難波朝廷(難波京)一覧

第656話 2014/02/02

学問に対する恐怖

 最近、中部大学教授の武田邦彦さんがご自身のブログで「学問に対する恐怖」という表現を使用して、地球温暖化説が観測事実に基づいていない、あるいは故意に温暖化説に都合の悪いデータ(この15年間、地球の平均気温は上昇していない、等)を無視しているとして、不勉強な気象予報士や御用学者の「解説」を批判されていました。
 良心的な科学者であれば、地球温暖化説に不利な観測データを無視できないはず。温暖化説など怖くて発表できないはずと述べられているのですが、武田さんはこのことを「学問に対する恐怖」という表現で表しておられました。これは「真実に対する恐怖」と言い換えてもよいかもしれません。
 この「学問に対する恐怖」という表現は、わたしにもよく理解できます。新しい発見に基づいて新説を発表するとき、本当に正しい結論だろうか、論証に欠陥や勘違いはないだろうか、史料調査は十分だろうか、既に同様の先行説があるのではないか、などと不安にかられながら発表した経験が何度もあったからです。 中でも前期難波宮九州王朝副都説の研究の時は、かなり悩みました。『日本書紀』孝徳紀に記されたとおりの宮殿が出土したのですから、その前期難波宮を遠く 離れた九州王朝の副都とする新説を発表することが、いかに「学問的恐怖」であったかはご理解いただけるのではないでしょうか。
 当初、怖くてたまらなかった前期難波宮九州王朝副都説でしたが、その後の論証や史料根拠の増加により、今では確信を持つに至っています。何よりも、未だに「なるほど」と思えるような有効な反論が提示されていないことからも、今では有力な仮説と自信を深めています。
 前期難波宮九州王朝副都説への批判や反論は歓迎しますが、その場合は次の2点について明確な回答を求めたいと思います。

 1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
 2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。

 この二つの質問に答えていただきたいと思います。近畿天皇家一元史観の論者であれば、答えは簡単です。すなわち、孝徳天皇が評制により全国支配した宮殿である、と答えられるのです。しかし、九州王朝説論者はどのように答えられるのでしょうか。わたしの知るところでは、上記二つの質問に明確に答えら れた九州王朝説論者を知りません。
 7世紀中頃としては最大規模の宮殿である前期難波宮は、後の藤原宮や平城宮の規模と遜色ありません。藤原宮や平城宮が「全国」支配のための規模と様式を持った近畿天皇家の宮殿であるなら、それとほぼ同規模で同じ朝堂院様式の前期難波宮も、同様に「全国」支配のための宮殿と考えるべきというのが、避けられない考古学的事実なのです。
 この考古学的事実に九州王朝説の立場から答えられる仮説が、わたしの前期難波宮九州王朝副都説なのです。自説に不利な考古学的事実から逃げることなく、 学問への恐怖に打ち震えながらも、学問的良心に従って、反論していただければ幸いです。真摯な論争は学問を発展させますから。


第646話 2014/01/21

須恵器の飛鳥編年と難波編年

 1月18日、新年最初の関西例会が開催されました。初参加の方もあり、関西例会らしい活発な論議が交わされました。
 中国曲阜市から一時帰国されている青木さんからは、孔子の弟子に倭人がいたとする報告がなされ、曲阜地域から出土している「縄文土器」が日本の縄文式土器ではないかと指摘されました。縄文式土器は中南米からも出土していますから、隣国の中国から出土しても不思議ではありません。同「縄文土器」と日本の縄文式土器との様式比較や編年など、これからの調査研究が楽しみなテーマです。
 服部さんからは、前期難波宮造営を孝徳期ではなく天智期頃とする白石さんの論文「須恵器編年と前期難波宮」の分析と解説がなされ、『日本書紀』などを根拠に5~10年単位での須恵器編年が可能とする白石さんの「飛鳥編年」の根拠が脆弱なこと、出土須恵器の取り扱いが恣意的であることなどをわかりやすく説明されました。
 「飛鳥編年」に対しては、わたしも同様の疑問を感じていましたが、服部さんの報告はそのことが大変わかりやい資料やデータで示されており、参考になりました。やはり「飛鳥編年」よりも、大阪歴博の研究者たちが提起している「難波編年」の方がより科学的(年輪年代測定や干支木簡なども根拠として成立)で論理的(考古学と文献の一致など)と思われました。前期難波宮造営が7世紀中頃とする説は最有力と思います(そもそも『日本書紀』にもそう書いてありますし、その件に関して『日本書紀』編者が嘘をつく必要もありません)。
 1月例会の報告は次の通りでした。

