地名一覧

第823話 2014/11/19

「言素論」の基本前提

 古田先生が提唱され古代史研究において援用展開されている「言素論」について、古田学派内では様々な論議がなされています。特に「古田史学の会」関西例会では、その使用方法や理解をめぐって激しい論争が今も続けられています。わたし自身も「言素論」を利用して多くの仮説やアイデアを述べてきたこともあり、この「言素論」について整理する必要を感じています。そこでわたしの理解もまだ不十分ですが、「言素論」について見解をのべてみたいと思います。
 まず「言素論」成立のための基本的前提として、古代日本語の単語や文字表記において、一般的には「一字・一音節・一義」がより古い形態と考えることがあります。たとえば、「魚」という字で表記される意味はfishですが、音は「ぎょ」(音読み)と「な」「うお」「さかな」(訓読み)などがあります。この fishを意味する日本語のうち、「な」を最も古いとする、これが「言素論」の基本前提です。すなわち、「魚」という表記の訓みの「一字・一音節・一義」 が「な」なのです。
 この基本前提に基づき、「一音節」ごとに言葉を分解し、その言葉の本来の意味の構成を明らかにするのですが、同時に「どうとでも言える」という恣意性に対する批判を避けられないのです。その「どうとでも言える」という恣意性に基づいて立てられた「仮説」は危ういという批判が西村秀己さんらから出されており、それに対して「言素論」の持つ先駆性による限界をわきまえた上で、その学問的可能性を追求すべきという反論があり、わたしはこの立場に立っています。
 この対立は、賛成反対を問わず、「言素論」を古代史研究に利用しようとする論者にとって重要な問題なのですが、残念ながら十分な理解がなされないまま、 論文に「言素論」が使用されるケースが散見されます。こうした感想はわたしも西村さんも同様に抱いており、そこにおいてお互いの意見の違いはありません。 誤解を恐れず単純化すれば、「言素論」使用に対して厳格な条件を要求する西村さんと、とりあえず作業仮説(思いつき)として利用する分には、あまり厳しいことは言わないでもよいのでは、とするのがわたしです。
 もっとも西村さんが指摘されるように、「一音節」に複数の意味があるケースでは、どの意味とするのかは個人の勝手な判断となりかねず、論証抜きの恣意的な判断となる、という批判はわたしも認めるところです。たとえば「洛中洛外日記」820話で紹介しました瀬戸内海地方に散見される「○○じ(ぢ)」という 地名の「じ(ぢ)」には共通した意味があるのではないかとする、わたしのアイデア(思いつき)においても、「ぢ」を神の古名である「ち」が濁音化したものとする理解もあれば、「道」を意味する「ぢ」かもしれず、どちらが妥当かは論証の対象であり、個人の勝手な判断で論を進めるのはあまり学問的態度とは言え ません。(つづく)


第820話 2014/11/13

瀬戸内海地域の

「じ(ぢ)」地名の考察

 「洛中洛外日記」817話「姫路・淡路・庵治の作業仮説(思いつき)」で紹介しました瀬戸内海地域の「じ(ぢ)」地名のアイデア(思いつき)ですが、それを読まれた神戸市にお住まいの安田さんという方から、倉敷市に味野(あじの) という地名があることを教えていただきました。安田さんのご意見では「あじ」が語幹で、高松市の庵治(あじ)と同じではないかとのこと。わたしもそう思います。こうした、情報を読者からお知らせいただくことが多く、ありがたいことです。
 安田さんの味野のご指摘により、「○○じ(ぢ)+地名接尾語」という地名がありうることに気づきました。その視点から、改めて「じ(ぢ)」地名を探索し てみますと、たとえば但馬や田島は「たじ(ぢ)+ま」ということになり、地名接尾語の「ま」が付いた形ではないかと思われます。薩摩・須磨・播磨などの地名接尾語の「ま」です。
 この考え方が正しければ、もしかすると味野と同じ倉敷市にある児島も、「こ+島(アイランド)」ではなく、「こじ(ぢ)+ま」ではないかというアイデア (思いつき)も浮かんできました。まだ、無責任な思いつきのレベルですが、これからよく考えてみたいと思います。
 更に敷衍すれば、『日本書紀』(孝徳紀)に見える難波の「味経の宮」の「あじふ」も、「あじ+ふ」かもしれません。ただしこの場合、「ふ」の意味がまだわかりません。
 以上、「じ(ぢ)」地名の思いつきでしたが、いかがでしょうか。

