難波朝廷(難波京)一覧

第2677話 2022/02/06

難波宮の複都制と副都(6)

 九州王朝(倭国)における権威の都「倭京(太宰府)」の象徴的官職「主神」の具体的な職掌を示す事件があります。管見では大宰府主神として名前が知られている人物に、宇佐八幡宮神託事件で著名な中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)がいます。史料(『続日本紀』)に遺されたその経歴をウィキペディアでは次のように紹介しています。

 「中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)は、奈良時代の貴族。氏は単に習宜とも記される。姓は朝臣。官位は従五位下・大隅守。
【経歴】
 天平神護二年(766年)従五位下に叙爵し、翌神護景雲元年(767年)に、宇佐神宮の神職団の紛争調停のために豊前介に任ぜられた。神護景雲三年(769年)9月大宰主神を務めていた際、宇佐八幡宮の神託であるとして、道鏡を皇位に就かせれば天下太平になると称徳天皇に上奏するが、和気清麻呂によって道鏡の皇嗣擁立を阻止される(宇佐八幡宮神託事件)。神護景雲四年(770年)に称徳天皇の崩御を通じて道鏡が失脚すると、阿曾麻呂は多褹嶋守に左遷された。宝亀三年(772年)4月に道鏡が没すると、6月に阿曾麻呂はかつて和気清麻呂が神託事件により流された大隅国の国司に任ぜられた。」

 宇佐八幡大神の神託により道鏡を天皇にすることを習宜阿曾麻呂が上奏するという、大和朝廷にとって前代未聞の大事件です。大宰府主神の習宜阿曾麻呂が、神託という形式とはいえ、皇族でもない道鏡を皇位に就けるよう上奏することができたのですから、その背景に大宰府が持っていた国家的権威を象徴しています。王朝交替後でもこれほどの権威が大宰府にあったわけですから、九州王朝時代の太宰府を複都制における「権威の都」とすることは穏当な理解と思われます。(つづく)


第2676話 2022/02/05

難波宮の複都制と副都(5)

 村元健一さんの次の指摘は、前期難波宮複都説にとって貴重なものでした。

 「隋から唐初期にかけて『複都制』を採ったのは、隋煬帝と唐高宗だけである。隋煬帝期では大興城ではなく、実質的に東都洛陽を主とするが、宗廟や郊壇は大興に置かれたままであり、権威の都である大興と権力の都である東都の分立と見なすことができる。」(注①)

 この視点を太宰府(倭京)と前期難波宮(難波京)に当てはめれば、権威の都「倭京(太宰府)」と権力の都「難波京(前期難波宮)」となります。その痕跡が『養老律令』職員令に残っています。職員令に規定された大宰府職員冒頭は「主神」であり、他には見えません。

 「主神一人。掌らむこと、諸の祭祀の事。」『養老律令』職員令

 主神は大宰府職員の筆頭に記されてはいるものの、官位令によれば正七位下であり、高官とは言い難いものです。このやや不可解な史料事実について「洛中洛外日記」(注②)で次のように論じました。

〝おそらく、九州王朝大宰府の権威が「主神」が祭る神々(天神か)に基づいていたことによるのではないでしょうか。大和朝廷も九州島9国を大宰府による間接統治をする上で、「主神」の職掌が必要だったと考えられます。第二次世界大戦後の日本に、マッカーサーが天皇制を残したことと似ているかもしれません。
 同様に、大和朝廷も自らが祭祀する神々により、その権威が保証されていたのでしょう。こうした王朝の権威の淵源をそれぞれの「祖神」とするのは、古代世界ではある意味において当然のことと思われます。したがって、『養老律令』の大宰府に「主神」があることは、九州大宰府が別の権威に基づいた別王朝の痕跡ともいうべき史料事実なのです。〟

 ここで述べていたように、大宰府に主神があることは、大宰府が別の権威に基づいた別王朝の痕跡であり、九州王朝(倭国)の複都制(両京制)時代において、太宰府「倭京」が〝権威の都〟であったことの史料根拠ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①村元健一「隋唐初の複都制 ―七世紀複都制解明の手掛かりとして―」『大阪歴史博物館 研究紀要』15号、2017年。
②古賀達也「洛中洛外日記」521話(2013/02/03)〝大宰府の「主神」〟


