難波朝廷(難波京)一覧

第941話 2015/05/02

続・九州王朝滅亡の一因を考える

 九州王朝から大和朝廷への権力交替にあたって、九州王朝の首都太宰府は「無血開城」されたかのように、宮殿は破壊されず、巨大な防衛施設の水城も 健在のままでした。すなわち、九州王朝はその滅亡期において、「首都決戦」を行った痕跡が文献史料的にも考古学的にも見あたらないのです。この事実は、九州王朝の滅亡がどのようなものであったのかを考える上で重要なヒントになるように思われます。
 九州王朝が白村江の敗戦以後、実質的にも名聞的に も権威と実力を急速に失っていったと思われますが、7世紀末頃から8世紀初頭にかけて、列島内で「一大決戦」ともいうべき大きな戦争が2度行われました。
 一つは有名な「壬申の大乱」(672年)、もう一つは『続日本紀』にその痕跡が残されている「隼人の大乱」(712年、九州年号最終年の大長9年)です
(「続・最後の九州年号」『「九州年号」の研究』所収をご参照下さい)。

 わたしはこの二つの「一大決戦」こそ、九州王朝滅亡期の姿を考える上で、重要な事件だと推察しています。 「壬申の大乱」は近江朝廷の大友皇子と大海皇子(天武天皇)の争いとして『日本書紀』には特筆大書されていますが、わたしは「九州王朝の近江遷都」が白鳳元年(661年、『海東諸国記』の遷都記事による)になされたと考えていますから、大友皇子は父の天智天皇が定めた「不改常典」により九州王朝の権威を継承した、あるいは九州王朝の対唐徹底抗戦派を支持した人物ではなかったかと推察しています。とすれば、「壬申の大乱」は近江京などを中心とした九州王朝の 「首都決戦」だったと言えるかもしれません。
 もう一つは南九州での「隼人の大乱」で、これは最後の九州年号である「大長」の最末年「大長九年」 (712年)に起こっていますから、九州王朝の最終年の「大乱」であり、これも九州王朝の対大和朝廷徹底抗戦派による「一大決戦」と考えざるを得ません。
 この二つの「一大決戦」がともに九州王朝の首都太宰府から遠く離れた地で行われたことが、太宰府「無血開城」の遠因になったのではないでしょうか。
 さらにもう一つの理由、これは全くの想像ですが、九州王朝の天子は首都太宰府の有力氏族や人民からの信頼を決定的に失っていたのではなかったでしょうか。 白村江戦に先立ち、唐の脅威から逃げるように、難波副都や近江京を造営し、天子や百官百僚たちは首都の人民を見捨てて「遷都」したとき、残された太宰府の人々からの信頼を決定的に失ったのではないでしょうか。ですから「首都決戦」などできる条件を九州王朝は既に失っていたものと思われるのです。
 以上、今回の帰省で大野城(大城山)の遠景を見ながら考えたことでした。


第923話 2015/04/15

法道仙人開基の

  朝光寺訪問

 今日は兵庫県加東市に行きました。お客様との約束時間より早く到着しましたので、昼食の休憩を兼ねて近くの朝光寺を訪問しました。大きく立派な本堂(国宝)が見事でした。
 朝光寺は法道仙人が白雉2年に開基したとする寺伝を持つ古刹ですが、観光案内パンフレットなどでは、この白雉2年を『日本書紀』の白雉2年(651年)と紹介されていますが、やはり九州年号の白雉2年(653年)と理解すべきと思われます。開基伝承の出典は『朝光寺文書』などのようですので、これから調査したいと思います。
 朝光寺の他にも播磨地方には法道開基とされる白雉年間の創建伝承を持つ寺院が多く、九州年号研究でも注目されている地域なのです。ちなみに、加西市の一乗寺も法道による白雉元年の開基とされています。
 恐らく、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「元壬子年」(白雉元年壬子・652年)木簡も白雉年間における播磨地方の寺院創建ラッシュと関係するのではないかと推察しています。さらにはこの白雉年間の寺院創建は、九州年号の白雉元年(652)に完成した九州王朝の副都「前期難波宮」と無関係ではないようにも思われるのです。今後の研究の深化が期待されます。