〔追記〕今朝は仕事で名古屋市に来ていますが、地下鉄の路線図を見ていますと、名鉄小牧線の駅名に、味鋺(あじま)・味美(あじよし)・味岡(あじおか)と、三つも「あじ」がつく駅名がありました。この地域も「じ(ぢ)」地名が多いのでしょうか。
 大分県豊後高田市にも香々地(かかぢ)という地名があります。いかにも古く謂われがありそうな地名です。


第817話 2014/11/07

姫路・淡路・庵治の作業仮説(思いつき)

 昨日は仕事で高松市に行きました。よい機会でしたので、当地の会員の方と夕食をご一緒しました。古代史研究や「古田史学の会」の将来構想など、様々な話題で盛り上がりました。
 お隣の愛媛県越智郡朝倉村にある後代「九州年号(白鳳)」金石文について話していたとき、石材についても話題となり、高松市から庵治石(あじいし)とい う良質な石材が出ることを西村秀己さんから教えていただきました。その庵治(あじ)という地名を知り、わたしが気になっていた問題を開陳しました。それは、瀬戸内海地方に姫路とか淡路という「○○じ」という地名があり、もしかすると末尾の「じ(ぢ)」は共通の意味を持っているのではないかというものです。高松市にも庵治(あじ)という地名があることを知り、ますますそのことが気になったのです。
 わたしのアイデアとしては、この「じ(ぢ)」は、古い時代の神を意味する「ち」が濁音になったのではないかと考えています。ですから、大阪の河内や高知、東かがわ市の大内(おおち)の「ち」も古い時代の神のことではないかと思います。このアイデア(思いつき)が正しければ、瀬戸内海や四国に「じ」「ち」を末尾に持つ地名はもっとあるのではないかと思います。
 ただし、このアイデアは西村さんからは賛成を得られず、今後の検討テーマとなりました。それでも、とても楽しい高松市での一夕でした。


第734話 2014/06/22

邪馬壹国の「やま」

 これは古田学派内でも意外と思い違いされていることですが、『三国志』倭人伝の女王国の名称は邪馬壹国と記されていますが、これは大領域国名の「壹」と小領域国名の「邪馬」の合成国名です。大領域国名の「壹」(it)は倭国の「倭」(wi)の別字表記で、「二心」がないという忠義を表す「壹」の 字を選んだものと古田先生は分析されています。したがって、女王卑弥呼が住んでいる「国」は「壹(倭)」国の中の「邪馬」国なのです。
 このような視点から邪馬壹国の所在地である博多湾岸や福岡県の地名を見たとき、筑後の山門は「邪馬」国の南からの入り口「戸」がついた「邪馬・戸」の可能性があります。北側の入り口「戸」の候補地名としては下大和(福岡市西区)があります。そう考えますと、北の下大和と南の山門の間に、女王国の「邪馬」国の中枢領域があるはずです。古田先生はその有力候補地として、春日市須玖岡本の小字地名「山」を指摘されています。近くには有名な弥生時代の須玖岡本遺跡があります。今後の調査が期待されます。
 同様に、奈良県の大和も「やま」国の入り口「戸」という意味と思うのですが、その「やま」はどこでしょうか。この問題をかなり以前から考えてきたのです が、京都府の旧国名は山城ですから、これは「やま」の「うしろ」の国と考えられますから、山城が「やま」国の一部ではないでしょうか。
 この「山」の「後ろ」と対応するように、淀川の西側に大山崎などの地名があり、これは「やま」の「前(さき)」と考えられます。たとえば筑前と筑後は古 くは「筑紫の前(さき)の国」と「筑紫の後(しり)の国」とされていましたから、近畿の「やま」も「やまの前(さき)の国」と「やまの後(うしろ)の国」 からなっていたのではないかと考えられます。その痕跡が現存地名の山城と大山崎です。
 次にこの近畿の「やま」国の中心はどこでしょうか。上記の理解からすると、山城と大山崎の間にあるはずですから、その候補地として石清水八幡宮が鎮座する「男山」を指摘したいと思います。京都における有名で歴史的にも古いこの神社の地こそ、近畿の「やま」国の中心にふさわしいと思いますし、九州王朝と関係が深い高良神社もあります。
 この近畿の「やま」国の存在を認めると、大和(やま・戸)は「やま」国を中心国として、その入り口(戸)という位置づけになり、とても古代における中心国とは言えなくなってしまうのです。もちろん、地名からの類推ですから、どの程度、歴史の真実を反映しているのかは他の視点や学問領域からの証明が必要ですが、近畿地方における古代の真実を明らかにする上で、ひとつのヒントになるように思われます。



