難波朝廷(難波京)一覧

第1546話 2017/12/01

古田先生との論争的対話「都城論」(7)

 一元史観における「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」説成立の基本的な論理構造が、考古学的出土事実と『日本書紀』や『続日本紀』の史料事実の対応という、いわば「シュリーマンの法則」に合致した強固なものであることにわたしが気づいたのは約20年ほど前のことでした。以来、九州王朝説に立つわたしはこの問題に悩まされてきました。それは次のような点でした。

 ①前期難波宮の巨大な規模(国内最大)は、7世紀中頃から後半の律令時代にふさわしい全国支配のための王宮と見なさざるを得ない。
 ②7世紀中頃に評制が全国に施行された。その主体は九州王朝(倭国)とするのが古田説だが、その評制支配された側の近畿天皇家の孝徳天皇の宮殿(前期難波宮)の方が、九州王朝の王宮と考えられていた大宰府政庁Ⅱ期宮殿遺構よりも10倍近く巨大というのは、九州王朝説にとって不都合な考古学的事実である。
 ③前期難波宮の特徴はその規模だけではなく、当時としては最新の中国風王宮の様式「朝堂院様式」である。この最新の様式が九州王朝の中枢領域ではなく、近畿(摂津難波)に最初に取り入れられたことも、九州王朝説にとって不都合な考古学的事実である。
 ④「天子」を自称した7世紀初頭の多利思北孤の時代から白村江戦以前の7世紀中頃までは九州王朝(倭国)が最も興隆した時代と思われる(唐と一戦を交えられる国力を有していた)。しかし、その宮殿は配下の近畿天皇家(前期難波宮)の方がはるかに巨大であることは、九州王朝説では合理的な説明ができない。

 こうしたことが九州王朝説にとって深刻な問題であることに気づいたわたしは何年も悩み続けました。
 一元史観との論争(他流試合)を経験された方であれば理解していただけると思いますが、わたしがある著名な理系の研究者に古田説・九州王朝説を説明したところ、邪馬壹国が博多湾岸にあったことには賛意を示してくれたのですが、6〜7世紀時点では大和朝廷が列島の代表者と考える方が考古学的諸事実や『日本書紀』の記事と整合しているとの実証的反論を受け、約2時間論争しましたが、ついにその研究者を説得できませんでした。
 彼は理系の研究者らしく、「あなた(古賀)も理系の人間なら、解釈ではなく、近畿よりも九州に権力中心があったとするエビデンスを示せ」と、わたしに迫ったのです。すなわち、中国史書の倭国伝などを史料根拠としての論理的帰結(論証)による九州王朝説を、彼は「一つの解釈にすぎない」として認めず、具体的なエビデンス(考古学的証拠)に基づく「実証」を求めたのでした。この論法は「戦後実証史学」に見られる古田説・九州王朝説批判の典型的なものでもあります。なお付言しますと、彼は真摯な研究者であり、一元史観にこだわるという頑固な姿勢ではなく、九州王朝説にも深い関心を持たれていました。
 今回の問題についても、前期難波宮を近畿天皇家の宮殿と理解する限り、それは“7世紀中頃には既に九州王朝はなかった”という新たな一元史観(修正一元史観)を支持するエビデンス(証拠)として「戦後実証史学」にからめ取られてしまうのです。(つづく)


第1545話 2017/11/26

古田先生との論争的対話「都城論」(6)

 わたしの前期難波宮九州王朝副都説の本質は前期難波宮を九州王朝説ではどのように理解し、位置づけるのかにありますが、その対極にある一元史観の通説「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」がどのような論理構造に基づいて成立しているのかについて解説したいと思います。
 一元史観の都城論において、基本的な論理構造は考古学的出土事実と『日本書紀』や『続日本紀』の史料事実の対応です。特に8世紀初頭と7世紀後半における律令時代にふさわしい全国支配のための王宮として、平城宮と藤原宮という巨大朝堂院を有する宮殿が出土し、その年代なども『続日本紀』『日本書紀』の記述とほぼ矛盾なく整合しています。
 藤原宮(京)の創建により、701年以降の近畿天皇家は朝堂院と朝庭を有する宮殿において律令による全国統治を行ったことに由来する「大和朝廷」という呼称が妥当な列島の代表王朝となりました。藤原宮に比べて、各地の国府の規模は律令体制下の各国を統治するのに必要な小規模な宮殿(大宰府政庁Ⅱ・Ⅲ期の宮殿もこの規模)で出土しています。各国府遺構と比較してもはるかに巨大な平城宮や藤原宮が全国支配に対応した規模であることは明らかです。
 このような考古学的事実による実証と、『日本書紀』『続日本紀』の史料事実による実証が整合していることが一元史観成立の基本的な根拠の一つになっているのです。この論理構造の延長線上に、前期難波宮の一元史観による理解と位置づけがなされています。
 わかりやすく箇条書きで一元史観による「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」説成立に至った論理構造を説明します。

