関西例会一覧

第297話 2010/12/28

倭人伝韓国内陸行の再検討

 18日に行われた関西例会において野田利郎さんから、倭人伝の韓国内水行陸行の出発地である帯方郡を従来説のソウル付 近ではなく、ソウルと平壌の中間付近に位置する沙里院(しゃりいん)とする説を発表されました。その根拠の一つとして、実測値としての距離が倭人伝に記された七千里となることを指摘されまし た。
 わたしとしては古田説のソウル付近で妥当と考えますが、野田さんが指摘された問題点は貴重な論点と思われ、今後の論争・検討の深化が期待されます。
 この他、竹村さんからの、韓国ドラマでは「奴」を「の」と発音しているという報告を興味深くお聞きしました。現代韓国語の漢字音は、いわゆる「日本漢音」と「日本呉音」のどちらに近いのか興味を覚えました。ご存じの方がおられれば御教示下さい。
   12月例会の発表は次の通りでした。

〔古田史学の会・12月度関西例会の内容〕
○研究発表
(1) 「箱物」「心物」(豊中市・木村賢司)
(2) 年の瀬・体験雑感(豊中市・木村賢司)
(3) 中国曲阜市に留学中の会員(青木氏)からの報告 代理報告・大下隆司
(4) 倭人伝に残された謎(姫路市・野田利郎)
(5) 韓ドラに嵌って(木津川市・竹村順弘)
(6) 河内戦争2(相模原市・冨川ケイ子)
(7) 九州年号資料は面白い(その1)−峯相紀の謎−(川西市・正木裕)
(8) 「斉明」とは誰か?(川西市・正木裕)
○水野代表報告
    古田氏近況・会務報告・京都東山の伊勢神宮(日向大神宮)・他(奈良市・水野孝夫)


第293話 2010/11/29

例会での新たな取り組み

 11月20日の関西例会では原さんが初めて発表されました。葛城の古墳や遺跡などについて詳しく説明していただき、その方面に疎いわたしには勉強になりま した。岡下さんからは聖徳太子と善光寺如来のものとされる「消息往来」についての各種史料の紹介がありました。恐らくは九州王朝の利歌弥多弗利と善光寺と の往復書簡と思われる「消息往来」の更なる研究が期待されます。
 関西例会初の取り組みとして、それまで発表された説の当否を徹底的に検証するという質疑応答が西村さんの発案により行われました。その第一回として、提案者の西村さんの仮説「古事記序文に文武が記されている」の再検証が行われました。活発な討議がありましたが、全員一致の「結論」には当然ではありますが至りませんでした。わたしの個人的な感想としては、有力な仮説だが絶対そうだと言い切るには不安、という段階です。次回の再検証の対象となるのは、わたしの 「前期難波宮九州王朝副都説」だそうです。皆さん、お手柔らかに。

11月例会の発表は次の通りでした。

〔古田史学の会・11月度関西例会の内容〕
○研究発表
(1) 「忘れられた真実」を読んで(豊中市・木村賢司)
(2) 「残る、残す」(豊中市・木村賢司)
(3) 「風早歴史文化研究会」の旅(豊中市・木村賢司)

(4) 葛城(奈良市・原幸子)
葛城山麓地域の古墳について/二上山麓の石光寺・当麻寺について

(5) 九州王朝と近畿天皇家の名分(試論)
    −古賀氏の「王朝習合」説を検証する−(川西市・正木裕)
 白村江後、高宗の封禅の儀に列した倭国「酋長」は筑紫君薩夜麻以外に無い。従って九州王朝は高宗により承認された政権であり、近畿天皇家が七〇三年則天武后に「日本国」として承認されるまで、唐との「名分上」の正当性は九州王朝にあった。
『旧唐書』の「倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為す」とは、武后に承認を求めるに際し、「近畿天皇家(日本国)は既に承認済みの九州王 朝(倭国)と同じ」と装う為の主張ではないか。これは古賀氏のいう、「大和朝廷と邪馬壹国を同じものとする『習合』思想」の現れと言える。
 七〇四年近畿天皇家が九州王朝の一部を吸収した形で正当王朝となり「慶雲」と改元。「大長」を建てた九州王朝の抵抗勢力を武力討伐。『書紀』編纂時、多利思北孤や利を聖徳太子に見立てるなど「王朝習合」思想により、九州王朝の歴史を近畿天皇家の歴史に染め直したと考える。
(古賀氏とは、用語として教理的概念の「習合」より、政治的概念の「混斉(こんせい=まろかしひとしめる)」が相応しいのではないかと協議した)