第716話 2014/05/30

吉野ヶ里遺跡の「ひみか」

 「洛中洛外日記」698話「梅花香る邪馬壹国の旅」で、古賀市立歴史資料館では「邪馬台国」の「台」の字が古田説に従って「壹」の字に貼り替えて展示されていることを紹介しましたが、合田洋一さん(古田史学の会・四国、事務局長)から再び「朗報」が届きました。
 「古田史学の会・四国」会員の井上在身(のぶみ)さん(高松市)が、3月に佐賀県吉野ヶ里遺跡を訪問されたとき、遺跡のマスコットキャラクターの絵が各所に掲示されており、その名前が「ひみか」と表記されていたとのことなのです。送っていただいた写真を見ても、はっきりと「ひみか」「HIMIKA」と表 記されています。たとえばJR「吉野ヶ里公園駅」への大きな案内板にも、古代人の衣装を着た「マスコットキャラクター ひみか」と説明された手を振る男の 子の絵が描かれています。公園内の各所にも同様のマスコットキャラクターの絵が描かれており、「ひみか HIMIKA」とあります。
 『三国志』倭人伝に記された倭国の女王「卑弥呼」は「ひみこ」と訓まれてきましたが、古田先生は緻密な倭人伝研究や現地伝承(筑後国風土記逸文のミカヨリ姫説話)の分析により、「ひみか」と訓む新説を発表されました(『古代は輝いていたⅠ』1984年刊、『よみがえる卑弥呼』1992年刊)。すなわち、 吉野ヶ里遺跡では従来説の「ひみこ」ではなく、古田説の「ひみか」をマスコットの名前にふさわしいと考え、採用されていたのです。このように古田史学(九 州王朝説・邪馬壹国説・ひみか説等)が九州王朝の故地では確実に公の場でも浸透しているのです。ちなみに井上さんが撮られた写真によれば、吉野ヶ里遺跡の 解説掲示板には四カ国語(日本語・英語・中国語・韓国語)が使用されており、マスコットキャラクターを通じて世界へ「ひみか HIMIKA」が紹介されて いることがわかります。
 日本を代表する弥生時代最大規模の遺跡公園「吉野ヶ里」のマスコットキャラクターの名前に古田説「ひみか」が採用されたことについて、その経緯をインターネットで調べてみました。「吉野ヶ里歴史公園」のHPによりますと、マスコットの命名にあたり、一般公募が行われ、その中から「ひみか」が採用された とのことです。命名は平成10年(1998)に行われたとありますから、古田先生による「ひみか」説の発表以後です。説明では吉野ヶ里遺跡がある3町村 (東背振村・三田川町・神崎町。いずれも当時の地名)の最初の字をとってネーミングしたとのこと。偶然の一致とはいえ、「ひみか」の名称で応募した人の中 には、おそらく古田説の「ひみか」をご存じだった方もおられたのではないかと思います。
 吉野ヶ里遺跡のような「施設」は東京ディズニーランドなどのようにアトラクションや大型イベントを常時開催できませんし、その施設性格から修学旅行客や青少年の見学者、そして歴史好きの高齢者が主たるターゲット顧客となります。従って、いずれもリピーターにはなりにくく、おそらく1回きりの顧客が大半でしょう。これでは開園当初は物珍しさも手伝って、一定の集客が期待できますが、結局、時間とともに来園者も減少を続け、赤字運営に転落し、例外なく公的資 金(税金)の投入ということに落ち着きます。まともな経営者であれば、少なくともそのようなシナリオを想定し、事前に対策を考えます。
