺するという痛ましい事件が、とうとう発生してしまいました。「とうとう」と記したのは、こうした事態がいずれ引き起こされるのではないかと、わたしは危惧していたからです。いったい笹井さんは死ななければならないようなことをしたのでしょうか。たかだかイギリスの商業誌(「ネイチャー」は学会誌ではありません)に論文を一つ発表しただけで、なぜあそこまで叩きに叩き、死ぬまで追いつめる必要があったのでしょう か。いつから日本社会は法治国家ではなく「集団でリンチ」する国になったのでしょうか。
 NHKは小保方さんを女子トイレまで追いかけ回し、全治二週間の傷害を負わせ、小保方さん笹井さんを特別番組(クローズアップ現代)で犯人扱いし、死ぬまでバッシングを続けたのです。この際、NHKは「日本犯罪者協会」と名称を変えるべきでしょう。
 例によってNHKの意に添ったテレビに出たがる御用学者を使い、一方的な「解説」をさせ、学問的に決着が付いていない研究(STAP細胞・現象)に対して非中立的な報道を続けました。これは明らかに放送法第4条違反です。

放送法
(国内放送等の放送番組の編集等)
第四条  放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一  公安及び善良な風俗を害しないこと。
二  政治的に公平であること。
三  報道は事実をまげないですること。
四  意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

 NHKは放送法違反の報道や番組をこれまでも何度も放送してきました。和田家文書偽作キャンペーンのときもそうでした。古田先生と安本美典氏の討論番組で、安本氏にVTRの使用や多くの時間配分を行うなど、明らかにアンフェアな番組を放送したのです。このときはさすがにNHK関係者からも非難の声があがりました。
 今回は、優秀な研究者を自殺するまで、半年間にわたり叩き続けたのです。小保方さんにしても発表した論文中の80枚近くの写真うち、3枚に悪意のない過誤があったにすぎず、しかも正しい写真は存在し、結論にも影響しないというものでした。それを「研究不正」などと称してバッシングを続け、女子トイレまで追いかけ回しました。その論文を指導した笹井さんを死ぬまで追いつめ続けました。
 日本社会は放送局(特にNHK)や新聞社(特に毎日新聞)、週刊誌、御用評論家らが白昼堂々と何も犯罪を犯していない個人を「集団でリンチ」する社会になってしまいました。研究者受難の国、受難の時代です。安倍総理の言う「法による支配」はウソだったのでしょうか。「技術立国」など今後は望むべくもない でしょう。


第745話 2014/07/13

復刻『古代は輝いていた III』

 ミネルヴァ書房より古田先生の『古代は輝いていた III 』が復刻されました。これで同シリーズ全三巻の復刻が完結しました。同書は九州王朝の輝ける時代と滅亡の時代、6~7世紀が対象です。わたしの研究テーマ の一つである「九州年号」の時代ですので、今回読み直してみて、古田先生の研究の深さと広さを再認識でき、とても触発されました。
 7世紀末には大和朝廷との王朝交代の時期を迎えますので、九州王朝研究にとってもスリリングなテーマが続出します。また、第三部にある「出現した出雲の金石文」で取り上げられた岡田山1号墳出土の鉄刀銘文「各田卩臣」(額田部臣)の「臣」に注目された論稿は、列島内に実在した多元的王朝(九州王朝、出雲王朝、関東王朝、近畿天皇家)や「臣」の痕跡を改めて明確にされたものです。
 九州王朝の輝ける天子、多利思北孤の活躍など同書は九州王朝史研究にとって最も重要な一冊です。皆さんに強くお勧めします。


第744話 2014/07/13

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(7)

 この「邪馬台国」畿内説は学説に非ずシリーズも一応今回で最後になりますが、『三国志』倭人伝に記された女王国(邪馬壹国)の所在地を考える上で、倭国の「文字文化」という視点を紹介したいと思います。
 倭人伝には次のような記事が見え、この時代既に倭国は文字による外交や政治を行っていたことがうかがえます。

 「文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ」
 「詔書して倭の女王に報じていわく、親魏倭王卑弥呼に制詔す。」
 「今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し」
 「銀印青綬を仮し」
 「詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔をもたらし」
 「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す。」
 「因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りてこれを告喩す。」
 「檄を以て壹与を告喩す。」