第2675話 2022/02/04

難波宮の複都制と副都(4)

 村元健一さんの論文「隋唐初の複都制 ―七世紀複都制解明の手掛かりとして―」(注①)には隋唐時代の複都制についての考察があり、長安(京師、大興)と洛陽(東京、東都)の二つの大都市が「京」や「都」として並立(両京制、複都制)したり、単独の都(単都制)になったりした経緯が詳述されています。なかでもわたしが注目したのが次の解説でした。

 「隋から唐の高宗期にかけて、制度として複都制を取り入れたのは隋の煬帝と唐の高宗のみである。」
 「当然ながら、正統な皇帝であることを明示するための祭祀施設である太廟、郊壇はすべて大興に所在している。
 煬帝期のこのような両都城の在り方を見れば、政治的、経済的、文化的な「京」は東京であるものの、京師大興には宗廟、郊壇といった中華皇帝としての正統性を示す礼制施設が存在しており、この点に両京が並び立った原因を求めることができよう。」
 「隋の文帝期、唐の高祖・太宗期では、洛陽が東方経営の拠点であるものの、都城を置くまでには至らず、大興・長安だけを都城とする単都制であった。隋から唐初期にかけて『複都制』を採ったのは、隋煬帝と唐高宗だけである。隋煬帝期では大興城ではなく、実質的に東都洛陽を主とするが、宗廟や郊壇は大興に置かれたままであり、権威の都である大興と権力の都である東都の分立と見なすことができる。」

 権威の都である大興(長安)と権力の都である東都(洛陽)の分立という指摘は示唆的です。この視点を太宰府(倭京)と前期難波宮(難波京)に当てはめれば、権威の都「倭京(太宰府)」と権力の都「難波京(前期難波宮)」と言えそうです。
 評制による全国支配(注②)のために列島の中心に近い難波に難波京を造営したと考えられることから、そこを権力の都と称するにぴったりです。他方、倭京(太宰府)は天孫降臨以来の倭国の中枢領域であった筑紫の宗廟の地として、権威の都の地位を維持したと思われます。たとえば、『二中歴』都督歴の冒頭部分に筑紫本宮という表記が見えますが、これは難波別宮(前期難波宮)に対応した呼称ではないでしょうか(注③)。(つづく)

(注)
①村元健一「隋唐初の複都制 ―七世紀複都制解明の手掛かりとして―」『大阪歴史博物館 研究紀要』2017年。
②『皇太神宮儀式帳』に「難波朝廷、天下立評」とある。評制開始時期については次の拙稿で詳述した。
 古賀達也「『評』を論ず ―評制施行時期について―」『多元』145号、2018年。
③古賀達也「洛中洛外日記」777話(2014/08/31)〝大宰帥蘇我臣日向〟
 古賀達也「『都督府』の多元的考察」『多元』141号、2017年。
 古賀達也「『都督府』の多元的考察」『発見された倭京 ―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集)明石書店、2018年。


第2674話 2022/02/03

難波宮の複都制と副都(3)

 栄原永遠男さんの論文「『複都制』再考」(注①)によれば、古代日本では京と都とでは概念が異なり、京(都を置けるような都市)は複数存在しうるが、都はそのときの天皇が居るところであり、同時に複数は存在し得ないとのこと。しかし、唯一の例外が前期難波宮で、その史料根拠が天武12年(683年)の複都詔でした。

 「又詔して曰はく、『凡(おおよ)そ都城・宮室、一處に非ず、必ず両参造らむ。故、先づ難波を都にせむと欲(おも)う。是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ』とのたまう。」『日本書紀』天武12年12月条

 わたしが前期難波宮九州王朝「副都」説を提起したとき、副都ではなく首都とすべきという積極的な批判が出され、その後に前期難波宮を複都制による複都の一つとする見解に至りました。そして、九州王朝(倭国)は7世紀前半(倭京元年、618年)に倭京(太宰府)を造営・遷都し、7世紀中頃(九州年号の白雉元年、652年)には難波京(前期難波宮)を造営し、両京制を採用したと考えました。その上で、倭京と難波京間を「遷都」し、ときの天子が居るところがその時点の「都」となり、留守にしたところには「留守官」を置いたとしました(注②)。
 すなわち、前期難波宮を副都ではなく複都の一つであり、太宰府と前期難波宮の二つの都(京)を九州王朝は必要に応じて使い分けたと考え、七世紀後半の九州王朝は前期難波宮が完成した白雉元年(652年)から焼亡する朱鳥元年(686年)までの間、二つの都(複都)を有する両京制の採用に至ったと自説を修正しました(注③)。
 九州王朝が必要に応じて二つの都を使い分けたとしたのには根拠がありました。村元健一さんの論文「隋唐初の複都制 ―七世紀複都制解明の手掛かりとして―」です(注④)。(つづく)

