史料批判一覧

第610話 2013/10/17

表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の謎

 朝来市の『赤渕神社縁起』に見える、九州年号「常色元年(647)」に行われた「新羅」との丹後における交戦記事について「洛中洛外日記」で紹介しましたが、その頃の倭国(九州王朝)と新羅の関係は『日本書紀』によれば良好で、特に戦争状態にあったことはうかがえません。そのため、「洛中洛外日記」第606話において、「群書類従」の『群書系図部集 第六』(系図部六十七)に収録されている「日下部系図」に「養父郡大領(評督か)。天智天皇御宇異賊襲来時。為防戦大将。賜日下部姓。於戦場。被退怱異賊。」とある記事を根拠に、この新羅との戦闘記事は「常色元年」ではなく、天智天皇の頃の事件(唐・新羅連合と倭国の戦争)のことであれば理解できると述べました。
 ところが、森茂夫さんから送られてきた『赤渕神社縁起』には「常色元年(647)」の出来事として新羅との戦闘記事が詳述されています。しかも、表米宿禰伝承の中心記事として記されており、やはり「常色元年」の出来事と理解せざるを得ないことが判明しました。「日下部系図」に記された「天智天皇の時」とする記述は、後代において「常色元年」での新羅との交戦記事を不審とした系図編纂者により、『日本書紀』の認識に基づき、書き加えられた(伝承の改変)と思われるのです。少なくとも、系図よりもはるかに成立が早い『赤渕神社縁起』(天長5年成立・828年)の記事が史料批判の結果から優先されます。すなわち、現代や後代の認識に基づいて、史料を改変したり理解してはならないという、文献史学(古田史学)の原則がここでも試されているのです。
 それでは「常色元年(647)」の新羅との交戦記事は何だったのでしょうか。その真相に迫りたいと思います。(つづく)


第608話 2013/10/13

『多遅摩国造日下部宿禰家譜』の表米宿禰

 「洛中洛外日記」第607話で紹介しました、森茂夫さんから送られてきた「赤渕神社文書」写真の中に『多遅摩国造日下部宿禰家譜』がありました。「群書類従」の『日下部系図』には「表米宿禰」は孝徳天皇の子供、あるいは孫とされ、 『赤渕神社縁起』にも孝徳天皇の皇子と記されています。ところが赤渕神社蔵の『多遅摩国造日下部宿禰家譜』では開化天皇の末裔とされています。
 具体的には、家譜冒頭に「稚倭根子日子大毘毘命」(開化天皇)が記され、続いて「日子座王」「山代之大筒木真若王」「迦禰米雷王」「息長宿禰王」「大多牟坂王」とあり、その10代後に「赤渕足尼」が記されています。この「赤渕足尼」は「表米宿禰」とともに赤渕神社の御祭神として祭られています。「赤渕足尼」の4代後が「表米宿禰」とされています。このように『多遅摩国造日下部宿禰家譜』では、「表米」は孝徳天皇の皇子ではなく、開化天皇・日子座王・息長 宿禰王・大多牟坂王、そして赤渕足尼らを先祖としています。この系図がどこまで信頼できるのかは不明ですが、ともに赤渕神社の祭神とされている「赤渕足尼」の子孫と見るのが穏当のように思われます。
 それではなぜ『赤渕神社縁起』では孝徳天皇の皇子とされているのかが新たな問題となります。『赤渕神社縁起』も『多遅摩国造日下部宿禰家譜』も赤渕神社にある文書ですから、とても不思議です。なお、今回紹介しました「家譜」の人物名は写真版から古賀が判読したもので、不鮮明な文字を誤読しているかもしれ ません。その場合はご容赦ください。(つづく)


第607話 2013/10/12

実見、『赤渕神社縁起』(活字本)

