史料批判一覧

第554話 2013/05/02

「五十戸」から「里」へ(3)

 『日本書紀』白雉三年(652)四月是月条の造籍記事などを根拠に、わたしは「さと」の漢字表記が「五十戸」とされたの が、同年(九州年号の白雉元年)ではないかと考えました。 この問題に関連した論稿が阿部周一さん(古田史学の会々員・札幌市)より発表されています。 『「八十戸制」と「五十戸制」について』(『古田史学会報』113号。2012年12月)です。阿部さんは一村を「五十戸」とする「五十戸制」よりも前 に、一村「八十戸」とする「八十戸制」が存在し、七世紀初頭に「八十戸制」から「五十戸制」に九州王朝により改められたとされました。『隋書』国伝の 次の記事を史料根拠とする興味深い仮説です。

「八十戸置一伊尼翼、如今里長也。」

 おそらくは九州王朝の天子、多利思北弧の時代に一村の規模を八十戸から五十戸へと再編され、その「五十戸」という規模を 表す漢字が、後の「さと」の漢字表記とされる原因になったと考察されています。この「五十戸(さと)」が683年頃に「里(さと)」へと表記が変更された ことは既に紹介したとおりです。この阿部説が正しければ、「五十戸」の訓みが「さと」ですから、「八十戸」の訓みは「むら」だったのかもしれません。木簡 などで「八十戸」表記が見つかれば、より有力な仮説となることでしょう。これからの研究の進展が楽しみです。


第549話 2013/04/11

白雉改元の宮殿(9)             

 『養老律令』の「儀制令」には「賀正礼」について次のような条文があります。
 「凡そ元日には、国司皆僚属郡司等を率いて、庁に向かいて朝拝せよ。訖(おわ)りなば長官は賀を受けよ。」
 都から遠く離れた国司たちに、元日は都の大極殿(庁)に向かって拝礼し、その後に部下からの「賀」を受けよ、という規定です。おそらくは九州王朝律令も同様の規定があったと想像できますが、この規定を孝徳や天武に当てはめると、九州王朝の副都前期難波宮のご近所(難波長柄豊碕宮)に住んでいた孝徳は、元日に前期難波宮で行われる「賀正礼」に出席していたでしょうから、『日本書紀』孝徳紀には元日の「賀正礼」記事が記されることとなります。
 たとえば、孝徳紀白雉元年条(650)には次のように記されています。
「白雉元年の春正月の辛丑の朔に、車駕、味経宮に幸して、賀正礼を観る。(中略)是の日に、車駕宮に還りたまふ。」
 ここでは「賀正礼を受ける」のではなく、味経宮に行き「賀正礼を観る」とあります。すなわち、味経宮(前期難波宮か)で孝徳は「賀正礼」を受ける立場ではなく、「賀正礼」に参加して、それを「観る」立場だったのです。孝徳紀のこの記事は、孝徳がナンバーワンではなかったことを正直に表現していたのです。 ちなみに孝徳紀の他の「賀正礼」記事も、「賀正礼を受ける」という表現はなく、「賀正す」というような、何かよくわからない表現です。これも、「賀正礼を受ける」のは九州王朝の天子だったからにほかなりません。
 天武紀になると、前期難波宮から離れた飛鳥に天武らは住んでおり、九州王朝の宮殿(前期難波宮または太宰府)での天子への「賀正礼」は欠席し、飛鳥から 九州王朝の宮殿に向かって拝礼していたことでしょう。そして、天武紀では「賀正礼」は翌二日の行事となる例が多くなっていることから、元日は九州王朝の都へ向かって拝礼し、翌日の二日に自らの部下からの「賀正礼」を受けていたと推察されます。おそらくは九州王朝律令にそのような規定があったのではないでしょうか。
 そして、701年以降の『続日本紀』の時代になって、文字通り誰はばかることなく元日に「賀正礼」を受ける身分(列島内ナンバーワン)になったのです。
 以上、「白雉改元の宮殿」の考察と「賀正礼」の史料批判により、七世紀末王朝交代期の復元が少しですができたように思われるのです。(完)

2014.2.23 「職員令」は「儀制令」の間違いでした。訂正済み


第545話 2013/03/29

藤原宮「長谷田土壇」説
       
       
         
            

 今日は八重洲のブリヂストン美術館内のお店で昼食をとっています。フラスコ画が展示してあり、おちついた雰囲気のお店なのでとても気に入っています。午後、もう一仕事してから京都に帰ります。