(注)
①栄原永遠男「『複都制』再考」『大阪歴史博物館 研究紀要』17号、2019年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2596話(2021/10/17)〝両京制と複都制の再考 ―栄原永遠男さんの「複都制」再考―〟
③古賀達也「洛中洛外日記」2663話(2022/01/16)〝難波宮の複都制と副都(1)〟
④村元健一「隋唐初の複都制 ―七世紀複都制解明の手掛かりとして―」『大阪歴史博物館 研究紀要』2017年。


第2666話 2022/01/21

太宰府(倭京)「官人登用の母体」説

 新春古代史講演会で佐藤隆さんが触れられた〝前期難波宮「官人登用の母体」説〟ですが、専門的な律令統治実務能力を持つ数千人の官僚群が前期難波宮に突然のように出現することは有り得ないと考えています。
 九州王朝説の視点からは、七世紀中頃(652年、白雉元年)に創建された前期難波宮(難波京)よりも古い太宰府(倭京)の存在を考えると、九州王朝(倭国)による律令官制の成立は、筑後(久留米市)から筑前太宰府に遷都した倭京元年(618年)から始まり、順次拡張された条坊都市とともに官僚機構も整備拡大されたと考えています。そして、前期難波宮完成と共に複都制(両京制)を採用した九州王朝は評制による全国統治を進めるために、倭国の中央に位置し、交通の要衝である前期難波宮(難波京)へ事実上の〝遷都〟を実施し、太宰府で整備拡充した中央官僚群の大半を難波京に移動させたと思われます。この推定には考古学的痕跡があります。それは太宰府条坊都市に土器を供給した牛頸窯跡群の発生と衰退の歴史です。
 牛頸窯跡群は太宰府の西側に位置し、太宰府に土器を供給した九州王朝屈指の土器生産センターです。そして時代によって土器生産が活発になったり、低迷したことを「洛中洛外日記」で紹介しました(注①)。
 牛頸窯跡群の操業は六世紀中ごろに始まります。当初は2~3基程度の小規模な生産でしたが、六世紀末から七世紀初めの時期に窯の数は一気に急増し、七世紀前半にかけて継続します(注②)。わたしが太宰府条坊都市造営の開始時期と考える七世紀初頭(九州年号「倭京元年」618年)の頃に土器生産が急増したことを示しており、これこそ九州王朝の太宰府建都を示す考古学的痕跡と考えられます。七世紀中頃になると牛頸での土器生産は減少するのですが、前期難波宮の造営に伴う工人(陶工)らの移動(番匠の発生)の結果と理解することができます。そして、消費財である土器の生産・供給が減少していることは、太宰府条坊都市の人口減少を意味しますが、これこそ太宰府の官僚群が前期難波宮(難波京)へ移動したことの痕跡ではないでしょうか。
 このように太宰府への土器供給体制の増減と前期難波宮造営時期とが見事に対応しており、七世紀前半に太宰府(倭京)で整備拡充された律令制中央官僚群が、七世紀中頃の前期難波宮創建に伴って難波京へ移動し、そして九州王朝から大和朝廷への王朝交替直前の七世紀末には藤原京へ官僚群は移動したとわたしは考えています。すなわち、太宰府(倭京)こそが「官人登用の真の母体」だったのです。なお、律令制統治の開始による官僚群の誕生と須恵器杯Bの発生が深く関連しているとする論稿(注③)をわたしは発表しました。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1363話(2017/04/05)〝牛頸窯跡出土土器と太宰府条坊都市〟
②石木秀哲「西海道北部の土器生産 ~牛頸窯跡群を中心として~」『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 ―発表資料集―』2017年、「九州国立博物館『大宰府学研究』事業、熊本県『古代山城に関する研究会』事業、合同シンポジウム」資料集。
③古賀達也「太宰府出土須恵器杯Bと律令官制 ―九州王朝史と須恵器の進化―」『多元』167号、2021年。
古賀達也「洛中洛外日記」2536~2547話(2021/08/13~22)〝太宰府出土、須恵器と土師器の話(1)~(7)〟


