史料批判一覧

第2344話 2021/01/09

古田武彦先生の遺訓(22)

―司馬遷の暦法認識は「一倍年暦」―

 一倍年暦で編纂されているはずの『史記』の「秦本紀」に見える百里傒の年齢記事(七十余歳)が二倍年齢であることを説明しました。それでは司馬遷は周代における二倍年暦(二倍年齢)の存在を知っていたのでしょうか。結論から言えば、司馬遷は二倍年暦という概念を知らなかったと思われます。今回はその説明をします。
 『史記』冒頭の「五帝本紀」に堯(ぎょう)の業績の一つに一年の長さと閏月を決めたことが記されています。次の通りです。

 「一年は三百六十六日、三年に一回閏月をおいて四時(注①)を正した。」『中国古典文学大系 史記』上巻、10頁。(注②)

 この記事から、司馬遷が伝説の聖帝堯の時代から一年を三百六十六日とする一倍年暦であったと理解していることがわかります。従って、二倍年暦の存在を認識していなかったと思われます。この他にも、『史記』「暦書」には次の記事が見えます。

 「大昔は暦の正月は春の始にしていた。(中略)一切のものは、ここにはじまり、一年の間に完備し、東からはじまり四季の順にめぐって、冬に終わるのである。そうして冬が終わるとまた鶏が三度鳴いて新しい年が明け、十二ヶ月がめぐって、十二支の丑にあたる十二月で終わる。(後略)」同、239頁。

 そして「暦書」の末尾に、一年を三百六十五日と四分の一とする「四分暦」に相当する歴表「暦日甲子篇」が記されています。これらの記述から、司馬遷は中国での暦法は上古より一貫して一倍年歴と認識していたと思われます。(つづく)

(注)
①ここでの「四時」は、四季を意味する。
②野口定男訳『中国古典文学大系 史記』全三巻。平凡社、1968~1971年。


第2343話 2021/01/08

古田武彦先生の遺訓(21)

―『史記』秦本紀、百里傒の二倍年齢―

 西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の見解のように、東周時代(春秋・戦国期)は有力諸侯がそれぞれ別個の暦法を採用していたのであれば、その痕跡があるのではないかと思い、司馬遷の『史記』(注①)を読み始めました。その結果、「秦本紀」に一倍年暦と二倍年暦(二倍年齢)混在の痕跡を発見しましたので紹介します。
 『史記』の「秦本紀」に百里傒(注②)という人物が登場します。秦の繆(ぼく)公に請われて大夫となって国政をあずかり、秦の勢力拡大に貢献した人物です。後に始皇帝が中国を統一できたのも百里傒の功績に依るところが大きかったと考えられています。その百里傒について次のような年齢記事があります。

 「〔繆公五年〕百里傒は秦から亡(に)げて宛(河南省)に走ったが、楚の里人にとらえられた。繆公は百里傒が賢人であると聞いて、重財を投じてもこれを贖(あがな)いたいと思った。(中略)
 楚人は承諾して百里傒を返した。このとき、百里傒はすでに七十余歳であった。」『中国古典文学大系 史記』上巻、58頁

 こうして百里傒は繆公五年に大夫として仕え、活躍します。そして百里傒が最後に登場するのが、晋討伐に百里傒の子の孟明視が将軍として出陣する場面で、次のように記されています。