第919話 2015/04/11

難波京朱雀大路の側溝出土か

 久しぶりに大阪歴史博物館に行ってきました。『葦火』最新号(175号、2015年4月)に黒田慶一さんによる報告「難波京朱雀大路の西側溝か? -朱雀門跡の南方で南北溝を発見-」が掲載されていました。
 同報告によると、前期難波宮の「朱雀門」南方140mで、長さ9.3m以上、幅2.2〜2.8m、深さ0.5mの正南北に延びる溝を検出したとのこと。溝から須恵器・土師器片や布目瓦が出土することから、古代の溝であることは間違いなく、この溝の中心から16.35m東側に、前期難波宮中軸の延長線がはしっています。従って、位置から考えて宮城南門から南へ延びる「朱雀大路」の西側溝である可能性が考えられるとのことです。
 今回の溝から復元される道路幅は32.7mと広く、藤原京の朱雀大路の約25mよりも規模が大きいことになります。これまで難波京から条坊の痕跡はいくつか発見されてきましたが、「朱雀大路」の可能性を示す遺構の出土は初めてです。黒田さんは「道路の幅、側溝の規模ともに、今回の溝は古代主要道路の側溝として遜色ないといえます。位置や規模から考えて、今回見つかった溝が『朱雀大路』の西側溝である可能性は高いでしょう。」とされています。
 こうして九州王朝の副都・前期難波宮の全貌が考古学的に明らかになりつつあります。これからも上町台地から、前期難波宮に関わる遺構の出土や遺物の発見が続くことをわたしは疑えません。とても楽しみです。


第904話 2015/03/21

「田身嶺・多武嶺」

  大野城説の衝撃

 本日の関西例会でも「大化改新詔」に関する論戦が続きました。論戦も佳境に入り、合意点や相違点も明確になりつつあり、学問的成果も続出しており、とても良い学問論争となっています。
 この他にも、服部静尚さんから河内の考古学的成果から、7世紀中頃の河内地方に人工増加のピークが発生していることを紹介され、前期難波宮の造営(九州王朝の進出)と律令制発布(条里制の施行など)の反映ではないかとされました。興味深い考古学的出土事実だと思います。
 正木裕さんからは『日本書紀』斉明紀2年条(656年、九州年号の白雉5年)に見える「田身嶺に冠しむるに周れる垣を以てす。復た嶺の上の両の槻の樹の辺に観(楼閣・たかどの)を起つ。号(なづ)けて両槻宮とす。亦は天宮と曰ふ。」の「田身嶺」を太宰府の北側にある大野城のこととする新説が発表されました。同記事中の「冠」に着目され、これを大野城の尾根筋に冠状に沿う全長約8kmの石垣や土塁のこととされました。大野城には石垣の他にも70棟以上の礎石建物、8箇所の城門(2階建て楼門)、水場が設けられています。これらは『日本書紀』の記事と一致していますし、何よりも大和にはこのような巨大山城はありませんので、大変有力な新説です。
 3月例会の発表は次の通りでした。

〔3月度関西例会の内容〕
①「海東鏡」(京都市・岡下英男)
②古代中国資料の考証について(奈良市・出野正)
③「古代海部氏の系図」の紹介(東大阪市・萩野秀公)
④七世紀 -九州王朝の河内支配と律令制施行(八尾市・服部静尚)
 1.七世紀の河内における考古学の成果
 2,孝徳期の律令(藤原宮での改新詔発布説は成り立たない)
 3,九州年号大化・白雉の盗用の背景
⑤『書紀』の「田身嶺・多武嶺」と大野城(川西市・正木裕)
⑥大化年号は何故移されたか -皇太子奏請記事の真実-(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(健康状態は元気で研究も進展されている。『古代史をひらく -独創の13の扉』復刊。『百問百答』の新刊初校段階)・古田先生購入依頼書籍(安本美典『邪馬一国はなかった』徳間文庫)・長岡京領域ハイキング・テレビ視聴(「難波津から斑鳩への道」安村俊史柏原歴史資料館館長、「聖徳太子と斑鳩」平田政彦斑鳩町教委)・「九州倭国通信」の紹介・その他