第2665話 2022/01/19

前期難波宮「官人登用の母体」説

 新春古代史講演会での佐藤隆さんの講演で「難波との複都制、副都に関する問題」というテーマに触れられたのですが、その中で〝前期難波宮「官人登用の母体」説〟というような内容がレジュメに記されていました。これはとても注目すべき視点です。このことについて説明します。
 服部静尚さん(古田史学の会・会員、八尾市)の研究(注①)によれば、律令官制による中央官僚の人数は約八千人とのことで、藤原京で執務した中央官僚は九州王朝時代の前期難波宮で執務した官僚達が移動したとする仮説をわたしは「洛中洛外日記」で発表しました(注②)。一部引用します。

〝これだけの大量の官僚群はいつ頃どのようにして誕生したのでしょうか。奈良盆地内で大量の若者を募集して中央官僚になるための教育訓練を施したとしても、壬申の乱(672年)で権力を掌握し、藤原宮遷都(694年)までの期間で、初めて政権についた天武・持統らに果たして可能だったのでしょうか。
 わたしは前期難波宮で評制による全国統治を行っていた九州王朝の官僚群の多くが飛鳥宮や藤原宮(京)へ順次転居し、新王朝の国家官僚として働いたのではないかと推定しています。〟

 おそらく、佐藤さんも同様の問題意識を持っておられ、〝前期難波宮は「官人登用の母体」〟と考えておられるのではないでしょうか。すなわち、大和朝廷の大量の官人は前期難波宮で出現したとする説です。前期難波宮を九州王朝の複都の一つとするのか、大和朝廷の孝徳の都(通説)とするのかの違いはありますが、前期難波宮(難波京)において約八千人に及ぶであろう全国統治のための大量の官人が出現したとする点では一致します。しかし、九州王朝説の視点を徹底すれば問題点は更に深部へ至ります。すなわち、前期難波宮で執務した大量の律令官僚群は前期難波宮において、いきなり出現したのかという問題です。わたしは、専門的な律令統治実務能力を持つ数千人の官僚群が短期間に突然のように出現することは有り得ないと考えています。(つづく)

(注)
①服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『古田史学会報』136号、2016年。『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』(『古代に真実を求めて』21集)に収録。
②古賀達也「洛中洛外日記」1975話(2019/08/29)〝大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(9)〟


第2664話 2022/01/17

難波宮の複都制と副都(2)

 新春古代史講演会で佐藤隆さんが触れられた「難波との複都制、副都に関する問題」とは栄原永遠男さんの論文「『複都制』再考」(注①)に基づかれたもので、「洛中洛外日記」(注②)で次のように栄原説を紹介しました。

〝古代日本では京と都とでは概念が異なり、京(天皇が都を置けるような都市)は複数存在しうるが、都はそのときの天皇が居るところであり、同時に複数は存在し得ないとされています。〟

 ここでの「古代日本」とは七世紀から八世紀における大和朝廷のことです。そして、唯一の例外が天武期の飛鳥と難波とされました。この栄原説を佐藤さんは紹介されました。その史料根拠は次の天武12年(683年)の複都詔でした。

 「又詔して曰はく、『凡(おおよ)そ都城・宮室、一處に非ず、必ず両参造らむ。故、先づ難波を都にせむと欲(おも)う。是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ』とのたまう。」『日本書紀』天武12年12月条

 正木裕さんの研究(注③)によると、この複都詔は34年前の常色 3年(649年)のことで、九州王朝の天子伊勢王が前期難波宮造営を命じた詔勅とされました。そうであれば、複都制を採用したのは九州王朝であり、後の大和朝廷の宮都制とは異なっていたことの理由がわかります。逆に言えば、〝天武の複都詔〟の不自然さこそが前期難波宮九州王朝複都説の傍証の一つだったわけです。そうであれば、なぜ九州王朝は複都制を採用し、大和朝廷は採用しなかったのかという理由の解明が課題となります。
 佐藤さんの講演を聴いて、新たな研究テーマに遭遇できました。これも学問研究の醍醐味ではないでしょうか。

