難波朝廷(難波京)一覧

第3138話 2023/10/17

七世紀の都城の朱雀大路の幅

八王子セミナー(11月11~12日、注①)に備えて藤原宮(京)研究を続け、「洛中洛外日記」でも紹介してきました(注②)。そのなかで注目したのが、王宮を起点として南北にはしる朱雀大路の幅の比較です。各条坊都市の道路幅を本稿末尾に掲載しました(調査途中)。朱雀大路の幅は次の通りです。

□朱雀大路幅
【前期難波宮】(652年創建) 側溝芯々間 約33m
【大宰府政庁Ⅱ期】(670年頃。通説では八世紀初頭) 路面幅 約36m  側溝芯々間 約37.8m
【藤原京】(694年に遷都) 側溝芯々間 24m
※藤原宮下層朱雀大路部分 16~17m
※右郭二坊大路(長谷田土壇) 16~17m
【平城京】(710年に遷都) 路面幅か 約75m

わたしが九州王朝の東西の王都(両京制)と考える前期難波宮(652年)と大宰府政庁Ⅱ期(670年頃)の朱雀大路幅(側溝芯々間距離)は約33mと約37.8mであり、時代と共に拡大しますが、その後に創建された藤原宮(694年遷都)は24mであり、縮小します。ところが王朝交代後の大和朝廷の平城京は約75mと最大化しています。

このことから、近畿天皇家が朱雀大路の規模に無関心であったとは考えられません。しかし、王朝交代直前に造営した藤原宮(大宮土壇)は当時最大規模の王宮でありながら、朱雀大路は前期難波宮(約33m)よりも太宰府条坊都市(約37.8m)よりもかなり小さめの24mです。

この出土事実が何を意味し、王朝交代に関する諸仮説のなかで、どの仮説と最も整合するのかを検証することにより、より優れた仮説が明らかとなり、いずれその方向に王朝交代研究が収斂するのではないでしょうか。

(注)
①正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」。公益財団法人大学セミナーハウスの主催。実行委員会に「古田史学の会」(冨川ケイ子氏)が参画している。
②古賀達也「洛中洛外日記」3129~3134話(2023/10/02~07)〝藤原京「長谷田土壇」の理論考古学(一)~(五)〟

【前期難波宮道路幅】(652年創建) 側溝芯々間距離
□朱雀大路幅 約33m
□西二路(大路)の幅が約14m

【大宰府政庁Ⅱ期道路幅】(670年頃。通説では八世紀初頭)
□朱雀大路(路面幅) 約36m  (側溝芯々間)約37.8m
□条坊南端の二十二条大路(路面幅) 約8m (側溝芯々間)約10m

【藤原京道路幅】(694年に遷都) 側溝芯々間距離
□朱雀大路 24m
□六条大路(宮城の南を東西に通る) 21m
□二条(坊)・六条(坊)などの偶数大路 16~17m
□三条(坊)・五条(坊)などの奇数大路 9m
□条(坊)大路の中間にある小路 6~7m
※各条・各坊の数値は岸俊男説による。

【平城京道路幅】(710年に遷都)
□朱雀大路 約75m


第3133話 2023/10/06

藤原京「長谷田土壇」の理論考古学 (四)

 ―「朱雀大路」道路幅の論理―

 藤原宮下層から出土した「先行条坊」に対応する「先行王宮」の有力候補の長谷田土壇ですが、その地に藤原宮(大宮土壇)に先行する王宮が存在していたのか否かは考古学発掘調査により解明できるのですが、当地の調査記録をまだ見いだせていません。表面観察により、土壇が遺り、古瓦が散在するとのことですので(注①)、有力候補地ではあります。そこで、当地が「先行王宮」であったと判断するためにはどのような方法が有効なのかについて考察します。
条坊都市は王宮を中心として、南北に朱雀大路が通り、条坊内の他の大路よりも道路幅が広いことが知られています。藤原宮の場合も同様で、各道路幅は次の通りです。

【藤原京道路幅】側溝中心間距離
□朱雀大路 24m
□六条大路(宮城の南を東西に通る) 21m
□二条(坊)・六条(坊)などの偶数大路 16~17m
□三条(坊)・五条(坊)などの奇数大路 9m
□条(坊)大路の中巻にある小路 6~7m
※各条・各坊の数値は岸俊男説による。