 「〔繆公三十二年〕出陣の日、百里傒と蹇叔(けんしゅく)の二人は、出陣する軍にむかって泣いた。」『中国古典文学大系 史記』上巻、61頁

 蹇叔は百里傒の親友で、百里傒の推挙により秦の上大夫に迎えられた賢人です。両大夫の息子たちが将軍として出陣することになり、もう会うことはできないだろうと老人二人が泣いたという場面です。
 これを最後に、「秦本紀」には繆公の発言中に百里傒の名前は挙がるものの、百里傒自身の言行記事としては現れなくなります。ですから、繆公五年のときに百里傒が七十余歳であれば、繆公三十二年には約百歳になっています。しかも息子の孟明視は将軍として活躍できる年齢ですから、もし一倍年齢で百里傒が三十歳のときの子供であれば孟明視は約七十歳ということになり、いくらなんでも将軍として戦場で指揮を執るのは無理ではないでしょうか。二十歳のときの子供であれば、それこそ約八十歳であり、将軍として出陣するのは非常識です。これが二倍年齢であれば、百里傒が繆公に仕えたのは三十代後半となり、本人も息子もリーズナブルな年齢となります。
 このようなことから、百里傒の年齢記事(七十余歳)は二倍年齢表記と考えざるを得ないのです。他方、「秦本紀」全体としては一倍年暦で書かれていることから、二つの暦法が混在していると、わたしは判断しました。
 百里傒が活躍した繆公の時代は、一倍年暦による従来説では紀元前七世紀頃(春秋時代)とされています。また、百里傒は楚の出身とされていますので、『史記』の記事に基づけば、この時代の楚は二倍年暦、秦は一倍年暦を採用していたと考えることができます。もちろん、『史記』の年齢記事・諸侯の在位年数が司馬遷により一倍年暦に改訂されたものであれば、あるいは司馬遷が参考にした元史料が既に一倍年暦に改訂されていた場合には、こうした単純な判断はできません。それでは司馬遷は二倍年暦という暦法や二倍年齢という概念の存在を知っていたのでしょうか。(つづく)

(注)
①野口定男訳『中国古典文学大系 史記』全三巻。平凡社、1968~1971年。
②『孟子』「萬章章句上」には百里奚とある。

 


第2339話 2021/01/04

二倍年齢研究の実証と論証(5)

 ―『延喜二年阿波国戸籍』の偽籍説―

 『延喜二年(902)阿波国板野郡田上郷戸籍断簡』の超高齢者群の存在と若年層の少なさという史料事実を一倍年齢でも二倍年齢でも説明不可能なため、古代戸籍に関する先行研究を調査しました。
 その結果、平安時代に入ると中央政府(近畿天皇家)の権力や地方への影響力が低下し、地方の造籍において、地方官僚ぐるみによる「偽籍」という行為が発生していることを知りました。平田耿二『日本古代籍帳制度論』(1986年、吉川弘文館)によれば、律令体制が形骸化していた九~十世紀頃には、班田収受で得られた田畑の所有権を維持するために、造籍時に死亡者の除籍を届け出ず、生きていることにして、年齢を加算し戸籍登録するという偽籍行為が頻出していたとのことなのです。すなわち、延喜二年『阿波国戸籍』に見える超高齢者たちは既に亡くなっており、戸籍に登録されているからといって、その当時に超高齢者がいたと判断することはできないわけです。そのことは、同戸籍を二倍年齢実在の「実証的」根拠に使用できないことをも意味します。
 更に若年層や成人男子が極端に少ないという現象も、徴用・徴兵等の義務から逃れるために、男子の戸籍登録をしなかったためと推定されています。あるいは、男子が生まれても女子として戸籍登録した可能性もあります。
 確かに偽籍説であれば、同戸籍の考えにくい超高齢者群の存在、若年層や成人男子の極端な少なさについての合理的な説明が可能です。従って、同戸籍の〝史料事実〟は史的事実ではなく、実証の根拠とすることができないことを偽籍説により論証していることになります。他方、十世紀初頭の阿波国では中央政府の律令支配が形骸化していたことを示す史料根拠として、同戸籍が使用できることも示唆しています。
 今回のケースは、史料事実と史的事実が別であることや、実証と論証の関係性を理解する上でわかりやすい事例ではないでしょうか。(つづく)


第2338話 2021/01/03

二倍年齢研究の実証と論証(4)

