難波朝廷(難波京)一覧

第1997話 2019/09/22

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(2)

 『倭国古伝』出版記念東京講演会で、会場の参加者からいただいた質問は次の二つです。

①評制の開始時期はいつ頃か。
②都督は評督の上位職位か。

 ①の回答として、評制開始時期を七世紀中頃、より正確には648〜649年頃としました。このこと自体は妥当な見解ですが、その根拠として、「七世紀中頃に評制が全国的に開始されたとする史料が10点くらいある」と説明しました。しかし、これはわたしの思い違いでした。ある地域の「建評」記事が記された史料を加えればそのくらいはあるのですが、全国的な評制開始と解しうる記事は管見では次の5史料でした。詳細は「洛中洛外日記」(2018/01/13)〝評制施行時期、古田先生の認識(9)〟をご参照下さい。

①『皇太神宮儀式帳』(延暦二三年・八〇四年成立)
 「難波朝廷天下立評給時」
 難波朝廷(孝徳期、七世紀中頃)が天下に評制を施行(立評)したと記されています。
②『粟鹿大神元記』(あわがおおかみげんき。和銅元年・七〇八年成立)
 「難波長柄豊前宮御宇天万豊日天皇御世。天下郡領并国造県領定賜。」
 この記事を含む系譜部分の成立は和銅元年(七〇八)とされており、『古事記』『日本書紀』よりも古い。「天下郡領」とありますが、七世紀のことですから実体は“孝徳天皇の御世に天下の評督を定め賜う”です。
③『類聚国史』(巻十九国造、延暦十七年三月丙申条)
 「昔難波朝廷。始置諸郡」
 ここでは「諸郡」と表記されていますが、「難波朝廷」の時期ですから、その実体は“昔、難波朝廷がはじめて諸評を置く”です。
④『日本後紀』(弘仁二年二月己卯条)
 「夫郡領者。難波朝廷始置其職」
 ここでも「郡領」とありますが、「難波朝廷」がその職を初めて置いたとありますから、やはりその実体は「評領」あるいは「評督」となります。
⑤『続日本紀』(天平七年五月丙子条)
 「難波朝廷より以還(このかた)の譜第重大なる四五人を簡(えら)ひて副(そ)ふべし。」
 これは難波朝廷以来の代々続いている「譜第重大(良い家柄)」の「郡の役人」(評督など)の選考について述べたものです。この記事から「譜第重大」の「郡司」(評督)などの任命が「難波朝廷」から始まったことがわかります。すなわち、「評制」開始時期を「難波朝廷」の頃であることを示唆する記事です。

 以上のように、『日本書紀』(七二〇年成立)の影響を受けて、「評」を「郡」と書き換えているケースもありますが、その言うところは例外無く、「難波朝廷」(七世紀中頃)の時に「評制」が開始されたということです。それ以外の時期に全国的に「評制」が開始されたとする史料は見えませんから、多元史観であろうと一元史観であろうと、史料事実に基づくかぎり、「評制」開始は七世紀中頃とせざるを得ません。
 先に述べたように、ある地域における七世紀中頃での「建評」記事はこの他にも散見されますが、そうした地域限定記事だけを根拠に九州王朝の全国的「評制」開始時期を判断することはできません。(つづく)


第1996話 2019/09/21

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(1)

 9月16日に開催した『倭国古伝』出版記念東京講演会(文京区民センター、古田史学の会・主催)で、会場の参加者からとても重要なご質問をいただきました。それは次の二つの質問です。

①評制の開始時期はいつ頃か。
②都督は評督の上位職位か。

講演会では会場使用の締め切り時間が迫っていたこともあり、丁寧な返答ができませんでしたし、わたしの記憶違いなどもあって、不十分で不正確な回答となってしまいました。
 その後、ご質問の内容と自らの回答の当否が気になっていたため、検討を続けてきました。その結果、九州王朝(倭国)における「都督」問題について新たな可能性に気づきましたので、この「洛中洛外日記」でご質問への回答に修正を加え、新たに到達した認識について報告します。ご質問していただいた方がこの「洛中洛外日記」を読んでおられればよいのですが。(つづく)