〔1月度関西例会の内容〕
1). 孔子の弟子の中に、倭人が在り(中国曲阜市・青木英利)
2). 後漢書のイ妥国伝(木津川市・竹村順弘)
3). 「須恵器編年と前期難波宮」白石太一郎氏の提起を考える(八尾市・服部静尚)
4). 大宰府政庁2期整地層の須恵器杯Bの編年(京都市・古賀達也)
5). 徳川道(明石市・不二井伸平)
6). 明石二見港の歴史と工楽松右衛門(明石市・不二井伸平)
7). 「筑紫なる日向」を前提としたウガヤフキアエズの陵墓と神武の妻(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・新年賀詞交換会の報告・初詣(比売神社・春日大社・東大寺)・芭蕉句碑の確認「水取りや 籠り(「氷」?)の僧の 沓の音・東 大寺二月堂のお水取り「2月12日」は長屋王が殺された日(殺した側の「懺悔の日」の行事ではないか。長屋王は九州王朝系の人物ではなかったか。)・東大寺ミュージアム訪問・阿武山古墳シンポジウム・『藤氏家伝』(伏見宮家本)では藤原鎌足は火葬・その他


第633話 2013/12/12

「はるくさ」木簡の出土層

 「洛中洛外日記」第420話で、難波宮南西地点から出土した「はるくさ」木簡、すなわち万葉仮名で「はるくさのはじめのとし」と読める歌の一部と思われる文字が記された木簡が、前期難波宮整地層(谷を埋め立てた層)から出土していたと述べました。

 このことについて、するどい研究を次々と発表されている阿部周一さん(「古田史学の会」会員、札幌市)からメールをいただきました。その趣旨は「はるくさ」木簡は前期難波宮整地層からではなく、その整地層の下の層から出土したのではないかというご指摘でした。私の記憶では、大阪歴史博物館の学芸員の方から、「前期難波宮整地層(谷を埋め立てた層)から出土」とお聞きしていましたので、もう一度、大阪歴博の積山洋さんにおうかがいしてきました。

 積山さんの説明でも、同木簡は前期難波宮造営のために谷を埋め立てた整地層からの出土とのことでしたが、念のために発掘を担当した大阪市文化財協会の方をご紹介していただきました。大阪歴博の近くにある大阪市文化財協会を訪れ、ご紹介いただいた松本さんから詳しく同木簡の出土状況をお聞きすることができ ました。

 松本さんのお話しによると、同木簡が出土したのは第7層で、その下の第8層は谷を埋め立てた層で、埋め立て途中で水が流出したようで、その水により湿地層となったのが第7層とのことでした。水の流出により一時休止した後、続いて埋め立てられたのが第6層で、通常この層が前期難波宮「整地層」と表記されて いるようでした。しかし、第6層、第7層、第8層からは同時期(640~660年)の土師器・須恵器が出土していることから、いずれも前期難波宮造営時代 の地層とのことでした(埋め立てに何ヶ月、あるいは何年かかったかは遺構からは不明)。
松本さんからいただいた当該報告書『難波宮跡・大阪城跡発掘調査(NW06-2)報告書』にも、第6層を「整地層」、第7層を「湿地の堆積層」、第8層を「谷の埋め立て層」と表記されており、いずれも七世紀中頃の須恵器・土師器の出土が記されています。