 そこで集客力アップのための様々なアイデアが「吉野ヶ里歴史公園」でも検討されたはずです。当然のこととして「吉野ヶ里歴史公園」もプロのマーケターが検討を重ねたことでしょう。そして手っ取り早い方法として、マスコットキャラクターを作り、関連グッズを販売し、「ゆるキャラ」としてデビューさせることぐらいは、安易ではありますが低コストで比較的効果的な対策として実施するでしょう。そして、吉野ヶ里遺跡にふさわしい古代人のマスコット、しかも「倭人 伝」で有名な「卑弥呼」などを模したキャラクターを造るというアイデアはすぐに思いついたはずです。
 次いで、そのマスコットのネーミングを行いますが、そこで重要なのが「商標権」などを侵害しないようにすることです。キャラクターグッズ販売も当然想定されますから、このネーミングは極めて重要です。恐らく、当初は「ひみこ」が一案として俎上に上がったとは思いますが、ご存じのように「ひみこ」はあまりにも有名な名前ですから、日本各地にある「邪馬台国」関連施設のお土産などで「商標権」が既に成立している可能性があります。少なくとも、様々な法的制約を受けるリスクを避けられないでしょう。他地域との差別化も難しそうです。
 こうした問題をも想定して「吉野ヶ里歴史公園」の担当者は公募による多くの候補の中から「ひみか」を採用することにしたはずです。この名称「ひみか」は 商標権などの問題をクリアしただけでなく、現在の女の子の名前に多用されている「きらきらネーム」の「○○カ」「☆☆ナ」にも対応し、「△△コ」たとえば 「ヒミコ」や「タケヒコ」よりも現代風です。主要ターゲット顧客である子供たちやそのお母さんたちにも受けがいいと思われます。
 ところが次に問題となるのが、結果として古田説「ひみか」と同じ名称を採用することへの抵抗や懸念が、今度は歴史学関係者(学芸員や学者)から出された はずです。少なくとも真剣に検討されたことをわたしは疑えません。古田説(邪馬壹国説・九州王朝説)を無視すること、「なかった」ことにするのは古代史学 界の暗黙のルールですから、一元史観の研究者にとっては自分が古田説支持者と見られかねない名称「ひみか」に賛成することには相当の躊躇があったはずで す。
 しかし、現実には「ひみか」が採用されたことから、そうした抵抗や懸念を押し切って決めた事情があったものと推測します。ただ、よくある手法として「一 般公募」の形式をとって、「古田説採用」への批判をかわすというのもリスクヘッジになったでしょう。また、「ひみか」と命名されたマスコットキャラクター は「男の子」ですから、女王(女性)の卑弥呼(ひみか)とは直接関係ない、という言い逃れもできそうです。ちなみに「女の子(妹)」の名前は「やよい」 ちゃんとのことです。ビジネス的にも「学閥」的にも、よく練られたネーミングだと思います。
 佐賀県や「吉野ヶ里歴史公園」の関係者にお会いする機会があれば、ネーミングの経緯などについてうかがってみたいものです。そして何よりも、わたしも久しぶりに「吉野ヶ里公園」に行ってみたいと思いました。吉野ヶ里遺跡にはわ
たしは三十代の頃、古田先生と訪れて以来行っていません。当時はまだ発掘中でしたが、古田先生の来訪を知った当地の学芸員の方々から歓迎され、発掘現場のすぐ側まで案内していただきました。当時から、古代史学界よりも考古学界の方が、古田先生や古田説に好意的でした。吉本隆明さんも「わたしが知っている若手の考古学者の半分は古田説支持者です」と言っておられたそうですから、より 「理系」に近い考古学者の方が古田説を正しく評価できる人が多いのでしょうね。