第896話 2015/03/12

「大化改新」論争の新局面

 古代史学界で永く続いてきた「大化の改新」論争ですが、従来優勢だった「大化の改新はなかった」とする説から、「大化の改新はあった」とする説が徐々に有力説となってきています。前期難波宮の巨大な宮殿遺構と、その東西から発見された大規模官衙遺跡群、そして7世紀中頃とされる木簡などの出土により、『日本書紀』に記された「大化の改新」のような事件があったと考えても問題ないとする見解が考古学的根拠を持った有力説として見直されつつあるのです。
 古田学派内でも服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)から、7世紀中頃に九州王朝により前期難波宮で「(大化の)改新」が行われたとする説が発表されており、九州年号の大化年間(695〜703)に藤原宮で「改新」が行われたとする、「九州年号の大化の改新」説(西村秀己・古賀達也)と論争が展開されています。
 さらに正木裕さん(古田史学の会・全国世話人)からは、『日本書紀』の大化改新詔には、九州年号・大化期(7世紀末)の詔勅と7世紀中頃の「常色(九州年号)の改新」詔が混在しているとする説が発表されており、関西例会では三つ巴の激論が交わされているところです。
 そうしたおり、正木さんから次のような趣旨のメールが関係者に配信されました。

1.前期難波宮関連遺構の発掘成果により、『日本書紀』に記された「大化の改新」が実在したとする説が優勢となりつつある。
2.この説が真実であれば、近畿天皇家が前期難波宮において「大化の改新」や「難波朝廷、天下立評」を実施したことになる。
3.この見解は九州王朝説を否定する有力根拠となる。
(古賀注:九州王朝の首都・太宰府には全国統治にふさわしい藤原宮や平城宮に匹敵する大規模宮殿・官衙遺構はない。従って、当時(7世紀中頃)としては列島内最大規模の前期難波宮(藤原宮に匹敵)を造営し君臨した孝徳天皇(近畿天皇家)こそ列島の代表王朝である、との九州王朝説否定の反論が可能となる。)
4.この問題への対応は古田学派・九州王朝説論者にとって喫緊の課題である。

 この正木さんの憂慮と問題提起は重要であり、わたしも全く同感です。というよりも、この問題点の存在に気づいたわたしは20年以上前から悩み続け、その結果、前期難波宮九州王朝副都説に至ったのですから。
 わたしの前期難波宮九州王朝副都説に反対される古田学派の研究者や九州王朝説論者の皆さんには、この正木さんの問題提起を真摯に受け止めていただきたいと思います。そのさい、史料根拠や考古学事実を示さない「空理空論」や、「ああも言えれば、こうも言える」ような抽象論ではなく、具体的な史料根拠・考古学的事実を提示した上で論じていただきたいと思います。
 いよいよ古田学派の研究者は近畿天皇家一元史観論者との「他流試合」に耐え得る学問の方法や知識が必要な局面に突入しました。わたしたちが古田先生に続かなければならない新たな時代を迎えたのです。今、わたしの心には「諸君、狂いたまえ」という吉田松陰の言葉が強く鳴り響いています。


第884話 2015/02/27

「玉作五十戸俵」木簡

       の初歩的考察

 難波宮近傍から出土した「玉作五十戸俵」木簡について、初歩的な考察を試みたいと思います。調査報告書や研究論文がまだ出されていないので、新聞発表や『葦火』174号(2015年2月)に掲載された谷崎仁美さんの報告「発見!『玉作五十戸俵』木簡」を参考にしました。

 同木簡の写真を見たとき、よく読解できたものだと思いました。大阪歴博の李陽浩(り・やんほ)さんにお聞きしたところでも、「玉作」と「俵」はすぐに読めたが「五十戸」は時間がかかったとのことでした。確かに「五」と「十」は異体字とも思えるような字で、特に「十」は「T」に近い字体です。「戸」も上の「一」が一画多い字体に見えます。

 さらにその筆跡もかなりの癖字で、その特徴的な筆跡から他の木簡にも似た筆跡が見つかるかもしれません。そしてうまくいけば他の木簡との比較により、不明とされている年代推定ができる可能性も残されています。この木簡が孝徳期まで遡れるとしたら、行政単位の「五十戸(さと)」が7世紀中頃に存在したこととなり、『日本書紀』の大化改新詔の研究が前進します。それほど貴重な木簡なのです。