 以上のことから、結論としては「はるくさ」木簡の出土は、前期難波宮造営の為に谷を埋め立てた整地層からとしても必ずしも間違いではなさそうですが、正確には「整地の途中に発生した湿地層からの出土」とすべきようです。この湿地層にあったおかげで同木簡は腐らずに保存されたのでした。

 阿部さんのするどいご指摘により、今回よい勉強ができました。感謝申し上げます。学術用語はもっと用心して正確に使用しなければならないと、改めて思いました。


第631話 2013/12/08

『通典』の「賀正礼」
(元日朝賀儀)

 拙論「白雉改元の宮殿」 において、前期難波宮(九州王朝副都)での「賀正礼」について触れましたが、九州王朝における「賀正礼」について更に詳しく研究する必要を感じていまし た。近畿天皇家の『養老律令』などにも九州王朝律令の影響を受けている可能性がありますので、引き続き国内史料の調査分析を進めていますが、他方、中国からの影響についても先行論文などの勉強をしています。
 その過程で、唐代の史料『通典』(801年成立)に中国歴代王朝の「元日朝賀儀」(賀正礼)について記されていることを知りました。それによると「元日朝賀儀」は漢の高祖が最初とされているようです。
 『通典』はインターネットでも読むことができますが、学問研究に使用するには不安ですので、史料批判が可能な良い活字本か善本を探していました。メール で「古田史学の会」の役員や研究仲間に『通典』の情報提供協力を依頼したところ、すぐに数名の方から貴重な情報をいただくことができました。こうしたこと はインターネット時代の良さですね。
 中でも冨川ケイ子さん(「古田史学の会」会員、横浜市)から寄せられた情報によれば、宮内庁書陵部の『通典』が最も良い写本のようです。同写本の印影本も発刊されているとのことですから、ぜひ閲覧したいと思います。研究が進みましたら、ご報告します。


第616話 2013/10/27

文字史料による「評」論(7)

 文字史料による「評」論と題して、史料事実や史料根拠を明示しながら、九州王朝の「評制」についての考察を続けてきました。その最後として、『日本書紀』の中に見える「評」について触れたいと思います。
 『日本書紀』は「評」を「郡」に書き換えた「郡制」史料ですが、例外のような「評」の記事があります。継体二四年(530)条の次の記事です。

 「毛野臣、百済の兵の来るを聞き、背の評に迎へ討つ。背の評は地名。亦、能備己富利と名づく。」『日本書紀』継体紀二四年条

 この記事について、古田先生は『古代は輝いていた3』(朝日新聞社刊、336頁)において、次のように説明されています。

 「右は『任那の久斯牟羅』における事件だ。すなわち、倭の五王の後継者、磐井が支配していた任那には、『評』という行政単位が存在し、地名化していたのである。」

 さらに、「評」の縁源について次のように指摘されています。

 「『宋書』百官志によると、秦以来、『廷尉』に『正・監・評』の官があり、軍事と刑獄を兼ねた。魏・晋以来は、『廷尉 評』ではなく、ストレートに『評』といったという。すなわち、楽浪郡や帯方郡には、この『評』があって、中国の朝鮮半島支配の原点となっていたようであ る。」

 この解説から、「評制」は中国の軍事と刑獄を兼ねた行政制度に縁源があったことがわかります。このことを九州王朝(倭 国)は当然知っていたはずですから、7世紀中頃に自らの支配領域に「評制」を施行したとき、その主たる目的は中国に倣って「軍事と刑獄を兼ねた行政制度」 確立であったと考えても大過ないのではないでしょうか。すなわち、7世紀中頃の朝鮮半島での、唐・新羅対倭国・百済の軍事的緊張関係の高まりから、「評 制」を全国に施行(天下立評)したものと思われます。さらに主戦場となる朝鮮半島や朝鮮海峡から離れた摂津難波に副都(前期難波宮)を造営したのです。まさに「難波朝廷天下立評」(『皇太神宮儀式帳』)です。
 このように、「軍事行政」としての「評」設立とその「評制」の施行拠点であり主戦場から遠く離れた摂津難波への副都(難波朝廷)造営は密接な政治的意図で繋がっていたのです。