第714話 2014/05/25

古代史の中の「鳥」

 今月の関西例会の時、出野正さん(古田史学の会・会員、奈良市)から張莉さんの論文「古代中国・日本の鳥占の古俗と漢字」(同志社女子大学総合文化研究所『紀要』第29巻、2012年3月30日刊)の抜き刷りをいただきました。
 張莉さんは古田先生の九州王朝説を支持されている漢字学の研究者で、白川静さんの後継者です。聞けば御夫君の出野さんから日本古代史を学ばれたとのことですが、同論文には中国古典のみならず、『日本書紀』『源氏物語』『古今和歌集』『拾遺和歌集』などの日本古典や現代の研究書が引用されており、その博識に驚かされました。「鳥」に関わる様々な漢字について考察されており、白川漢字学の後継者にふさわしい論稿です。
 わたしも古代史研究において、これまでも何度か「鳥」をテーマにしたことがありますが、最近では熊本県和水町の江田船山古墳出土の鉄刀にある銀象嵌の「鳥」は鵜飼の鵜ではないかとしました。「洛中洛外日記」704話「『隋書』と和水(なごみ)町」でも紹介しましたが、九州王朝(倭国)では鵜飼が盛んだったようで、『隋書』の他にも『古事記』にも神武の東侵説話に「島つ鳥、鵜養(うかい)が伴(とも)、今助(すけ)に来(こ)ね。」とあり、窮地に陥っ た神武が「鵜養が伴」に援軍を要請していることから、神武の出身地である北部九州(糸島半島)に「鵜養が伴」がいたことがわかります。古代における「鳥」 研究においても、古田史学・多元史観が必要なのです。


第520話 2013/02/02

「蔵司」「老司」「門司」

 第518話で、大宰府政庁の西側にある蔵司遺跡は九州王朝律令にあった職掌(役所)の「蔵司(くらのつかさ)」に縁源するのではないかと述べましたが、この他にも同類の地名が福岡県にはあります。観世音寺や大宰府政庁II期の創建瓦「老司式瓦」の窯跡が出土した「老司」(福岡市南区)と、「門司」(北九州市門司区)です。
 大和朝廷の『養老律令』には「蔵司」「関司」は見えますが、「老司」や「門司」といった職掌(役所)はありません。「門司」はその名称や場所から、関門海峡を管理する役所と思われますが、「老司」とは何のことか想像がつきません。「糧司」のことで、食料を管理する職掌ではないかとする説もあるようですが、その根拠や理由がわかりませんので、魅力的な仮説ですが今のところ当否を判断できません。
 「老司」が古代まで遡る地名かどうかは検証が必要ですが、他の地域にない地名ですので、やはり九州王朝との関係が高いように思われます。「門司」は古代木簡にも記載例(「豊前門司」など)があり、関門海峡を挟んで九州側にあることから、やはり九州王朝太宰府を基点とした役所と考えられます。これと同様の例が大分県の「佐賀関」です。九州と四国の間にある「関」地名ですが、ここも九州側にあることから、太宰府を基点として設けられた「関」と考えられます。
 九州の地名を九州王朝や九州王朝律令の視点から検討してみると、いろいろと面白いことが見えてきそうです。


第517話 2013/01/21

「ガリ」地名の広がり

 先週、雪の中を北陸三県へ出張しました。そのおり偶然、石川県白山市に根上(ねあがり)という地名があることを知りました。この「ねあがり」という地名は吉野ヶ里などと同類の「ガリ」地名ではないかと感じました。
 弥生時代の環濠集落として有名な吉野ヶ里遺跡のように地名接尾語「ガリ」を持つ地名は佐賀平野に多くみられるのですが、筑後川を挟んで東側の筑後平野に
は、わたしの記憶では無かったように思います。このように「ガリ」地名は非常に偏った分布を示します。
 一方、大阪府と奈良県の境にある暗峠の「クラガリ」や、信州尖石遺跡の「トガリ」も同様に「ガリ」地名ではないかと推測しています。さらに東日本大震災
で被災した大曲(おおまがり)も「ガリ」地名のように思えます。もしかすると北海道の石狩平野のイシカリや山口県光市のヒカリもそうかもしれません。
 このように見てみると、「ガリ」地名は日本列島内の広範囲に分布している可能性があります。この「ガリ」の意味はよくわかりません。地名接尾語「が
(賀)」に「り(里)」がついたのかもしれませんが、今のところ不明とせざるを得ません。これら地名成立がいつの時代まで遡るのかも今後の課題です。どな
たか調査研究してみませんか。