(6) 「消息往来」の伝承(京都市・岡下英男)
2.いろいろの史料における消息往来/3.聖徳太子の伝記にはどのように書かれているか/4.誰が何のために、いつ頃作ったか/5.『法隆寺の謎と秘話』について

(7) 白鳳南海地震と聖武の彷徨(木津川市・竹村順弘)
(8) 新羅の地震と神功皇后(木津川市・竹村順弘)
(9) 中国正史の地震記事(木津川市・竹村順弘)
(10)古事記序文−西村説の再検証−質疑応答(向日市・西村秀己)
○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・藤原不比等碑・奈良市鴻ノ池は八代海の模型・他(奈良市・水野孝夫)


第286話 2010/10/17

卑弥呼は桜井にいたか?

  昨日の関西例会では久しぶりにビデオ鑑賞を行いました。弥生時代の宮殿跡が出土した纏向遺跡の発掘調査担当者である橋本輝彦氏の講演ビデオで、演題は「卑弥呼は桜井にいたか?」(本年9月25日「先人に学ぶ人間学塾」主催)。木村賢司さんが撮影されたものです。
 纏向遺跡が「邪馬台国」ではないことは、第237、238,239話などで指摘しましたし、古田学派内では「邪馬台国」論争はとっくに終わっています。しかし、畿内説論者の言い分も知っておいたほうが良いという木村さんの配慮により、ビデオ鑑賞することになったものです。
 そして、木村さんの意見は正解でした。邪馬台国畿内説の非論理性というものが良く理解できたからです。中でも、纏向遺跡から出土した小規模鍛冶遺構の痕跡とされる鉄くず(カナクソ)の説明には驚きました。橋本氏は畿内と北部九州の勢力は当時友好的であった証拠として説明されたのです。すなわち、武器や農具の材料となる製鉄技術が先進地である北部九州から纏向にもたらされたのは、両者が友好的であった証拠とされたのです。
 北部九州の勢力と纏向遺跡にいた勢力が友好的だったとするのは大賛成ですが、それならば当時の倭国の代表者であった「邪馬台国」(正しくは邪馬壹国)は 製鉄の先進地である北部九州にあったとするのが、学問的論理性というものではないでしょうか。同講演会では最後に参加者からの質問がありました。もしわたしが参加していたら、必ずこの質問をしたと思いますが、「邪馬台国」畿内説の橋本輝彦氏がどう返答されるのか、興味津々です。なお、ビデオで見た橋本氏のお人柄は誠実そうな方でした。だからこそ、正直に製鉄の先進地は北部九州と言われたのでしょう。   
 10月度関西例会の発表テーマは次の通りでした。

〔古田史学の会・10月度関西例会の内容〕
○研究発表
(1) 「尊卑・長幼」「近時中国寸評」(豊中市・木村賢司)

(2) ビデオ鑑賞「卑弥呼は桜井にいたか?」橋本輝彦氏講演(撮影・木村賢司)

(3) 磐井の乱の再検討(川西市・正木裕)
 『書紀』継体紀で、古田氏が九州王朝の天子「磐井」だとされる「委意斯移麻岐弥」(『書紀』では「穂積臣押山」)は、任那の四国や伴跛の己文*、加羅の多沙津を百済に割譲する等「親百済」で、これは当時の倭国の立場と一致する。逆に「近江毛臣」は南加羅等の新羅への割譲始め一貫して「親新羅」だ。
 従って毛臣が新羅討伐軍の大将とあるのは不自然だし、新羅から「磐井に」倭国への謀反要請があったとするのも、「磐井に」ではなく「毛臣に」であり、毛臣は新羅を討伐する側ではなく、新羅の要請で謀反を起し討伐される側と考えるのが自然だ。
 また毛臣が帰還の勅命に叛いたため、阿利斯等が謀反を企図し戦となった記事も、本来は毛臣の謀反・叛乱であり、これが「遂に戦ひて受けず」という磐井の叛乱記事として『書紀』に盗用されたと見るべき事を指摘した。
文* は、三水偏に文。JIS第3水準ユニコード6C76

(4) 大和川の水利(木津川市・竹村順弘)
(5) 後漢書・三国志の日付干支(木津川市・竹村順弘)

(6) 『日本書紀』と《『須田鏡』における男弟王の年紀》から割り出される真実(たつの市・永井正範)