第596話 2013/09/15

文字史料による「評」論(1)

 わたしが古田史学に感銘を受けて、九州王朝や九州年号研究を始めて27年になりました。その間、遅々として進まない研究分野や、予想以上の展開を見せた分野など様々でしたが、近年、新たな史料の出土や発見、そして優れた研究者の登場により、九州王朝史研究は着実に進み始め たように思われます。もちろん、古田先生の先駆的で精力的な研究活動に触発され導かれたことは言うまでもありません。

 そこで今回は九州王朝の行政制度「評制」について、文字史料を中心とした史料根拠に基づいて論じてみたいと思います。歴史研究ですから、史料根拠に基づかない、あるいは明示しない「説」や「論」では他者を納得させることはできませんし、なによりも学問的態度とは言えませんので、史料根拠を明示しながら丁寧に論じたいと考えています。

 まず最初のテーマとして、前期難波宮遺跡出土木簡に見える「秦人凡国評」について考えてみました。『大阪城址2』(大阪府文化財調査研究センター、 2002年)によれば、大阪城三の丸跡地の遺構(16層)から出土した木簡に「戊申年」(648)の他、「秦人凡国評」と記されたものがあります。この地層は7世紀中頃のものと編年されていますが、前期難波宮の「ゴミ捨て場」のような遺構状況のようで、「戊申年」木簡は出土していますが、廃棄されたの前期難波宮完成(652)以後と見られています。

 ここで注目したのが「評」木簡が出土したことの意味です。「秦人凡国評」が具体的にどの地域なのかは特定できませんが、7世紀中頃の難波の地、すなわち前期難波宮の地域が評制の施行範囲ということを示していることは確かでしょう。それは、7世紀中頃の難波は九州王朝による評制支配地域であることを意味します。それまでの国造等と称されていた地域豪族による支配から、九州王朝が任命する評督を介しての中央集権体制、すなわち評制が難波の地に及んでいた証拠の木簡なのです。

 従って、前期難波宮は九州王朝による評制下の宮殿ということができます。前期難波宮九州王朝副都説への反論として、近畿天皇家の勢力範囲、あるいはそれに近い難波に九州王朝が副都を造るとは考えられない、という意見がありました。それに対して、わたしは九州王朝は列島の代表王朝であり、必要であればその支配地のどこに副都を造ろうと不思議とするには当たらないと反論してきました。この反論が正当なものであることは、この「秦人凡国評」木簡の「評」の字が示しているのではないでしょうか。(つづく)

 ところで、明日から中国出張です。明日は上海で仕事をした後、湖北省武漢に向かいます。湖北省は三国志の名場面の地ですが、たぶん仕事だけで観光する時間は全く無いと思います。とりあえず台風で飛行機が欠航しないことを今は祈っています。


第575話 2013/07/28

白雉改元「小郡宮」説

 わたしはこれまで、白雉改元の儀式が行われた宮殿は前期難波宮であり、その時期は九州年号の白雉元年(652)であることを論証してきました。そのキーポイントは『日本書紀』孝徳紀の白雉元年二月条(650)の白雉改元記事は、九州年号の白雉元年二月(652)に行われた 行事の白雉年号ごと二年ずらしての盗用であることを明らかにしたことです(宮殿完成記事は652年九月条)。
 ちなみに近畿天皇家一元史観の通説では、白雉改元の宮殿を小郡宮とされているようです。吉田歓著『古代の都はどうつくられたか 中国・日本・朝鮮・渤 海』(吉川弘文館、2011年)によれば、「難波宮の先進性」という章で白雉改元の宮殿について次のように紹介しています。