 以上のように倭人伝には繰り返し中国から「詔・詔書」が出され、「印綬」が下賜されたことが記され、それに対して倭国か らは「上表」文が出されていることがわかります。従って、弥生時代の倭国は詔書や印に記された文字を理解し、上表文を書くこともできたのです。おそらく日本列島内で最も早く文字(漢字)を受容し、外交・政治に利用していたことを疑えません。従って、日本列島内で弥生時代の遺跡や遺物から最も「文字」の痕跡 が出現する地域が女王国(邪馬壹国)の最有力候補と考えるのが、理性的・学問的態度であり、学問的仮説「学説」に値します。そうした地域はどこでしょう か。やはり、北部九州・糸島博多湾岸(筑前中域)なのです。
 筑前中域には次のような「文字」受容の痕跡である遺物が出土しています。

 志賀島の金印「漢委奴国王」(57年)
 室見川の銘版「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」(125年)
 井原・平原出土の銘文を持つ漢式鏡多数

 これらに代表されるように、日本列島内の弥生遺跡中、最も濃厚な「文字」の痕跡を有すのは糸島博多湾岸(筑前中域)なのです。この地域を邪馬壹国に比定せずに、他のどこに文字による外交・政治を行った中心王国があったというのでしょうか。
 最後に、「邪馬台国」畿内説論者をはじめとする筑前中域説以外の考古学者へ発せられた古田先生の次の一文を紹介して、本シリーズを締めくくります。

 あの筑前中域の出土物、その質量ともの豊富さ、多様さは、日本列島の全弥生遺跡中、空前絶後だ。そして倭人伝に記述された「もの」と驚くほどピッタリ一致して齟齬をもたなかったのである。
  (中略)
 そうすればわたしは、その“信念の人”の前に、静かに次の言葉を呈しよう。“あなたのは、考古学という科学ではない。考古学という「神学」にすぎぬ”と。
 (古田武彦『ここに古代王朝ありき』朝日新聞社、86頁)


第736話 2014/06/28

若き親鸞を失ったであろう

 西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の呼びかけで高松市在住の古田史学の会・会員による月例会が企画されているとのことで、先日、四国出張のおり当地の会員さんにお会いし、夕食をご一緒させていただきました。
 そのときに「古田史学の会」や古田学派からの一元史観への厳しい批判や態度などが話題にのぼりました。わたしは、古田史学を学ぶ覚悟として、次のエピ ソードを紹介しました。昭和薬科大学諏訪校舎で開催された「邪馬台国」徹底論争シンポジウムでのことで、司会をされていた山田宗睦さんから次のような発言がありました。

 「古田さんが孤立している一つの原因は、論争的言辞の過剰にある。私はそう見ています。」

 山田さんは古田先生のことを思っての発言でしたが、それに対して古田先生は次のように答えられたのです。

 「山田さんの前では面はゆいんですが、ソクラテスが周辺から注目されるわけですね。『あなたは露骨に刺激的なことを言い過ぎる』と。だから憎まれて死刑になりそうになったのだと。もっとうまくやりなさい、と。ソクラテスは、いや、私はもう老人だと。こんな死を前にした老人が、なんで死を恐れる必要があろうか、と言って拒絶するわけですね。そして見事に死刑になって死んでいくわけです。(中略)
 同じ例は日本でもあります。法然が晩年に、門弟の中の長老から諫められるわけです。『あなたは専修念仏ということを言って、朝廷や貴族から憎まれる。露骨に言い過ぎる。もっと表面は旧仏教なみの穏やかな、模糊としたやり方にしておいて、内々で専修念仏を我々だけでやるようにしましょう。そうしてほしい』と。法然のためを思って言うんです。すると、いつもは穏やかな法然が断乎、その時はノウ、と拒絶するわけです。それはできないと。たとえ首を斬られても、 専修念仏をみんなの前で今まで通り言い続けます、と言うんですね。おそらくあの時、長老はじめ弟子たちは辟易したと思うんです。せっかく法然先生のことを思って私たち言ったのに、しょうもない、やっぱり性格というものは直らないなあと。
 しかし、私は思うんですが、あそこで、もし法然が長老の意見を取り入れて、穏健、ほのめかしの法然になっていたら、親鸞を失ったと思います。若き親鸞は去って行ったと思います。私はあの法然が正しかったと思っているわけです。」(『「邪馬台国」徹底論争』第2巻(東方史学会/古田武彦編。新泉社、 1992年)104頁「ソクラテスと法然の場合」に収録)