第1992話 2019/09/17

難波京(上町台地)建造物遺構の方位

 昨日開催した『倭国古伝』出版記念東京講演会は90名ほどの参加があり、盛況でした。「東京古田会」「多元的古代研究会」をはじめてとしてご協力いただきました皆様に御礼申し上げます。来年ももっと面白い『古代に真実を求めて 23集』を発行して、全国各地で講演会を開催したいと思います。
 講演会後の懇親会では肥沼孝治さん(古田史学の会・会員、東村山市)と隣席になり、近年、肥沼さんが精力的に研究を進められている「方位の考古学」について意見交換させていただきました。そして、わたしが研究している前期難波宮・難波京の年代別の建築物遺構の方位について説明しました。
 そこで、わたしが参考にした研究論文を紹介します。それは、平成26年(2014)3月、大阪歴博から発行された『大阪上町台地の総合的研究 ー東アジア史における都市の誕生・成長・再生の一類型ー』に収録された市川創さんの「受け継がれた都市計画 ー難波京から中世へー」という論文です。
 それには難波京の年代として7世紀中葉から9世紀初頭を大きくは四期(Ⅰ:7世紀中葉〜後葉、Ⅱ:7世紀後葉〜8世紀初頭、Ⅲ:8世紀前葉〜8世紀後葉、Ⅳ:8世紀末〜9世紀初頭)に分類し、難波京から出土した79の建造物遺構の年代とその方位を地域別にまとめた一覧表が提示されており、年代により建物の方位がどのように変化しているのか、あるいは変化していないのかが一目でわかります。
 同一覧表によれば、難波宮周辺と四天王寺周辺とその間は条坊に沿った正方位(正確には南北軸が東偏0度40分)が多くみられますが、その他の地域では難波京内でも条坊とは無関係に方位置はばらばらです。そのことから、難波京の条坊は朱雀大路を中心に東は2街区、西は4街区ほどの範囲と見られるとされています。そして、「京の完成度」として、「台地上に位置し起伏が大きいという地形上の制約もあり、正方位の地割が面的に京域を覆うには至らない。」とされています。
 なお、条坊区画距離の実測値から計算すると条坊の造営尺は1尺=29.49cmとされています。これは藤原京造営尺とほとんど同じです。他方、前期難波宮の造営尺は1尺=29.2cmと復元されており、宮殿と条坊の使用尺が異なることから前期難波宮造営時期と条坊造営時期が異なるのではないかと市川さんは指摘(難波京の本格的な測設を天武朝とする)されています。同時期の部分もあるとする説もあり、今後の研究課題です。
 652年(九州年号の白雉元年)に完成したと『日本書紀』に記されている前期難波宮と、難波京条坊は正方位なのに、619年(九州年号の倭京二年)の創建と『二中歴』に記されている難波天王寺(四天王寺)は約4度西偏しています。どちらも九州王朝による造営とわたしは考えていますが、なぜこの違いが発生したのか、今のところよくわかりません。
 このような話を肥沼さんにさせていただきました。「方位の考古学」はまだ生まれたばかりの学問領域ですから、これからしっかりとしたエビデンスに基づいて研究を進めたいと考えています。


第1986話 2019/09/10

天武紀「複都詔」の考古学

 古田学派には文献史学の研究者は多士済々なのですが、残念ながら本格的に考古学を研究分野とされている方は少数にとどまっています。たとえば関西では小林嘉朗さん(古田史学の会・副代表、神戸市)や大原重雄さん(古田史学の会・会員、大山崎町)、その他の地域でも古代信州の条里などを研究されている吉村八洲男さん(古田史学の会・会員、上田市)の活躍が管見では注目される程度です。
 こうした背景もあり、「古田史学の会」では各地の著名な考古学者を講演会にお招きして、考古学の最新研究に触れられるよう取り組んできました。わたし自身も、特に七世紀の須恵器編年の勉強をこの十年ほど続けてきました。難解でなかなか理解できなかった考古学論文も初歩的ではありますがようやく読み取ることができるようになってきました。そのため、当初はその重要性を理解できずに読み飛ばしていた部分も、今では正しく認識できるケースが増えてきました。今回は、その一例を紹介します。
 前期難波宮九州王朝複都説の研究において、わたしが注目してきた『日本書紀』の記事がありました。天武12年(683)12月条に見える「複都詔」と呼ばれる次の記事です。

 「又詔して曰はく、『凡(おおよ)そ都城・宮室、一處に非ず、必ず両参造らむ。故、先づ難波に都つくらむと欲(おも)う。是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ』とのたまう。」『日本書紀』天武12年12月条

 この記事について当初わたしは、天武の時代には既に前期難波宮が存在しているのに、難波にもう一つ都を造れというのは明らかにおかしい、従って既にあった前期難波宮は天武(近畿天皇家)の宮殿ではなく、九州王朝の宮殿と理解すべきと指摘したことがありました。
 しかしその後更に理解は進み、「洛中洛外日記」1398話(2017/05/14)「前期難波宮副都説反対論者への問い(3)」では次のように論じました。

【以下、転載】
 (前略)この「副(ママ)都詔」を精査して、あることに気づきました。それは、今まで岩波『日本書紀』の訳文で記事を理解していたのですが、「先づ難波に都つくらむと欲(おも)う」という訳は不適切で、原文「故先欲都難波」には「つくらむ」という文字がないのです。意訳すれば「先ず、難波に(の)都を欲しい」とでもいうべきものです。
 後段の訳「是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ」も不適切です。原文は「是以百寮者各往請家地」であり、「これを以て、百寮はおのおの往(ゆ)きて家地を請(こ)え」と訳すべきです(西村秀己さんの指摘による)。すなわち、岩波の訳では一元史観のイデオロギーに基づいて、百寮は天皇のところに「まかりて」、家地を天皇から「たまわれ」としているのですが、原文の字義からすれば、百寮は難波に行って(難波の権力者あるいはその代理者に)家地を請求しろと天武は言っていることになるのです。もし、前期難波宮や難波京を天武が造営したのであれば、百寮に「往け」「請え」などと命じる必要はなく、天武自らが飛鳥宮で配給指示すればよいのですから。
 このように、前期難波宮天武期造営説の史料根拠とされてきた副(ママ)都詔も、実は前期難波宮や難波京は天武が造営したのではなく、支配地でもないことを指し示していたのでした。(後略)
【転載おわり】