 「白雉元年(六五〇)、小郡宮とは明記されていないが、おそらくはそうであろう宮において白い雉が献上された(『日本書 紀』白雉元年二月甲申条)。その様子は以下のようであった。(中略)白雉献上の様子や礼法の規模の大きさからすると小墾田宮より大規模であったように推測 されるが、遺構などが見つかっていないため、これ以上踏み込むことはできない。」(117~118頁)

 このように小郡宮説が記されていますが、「小郡宮とは明記されていないが」「おそらくはそうであろう」「遺構などが見つかっていない」「これ以上踏み込むことはできない」という説明では、とても学問的仮説のレベルには達していません。それほど、白雉改元「小郡宮」説は説明困難な仮説なのですが、ある意味、著者は正直にそのことを「告白」されておられるのでしょう。その「告白」が指し示すことは、白雉改元の儀式が可能な大規模な宮殿遺構は前期難波宮しか発見されていないということです。「白雉」は九州年号ですから、改元した王朝は九州王朝です。その場所の候補遺構が前期難波宮しかなければ、前期難波宮は九州王朝の宮殿と考えざるを得ません。
 そして、『日本書紀』に記されている三つの九州年号「大化」「白雉」「朱鳥」のうち、「白雉」のみがその改元の様子が詳細に記されていることから、近畿天皇家が改元儀式に参列し、その様子を見ることができたからこそ、『日本書紀』に記すことができたと思われます。そうすると、孝徳の宮殿と改元の儀式が行われた九州王朝の宮殿は参列可能な程度の近くにあったことになります。この点も、前期難波宮九州王朝副都説でしかうまく説明できない『日本書紀』の史料事実なのです。


第574話 2013/07/27

へんてこな大極殿、エビノコ郭

 吉田歓著『古代の都はどうつくられたか 中国・日本・朝鮮・渤海』(吉川弘文館、2011年)の89頁に掲載されている飛鳥浄御原宮(飛鳥宮3-B期)の平面図には、いびつな台形の宮殿区画(内郭)の南東に、東西に長い建造物「エビノコ郭」が記されています。このエビノコ郭も内郭と同様に周囲が塀で囲まれており、その中に飛鳥宮では最大規模の建造物があります。
 このエビノコ郭を『日本書紀』天武紀に見える「大極殿」とする見方が有力となっているようですが、このエビノコ郭を囲む塀も、よく見ると長方形ではなく、内郭と同様に台形です。しかも、その塀の西側部分に門があり、南側には門は発見されていません。
 大極殿の「大極」とは北極星を中心とする星座を意味するとされ、宇宙の中心であり、大極殿も王朝の中心権力者の宮殿にふさわしいものであるはずです。ところが飛鳥宮のエビノコ郭は飛鳥宮の南東に位置し、しかも南側ではなく、西側に門があるというとてもへんてこな宮殿なのです。しかも平面図は台形です。先行して造営された前期難波宮や大津宮は宮殿の南側に正門があり、「天子南面」の思想性に基づいているのに、飛鳥宮のこんなへんてこな宮殿が大極殿とはとても思われません。
 このように飛鳥宮やエビノコ郭が日本列島の代表王朝の宮殿としてふさわしくないことは、「一目瞭然」なのです。既に難波には大規模で見事な朝堂院を持つ前期難波宮があり、天智の時代には同様に立派に大津宮(壬申の乱で焼失)があったにもかかわらず、斉明や天武・持統らの飛鳥宮はやはり見劣りがするのです。こうした宮殿様式の比較からも、前期難波宮九州王朝副都説が有力仮説であることをご理解いただけるのではないでしょうか。