 長谷田土壇の中を南北に通る大路は西二坊大路ですが、その道幅は16~17mです。これは朱雀大路の21mより狭いのですが、藤原宮下層の朱雀大路の位置にある先行条坊の幅は16~17mですので、西二坊大路(偶数大路)と同規格です。従って、条坊造営当初の「先行王宮」を長谷田土壇と考えた場合、その南北大路が他の偶数大路と同規模となり、「先行朱雀大路」にはふさわしくありません。この点は、長谷田土壇説の弱点と言えそうです。

 たとえば、九州王朝の東都(太宰府は西都)と考える前期難波宮の場合、その朱雀大路の幅は約33m(注②)、西二路(大路)の幅が約14m(注③)と推定されており、難波京朱雀大路の幅が藤原京よりも大きいこともわかっています。この〝朱雀大路の幅〟という出土事実は、長谷田土壇「先行王宮」説にとって不利な事実です。そしてそれは、長谷田土壇を九州王朝の王宮跡とする作業仮説の成立も同様に困難にしています。(つづく)

(注)
①木下正史『藤原京 よみがえる日本最初の都城』(中公新書、2003年)には次のように長谷田土壇を紹介する。
「鷺巣神社の真北約一キロ、醍醐町集落の西はずれの小字「長谷田」に、周囲約一八メートル、高さ約一・五メートルの土壇がある。古瓦が出土し、近くで礎石も発見されている。」
②日経新聞web版(2015年4月2日)に次の記事がある。
〝難波京の朱雀大路か 側溝を確認、道幅推定33メートル
大阪市にあった難波京のメーンストリート「朱雀大路」の側溝とみられる溝跡が同市中央区で見つかり、大阪市博物館協会大阪文化財研究所が1日までに明らかにした。これまで見つかっていない難波京朱雀大路の一部の可能性がある。道幅は藤原京(奈良県橿原市、694~710年)の約24メートルを上回り、推定約33メートルとみられるという。
京の中枢部に当たる難波宮は、7世紀中ごろの孝徳天皇の時代から整備された前期と、聖武天皇が726年から造営した後期に分かれる。
昨年の発掘調査で溝を発見。1993年に見つかった前期難波宮の朱雀門跡から南に約140メートルの地点にあった。
溝は幅2.2~2.8メートル、深さ50センチで、長さ南北9メートル分を確認した。位置や方向から朱雀大路の西側溝の可能性が高いと判断した。
同研究所によると、溝は難波宮の中軸線から約16.35メートル離れていることから朱雀大路の幅は推定で約32.7メートルとなる。平城京の朱雀大路の幅は約75メートル。積山洋学芸員は「朱雀大路の跡が実際に見つかり、幅も推定できた意義は大きい」と話している。〔共同〕〟
③平田洋司「四天王寺南方から見つかった難波京条坊跡」『葦火』168号、2014年。


第3057話 2023/06/30

『続日本紀』の古歌「西の都」考

 『続日本紀』寶龜元年三月条に、歌垣で歌われた次のような「古歌」が見えます。

「乙女らに男立ち添ひ踏みならす、西の都は万代の宮」
「淵も瀬も清く爽(さやけ)し博多川、千歳を待ちて澄める川かも」

当該記事全文は次のようです。原文は本稿末尾に掲載しました。

【宝亀元年三月条】
辛卯の日、葛井(ふじい)・船・津・文・武生(たけふ)・蔵の六氏の男女二百三十人、歌垣に供奉す。その服は並に青ずりの細き布衣を着て紅(くれない)の長き紐を垂る。男女相並び行を分かちておもむろに進む。歌ひて曰く、
「乙女らに男立ち添ひ踏みならす、西の都は万代の宮」
と。その歌垣歌ひて曰く、
「淵も瀬も清く爽(さやけ)し博多川、千歳を待ちて澄める川かも」
と。歌の曲折毎に、袂(たもと)を挙げて節となす。その余四首並に是れ古詩なり。また煩はしくは載せず。時に五位より已上・内舎人及び女嬬に詔して、亦其の歌垣の中に列す。歌数終はる時、河内の太夫従四位の上藤原の朝臣雄田麻呂より已下、和舞(やまとまひ)を奏す。六氏の歌垣に人ごとに商布二千段綿五百屯を賜ふ。

 三十年ほど前、わたしが九州王朝歌謡(君が代・海行かば)の論文を執筆していたとき(注①)、この『続日本紀』の歌の存在を知り、九州王朝関連の歌のようだという感触は得たものの、決め手がなく、判断を保留していました。その後、「再考 洞田稿の視点 「西の都」はどこか」(注②)でも再検討したのですが、やはりうまく説明できず、疑問を解消できませんでした。そこでの課題は「西の都」を太宰府としたとき、それに対応する「東の都」を見いだせなかったからです。そのときの考察の様子を次のように記しています。