 「洛中洛外日記」第604話で、『赤渕神社縁起』を実見したいと書き、「浦島太郎」の御子孫も日下部氏を名乗っていたことを改めて紹介したのですが、なんとその御子孫の森茂夫さん(京丹後市在住)から、『赤渕神社縁起』をはじめとする「赤渕神社文書」の釈文(当地の研究者により活字化されたもの)の写真ファイルが送られてきました。森さんも九州年号が記されている史料として『赤渕神社縁起』に注目され、現地でこの縁起の活字本を写真撮影されたとのこと。わたしの「洛中洛外日記」でのお願いが、こうも早く実現でき感謝感激しています。森さん、ありがとうございます。
 その写真によれば『赤渕神社縁起』は複数あり、最も古いものは天長五年に成立したものの写本で、再写が繰り返されています。より古い『赤渕神社縁起』写本(赤渕神社縁起1)には九州年号の常色元年(647)、常色三年(649)、朱雀元年(684)が記されていますが、再写の過程で、それら九州年号を不審として、表米の没年「朱雀元年甲申三月十五日」が『日本書紀』に見える「朱鳥元年丙戌三月十五日」(686)に書き換えられている現象も見られました (赤渕神社縁起2)。
 このような史料状況てすので、どの史料が最も史実を伝えているのかを判断する作業、すなわち史料批判がまず必要です。しかも、天長五年成立の『赤渕神社縁起』も、既に改変されている可能性が高く、記事の内容ごとの個別の史料批判も必要と思われ、かなり困難な作業になりそうです。これから少しずつ、その史料批判の成果を報告していきたいと思います。まずはしっかりと読み込んでいきます。(つづく)


第606話 2013/10/06

「日下部氏系図」の表米宿禰と九州年号

 「洛中洛外日記」第604話で紹介しました「表米宿禰」伝承について、追跡調査をしましたので御報告します。
 表米宿禰の子孫が日下部氏を名乗っているとのことなので、「群書類従」の『群書系図部集 第六』(系図部六十七)に収録されている「日下部系図」と「日下部系図別本 朝倉系図」(以下「別本」と記します)を調べてみたところ、「表米」という人物について記録されていました。「日下部系図」では孝徳天皇の孫(有馬皇子の子供)として「表米」が記されており、「別本」では孝徳天皇の子供で、有馬皇子の弟として「表米」が記されています。その記された年代から判断すると、「別本」にあるように孝徳天皇の子供の世代としたほうがよいようです。もっとも、本当に孝徳天皇の子孫であったのかどうかは不明です。何らかの理由があり、後代において近畿天皇家の子孫として系図が創作された可能性が大きいのではないでしょうか。
 「日下部系図」には「表米」について次のように記されています。( )内は古賀による注です。

「養父郡大領(評督か)。天智天皇御宇異賊襲来時。為防戦大将。賜日下部姓。於戦場。被退怱異賊。朱雀元年甲申(684、九州年号)三月十五日卒。朝来郡久世田荘賀納岳奉祝表米大明神。」

 九州年号の「朱雀」が使用されていることが注目されます。赤渕神社縁起では「常色元年」(647)に新羅と交戦したとあるようですが、ここでは「天智天皇御宇異賊襲来時。」とありますから、これが正しければ九州王朝と唐・新羅連合軍との交戦(白村江戦など)の時期ですから、年代的にはよくあいます。
 「別本」では「日下部表米」とあり、次のように記されています。

 「難波ノ朝廷。戊申年(648、常色二年)養父郡(評)ノ大領(評督か)ニ補佐(任か)セラル。在任三年。」

 難波朝廷の戊申年(648、常色二年)に養父評の評督に任命されたことか記されていますが、この時期こそ「難波朝廷天下立評給時」に相当します。なお、 表米には子供が二~三人あり、長男の「都牟自」も「難波朝廷癸丑(653、白雉二年)養父郡(評)補任少領(助督か)。」と記され、己未年(659、白雉 八年)に大領(評督)に転じたと記されています。「都牟自」の没年は「癸未歳死(683、白鳳二十三年)」とありますから、父の「表米」よりも一年早く没したことになります。
 両系図の記録をまとめると、「表米」の年表は次のようになります。

648(常色二年)養父評の評督に就任。
653(白雉二年)長男の都牟自が養父評助督に就任。
659(白雉八年)長男の都牟自が評督に転任。
662頃 襲来した異賊(新羅か)と交戦し勝つ。この功績により「日下部」姓をおそらく九州王朝から賜る。
683(白鳳二十三年)長男の都牟自没。
684(朱雀元年)表米、三月十五日没。