 ①律令による全国統治に必要な王宮の規模として、大規模な朝堂院様式の出土遺構として平城宮や藤原宮という先例がある。
 ②その先例に匹敵する巨大宮殿遺構が大阪市法円坂から出土し、「前期難波宮」と命名された。
 ③前期難波宮の創建年代について、孝徳期か天武期かで永く論争が続いた。
 ④「戊申年」木簡や7世紀中頃の土器などの考古学的出土事実により、孝徳期創建説が通説となった。
 ⑤そうした考古学的事実に対応する『日本書紀』孝徳紀に見える「難波長柄豊碕宮」が前期難波宮であるとした。
 ⑥その結果、『日本書紀』孝徳紀にある「大化改新詔」を実施した宮殿は前期難波宮(難波長柄豊碕宮)とする理解が可能となり、文献史学で論争されていた「大化改新」の是非について、「大化改新」は歴史事実とする説が有力となった。

 以上のように、『日本書紀』孝徳紀の「論じることができないような宮殿」創建記事(白雉三年条)と、法円坂から出土した前期難波宮は、古田先生のいう「シュリーマンの法則」、すなわち伝承(史料)と考古学的出土事実が一致すれば、その伝承は真実である可能性が高いという好例となります。こうした強固な論理構造により、一元史観による通説(前期難波宮=難波長柄豊碕宮)は成立しているのです。考古学事実に基づく実証と『日本書紀』の史料事実に基づく実証の相互補完により成立している「戦後実証史学」は決して侮ることはできません。(つづく)


第1535話 2017/11/05

古田先生との論争的対話「都城論」(5)

 「難波長柄豊碕宮」についての古田説を説明してきましたが、わたしの副都説の本質は前期難波宮を九州王朝説ではどのように理解し、位置づけるのかにあります。すなわち、7世紀中頃の宮殿としてはけた違いに大規模で(7世紀末に近畿天皇家の藤原宮が完成するまでは日本最大)、日本初の中国風の朝堂院様式の前期難波宮を倭国(九州王朝)の天子の宮殿とするのか、その配下の近畿天皇家(孝徳天皇)の宮殿とするのかという問題です。この問題を明確にするために次の四つの問いを示し、それを最もよく説明できる答えを反対される方々に求めてきました。

1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 通説と古賀説の「解答例」を記し、難波朝廷博多湾岸説による「解答」も考察してみます。

〔解答例1・通説〕
1.孝徳天皇の難波長柄豊碕宮。
2,大和朝廷が全国を評制統治するための宮殿。
3,前期難波宮と周囲の官衙群、あるいは飛鳥宮。
4.諸説あるが未定。

〔解答例2・古賀説〕
1.九州王朝の天子の宮殿。
2.九州王朝が全国を評制統治するための宮殿(副都)。
3.前期難波宮と周囲の官衙群。前期難波宮焼失後は太宰府(首都)か。
4.前期難波宮。

 難波朝廷博多湾岸説の解答例は次のようになると考えられます。

〔解答例3・難波朝廷博多湾岸説〕
1.『日本書紀』に記されていない近畿天皇家の宮殿。
2.不明。
3.博多湾岸の愛宕神社にあった難波朝廷(別宮)で評制樹立。「奥宮」は太宰府。
4.不明。(古田先生から直接お聞きしたご意見は別に詳述します)