 次にわたしが注目しているのが「玉作」という地名です。『和名抄』に見える郷名の「たまつくり」を根拠に、いくつかの地域が候補にあがっていますが、荷札木簡にしては疑問点があります。地方から前期難波宮に供出された荷物として「出荷地」を読む人(受取人・前期難波宮の役人)に伝えるためには最小地名単位の「玉作五十戸(さと)」だけでは各地にあったどこの「玉作」なのかわかりませんから、荷札としては「役立たず」なのです。すなわち、荷札としての本来の目的を果たすためには「○○国△△評玉作五十戸」と出荷地名を特定できる表記であってほしいのです。さらに出荷時期を示す「年干支」なども必要でしょう。記す場所も十分に残されているのに、なぜ書かれなかったのでしょうか(裏面に文字はありません)。不思議です。

 そこで、この現象を説明できる仮説があります。それは国名や評名を書かなくても、書いた人にも読んだ人にも「玉作五十戸」だけで場所が共通認識として特定できるケースとして、次の状況が考えられます。それはある特定の時期に難波の地域内、あるいは近傍の「玉作」からの供出のケースです。そのようなケースとして次の状況が考えられます。すなわち、前期難波宮造営のために造営時期に近隣の地域に供出を権力者が命じた場合です。このケースであれば、国名や評名がなくても供出地域が当初から限定されていますから、「玉作五十戸」だけで十分ですし、前期難波宮造営時の供出ですから、年次の記載も不要なのです。

 この仮説によれば「玉作」という地名が前期難波宮の近傍に存在しなければなりませんが、前期難波宮のすぐ南東に玉造町(大阪市中央区)や玉造本町(大阪市天王寺区)があります。ここからの供出であれば、書いた人も受け取った役人も「玉作五十戸」で十分です。

 以上、「玉作五十戸俵」木簡の初歩的考察でしたが、同木簡を実見できましたら更に論究したいと思います(現在は調査中のため同木簡は公開されていまん)。


第877話 2015/02/19

竜田関が守る都

 「前期難波宮」

 今日は朝から東京で仕事です。夕方までには仕事を終えて、名古屋に向かいます。今はお客様訪問の時間調整と休憩のため、八重洲のブリジストン美術館のティールーム(Georgette)でダージリンティーをいただいています。同美術館では五月からの改築工事を前にして「ベスト・オブ・ザ・ベスト」というテーマで美術館所蔵名画の展覧会が開催されています。改築に数年かかるとのことで、このお気に入りのティールームともしばらくの間、お別れです。

 さて、古代の「関」で有名なものに「竜田関(たつたのせき)」があります。河内から大和に入るルートとして大和川沿いの道(竜田越)があるのですが、そこに設けられたのが「竜田関」です。その比定地は河内側ではなく大和側にあります(「関地蔵」が残っています)。ということは、関ヶ原と同様に、守るべき都から見て、峠の外側(下側)に「関」はあるはずですから、この竜田関は大和方面から河内に侵入する「外敵」に対しての「関」ということになります。そして、河内方面にあった都とは「前期難波宮」しかありませんから、竜田関は前期難波宮防衛の為の施設であり、「外敵」として大和方面からの侵入者を想定していることになります。
 このことに気づかれたのが服部静尚さん(古田史学の会『古代に真実を求めて』編集責任者、八尾市)です。すなわち、竜田関は九州王朝の副都「前期難波宮」を大和(方面)の勢力から防衛するために設けられた「関」ではないかとされたのです。
 この服部説には説得力があります。もし、前期難波宮が「大和朝廷」の都であったとしたら、自らの故地であり勢力圏でもある大和との間に「関」を造る必要性は低く、もし造るとしても河内方面からの大和への侵入を防ぐ位置、すなわち河内側に「関」を作るのが理の当然ですが、どういうわけか大和側に竜田関は造られたのです。従って、この竜田関の「位置」は「前期難波宮」九州王朝副都説を支持しているのです。少なくとも、大和朝廷一元史観では合理的な説明ができません。
 このような竜田関の位置関係から、次のように言えるでしょう。すなわち、九州王朝は副都「前期難波宮」の造営に伴って、大和からの侵入に備えたのです。このことから、九州王朝は「大和朝廷」を無条件で信頼していたわけではないこともわかります。
 この「関」についての服部論文が『古代に真実を求めて』18集に掲載されますので、是非、ご一読ください。