第489話 2012/11/01

紫香楽宮跡を訪れて

 先日、紫香楽宮跡に行ってきました。近くまでドライブしたことはこれまでもあったのですが、同遺跡を見学したのは初めてでした。それまでは紫香楽宮は信楽町内の一角に宮殿跡があるのだろうと想像していたのですが、実際に訪れてみると、かなりの広範囲に寺院跡や各種建物跡が散在しているという遺跡状況でした。やはり、歴史研究は自分の足で実物を見て回ることが大切だと改めて実感しました。「歴史は脚にて知るべきものなり」 (秋田孝季)ですね。
 ご存じのように、紫香楽宮は聖武天皇により造営された複数の宮殿の一つですが、なぜこのような山の中に宮殿を造営したのか不思議です。しかしもっと不思議なことがあります。それは、近畿天皇家はなぜ聖武天皇の時代になって複数の大規模な「都」「宮殿」を次々に造営できる財力を持つようになったのかという疑問です。たとえば、後期難波宮・難波京や恭仁京、そして紫香楽宮です(東大寺の大仏殿もこの時代の造営です)。
 こうした問題意識を抱いた歴史研究者が今までにいたのかどうかは知りませんが、この答えもやはり多元史観・九州王朝説に立ったとき明確にできると思います。すなわち、701以前の九州王朝は唐や新羅との戦争にかかる戦費、神籠石山城や水城・大野城築造にかかる防衛費を負担するために、全国から集めた「税収」をつぎ込んでいたのでしょうが、701年に政権交代した近畿天皇家は戦費負担が減り、防衛費も大幅削減が可能となったので、次々に短期間で「都」「宮殿」を造営することができたと思われます。
 逆にいえば、古代日本列島(倭国)において、代表権力者に集まる富の大きさがこれらの事業規模からわかるのではないでしょうか。こうした視点からすれ ば、九州王朝が7世紀中頃、難波に大規模な朝堂院を有する画期的な副都前期難波宮を造営できる財力があったとしても不思議ではありません。

 紫香楽宮から帰ると、冨川ケイ子さん(古田史学の会々員)からメールが届き、第487話の内容に誤りがあることをお知らせいただきました。当初、わたしは庄内藩々主を本間家と書いていたのですが、本間家は大地主で藩主は酒井家であるとご指摘いただきました。これは全くわたしの思いこみによるミスで、横田さん(古田史学の会・全国世話人、HP担当)にお願いして、大急ぎで訂正していただきました。読者の皆さんと山形県の皆さんにお詫び申し上げます。そして、誤りを指摘していただいた冨川さん、ありがとうございます。
 なお、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様」というような歌が江戸時代に作られたほど、庄内の本間家は裕福で立派な地主だったとのことで、 藩や領民の危機をその財力で何度も救った名家です。今回の誤りのおかげでこうした山形県の歴史を勉強することができました。