○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・藤原不比等(顕彰)碑・神武東征とは南九州の話・他(奈良市・水野孝夫)


第282話 2010/09/19

孝徳紀「東国国司詔」の新展開

 関西例会では大化改新詔の研究が進められていますが、その中心的研究者の正木さんが今回も新たな仮説を発表されました。それは、孝徳紀の東国国司詔の中に文武天皇の即位の宣命が挿入されているというものです。ちょっと恐い仮説ですがなかなか説得力のある論証が試みられました。会報での発表が期待されます。 
 竹村さんからは今回も多数の発表がなされましたが、中でも日本書紀訓註の一覧データは示唆的でした。日本書紀には難解な字などに訓註(読み)が施されて いますが、万葉仮名が整理統一される以前の古い史料に基づいたと思われる神代紀や神武紀に特に訓註が多く施されています。ところが、皇極紀・孝徳紀・斉明紀・天武紀にも他の天皇紀に比べて訓註が頻出しているのです。他方、天智紀は訓註がゼロです。
 この現象は日本書紀編纂時の原史料の性格の違いによるものと思われますが、この現象が竹村さんの一覧データにより明白となりました。このような史料のデータ化は文献史学の地道な基礎研究に属すると思いますが、こうしたデータが例会に報告されることは研究者として大変ありがたいことです。
 9月度関西例会の発表テーマは次の通りです。

〔古田史学の会・9月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 武烈を誰が殺(や)った(豊中市・木村賢司)

2). 菩薩は全て女性(豊中市・木村賢司)

3). 「評」の淵源についての若干の考察(川西市・正木裕)
「評」の淵源は、前漢代の「廷尉評(平)」にあり、後漢の光武帝は詔獄(警察・裁判)を所掌させ、魏・晋以後もその職は強化された。一方、「都督」の淵 源も光武帝代の督軍御史(督軍制)にあり、魏の曹丕は地方諸州の軍政を所掌する都督を初めて常設し、数万〜十数万の軍の指揮を執らせた。 この様に、金印を授かった後漢から、倭国が臣従した魏・晋朝にかけ都督と評は並存しており、そうした状況の下、倭国が都督—評督制を創設したことは想像に 難くない。

4). 西村干支計算表を使って、日本書紀の干支の比較検討(木津川市・竹村順弘)
1)朔日干支の記事分布とその概要 2)干支記事の偏在有無の検証 3)例外記事の考察 4)結語

5). 日本書紀訓註の謎(木津川市・竹村順弘)

6). こなべ古墳の被葬者(木津川市・竹村順弘)

7). 新羅本紀「阿麻来服」記事と「倭皇天智天皇」(大阪市・西井健一郎)

8). 東国国司詔の実年代(川西市・正木裕)
(1)『書紀』大化元年(六四五)八月の「東国国司招集の詔」の発せられた実年は、九州年号大化元年(六九五)であり、近畿天皇家が、九州王朝により任命されていた国宰の権限を剥奪・縮小し、律令施行に向け新職務を課す主旨。
(2)大化二年(六四六)三月の「東国国司の賞罰詔」は、文武二年・九州年号大化四年(六九八)に、近畿天皇家が、新政権への忠誠度や新職務の執行状況により、国宰を考査し処断・賞罰を行う旨の表明。
(3) 賞罰詔中に記す「去年八月」の詔とは、文武元年八月(六九七)の文武即位の宣命を指し、文武への忠誠と、国法遵守を命じたもので、これを基に賞罰が行われたと考えられる。

9). 三国史記と日本書紀の二倍年暦(木津川市・竹村順弘)

10). 日本第四紀地図とナラ山(木津川市・竹村順弘)

○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・牽牛子塚古墳見学会・他(奈良市水野孝夫)