第876話 2015/02/18

雪の関ヶ原を通過して

 今日の午前中は京都市内の代理店を訪問し、今は新幹線で東京に向かっています。車窓の風景が急に吹雪に変わったので、どこらへんだろうかと注視すると関ヶ原でした。吹雪は一瞬だけで、関ヶ原を抜けると青空が見えてきました。
 ご存じのように関ヶ原は有名な合戦場で、石田三成率いる西軍は、徳川軍を大垣城で迎え撃つことをやめ、関ヶ原で迎え撃っています。関ヶ原という地名からもわかるように、古代から「関」(不破関・ふわのせき)が置かれていた要衝の地です。京都防衛のため峠の外(東)側に「関」はあったのではないでしょうか。東山道を東から京都へ攻め上る外敵を待ち受けるには、峠の上に布陣し、美濃平野から狭い関ヶ原に進む敵を上から攻撃するほうが有利だからです。
 明治時代にこの「関ヶ原の戦い」の布陣図を見たドイツ参謀本部のメッケルは西軍の勝利と判断したそうです。それほど有利な布陣を敷いて石田三成は徳川軍を待ち受けたのですから、勝利を確信していたのではないでしょうか。結果は小早川の「裏切り」やその他の「日和見」により東軍の勝利となったわけですから、徳川家康の方が一枚上手だったということです。ちなみにメッケルは明治政府の要請で日本陸軍参謀教育のために来日していました。後の日露戦争のとき、欧州では誰もがロシアの勝利を予想していましたが、メッケルだけは日本陸軍には自分が育てた優秀な参謀がいるから、日本が勝つと言っていたそうです。
 なお、「参謀本部」を最初に創設したのはナポレオンに負けたドイツ(プロイセン)でした。天才ナポレオン一人に対して多数の秀才参謀によるチームワークで戦うという方針のもとに、敗戦国ドイツは参謀本部(軍事の強化)とベルリン大学(自然科学の強化)を創設し、ナポレオンとの次の戦いに備え、普仏戦争やワーテルローの戦いで雪辱をはたしたことは有名です。
 このように守るべき都から見て、峠の外側に「関」を置くということは軍事上からも当然のことなのですが、服部静尚さん(古田史学の会『古代に真実を求めて』編集責任者)はこの「関」について大発見をされました。(つづく)


第871話 2015/02/14

難波宮遺構から「五十戸」木簡出土

 出張を終え、週末に帰宅したら古谷弘美さん(古田史学の会・全国世話人、枚方市)からお手紙が届いており、2月4日付「日経新聞」のコピーが入っていました。それほど大きな記事ではありませんが、「『五十戸』記す木簡出土」「改新の詔の『幻の単位』」という見出しがあり、木簡の写真と共に次のような記事が記されていました。

 大阪市の難波宮跡近くで、地方の行政単位「五十戸」を記した木簡が出土し、大阪市博物館協会大阪文化財研究所が3日までに明らかにした。
日本書紀には、難波宮に遷都した孝徳天皇が、646年に出した大化改新の詔の一つに「役所に仕える仕丁は五十戸ごとに1人徴発せよ」とある。
しかし、五十戸と記した史料は、現在のところ天智天皇の時代の660年代のものが最古で、改新の詔の内容を疑問視する考えもある。
同研究所の高橋工調査課長は「木簡は書式が古く、孝徳天皇の時代にさかのぼる可能性があり、このころに『五十戸』があった証拠になるかもしれない」としている。(以下略)

 そして、この「玉作」という地名が陸奥や土佐にあったと紹介され、ゴミ捨て場とされる谷からの出土とのことで、そこからは古墳時代から平安時代までの出土品があり、木簡の正確な年代決定は難しいようです。