 このような「解答」が難波朝廷博多湾岸説では想定できます。わたしから見ると、それぞれの説に一長一短があり、通説では4が、難波朝廷博多湾岸説では2と4の答えが導き出せないように思われます。わたしの副都説にも説明しにくい弱点があります。その理由は各説の持つ論理構造にあります。(つづく)

 


第1534話 2017/11/04

古田先生との論争的対話「都城論」(4)

 『日本書紀』に孝徳の宮殿と記された「難波長柄豊碕宮」を、古田先生は博多湾岸にある類似地名(名柄川、豊浜)の存在を根拠に、福岡市西区の愛宕神社にあったとする仮説を発表されたのですが、その仮説はそれだけにとどまることなく、その地が九州王朝の「難波朝廷」であり、評制を施行した宮殿とされました。2008年1月の大阪講演会では次のように述べられています。

 「その中(『皇太神宮儀式帳』『神宮雑例集』、古賀注)に『難波長柄豊碕宮』や『難波朝廷』が出てくる。(中略)これが実は博多の宮殿を指している。この『難波朝廷』は九州博多にある九州王朝の宮殿を指している。その時に『評』が造られた。このように考えます。」(『古代に真実を求めて』12集、2009年明石書店刊。50頁)

 『なかった』五号(ミネルヴァ書房、2008年6月)の古田武彦「大化改新批判」にも次のように記されています。

 「(補1)博多湾岸の『難波の長柄の豊碕』は、九州王朝の別宮であり、最高の軍事拠点である。ここにおいて『評制』も樹立された可能性がある。もちろん『九州王朝の評制』である。
 『近畿の(分王朝の)軍』を率いた近畿分王朝の面々(皇極天皇・中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我入鹿等)は、この『九州王朝の別宮』に集結していた。その近傍において『入鹿刺殺』の惨劇が行われたこととなろう。」(33頁)

 このように、古田先生は博多湾岸の愛宕神社に「難波朝廷」があり、ここで九州王朝の評制を樹立したとする仮説を発表されたのです。この場合、九州王朝の「難波朝廷」がそこにあったとする史料根拠は『皇太神宮儀式帳』です。それ以外に「難波朝廷で天下立評した」と記した史料はありません。ちなみに『皇太神宮儀式帳』は『日本書紀』の影響を受けた後代史料だから歴史史料として使えないとする論者もあるようですが、史料批判の上で使用された古田先生の学問の方法と異なることは明らかです。わたしも古田先生と同意見で、史料批判により『皇太神宮儀式帳』は歴史史料として使用できると考えています。
 前期難波宮を孝徳の難波長柄豊碕宮とする一元史観の通説に対して、わたしは前期難波宮九州王朝副都説を発表していたのですが、新たに古田先生は「難波長柄豊碕宮=難波朝廷」博多湾岸説とそこでの評制樹立説を提起されたのです。こうして、三つの説が出そろって、わたしと古田先生の長期にわたる「論争」が本格的に始まったのでした。(つづく)


第1533話 2017/11/04

古田先生との論争的対話「都城論」(3)

 『日本書紀』孝徳紀に孝徳の宮殿と記された「難波長柄豊碕宮」の場所を古田先生は博多湾岸の愛宕神社と講演で話されたのですが、この古田仮説にわたしは疑問をいだいていました。それは次のような理由からでした。

 ①「難波長柄豊碕宮」が造営された7世紀中頃は白村江戦(663)の直前であり、博多湾岸のような敵の侵入を受けやすい所に九州王朝が宮殿(太宰府の別宮)を造営するとは考えられない。
 ②7世紀中頃の宮殿遺構が当地からは発見されていない。
 ③近畿天皇家の孝徳が「遷都」したとする摂津難波の宮殿名を、『日本書紀』編者がわざわざ九州王朝の天子の宮殿名に変更して記さなければならない理由がない。本来の名前を記せばよいだけなのだから。

 このようにわたしは考えていました。特に①の理由については、これまで古田先生と散々論じてきたテーマであり、先生が言われてきたこととも矛盾していました。
 わたしと古田先生は、5世紀の「倭の五王」の宮殿がどこにあったのかで論争を続けていました。古田先生は太宰府都府楼跡(大宰府政庁Ⅰ期)とするご意見でしたが、わたしは大宰府政庁Ⅰ期出土の土器編年はとても5世紀までは遡らないし、堀立柱の小規模な遺構であり、倭王の宮殿とは考えられないと反論してきました。そして次のような対話が続きました。