 おおよそ以上のようになりますが、「日下部系図別本」はその後も天文二年(1533)まで続いていることから、当地には御子孫が今でも大勢おられるのではないでしょうか。
 以上の追跡調査の結果から、赤渕神社縁起の「表米宿禰」伝承は歴史事実と考えられ、白村江戦頃に新羅軍が丹後まで来襲し、表米が防戦し勝利したことも歴史事実を反映した伝承の可能性が高いのではないでしょうか。また、九州王朝による7世紀中頃の「難波朝廷天下立評」により、表米も養父評督となり、その子孫が評督職を引き継いだこともわかりました。
 疑問点として残ったのは、なぜ「表米」が孝徳天皇の孫や子供とされたのかということです。本当に孝徳の子孫だったのか、九州王朝の当時の天子(正木説に よれば伊勢王)の子孫だったのか、あるいは後世における全くの創作だったのか、今後の研究課題です。いずれにしても、九州年号「常色」「朱雀」付きの現地伝承・系図ですから、とても貴重です。まさに現地伝承恐るべし、です。


第605話 2013/10/05

文字史料による「評」論(6)

 「評制」開始時期を7世紀中頃とする史料根拠として、『皇太神宮儀式帳』をはじめ様々な史料を紹介してきましたが、いずれも後代史料でした。従って、文献史学の学問の方法として、これら後代史料の記述が真実かどうかを同時代金石文などで検証する作業が必要です。もし同時代金石文が7世紀中頃よりも早い時期の「評制」の存在を示していた場合は、当然のこととして同時代金石文が優先されます。もちろん、その金石文の史料批判も行われる必要があります。その金石文が同時代ではない、あるいは「偽造・偽刻」「後代追刻」というケースも可能性としてはあるからです。
 そうした史料批判を前提として、現存最古の「評制」が示された金石文として、法隆寺から献納された観音菩薩立像台座銘(東京国立博物館蔵)が著名です。そこには冒頭に次の文字が記されています。

 「辛亥年七月十日記 笠評君名左古臣」

 「辛亥年」とは651年(九州年号の常色五年)にあたるとされています。菩薩像の様式や特徴がこの時代のものであることから、651年の「辛亥年」とされているのです。わたしも、この菩薩像を東博の法隆寺館で何度か見たことがあり、他の仏像との比較からも651年の「辛亥年」として問題ないと思います。
 現存最古の「評制」同時代金石文の紀年が「辛亥年」(651)であり、後代史料に見える7世紀中頃の「評制」開始記事と矛盾していません。このように、 文字史料と金石文の一致は、「評制」開始を7世紀中頃とする見解をますます確かなものとしているのです。(つづく)


第604話 2013/10/03

赤渕神社縁起の「常色元年」

 このところ「洛中洛外日記」も史料批判など、やや理屈ぽいテーマが続きましたので、今回は息抜きに九州年号付きの面白そうな地方伝承を紹介します。
 「洛中洛外日記」第602話で 紹介した『粟鹿大神元記』(あわがおおかみげんき)の活字本の所在調査のためインターネット検索をしていたら、粟鹿神社が鎮座する兵庫県朝来市に赤渕神社という神社があり、その縁起書に九州年号の「常色元年」(647)が記されているとの記事がありました。それによると、御祭神の一人で表米宿禰命という人物に関する伝承があり、常色元年に丹後に攻めてきた新羅の軍船を表米宿禰が迎え討ち、勝利したというものです。表米宿禰命は孝徳天皇の第二皇子という伝承 もあるようで、当地の日下部氏の祖先とのことです。
 『日本書紀』にはこのような名前の皇子は見えませんし、この時期に新羅との交戦をうかがわせるような記事もありません。倭国(九州王朝)と新羅の関係が悪化するのは、もう少し後のことですので、何とも不思議な伝承なのです。しかも九州年号の「常色元年」とする具体的な年次を持つ伝承ですから、何の根拠もない創作や誤記誤伝とも思えません。もしかすると九州王朝の王族に関する伝承ではないかとも想像しています。
 表米宿禰命が現地氏族の日下部氏の祖先とされていることも気にかかります。というのも、九州王朝の天子の家系と思われる高良大社の祭神、高良玉垂命の子孫が日下部氏(草壁氏。後に稲員〔いなかず〕を名乗り、現在に至っています)を名乗っているからです。偶然の一致かもしれませんが、何とも気になる伝承で す。ちなみに、丹後半島の「浦島太郎」の御子孫も「日下部」を名乗っています(「洛中洛外日記」第58話「浦島太郎は『日下部氏』」をご参照ください)。
 是非とも同縁起書を実見したいと願っています。どなたか、現地調査をしていただければ有り難いのですが。