〝新日本古典文学大系『続日本紀』の解説では、「西京の由義宮の永遠の繁栄を歌う頌歌」とされているが、由義宮が西京と定められたのは神護景雲三年(769)十月のことで、歌垣の前年のことだ。ところが、これらの歌のことを「是れ古詩なり」と記されており、由義宮を西京に定めたために新たに創作された歌ではないことがわかる。すなわち、古くからあった歌を由義宮用に転用したのだ。
とすれば、この西の都とはどこだろうか。近畿天皇家の都とすれば、大和に対して西にあった都の有力候補は「難波宮」であろう。〟
〝九州王朝の都と考えた場合はどうだろうか。この場合、二つのケースが考えられる。「西の都」という表現が、近畿天皇家から見て、西にある九州王朝の都、たとえば太宰府といった場合。「遠の朝廷」という表現もこれと類似視点(時間・空間)か。もう一つは複数ある九州王朝の都のうち、西に位置する都をさす場合だ。この場合、この歌は九州王朝内での視点で作られたことを意味する。
いずれの場合も、糸島博多湾岸にあった都であれば、天孫降臨以来の伝統を持っており「万代の都」という表現はピッタリだ。ただ、後者の場合、西の都に対して、東の都が九州王朝内部になければならない。(中略)前者の場合も可能性としては否定できないが、近畿天皇家内部で九州王朝の都を讃える歌を創作し、伝承されてきたということになり、やや不自然な感じがする。〟

 この再考察から四半世紀を経た今であれば、有力な仮説を提示できます。それは、「西の都」は博多湾岸や太宰府にあった九州王朝の都「万世の都」であり、「東の都」は652年(九州年号の白雉元年)に創建した前期難波宮(難波京)とする仮説「両京制」です。前期難波宮九州王朝複都説が成立したおかけで、三十年来の疑問に一応の回答を見いだすことができました。学問研究の進歩を実感できたテーマでした。

(注)
①古田武彦・藤田友治・灰塚照明・古賀達也『「君が代」、うずまく源流』新泉社、一九九一年。
②古賀達也「再考 洞田稿の視点 「西の都」はどこか」『古田史学会報』26号、1998年。

【『続日本紀』寶龜元年三月条】
辛夘、葛井・船・津・文・武生・藏六氏男女二百卅人供奉歌垣。其服並着青摺細布衣、垂紅長紐。男女相並。分行徐進。
歌曰、
「乎止賣良尓 乎止古多智蘇比 布美奈良須 尓詩乃美夜古波 与呂豆与乃美夜」
其歌垣歌曰、
「布知毛世毛 伎与久佐夜氣志 波可多我波 知止世乎麻知弖 須賣流可波可母」
毎歌曲折、擧袂爲節。其餘四首、並是古詩、不復煩載。時詔五位已上、内舍人及女孺、亦列其歌垣中。歌數闋訖、河内大夫從四位上藤原朝臣雄田麻呂已下奏和舞。賜六氏歌垣人商布二千段、綿五百屯。


第3051話 2023/06/24

元岡遺跡出土木簡に遺る

    王朝交代の痕跡(1)

 九州年号研究における大きな問題の一つに、出土した紀年木簡に九州年号が見当たらないことがあります(注①)。唯一、芦屋市三条九ノ坪遺跡出土の「元壬子年」木簡が(注②)、九州年号「白雉」の元年干支「壬子」と一致することから(注③)、九州年号に基づく干支木簡であることを示しています。

 701年の九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代により、これら出土木簡の表記方法が全国一斉に変化したことが知られています。一つは行政単位が評から郡に、もう一つは紀年表記が干支から年号に変わります。

 こうした王朝交代による紀年木簡の変化が、大和から遠く離れた九州王朝の中枢領域でも王朝交代と同時期に発生しています。それは福岡市西区元岡桑原遺跡群から出土した木簡です。第20次調査(2000~2003年)で同遺跡の九州大学移転用地内で、古代の役所が存在したことを示す多数の木簡が出士しました。その木簡には、大和朝廷の最初の年号である「大寶元年」(701年)と書かれたものがあり、これは年号が記載されたものとしては国内最古級の木簡です。そこには次の文字が記されていました(注④)。

〔仮に表面とする〕
大寶元年辛丑十二月廿二日
白米□□宛鮑廿四連代税
官出□年□*黒毛馬胸白
〔裏面〕
六人□** (花押)