            

 藤原宮跡が発掘された大宮土壇ですが、古くは江戸時代の学者、賀茂真淵が藤原宮「大宮土壇」説を唱えました。真淵のこの説は弟子の本居宣長や孫弟子の上田秋成に受け継がれ、明治時代には飯田武郷に引き継がれ定説となりました。
             
 こうした流れの中にあって、大正時代に入ると喜田貞吉による、藤原宮「長谷田土壇」説が登場します。喜田貞吉は、法隆寺再建・非再建論争で著名な学者で
すが、『日本書紀』の記述(法隆寺全焼)を根拠に再建説を主張し、後に若草伽藍の発掘により、その正しさが証明されたことは研究史上有名です。
             
 藤原宮を「長谷田土壇」とした喜田貞吉説の主たる根拠は、大宮土壇を藤原宮とした場合、その京域(条坊都市)の左京のかなりの部分が香久山丘陵にかかる
という点でした。ちなみに、この指摘は現在でも「有効」な疑問です。現在の定説に基づき復元された「藤原京」は、その南東部分が香久山丘陵にかかり、いび
つな京域となっています。ですから、喜田貞吉が主張したように、大宮土壇より北西に位置する長谷田土壇を藤原宮(南北の中心線)とした方が、京域がきれい
な長方形となり、すっきりとした条坊都市になるのです。
            
 こうして「長谷田土壇」説を掲げて喜田貞吉は「大宮土壇」説の学者と激しい論争を繰り広げます。しかし、この論争は1934年(昭和九年)から続けられ
た大宮土壇の発掘調査により、「大宮土壇」説が裏付けられ、決着を見ました。そして、現在の定説が確定したのです。しかしそれでも、大宮土壇が中心点では
条坊都市がいびつな形状となるという喜田貞吉の指摘自体は「有効」だと、わたしには思われるのです。(つづく)


第544話 2013/03/28

二つの藤原宮
       
       
         
            

 昨晩から東京に来ています。京都御所の桜はようやく開花し始めましたが、東京の桜はもう散り始めており、日本列島内の花
模様の違いを楽しんでいます。今、赤坂のカフェで昼食を兼ねた遅い朝食をとりながら、洛中洛外日記を執筆中ですが、このところ前期難波宮や賀正礼について
の連載が続いていますので、今回は前期難波宮からちょっと離れて、藤原宮と藤原京について書くことにします。
             
 三月の関西例会でも発表したのですが、藤原宮には考古学的に大きな疑問点が残されています。それは、あの大規模な朝堂院様式を持つ藤原宮遺構の下層か
ら、藤原京の条坊道路やその側溝が出土していることです。すなわち、藤原宮は藤原京造営にあたり計画的に造られた条坊道路・側溝を埋め立てて、その上に造
られているのです。
             
 この考古学的事実は王都王宮の造営としては何ともちぐはぐで不自然なことです。「都」を造営するにあたっては当然のこととして、まず最初に王宮の位置を
決めるのが「常識」というものでしょう。そしてその場所(宮殿内)には条坊道路や側溝は不要ですから、最初から造らないはずです。ところが、現・藤原宮は
そうではなかったのです。この考古学的事実からうかがえることは、条坊都市藤原京の造営当初は、現・藤原宮(大宮土壇)とは別の場所に本来の王宮が創建さ
れていたのではないかという可能性です。
               実は藤原宮の候補地として、大宮土壇とは別にその北西にある長谷田土壇も有力候補とされ、戦前から論争が続けられてきました。(つづく)

            

 さて、次の仕事(化成品工業協会の会合)までちょっと時間がありますので、これから赤坂サカスと日枝神社でプチ花見をしてきます。


第543話 2013/03/26

白雉改元の宮殿(8)

 『日本書紀』に記された「賀正礼」記事に九州王朝の「賀正礼」の痕跡が残されていたのですが、『続日本紀』になるとその様相は一変します。
 たとえば『続日本紀』でも、年によって「賀正礼」記事が記されていたり無かったりはするのですが、基本的に「賀正礼」記事は正月朔(一日)に現れます。 もちろん、持統天皇崩御により取りやめられたり、雨天などにより順延(二日や三日に開催)されるケースなども散見されますが、その場合でも「元日」に行わ なかったことが記され、次いで二日や三日に執り行った記事が記されるのです。この点、唐突に二日に行った記事が出現する『日本書紀』のありようとは異なっ ています。
 更に『日本書紀』孝徳紀と異なる点として、「賀正礼」が行われる場所が「大極殿」「大安殿」などと明記され、その日の内に天皇が「別の宮殿に帰る」などという記事はありません。
 このように、『日本書紀』と『続日本紀』に見える「賀正礼」には明らかな違いがあるのです。これもONライン(701)を境とした、九州王朝から大和朝廷への王朝交代の痕跡と考えざるを得ません。(つづく) 