古田「それならどこに王都はあったと考えるのか」
古賀「わかりません」
古田「水城の外か内か、どちらと思うか」
古賀「5世紀段階で九州王朝が水城の外側に王都を造るとは思えません」
古田「だいたいでもよいから、どこにあったと考えるか」
古賀「筑後地方ではないでしょうか」
古田「筑後に王宮の遺跡はあるのか」
古賀「出土していません」
古田「だったらその意見はだめじゃないですか」
古賀「だいたいでもいいから言えと先生がおっしゃったから言ったまでで、まだわかりません」

 およそこのような「論争的」会話が続いたのですが、合意には達しませんでした。しかし「水城の内側(南側)」という点では意見の一致を見ていました。
 こうした論議の経緯がありましたので、古田先生が「難波長柄豊碕宮」を「水城の外側」博多湾岸の愛宕神社とする仮説を出されたことを不思議に思ったものです。しかし、事態は更に「発展」しました。(つづく)


第1532話 2017/11/03

古田先生との論争的対話「都城論」(2)

 10年続いた古田先生との前期難波宮論争でしたが、実はいくつかの重要な合意形成もしてきました。その一つに『日本書紀』孝徳紀に孝徳の宮殿と記された「難波長柄豊碕宮」についての見解です。
 一元史観の通説では「難波長柄豊碕宮」を法円坂の巨大宮殿遺構前期難波宮としているのですが、古田先生もわたしも地名が異なっているので、そこではないと意見が一致していました。わたしは大阪市北区の長柄・豊崎が地名が一致しており、そこを有力候補とする試案を発表しました。古田先生は博多湾岸の愛宕神社近辺の類似地名「名柄川」「豊浜」などを根拠に当地にあったとする仮説を発表されました。それぞれに根拠(地名の一致、類似)があるため、7世紀中頃の宮殿遺構の有無が決め手になるとわたしは指摘してきました。
 なお、わたしの前期難波宮九州王朝副都説の本質は、あの国内最大規模の前期難波宮を九州王朝説の立場からどのように理解し位置づけるのかにありますから、孝徳の宮殿と記された「難波長柄豊碕宮」の場所の問題は直接には前期難波宮副都説とは関係ありません。この点を誤解された批判や論稿が散見されますので、指摘しておきたいと思います。
 この「難波長柄豊碕宮」について、古田先生は博多湾岸の愛宕神社とされたのですが、2008年1月の大阪市での講演会では次のように話されていました。

 「九州王朝論の独創と孤立について」(古田武彦講演会、主催「古田史学の会」、2008年1月19日)

 福岡市西区に「名柄(ながら)川」「名柄(ながら)浜」「名柄団地」があり、今は地図にないが「名柄(ながら)町」があった。それで「ナガラ」という地名はありうる。(中略)
 それで、わたしがここではないかと考えていたのが、そこの豊浜の「愛宕山」。愛宕神社がある。平地の中にしてはたいへん小高いので、今まで敬遠して上ったことはなかった。(中略)それで上に登ると絶景で、博多湾が目の下に見えている。そして岩で出来ていて、目の下が豊浜。(中略)
 九州王朝の歴史書で書かれていた「難波長柄豊碕宮」はここではないか。(中略)もちろんこの「難波長柄豊碕宮」は、太宰府の紫宸殿とは別のところにあります。別宮のような性質です。以上が「難波長柄豊碕宮」に対する現在のわたしの理解です。
(『古代に真実を求めて』第12集所収。古田史学の会編・明石書店、2009年)

 九州王朝の都城の所在地の変遷について、古田先生と論議を続けていましたので、この古田仮説にわたしは疑問をいだいていました。(つづく)


第1531話 2017/11/02

古田先生との論争的対話「都城論」(1)

 ミネルヴァ書房版『古田武彦の古代史百問百答』を読んで、わたしのことに触れられた箇所がいくつかあるのですが、中でも次の部分は学問的にも貴重で懐かしく当時のことを思い出しました。古田先生の三回忌も過ぎましたので、ご紹介したいと思います。