※□は判読不明。□*を「六」、□**を「過」とする可能性も指摘されている。

 これは納税の際の物品名(鮑)や、運搬する馬の特徴を記したもので、関を通週するための通行手形とみられています。(つづく)

(注)
①古賀達也「九州王朝「儀制令」の予察 ―九州年号の使用範囲―」『東京古田会ニュース』184号、2019年。
②古賀達也「木簡に九州年号の痕跡――『三壬子年』木簡の史料批判」『古田史学会報』74号、2006年。『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)に収録。
「『元壬子年』木簡の論理」『古田史学会報』75号、2006年。『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)に収録。
③『日本書紀』の白雉元年(庚戌)は650年、九州年号の白雉元年(壬子)は652年であり、二年のずれがある。「元壬子年」木簡の出土により、九州年号の白雉が正しく、『日本書紀』の白雉は二年ずらして転用したことが明らかとなった。拙稿「白雉改元の史料批判」(『古田史学会報』76号、2006年。『「九州年号」の研究』に収録)において、『日本書紀』の史料批判により、同様の結論に至っていた。
④服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。文字の判読については当論文の見解を採用した。

参考 Youtube講演

木簡の中の九州王朝 古賀達也
https://www.youtube.com/watch?v=cA5YSIm4o0Y

古田史学の会・関西例会
2023年8月19日


第2986話 2023/04/14

前期難波宮と藤原宮の官僚群の比較

 数学・論理学などの公理(研究者が事実と考えても良いと合意できる命題)を歴史学というあいまいで不鮮明な分野に援用して、古代史研究における「公理」として論証に使用できないものかとわたしは考えてきました(注①)。今回は七世紀の律令制都城の絶対的な存立条件として〝約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在(注②)〟を「公理」として位置づけるために、大宝律令(701年)で規定した中央官僚と同規模の官僚群を九州王朝(倭国)律令でも規定していたとする理由を説明します。
わたしは次の根拠と論理構造により、七世紀後半の九州王朝にも同規模の中央官僚群がいたと考えています。

(1) 前期難波宮(九州王朝時代、七世紀(652~686年)に存在した列島内最大の朝堂院様式の宮殿)の規模が、大宝律令時代の王宮・藤原宮の朝堂院とほぼ同規模であり、そこで執務する中央官僚群もほぼ同規模と見なすのが妥当な理解である。

(2) 同様に、約八千人の中央官僚を規定した『養老律令』成立時代の平城宮の朝堂院も藤原宮とほぼ同規模であり、そこで執務した中央官僚群の規模も同程度と考えるのが妥当。

(3) 従って、九州王朝時代の王宮・前期難波宮で執務した中央官僚群の規模を約八千人と見なしても、大きく誤ることないと考えて良い。

(4) 701年を境に、出土木簡の紀年表記が干支から年号(大宝元年~)へと全国一斉に変更されていることから、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代は、事前に周到に準備(各国・各評への周知徹底)されていたはずであり、王朝交代はほぼ平和裏に行われたと考えられる。同様の変更は行政単位(「評」から「郡」へ)でも見られる。

(5) 上記の史料事実は「禅譲」の可能性を示唆し、従って、王朝交代時(701年)の倭国と日本国の版図はほぼ同範囲と見なしてよい。おそらくは九州島から北関東・越後までか。この時期の東北地方は蝦夷国である。

(6) 701年に成立した大宝律令は、七世紀最末期の九州王朝時代に編纂を開始したと考えられ、その時点での九州王朝(倭国)領域の統治を前提に編纂されたことを疑えない。このことは(4)(5)とも整合する。

 以上のことから、わたしが「公理」と見なした〝約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在〟は、七世紀の律令制都城存立の絶対条件と考えています。なお、前期難波宮創建時(652年)時点の律令と王朝交代直前の律令とでは、官職数や官僚人数に差があったことは推定できますが、前期難波宮の規模を考慮すると、大きくは異ならないのではないでしょうか。この点、九州王朝律令の復元研究が必要です。(つづく)

(注)
①歴史研究に「公理」という概念や用語を使用することに、数学を専攻された加藤健氏(古田史学の会・会員、交野市)や哲学を専攻された茂山憲司氏(『古代に真実を求めて』編集部)より、その難しさや危険性について、注意・助言を得た。留意したい。
②服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『古田史学会報』136号、2016年10月。『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』(『古代に真実を求めて』21集)に収録。


第2982話 2023/04/09

律令制都城論の絶対条件=「公理」

 昨日のリモート勉強会で発表した「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」では、次の二つの方法論とそれに基づく解釈を提起しました。

