古田史学の会一覧

第917話 2015/04/09

『古田史学会報』

  127号のご紹介

 今日は仕事で加古川市に来ています。途中、JR新快速の車窓から見える六甲山にも、まだ所々に散り始めた桜を遠望できました。この沿線途中のお気に入りスポットは明石城です。天守閣はないのですが、二つの櫓を両脇に持つ石垣やお堀がとても美しい城郭です。
 『古田史学会報』127号が発行されましたので、ご紹介します。掲載稿は次の通りですが、平田さんは入会間もない新人ですが、テーマも筑後方言に基づく『日本書紀』の史料批判という新たな研究分野で、論証の方法論も手堅くまとめられています。もう一人、安随さんも会報には初投稿ですが、関西例会では古参のメンバーです。関西例会で発表された研究を投稿していただきました。
 安随さんは、『日本書紀』天智紀に見える唐の筑紫進駐軍(2000人)の大半(1400人)は船団を操る「送使団」であり、侵略軍・武装集団ではないとされました。この安随説が正しければ、唐の進駐軍は筑紫を「軍事制圧」するには「少人数」ですし、ましてや九州王朝の「陵墓破壊」などが目的ではない可能性が高くなります。今後の論争や研究の進展が期待されます。
 正木さんと西村さんからは短里についての新発見が報告されました。ますます短里説が正しかったことが明らかになりました。これらの論稿により、『三国志』の短里研究は更にレベルの高い段階へと進みました。
 服部稿は、近年の考古学研究成果を紹介され、大和朝廷一元史観の根拠の一つとなっていた、大和の庄内式土器が全国にもたらされたという従来説は誤りであり、全国に普及した庄内式土器の多くは播磨産であることが、胎土の研究により明らかになったとされました。この間、精力的に取り組まれた服部さんの「考古学」研究により、近畿天皇家一元史観の根拠がまた一つ崩れ去ったようです。
 以上のように、『古田史学会報』127号は大変優れた内容となりました。わたしたち古田学派の陣容が確実に強化された手応えを感じました。
 最後に、古田先生からはギリシア旅行「断念」の一文をいただきました。断念せざるを得なかった先生には申し訳ないことですが、わたしとしてはご高齢をおしてのギリシア旅行を心配していましたので、複雑な心境ではありますが、やはり「安心」しました。先生にはご無理はなされず、長生きしていただきたいと願っています。

【『古田史学会報』127号の掲載稿】
○「張家山漢簡・居延新簡」と「駑牛一日行三百里」  川西市 正木 裕
○短里と景初 誰がいつ短里制度を布いたのか?  高松市 西村秀己
○“たんがく”の“た”  大津市 平田文男
○邪馬台国畿内説と古田説はなぜすれ違うのか  八尾市 服部静尚
○学問は実証よりも論証を重んじる  京都市 古賀達也
○「唐軍進駐」への素朴な疑問  芦屋市 安随俊昌
○『書紀』の「田身嶺・多武嶺」と大野城  川西市 正木 裕
○倭国(九州王朝)遺産10選(下)  京都市 古賀達也
○断念  古田武彦
○2015年度会費納入のお願い
○古田史学の会・関西例会のご案内
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○『古田史学会報』原稿募集


第914話 2015/04/05

ギリシアからのメール「会員10倍増」

 ギリシア旅行に行かれている服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)からメールが届きました。楽しく旅行を続けられているようです。
 メールによれば、オリンポス山からバスで1時間ほどのボロスのホテルで、東京古田会の藤沢会長さんらとの夕食後、赤ワインを飲みながら、服部さんが「古田史学の会は会員10倍を目指している」と口を滑らせたとのこと。服部さんらしい前向きな発言です。この一見無謀なビジョンですが、わたしは不可能ではないと考えています。
 関西例会後の懇親会などで時折わたしも言っていることなのですが、インターネットを駆使したweb会員制度というシステムを構築できれば、会員は飛躍的に増やせるのではないでしょうか。年会費2000円程度に設定し、『古田史学会報』をネット配信し、SNSで会員のみを対象としたサイバー例会を行うのです。
 今でも、会の役員間でメールのやりとりを行っていますが、そこでは会運営の事務連絡以外にも、研究に関する意見交換も行っており、とても有意義です。これに一般会員もSNSで参加できれば、もっと活発で有意義な論議が進むことでしょう。現状では管理体制や課金システムなどの課題を克服できませんが、いずれ実現できればと願っています。インターネットやパソコンが得意な方のご協力が得られれば有り難いと思います。