―『延喜二年阿波国戸籍』の二倍年齢説を断念―

 わたしが『延喜二年(902)阿波国板野郡田上郷戸籍断簡』を知ったのは、長野県白樺湖畔の昭和薬科大学諏訪校舎で1週間にわたり開催された古代史討論シンポジウム「邪馬台国」徹底論争(1991年)においてでした。参加されていた「邪馬台国」阿波説論者の方からいただいた岩利大閑著『道は阿波より始まる』に同戸籍が掲載されていたのです。
 一瞥して、その超高齢者群の存在に驚きました。当時としては有り得ないような多くの長寿者が記されており、阿波国ではこの時代まで二倍年齢表記が残存していたのではないかと疑ったのです(暦は一倍年暦の時代)。そこで、超高齢者群の存在を記すその年齢記事(史料事実)を根拠に、実証的に二倍年齢の存在を証明できるのではないかと考えました。
 しかし、同戸籍の年齢を半分にすると、80~110歳の超高齢者の年齢は現実的な数値になるものの、それ以外の年齢層では若くなりすぎて全く整合性がとれません。また、若年層が少ないという別の問題も解決できません。すなわち、同戸籍記載年齢を一倍年暦でも二倍年暦でも実証の根拠に使用することは、それを支持するための論証が成立せず、学問的に危険と気づいたのでした。そのため、二倍年齢により同戸籍を理解するという仮説提起をわたしは断念しました。
 前話で指摘したように、古代諸史料に見える「九十歳」とか「百歳」という、当時としてはあり得にくい年齢記事を〝史料事実〟として疑いもせずにそのまま実年齢と理解し、〝史料事実に基づく実証〟と称して仮説を提起し、論を進めることが危険であるように、二倍年齢表記ととらえ、単純に実年齢はその半分とすることも、同様に危険です。やはり「学問は実証よりも論証を重んずる」と村岡先生が述べられたように、「実証を実証たらしめるには精緻な論証が不可欠」(注)なのでした。(つづく)

(注)「学問は実証よりも論証を重んずる」との村岡先生の言葉に対する加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)の感想。更に加藤さんは、わたしへのメールで次のようにも追加説明されています。
 〝村岡先生の言葉の私なりのもう少し平易な理解を申し上げますと、実証Aと称するものを持ち出して、Bと結論する人と、Cと結論する人が有った場合、Aは共通ですから勝負はつかず、決め手となるのは結論B,Cを導く論証の適否にある、という内容を、端的に表現されたもの、とも思えるということです。
 いずれにしても、何か特別なことではなく、ごく当たり前のことを言われているとしか思えないことに変わりは有りません。Aから短絡的にBと結論しがちであるが、よく考えてみるとCが正しい、というようなケースにおいて、村岡先生の言葉は特に理解し易いと思います。〟


第2337話 2021/01/02

二倍年齢研究の実証と論証(3)

『延喜二年阿波国戸籍』の実証と論証

 昨年11月の八王子セミナーでは、最初に『延喜二年(902)阿波国板野郡田上郷戸籍断簡』研究の経緯を紹介しました。当時としては超高齢者群の存在を示すその年齢記事(史料事実)を根拠に、実証的に二倍年暦(二倍年齢)表記ではないかとする作業仮説の当否を検討しました。その結果、実証的な判断により提起したこの仮説を是とする論証が成立せず、後に撤回に至った研究経緯を説明しました。この研究事例における史料事実と実証と論証について説明します。

 延喜二年(902年)成立の『阿波国板野郡田上郷戸籍断簡』に当時としては有り得ないような多くの長寿者が記されており、阿波国ではこの時代まで二倍年齢表記が残存していたのではないかと疑ったのが研究の始まりでした(暦は一倍年暦の時代)。その年齢分布(史料事実)は次の通りです。