〔方法1〕史料(エビデンス)がより豊富な八世紀の歴史像に基づき、七世紀の歴史像を復元する。
〔方法2〕律令制王都存立の絶対条件(公理)を抽出し、七世紀の王都候補からその条件全てを備えた遺構を王都とみなす。

 特に〔方法2〕で示した律令制王都存立の絶対条件は、数学や論理学でいう公理(注①)の様なものであることを力説しました。もちろん、歴史学では人や人の行動・認識を主な研究対象とするため、厳密な意味での「公理」とは異なり、曖昧さがあります(注②)。そこで、多元史観や一元史観に関わらず、〝多くの研究者が真実であると認めた命題〟を歴史学的「公理」と見なし、それに立脚して論を立てるという方法を実行したものです。そうして律令制都城存立の五つの絶対条件を抽出し、それらを「公理」と見なしました。

【律令制王都の絶対条件】
《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら計数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。

 これら五つの「公理」はそれぞれ独立していますが、同時に互いに「系」として連結されており、一つの「公理」が別の「公理」を不可欠なものとして導き出すという論理的性格を有しています。従って、どれか一つが抜けても律令制都城の存立を妨げますので、七世紀の九州王朝王都の当否の判断基準として不可欠な存立条件となります。ですから、これらの「公理」による判断は、曖昧な解釈や個人的主観による仮説成立を拒否します。そして結論として、律令制による全国統治が可能な七世紀の王都候補は、難波京(前期難波宮)と藤原京(藤原宮)であることを指し示すのです(注③)。(つづく)

(注)
①フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では「公理」を次のように説明している。
「公理(こうり)は、その他の命題を導き出すための前提として導入される最も基本的な仮定のことである。一つの形式体系における議論の前提として置かれる一連の公理の集まりを公理系(axiomatic system)という。公理を前提として演繹手続きによって導きだされる命題は定理とよばれる。多くの文脈で「公理」と同じ概念をさすものとして仮定や前提という言葉も並列して用いられている。
公理とは他の結果を導きだすための議論の前提となるべき論理的に定式化された言明であるにすぎず、真実であることが明らかな自明の理が採用されるとは限らない。知の体系の公理化は、いくつかの基本的でよく知られた事柄からその体系の主張が導きだせることを示すためになされることが多い。
ユークリッド原論などの古典的な数学観では、最も自明な前提を公理、それに準じて要請される前提を公準として区別していた。」
②歴史学に数学的な論理や方法論が採用困難なことについて、次の拙稿で触れた。
「洛中洛外日記」2877話(2022/11/15)〝「学説」「学派」が存在しえない領域「数学」〟
「数学の証明と歴史学の証明 ―数学者との対話―」(未発表)
③九州王朝の都である太宰府(倭京)は規模が小さく、《条件1》《条件2》を満たしているとは言いがたい。そうしたこともあり、七世紀後半の九州王朝(倭国)は倭京と難波京の両京制を採用したと考えられる。九州王朝の両京制について、次の拙稿で論じた。
古賀達也「洛中洛外日記」1862話(2019/03/19)〝「複都制」から「両京制」へ〟
同「洛中洛外日記」2663~2681話(2022/01/16~02/11)〝難波宮の複都制と副都(一)~(十)〟
同「洛中洛外日記」2735話(2022/05/02)〝九州王朝の権威と権力の機能分担〟
同「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」(未発表)

 

参考 YouTube講演
七世紀、律令制王都の絶対条件 — 律令制官僚の発生と移動 古賀達也
2023年 3月18日 古田史学の会関西例会
https://www.youtube.com/watch?v=zwDzaWhbOqo


第2970話 2023/03/20

続・異形の王都、近江大津宮

 「洛中洛外日記」2967話(2023/03/17)〝異形の王都、近江大津宮
〟で考察したように、律令制国家の一大事業である全国的戸籍(庚午年籍)の造籍が近江大津宮天皇(天智)により670年(天智九年、白鳳十年)に行われているにもかかわらず、律令制王都に不可欠な巨大条坊を近江大津宮は備えていません。そこで、九州王朝の複都、難波京(前期難波宮)が依然として行政の中枢にあり、従って数千人の律令制官僚群は難波で執務していたと考えるに至りました。従って、庚午年籍の造籍実務は前期難波宮の官僚群(中務省か)によりなされたことになります。
こうした理解と関連しそうな事象が、『日本書紀』天武紀上の〝壬申の乱(天武元年・672年)〟記事に見えます。乱の勃発により、近江朝側(大友皇子)は、吉備国と筑紫国大宰に「符(おしてのふみ)」(注①)を発し、味方につくよう命じますが不首尾に終わります。ここで不審に思ったのですが、なぜ難波宮に使者を派遣しなかったのでしょうか。更に、壬申の乱では難波宮争奪戦が行われた形跡も見えず、難波宮は壬申の乱においてどのような立ち位置なのかも『日本書紀』からは不明でした。単純化して考えると、次のようなケースがあります。