第487話 2012/10/25

月山の初冠雪

 昨日は月山が初冠雪するなど、山形市も肌寒くなりました。今朝はこれから山形新幹線と東海道新幹線を乗り継いで名古屋に向かいます。午後は名古屋で代理店との交渉です。

 山形に来るといつも違和感を覚えることの一つに、テレビや新聞の天気予報があります。山形では庄内・最上・村山・置賜(おきたま)の4地域にわけ
て天気予報がなされるのですが、まず自分がいる山形市がどの地域に属するのかが京都人のわたしにはわかりませんでした。そして、一つの県をなぜ4地域にも
分けて天気予報を報じなければならない理由もわかりません。京都府なんかは北部と南部の2地域なのに、なんとも不思議でした。
 そこでアテンドしていただいた山形市の代理店のKさんにその理由を聞いてみました。Kさんの説明では、日本海側の庄内地方は平野で、その他はそれぞれ盆
地になっており、微妙に天気が異なるとのこと。さらに、戦国時代や江戸時代はそれぞれ別の大名が支配していた歴史があり、今でもあまり「仲が良くない」と
冗談めかして話されていました。もちろん現在はそのようなことはないでしょううが。
 たとえば米沢市がある置賜地方は上杉家が、山形市がある村山地方は最上家が殿様で両者は戦国時代には敵対していた間柄とのこと。ちなみに上杉家はNHK大河ドラマ「天地人」で有名ですし、江戸時代には屈指の名君・上杉鷹山を出しています。
 最上家は戦国武将の最上義光(もがみよしあき)を出しています。最上義光と仙台の伊達正宗とは親戚関係だそうです。
 庄内藩は酒井家が藩主で、大地主の本間家も有名です。そういえば庄内地方の酒田市長選がテレビで報道されていましたが、候補者の一人が本間正巳さん(前副市長)でした。本間家の御子孫でしょうか。有名な「ゴルフのホンマ」もこの本間家出身とのこと。
 このような歴史的背景のうえに、現在の山形県の風土が形作られているようです。まさに「多元的山形県」ですね。青森県でも津軽と南部とでは似たような関
係があるそうですし、津軽内部でも津軽家と津軽為信に滅ぼされた側の勢力があり、現在も両者は「仲が良くない」という話しを聞いたことがあります。
 このような歴史的背景や歴史的力関係は古代も現代も日本列島に存在しています。こうした歴史理解に基づいた学問が多元史観であり、九州王朝説でもあるのです。現代日本も多元的に分析すると、新たな切り口や真の勢力関係が見えてきそうです。


第484話 2012/10/17

「十五社神社」の分布

 名古屋のホテルのパソコンで「十五社神社」を検索したところ、天草の85社が最濃密分布で、次いで長野県岡谷市の4社のようです。いずれもネット検索の数値ですから実数値というよりも「参考値」に過ぎませんが、天草の最濃密分布は揺るがないと思います。
 ネット検索によれば、次の地域に「十五社神社」がヒットしました。ちなみに御祭神は地域により異なり、天草と岡谷市以外は各1社です。

 茨城県かすみがうら市
 長野県茅野市
 長野県松本市
 長野県岡谷市(4社)
 静岡県袋井市
 岐阜県山県市
 和歌山県和歌山市
 兵庫県加古川市
 福岡県北九州市
 熊本県天草(85社)
 熊本県宇城市
 鹿児島県鹿屋市 
 鹿児島県出水郡長島町

 これらの分布状況が指し示すことは、「十五社神社」の分布の中心は圧倒的に天草であり、次いで長野県岡谷市ということができます。従って「十五社 神社」の移動(広がり)の方向は、「天草→その他。どういうわけか信州岡谷市にやや多い」ということができそうです。この展開の方向について、その時期と理由はまだ不明ですが、歴史の秘密が隠されていそうです。わたしの直感ですが、ここにも九州王朝説による説明が必要のように思われます。


第483話 2012/10/16

岡谷市の「十五社神社」

 今、塩尻から名古屋へ向かう特急しなのに乗っています。これから2時間ほど木曽路の旅を満喫できます。今日は仕事で岡谷市に行ったのですが、岡谷駅前に「十五社神社」が鎮座していることに気づきました。こんなところにも「十五社神社」があることに驚きました。
 「十五社神社」といえば、第422話で紹介しましたように、熊本県天草諸島に分布している不思議な神社なのですが、それと同じ名称の神社が遠く離れた長野県岡谷市にもあったのです。タクシーの運転手さんにたずねたところ、岡谷市内に数カ所あるそうで、いずれも大きな神社ではないとのこと。名古屋のホテルに着いたら、ネットで調べてみたいと思います。
 長野県というところは本当に不思議なところで、福岡県久留米市にある高良大社(筑後国一宮)と同じ神を祭る「高良社」が数カ所あることがわかっています。京都の石清水八幡宮の隣にも高良神社がありますが、長野県のように複数あるのは北部九州以外では珍しいことです。
 このように「十五社神社」が共通してあるということから、九州天草と信州にどのような関係があるのか興味津々です。
 今、南木曽駅に着きました。名古屋まであと1時間です。ところで、「南木曽」と書いて何と訓むかご存じですか。答は「なぎそ」です。面白い当て字ですね。それではまた。