第541話 2013/03/21

白雉改元の宮殿(6)

 「白雉改元の宮殿」の執筆を続けるにあたり、『日本書紀』孝徳紀などを繰り返し読んでいますが、次々と発見が続いています。その一つに「賀正礼」があります。『日本書紀』における「賀正礼」の初出は孝徳紀大化二年条(646)で、その様子が次のように記されています。

  「二年の春正月の甲子の朔(ついたち)に、賀正礼おわりて、即ち改新之詔を宣ひて曰く、~」

 この後に著名な改新詔が続くのですが、わたしの研究ではこの「大化二年改新詔」は九州年号の大化二年(696)年のことですから、ここでの「賀正礼」は『日本書紀』では「初出」ですが、実際の「初出」とは言い難いと思われます。
 その次に見える「賀正礼」記事は同じく孝徳紀大化四年(648)です。

  「四年の春正月の壬午の朔に、賀正す。是の夕に、天皇、難波碕宮に幸す。」

 「賀正礼」を行った宮殿は不明ですが、その終了後に孝徳は難波碕宮に行ったとありますから、この「賀正礼」は孝徳の宮殿以外の場所で行ったことがうかがえます。
 同じく孝徳紀大化五年(649)には、

  「五年の春正月の丙午の朔に、賀正す。」

とだけあり、場所は不明です。

 次いで、孝徳紀白雉元年条(650)には次のように記されています。

  「白雉元年の春正月の辛丑の朔に、車駕、味経宮に幸して、賀正礼を観る。(中略)是の日に、車駕宮に還りたまふ。」

 恐らくは九州年号の白雉元年(652)に味経宮で行われた賀正礼に孝徳は参加し、その日の内に宮に還ったとありますから、ここでも「賀正礼」は孝徳の宮殿とは別の味経宮で行われたことになります。
 その次の「賀正礼」は孝徳紀白雉三年(652)に見える次の記事です。

「三年の春正月の己未の朔に、元日礼おわりて、車駕、大郡宮に幸す。」

ここでも孝徳は「賀正礼」が終わって大郡宮へ行ったとあります。

 このように、『日本書紀』は孝徳紀になって突然に「賀正礼」記事が出現し、孝徳紀に頻出します。そして、その後の斉明紀には「賀正礼」記事がまた見えな くなるのです。これは不思議な現象ですが、さらに問題なのが「賀正礼」終了後に、その日の内に孝徳は別の宮殿に帰るという行動です。普通、正月の挨拶は臣下が主人の宮殿に参上し、その「賀正礼」を主人が受けるというものでしょう。そして終了後に還るのは臣下の方ではないでしょうか。ところが、孝徳紀に見える「賀正礼」はそうではないケースが普通なのです。
 この不思議な現象を合理的に説明できる仮説があります。孝徳は九州王朝の天子の宮殿に参上し、「賀正礼」に参列した後、その日の内に帰れるほど近くに自らの邸宅を有していた。この仮説です。 これこそ、わたしの前期難波宮九州王朝副都説と整合する仮説であり、傍証ともなる『日本書紀』の史料事実なのです。
 したがって、孝徳が「賀正礼」に参上した宮殿は、難波宮あるいは味経宮と呼ばれていた前期難波宮(上町台地法円坂)であり、その日の内に帰宅できた孝徳の邸宅は難波長柄豊碕宮(北区豊崎)等と思われます。(つづく)


第529話 2013/02/23

谷本茂さんの古代史講義

 古田史学の会会員で古くからの古田史学研究者である谷本茂さんがNHK文化センター梅田教室で古代史の講義をされます。テーマは「邪馬台国は大和にあったか?」というもので、多元史観古田史学による講義です。皆さんの受講をおすすめします。
 