(a) この時期の難波宮は機能しておらず、官僚群も近江大津宮に移動していた。だから、使者を派遣する必要もなかった。
(b) 難波宮は機能していて、その官僚群の上司らは近江大津宮にいた。従って、難波宮の官僚群は近江朝の部下だったので使者を派遣するまでもないと近江朝は判断した。
(c) 難波宮の官僚群は表面上は近江朝の上司らに従ったが、天武側には中立の意向を伝えていたので、争奪戦は起こらなかった。

 この内、(a)のケースは、既に指摘してきたように近江大津宮に巨大条坊がないため、除外できます。そうすると、(b)(c)あたりが可能性として残りますが、前期難波宮自身が三方を海や川、河内湾(湖か)に囲まれた要衝の地にありますから、大勢が決するまで日和見を決め込んだのかも知れません。少なくとも『日本書紀』には味方についたとも敵にまわったとも書かれていませんし、そもそも難波京に残った有力者らしき人物も不明です(注②)。この点も今後の研究課題のようです。

(注)
①「符(おしてのふみ)」とは上級の官庁から下級の官庁へ出す文書。
②『続日本紀』に散見する「壬申の功臣」記事の精査により、判明するかも知れない。


第2967話 2023/03/17

異形の王都、近江大津宮

 律令制王都に必要な五つの絶対条件(注①)から見た近江大津宮(近江京)に、都として必要な巨大条坊都市が見当たらないことについて考察を続けます。
近江大津宮(近江京)に関係する重要な論文「日本国の創建」(注①)が古田先生から発表されています。これは古田先生の数ある論文の中でも非常に異質であるにもかかわらず、古田説の中での位置づけが難解で、古田学派の研究者からもほとんど注目されてきませんでした。その冒頭には次のように記されています。

「実証主義の立場では、日本国の成立は『天智十年(六七一)』である。隣国の史書がこれを証言し、日本書紀もまたこれを裏付ける。」

 これは天智十年に日本国が成立したとする仮説で、その主体は天智天皇とされています。この新説と701年に九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)へ王朝交代したとする従来の九州王朝説とが、はたして整合するのだろうかと、わたしには難解な内容でした。後に、正木裕さんの「九州王朝系近江朝」説(注②)の登場により、ようやく九州王朝説との縫合が可能になったと思われました。
また、律令制国家の一大事業である全国的戸籍(庚午年籍)の造籍が近江大津宮天皇(天智)により670年(天智九年、白鳳十年)に行われています。すなわち、「日本国の創建」も「全国的戸籍の造籍」も中央集権的な律令体制を前提としているはずですから、近江大津宮は律令制王都であると、わたしは理解してきました。ところが、今回の分析手法(注③)によれば、「巨大条坊都市の存在」という、律令制王都としての絶対条件の一つを近江大津宮は満たしていないことに気付き、愕然としたのです。
そこで、改めて当時の情勢を見たとき、九州王朝の複都、難波京(前期難波宮)が健在であることに着目しました。『日本書紀』によれば、前期難波宮は朱鳥元年(686)に焼亡していますから、天智の時代は機能していたと考えられます。前期難波宮で執務する八千人近くの官僚や、その家族・従者・商工業者・兵士ら数万人が居住する巨大条坊都市難波京が健在であったことは、考古学的にも証明されています。大阪歴博の考古学者、佐藤隆さんの「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(注④)に次の記述があります。

「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。たとえば、白雉4年(653)には中大兄皇子が飛鳥へ“還都”して、翌白雉5年(654)に孝徳天皇が失意のなかで亡くなった後、難波宮は歴史の表舞台からはほとんど消えたようになるが、実際は宮殿造営期以後の土器もかなり出土していて、整地によって開発される範囲も広がっている。それに対して飛鳥はどうなのか?」
「難波Ⅲ中段階は、先述のように前期難波宮が造営された時期の土器である。続く新段階も資料は増えてきており、整地の範囲も広がっていることなどから宮殿は機能していたと考えられる。」