 「その間、藤原宮の大極殿問題を発端とする、古賀達也氏(古田史学の会)との(論争的)応答や西村秀己氏(同上)の(「七〇一」禅譲)説などが、大きな刺激となりました。」(223頁)

 ここで書かれているように、古田先生とは様々なテーマで意見交換や学問的討議、ときに激しい「論争的」応答もしてきました。わたしも先生も負けず嫌いな性格でしたので、先生のご自宅や電話で長時間論争したこともありました。ただし、わたしは終始一貫して敬語で応答しました。それは「師弟」間の礼儀ですし、31歳のとき古田史学に入門以来、何よりもわたしは古田先生を尊敬してきたからです。その気持ちは今でもまったく変わりありません(師弟間〔坂本太郎さんと井上光貞さん〕の学問論争のあり方について、古田先生から興味深いお話と関係論文をいただいたことがあるのですが、そのことは別の機会にご紹介します)。
 その「論争的」対話の一つに九州王朝や大和朝廷の都城論がありました。中でも最も長期間の応答が続いたのが、前期難波宮九州王朝副都説についてでした。大阪市中央区法円坂で発見された7世紀中頃の巨大宮殿「前期難波宮」を通説通り近畿天皇家の孝徳の宮殿とすることに疑念を抱いたわたしは、それを九州王朝の宮殿ではないかとする作業仮説(思いつき)を古田先生に話したことがありました。論文発表よりもかなり前のことでした。
 もちろん、古田先生は賛成されませんでしたが、それ以後、古田先生の反対意見に答えるべく10年間にわたり論文を発表し続けました。古田先生以外から出された反対意見に対しても、これでもかこれでもかと執念の研究と発表を続けたのです。そして2014年の八王子セミナーの席上で、ついに古田先生から「検討しなければならない」の一言を得るに至ったのです。もちろん、古田先生がわたしの説に賛成されたわけではありませんが、それまでの「反対意見表明」ではなく、検討すべき仮説の一つとして認めていただいたもので、その日の夜、わたしはうれしくてなかなか眠れませんでした。(つづく)


第1513話 2017/10/07

すみません。鷲尾愛宕神社の海抜26mを海抜68mに訂正

福岡市西区の愛宕神社初参拝

 明日の久留米大学福岡サテライト教室での講演会のために、今日から福岡入りしました。時間があったので、福岡市西区姪浜の鷲尾愛宕神社を初参拝しました。博多湾や福岡市街を一望できるスポットです。急峻な参道を登ると博多湾に浮かぶ能古島や志賀島が眼前に広がります。山頂に愛宕神社社殿があり、そこはそれほど広い場所ではなく、社殿と社務所と展望台という感じでした。
 古田先生によれば『日本書紀』孝徳紀に見える「難波長柄豊碕宮」はこの愛宕神社の地とされています。そこで、その愛宕神社を実見したいと願っていました。今日、当地を初めて訪れて、思っていたよりも標高(海抜68m)があり、急峻で、頂上の社殿スペースが狭いということがわかりました。従って、博多湾岸を見下ろす小規模な「砦」、あるいは「物見台」には適地ですが、7世紀中頃の九州王朝(倭国)の天子の宮殿にふさわしい所とはとても思えませんでした。何よりも九州王朝の天子の宮殿を建てられるようなスペースがなく、少なくとも数百人には及ぶであろう、天子家族と衛兵・従者・側用人らの生活に必要な水源もないようです。それとも、衛兵や従者らは水と食料を持参し、山中に野営でもしたとするのでしょうか。戦場であればともかく、『日本書紀』に記されるほどの天子の宮殿に対して、わたしにはそうした光景は想像不可能です。
 また、この海岸に接した位置に天子の宮殿を造営しなければならない理由も不明です。もし造るのなら、より安全な水城の内側ではないでしょうか。当地は白雉改元の儀式や全国を評制支配する政治拠点には不適で、『日本書紀』にわざわざ「難波長柄豊碕宮」と記されるような場所とは思われませんでした(この点については古田先生も気づいておられたようで、そのことについては別途紹介します)。更に7世紀中頃の有力者(九州王朝の天子)が居したとするような現地伝承も見あたりません。
 古田先生が自説の根拠とされた地名の「類似」(那の津、名柄川、豊浜)にしても、愛宕神社の北側の地名が「豊浜」ですから、神社がある愛宕山(旧名:鷲尾山)を「豊碕」と推定する根拠は穏当と思います。しかし「長柄(ながら)」の根拠とされた名柄川は約1.5kmほど西側ですし、「ながら野」は南西方向へ約2.5kmの所にあり、神社のある「愛宕」とは別の場所です。「難波」地名も同地域には見あたりません。ですから、地名の「類似」という根拠もあまり学問的説得力を感じられません。
 もっとも、現存地名やその位置・範囲が7世紀中頃と同じかどうか不明ですから、「類似」地名による論証成立の是非は判断し難いと言わざるを得ません。やはり「決め手」は7世紀中頃の宮殿遺構の出土、あるいはその考古学的痕跡の発見です。これが明確になれば「一発逆転」が可能かもしれません。
 以上が現地訪問の感想ですが、結論を急がず、引き続き調査検討を進めたいと思います。