第603話 2013/10/02

文字史料による「評」論(5)

 今日は出張で東京神田のホテルにいます。テレビで伊勢神宮式年遷宮のクライマックス、「遷御の儀」の様子を見ています。いつか伊勢神宮や式年遷宮について、多元史観によって研究してみたいと思っています。

 全国的評制施行時期が記された史料として『皇太神宮儀式帳』と『粟鹿大神元記』を紹介してきましたが、「天下」(全国的)という表現はないものの、この二書以外にも孝徳期(7世紀中頃)での「評制」開始を示す史料があります。というよりも、7世紀中頃以外の「評制」開始を記した史料の存在は、私の知る限り「絶無」です。もしあるのなら、ご教示下さい。
 わたしの知るところでは、次のような孝徳期(7世紀中頃)での「評制」開始を記した、あるいは示唆した史料があります。

○『類聚国史』(巻十九国造、延暦十七年三月丙申条)
 「昔難波朝廷。始置諸郡」
 ここでは「諸郡」と表記されていますが、「難波朝廷」の時期ですから、その実体は「諸評」です。『皇太神宮儀式帳』や『粟鹿大神元記』と同じ認識が示されています。

○『日本後紀』(弘仁二年二月己卯条)
 「夫郡領者。難波朝廷始置其職」
 ここでも「郡領」とありますが、「難波朝廷」がその職を初めて置いたとありますから、やはりその実体は「評領」あるいは「評督」となります。

○『続日本紀』(天平七年五月丙子条)
 「難波朝廷より以還(このかた)の譜第重大なる四五人を簡(えら)ひて副(そ)ふべし。」
 この記事は少し説明が必要ですが、難波朝廷以来の代々続いている「譜第重大(良い家柄)」の「郡の役人」(評督など)の選考について述べたものです。この記事から「譜第重大」の「郡司」(評督)などの任命が「難波朝廷」から始まったことがわかります。すなわち、「評制」開始時期を「難波朝廷」の頃である ことを示唆する記事なのです。

 以上のように、いずれも『日本書紀』(720年成立)以後に成立した史料のため、その影響を受けて「評」を「郡」と書き換えて表記されていますが、その言うところは例外無く、「難波朝廷」(7世紀中頃)の時に「評制」が開始されたということを主張しています。それ以外の時期に「評制」が開始されたとする史料はないのですから、多元史観であろうと一元史観であろうと、史料事実や史料根拠に基づいて「論」や「説」を立てる学問としての歴史学・文献史学であれば、「評制」開始は7世紀中頃とせざるを得ないのです。なお、個別地域の「建評」記事は多くの史料に見えますが、そのほとんどは「難波朝廷」・孝徳天皇の時としており、それよりも早い時期の「建評」記事の存在をわたしは知りません。この史料事実も「評制」開始を7世紀中頃とする理解を支持しているのです。(つづく)


第602話 2013/09/30

文字史料による「評」論(4)

 現存する唯一の全国的評制施行時期が記された史料として『皇太神宮儀式帳』を紹介しましたが、実はもう一つ全国的評制施行時期を記した史料が存在することを最近知りました。それは『粟鹿大神元記』(あわがおおかみげんき)という史料で、現在は宮内庁書陵部にあるそうです。それには「難波長柄豊前宮御宇天万豊日天皇御世。天下郡領并国造県領定賜。」という記事があり、この記事を含む系譜部分の成立は和銅元年(708)とされ ており、『古事記』『日本書紀』よりも古いのです。
 この記事の意味するところは『皇太神宮儀式帳』とほぼ同じで、孝徳天皇の時代に「郡領」や「国造」「県領」が定められたというものです。「郡領」とあり 「郡」表記ではありますが、孝徳天皇の時代ですから、その実体は「評」であり、「天下」という表記ですから、7世紀中頃に評制が全国的に施行されたという 記事なのです。
 『日本書紀』成立(720年)よりも早い段階で、すでに「評」を「郡」に書き換えていることも興味深い現象ですが、『皇太神宮儀式帳』成立の9世紀初頭よりも百年も早く成立した史料ですので、とても貴重です。なぜなら『日本書紀』の影響を受けていないことにもなるからです。
 『粟鹿大神元記』をまだわたしは見ておらず、その全体像や史料状況を知りませんので、現時点では用心深く取り扱いたいと思いますが、このような史料が現存していたことにとても驚いています。同史料あるいは活字本を実見したうえで、改めて詳述したいと思いますが、取り急ぎご報告しておきます。(つづく)