(注)
①栄原永遠男「『複都制』再考」『大阪歴史博物館 研究紀要』17号、2019年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2596話(2021/10/17)〝両京制と複都制の再考 ―栄原永遠男さんの「複都制」再考―〟
③正木裕「九州王朝の天子の系列2 利歌彌多弗利から、「伊勢王」へ」『古田史学会報』164号、2021年。


第2663話 2022/01/16

難波宮の複都制と副都(1)

 昨日の新春古代史講演会(注①)での佐藤隆さんと正木裕さんの講演は示唆に富むものでした。そこで佐藤さんの「難波との複都制、副都に関する問題」という指摘について、その重要性を解説したいと思います。
 今から15年前に前期難波宮が九州王朝の「副都(secondary capital city)」とする説をわたしは発表したのですが(注②)、その後、「複都制(multi-capital system)」と考えた方が良いことに気づき、今は前期難波宮九州王朝複都説という表現を用いています。その後、太宰府(倭京)と難波京の「両京制(dual capital system)」という概念に発展しました。その経緯にいては「洛中洛外日記」(注③)で説明してきたところです。
 わたしの当初の視点と問題意識は、九州王朝(倭国)の首都は太宰府(倭京)で、その副都が前期難波宮(難波京)というものでした。その根拠は『隋書』や『旧唐書』に倭国の首都が筑紫から難波へ移動(遷都)したとする痕跡が見えないことです。この点については古田先生も同見解でした。このこともあって、先生は前期難波宮九州王朝副(複)都説に賛成されませんでした。
 他方、白雉改元の儀式を行った前期難波宮は副都ではなく、首都とするべきという西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からのご批判もありました。こうした意見がありましたので、わたしは前期難波宮を副都ではなく、複都の一つとする見解に変わりました。すなわち、太宰府と前期難波宮の双方を九州王朝の天子は必要に応じて使い分けたと考え、七世紀後半の九州王朝は前期難波宮が完成した白雉元年(652年)から焼亡する朱鳥元年(686年)までの間、二つの首都(複都)を有する両京制の採用に至ったと自説を変更しました。(つづく)

(注)
①1月15日(土)i-site なんば(大阪公立大学なんばサテライト)で開催。主催:古代大和史研究会、和泉史談会、市民古代史研究会・京都、市民古代史研究会・東大阪、誰も知らなかった古代史の会、古田史学の会。
○「発掘調査成果からみた前期難波宮の歴史的位置づけ」 講師 佐藤隆さん(大阪市教育委員会文化財保護課副主幹)
○「文献学から見た前期難波宮と藤原宮」 講師 正木裕さん(大阪府立大学講師、古田史学の会・事務局長)
②古賀達也「前期難波宮は九州王朝の副都」『古田史学会報』八五号、二〇〇八年。『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年)に収録。
③古賀達也「洛中洛外日記」1861話(2019/03/18)〝前期難波宮は「副都」か「複都」か〟
 同「洛中洛外日記」1862話(2019/03/19)〝「複都制」から「両京制」へ〟


第2652話 2021/12/30

『多元』No.167に

「太宰府出土須恵器杯と律令官制」掲載

 本日、友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.167が届きました。同号には拙稿「太宰府出土須恵器杯と律令官制 ―九州王朝史と須恵器の進化―」を掲載していただきました。
 同稿は、七世紀後葉の編年基準土器とされている須恵器杯Bの発生が、律令官制とその中央政府の官衙群成立を主要因とするものであり、七世紀中葉頃に太宰府条坊都市で杯Bが最初に本格使用されたとする論理的仮説(注)を提起したものです。この仮説が成立すると、杯Bの編年が四半世紀~半世紀ほど遡ります。令和四年には、その新編年仮説を考古学的出土事実により証明したいと考えています。

(注)須恵器杯Bは蓋に擬宝珠状のつまみがあり、杯身の底部に脚(高台)を持つタイプの土器。九州王朝が律令により全国の評制統治を行うために恐らく数千人におよぶ中央官僚群が太宰府(倭京)や前期難波宮(難波京)で誕生し、卓上で勤務、食事をとるようになり、脚が付いて卓上に安定して置ける杯Bの採用が始まったとする仮説。