第1506話 2017/09/24

大阪歴博で市大樹さんの講演を聴講

 昨日は大阪歴博で開催された「大坂の歴史を掘る2017」の市大樹さん(大阪大学・準教授)の講演を聴講しました。「古田史学の会」からは小林嘉朗副代表、正木裕事務局長、服部静尚編集長、久冨直子さんも参加されました。
 市さんの講演主旨は、前期難波宮の造営を従来説より早く開始されたとされ、白雉改元儀式も完成の二年前の650年に前期難波宮で開催されたとする新説です。「洛中洛外日記」1470話「白雉改元『難波長柄豊碕宮』説」に市さんの当該論文「難波長柄豊碕宮の造営過程」を紹介していますので、ご参照ください。
 率直な感想としては、『日本書紀』孝徳紀の記事を無批判に「是」として、それを前提に各記事を解釈するという、言わば仮説に仮説を積み重ねるというかなり無茶な方法論が採用されており、古田史学の学問の方法とは異なると感じました。ただ、従来説の弱点であった、白雉改元の儀式を行った宮殿が上町台地のどこであったのか不明という難題に対して、果敢に一元史観の立場から挑戦された姿勢は、同じ研究者として共感できました。
 講演終了後に市さんに御挨拶し、「古田史学の会・代表」の名刺を差し上げました。司会を歴博の考古学者、李陽浩さんがされておられましたので、李さんにも御挨拶しました。李さんは古代建築研究の第一人者で、優れた論文を数多く発表されています。わたしも前期難波宮のことについて多くのことを教えていただいています。いつか「古田史学の会」で講演していただければと考えています。


第1486話 2017/08/24

大阪歴博で市大樹さんの講演会

 木簡研究で優れた業績を発表された市大樹さんの論文「難波長柄豊碕宮の造営過程」(武田佐知子編『交錯する知』思文閣出版、2014年)について、「洛中洛外日記」1470話「白雉改元『難波長柄豊碕宮』説」にて紹介しました。
 『日本書紀』孝徳紀の白雉改元(650年2月)の儀式が行われた宮殿を前期難波宮とする新説を市さんは発表されたのですが、そのことを講演されるようです。前期難波宮(通説では難波長柄豊碕宮)の完成は孝徳紀白雉三年(652年9月)と記されており、その二年以上前に白雉改元の儀式が前期難波宮で行われるとは考えにくいと思うのですが、上町台地で大規模な改元儀式が行える場所は前期難波宮(法円坂)以外にはありません。そのため、市さんは650年には改元儀式が行える程度には工事が進んでいたとされました。
 わたしは『日本書紀』の白雉と九州年号の白雉は2年のずれがあり、九州年号の白雉元年(652年)であれば、その年に完成した前期難波宮での改元儀式は可能と考えています。すなわち、九州王朝説と九州年号の実在を認めれば、前期難波宮の完成と白雉改元儀式の年が一致し、市さんのように完成の2年前に改元儀式を行ったという無理な解釈にはしらなくてもすむのです。講演会で質疑応答ができれば、この点をお聞きしたいと思います。
 最後に大阪歴博ホームページの講演会の案内を転載します。前期難波宮が一元史観の通説ではどのように位置づけられているのかがよくわかりますので、ご参照ください。