第601話 2013/09/29

文字史料による「評」論(3)

 現存する唯一の全国的評制施行時期が記された史料として『皇太神宮儀式帳』(延暦23年・804年成立)は著名ですが、以前から同史料に関して気になっていた問題がありました。
 同書には「難波朝廷天下立評給時」という記事があり、7世紀中頃に難波朝廷か天下に評制を施行したことが記されています。そのため『皇太神宮儀式帳』は 「評制」史料と思われがちなのですが、そうではなく同書は「郡制」史料なのです。幸い、インターネットで京都大学図書館所蔵本(平松文庫『皇太神宮儀式 帳』)を見ることができますので、全ページにわたり閲覧したところ、やはり同書が「郡制」史料であることを確認できました。
 たとえば「難波朝廷天下立評給時」の記事が記されている部分の表題は「一、初神郡度会多気飯野三箇本記行事」とあり、度会・多気・飯野の「神郡」と、 「郡」表記です。本文中にも「多気郡」「三箇郡」という「郡」表記が見えます。この項目以外でも「郡」表記です。成立が延暦23年(804)ですから、 『日本書紀』の歴史認識に基づいて、一貫して「郡」表記となっているのです。
 それにもかかわらず「一、初神郡度会多気飯野三箇本記行事」の項目には、『日本書紀』には見えない「難波朝廷天下立評給時」や「評督領」「助督」などの 「評制」記事が混在しています。こうした史料状況からすれば、これら「評制」記事は『日本書紀』以外の九州王朝系評制史料の影響を受けたと考えざるを得ま せん。「評」が全て「郡」に書き換えられている『日本書紀』をいくら読んでも、そこからは絶対に「難波朝廷天下立評」や評制の官職名である「評督」「助督」などの表記は不可能なのです。このことは言うまでもないほど単純な理屈ですが、このように考えるのが史料批判という文献史学の常道なのです。
 こうした史料批判の結果を前提にして、さらに「難波朝廷天下立評」記事が意味するところを深く深く考えてみましょう。「天下立評」という表現からわかる ように、原史料は九州王朝による全国的評制施行に関する「行政文書」と考えられます。ある地方の「評(郡)」設立に関する記事は『常陸国風土記』などにも 散見されますが、全国的な「評制施行」記事が見えるのは『皇太神宮儀式帳』だけです。したがって、九州王朝倭国はほぼ同時期に全国へ「評制施行」を通達したのではないでしょうか。
 次にその時期についてですが、「難波朝廷天下立評給時」とありますから、「難波朝廷」の時代です。『日本書紀』の認識に基づいての表記であれば、「難波 朝廷」すなわち難波長柄豊碕宮にいた孝徳天皇の頃となりますから、7世紀中頃です。九州王朝の「行政文書」が原史料と思われますから、そこには九州年号が記されていた可能性もあり、7世紀中頃であれば「常色(647~651)」か「白雉(652~660)」の頃です。いずれにしても『皇太神宮儀式帳』成立期の9世紀初頭であれば、その時代の編纂者が「難波朝廷」と記す以上、孝徳天皇の時代(7世紀中頃)と認識していたと考えられます。(つづく)