 写真で見る限り、肉眼による文字の判読は難しく、「作」「戸」「俵」は比較的はっきりと読めますが、他の文字は実物と赤外線写真で判読しなければ読めないように思われました。記事で紹介されていた高橋さんの見解のように、簡単に説明はしにくいのですが、その書式や字体は確かに古いように感じました。

 「洛中洛外日記」552話、553話、554話で紹介しましたように、「五十戸」は後の「里」にあたり、「さと」と訓まれている古代の行政単位です。すなわち、「○○国□□評△△五十戸」のように表記されることが多く、後に「○○国□□評△△里」と変更され、701年以後は「○○国□□郡△△里」となります。

 今回の「五十戸」木簡が注目される理由は、この「五十戸」制が孝徳期まで遡る可能性を指し示すものであることです。わたしは「洛中洛外日記」553話で次のように指摘し、「五十戸」制の開始は評制と同時期で、前期難波宮造営と同年で九州年号の白雉元年(652)ではないかとしました。

 わたしは『日本書紀』白雉三年(652)四月是月条の次の記事に注目しています。

 「是の月に、戸籍造る。凡(おおよ)そ、五十戸を里とす。(略)」

 通説では日本最初の戸籍は「庚午年籍」(670)とされていますから、この652年の造籍記事は史実とは認められていないようですが、わたしはこの記事こそ、九州王朝による造籍に伴う、五十戸編成の「里」の設立を反映した記事ではないかと推測しています。なぜなら、この652年こそ九州年号の白雉元年に相当し、前期難波宮が完成した九州王朝史上画期をなす年だったからです。すなわち、評制と「五十戸」制の施行、そして造籍が副都の前期難波宮で行われた年と思われるのです。(「洛中洛外日記」553話より抜粋)

 この「五十戸」木簡を自分の目で見て、更に論究したいと思います。それにしても難波宮遺跡や上町台地からの近年の出土品や研究は通説を覆すようなものが多く、目が離せません。


第867話 2015/02/10

尼崎市武庫之荘の

 大井戸古墳散策

 今日は仕事で尼崎市武庫之荘に来ています。当地は初めての訪問です。約束よりもちょっと早く着いたので、好天にも恵まれたこともあり、阪急武庫之荘駅の近くにある大井戸古墳を散策しました。大井戸公園内にある径13mほどの円墳で、あまり目立たないこともあり、公園内を探し回りました。
 案内版によると、1400年前の古墳時代後期の古墳で、群集墳が主流だった当時としては珍しく平地にある横穴式石室を持つ古墳とのこと。南側に入り口があり、花崗岩の天井石や須恵器が出土しています。
 この古墳以上にわたしが興味をひかれたのが「武庫之荘(むこのそう)」という地名です。「武庫」という地名から、古代律令制による武器庫があったのではないでしょうか。ところが有力説としては難波から見て「むこう」側にある地域なので「むこう」と言われ、「武庫」の字が当てられたとされています。しかし難波からは遠すぎるように思われますし、これほど離れた地域が難波から見て「むこう」と呼ばれたのであれば、大阪湾岸のあちらこちらに「むこう」という地名があってもよさそうですので、この難波の「むこう」という説にはあまり納得できません。もう少し考えてみたいと思います。