【転載】
特集展示「新発見!なにわの考古学2017」関連行事
「大阪の歴史を掘る2017」講演会
 市 大樹氏講演
孝徳朝における難波の諸宮

 特集展示「新発見!なにわの考古学2017」の関連行事の一つとして9月23日(土・祝)に「大阪の歴史を掘る2017」講演会を開催します。
 今回は、大阪大学大学院文学研究科 准教授の市 大樹氏にご講演いただきます。前期難波宮が孝徳天皇の造営した難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)に相当することは、現在ほぼ受け入れられています。しかし『日本書紀』をひもとくと、孝徳朝には難波の諸宮として、子代離宮(こしろのかりみや)・蝦蟇行宮(かわずのかりみや)・小郡宮(おごおりのみや)・難波碕宮(なにわさきのみや)・味経宮(あじふのみや)・大郡宮(おおごおりのみや)なども登場し、問題はかなり複雑です。この講演では、難波長柄豊碕宮に軸を据え、他の諸宮との関係を探ります。
 また、当館の村元健一が、特集展示「新発見!なにわの考古学2017」で展示する大阪市内の発掘調査の成果を紹介します。注目される調査には喜連西(きれにし)遺跡の古墳時代初頭の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)、後期難波宮の官衙(かんが)、住吉行宮(すみよしあんぐう)跡の堀と思われる中世の大規模な溝があります。昨年の発掘調査から何が明らかになったのかを考えます。

主催 大阪歴史博物館
日時 平成29年9月23日(土・祝)
   午後1時30分〜4時30分(午後1時より受付)
会場 大阪歴史博物館 4階 講堂
内容
「平成28年度 大阪市内の発掘調査」
     村元健一(当館学芸員)
「孝徳朝における難波の諸宮」
     市大樹 氏(大阪大学大学院文学研究科 准教授)

定員 250名(当日先着順)
参加費 500円
参加方法 当日直接会場にお越しください


第1484話 2017/08/20

7世紀の王宮造営基準尺(2)

 7世紀頃の王都王宮の遺構の設計基準尺について現時点でわたしが把握できたのは次の通りですが、この数値の変遷が何を意味するのかについて考えてみました。

(1)太宰府条坊(7世紀頃) 1尺約30cm。条坊道路の間隔が一定しておらず、今のところこれ以上の精密な数値は出せないようです。
(2)前期難波宮(652年) 1尺29.2cm 回廊などの長距離や遺構の設計間隔がこの尺で整数が得られます。
(3)大宰府政庁Ⅱ期、観世音寺(670年頃) 1尺約29.6〜29.8cm 政庁と観世音寺中心軸間の距離が594.74mで、これを2000尺として算出。礎石などの間隔もこの基準尺で整数が得られるとされています。
(4)藤原宮 1尺29.5cm ものさしが出土しています。
(5)後期難波宮(726年) 1尺29.8cm 律令で制定された「小尺」(天平尺)とされています。

 これら基準尺のうち、わたしが九州王朝のものと考える三つの遺構の基準尺は次のような変遷を示しています。

①太宰府条坊(7世紀頃) 1尺約30cm
②前期難波宮(652年) 1尺29.2cm
③大宰府政庁Ⅱ期、観世音寺(670年頃) 1尺約29.6〜29.8cm

 7世紀初頭頃に造営されたと考えている太宰府条坊は「隋尺」(30cm弱)ではないかと思いますが、前期難波宮はそれよりも短い1尺29.2cmが採用されています。この変化が何により発生したのかは今のところ不明です。670年頃造営と思われる大宰府政庁Ⅱ期、観世音寺の1尺約29.6〜29.8cmは「唐尺」と思われます。この頃は白村江戦後で唐による筑紫進駐の時期ですから、「唐尺」の採用は一応の説明ができそうです。
 ここで注目すべきは、前期難波宮の1尺29.2cmで、藤原京の1尺29.5cmとは異なります。従って、こうした両王都王宮の設計基準尺の違いは、前期難波宮天武朝造営説を否定する事実と思われます。同一王朝の同一時期の王都王宮の造営基準尺が異なることになるのですから。(つづく)