 佐藤さんのこの指摘は、考古学者から発せられた本格的な『日本書紀』批判(既存の文献史学批判)であるとわたしは紹介し(注⑤)、「古田史学の会」講演会にもお招きし、講演していただきました(注⑥)。

 以上の事実を直視すれば、行政の中枢は依然として難波京(前期難波宮)にあり、従って数千人の律令制官僚群は難波で執務していたと考えざるを得ません。(つづく)

(注)
①古田武彦「日本国の創建」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、一九八七年。ミネルヴァ書房より復刻。
②正木 裕「『近江朝年号』の実在について」『古田史学会報』133号、2016年。
③古賀達也「洛中洛外日記」2966話(2023/03/16)〝律令制王都諸説の比較評価〟
④佐藤隆「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」大阪歴博『研究紀要』15号、2017年。
⑤古賀達也「洛中洛外日記」1407話(2017/05/28)〝前期難波宮の考古学と『日本書紀』の不一致〟
⑥同「洛中洛外日記」2656話(2022/01/07)〝令和四年新春古代史講演会の画期〟


第2966話 2023/03/16

律令制王都諸説の比較評価

 律令制王都には少なくとも五つの絶対条件(注①)を備えていなければならないことに気づき、古田学派内で論議されている諸説ある七世紀の王都について比較評価してみました。もっと深い考察が必要ですが、現時点では次のように考えています。◎(かなり適切)、○(適切)、△(やや不適切)、×(不適切)で比較評価を現しました。

(1)官衙 (2)都市 (3)食料 (4)官道 (5)防衛
倭京(太宰府)  △   〇    〇    〇    ◎
難波京     ◎   ◎    〇    〇水運  ◎
近江京     〇   ×    〇    〇水運  〇
藤原京     ◎   ◎    〇    〇    ◎
伊予「紫宸殿」  ×   ×    〇    〇水運  ×

 伊予「紫宸殿」説は、愛媛県西条市の字地名「紫宸殿」の地を九州王朝の「斉明」天皇が白村江戦の敗北後に遷都したとする説で、古田先生や合田洋一さんが唱えたもので、王都遺構は未検出です(注②)。
実は、今回の5条件による評価結果に、わたしは驚きました。近江京の評価が思いのほか低かったからです。その理由は、当地の発掘情況や地勢的にも琵琶湖と比良山系に挟まれた狭隘の地であることから、八千人にも及ぶ律令制官僚やその家族が居住可能な巨大条坊都市はありそうもないことです。
わたしは以前に「九州王朝の近江遷都」(注③)を発表していましたし、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は「九州王朝系近江朝」説(注④)を発表しています。ですから、近江京が王都であったことを疑ってはいません。しかし、今回の考察によれば近江京は律令制王都の条件を満たしていません。このことをどのように理解するべきでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2963話(2023/03/13)〝七世紀の九州王朝都城の絶対条件〟において、律令制王都の絶対条件として次の点をあげた。
《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。

②古田武彦『古田武彦の古代史百問百答』ミネルヴァ書房、平成二七年(二〇一五)。
合田洋一『葬られた驚愕の古代史』創風社出版、2018年。
③古賀達也「九州王朝の近江遷都」『古田史学会報』61号、2004年。
④正木 裕「『近江朝年号』の実在について」『古田史学会報』133号、2016年。


第2964話 2023/03/14

七世紀、律令制王都の有資格都市

 多元的古代研究会の月例会(3/12)で、九州王朝(倭国)の律令制時代(七世紀)の王都にとって絶対に必要な5条件を提示しました。下記の通りです。

《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。

 これらの条件を満たしてる七世紀の都城は、わたしの見るところ次の3都市です。倭京(太宰府)、難波京(前期難波宮)、新益京(藤原宮)。なお、近江京(大津宮)は、《条件1》の全貌が未調査、《条件2》の巨大条坊都市造営が可能なスペースが近傍にないことにより、有資格都市とするにはやや無理があると考えました。この点、重要ですので後述したいと思います。(つづく)


第2900話 2022/12/25

「正税帳」に見える「番匠」「匠丁」

 吉村八洲男さん(古田史学の会・会員、上田市)による、上田市に遺る神科条里と当地に遺存する「番匠」地名の研究(注①)に触発され、古代史料中の「番匠」記事を調べましたので紹介します。
 『寧楽遺文 上』(注②)を精査したところ、次の「番匠」とその構成員である「匠丁」を見いだしました。