 このように天武による難波京造営の命令と理解されてきた「複都詔」の原文は「難波に都が欲しい」という記事だったことに気づいたのでした。また、この詔勅の約2年後の朱鳥元年(686)正月には前期難波宮は焼失しており、もし天武12年(683)12月に難波宮都造営を命じたとしても、それまでの短期間に上町台地を整地し、巨大宮殿を完成できるはずもなく、この「複都詔」を根拠とした前期難波宮天武朝造営説は常識的にみて成立不可能なのです。
 他方、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からは別の視点から「複都詔」への新理解を提示されました。それは「34年遡り説」というもので、天武12年条(683)に記された「複都詔」は34年前の649年に九州王朝が前期難波宮造営(難波複都建設。完成は652年)を命じた記事であり、『日本書紀』編纂時に34年ずらされたものという仮説です。
 このように文献史学では「複都詔」について諸仮説が提起され、研究が深化していました。ところが考古学の分野でも同様に「複都詔」などに基づく前期難波宮天武朝造営説が明確に否定されていたことに改めて気づきました。それは佐藤隆さん(大阪歴博)の論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」『大阪歴史博物館 研究紀要 第15号』(平成29年3月)の次の記事です。

 「また、天武12年(683)には『凡都城・官室非一処。必先欲都難波。』といういわゆる『複都制の詔』が出されているが、土器資料からみるかぎり、難波宮の宮城およびその周辺における動きは低調である。」(10頁)
 「(前略)水利施設が廃絶した後の堆積層(第6a層)から難波Ⅳ古段階の土器が出土しており、天武朝に当たる7世紀第4四半期には既に機能していなかった(後略)」(15頁)

 この記事に見える水利施設とは前期難波宮の北西側の谷から出土した水利施設(石積みの水路と木桶など)で、井戸がなかった前期難波宮に水を供給した施設と見られています。この水利施設造営時の層位から7世紀前半から中頃の土器が大量に出土したことや、木桶に使用された木材の年輪年代測定値(634年伐採)などが決め手となり、前期難波宮の造営が『日本書紀』孝徳紀白雉三年条(652年。九州年号の「白雉元年壬子」に当たる)に見える巨大宮殿完成記事に対応するという見解が通説となりました。
 そして、この水利施設廃絶後に堆積した層位(第6a層)から難波Ⅳ古段階(7世紀第4四半期)の土器が出土しており、天武朝に当たる7世紀第4四半期には既に水利施設は機能していなかったと指摘されています。すなわち、「複都詔」が出された頃には前期難波宮の水利施設は廃絶されていたわけで、そのことは前期難波宮自身も大勢の官僚が勤務できる状態ではなかったことを意味します。おそらく、その頃には前期難波宮の官僚群は完成間近の藤原宮(京)に移動していたのではないでしょうか。そうでなければ、水利施設は整備利用されていたはずだからです。
 以上のように、文献史学の研究成果と考古学の最新知見の双方が前期難波宮天武朝造営説を否定し、天武紀に見える「複都詔」を疑問視しています。この文献史学と考古学のダブルチェックともいえる研究成果は大きな説得力を有しているのですが、前期難波宮天武朝造営説論者からの史料根拠(エビデンス)を明示した論理的(ロジカル)な反論は聞こえてきません。わたしは〝学問は批判を歓迎する〟と考えています。エビデンスとロジックを明示したご批判を待っています。


第1985話 2019/09/08

難波宮出土「戊申年」木簡と九州王朝(2)

 前期難波宮の北西の谷から出土した「戊申年」木簡(648年)の文字の字形も特徴的で注目されてきました。『大阪城址Ⅱ 大阪城跡発掘調査報告書Ⅱ』(2002年、大阪府文化財調査研究センター)の解説でも指摘されていますが、特に「戊」の字体は「代」の字形に近く、七世紀前半に遡る古い字体であるとされています。たとえば、法隆寺の釈迦如来及脇侍像光背銘にある「戊子年」(628年)の「戊」と共通する字形とされています。

 「年」の字形も上半分に「上」、下半分に「丰」を書く字体で、木簡では九州年号「白雉元年壬子」の痕跡を示す芦屋市三条九ノ坪遺跡出土「元壬子年」(652年)木簡の「年」と同じです。金石文では野中寺の彌勒菩薩像台座に掘られた「丙寅年」の「年」と同じです。

 九州年号(白雉)「元壬子年」木簡と「戊申年」木簡の「年」の字体が共通していることは興味深いことです。また、「中宮天皇」銘を持つ野中寺の彌勒菩薩像は、九州王朝の「中宮天皇」(筑紫君薩野馬の皇后か)の為に造られたものではないかとわたしは推測しています。

 以上のように、九州王朝の複都・前期難波宮から出土した「戊申年」木簡が、九州年号(白雉)「元壬子年」木簡と同類の〝上部空白型干支木簡〟であり、「年」の字体も一致していることは、「戊申年」木簡と九州王朝との関係をうかがわせるものと思われるのです。