第1481話 2017/08/17

一元史観から見た前期難波宮(5)

 一元史観から見た前期難波宮として、この巨大宮殿を大和朝廷一元史観の研究者がどのように評価し、論じているのかを紹介してきました。本シリーズの最後に前期難波宮が日本古代史学界にもたらした学問的意義について説明します。その最たるものは、いわゆる大化改新論争への影響でした。
 『日本書紀』孝徳紀に見える大化二年(646)の改新詔について、歴史事実とする見解と『日本書紀』編者による創作であり大化改新はなかったとする説、そして両者の中間説として、大化改新に相当する詔は出されたが、その記事は8世紀の律令用語により脚色されているとする説がありました。どちらかというと大化改新はなかったとする説が有力視されていたようですが、前期難波宮の発掘調査が進み、その結果、学界の流れが大きく変化したのです。
 大化改新虚構説煮立たれている山尾幸久さんの論稿「『大化改新』と前期難波宮」(『東アジアの古代文化』133号、2007年)にも次の記述があります。

 「右のような『大化改新』への懐疑説に対して、『日本書紀』の構成に依拠する立場から、決定的反証として提起されているのが、前期難波宮址の遺構である。もしもこの遺構が間違いなく六五〇〜六五二年に造営された豊碕宮であるのならば、『現御神天皇』統治体制への転換を成し遂げた『大化改新』は、全く以て疑う余地もない。その表象が現実に遺存しているのだ。」(11頁)

 大化改新虚構説に立つ山尾氏は苦渋を示された後、前期難波宮の造営を20年ほど遅らせ、改新詔も前期難波宮も天武期のものとする、かなり強引な考古学土器編年の新「理解」へと奔られました。
 中尾芳治さんは、1986年発行の『考古学ライブラリー46 難波京』(中尾芳治著、ニュー・サイエンス社)で次のように記されています。

 「孝徳朝に前期難波宮のように大規模で整然とした内裏・朝堂院をもった宮室が存在したとすると、それは大化改新の歴史評価にもかかわる重要な問題である。」
 「孝徳朝における新しい中国的な宮室は異質のものとして敬遠されたために豊碕宮以降しばらく中絶した後、ようやく天武朝の難波宮、藤原宮において日本の宮室、都城として採用され、定着したものと考えられる。この解釈の上に立てば、前期難波宮、すなわち長柄豊碕宮そのものが前後に隔絶した宮室となり、歴史上の大化改新の評価そのものに影響を及ぼすことになる。」(93頁)

 このように、巨大な朝堂院様式の前期難波宮の存在が大化改新論争のキーポイントであることが強調されています。こうして、前期難波宮の出現は大化改新論争に決定的な影響を与え、孝徳期に前期難波宮を舞台に大化改新がなされたとする説が学界内で有力説となりました。
 古田学派内でも大化改新論争が続けられています。「古田史学の会」関西例会では『日本書紀』の大化二年条(646)に見える改新詔がその時期(九州年号の「常色」年間)に出されたものか、九州年号「大化」期(元年は695年)の「詔」が『日本書紀』編纂時に50年遡って転用されたものかについて、個別の「詔」ごとに論争と検討が続けられています。従って、「常色」年間の事件であれば前期難波宮がその舞台と考えられ、九州年号「大化」年間のことであれば舞台は藤原宮となり、このことについても論争が続けられています。
 最後に前期難波宮の巨大さを表現するために、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)はfacebookで前期難波宮の平面図を掲載され、その朝堂院の中に陸上の400mトラックがすっぽりと入ることを図示されました。冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)も前期難波宮の面積を計算され、朝堂院だけで約5万平方メートルあり、東京ドーム1個が入り、まだ1万平方メートルほど余裕があるとのことです。更にこの朝堂院の他に内裏や八角殿、正殿なども前期難波宮は含んでいます。この壮大な規模を古田学派の研究者にも実感していただければと願い、本稿を執筆しました。(完)