○尾張國正税帳 天平六年(734年)
 「番匠壹拾捌人、起正月一日盡十二月卅日、合參伯伍拾伍日 單陸阡參伯玖拾人」

○駿河國正税帳 天平十年(738年)
 「匠丁宍人部身麿從 六郡別半日食爲單參日從」

○但馬國正税帳 天平十年(738年)
 「番匠丁粮米壹伯陸斛肆斗 充稲貳仟壹伯貳拾捌束」
 「匠丁十二人、起正月一日迄九月廿九日、合二百六十五日、單三千百八十日、食料米六十三斛六斗、人別二升」

○出雲國計會帳 天平六年(734年)
「  一二日進上下番匠丁幷粮代絲價大税等數注事」
 「三月
    一六日進上仕丁厮火頭匠丁雇民等貳拾陸人逃亡事
      右差秋鹿郡人日下部味麻充部領進上、」
 「四月
    一八日進上匠丁三上部羊等參人逃亡替事
      右差秋鹿郡人額田部首眞咋充部領進上、」

 これらの記事によれば、尾張国・駿河国・但馬国・出雲国から都(平城京)へ「番匠」「匠丁」が送られたことがわかります。都でどのような工事に携わったのかは未調査です。
 「番匠」の最初が九州年号の常色二年(648年)頃であったとする記事「孝徳天王位、番匠初。常色二戊申、日本国御巡礼給。」が『伊予三島縁起』に見えます(注③)。九州年号の白雉元年(652年)に大規模な前期難波宮が完成していることから、このときの番匠は難波に向かい、九州王朝の複都難波宮の造営に携わったと考えられます。こうした九州王朝による「番匠」制度を大和朝廷も採用したのであり、その痕跡が上記史料に遺されていたわけです。

(注)
①吉川八洲男「神科条里と番匠」多元的古代研究会主催「古代史の会」、2022年10月。
②竹内理三編『寧楽遺文 上』昭和37年版。
③正木裕「常色の宗教改革」『古田史学会報』85号、2008年。


第2845話 2022/09/27

九州王朝説に三本の矢を放った人々(5)

 通説側からの「九州王朝説に刺さった三本の矢」(注①)への反論として考えた前期難波宮九州王朝複都説でしたが、通説側でも論争が続いていました。それは、この巨大な前期難波宮を孝徳期とするのか天武期とするのかというものでした。それぞれに根拠を持った見解でしたので簡単に決着が付きそうもありませんでした。文献史学では、孝徳紀の大化改新詔などの文言が七世紀中頃のものではなく、孝徳紀の記事が疑わしく、出土した前期難波宮も規模や様式が七世紀中頃の宮殿にふさわしくないとする見解が出されていました。

 他方、考古学者からは出土土器編年や宮殿の北西部の谷から出土した干支木簡(「戊申年」648年)を根拠に、孝徳期とする見解が優勢でした。しかし、少数ですが天武期ではないかと考える考古学者もいました。たとえば難波の発掘に携わってこられた大阪歴博の考古学者、伊藤純さんもそのお一人でした。2012年9月、大阪歴博で伊藤さんに前期難波宮についてのご意見をうかがったところ、次のように答えられました(注②)。

「わたしは少数派(天武朝説)です。90数パーセント以上の考古学者は孝徳朝説です。しかし、学問は多数決ではありませんから。」

 「学問は多数決ではない」というご意見には大賛成ですとわたしは述べ、考古学出土物(土器編年・634年伐採木樋年輪年代・「戊申年」648年木簡)などは全て孝徳期造営説に有利ですが、天武期でなければ説明がつかない出土物はあるのですかと質問しました。

 伊藤さんの答えは明瞭でした。「もし、宮殿平面の編年というものがあるとすれば、前期難波宮の規模・様式は孝徳朝では不適切であり、天武朝にこそふさわしい。」というものでした。すなわち、孝徳期では大和朝廷の王宮の発展史から前期難波宮は外れてしまい、天武期と考えると適切ということなのです。それと同時に、出土した土器の編年からみると、「孝徳期説の方がすわりが良い」とも正直に述べられました。この発言を聞いて、自説に不利なことも隠さずに述べられる伊藤さんの考古学者としての誠実性を感じました。

 この伊藤さんの〝前期難波宮の規模・様式は大和朝廷の王宮の発展史と整合しない〟とする見解こそ、前期難波宮は近畿天皇家(後の大和朝廷)の宮殿ではないとする、九州王朝複都説の根拠の一つでしたので、伊藤さんの見解を知り、わたしは自説への確信を深めました。(つづく)

(注)
①九州王朝説への《三の矢》「7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。」
②古賀達也「洛中洛外日記」474話(2012/09/26)〝前期難波宮「孝徳朝説」の矛盾〟