第573話 2013/07/25

いびつな宮殿、飛鳥宮

 今日は初めて福井県鯖江市に宿泊しました。鯖江駅前の案内板には「近松門左衛門の町」と表記されており、鯖江市と近松がどのような関係にあるのか興味を持ちました。京都に帰ったら調べてみようと思います。
 長時間の移動を伴う出張の際には、本を一冊かばんに入れておくのですが、今回の出張のお供は吉田歓著『古代の都はどうつくられたか 中国・日本・朝鮮・ 渤海』(吉川弘文館、2011年)です。古代都城の変遷や、中国の影響などわかりやすく解説された好著でした。もちろん著者は近畿天皇家一元史観に立って いますので、日本の都城として太宰府などは触れられていませんし、前期難波宮ももちろん孝徳天皇の難波長柄豊碕宮として取り扱われています。そうした「学問的限界」はありますが、参考にはなります。皆さんにもご一読をお勧めします。
 同書を読んで改めて感じたテーマがあります。同書89頁に掲載されている飛鳥浄御原宮(飛鳥宮3−B期)の平面図にそれは示されています。数年前に既に 古田史学の会関西例会でも発表したのですが、天武天皇や持統天皇の宮殿と見なされている飛鳥浄御原宮を平面図で見ると、その形が長方形や正方形ではなく、 いびつな台形なのです。
 天武天皇よりも以前に、大規模で見事な左右対称の朝堂や内裏を持つ前期難波宮や大津宮が造営されているのに、その後の飛鳥浄御原宮は平面形がいびつな台形で、建造物の配置も左右対称ではありません。もしこれらの宮殿が同一王朝のものとしたら、この「落差」をどのように説明できるのでしょうか。
 この宮殿の様式の落差は、同一王朝内のものではなく、前期難波宮を九州王朝の副都とするわたしの仮説と整合することがご理解いただけるものと思います。 また、わたしは九州王朝の「近江遷都(白鳳元年)」という仮説も発表していますが、この仮説とも整合する考古学的事実なのです。
 このように前期難波宮九州王朝副都説は文献的史料根拠だけではなく、考古学的事実という根拠も持っているのです。


第566話 2013/06/23

近江遷都の年代と土器編年

 先日の古田史学の会・全国世話人会のおり、小林副代表から、白石太一郎さんの論文「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」『大阪府立近つ飛 鳥博物館 館報16』(2012年12月)のコピーをいただきました。白石さんは前期難波宮の造営年代を孝徳期よりも新しいとする考古学者の一人ですの で、その根拠を知りたいと思っていました。今回、同論文を読んで、白石さんの主張の根拠を知ることができ、有意義でした。
 白石さんは「飛鳥編年」という土器編年により、5~10年の精度で7世紀中頃の編年が可能とする立場ですが、土器の相対編年を『日本書紀』などの記事を根拠に暦年にリンクさせるという手法を採用されています。この方法の当否は別に論じたいと思いますが、同論文に大変興味深い指摘がありました。
 それは大津宮の土器編年とのミスマッチの指摘です。『日本書紀』天智紀によれば、大津宮への遷都は天智6年(667)とされていますが、大津宮(錦織遺 跡)内裏南門の下層出土土器の編年が「飛鳥1期」(645~655頃)であり、遷都年に比べて古すぎるようなのです。この指摘が正しければ、「飛鳥編年」か『日本書紀』の記事のどちらかが、あるいは両方が間違っていることになります。
 そこで改めて紹介したいのが九州年号史料として著名な『海東諸国紀』に見える白鳳元年(661)の「近江遷都」記事です。「近江遷都」が『海東諸国紀』 では『日本書紀』よりも6年早く記されているのです。すなわち、白石さんの指摘にあった大津宮下層土器編年に対しては、『海東諸国紀』の記事「白鳳元年 (661)遷都」の方がうまく整合するのです。わたしはこの『海東諸国紀』の九州年号記事を根拠に、「九州王朝の近江遷都」という仮説を発表しています が、考古学的土器編年からも支持されることになれば興味深いと考えています。大津宮調査報告書を実見したいと思います。
 なお、白石さんは前期難波宮天武朝造営説と、わたしは思っていたのですが、白石論文には「天武朝までは下らないとしても、孝徳朝までは遡らないのである。」とされており、どうやら斉明朝造営説か天智朝造営説に立っておられるようです。