第278話 2010/08/22

あおによし

 昨日はいつもの大阪駅前第2ビルではなく、大阪城や難波宮跡近くの大阪歴史博物館で関西例会が行われました。また、関西例会では初めての試みとして外部講師をお招きして特別講演もありました。
 その特別講演として、難波宮や難波京発掘責任者である高橋工氏(大阪市博物館大阪文化財研究所難波宮調査事務所長)から、「古代の難波 発掘調査の最前線」というテーマで御発表いただき、当日初めて外部発表されたという最新の発掘成果などを次々とうかがうことができました。
 更には、参加者からの質問にも丁寧にお答えいただき、本当に勉強になりました。私の前期難波宮九州王朝副都説を補強できるような内容もあり、このことは別の機会にご紹介します。
 会員の発表では、竹村さんが先月に続き、一気に5テーマを発表されました。パソコンを使用し日本書紀の膨大な干支記事データベース作成と解析を行われるなど、目をみはるものがありました。
 中でも意表を突かれたのが、有名な枕詞「あおによし」の問題提起でした。一般には奈良の都の青や赤の鮮やかな瓦の色から「青丹よし」と表現され、後に「なら」にかかる枕詞へ発展したと説明されているようですが、記紀や万葉集に奈良の都ができる以前(710年)の歌に「あおによし」という枕詞が使用され ている例を指摘されたのです。
 これらの史料事実から、「あおによし」という枕詞は奈良の都とは無関係にそれ以前に成立したと考えざるを得ません。わたしは、九州王朝下で「なら」と呼ばれたものに掛かる枕詞として「あおによし」は古くから成立していたのではないかと想像しています。それでは、その「なら」とは何かという問題が新たなテーマとして浮かび上がってきます。これからの楽しみなテーマではないでしょうか。それにしても、「常識」を覆す素晴らしい問題提起だと思いました。
 8月度関西例会の発表テーマは次の通りです。

〔古田史学の会・8月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 1300年余の洗脳・他(豊中市・木村賢司)
2). 古代歌謡「あおによし」の懐疑(木津川市・竹村順弘)
3). 日本書紀の朔日干支記事の分布(木津川市・竹村順弘)
4). 日本書紀の盗用記事挿入の遣り口(木津川市・竹村順弘)
5). ナラの音韻(木津川市・竹村順弘)
6). はるくさ木簡の用字(木津川市・竹村順弘)
7). 日本書紀年齢(向日市・西村秀己)
8). 古代大阪の難波津について(豊中市・大下隆司)
9). 『聖徳太子伝暦』の遷都予言記事(川西市・正木裕)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・『古事類苑』の古代逸年号データベース・他(奈良市水野孝夫)

○特別講演   古代の難波 発掘調査の最前線
 講師 高橋 工 氏(大阪市博物館大阪文化財研究所 難波宮調査事務所長)


第272話 2010/07/25

「竹斯國以東」の理解

 7月17日の関西例会では、偶然にも「磐井の乱」に関する発表が2件(野田さん、正木さん)、「隅田八幡人物画像鏡」に関する発表も2件(永井さん、水野さん)がありました。関西の研究者達の興味のありどころがうかがえる貴重な発表でした。

 その中でも「ハッとした」発表がありました。それは野田さんの発表で、継体紀に見える領土分割案の「筑紫以西」「長門以東」という「A以西」「B以東」 という表記の場合、その以西や以東の範囲にAやBは含まれるのかという指摘でした。
 従来は含まれると理解していましたし、継体紀のこの部分は文脈からも含まれると理解する他ありません。他方、『隋書』イ妥国伝にある「竹斯國より以東、 皆イ妥に附庸す」の場合も、この以東に竹斯國が含まれると読まざるを得ないのですが、古田説ではイ妥王の都は竹斯國にあるとされていますから、都がある竹斯国がイ妥国に附庸されていることになります。   
 そうすると、「附庸」の意味が問題となります。仮に「支配」という意味で有れば、竹斯国より西にある都斯麻國(対馬)や一支國(壱岐)はイ妥國の範囲外となってしまいます。野田さんが指摘されたこれらの問題をどのように考えるべきか思案中です

 7月度関西例会の発表テーマは次の通りです。

〔古田史学の会・7月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 禅譲・放伐シンポジウムを聞いて・他(豊中市・木村賢司)

2). 年表づくりで気づいたこと(交野市・不二井伸平)

3). 瓶原と恭仁京(木津川市・竹村順弘)

4). 古代歌謡の年代分布(木津川市・竹村順弘)

5). 恭仁京と聖武天皇(木津川市・竹村順弘)

6). 古田武彦久留米大学公開講座と山口訪問(豊中市・大下隆司)

7). 「隅田八幡人物画像鏡」銘文の解釈とその意味(たつの市・永井正範)

8). 「磐井の乱」と「『隋書』のイ妥国」の考察(姫路市・野田利郎)