第909話 2015/03/27

古代史のブルーオーシャン戦略(3)

 「九州年号」などのテーマが「ニッチ(隙間)」ではなく、新たな「ブルーオーシャン(競争なき市場)」であることに気づき、後にそれが確信に変わったのは、服部静尚さんによる考古学分野での研究(庄内式土器・他)と考古学者との交流により明らかとなった、考古学界における「学問の実体」を知ったことでした。
 遺跡や遺物を研究対象とする考古学ですから、出土物に対する「解釈」に異説があるのは学問ですから当然なのですが、考古学的出土事実に対しては等しく合意や情報の共有化が果たされていると、わたしは思っていたのです。ところが服部さんの調査によると、自説に都合の良い出土事実のみに基づいていたり、不都合な出土事実そのものを知らないまま立論されているケースがあるとのこと。このように近畿天皇家一元史観は文献史学だけではなく、考古学の諸説も結構ずさんであることがわかってきたのです。その結果、わたしたち古田学派の研究者は、一元史観論者との「他流試合」でも有効に戦えるということが明らかとなり、ブルーオーシャン(一元史観論者が論争したくないテーマ)は結構たくさんありそうなのです。
 とすれば、どのようなステージやツールで競争するのが有効なのかを検討すればいいわけです。今のところ考えているのが、インターネット上のサイバー空間や書籍の発行、各地の講演会といったステージでの展開を検討しています。既にユーチューブを利用した動画配信事業が正木裕さんらにより準備が進められています。将来的には「古田史学の会」会員を中心としたSNSも視野に入れています。講演会も久留米大学の公開講座や愛知県では高校生を対象とした公開講座も「古田史学の会・東海」により続けられています。
 ブルーオーシャン戦略は計画段階での様々な分析手法がありますので、わたしも再度勉強しなおして、「古田史学の会」の運営や事業計画に採用したいと考えています。


第908話 2015/03/26

古代史のブルーオーシャン戦略(2)

 「ブルーオーシャン戦略(Blue Ocean Strategy)」とは、新規需要を主体的に創造し、競争が存在しない状況を作り出すという、従来にない新しい戦略論です。提唱者であるW・チャン・キムとルネ・モボルニュの同名の著書は、2005年に販売されると、たちまち世界的ベストセラーとなりました。限られた市場における価格競争などの血みどろの争い(レッド・オーシャン)ではなく、競争のない市場空間(ブルーオーシャン)を生みだし、競争戦略そのものを無関係なものにするというのが「ブルーオーシャン戦略」の要諦です。
 わたしが「古田史学の会」のような非力で弱小の組織でもブルーオーシャン戦略の採用が可能ではないかと最初に気づいたのは、『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年1月)の発行と熊本県和水町で「九州年号付き納音史料」についての講演(2014年5月)を行ったときでした。これらの反響から、「九州年号」という九州王朝説の中核的テーマは一般の方にもわかりやすく、近畿天皇家一元史観側からすれば、なまじ論争などしてその存在そのものを国民に知られたくないという事情から、学問論争(競争)のない空間、ブルーオーシャンではないかとはっきりと自覚できたのです。
 この「九州年号」と同様に、一元史観側にとって国民に知られたくないテーマは他にもあります。たとえば『旧唐書』倭国伝と日本国伝の別国表記の存在、『隋書』の「阿蘇山」記事や男性の「日出ずる処の天子」多利思北孤などです。これらは論争が公に開始されると、国民にその存在が知られてしまい、一元史観の矛盾が白日の下に晒されてしまうという恐怖心から、彼ら(古代史業界のリーダーたち)は絶対に論争や反論をしかけてきません。もし反論があれば、その勇気を称えるにやぶさかではありませんが。
 ですから、これらのテーマはわたしたち古田学派の独壇場(ブルーオーシャン)となり、その戦うステージとタイミングやツールが適切であれば、古田史学の支持者や読者、ファン、会員を獲得することが今まで以上に容易となるはずです。(つづく)


第907話 2015/03/25

古代史のブルーオーシャン戦略(1)