【延喜二年阿波国板野郡田上郷戸籍断簡】
年齢層  男 女 合計  (%)
1~ 10 1 0 1 0.2
11~ 20 5 1 6 1.5
21~ 30 8 15 23 6.6
31~ 40 4 34 38 9.3
41~ 50 8 71 79 19.2
51~ 60 2 61 63 15.3
61~ 70 1 70 71 17.3
71~ 80 8 59 67 16.3
81~ 90 6 34 40 9.7
91~100 5 13 18 4.4
101~110 1 3 4 1.0
111~120 1 0 1 0.2
合計 50 361 411 100.0
※出典:平田耿二『日本古代籍帳制度論』1986年、吉川弘文館

 同戸籍は現代の日本社会以上の高齢者分布を示しており、高齢層の寿命はとても十世紀初頭の日本人の一般的な寿命とは考えられません。そこで、わたしはこの高齢表記を二倍年暦を淵源とする二倍年齢ではないかと考えました。すなわち、暦法は一倍年暦に変更されても、人の年齢計算は1年で2歳とする、古い二倍年齢表記が阿波国では継続採用されていたのではないかと思ったわけです。

 他方、子供の数が少ない同戸籍の記述(史料事実)に基づく実証として、次ような見解も提起されていました。「邪馬台国」阿波説を唱える研究者による次の記事です(注)。

 「(前略)大倭の地へ王都が移遷されて以来、中世源平時代はもとより室町時代迄でも阿波では成年男子は都へ出仕する義務がありました。天皇家の周辺をささえたのは阿波人であったのは姓氏録を研究するだけで明白です。それぞれの血脈に従い、能力に応じた官職についていました。現在でいう停年になれば故里に帰ってきます。(中略)人はいうに及ばず、農水産物衣類まで阿波に依存して成り立っていたのです。」岩利大閑『道は阿波より始まる その二(増補版)』6頁

 子供の数が極端に少ないという、他の古代戸籍とは真逆の史料事実をそのまま歴史事実として受け入れたために、「阿波では成年男子は都へ出仕する義務がありました」とする解釈を導入せざるを得なかったものと思われます。しかし、同戸籍で極端に少ないのは「成年男子」だけではなく、1歳から20歳までの「少年少女」もそうなのですから、この解釈では史料事実を充分に説明できません。すなわち、論証が成立していません。ですから、学問的な実証にも至らず、仮説としても成立していないのです。

 このような事例は、古代諸史料に見える「九十歳」とか「百歳」という、当時としてはあり得にくい年齢記事を〝史料事実〟として疑いもせずにそのまま実年齢と理解し、〝史料事実に基づく実証〟と称して仮説を提起し、論を進めることの危険性をご理解いただける典型的なケースではないでしょうか。実は似たような誤りを、同戸籍についてわたしもおかしそうになりました。(つづく)

(注)岩利大閑『道は阿波より始まる その二(増補版)』昭和61年(1986)、京屋社会福祉事業団。


第2336話 2021/01/01

二倍年齢研究の実証と論証(2)

 ―事実と実証と論証―

 歴史研究においては実証であれ論証であれ、確かな史料事実に基づいて行わなければなりません。しかし、史料事実そのものが何かを証明してくれるわけではありません。茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)の論稿(注①)では、そのことを次のように説明しています。

〝「事実」というものはただその「事実」を表現しているだけで、それ以上のことにはなにも語りません。〟『倭国古伝』207頁

 その上で、実証と論証の関係を次のように説明しています。

〝「事実」についての論理展開があってはじめて、仮説的な真実が発見され、それが「実証」として働き、さらなる「論証」によって「実証」の信頼度が増す、という構造になっていたと思います。これこそが、村岡氏や古田氏が目指していた学問の方法でしょう。〟(同上)

 この実証と論証の関係について、加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)は、私へのメールで次のように述べられました。