9). 磐井乱の虚構(川西市・正木裕)
 『書紀』継体二十一年「磐井の乱」記事中の磐井の非行への非難に具体性は無く、逆に磐井に遮ぎられたとされる近江毛野臣には、『書紀』に様々な非行が記され、磐井への非難根拠の殆どが あてはまる。また、磐井が六万の軍の将毛野臣を「使者」と云うのは不自然。毛野臣の、彼を半島から召還する「皇華の使=調吉士」に対する言に相応しい。以 上『書紀』に記す、磐井討伐の根拠となる非行は、毛野臣の非行をすり替えたものと考える。
 更に、磐井討伐に派遣された物部麁鹿火が、大伴金村の祖先を讃えるのは不自然。『古事記』が「金村と麁鹿火の二人が派遣された」とするのが正しく、『書紀』は金村の言を麁鹿火の言に変えたと考えられる。これは本来対新羅戦で二人が半島に派遣された記事を、麁鹿火の磐井討伐譚にすり替える為の作為の一環で はないか。
 なお「近江毛野臣」は近江有縁の継体ゆかりの人物か、との考えを示した。

○水野代表報告  
 古田氏近況・会務報告・隅田八幡宮蔵画像鏡の検討・他(奈良市水野孝夫)


第269話 2010/07/09

王朝「習合」の思想

 6月20日、古田史学の会は午前中に関西例会を、午後からは「禅譲・放伐」シンポジウムと定期会員総会を開催しました。
 シンポジウムでわたしは、『日本書紀』が禅譲とも放伐ともつかない内容になっている理由について、古代日本には神神習合・人人習合・王朝習合といった異質なものを同じものと見なす「習合」思想ともいうべきものがあり、この思想(知恵)により敵対関係の融和や同化がはかられてきたのであり、『日本書紀』は この思想に基づいて、あるいは「利用」して編纂されたとする仮説を発表しました。
 たとえば、アマテラスとスサノオを兄弟関係とすることにより、先行する出雲王朝との「習合」をはかったり、神功紀に卑弥呼や壹與を「倭の女王」として 「登場」させ、いかにも大和朝廷と邪馬壹国を同じものとする「習合」が目論まれています。
 もっと凄まじい「習合」の離れ業としては、継体天皇の子孫達が編纂した『日本書紀』であるにもかかわらず、継体の祖先の伝承ではなく、継体の奥さん(仁賢の娘)の祖先の伝承を記載するということを行っています。その際の「習合」のキーポイントは「6代前は応神天皇」という「主張」です。しかし、その6代の伝承ではなく、奥さん方の伝承しか残せなかったという史料事実こそ、歴史事実はそうではないが前王朝との「習合」が必要との判断から、継体の子孫達は 『日本書紀』を編纂した証拠なのです。
  恐らく、まだわたしたちが気づかない九州王朝との「習合」の痕跡が『日本書紀』には数多く残されていると思われます。これをしっかりとした論証により見極めることが、九州王朝史復原の重要なテーマになるはずです。
 なお、関西例会・シンポジウムの発表テーマは次の通りです。

〔古田史学の会・6月度関西例会の内容〕
○研究発表
1).「石の宝殿」の運搬(豊中市・木村賢司)
2).「難波津の歌」と九州王朝(木津川市・竹村順弘)
3).難波宮と難波長柄豊碕宮(京都市・古賀達也)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・古田先生の山口県人麻呂神社調査・他(奈良市・水野孝夫)

「禅譲・放伐」シンポジウム
○西村秀己(本会全国世話人・会計)
 『日本書紀』(ヤマト朝廷)は何故九州王朝史を抹殺したのか?
○正木裕(本会会員)
 「禅譲・放伐」論争 −九州王朝から近畿天皇家への権力移行について−
○水野孝夫(古田史学の会代表)
 日本国は倭国(九州王朝)の横すべりである
○古賀達也(本会全国世話人・編集長)
 権力「習合」の思想 −王朝交代の日本思想史的考察−

 司会:不二井伸平さん(本会全国世話人)


第264話 2010/05/16

「四天王寺」瓦と「天王寺」瓦

 昨日の関西例会で、わたしは谷川清隆氏らの論文「七世紀:日本天文学のはじまり」(『科学』vol.79 No.7)と「七世紀の日本天文学」(『国立天文台報』第11巻3・4号、2008年10月)を紹介し、『日本書紀』に記されている天文現象記事についても多元史観によらなければ正確な理解はできないことを説明しました。
 また、現在の四天王寺は、元々は九州王朝が倭京二年(619年)に創建した天王寺だったとする私の仮説を裏づける四天王寺出土瓦について報告しました。それは四天王寺から「四天王寺」と「天王寺」の銘文がある瓦が出土しているというものです。この考古学的事実は四天王寺が、ある時代に天王寺と呼ばれていた物的証拠と言えます。詳細は今後調査の上発表したいと考えています。
 5月の関西例会での発表は次の通りでした。竹村さんからは、古代山城などをテーマとした四つの発表がありました。配られた資料も研究に役立つものでした。