 なお付言しますと、九州年号史料として著名な『伊予三島縁起』には、「孝徳天皇のとき番匠の初め」という記事の直後に「常色二年戊申、日本国を巡礼したまう」と記されています。おそらくは前期難波宮を造営するために各地から宮大工らが集められたのが「番匠」の「初」とする記事や九州年号の常色二戊申年(648年)に巡礼するという記事と、前期難波宮から出土した「戊申年」木簡との年次の一致は偶然ではなく、何らかの関係があったのではないでしょうか。「戊申年」木簡に記された他の文字の研究により、何か判明するかもしれません。今後の研究課題です。


第1984話 2019/09/07

難波宮出土「戊申年」木簡と九州王朝(1)

 前期難波宮の造営年代論争(孝徳期か天武期か)に決着をつけた史料(エビデンス)の一つが、前期難波宮の北西の谷から出土した現存最古の干支木簡「戊申年」木簡(648年)でした。この他にも難波宮水利施設から大量出土した須恵器(七世紀前半〜中頃の坏G。七世紀後半と編年されている坏Bは皆無)や同遺構の桶枠に使用された木材の年輪年代測定値(634年伐採)などが決め手となり、前期難波宮の造営が『日本書紀』孝徳紀白雉三年条(652年。九州年号の「白雉元年壬子」に当たる)に見える巨大宮殿完成記事に対応するという見解が、ほとんどの考古学者の支持を得て通説となりました。

 わたしが前期難波宮九州王朝複都説を提起して以来、「戊申年」木簡に注目し、調査研究を進めてきたのですが、この木簡に九州王朝との関係を感じさせるいくつかの事実があることに気づきましたので、本シリーズで紹介することにします。
まず最初に紹介するのが、木簡に記された「戊申年」の文字の位置の特徴についてです。「洛中洛外日記」1961話(2019/08/12)〝飛鳥池「庚午年」木簡と芦屋市「元壬子年」木簡の類似〟でも紹介したことですが、七世紀の干支木簡(荷札木簡)では通常木簡最上部から干支が書かれるのですが、九州年号木簡である「元壬子年」木簡(文書木簡。芦屋市三条九ノ坪遺跡出土)は上部に数字分の空白を有し、本来その空白部分には九州年号(この場合は「白雉」)が入るべきだが、何らかの理由で九州年号を木簡に記すことが憚られたのではないかと考えました。憚られた理由については拙論「九州王朝『儀制令』の予察 -九州年号の使用範囲-」(『東京古田会ニュース』184号、2019年1月)で論じました。

 この〝上部空白型干支木簡〟とでも称すべき木簡分類に難波宮出土の「戊申年」木簡も該当することにわたしは気づいたのです。そのことについて「洛中洛外日記」1358話(2017/05/06)〝九州年号の空白木簡の疑問〟で紹介しました。通常、同木簡の文字は「□稲稲 戊申年□□□」と紹介されるため、わたしは〝上部空白型干支木簡〟であるとは思わなかったのですが、報告書には次のように記されており、本来は〝上部空白型干支木簡〟であったことに気づいたのでした。

 【以下、転載】
(前略)墨書は表裏両面に確認でき、他の木簡とは異なり、異筆による書き込みがある。表面側の墨書は上端から約7cmの位置から「戊申年」ではじまる文字が書かれており、以下、現存部分のみで3文字が後続していることがわかる。また、欠損した左側面には「戊申年□□□」文字に対応するように墨痕や文字の一部が残っており、本来は同じ字配りで最低でも2行以上の墨書があったことになる。「戊申年」上方の異筆3文字を除いた場合、書き出し位置が低いようにみえるが、これについては栄原永遠男氏が指摘するように、大型の木簡におおぶりの文字で書かれていたと推察される点を勘案するならば、さほど不自然であるとはいえない。(後略)
『大阪城址Ⅱ 大阪城跡発掘調査報告書Ⅱ』(2002年、大阪府文化財調査研究センター)25〜26頁
【転載おわり】

 このように報告書には、「戊申年」の文字の「書き出し位置が低いようにみえる」と指摘されているのです。ですから「元壬子年」木簡と同様に、七世紀(九州年号の時代)の干支を伴う文書木簡の場合、本来であれば九州年号が記される干支部分の上部が意図的に空白にされていることがわかるのです。ちなみに、「元壬子年」木簡の場合は九州年号「白雉(元年)」(652年)が、「戊申年」木簡の場合は「常色二(年)」(648年)があってしかるべき〝空白〟ということになります。

 以上のように、九州王朝の複都・前期難波宮から出土した「戊申年」木簡が、九州年号(白雉)「元壬子年」木簡と同類の〝上部空白型干支木簡〟であったことがわかり、この〝上部空白〟現象を説明できる仮説としても九州年号説が重視されるのです。(つづく)


第1983話 2019/09/06

難波宮から「己酉年(649)」木簡

       が出土していた?