 「実証を実証たらしめるには精緻な論証が不可欠ですから、村岡先生の言葉(注②)は当たり前のことを言っているようにしか思えず、そんなに問題にされること自体不思議な気がします。
 例えば、日本書紀の記事を実証として使えるようにするために,古田先生を始め学派の人達(貴殿も)がどれ程の論証を尽くしたか、を考えればすぐ分かることのように思えるのですが」

 この加藤さんの指摘は、茂山さんの説明と意味するところは同じです。このことを二倍年暦(二倍年齢)研究を例に説明します。(つづく)

(注)
①茂山憲史「『実証』と『論証』について」、『倭国古伝』(『古代に真実を求めて 22集』古田史学の会編・明石書店、2019年)所収。
②「学問は実証よりも論証を重んずる」(古田武彦先生が紹介された村岡典嗣先生の言葉)


第2335話 2020/12/31

二倍年齢研究の実証と論証(1)

 ―はじめに―

 歴史研究においては史料事実に基づく実証と、同じく史料事実に基づく論証という、性格が異なる証明方法があります。両者の論理学的関係性については、茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)による優れた解説があります(注①)。また、山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)のブログ「sanmaoの暦歴徒然草」には異なる視点からの考察があり、示唆を受けました(注②)。わたしも「洛中洛外日記」で〝学問は実証よりも論証を重んじる〟〝「実証主義」から「論理実証主義」へ〟などを連載しました(注③)。なお、〝学問は実証よりも論証を重んじる〟は古田先生ご生前に『古田史学会報』でも発表しており、先生には読んでいただいています。
 本年11月に開催された八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)において、わたしは古代戸籍における二倍年暦(二倍年齢)の痕跡という新しい分野の研究を発表しましたが、そこでも実証と論証の関係性について丁寧な説明が必要と痛感しました。そこで、令和三年を迎えるにあたり、二倍年暦研究を対象として、このテーマを改めて詳述することにします。
 それでは「洛中洛外日記」読者の皆様、一年間のご愛読に感謝し、令和三年が実り多き年となるよう祈念しながら、本年最後のご挨拶といたします。良いお年をお迎え下さい。

(注)
①茂山憲史「『実証』と『論証』について」、『古田史学会報』147号(2018年8月)所収。
 茂山憲史「『実証』と『論証』について」、『倭国古伝』(『古代に真実を求めて 22集』古田史学の会編・明石書店、2019年)所収。
②山田春廣〝学問は実証よりも論証を重んじる ―「実証主義」は「教条主義」、科学は「仮説主義」―〟、ブログ「sanmaoの暦歴徒然草」(2018年5月9日)掲載。
③古賀達也〝学問は実証よりも論証を重んじる(1)~(9)〟、「洛中洛外日記」622~639話(2013年11月19~12年29日)掲載。
 古賀達也「学問は実証よりも論証を重んじる」、『古田史学会報』127号(2015年4月)所収。『古代に真実を求めて』19集(古田史学の会編・明石書店、2016年)に転載。
 古賀達也〝「実証主義」から「論理実証主義」へ(1)~(5)〟、「洛中洛外日記」1832~1855話(2019年2月1日~3月10日)掲載。


第2333話 2020/12/29

「秋月系図」に見る別伝承習合の痕跡

 『群書系図部集 第七』の「大蔵氏系図」(注①)などに見える「阿智王伝承」や「阿智使主伝承」は、本来は別伝承であったものが〝習合〟されたものとわたしは考えています。その痕跡が最もよく遺っているのが、同じく『群書系図部集 第七』に収録されている「秋月系図」です。既に紹介したように、秋月氏は九州王朝に仕えた千手氏の主家であり、両氏が同族であることが別の系図(注②)に記されています。
 「秋月系図」では、阿智王の次代の高貴王(「又名阿多倍」とある)には長文の傍注があり、そこには時代が異なる二つの説話が記されています。ひとつは、阿多倍は「都賀使主」を号し、大臣を任じ、「嫁斉明天皇産三王子。其中子志拏直賜大蔵姓。」とあるように、高貴王(阿多倍)は「斉明天皇」と結婚し、三人の子供が生まれ、その次男の志拏直が大蔵姓を賜ったという不思議な伝承です。
 その記事に続いて、阿智王が「応神天皇」の御世に七姓の氏族と共に帰化したという伝承が記されています。この伝承は『続日本紀』延暦四年六月条に見える、坂上大忌寸(いみき)苅田麿による宿禰姓への改姓を願う上表文の引用であり、「応神天皇(誉田天皇)」時代の帰化という部分は『日本書紀』応神紀二十年条の次の記事と類似しています。