第2626話 2021/12/02

令和四年(2022)、

 新春古代史講演会の告知

師走を迎え、わたしたち「古田史学の会」も『古代に真実を求めて』25集の編集作業など大詰めとなり、あわただしくなってきました。そうしたなか、恒例の新春古代史講演会(共催)の開催が決まりましたので、取り急ぎ概要をお知らせします。

◇日時 1月15日(土) 13時30分から17時まで
◇会場 大阪府立大学I-siteなんば  交通アクセスはここから。

◇演題と講師
「発掘調査成果からみた前期難波宮の歴史的位置づけ」
講師 佐藤隆さん(大阪市教育委員会文化財保護課副主幹)

「文献学から見た前期難波宮と藤原宮」
講師 正木裕さん(大阪府立大学講師、古田史学の会・事務局長)

◇参加費 1,000円
◇主催(共催) 古代大和史研究会、和泉史談会、市民古代史の会・京都、市民古代史の会・東大阪、誰も知らなかった古代史の会、古田史学の会

講師の佐藤隆さんは大阪歴博の学芸員として難波の発掘調査にたずさわられ、画期的な研究(注①)を発表されてきました。近年、わたしが最も注目し、尊敬してきた考古学者のお一人です(注②)。講演会では、前期難波宮の歴史的位置づけや、難波と飛鳥の出土土器量比較、最新の条坊出土状況などの紹介がなされます。
正木さんは佐藤さんの講演を受けて、難波京から藤原京への展開についての九州王朝説による最新研究を発表されます。令和四年の幕開けにふさわしいお二人の講演は聞き逃せません。

(注)
①佐藤隆「第2節 古代難波地域の土器様相とその歴史的背景」『難波宮址の研究 第十一 前期難波宮内裏西方官衙地域の調査』大阪市文化財協会、2000年。
同「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」『大阪歴史博物館 研究紀要』第15号、2017年。
同「難波京域の再検討 ―推定京域および歴史的評価を中心に―」『大阪歴史博物館 研究紀要』第19号、2021年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2600話(2021/10/22)〝佐藤隆さん(大阪歴博)の論文再読(2)〟


第2607話 2021/11/02

大化改新詔「畿内の四至」の諸説(3)

 『日本書紀』大化二年正月条(646年)の大化改新詔には、畿内の四至を次のように記しています。

 「凡そ畿内は、東は名墾の横河より以来、南は紀伊の兄山(せのやま)より以来、〔兄、此をば制と云ふ〕、西は赤石の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波の合坂山より以来を、畿内国とす。」『日本書紀』大化二年条(646年)

 各四至は次のように考えられています。。

(東)名墾の横河 「伊賀名張郡の名張川。」
(南)紀伊の兄山 「紀伊国紀川中流域北岸、和歌山県伊都郡かつらぎ町に背山、対岸に妹山がある。」
(西)赤石の櫛淵 「播磨国赤石郡。」
(北)近江の狭狭波の合坂山 「逢坂山。狭狭波は楽浪とも書く。今の大津市内。」

 最近、この畿内の四至をテーマとした興味深い論文を拝読しました。佐々木高弘さんの「『畿内の四至』と各都城ネットワークから見た古代の領域認知 ―点から線(面)への表示―」(注①)です。同論文は1986年に発表されており、わたしは不勉強のため近年までその存在を知りませんでした。佐々木さんは歴史地理学という分野の研究者のようで、同論文は次の文から始まります。

〝歴史地理学の仕事の一つは、過去の地理を復原することであり、つまりは人間の過去の地理的行動を理解するということにある。〟(注②)21頁

 このような定義に始まり、続いて同論文の学問的性格を次のように紹介します。

〝本稿では、そのいわば学際的立場をとっている歴史地理学の利点を更に拡張する意図もあって、行動科学の成果の導入を試みる。〟21頁

 そして大化改新詔の畿内の四至を論じます。その中で、当時の都(難波京)から四至の南「紀伊の兄山」についての次の指摘が注目されました。その要旨を摘出します。

(1) 難波京ネットワーク(官道)から南の紀伊国へ向かう場合、孝子峠・雄ノ山峠越えが最短距離である。このコースから兄山は東に外れている。
(2) このことから考えられるのは、この時代に直接南下するルートが開発されていなかったか、この記事が大化二年(646年)のものではなかったということになる。
(3) 少なくとも、難波京を中心とした領域認知ではなかった。
(4) 従って、この「畿内の四至」認識は飛鳥・藤原京時代のものである。
(5) 飛鳥・藤原京ネットワークは大化改新を挟んで前後二回あり、大化前代の飛鳥地方を中心(都)とした領域認知の可能性が大きい。