 大阪歴博が発行した『難波宮 百花斉放』という「難波宮大極殿発見50周年記念」(平成24年〔2012〕発行)パンフレットを見ていて、驚きの発見をしました。このパンフレットは平成24年2月25日に大阪市中央公会堂で開催されたシンポジウムのレジュメとして作成されたもので、それこそ百花斉放の名前に恥じない内容です。プログラムには次のように講演者と演題が記されています。

【プログラム】
第1部(午前) 発掘成果による『最新報告 難波宮』
1. 再見!難波宮の建築 大阪歴史博物館学芸員 李陽浩
2. 続々新知見!難波宮の官衙と難波京 大阪文化財研究所難波宮調査事務所長 高橋 工
3. 新発見!木簡が語る難波宮-戊申年木簡と万葉仮名木簡- 大阪府文化財センター調査課長 江浦 洋

第2部(午後) 講演『日本の古代史と難波宮』
1. 聖武天皇の時代と難波宮 大阪市立大学名誉教授 栄原永遠男
2. 高津宮から難波宮へ 大阪府文化財センター理事長 水野正好

第3部
1. 難波宮復元AR披露
2. 対談『難波宮-半世紀の調査から未来に向けて』
水野正好、栄原永遠男、長山雅一
司会:朝日新聞社記者 大脇和明

 以上のように大阪の考古学界と歴史学界を代表する研究者によるシンポジウムです。わたしは参加していませんが、このパンフレットを読んだだけでもその学問的意義は感じ取れました。そのパンフレット中に驚きの資料があったのです。
収録されている水野正好さんのレジュメに難波宮出土木簡を紹介した「12.大阪府警本部用地の木簡、大化4・5年のエト、王母 赤糸・・木簡」があり、そこに有名な最古の干支木簡「戊申年」(648年)木簡とともに「己酉年」(649年)木簡の図(「六号木簡」)が記されていたのです。わたしは難波宮から「己酉年」木簡が出土したという報告を全く知りませんでしたので、とても驚きました。「戊申年」木簡に次いで古い干支木簡は芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した九州年号「白雉元年壬子」の痕跡を示す「元壬子年」(652年)木簡だとされていますので、もし難波宮から「己酉年」木簡が出土していたのなら、それが二番目に古い干支木簡となります。
レジュメの図によれば、「己」の下部分と「酉」と読めそうな文字、そして「年」のような字形をしているが明確には断定しにくい文字が記された木簡でした。そこで真偽を確かめるために大阪歴博を訪問し、同遺跡の発掘調査報告書『大阪城址Ⅱ 大阪城跡発掘調査報告書Ⅱ』(2002年、大阪府文化財調査研究センター)を閲覧させていただきました。そこには「図版47 古代 木簡」(谷部16層出土木簡)に同木簡の赤外線写真が掲載され、[本文編」23頁では次のように解説されていました。

 【以下、転載】
(6)6号木簡(図11-6、写47-6・53-2)
(64)・23・4 スギ 板目
上部は折れているが、下端は方頭で端部が遺存している。上端は表面側の右斜め上から切り込みを入れて、その後に上部を折り取っている。下半部にも同様の切り込みが裏面から行われており、文字の部分を切っていることなどから廃棄作業に伴うものである可能性が高い。
左右の側面は両面とも整形面が残っている。文字は表面には3文字が確認できる。第1文字目はオレのために末画しか残っておらず、判読しがたい。第2文字目は「面」の可能性が高いが、「酉」の可能性もわずかに残す。ただし、第3文字目については、判読は難しいが「年」の可能性は乏しく、「子」などの可能性も指摘されている。裏面に墨痕はない。
【転載おわり】

 以上のように2002年発行の報告書の解説からは「己酉年」とは判読できないようで、この見解が〝公式見解〟となって、今日まで流布しています。ところが、平成24年〔2012〕シンポジウムのパンフレットでは、大阪府文化財センター理事長の水野正好さんにより、「己酉年」と判読され、「大化五年(649年)」のこととされているのです。大阪歴博の学芸員の村元健一さんにこの件についておたずねしたところ、経緯についてはご存じなく、公式見解は報告書の方とのこと。そこで、水野さんに直接お会いしてお聞きしようと思い、水野さんの所在を教えてほしいとお願いしたのですが、残念ながら水野さんは既に亡くなられているとのことでした(2015年没)。ご冥福をお祈りします。
確かに大阪府文化財調査研究センターの報告書が公式見解ということは理解できるのですが、その10年後に大阪府文化財センター理事長の水野正好さんが公の学術的なシンポジウムのパンフレットに掲載されているのですから、その10年間に公式見解が変更されている可能性もあるのではないでしょうか。同シンポジウムで水野さんがどのように説明されたのか、ご存じの方があればご教示ください。
なお、同シンポジウムで講演された江浦さんのレジュメでも難波宮出土木簡のことが紹介されており、当該木簡などについての報告書を転載されており、そこには「□面□」とありました。なお、江浦さんはレジュメの末尾を次の感動的な言葉で締め括られています。