 「二十年の秋九月に、倭漢直の祖阿知使主、其の子津加使主、並に己が黨類(ともがら)十七縣を率て、来歸(まうけ)り。」

 この二つの伝承のうち、七世紀中頃の来日伝承を持つ史料は「秋月系図」「大蔵氏系図」「田尻系図」(注③)などの筑前の氏族の系図で、九州王朝の家臣となった大蔵氏系氏族に限られているようです。この系列の伝承で興味深いのが、先の「秋月系図」の傍注にあるように、来日した阿多倍が「斉明天皇」と結婚したという点です。「大蔵氏系図」では「阿多王妻以敏達天皇之孫茅渟王之女」とあり、来日した阿多倍(阿多王)が敏達天皇の子の茅渟王の娘(斉明に相当)を妻にしたとあります。恐らく、来日した阿多倍が「九州王朝の皇女」を妻にしたという本来の伝承が、九州王朝の存在が忘れられた後世において、近畿天皇家の「斉明」や「茅渟王之女」に書き換えられたものと思われます。

(注)
①『群書系図部集 第七』「大蔵氏系圖」(昭和六十年版)
②東京大学史料編纂所蔵『美濃國諸家系譜』「秋月氏系図」
③『群書系図部集 第七』「田尻系圖」(昭和六十年版)


第2332話 2020/12/24

「中宮天皇」は倭姫王か

 野中寺に伝わる弥勒菩薩銘(注①)の「中宮天皇」を九州王朝の天子(筑紫君薩夜麻)の奥さんとする仮説を10年ほど前の「古田史学の会」関西例会で発表したことがあります(注②)。そのときのことを「洛中洛外日記」327話(2011/07/23)〝野中寺弥勒菩薩銘の中宮天皇〟で次のように紹介しました。

 〝中宮天皇の病気平癒を祈るために造られた弥勒菩薩像のようですが、銘文中の中宮天皇について、一元史観の通説では説明困難なため、偽作説や後代造作説なども出ている謎の仏像です。
造られた年代は、その年干支(丙寅)・日付干支から666年と見なさざるを得ないのですが、この年は天智五年にあたり、天智はまだ称制の時期で、天皇にはなっていません。斉明は既に亡くなっていますから、この中宮天皇が誰なのか一元史観では説明困難なのです。

 従って、大和朝廷の天皇でなければ九州王朝の天皇と考えたのですが、この時、九州王朝の天子薩夜麻は白村江戦の敗北より、唐に囚われており不在です。 そこで、「中宮」が後に大和朝廷では皇后職を指すことから、その先例として九州王朝の皇后である薩夜麻の后が中宮天皇と呼ばれ、薩夜麻不在の九州王朝内で代理的な役割をしていたのではないかと考えたのです。〟

 ここまでを作業仮説として提起していたのですが、それ以上は進展していませんでした。ところが先日(12月21日)、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)とインターネット通話で九州王朝トップ(倭王)の称号や天皇号の位置づけについて意見交換していたときに、この中宮天皇は天智の皇后で九州王朝の皇女と考えられている倭姫王のことではないかというアイデアが浮かんだのです。これは正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が近年発表された九州王朝系近江朝説とも関連したものです。このアイデアについて日野さんに意見を求めたところ、近畿天皇家一元史観の学界内に中宮天皇を倭姫王とする説が既にあるとのことでした。