 谷本さんは2001年に東京で開催された『「邪馬台国」はなかった』発刊30周年記念講演会で、わたしとともに祝賀講演を行った間柄で、優れた研究者で
す。中でも短里研究では優れた業績を残されており、祝賀講演でも「史料解読方法の画期」というテーマで短里説を展開されました。
   谷本さんは京都大学在学中(1972年頃)からの古田ファンだそうで、古田先生の息子さんの家庭教師をしながら、古田先生の最新研究を真っ先に聞かれていたとのこと。
  「大変おいしいアルバイトだった」と祝賀講演でも話されていました。
 
 祝賀講演のわたしの演題は「古田史学の誕生と未来」というものでした。当初、事務局に提出していた演題は「古田史学を学ぶ覚悟」だったのですが、「刺激
的すぎる」というあまりよくわからない理由で変更を求められ、「古田史学の誕生と未来」に落ち着きました。もっとも内容に変更はなく、「わたしたちの学問
は、体制に認められようとか、私利私欲のためにあるのではなく、真実と人間の理性にのみ依拠し、百年後二百年後の青年のために真実を追求する、この学問を
やっていきたい。」と「檄」を飛ばしました。
   あの日からもう12年たったのかと思うと、それだけ私も谷本さんも、そして古田先生も年齢を重ねたのだと、感慨深いものがあります。これからも谷本さんと共に切磋琢磨して古田先生の学問を継承していかねばならないと、決意を新たにしました。
   谷本さんの講義は下記の通りです。ご参照ください。
   NHKカルチャー NHK文化センター梅田教室
   邪馬台国は大和にあったか?(講師:谷本茂)
  2013年4月8日(月)と4月22日(月)の2回 10:30~12:00
  一般受講料:6,300円(NHK文化セ ンター会員受講料:5,670円)
  問い合せ電話:06-6367-0880
  【概 要】
   古代史の重要な発掘や調査があると決まって大新聞が報道する「邪馬台国=近畿説に新たな証拠!」という論調には大きな疑問符がつきまといます。
   三角縁神獣鏡は卑弥呼に贈られた鏡なのか?箸墓は卑弥呼の墓である可能性が高いのか?三世紀の近畿に存在した王権を「邪馬台国」と判断する根拠は何なのか?
 
 客観的な出土物の分析ならびに文献との整合性を重視する立場から、古代史の研究・報道に関わる冷静な批判的視点を提案します。「こうであろう」論理から
「こうであるはずがない」論理に転換することで、新しい古代史の展望が開けてくることを、具体的な事例で解説します。
   NHK文化セ ンターの当該ページは↓
http://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_854561.html


第514話 2013/01/15

「古田武彦研究自伝」

 12日に大阪で古田先生をお迎えし、新年賀詞交換会を開催しました。四国の合田洋一さんや東海の竹内強さんをはじめ、遠くは関東や山口県からも多数お集まりいただきました。ありがとうございます。
 今年で87歳になられる古田先生ですが、お元気に二時間半の講演をされました。その中で、ミネルヴァ書房より「古田武彦研究自伝」を出されることが報告
されました。これも古田史学誕生の歴史や学問の方法を知る上で、貴重な一冊となることでしょう。発刊がとても楽しみです。
 当日の朝、古田先生をご自宅までお迎えにうかがい、会場までご一緒しました。途中の阪急電車の車中で、古代史や原発問題・環境問題についていろいろと話
しました。わたしは、原発推進の問題を科学的な面からだけではなく、思想史の問題として捉える必要があることを述べました。
 原発推進の論理とは、「電気」は「今」欲しいが、その結果排出される核廃棄物質は数十万年後までの子孫たちに押しつけるという、「化け物の論理」であ
り、この「論理」は日本人の倫理観や精神を堕落させます。日本人は永い歴史の中で、美しい国土や故郷・自然を子孫のために守り伝えることを美徳としてきた
民族でした。ところが現代日本は、「化け物の論理」が国家の基本政策となっています。このような「現世利益」のために末代にまで犠牲を強いる「化け物の論
理」が日本思想史上、かつてこれほど横行した時代はなかったのではないか。これは極めて思想史学上の課題であると先生に申し上げました。
 すると先生は深く同意され、ぜひその意見を発表するようにと勧められました。賀詞交換会で古田先生が少し触れられた、わたしとの会話はこのような内容
だったのです。古代史のテーマではないこともあり、こうした見解を「洛中洛外日記」で述べることをこれまでためらってきましたが、古田先生のお勧めもあ
り、今回書いてみました。