第848話 2015/01/03

金光元年(570)の「天下熱病」

 「洛中洛外日記」843話と844話で紹介した『王代記』の金光元年(570年、九州年号)に記された次の記事について、正木裕さんとメールで意見交換を続けています。

 「天下熱病起ル間、物部遠許志大臣如来召鋳師七日七夜吹奉トモ不損云々」

 当初、この記事の意味がよくわからなかったのですが、『善光寺縁起』に同様の記事があり、その大幅な「要約」であることに気づいたのです。
 概要は、天下に熱病が流行ったのは百済から送られてきた仏像(如来像)が原因とする、仏教反対派の物部遠許志(もののべのおこし)が鋳物師に命じてその仏像を七日七晩にわたり鋳潰そうとしたのですが、全く損なわれることはなかった、というものです。その後、仏像は難波の堀江に捨てられるという話しが、『善光寺縁起』では続きます。
 金光元年(570)に相当する『日本書紀』欽明紀には見えないこの事件や、発端となった「天下熱病」が歴史事実かどうか、正木さんとのメールのやりとりの中で気になり、考えてみました。
 正木説によれば福岡市元岡遺跡から出土した「大歳庚寅」銘鉄剣は国家的危機に際して作られた「四寅剣」とされ、この「庚寅」の年こそ金光元年(570)に相当するとされました。詳しくは正木裕「福岡市元岡古墳出土太刀の銘文について」、古賀達也「『大歳庚寅』象嵌鉄刀の考察」(『古田史学会報』107号、2011年12月)をご参照下さい。
 他方、近畿天皇家では「天下熱病」に対して、百済からの如来像がもたらした災いとして鋳潰そうとしました。ともに金光元年の出来事ですから、この二つの事件を偶然の一致とするよりは、「天下熱病」という国家的災難の発生という共通の背景がもたらしたものとする理解、すなわち「天下熱病」を史実とするのが穏当と思われるのです。
 さらにここからは論証抜きの思いつき(作業仮説)ですが、百済からの如来像はたまたま金光元年に近畿にもたらされたのではなく、「天下熱病」の平癒祈願のため九州王朝から送られたものではないでしょうか。にもかかわらず、それを鋳潰そうとしたり、難波の堀江に捨てたものですから、こうした事件が一因となって九州王朝と河内の物部は対立し、後に「蘇我・物部戦争」等により、物部は九州王朝に攻め滅ぼされたのではないでしょうか。
 以上の考察からも九州王朝と善光寺、そして難波・河内が「九州年号」や「聖徳太子」伝承とも関わり合いながら、密接な繋がりのあることがうかがえるのです。


第836話 2014/12/13

2014年の回顧

「前期難波宮」

 今年も12月半ばとなりました。2014年も「古田史学の会」では多くの研究がなされ、数々の学問的成果があがりました。そこで、本年を振り返り、特に印象に残ったことを記してみたいと思います。
 2005年10月の関西例会で、わたしが前期難波宮九州王朝副都説を発表してから、早いもので9年がたちました。今年もその前期難波宮遺構に関して重要な考古学的発見が発表されました。
 本年2月の新聞発表によれば、前期難波宮から出土した木柱の伐採年が「年輪セルロース酸素同位体比法」により、600年代前半であることが判明しました(「洛中洛外日記」667話にて紹介)。この発見により、前期難波宮遺構が7世紀中頃のものとする説が正しかったことが新たに証明されました。わたしは白雉改元(652年)の宮殿を前期難波宮としていましたから、この科学的測定結果と年代が一致しています。
 同じく2月に発行された『葦火』168号に、難波京の条坊跡(方格地割)の3例目となる遺跡(四天王寺南方)の発見が掲載されました(「洛中洛外日記」683話で紹介)。この発見などにより、前期難波宮が条坊都市であったことが、ほぼ確実と見なされるようになりました(条坊の全体像は不明)。
 今日までわたしは前期難波宮九州王朝副都説を論証する論文をいくつも発表してきましたし、考古学的出土事実もこの仮説に対応していました。実は、古田先生からは前期難波宮九州王朝副都説に対して、正面切っての批判などはありませんでしたが、講演会などでの質問に対して、否定的な見解を述べられてきました。
 ところが本年11月の八王子セミナーにおいて、わたしの知る限り、初めて古田先生は「検討しなければならない」と前期難波宮九州王朝副都説が検討に値する仮説であることを認められたのです。わたしが同セミナーでの古田先生のこの発言をお聞きして、どれほど嬉しく思ったかはご理解いただけることと思います。「前期難波宮九州王朝副都説は古田説とは大きく異なり、そのような研究を発表する古賀は古田史学の会の役員を辞めろ」という心ない非難もあびていましたので、なおさらでした。この先生の一言は、わたしにとっては2014年における最も貴重な学問的「成果」だったのです。
 わたしは30代の若い頃より、「師の説にな、なづみそ。本居宣長のこの言葉は学問の神髄です。」と古田先生から繰り返し教えられてきました。そしてその教えを実践してきました。それが間違いではなかったことを改めて確信できたのでした。