第600話 2013/09/28

九州年号「大長」史料の性格

 文献史学の研究で、まず最初に行う作業が「史料批判」という、その史料性格の調査検証です。簡単に言えば、その史料が誰によりいつ頃どのような目的や利害関係に基づいて書かれたのかを検証する作業です。それにより、その史料の記述内容がどの程度信頼できるのかを判断します。不正確な、偽られた史料を根拠に仮説や論を立てると、不正確で誤ったものになるので、史料を見極める眼力といえる「史料批判」は文献史学の基礎的で重要な作業なのです。
 たとえば九州年号が記された史料の場合、古田学派内でも史料批判抜きで「九州王朝系」と判断されているケースが見られますが、九州年号があるからといっても、その記事が九州王朝系のものとは限らないケースがあります。たとえば近畿天皇家の年号が無い時代、700年以前の記録を後世になって編集する場合、 『二中歴』など九州年号が記された「年代記」類を参考にして九州年号を追記して記事の暦年を特定するというケースも考えられます。したがって九州年号とともに記録された記事が、元々から九州年号により記録されたものか、後世に編集されたときに九州年号が付記されたものかを判断する作業、すなわち史料批判が必要となるのです。
 ところが『伊予三島縁起』に見えるような「大長」年号記事の場合、九州王朝系記事の可能性が論理的にかなり高くなります。それは次の理由からです。最後の九州年号である「大長」は元年が704年(慶雲元年)、最終年の九年は712年(和銅五年)で、すでに近畿天皇家の年号が存在している期間です。ですから後世に編集する場合、近畿天皇家の年号が採用されるはずで、最後の九州年号「大長」をわざわざ使用しなければならない理由がありません。それにもかかわ らず「大長」で暦年が特定されているということは、王朝交代後の701年以後でも九州年号を使用する人々、すなわち九州王朝系の人々により記録された可能性が高くなるのです。
 この場合、注意しなければならないことがあります。『二中歴』以外の九州年号群史料には700年以前に「大長」が移動されて記録されているケースが多 く、その移動された「大長」を使用して、後世の編纂時に700年以前の記事として「大長」年号とともに記録されている場合は、本来の九州王朝系記事ではない可能性が高くなります。『伊予三島縁起』のように701年以後の記事として「大長」が記されているケースとは異なりますので、この点について注意が必要です。
 こうした視点から『伊予三島縁起』を見たとき、「大長」年号とともに記された記事は九州王朝系記事とみなすべきとなり、その他の九州年号記事も本来の九州王朝系記事に基づかれたものとする理解が有力となるのです。従って、『伊予三島縁起』の原史料を記した人々、合田洋一さんがいうところの「越智国」は九州王朝との関係が深い地域ということになり、王朝交代後も九州年号「大長」を使用していたと考えられます。すなわち、大長九年(712)時点でも近畿天皇家の「和銅五年」ではなく、九州王朝の「大長九年」を使用するということは、近畿天皇家よりも九州王朝を「主」とする大義名分に越智国は立っていたことを指示していると思われます。こうした史料事実は、8世紀初頭の日本列島の状況を研究するうえで貴重なものと考えられます。
 同様に、701年以後の記事として「大長」が使用されている『運歩色葉集』の「柿本人丸」の没年記事「大長四年丁未(707)」も九州王朝系記事と見なされ、柿本人麿が九州王朝系の人物(朝廷歌人)であったとする古田説を支持する史料なのです。この他にも「大長」が記された史料がありますので、もう一度精査したいと思います。

(追記)プロ野球で楽天ゴールデンイーグルスがリーグ優勝しました。わたしは楽天ファンではありませんが、心から祝福したい気持ちです。球団誕生時のいきさつから思うと、本当に強いチームになったものです。絶対にあきらめない強い心を保ち、古田史学を世に認めさせると、楽天の優勝を見て決意を新たにしました。本当におめでとうございます。


第599話 2013/09/22

『伊予三島縁起』にあった「大長」年号

 本日の関西例会では、古田説に基づき『「倭」と「倭人」について』を発表された張莉さんのご夫君(出野さん)を始め初参加の方もあり、盛況でした。わたしにとっての今日の例会で最大の収穫は、多摩市から参加されている齊藤政利さんにいただいた内閣文庫本『伊予三島縁起』の写真でした。九州年号史料として有名な『伊予三島縁起』原本(写本)を以前から見たい見たいと私が言っているの を齊藤さんはご存じで、わざわざ内閣文庫に赴き、『伊予三島縁起』写本二冊を写真撮影して例会に持参されたのでした。
 まだそのすべてを丁寧に見たわけではありませんが、一番注目していた部分をまず確認しました。それは「天長九年壬子」の部分です。五来重編『修験道資料集』掲載の『伊予三島縁起』には「天武天王御宇天長九年壬子」と記されており、この部分は本来「文武天皇御宇大長九年壬子」ではないかと、わたしは考え、 701年以後の九州年号「大長」の史料根拠の一つとしていました(『「九州年号」の研究』所収「最後の九州年号」をご参照下さい)。
 齊藤さんからいただいた内閣文庫の写本を確認したところ、『伊豫三島明神縁起 鏡作大明神縁起 宇都宮明神類書』(番号 和42287)には「天武天王御宇天長九年壬子」とあり、『修験道資料集』掲載の『伊予三島縁起』と同じでした。ところが、もう一つの写本『伊予三島縁起』(番号 和34769)には 「天武天王御宇大長九年壬子」とあり、「天長」ではなく九州年号の「大長」と記されていたのです。わたしが推定していたように、やはり「天長九年」は「大長九年」を不審とした書写者による改訂表記だったのです。
 「大長九年壬子」とは最後の九州年号の最終年である712年に相当します。近畿天皇家の元明天皇和銅五年に相当します。なお、「天長九年壬子」という年号もあり、淳和天皇の時代で832年に相当します。『伊予三島縁起』書写者がなぜ「天武天王御宇」と記したのかは不明ですが、九州年号「大長」が 704~712年の9年間実在したことの史料根拠がまた一つ明確となったのです。内閣文庫写本の詳細の報告は後日行いたいと思います。齊藤さんに心より感謝申し上げます。
 9月例会の報告は次の通りでした。古田史学の会・東海の竹内会長が久しぶりに出席され、報告していただきました。