 このときの古田先生の発言を、わたしは運営協力者の一人(市民の古代研究会・事務局長)として、感動に震えながら聞いていました。古田先生の発言は表面的には山田さんへの返答だったのですが、その実、会場に来ていた多くの古田学派への強烈なメッセージだったのです。「若き『親鸞』よ、出よ」というわたしたちへの呼びかけだったと私は受け止めたのです。このとき30歳代半ばだったわたしは、古田先生を支持し古田史学に半生を捧げる覚悟を決めました。 しかし、ちようどその頃勃発した和田家文書偽作キャンペーンと古田バッシングの嵐により、会場に来ていた「兄弟子」たちの少なくない人々は、その後、古田先生のもとを去りました。
 「若き親鸞を失ったであろう」という先生の言葉は、今でも昨日のことのようにはっきりと覚えています。あのときから四半世紀がたちましたが、この「古田史学を学ぶ覚悟」は、わたしたち「古田史学の会」に今も脈打っているのです。


第735話 2014/06/27

「広開土王碑」改竄論争の終焉

 ときおり、汲古書院から古典研究会編『汲古』が送られてくるのですが、先日いただいた第65号に掲載されていた武田幸男氏「広開土王碑『多胡碑記念館本』の調査報告」を拝読しました。
 同論稿は広開土王碑(高句麗の好太王碑)の各種拓本間の差異から、石灰塗布により拓本の字形がどのように変遷や誤りが発生したのかについて論究されたもので、同碑の実体を知る上でも大変興味深いものでした。しかし、わたしが感慨深く思ったのは、石灰塗布を紹介されながら、それを根拠とした同碑「改竄説」 について全く触れられていないことでした。
 同碑拓本に記された「倭」の字を日本陸軍の酒勾大尉による改竄とする李進煕氏の「改竄説」が1972年の発表以来、学界を席巻したのですが、そのことについて武田氏の論稿では全く触れられていないことに、とうとう好太王碑改竄説や改竄論争は終焉したのだなと、改めて思いました。詳しくは古田先生の『失わ れた九州王朝』を読んでいただきたいのですが、李さんの改竄説に真っ向から反対したのが古田先生だったのです。今ではとても考えられないのですが、古田先 生は東京大学の史学会の要請により、改竄説が学問的に成立しないことを講演されのです。この古田先生の研究により、改竄論争は終止符を打たれ、「改竄」は なかったとする古田説は一元史観の学界においても高く評価されているのです。
 たとえば、昭和薬科大学諏訪校舎で開催された「邪馬台国」徹底論争のシンポジウムにおいて、田中卓さんから次のような発言がありましたのでご紹介します。

 「それからこの機会に、私の感心したことをご披露しておきます。それはもうだいぶ前の東大の史学会で古田さんが発表された時のことです。内容は高句麗好太王の碑についてでした。
 その当時、朝鮮の学者が、あれは偽物だ、日本側の塗布作戦で文字を塗り変えてしまったんだということを盛んに宣伝していたんです。その当時、私はまだその実物も見てないし、それに反論するだけの力がなかったんでだまっていましたが、その頃の学会においては、朝鮮の学者の気色ばんだと言いますか、反対でもしたらいっぺんに噛みつかれるような、そういう空気だったんです。そこでみんな、朝鮮の学者が変なことを言うなと思ってもだまってた、それが一般の空気だった。その時に古田さんが、東大の史学会の席上で、あれが偽物だというのはまちがっていると言って、それこそ大音声で批判され、それは非常な迫力でし た。それがあってから後、朝鮮の学者もあんまり悪口を言わなくなった。これは、私は古田さんの功績として高く評価しております。そのことをご紹介して終わ ります。」

 この田中卓氏の発言は『「邪馬台国」徹底論争』第2巻(東方史学会/古田武彦編。新泉社、1992年)241頁「好太王碑論争と古田氏」に収録されています。
 やがては邪馬壹国説や九州王朝説も同様に高く評価される日が来ることをわたしは疑うことができません。その日が一日でも早く来るよう、わたしたち「古田史学の会」の使命は重要です。