 「『地下の正倉院』。
これは平城宮跡から掘り出される木簡群を東大寺の正倉院宝物になぞらえた呼称である。
難波宮跡では、高燥な上町台地ゆえに木簡の出土はさほど期待されていなかったが、近年の調査によって、谷部の湿潤な地層では木簡が腐朽せずに残っていることが明らかとなっている。
難波宮跡の周辺においても、未だ多くの谷が木簡を抱いて埋もれている。」

 近い将来、難波宮跡から九州年号木簡などが出土することも夢ではないかもしれません。それまで、わたしは前期難波宮九州王朝複都説の研究を続けたいと思います。


第1949話 2019/07/27

『古田史学会報』採用審査の困難さと対策(4)

 1931話で触れた「選択発明」について少し説明しておきます。その定義は次のようなものです。わたしの専門の化学関連文献から引用紹介します。特許法に詳しくない方にはちょっと難解かもしれませんが、読み飛ばしていただいてもかまいません。

【選択発明の解説】
 選択発明とは、物の構造に基づく効果の予測が困難な技術分野に属する発明で、刊行物において上位概念表現された発明又は事実上若しくは形式上の選択肢で表現された発明から、その上位概念に包含される下位概念で表現された発明又は当該選択肢の一部の発明を特定するための事項として仮定したときの発明を選択したものであって、前者の発明により新規性が否定されない発明をいいます。(中略)
 請求項に係わる発明の引用発明と比較した効果が以下の(ⅰ)から(ⅲ)までの全てを満たす場合は、審査官は、その選択発明が進歩性を有しているものと判断します。
 (ⅰ)その効果が刊行物等に記載又は掲載されていない有利なものであること。
 (ⅱ)その効果が刊行物等において上位概念又は選択肢で表現された発明が有する効果とは異質なもの、又は同質であるが際立って優れたものであること。
 (ⅲ)その効果が出願時の技術水準から当業者が予測できたものでないこと。(後略)
 ※出典:福島芳隆「特許庁・審査官」『近畿化学工業界』(2019.07)

 特許の専門用語を用いた説明ですので、わかりやすいようにわたしの過去の論稿を用いて具体的に解説します。
 「洛中洛外日記」1923話〜1928話で連載した「法円坂巨大倉庫群の論理」で、わたしは南秀雄さん(大阪市文化財協会・事務局長)による「日本列島における五〜七世紀の都市化 -大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地」の講演内容を紹介し、その中の重要な4点に着目し、それらがわたしの前期難波宮九州王朝複都説を結果として支持していると指摘しました。その論稿においてわたしが提示した論理構造は次のようなものでした。

(a) 上町台地北端に古墳時代で日本最大の法円坂倉庫群が造営される。他地域の倉庫群(屯倉)とはレベルが異なる卓越した規模である。
(b) 古墳時代の上町台地北端と比恵・那珂遺跡は、内政・外交・開発・兵站拠点などの諸機能を配した内部構造がよく似ており、その国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如くである。
(c) 法円坂倉庫群はその規模から王権の倉庫と考えられるが、それに相応しい王権の中枢遺跡は奈良にはなく、大阪城の地にあった可能性がある(確認はされていない)。
(d) 上町台地北端部からは筑紫の須恵器が出土しており、両者の交流や関係を裏付ける。
(e) 652年には国内最大規模の前期難波宮が造営され、難波京へと発展する。この七世紀中頃は全国に評制が施行された時代で、「難波朝廷、天下立評」と史料(『皇太神宮儀式帳』)にあるように前期難波宮にいた権力者によるものである。
(f) 九州王朝説に立つならばこの権力者は九州王朝(倭国)と考えざるを得ない。
(g) 以上の考古学的事実とそれに基づく論理展開は、前期難波宮九州王朝複都説を支持する。

 上記の内、(a)〜(d)の部分は南さんの講演要旨で、既知の考古学的事実やそれに基づく解釈であり、新規性はありません。また、(e)は文献史学に基づく前期難波宮に対する通説の解釈であり、これも新規性はありません。(f)が九州王朝説に基づく前期難波宮に対するわたしの解釈で、この部分でようやく新規性が発生します。そして(g)の結論へと続きます。この(f)と(g)が選択発明に必要とされる「効果」に相当します。その「効果」は(ⅰ)(ⅱ)(ⅲ)の用件全てを満たしており、その結果、「その選択発明が進歩性を有しているものと判断」されることになります。すなわち、この「選択発明」には「引用発明と比較した効果」が認められるのです。
 この「引用発明」とは一元史観による考古学的事実への解釈のことであり、それに比べて多元史観・九州王朝説による解釈には新規性があり、際立った仮説であり、一元史観からは予測できない仮説であると認められるのです。なお、この新解釈(前期難波宮九州王朝複都説)が正しいか否かは、新規性・進歩性の有無の判断とは一応別です。『古田史学会報』の投稿採否審査でも同様で、その仮説の新規性と進歩性をまず審査しますが、この段階では仮説や結論の是非、ましてや審査する編集部員の見解と一致しているか否かは全く審査基準とはされません。(つづく)


第1937話 2019/07/12

「難波複都」関連年表の作成(6)