 そこで、古田学派内での先行説の有無を調べるために、正木裕さんに確認したところ、昨日開催された「水曜研究会」(注③)で同様の意見が参加者(服部静尚さん他)から出されたとのことでした。こうした研究動向を知り、仮説として成立しそうなアイデアであることに自信を得ました。これからは各研究者による様々な論証が試みられることと期待しています。

(注)
①同銘文は次の通り(異説あり)。
「丙寅年四月大朔八日癸卯開記 栢寺智識之等 詣中宮天皇大御身労坐之時 誓願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等 此教可相之也」
②古賀達也「中宮天皇と不改常典」(古田史学の会・2011年7月度関西例会)
③古田史学の会・会員有志による研究会(会場:豊中倶楽部自治会館)。毎月一度、水曜日に開催されることからこの名称が付けられた。


第2331話 2020/12/23

阿智王伝承と阿智使主伝承

 『群書系図部集 第七』の「大蔵氏系図」(注①)には、阿智王と阿智使主、高尊王・高貴王と阿多倍のように、同一人物に複数の名前があることから、「洛中洛外日記」2329話(2020/12/21)〝群書類従「大蔵氏系図」の史料批判〟において、〝名前も前文では「阿智王」「阿多倍=高尊王」、系図では「阿智使主」「高貴王」と微妙に異なっており、本当に同一人物の伝承なのか用心する必要もあります。〟と指摘しました。この問題について検討したところ、本来は別伝承であった「阿智王伝承」と「阿智使主伝承」が〝習合〟されていた可能性が高まりました。
 阿智王や阿智使主に関する伝承はいくつかの史料(注②)に見えますが、主には次のような差異があります。

(1)代表的な始祖の名前が「阿智王(あちおう)」と「阿智使主(あちのおみ)」
(2)その子供の名前が「阿多倍」と「都賀使主(つがのおみ)」
(3)来日の時期が「孝徳期」と「応神期」
(4)来日した人物が「阿智王・阿智使主」と「阿多倍」
(5)帰化した類族数が「十七縣」と「七縣」

 これらの差異が史料毎に様々なバリエーションで伝承されており、一見すると整合性や規則性はありません。しかし、この中で決定的な差異は(3)の来日年代です。孝徳期(七世紀中頃)と応神期(『日本書紀』紀年では三世紀後半頃)ですから、誤記誤伝のレベルではありませんので、本来は別々の伝承があったと考えざるを得ないのです。

(注)
①『群書系図部集 第七』「大蔵氏系圖」(昭和六十年版)
②管見では、阿智王・阿智使主を始祖とする伝承記事が次の史料にある。『日本書紀』(応神紀二十年条)、『新撰姓氏録』、『続日本紀』(光仁紀・宝亀三年条、桓武紀・延暦四年条)、「大蔵氏系図」、「坂上系図」、「秋月系図」、「田尻系図」。


第2324話 2020/12/16

新井白石の学問(2)

 古田先生の九州王朝説は、主に『隋書』や『旧唐書』などの歴代中国史書を史料根拠として成立しています。そしてそれは、大和朝廷が自らの利益に基づいて編纂した『日本書紀』よりも、中国正史の夷蛮伝の方がその編纂目的から、可能な限り正確に夷蛮の国々の情報を記載しようとするばず、という論理的考察(論証)に基づいています。他方、従来説は『日本書紀』が描く日本列島の国家像の大枠(近畿天皇家一元史観)を論証抜きで是とすることにより成立しており、それに合わない中国史書の記述は信頼できないとして切り捨ててきました。
 こうした国内史料と海外史料の史料性格の違いなどから、日本古代史研究において海外史書を重視した学者が新井白石でした。白石が生まれた明暦三年(1657)、水戸藩では藩主徳川光圀の命により『大日本史』の編纂が開始されました。『大日本史』三九七巻は明治三九年(1906)に完成するのですが、白石はこの編纂事業に当初期待を寄せていました。しかし、その期待は裏切られ、友人の佐久間洞巌宛書簡の中で次のように厳しく批判しています(注)。