第725話 2014/06/12

古田先生から「中国人へのメッセージ」

 すでにお知らせしていましたが、「古田史学の会」ホームページ「新古代学の扉」の中国語版HPに古田先生からのメッセージを中国語で掲載する企画 を進めていました。一昨日、古田先生からその原稿が送られてきました。お願いしてからわずか2~3日で書き上げていただき、先生の熱意に改めて驚かされま した。
 「古田史学の会」編集部(古賀達也さん)から、この表題をお聞きしたとき、即刻「諾(イエス)」のお答えをした。まさに、語りたかったテーマだったからである。
 中国の人々に対する、わたしの思いは、遠く、かつ深い。いつも連綿とわたしの心の奥底に低音として流れているのだ。

 という書き出しで始まる、古田先生の「中国人へのメッセージ」は400字詰めで7.5枚の原稿です。中国語版HPの冒頭に掲載し、同時に、日本語原文は日本語版HPに掲載する予定です。中国語訳に時間が必要ですので、楽しみにしてお待ちください。


第724話 2014/06/11

「歴史秘話ヒストリア」の中の古田先生

 「洛中洛外日記」720話や721話において、NHK「歴史秘話ヒストリア」での「邪馬台国」纒向遷都説やNHKの放送姿勢を批判しましたが、同番組に古田先生がちらっと登場されたことに気づかれたでしょうか。
 番組冒頭で「邪馬台国」所在地論争に九州説と機内説があると紹介し、それぞれの論者と思われる人物写真が瞬間でしたが一斉に掲載されました。その九州説論者と思われる写真の一枚に古田先生そっくりの写真があったのです。しかし短時間でしたのでしっかりと確認できませんでした。出張先から帰宅したら、水野代表から同番組の再放送が10日の午前0時代にあるとメールが来ていましたので、水野さんらに電話で古田先生の写真が出たように思うが、間違いないか確認しました。残念ながらどなたも気づかれていなかったので、自宅で再放送をビデオ収録し、今朝確認したところ、やはり古田先生でした。古田先生と面識がある 妻にも確認してもらったところ、間違いないとのこと。見るところ、先生50歳頃の写真と思われました。他にも森浩一さんや松本清張さんの写真も見え、いずれも若い頃の写真でしたから、NHKの意図的な写真選択と思われました。
 ということは同番組を制作したNHKスタッフは古田先生や古田説を知っていたことは確かです。とすれば、倭人伝には「邪馬台国」などという国名記事はな く、原文は「邪馬壹国」(やまいちこく)であることも知っているはずです。従って、NHKは知っていながら史料事実とは異なる虚偽説に基づいて番組を制作し放送したことは明白です。これは明らかに「放送法」第4条に違反しています。同4条は次の通りです。

放送法
(国内放送等の放送番組の編集等)
第四条  放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一  公安及び善良な風俗を害しないこと。
二  政治的に公平であること。
三  報道は事実をまげないですること。
四  意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

 今回のNHKの「歴史秘話ヒストリア」は第四条三項と四項に違反しています。『三国志』倭人伝には「邪馬壹国」(やまいちこく)とある史料事実をまげて、「邪馬台国」と表記したり「ヤマタイコク」とナレーションしました。これは三項違反です。
 古田先生の写真まで掲載しながら、原文通り「邪馬壹国」が正しいとする有名な古田説があるにもかかわらず、「なかった」ことにして番組では一切触れられませんでした。これは四項に違反しています。
 それにしてもNHKは御用学者(福島原発は安全に停止説。健康に影響ない説)や虚偽説(ヤマタイコク説)が大好きな放送局のようです。みなさんもこれからNHKの番組や報道ニュースを見るときは、放送法第四条を意識して見られてはいかがでしょうか。