 最後に紹介するのがⅢ期の難波京時代(倭京・太宰府と難波京の両京制時代)に関わる九州年号記事です。それは『続日本紀』にある「聖武天皇の詔報」で、「洛中洛外日記」173話(2008/05/02)〝「白鳳以来、朱雀以前」の新理解〟において、わたしは次のように論じました。

【以下、転載】
「白鳳以来、朱雀以前」の新理解
 九州年号の白鳳と朱雀が聖武天皇の詔報として『続日本紀』神亀元年条(724)に、次のように記されていることは著名です。
 「白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。亦、所司の記注、多く粗略有り。一たび見名を定め、よりて公験(くげん)を給へ」
 これは治部省からの問い合わせに答えたもので、養老4年(720)に近畿天皇家として初めて僧尼に公験(証明書、登録のようなもの)の発行を始めたのですが、戸籍から漏れていたり、記載されている容貌と異なっている僧尼が千百二十二人もいて、どうしたものかと天皇の裁可をあおいだことによります。
 しかし、その返答として、いきなり「白鳳以来、朱雀以前」とあることから、そもそもの問い合わせ内容に「白鳳以来、朱雀以前」が特に不明という具体的な時期の指摘があったと考えざるを得ません。というのも、年代が玄遠というだけなら、白鳳以前も朱雀以後も同様で、返答にその時期を区切る必要性はないからです。
 にもかかわらず「白鳳以来、朱雀以前」と時期を特定して返答しているのは、白鳳から朱雀の時期、すなわち661年(白鳳元年)から685年(朱雀二年)の間が特に不明の僧尼が多かったと考えざるをえませんし、治部省からの問い合わせにも「白鳳以来、朱雀以前」と時期の記載があったに違いありません。
 この点、古田先生は『古代は輝いていたⅢ』で、「年代玄遠」というのは只単に昔という意味だけではなく、別の王朝の治世を意味していたとされました。九州王朝説からすれば一応もっともな理解と思われるのですが、わたしは納得できずにいました。何故なら、別の王朝(九州王朝)の治世だから不明というならば、白鳳と朱雀に限定する必要は、やはりないからです。朱雀以後も九州王朝と九州年号は朱鳥・大化・大長と続いているのですから。
 このように永らく疑問としていた「白鳳以来、朱雀以前」でしたが、疑問が氷解したのは、前期難波宮九州王朝副都説の発見がきっかけでした。既に発表してきましたように、九州王朝の副都だった前期難波宮は朱雀三年(686)に焼亡し、同年朱鳥と改元されました。もし、九州王朝による僧尼の公験資料が難波宮に保管されていたとしたら、朱雀三年の火災で失われたことになります。『日本書紀』にも難波宮が兵庫職以外は悉く焼けたとありますから、僧尼の公験資料も焼亡した可能性が極めて大です。従って、近畿天皇家は九州王朝の難波宮保管資料を引き継ぐことができなかったのです。これは推定ですが、難波宮には主に近畿や関東地方の行政文書が保管されていたのではないでしょうか。それが朱雀三年に失われたのです。
 こうした理解に立って、初めて「白鳳以来、朱雀以前」の意味と背景が見えてきたのです。九州王朝の副都難波宮は九州年号の白雉元年(652)に完成し、その後白鳳十年(670)には庚午年籍が作成されます。それと並行して九州王朝は僧尼の名籍や公験を発行したのではないでしょうか。そして、それらの資料が難波宮の火災により失われた。まさにその時期が「白鳳以来、朱雀以前」だったのです。
 以上、『続日本紀』の聖武天皇詔報は、わたしの前期難波宮九州王朝副都説によって、はじめて明快な理解を得ることが可能となったのでした。
【転載、終わり】

 このように、近畿天皇家の正史『続日本紀』に見える九州年号「白鳳]「朱雀」記事の背景に、九州王朝の難波複都時代と複都焼失があったとしたとき、聖武天皇の詔報の内実がより深く理解できるのです。後に聖武天皇が後期難波宮を造営し遷都したことも、九州王朝の難波複都の歴史的存在が大きな意味を持っていたと考えざるを得ません。(つづく)


第1936話 2019/07/11

「難波複都」関連年表の作成(5)

 次もⅡ期の難波京造営時に関わる記事です。九州王朝が難波複都造営のために各地から「番匠」を招集したと考えられる『伊予三島縁起』の次の記事です。これは正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が発見されたものです。

 「三七代孝徳天王位。番匠初。常色二(六四八)戊申日本国御巡禮給。当国下向之時。玉輿船御乗在之。同海上住吉御対面在之。同越智姓給之。」(『修験道資料集Ⅱ』昭和59年)

この記事について正木さんは論文で次のように解説されています。

 〝「番匠」は「番上の工匠の意。古代、交代で都に上り、木工寮で労務に服した木工(『広辞苑』)」の意味だ。従って『縁起』は、孝徳時代、宮殿等の造営に携わる「番匠」制度が始まり、常色二年(六四八・大化四年)に「天子」が日本巡礼(巡行)途上、伊予に立ち寄った記事になる。(中略)
 そして「戊申日本国御巡禮給」とある、その「戊申」年木簡が難波宮整地層から発掘されているのだ。〟
正木裕「前期難波宮の築造準備について」『古田史学会報』124号(2014年10月10日)