 わたしは仕事で主にマーケティングに携わっていますので、マーケティング戦略や理論について勉強する機会が多くありました。ドラッカーを手始めに、マイケル・ポーターやコトラーなどの著作や解説書はかなり読み、仕事に応用してきました。そして、一時期流行した「ゲーム理論」まではそれなりに理解・応用できたのですが、新しい「ブルーオーシャン戦略」は難しくて、わたしの手には負えませんでした。
 そうした経験から、「古田史学の会」の運営においてもビジネスのマーケティング論を援用したり、参考にしてきました。「洛中洛外日記」723話でもホームページの「フリーミアム戦略」について触れたことがありました。「古田史学の会」創立以来、戦略的には「ニッチ戦略」という視点で運営してきましたが、その理由は、古田史学・多元史観は学問的には優れていても運動論・組織論的には国家体制に組み込まれた巨大な近畿天皇家一元史観(戦後型皇国史観)の学界やメディアと真正面からぶつかっても「勝てる相手」ではありませんし、また相手にもされないと考えたからです。そこで、独自に「古田学派」として、日本古代史では少数派(ニッチ)の多元史観・九州王朝説に特化して、そのステージで力をつけるという戦略をとってきました。組織拡大を意識的に行わなかったのも、こうした基本戦略に基づいてきたからです。
 ちなみに、マーケティング論的には「ニッチ戦略」とは業界のトップリーダーと「戦わない」という戦略でもあります。すなわち、業界のトップリーダーにとって、小規模マーケットであるニッチ(隙間)に参入してもメリットがないため、ニッチは業界の主戦場とはならないのです。結果として「ニッチ」企業は業界のリーダー企業と戦わなくてもすみ、生き残ることができます。これが「ニッチ戦略」のキーファクターです。
 ところがあることが契機となり、今まで続けてきた「ニッチ戦略」から「ブルーオーシャン戦略」へ転換しようと、わたしの考えが変わりました。それは服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)の研究や活躍に触発されたためです。(つづく)


第903話 2015/03/20

『盗まれた「聖徳太子」伝承』発刊

本日、出張先から帰宅すると、明石書店から『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)が届いていました。表紙も中身のレイアウトも一新されており、狙ったとおり以上のリニューアルに成功していました。明石書店の担当の森さんにはかなり頑張っていただき、感謝しています。
冒頭には皇室御物の『法華義疏』のカラー写真が掲載されており、読者はその実相に触れることができます。『古代に真実を求めて』にカラー写真が掲載されたのは初めてですが、編集責任者の服部静尚さんのご尽力の賜です。法隆寺以前の持ち主が書かれていた部分が鋭利な刃物で切り取られた痕跡も写っており、これは同書が近畿天皇家の「聖徳太子」のものではなかったことを意味します。
古田先生へのインタビュー「家永三郎先生との聖徳太子論争から四半世紀を経て」では、古田先生が東北大学の恩師・村岡典嗣先生亡き後、新たに赴任されてきた家永先生に学ばれ、日本思想史の単位を認定していただいたこなどが語られており、先生ご自身による貴重な歴史的証言と思いました。
巻末には、法隆寺釈迦三尊像光背銘と『隋書』「イ妥(タイ)国伝」版本、そして古田先生によるそれらの現代語訳も収録されており、史料として研究にも役立ちます。本書は多元的「聖徳太子」研究における、後世に残る一冊に仕上がったと自負しています。
「古田史学の会」2014年度賛助会員(年会費5000円)には明石書店から順次発送されます。大型書店にも並びますので、是非お買い求めください(定価2800円+税)。次号19集は「九州年号」を特集します。更に『三国志』倭人伝を特集した別冊も発行予定です。こちらもお楽しみに。


第889話 2015/03/06

盗まれた「聖徳太子」伝承

『古代に真実を求めて』第十八集

 

『盗まれた「聖徳太子」伝承』の表紙

今春、明石書店から発行される『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)の表紙カバーのデザインが決まりました。
編集責任者の服部静尚さんから送られてきた画像ファイルによれば、『隋書』イ妥国伝の影印を背景に中央にタイトル(盗まれた「聖徳太子」伝承)があり、 その右には「聖徳太子童子立像」(飛鳥寺所蔵)、下には「法隆寺夢殿」の写真が配され、四隅には原幸子さん(古田史学の会・会員、奈良市)が描かれた絵が あります。裏表紙にも原さんの絵が中央に配されており、素敵な表紙カバーができあがりました。
裏表紙には特集『盗まれた「聖徳太子」伝承』の掲載論文タイトルが並び、書店で手にとっていただいたとき、その内容が目に留まるような配慮がなされてい ます。当初の意図通りのリニューアルに成功しています。同書の発行が待ち遠しく、今からワクワクしています。
『古代に真実を求めて』19集は「九州年号」を特集します。それとは別に、『三国志』倭人伝をテーマとする別冊も企画しています。「古田史学の会」の総力を挙げて、後世に残るような書籍を作りたいと思います。これからも会員の皆様のご協力をお願いいたします。