〔9月度関西例会の内容〕
1). 日名照額田毘道男伊許知邇の考察(大阪市・西井健一郎)
2). 記紀の原資料と二倍年暦の形(八尾市・服部静尚)
3). 九州年号から考えた聖徳太子の伝記の系統(京都市・岡下英男)
4). 倭王武は武烈でありヒト大王だった(木津川市・竹村順弘)
5). 倭王武の時代の版図(木津川市・竹村順弘)
6). 邪馬壱国の南進(木津川市・竹村順弘)
7). ワニ氏の北方系海人族としての歴史的考察(知多郡阿久比町・竹内強)
8). 鬯草を献じたのは「東夷の倭人」か「南越の倭人」か(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・『古代に真実を求めて』16集初校・ミネルヴァ書房からの古田書籍続刊・張莉さんと古田先生の仲介・古田先生自伝刊行記念講演会の報告・古田先生八王子セミナーの案内・浄瑠璃「妹背婦女庭訓」の説明・『大神宮諸雑事記』の紹介・その他


第595話 2013/09/14

古田武彦著『失われた日本』復刻

 ミネルヴァ書房より古田先生の『失われた日本 — 「古代史」以来の封印を解く』が「古田武彦古代史コレクション17」として復刻されました。同書は1998年に出版された本で、わたしにとっても特に印象に残る一冊です。
 冒頭の第1章「火山の日本-列島の旧石器・縄文」は「二つの海流に挟まれた火山列島、それが日本である。この事実がこの国の歴史を規定してきた。日本人 には、そしていかなる権力者といえども、この運命をまぬがれることはできないのである。」という印象的な文章で始まります。
 そして各章には古田史学の中心的テーマがコンパクトにまとめられており、その学説の真髄がよく理解できるよう配慮されてます。そうしたことからも、古田ファンや古田史学の研究者の皆さんには是非ともお手元においていただきたい一冊です。たとえば、第8章「年号の歴史批判 — 九州年号の確証」は年号研究の基礎的認識を深める上でも、とても重要な論文です。わたしも、読むたびに新たな刺激を受けています。
 最終章の「歴史から現代を見る」は本居宣長批判や村岡典嗣先生の研究にもふれられており、日本思想史上でも重要な論文です。村岡先生の写真なども掲載されており、貴重です。
 そして同書末尾には、復刻にあたり書き下ろされた「日本の生きた歴史(17)」が掲載されており、近年の古田先生の研究動向の一端に触れることができます。その最後を古田先生は次の一文で締めくくられています。

 わたしは、本居宣長の「孫弟子」です。なぜなら、東北大学で学んだときの恩師、村岡典嗣先生は「本居宣長」研究を学問の出発点とされた方です。(略)中でも、「本居さんはね、いつも『師の説に、な、なづみそ。』と言っています。これが学問です。“わたしの説に拘泥する な。”ということですね。」
 この言葉は、十八歳のわたしの耳と魂に沁みこみ、その後のわたしの一生の学問研究をリードしてくれました。そして今、八十六歳の現在に至っているのです。
 この運命の一稿によって、わたしはこれを本居さんの眼前に呈することができた。それを深く誇りといたします。(引用終わり)

 「『師の説に、な、なづみそ。』本居宣長のこの言葉は学問の真髄です。」と、わたしは三十代の若き日に、古田先生から繰り返し繰り返し聞かされてきました。わたしもこの言葉を生涯の学問研究の指針として、大切にしていきたいと思います。