 以上が佐々木論文の概要と結論です。確かに兄山は飛鳥から紀伊国に向かう途中に位置し、もし難波からですと大きく飛鳥へ迂回してから紀伊国に向かうことになり、難波京の「畿内の四至」を示す場合は適切な位置にはありません。
 佐々木論文は通説(近畿天皇家一元史観)に基づいたものですから、その全てに納得はできませんが、都の位置により四至の位置は異なるという次の視点には、なるほどそのような見解もあるのかと勉強になりました。

〝日本の古代国家においては、都城の変遷が激しく、そのたびにこのネットワークが変化し、そして領域の表示も変化したのではないかと思われる。〟24頁

 この他にも佐々木論文には重要な指摘がありました。(つづく)

(注)
①佐々木高弘「『畿内の四至』と各都城ネットワークから見た古代の領域認知 ―点から線(面)への表示―」『待兼山論叢』日本学篇20、1986年。同論文はWEB上で閲覧できる。
②この視点はフィロロギーに属するものであり、興味深い。


第2606話 2021/11/01

大化改新詔「畿内の四至」の諸説(2)

 『日本書紀』大化二年正月条(646年)に見える大化改新詔について、古田学派内では次の三説が有力視されています。

(a) 九州年号「大化」の時代(695~704年)に九州王朝が発した大化改新詔が、『日本書紀』編纂により50年遡って「大化」年号ごと孝徳紀に転用された。
(b) 七世紀中頃の九州年号「常色」年間(647~651年)頃に九州王朝により、難波で出された詔であり、『日本書紀』編纂時に律令用語などで書き改められた。
(c) 孝徳紀に見える大化改新詔などの一連の詔は、九州王朝により九州年号「大化」(695~704年)年間に出された詔と同「常色」年間(647~651年)頃に出された詔が混在している。

 わたしは古田先生が主張された(a)の見解に立ち、大化改新詔(646年)に見える次の「建郡・郡司任命」記事を九州年号「大化」二年(696年)での〝廢評建郡〟の詔勅であったとする仮説(注)を発表し、この詔が出されたのは藤原宮としました。

 「凡そ郡は四十里を以て大郡とせよ。三十里以下、四里以上を中郡とし、三里を小郡とせよ。其の郡司には並びに国造の性識清廉(いさぎよ)くして時の務に堪ふる者を取りて大領・少領とし、強(いさを)しく聡敏(さと)しくして書算に工(たくみ)なる者を主政・主帳とせよ。」『日本書紀』大化二年正月条

 従って、この詔を発した実質的権力者は近畿天皇家の持統ではないでしょうか。他方、『日本書紀』には「大化二年」の「詔」と記され、九州王朝の年号「大化」を隠そうとしていないことから、大義名分上は九州王朝の天子による詔であったと考えました。王朝交代にあたり、おそらく「禅譲」という形式を持統は採用し、九州年号「大化二年(696)」に〝廢評建郡〟を九州王朝の天子に宣言させ、その事実を『日本書紀』では「大化」年号を50年遡らせて、九州王朝が実施した七世紀中頃の「天下立評」に換えて、大和朝廷が646年に「大化の建郡」を実施したとする歴史造作を行ったとしました。
 しかし、その後に服部静尚さんから「大化改新詔」を七世紀中頃のこととする(b)説が出され、正木裕さんからは(c)説が出されました。そうした研究を受けて、わたしは(a)説から(c)説へと見解を変えることになりました。こうした諸仮説に触発され、その中心的論点の一つとして畿内の四至問題について改めて調査研究を始めたところ、とても興味深い論文に出会いました。(つづく)

(注)古賀達也「大化二年改新詔の考察」『古田史学会報』89号、2008年12月。