第879話 2015/02/21

畿内出土庄内式土器の真実

 本日の関西例会では衝撃的な報告が次々と出され、わたしの記憶している限りでは、最も充実した画期的な関西例会でした。中でも服部静尚さん(古田史学の会『古代に真実を求めて』編集責任者)による、畿内出土の庄内式土器や布留式土器についての報告は衝撃的でした。
 畿内の前期古墳の編年が「邪馬台国」畿内説を「保証」するかのように3世紀前半にまで古くされているのですが、その編年の根拠の一つとされているのが、弥生時代と古墳時代(布留式土器)の中間に位置するとされている庄内式土器です。この庄内式土器と纒向型前方後円墳が時代的に重なり、これを「邪馬台国」畿内説の根拠とされているわけです。そして、この纒向に全国の土器が集まっていることや、纒向の庄内式土器や大和の布留式土器が全国に伝播していることを根拠に、纒向(大和)が倭国の中心国「邪馬台国」と説明されています。
 こうした「邪馬台国」畿内説の「根拠」とされている庄内式土器や布留式土器について、服部さんは実際に考古学者への聞き取り調査や論文を精査され、次の驚くべき事実を報告されたのです。

1,「庄内式土器研究会」の全国的(釜山〜関東)調査によれば、庄内式土器の中心出土地は纒向ではなく、中河内(八尾市・大阪市・東大阪市・柏原市)であり、その規模は纒向を「都市」とすれば、中河内は「大都会」である。
2.中河内の遺跡群には各地(特に多いのは吉備・播磨・四国地方などの西からの搬入)からもたらされた土器がかなりの頻度で出土している。大和の遺跡が東海や近江・北陸といった東の地域からの土器搬入が目立つのとは対照的。
3.河内の庄内式土器は西日本各地への移動が確認されているが、大和の庄内式土器はほとんど移動していない。
4.今まで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、ほとんど播磨の庄内式土器であって、大和の庄内式土器が移動している例は数えるほどしかない。
5.播磨で作られた庄内甕と畿内の遺跡の庄内甕は瓜二つで、近年の胎土の研究の進展により区別できるようになった。
6.大和盆地で庄内甕が出土するのは東南部だけである。すると庄内式が大和から全国に広がっていったとする従来の考え方を改めなければならなくなった。
7.胎土の研究を進めていくと、庄内式土器の次の段階の布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする現在の定説も否定しなければならない。
8.なぜかというと、胎土観察の結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかった。
9.しかも北陸の土器の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現する。
10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。
 ※「庄内式土器研究XIX」1999年、米田敏幸氏の論文等による。

 以上のように、庄内式土器研究会の研究成果は「邪馬台国」畿内説の根拠とされてきた土器についての決定的反証となっています。服部さんの調査は更に進展を見せており、『古田史学会報』や『古代に真実を求めて』への掲載を要請していますので、ご期待ください。
 この他にも、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)や正木さん(古田史学の会・全国世話人)からも優れた研究が報告されました。別の機会にご紹介したいと思います。2月例会の発表は次の通りでした。

〔2月度関西例会の内容〕
①短里と景初(高松市・西村秀己)
②潤色ではなく部分削除された改新の詔(八尾市・服部静尚)
③改新詔の藤原宮発布説は成り立つか?(八尾市・服部静尚)
④邪馬台国近畿説と古田説はなぜすれ違うのか(八尾市・服部静尚)
⑤続・伊勢大神考 記紀に見る二倍年暦の痕跡(大阪市・西井健一郎)
⑥中国・朝鮮古文献に見る「倭」と「倭人」の使い分けについて(奈良市・出野正)
⑦「張家山漢簡・居延新簡」と「駑牛一日行三百里」(川西市・正木裕)
⑧「グビ嶼」が証明する『隋書』の「流求」は「沖縄」(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(ギリシア旅行を断念。旅行は古田先生抜きで実施予定)・古田先生購入依頼『真宗聖教全書』昭和15年版入手、提供。同版掲載の「教行信証」には「主上」の二字が消されている・勝部遺跡収蔵庫見学・テレビ視聴(古代の土木技術-版築の来た道、尼寺を考える、漆の食器、よみがえる総天然色の列車たち)・その他