第562話 2013/05/26

難波宮出土の百済土器

 先日、久しぶりに大阪歴史博物館を訪れ、最新の報告書に目を通してきました。前期難波宮整地層から筑紫の須恵器が出土していたことを報告された寺井誠さんが、当日の相談員としておられましたので、最新論文を紹介していただきました。
 その報告書は『共同研究報告書7』(大阪歴史博物館、2013年)掲載の「難波における百済・新羅土器の搬入とその史的背景」(寺井誠)です。難波(上 町台地)から朝鮮半島(新羅・百済)の土器が出土することはよく知られていますが、その出土事実に基づいて、その史的背景を考察された論文です。もちろ ん、近畿天皇家一元史観に基づかれたものですが、その中に大変興味深い記事がありました。

 「以上、難波およびその周辺における6世紀後半から7世紀にかけての時期に搬入された百済土器、新羅土器について整理した。出土数については、他 地域を圧倒していて、特に日本列島において搬入数がきわめて少ない百済土器が難波に集中しているのは目を引く。これらは大体7世紀第1~2四半期に搬入さ れたものであり、新羅土器の多くもこの時期幅で収まると考える。」(18頁)

 百済や新羅土器の出土数が他地域を圧倒しているという考古学的事実が記されており、特に百済土器の出土が難波に集中しているというのです。この考古学的事実が正しければ、多元史観・九州王朝説にとっても近畿天皇家一元史観にとっても避け難く発生する問題があります。
 古代における倭国と百済の緊密な関係を考えると、その搬入品の土器は権力中枢地か地理的に近い北部九州から集中して出土するはずですか、近畿天皇家の 「都」があった飛鳥でもなく、九州王朝の首都太宰府や博多湾岸でもなく、難波に集中して出土しているという事実は重要です。この考古学的事実をもっとも無 理なく説明できる仮説が前期難波宮九州王朝副都説であることはご理解いただけるのではないでしょうか。
 『日本書紀』孝徳紀白雉元年条に記された白雉改元の舞台に百済王子が現れているという史料事実からも、その舞台が前期難波宮であれば、同整地層から百済 土器が出土することと整合します。従って文献的にも考古学的にも、九州年号「白雉」改元の宮殿を前期難波宮とすることが支持されます。すなわち、九州王朝 副都説の考古学的傍証として百済土器を位置づけることが可能となるのです。


第561話 2013/05/25

豊崎神社境内出土の土器

 『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳天皇の宮殿、難波長柄豊碕宮の位置について、わたしは大阪市北区豊崎にある豊崎神社近辺ではないかと推測している のですが、前期難波宮(九州王朝副都)とは異なり、七世紀中頃の宮殿遺跡の出土がありません。地名だけからの推測ではアイデア(思いつき)にとどまり学問 的仮説にはなりませんから、考古学的調査結果を探していたのですが、大阪市文化財協会が発行している『葦火』(あしび)26号(1990年6月)に「豊崎 神社境内出土の土器」(伊藤純)という報告が掲載されていました。
 それによると、1983年5月、豊崎神社で境内に旗竿を立てるために穴を掘ったら土器が出土したとの連絡が宮司さんよりあり、発掘調査を行ったところ、 地表(標高2.5m前後)から1mぐらいの地層から土器が出土したそうです。土器は古墳時代前期頃の特徴を示しており、中には船のようなものが描かれてい るものもあります。
 大阪市内のほぼ南北を貫く上町台地の西側にそって北へ延びる標高2~4mの長柄砂州の上に豊崎神社は位置していますが、こうした土器の出土から遅くとも 古墳時代には当地は低湿地ではなく、人々が生活していたことがわかります。報告によれば、この砂州に立地する遺跡は、南方約3kmに中央区平野町3丁目地 点、北方約2kmに崇禅寺遺跡があるとのことで、豊崎神社周辺にもこの時期の遺構があることが推定されています。
 今後の調査により、七世紀の宮殿跡が見つかることを期待したいと思います。