 「水戸でできた『大日本史』などは、定めて国史の誤りを正されることとたのもしく思っていたところ、むかしのことは『日本書紀』『続日本紀』などにまかせきりです。それではとうてい日本の実事はすまぬことと思われます。日本にこそ本は少ないかもしれないが、『後漢書』をはじめ中国の本には日本のことを書いたものがいかにもたくさんあります。また四百年来、日本の外藩だったとも言える朝鮮にも本がある。それを捨てておいて、国史、国史などと言っているのは、おおかた夢のなかで夢を説くようなことです。」(『新井白石全集』第五巻、518頁)

 日本古代史の真実を見極めるためには『日本書紀』『続日本紀』などの国内史料だけではなく、中国や朝鮮などの国外史料も参考にしなければならないという姿勢は、古田先生が中国史書の史料批判により九州王朝説を確立されたのと相通じる学問の方法です。江戸時代屈指の学者である白石ならではの慧眼です。比べて、日本古代史学界の現況は、白石がいうところの「おおかた夢のなかで夢を説くようなこと」をしている状態ではないでしょうか。(おわり)

(注)現代語訳は中央公論社刊『日本の名著第十五巻 新井白石』所収桑原武夫訳に拠った。


第2314話 2020/12/08

明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(5)

 景初元年短里開始説の論証に成功した西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の論文「短里と景初 ―誰がいつ短里制度を布いたのか―」が収録された古田史学の会編『邪馬壹国の歴史学 ―「邪馬台国」論争を超えて―』(ミネルヴァ書房、2016年)は、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)による編集の下、わたしたち「古田史学の会」が作り上げた渾身の一冊です。中でも短里の研究は白眉を為すもので、古田武彦先生の遺稿となった同書巻頭文〝「短里」と「長里」の史料批判 ――フィロロギー〟で、次のような過分の評価をいただきました。

〝「古田武彦はなかった」 ―― いわゆる「学会の専門家」がこの四~五年とりつづけた〝姿勢〟である。
 けれども、この一書(『邪馬壹国の歴史学 ―「邪馬台国」論争を超えて―』)が出現し、潮目が変わった。新しい時代、研究史の新段階が出現したのである。
 「短里」と「長里」という、日本の古代史の、否、中国の古代史の〝不可欠〟のテーマがその姿をキッパリと姿を現した。
 この八月八日(二〇一五)はわたしの誕生日だ。この一書は、永年の「待たれた」一冊である。

 〔中略〕

 やがてわたしはこの世を去る。確実に。しかし人間の命は短く、書物や情報のいのちは永い。著者が死んだ時、書物が、生きはじめるのである。

 今、波多野精一さんの『時と永遠』(岩波書店、昭和十八年)を読んでいる。
 この時期から今まで、ようやく「短里」と「長里」問題を、実証的かつ論証的に論ずることができる。具体的にそれを証明するための、画期的な研究史にわたしたちは、今巡り合うたのである。
 平成二十七年八月八日校了〟

 同書収録の拙稿「『三国志』のフィロロギー ―「短里」と「長里」混在理由の考察―」の原稿を読まれた古田先生からお電話があり、お褒めの言葉をいただきました。先生のもとで古代史を学び始めて三十年、叱られることの方が多かった〝不肖の弟子〟でしたが、最後にいただいたこのお電話は忘れがたいものとなりました。
 同書の上梓を前に先生は亡くなられ(二〇一五年十月十四日、八九歳)、この巻頭文は遺稿となりました。同書を企画編集された服部さんとミネルヴァ書房の田引さんに感謝申し上げます。(おわり)