〔古田史学の会・5月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 屋島城をちょこっと見た・他(豊中市・木村賢司)

2). 西暦年の干支算出表(交野市・不二井伸平)

3). 古田史学の未来とインターネット(東大阪市・横田幸男)

4). 古田史学の会に参加して(東大阪市・萩野秀公)

5). 「古代天文学」の近景(京都市・古賀達也)

6). 『二中歴』教到年号の「舞遊始」(川西市・正木裕)
 『二中歴』九州年号「教到」(531〜535)細注「舞遊始」は、九州王朝が同時期、新羅討伐戦に備え全国に屯倉を設置し、これを記念し「楽を作し」た事を記すもの。
  (論拠)『日本書紀』安閑2年(535)に「駿河国稚贄屯倉」始め13国27箇所の屯倉設置記事、安閑元年に「楽を作して、治の定まることを顕す」との記事がある。
 また、本居宣長『玉勝間』に「教到六年(536)駿河ノ國宇戸ノ濱に、天人あまくだりて、哥舞し」これが「東遊」の起源と記す。(本会の冨川ケイ子氏・古賀達也氏指摘)。稚贄屯倉と宇戸ノ濱(宇東)は共に静岡県吉原地区にあり、これらの記事は時期も一致し、「教到」は九州年号であるから、九州王朝は稚贄屯倉設置を記念し現地で筑紫の舞楽を奏し、これが「東遊」の起源となったと考えられる。また、謡曲「羽衣」からも「東遊」が駿河外(筑紫)から持ち込まれたとすると論じた。
(「本居宣長『玉勝間』の九州年号 ーー『年代歴』細注の比較史料」古賀達也 古田史学会報64号より)

7). 前期難波宮と高安城(木津川市・竹村順弘)
8). 紀行感想文「久米評官衙を訪ねてみて(木津川市・竹村順弘)
9). 「鬼ノ城」村上論文に関して(木津川市・竹村順弘)
10).蛇足・讃岐と播磨の古代山城(木津川市・竹村順弘)

○水野代表報告
  古田氏近況・会務報告・伊勢島風土記逸文・他(奈良市・水野孝夫)
○関西例会会計報告(豊中市・大下隆司)


第261話 2010/05/08

「禅譲・放伐」シンポジウム

 来る6月20日(日)に大阪で古田史学の会定期会員総会を開催します。総会に先だって、「禅譲・放伐」シンポジウムを開催します。これは、九州王朝から大和朝廷への権力交代が禅譲だったのか放伐だったのかという切り口で討論し、王朝交代の真相に迫ろうという取り組みです。
 ですから、ここで禅譲か放伐かの決着をつけるというよりも、パネラーや参加者をも含めた質疑応答で、歴史の真実を明らかにすることと、古田史学の学問の方法を 再確認することが重要なテーマともいえます。  このような多元史観による日本古代史のシンポジウムは他ではほとんど見ることのできない、ある意味で画期的なシンポジウムになる予感がしていますし、そうなるように是非とも成功させたいと願っています。
 パネラーは、『日本書紀』34年溯り論で近年論文を立て続けに発表されている正木裕さん(本会会員)、骨太な論証と携帯電話検索を得意とする西村秀己さん(本会全国世話人・会計)、淡海八代海説の水野孝夫さん(古田史学の会代表)、そしてわたしの四人です。
 ちなみに、西村さんは「頑固(ハード)」な禅譲説、正木さんはソフトな「どちらかと言えば」禅譲説、水野さんは九州王朝から大和朝廷へとそのまま横滑りした「王朝継続」説、わたしは「さんざん迷った挙げ句」の放伐説です。
 四者四様の個性派論客によるシンポジウムですが、どうなることやら。このやっかいなパネラーを指揮する司会は不二井伸平さん(本会全 国世話人)です。 広辞苑によると、禅譲は「中国で帝王がその位を世襲せずに有徳者に譲ること。」「天子が皇位を譲ること。」とあり、放伐は「徳を失った君主を討伐して放 逐することをいう、中国人の易姓革命観。」とされています。恐らくは、この定義の確認からシンポジウムは開始されるものと予想しています。参加者との質疑 応答の時間もありますので、是非ご参加下さい。