第878話 2015/02/20

『古田史学会報』

126号のご紹介

 今日は早朝から名古屋で仕事をした後、今は新幹線で新大阪に向かっています。午後からは大阪で代理店と仕事の打ち合わせを行います。名古屋から京都駅を素通りして大阪に向かうというのも、何となく変な感じです。いつもは出張から京都駅に戻って、京都タワーを見ると何かほっとするのですが、新幹線を降りずに通り過ぎるのはちょっと違和感があります。

 『古田史学会報』126号が発行されましたので、ご紹介します。掲載稿は次の通りです。常連組の原稿で占められましたが、新人の投稿を期待しています。

○平成二十七年、賀詞交換会のご報告  京都市 古賀達也
○犬を跨ぐ  山東省曲阜市 青木英利
○「室見川銘板」の意味するもの  奈良市 出野 正
○盗用された任那救援の戦い -敏達・崇峻・推古紀の真実-(下)  川西市 正木 裕
○先代旧事本紀の編纂者  高松市 西村秀己
○四天王寺と天王寺  八尾市 服部静尚
○盗用された「仁王経・金光明経」講話  川西市 正木 裕
○倭国(九州王朝)遺産10選(上)  京都市 古賀達也
○年頭のご挨拶  代表 水野孝夫
○古田史学の会・関西例会のご案内
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記  西村秀己


第866話 2015/02/08

『古代に真実を求めて』

  18集の掲載稿

  第865話に続いて、『古代に真実を求めて』18集の掲載稿の全てをご紹介します。編集責任者の服部静尚さんから同目次を送っていただきました。下記の通りです。掲載稿の題名を見ただけでも、「古田史学の会」の総力をあげての多元的「聖徳太子」研究の最先端であることを想像していただけるのではないかと思います。わたしも発行が待ち遠しく思います。
 18集の発行が終わったら、別冊の『三国志』倭人伝研究をテーマとした『古代に真実を求めて』の企画編集に入ります。こちらも乞うご期待です。

『古代に真実を求めて』18集 目次

◎巻頭言
 真実の「聖徳太子」研究のすすめ 古賀達也

◎初めて「古田史学」或いは「九州王朝説」に触れられる皆さんへ  西村秀己

◎特別掲載 古田武彦講演録
 深志から始まった九州王朝 真実の誕生

◎特集 盗まれた『聖徳太子』伝承
≪古田武彦氏インタビュー≫
 家永三郎先生との聖徳太子論争から四半世紀を経て
○聖徳太子架空説の系譜 水野孝夫
○「聖徳太子」による九州の分国 古賀達也
○盗まれた分国と能楽の祖 正木裕
○盗まれた遷都詔 正木裕
○盗まれた南方諸島の朝貢 正木裕
○九州王朝が勅撰した「三経義疏」 古賀達也
○虚構・聖徳太子道後来湯説 合田洋一
○九州王朝の難波天王寺建立 古賀達也
○盗まれた「聖徳」 正木裕
○「君が代」の「君」は誰か 古賀達也
○法隆寺の中の九州年号 古賀達也
○「消息往来」の伝承 岡下英男
○河内戦争 冨川ケイ子

◎研究論文
○もう一つの海彦・山彦 西村秀己
○「伊予」と「愛媛」の語源 合田洋一
○「景初」鏡と「正始」鏡はいつ、何のために作られたか 岡下英男
○関から見た九州王朝 服部静尚
○畿内を定めたのは九州王朝か 服部静尚

◎資料・他
○『隋書』イ妥国伝 同訳文(古田武彦)
○古田史学の会・規約
○古田史学の会・全国世話人名簿
○古田史学の会・地域の会連絡先
○19集の原稿募集要項
○編集後記 服部静尚


第865話 2015/02/07

『古代に真実を求めて』

  18集を校正中

 昨日、明石書店から『古代に真実を求めて』18集の第二校が届きました。各執 筆者による最後の校正となります。「盗まれた『聖徳太子』伝承」を特集しており、多元史観・九州王朝説に基づく「聖徳太子」研究の最先端論文集になると自 負しています。巻末には『隋書』イ妥国伝の影印本と古田先生による訳を資料として収録しており、これからの研究にも役立つような内容となっています。
 わたしからは次の6本を出稿しました。