第716話 2014/05/30

吉野ヶ里遺跡の「ひみか」

 「洛中洛外日記」698話「梅花香る邪馬壹国の旅」で、古賀市立歴史資料館では「邪馬台国」の「台」の字が古田説に従って「壹」の字に貼り替えて展示されていることを紹介しましたが、合田洋一さん(古田史学の会・四国、事務局長)から再び「朗報」が届きました。
 「古田史学の会・四国」会員の井上在身(のぶみ)さん(高松市)が、3月に佐賀県吉野ヶ里遺跡を訪問されたとき、遺跡のマスコットキャラクターの絵が各所に掲示されており、その名前が「ひみか」と表記されていたとのことなのです。送っていただいた写真を見ても、はっきりと「ひみか」「HIMIKA」と表 記されています。たとえばJR「吉野ヶ里公園駅」への大きな案内板にも、古代人の衣装を着た「マスコットキャラクター ひみか」と説明された手を振る男の 子の絵が描かれています。公園内の各所にも同様のマスコットキャラクターの絵が描かれており、「ひみか HIMIKA」とあります。
 『三国志』倭人伝に記された倭国の女王「卑弥呼」は「ひみこ」と訓まれてきましたが、古田先生は緻密な倭人伝研究や現地伝承(筑後国風土記逸文のミカヨリ姫説話)の分析により、「ひみか」と訓む新説を発表されました(『古代は輝いていたⅠ』1984年刊、『よみがえる卑弥呼』1992年刊)。すなわち、 吉野ヶ里遺跡では従来説の「ひみこ」ではなく、古田説の「ひみか」をマスコットの名前にふさわしいと考え、採用されていたのです。このように古田史学(九 州王朝説・邪馬壹国説・ひみか説等)が九州王朝の故地では確実に公の場でも浸透しているのです。ちなみに井上さんが撮られた写真によれば、吉野ヶ里遺跡の 解説掲示板には四カ国語(日本語・英語・中国語・韓国語)が使用されており、マスコットキャラクターを通じて世界へ「ひみか HIMIKA」が紹介されて いることがわかります。
 日本を代表する弥生時代最大規模の遺跡公園「吉野ヶ里」のマスコットキャラクターの名前に古田説「ひみか」が採用されたことについて、その経緯をインターネットで調べてみました。「吉野ヶ里歴史公園」のHPによりますと、マスコットの命名にあたり、一般公募が行われ、その中から「ひみか」が採用された とのことです。命名は平成10年(1998)に行われたとありますから、古田先生による「ひみか」説の発表以後です。説明では吉野ヶ里遺跡がある3町村 (東背振村・三田川町・神崎町。いずれも当時の地名)の最初の字をとってネーミングしたとのこと。偶然の一致とはいえ、「ひみか」の名称で応募した人の中 には、おそらく古田説の「ひみか」をご存じだった方もおられたのではないかと思います。
 吉野ヶ里遺跡のような「施設」は東京ディズニーランドなどのようにアトラクションや大型イベントを常時開催できませんし、その施設性格から修学旅行客や青少年の見学者、そして歴史好きの高齢者が主たるターゲット顧客となります。従って、いずれもリピーターにはなりにくく、おそらく1回きりの顧客が大半でしょう。これでは開園当初は物珍しさも手伝って、一定の集客が期待できますが、結局、時間とともに来園者も減少を続け、赤字運営に転落し、例外なく公的資 金(税金)の投入ということに落ち着きます。まともな経営者であれば、少なくともそのようなシナリオを想定し、事前に対策を考えます。
 そこで集客力アップのための様々なアイデアが「吉野ヶ里歴史公園」でも検討されたはずです。当然のこととして「吉野ヶ里歴史公園」もプロのマーケターが検討を重ねたことでしょう。そして手っ取り早い方法として、マスコットキャラクターを作り、関連グッズを販売し、「ゆるキャラ」としてデビューさせることぐらいは、安易ではありますが低コストで比較的効果的な対策として実施するでしょう。そして、吉野ヶ里遺跡にふさわしい古代人のマスコット、しかも「倭人 伝」で有名な「卑弥呼」などを模したキャラクターを造るというアイデアはすぐに思いついたはずです。
 次いで、そのマスコットのネーミングを行いますが、そこで重要なのが「商標権」などを侵害しないようにすることです。キャラクターグッズ販売も当然想定されますから、このネーミングは極めて重要です。恐らく、当初は「ひみこ」が一案として俎上に上がったとは思いますが、ご存じのように「ひみこ」はあまりにも有名な名前ですから、日本各地にある「邪馬台国」関連施設のお土産などで「商標権」が既に成立している可能性があります。少なくとも、様々な法的制約を受けるリスクを避けられないでしょう。他地域との差別化も難しそうです。
 こうした問題をも想定して「吉野ヶ里歴史公園」の担当者は公募による多くの候補の中から「ひみか」を採用することにしたはずです。この名称「ひみか」は 商標権などの問題をクリアしただけでなく、現在の女の子の名前に多用されている「きらきらネーム」の「○○カ」「☆☆ナ」にも対応し、「△△コ」たとえば 「ヒミコ」や「タケヒコ」よりも現代風です。主要ターゲット顧客である子供たちやそのお母さんたちにも受けがいいと思われます。
 ところが次に問題となるのが、結果として古田説「ひみか」と同じ名称を採用することへの抵抗や懸念が、今度は歴史学関係者(学芸員や学者)から出された はずです。少なくとも真剣に検討されたことをわたしは疑えません。古田説(邪馬壹国説・九州王朝説)を無視すること、「なかった」ことにするのは古代史学 界の暗黙のルールですから、一元史観の研究者にとっては自分が古田説支持者と見られかねない名称「ひみか」に賛成することには相当の躊躇があったはずで す。
 しかし、現実には「ひみか」が採用されたことから、そうした抵抗や懸念を押し切って決めた事情があったものと推測します。ただ、よくある手法として「一 般公募」の形式をとって、「古田説採用」への批判をかわすというのもリスクヘッジになったでしょう。また、「ひみか」と命名されたマスコットキャラクター は「男の子」ですから、女王(女性)の卑弥呼(ひみか)とは直接関係ない、という言い逃れもできそうです。ちなみに「女の子(妹)」の名前は「やよい」 ちゃんとのことです。ビジネス的にも「学閥」的にも、よく練られたネーミングだと思います。
 佐賀県や「吉野ヶ里歴史公園」の関係者にお会いする機会があれば、ネーミングの経緯などについてうかがってみたいものです。そして何よりも、わたしも久しぶりに「吉野ヶ里公園」に行ってみたいと思いました。吉野ヶ里遺跡にはわ
たしは三十代の頃、古田先生と訪れて以来行っていません。当時はまだ発掘中でしたが、古田先生の来訪を知った当地の学芸員の方々から歓迎され、発掘現場のすぐ側まで案内していただきました。当時から、古代史学界よりも考古学界の方が、古田先生や古田説に好意的でした。吉本隆明さんも「わたしが知っている若手の考古学者の半分は古田説支持者です」と言っておられたそうですから、より 「理系」に近い考古学者の方が古田説を正しく評価できる人が多いのでしょうね。