第498話 2012/12/02

「古和同」の銅原産地

 斎藤努著『金属が語る日本史』(吉川弘文館、2012年11月刊)を読んで、最も興味深く思ったデータが二つありまし
た。一つは、これまで紹介してきましたように、アンチモンが冨本銅銭や古和同銅銭に多く含まれるということです。もう一つは、古和同銅銭に使用された銅の
原産地に関するデータでした。
 同書によれば和同開珎などの古代貨幣に用いられている銅の産地について、その多くが山口県の長登銅山・於福銅山・蔵目喜銅山産であることが、含有されている鉛同位体比により判明しています。
 ちなみに、「和銅」改元のきっかけとなった武蔵国秩父郡からの「和銅」献上記事(『続日本紀』和銅元年正月条)を根拠に、和同開珎の銅原料は秩父産とする説もありましたが、これも鉛同位体比の分析から否定されています(同書69頁)。
 他方、古和同銅銭については、「古和同のデータの一部は図12の香春岳鉱石の分布範囲と重なっている。」(同書68頁)とあり、古和同銅銭に用いられた
銅材料の原産地の一つが福岡県香春岳であることが示唆されています。すなわち、九州王朝には地元に銅鉱山を有し、伊予国・越智国からは貨幣鋳造に必要なア
ンチモンが入手できたと考えられます。あとは国家として貨幣経済制度を導入する意志を持つか否かの判断です。
 以上、九州王朝貨幣についての考察を綴ってきましたが、九州王朝貨幣鋳造説にとって避けて通れない課題があります。それは貨幣鋳造遺跡と貨幣出土分布濃
密地が北部九州に無いという問題です。このことを説明できなければこの仮説は学問的に成立しません。引き続き、検討をすすめたいと思います。


第497話 2012/11/28

大宰府とアンチモン

 冨本銅銭や古和同銅銭に多く含まれているアンチモンが、越智国や伊予国から献上されていたと見られる記事が『続日本紀』文武二年七月条(698)と『日本書紀』持統五年(691)七月条にあります。

 「伊予国が白(金へん+葛)を献ず。」(『続日本紀』文武二年七月条)

 「伊予国司の田中朝臣法麻呂等、宇和郡の御馬山の白銀三斤八両・あかがね一籠献る。」(『日本書紀』持統五年七月条)

 『続日本紀』には霊亀二年(716)五月条にも「白(金へん+葛)」が見えます。大宰府の百姓が白(金へん+葛)を私蔵しており、それが私鋳銭に使用されているので、官司に納めよという詔勅記事です。

 「勅したまはく、『大宰府の佰姓が家に白(金へん+葛)を蔵(おさ)むること有るは、先に禁断を加へたり。然れども
遒奉(しゅんぶ)せずして、隠蔵し売買す。是を以て鋳銭の悪党、多く奸詐をほしいままにし、連及の徒、罪に陥ること少なからず。厳しく禁制を加へ、更に然
(しか)らしむること無かるべし。もし白(金へん+葛)有らば、捜(さぐ)り求めて官司に納めよ』とのたまふ。」

 このように霊亀二年(716)の詔勅によれば、大宰府の人々が所蔵している白(金へん+葛)が和同開珎の私鋳に使用
されていることがうかがえます。おそらくこの時期の和同開珎であれば古和同銅銭と考えられますから、この記事の「白(金へん+葛)」もアンチモンのことと
見てよいと思われます。すなわち、越智国や伊予国産のアンチモンが九州王朝中枢の人々により収蔵されていたと考えられるのです。
 こうした理解が正しければ、銅とアンチモン合金により貨幣を鋳造する技術が九州王朝に存在したことになります。ちなみに『続日本紀』によれば、近畿天皇による和同銀銭や銅銭の発行は和銅元年(708)のことです。

 「始めて銀銭を行う。」(『続日本紀』和銅元年五月条)
 「始めて銅銭を行う」(『続日本紀』和銅元年八月条)

 そして、その二年後の和銅三年(710)には早くも大宰府から銅銭が献上されています。

 「大宰府、銅銭を献ず。」(『続日本紀』和銅三年正月条)

 この銅銭は和同開珎(おそらくは「古和同」銅銭)のことと思われますが、この素早い銅銭献上記事こそは九州王朝に貨幣発行の伝統があったことの傍証といえるのではないでしょうか。(つづく)