「禅譲・放伐」シンポジウム済み

期日 010年 6月20日(日) 午後1時(開場)〜午後4時15分、のち総会
場所 大阪市立総合生涯学習センター 大阪駅前第二ビル5階第1研修室 (JR大阪駅中央出口南五分) JR北新地駅すぐ (TEL06-6345-5000 場所の問い合わせのみにして下さい。
演題 「禅譲・放伐」シンポジウム 司会:不二井伸平 パネラー:古賀達也、西村秀己、正木裕、水野孝夫
参加費 無料

第254話 2010/04/25

 

二つの四天王寺

 現在の四天王寺は、元々は九州王朝が倭京二年(619年)に創建した天王寺だったとする私の仮説には、実は越えなければならないハードルがありました。 それは、『日本書紀』に建立が記された四天王寺は何処にあったのか、あるいは建立記事そのものが虚構だったのかという検証が必要だったのです。
 崇峻紀や推古紀に記された四天王寺建立記事が全くの虚構とは考えにくいので、わたしは本来の四天王寺が別にあったのではないかと考え、調べてみました。すると、あったのです。
 難波宮跡の東方にある森之宮神社の社伝には、もともと四天王寺は今の大阪城公園辺りに造られたとあるのです。あるいは、平安期の成立とされる『聖徳太子 伝暦』に、玉造の岸に始めて四天王寺を造ったとの記録もありました。遺跡などの詳細は不明ですが、今の大阪城付近に初めて四天王寺が造られたとの伝承や史料があったのです。
 これらの事実は、現在の四天王寺は九州王朝の天王寺であって、『日本書紀』の記す四天王寺ではないとする、私の仮説にとって偶然とは言い難い大変有利な証拠でもあるのです。このことを4月17日の関西例会で報告したのですが、この「二つの四天王寺」問題と「九州王朝の難波天王寺」仮説は、『日本書紀』の 新たな史料批判の可能性をうかがわせます。このことも、追々、述べていきたいと思います。
 なお、4月の関西例会での発表は次の通りでした。

〔古田史学の会・4月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 禅譲・放伐、他(豊中市・木村賢司)

2). 古田史学の会に参加して(東大阪市・萩野秀公)

3). 豊雲野神(大阪市・西井健一郎)
 1)豊日の国の祖神・豊雲野神 2)豊の位置の探索

4). 九州王朝と菩薩天子(川西市・正木裕)
 多利思北孤等九州王朝の天子が「菩薩天子」を自負していたと考えれば、以下の仮説が提起できる。
  1. 筑紫君薩夜麻の「薩」は菩薩思想を表す彼の中国風一字名である。なお「讃・珍・済・興・武」や七支刀に刻す「倭王旨」の「旨」、人物画像鏡の「日十大王年」の「年」等(磐井の磐・壹與の與もそうか)から、九州王朝の天子は中国風一字名を併せ持っていたと考えられる。
  2. 薩夜麻の為に大伴部博麻が「身を売った」とされる行為は、菩薩天子に対する仏教上の「捨身供養」である。博麻への恩賞はこれに伴うもので、持統四年九州王朝はその授与権をしっかりと有していた。(これは天武末期から持統初期の叙位・褒賞等記事の主体問題に繋がる)
  3. 『隋書』に記す、開皇二十年(六〇〇)の多利思北孤の親書に対し、隋の高祖が「大いに義理なし」と非難したのは、地上の権威と宗教(仏教)上の権威を併せ持つ統治形態・施政方式に対するものである。

5). 二つの四天王寺(京都市・古賀達也)

○水野代表報告
  古田氏近況・会務報告・『倭姫命世記』の「櫛田宮」「宇礼志」・他(奈良市・水野孝夫)


第249話 2010/03/21

九州年号と大正新脩大蔵経

 昨日の関西例会では九州王朝研究に大変役に立つ基礎研究ともいうべき、二つのデータベースが発表されました。
 一つは竹村さんによる「評・郡」別、地名別、紀年別の木簡データベースで、奈良文化財研究所の大量の木簡データベースから検索分類グラフ化したものです。これにより、藤原宮や飛鳥池・石神遺跡などからの出土木簡にどのような傾向があるのか、多元史観の視点から把握できるようになりました。これは九州王朝滅亡過程の研究に有効なツールとなりそうです。
 二つ目は、西村さんによる膨大な大正新脩大蔵経からの「九州年号」検索データベースです。これも、九州年号が仏教経典との関係が深いことを指し示しただけでなく、九州王朝がどのような経典を重視したのかを研究する上で、大変便利なデータベースです。