 この九州年号「常色二年」を伴った「番匠の初め」記事は、『日本書紀』には見えないことから、九州王朝系史料に基づいたものと思われます。この記事も前期難波宮九州王朝複都説に対応したもので、正木さんは5年前に発表されていますが、反対論者からの応答はありません。(つづく)


第1935話 2019/07/10

「難波複都」関連年表の作成(4)

 前話では難波複都関連史のⅠ期とⅡ期に対応する考古学的事実として、その時期の難波から筑紫や百済・新羅の土器が出土していることと、それが持つ意味について解説しました。そこで今回は各期に対応する文献史学の史料事実について解説します。

 最初に紹介するのが、九州年号群史料として最もその原型を留めている『二中歴』所収「年代歴」に見えるもので、Ⅱ期に関わる次の難波天王寺(四天王寺)建立記事です。

 「倭京二年 難波天王寺聖徳造」

 九州年号の倭京二年は619年に相当し、九州王朝の聖徳と呼ばれる人物が難波の天王寺を建立したと記されています。当時、九州王朝は難波に巨大寺院を建立できるほどの影響力を当地に持っていたことがうかがえます。
 この倭京二年(619)という天王寺建立年次は考古学(大阪歴博)による創建瓦の編年とも一致しています。このように安定して論証(文献史学と考古学のクロスチェック)が成立しており、歴史事実と見なすことができる記事です。(つづく)


第1934話 2019/07/09

「難波複都」関連年表の作成(3)

 「難波複都」関連年表作成の手始めに、わたしは難波複都関連史を次の4期に分けたのですが、Ⅰ期とⅡ期に対応する考古学的出土事実として興味深いテーマがあります。それはその時期の難波から筑紫や百済・新羅の土器が出土し、特に百済の土器は国内では難波に最も多く出土するという事実です。

Ⅰ期(六世紀末頃〜七世紀初頭頃) 九州王朝(倭国)の摂津・河内制圧期
Ⅱ期(七世紀初頭〜652年) 狭山池・難波天王寺(四天王寺)・難波複都造営期
Ⅲ期(白雉元年・652〜朱鳥元年・686) 前期難波宮の時代(倭京・太宰府と難波京の両京制)
Ⅳ期(朱鳥元年・686〜) 前期難波宮焼失以後

 難波から百済の土器が出土する事実とそのことが持つ意味を、わたしは「洛中洛外日記」562話(2013/05/26)で次のように紹介しました。

【以下、転載】
「難波宮出土の百済土器」
 先日、久しぶりに大阪歴史博物館を訪れ、最新の報告書に目を通してきました。前期難波宮整地層から筑紫の須恵器が出土していたことを報告された寺井誠さんが、当日の相談員としておられましたので、最新論文を紹介していただきました。
 その報告書は『共同研究報告書7』(大阪歴史博物館、2013年)掲載の「難波における百済・新羅土器の搬入とその史的背景」(寺井誠)です。難波(上町台地)から朝鮮半島(新羅・百済)の土器が出土することはよく知られていますが、その出土事実に基づいて、その史的背景を考察された論文です。もちろん、近畿天皇家一元史観に基づかれたものですが、その中に大変興味深い記事がありました。

 「以上、難波およびその周辺における6世紀後半から7世紀にかけての時期に搬入された百済土器、新羅土器について整理した。出土数については、他地域を圧倒していて、特に日本列島において搬入数がきわめて少ない百済土器が難波に集中しているのは目を引く。これらは大体7世紀第1〜2四半期に搬入されたものであり、新羅土器の多くもこの時期幅で収まると考える。」(18頁)

 百済や新羅土器の出土数が他地域を圧倒しているという考古学的事実が記されており、特に百済土器の出土が難波に集中しているというのです。この考古学的事実が正しければ、多元史観・九州王朝説にとっても近畿天皇家一元史観にとっても避け難く発生する問題があります。
 古代における倭国と百済の緊密な関係を考えると、その搬入品の土器は権力中枢地か地理的に近い北部九州から集中して出土するはずですが、近畿天皇家の「都」があった飛鳥でもなく、九州王朝の首都太宰府や博多湾岸でもなく、難波に集中して出土しているという事実は重要です。この考古学的事実をもっとも無理なく説明できる仮説が前期難波宮九州王朝副都説であることはご理解いただけるのではないでしょうか。
 『日本書紀』孝徳紀白雉元年条に記された白雉改元の舞台に百済王子が現れているという史料事実からも、その舞台が前期難波宮であれば、同整地層から百済土器が出土することと整合します。従って文献的にも考古学的にも、九州年号「白雉」改元の宮殿を前期難波宮とすることが支持されます。すなわち、九州王朝副都説の考古学的傍証として百済土器を位置づけることが可能となるのです。
【転載終わり】

 この「洛中洛外日記」は今から六年前に発表したものですが、前期難波宮九州王朝複都説に反対される論者からは未だにこの論稿に対して反論も応答もありません。わたしは「学問は批判を歓迎する」と考えていますから、是非、ご批判いただきたいものです。わたしも真摯にお答えするつもりです。(つづく)