第496話 2012/11/23

越智国のアンチモン鉱山

 冨本銅銭や古和同銅銭に多く含有されているアンチモンですが、その産地はどこてしょうか。国内の鉱山では愛媛県西条市の
市之川鉱山が世界的に有名なアンチモン鉱山でした。現在は閉山されていますが、古代の越智国(合田洋一説)にあたる西条市に最大級のアンチモン鉱山があっ
たことは注目されます。
 文献的にも『続日本紀』文武2年条(698)に次の記事が見え、この「白(金へん+葛)」は従来はスズのことと見られていましたが、愛媛県にはスズ鉱山
がないことから、アンチモンのこととする研究が発表されています(成瀬正和「正倉院銅・青銅製品の科学的調査と青銅器研究の課題」『考古学ジャーナル』
470、2001年)。

 「伊予国が白(金へん+葛)を献ず。」(『続日本紀』文武二年七月条)

 合田洋一さん(古田史学の会・四国、全国世話人)から教えていただいたことなのですが、『日本書紀』持統5年(691)7月条にも次の記事があり、やはり愛媛県から「白銀」が献上されています。

 「伊予国司の田中朝臣法麻呂等、宇和郡の御馬山の白銀三斤八両・あかがね一籠献る。」

 「宇和郡の御馬山」とは宇和島市三間町とみられ、当地にもアンチモン鉱山跡があるそうですから、この「白銀」もまたアン
チモンのこと推察されます。これらの記事により、古代の伊予国・越智国から冨本銅銭や古和同銅銭の原料となったアンチモンが供給された可能性が大きいので
す。また、正倉院にアンチモンのインゴットがあることも知られています。
 ちなみに、愛媛県には「中央構造線」にそっていくつかのアンチモン鉱山の存在が知られており、その中でも西条市のアンチモン鉱山は世界的に見ても大規模
なものだったことが知られています。古代の越智国はアンチモンなどの金属がその繁栄の主要因だったのかもしれません。(つづく)


第495話 2012/11/22

古代貨幣とアンチモン

 昨日は経産省に行った後、横浜に立ち寄りました。仕事を終えて帰る前に横浜市在住の安藤哲朗さん(多元的古代研究会・会長)に久しぶりにお会いし、最近の研究状況について語り合いました。その後、名古屋まで戻り、今朝は一宮市にいます。関西例会のときの風邪もようやく治りました。

 古田先生らと取り組んだプロジェクト「貨幣研究」において、古田先生やわたしは冨本銭や和同開珎を九州王朝の貨幣とする 見解を報告しました。そのときの主たる根拠は文献史学から提起したもので、たとえば冨本銭と和同開珎はその他の近畿天皇家発行の古代貨幣とは異なり、『日本書紀』や『続日本紀』にその銭文が記録されていないという点や、その他の貨幣の銭文にある最後の一字の「寶」という字が使用されていないという差異を根拠に、本来は別王朝により発行されたものではないかと考えました。
 他方、九州王朝貨幣とする仮説には弱点もありました。それは考古学的出土分布の中心が近畿であり、九州ではないということでした。これは学問的には無視できない弱点でしたので、わたしは和同開珎をもともとは九州王朝が発行したものとする仮説に充分な確信を持てずにいたのでした。
 そのようなときに読んだのが斎藤努著『金属が語る日本史』(吉川弘文館、2012年11月刊)でした。同書には科学的分析手法(電子線スキャニング・バルク組成分析法)に基づいた貨幣の組成分析値が示されており、その中に「古和同」と「冨本銭」はアンチモンの含有率が非常に高いという指摘がありました。 わたしはこのアンチモンに興味を抱きました。仕事で各種金属について勉強する機会があるのですが、通常、銅銭には銅の他にスズや鉛が混ぜられていることが多く、スズや鉛よりも珍しい金属のアンチモンが古代日本で最古の貨幣に属する「古和同」と「冨本銭」に多く含まれているとは意外でした。
 なお、「古和同」とは銭貨研究家がその銭文などの差異から、和同開珎を古いタイプと新しいタイプの二種類に分類したもので、古いとされたものを「古和同」、新しいとされたものを「新和同」と呼ばれています。その「古和同」銅銭の方にアンチモンが多く含まれており、和同開珎よりも古い貨幣である「冨本」銅銭にも同様にアンチモンが多く含まれていることは、両者が共通の原料と技術で鋳造されたことがうかがわれます。
 こうした自然科学的組成分析により、冨本銭と和同開珎が九州王朝の貨幣とする仮説が補強されるように思われるのです。(つづく)