 こうした労作により、九州王朝研究が加速することは間違い有りません。お二人に感謝したいと思います。なお、今回も遠方(埼玉県)からの初参加者があったり、久々に冨川さんの参加発表もあり、盛会でした。発表テーマは次の通りでした。

〔古田史学の会・3月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 「南九州一元史観・神話の旅」・「リコール」(豊中市・木村賢司)
2). 日本(倭)年号の大蔵経における出現回数(向日市市・西村秀己)
3). 古田史学の会に参加して(東大阪市・萩野秀公)
4). 評木簡と藤原宮(木津川市・竹村順弘)
5). 夢殿救世観音と法華経(川西市・正木裕)
6). 藤原宮(相模原市・冨川ケイ子)
7). 纏向遺跡・第166次調査について(生駒市・伊東義彰)
8). 『海東諸国紀』中の「太子を殺す」記事について(川西市・正木裕)
9). 『二中歴』鏡當「新羅人来従筑紫至播磨焼之」(川西市・正木裕)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・神武を祀る神社(熊本県最多。天草に多い)・他(奈良市・水野孝夫)


第245話 2010/02/21

九州年号「端政」 と菩薩天子

 昨日の関西例会では、姫路市の野田さんから天孫降臨の「笠沙」を御笠郡ではなく、クシフル岳の北側に位置する今宿の「笠掛」とする新説を発表されました。有力な仮説だと思いました。更なる証拠堅めが期待されます。
 正木さんからは今回も素晴らしい発見が報告されました。九州年号「端政」の出典が、中国南北朝時代の僧、曇鸞(467〜542)の著『讃阿弥陀仏偈』に ある「願容端正(政)」(菩薩の顔の相)ではなかったかというものです。隋書イ妥国伝の「海西の菩薩天子」の菩薩に対応しており、なるほどと思わせる発見でした。この多利思北孤と「菩薩天子」というテーマは法隆寺の本尊の変遷にも関わってきそうで、楽しみなテーマです。
 2月関西例会の発表テーマは次の通りでした。

〔古田史学の会・2月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 「栗隈王」など知らない・他(豊中市・木村賢司)

2). 天孫降臨の「笠沙」の所在地   ーー「笠沙」は志摩郡「今宿」である(姫路市・野田利郎)
 「笠沙」は「今宿」/古事記の「笠沙」/日本書紀の「笠狭の岬」/分散としての降臨/不可解なニニギノ命の行動/「既而」/「天浮橋」の用途/宗像から来たニニギノ命の行動/今宿に留まる、ニニギノ命

3). 常立神・その2ーー常根津日子とシキのハエ(大阪市・西井健一郎)

4). 謡曲と九州王朝3「多利思北孤」と『風姿花伝』(川西市・正木裕) 世阿弥著『風姿花伝』に記す、聖徳太子が秦河勝に命じた「六十六番の遊宴、六十六面製作」譚、及び法華経を六十六国の菩薩に納める「六十六部廻国」風習は、「海東の菩薩天子」たる多利思北孤の六十六国分割と、『二中歴』に記す端政元年法華経伝来の証左であり、また六十六国分割は仏教説話に由来する事を論じた。

5). 九州年号「端政(正)」改元と多利思北孤(川西市・正木裕) 多利思北孤の即位年号と考えられる「端政」(五八九〜)は、「正しい政治の始め」の意味と共に、菩薩の顔容を示す語『顔容端政』から採られた事、彼は物部討伐後、隋に備え難波・河内に進出、更に東国へ使者を派遣、全国を仏教にのっとり六十六に分国し、宗教上・政治上の権力を兼ね備えた「菩薩天子」を志向した。以上を南朝「梁」の武帝も崇拝した僧「曇鸞」の『讃阿弥陀仏偈』、端政年間の九州年号諸資料等から示した。

6). 忍熊王と両面宿儺などその他(木津川市・竹村順弘)

7). 魏志倭人伝は「漢音」で読んではいけない(京都市・古賀達也)

8). 前期難波宮と藤原宮の考古学(京都市・古賀達也)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・「淡海」八代海説ほか、遠賀川河口説、琵琶湖説比較考察・他(奈良市・水野孝夫)