○巻頭言 真実の「聖徳太子」研究のすすめ
○「聖徳太子」による九州の分国
○九州王朝が勅撰した「三経義疏」
○九州王朝の難波天王寺建立
○「君が代」の「君」は誰か -倭国王子「利歌彌多弗利」考-
○法隆寺の中の九州年号 -聖徳太子と善光寺如来の手紙の謎-

 他の執筆者の論稿も佳作・力作ぞろいです。ご期待ください。今春には発行の予定です。2014年度賛助会員には1冊送付いたします。
 18集とは別に、『三国志』倭人伝をテーマに別冊『古代に真実を求めて』の企画編集も服部静尚さんを責任者に進められています。こちらもおもしろそうな一冊となりそうです。


第853話 2015/01/17

久しぶりの『三国志』

     短里論争

 本日の関西例会では服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)から、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)やわたしから批判されていた「関」と「畿内」の設立についての自説の訂正と反論が行われました。
 討議では、『日本書紀』が九州年号「大化」を何故5年間だけ盗用し、九州年号「白雉」を2年ずらして、これも5年間だけ盗用したのかという疑問について意見が交わされました。合計を10年にしたのは孝徳即位期間の10年にあわせたためと思われますが、『日本書紀』が「大化5年+白雉5年」にした理由がよくわかりません。「大化7年+白雉3年」であれば、白雉元年を2年ずらさずにすむのに、不思議です(九州年号「白雉元年」は652年。『日本書紀』の「白雉元年」は650年)。
 また、『日本書紀』大化2年(646)の改新詔は九州年号の大化2年(696)に藤原宮で出されたとする説と、7世紀中頃とする服部説とで論争が続きましたが、両者相譲らず、結論は今回も持ち越されました。
 正木さん(古田史学の会・全国世話人)からは、「古田の短里説は『魏志』においてさえも成立不能」とする寺坂国之著『よみがえる古代 短里・長里問題の解決』に対して、地図を示し具体的にその誤りを批判されました。また『三国志』に長里が混在した場合、なぜそうなったかの個別の検討が必要とされました。
 魏朝ではいつから短里を公認制定したのかという質問が出され、西村秀己さんから、暦法を周制に変更した明帝ではないかとする見解が示されました。関西例会も久しぶりの『三国志』短里問題で盛り上がりました。
 出野さんからは稲荷山古墳出土鉄剣銘や江田船山古墳出土大刀銘の訓みについての研究が発表されました。稲荷山鉄剣銘に見える「斯鬼」をシキと訓むことについて疑問を呈され、「鬼」を記紀や万葉集・推古朝遺文の万葉仮名で「キ」と訓んだ例はないとされました(百済人の人名「鬼室」は万葉仮名ではない)。万葉仮名(万葉集)では「鬼」を「マ」と訓まれており、「魔」の省略体と紹介されました。そして「斯鬼」を「シマ」あるいは「シクィ」「シクワィ」(二重母音)と訓む可能性を示唆されたのです。少なくとも「シキ」と断定的に訓むべきではないとされました。
 わたしにはまだ出野説の当否はわかりませんが、根拠を提示しての新説ですし、「鬼」は万葉仮名で「キ」と訓まれていないという指摘には、虚を突かれた気持ちです。
 稲荷山古墳出土鉄剣銘や江田船山古墳出土大刀銘の文意や被葬者の位置づけについても興味深い見解を発表されました。『古田史学会報』への投稿を要請しました。
 いずれも素晴らしい発表で、新年も快調な滑り出しとなりました。1月例会の発表は次の通りでした。

〔1月度関西例会の内容〕
1). 「関」と「畿内」と「改新の詔」の検証2(八尾市・服部静尚)
2). 「魏・西晋朝短里」は揺るがない(川西市・正木裕)
3). 稲荷山古墳出土鉄剣銘、江田船山古墳出土大刀銘についての解釈(奈良市・出野正)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(新年賀詞交換会 2015.1.10、ギリシア旅行 2015.4.1〜4.8 33人参加)・古田先生購入依頼図書(『真宗聖教全書』昭和15年版掲載の「教行信証」には「主上」の二字が消されている)購入・春日大社に初詣・塚本青史『煬帝』を読む・2月22日「難波宮シンポ」開催・帝塚山大学考古研市民講座「奈良時代の製塩土器」・その他