第713話 2014/05/24

古田武彦『古代は輝いていたII』復刊

 「洛中洛外日記」693話で紹介しました『古代は輝いていた I』に続いて『古代は輝いていたII』がミネルヴァ書房より復刊されました。同書は古田先生による九州王朝通史全3冊の2冊目ですが、副題に「日本列島の 大王たち」とあるように、古田史学の中でも「多元史観」を理解する上で重要な著作です。
 九州王朝以外にも銅鐸国家、関東王朝、近畿天皇家などが著述されており、古代日本列島における多元的国家の成立が解説されています。九州王朝は「倭の五王(『宋書』倭国伝)」時代を中心にその歴史が解説されています。
 巻末には松本郁子さんによる「第10回古代史セミナー~古田武彦先生を囲んで~日本古代史新考 自由自在(その6)」(2013年11月)の「実施報告」が収録されています。気鋭の研究者である松本さんならではの見事な解説です。セミナーの様子や古田先生の直近の研究動向などを知ることができます。ご一読をお勧めします。


第698話 2014/04/23

「梅花香る邪馬壹国の旅」

 松浦秀人さん(古田史学の会・四国)から素敵な写真付きの旅行記が送られてきました。「古田史学の会・四国」福岡旅行(2/28~3/03)の記録です。本ホームページに「史跡探訪と講演会参加 梅花香る邪馬壹国の旅」として掲載していますので、是非ご覧ください。

 古田先生の福岡講演や宮地嶽神社神官による筑紫舞を中心に、水城・大宰府政庁跡・太宰府天満宮・観世音寺・宮地嶽神社や九州国立博物館、九州歴史資料館、古賀市立歴史資料館訪問の写真などが掲載されています。中でも、古賀市立歴史資料館で、「邪馬台国」の「台」の字が「壹」の字に貼り替えられた展示を「発見」されたことは感動的でした。同資料館の判断で、『三国志』原文を改訂した従来説(邪馬台国)を否定し、『三国志』原文の「邪馬壹国」が正しいとする古田説を採用した痕跡だからです。さすがは「九州王朝」のお膝元だけあって、古田史学・多元史観は公的な資料館でも着々と受け入れられていることが わかります。

 古田史学・多元史観の夜明けは、わたしたち古田学派が思っているよりも早いのかもしれません。全国の古田ファンのみなさん、「古田史学の会」会員のみなさん、古田学派研究者のみなさん、志と力をあわせて前進しましょう。わたしたち「古田史学の会」はその先頭に立つ決意です。