古賀達也一覧

第3028話 2023/06/01

『東京古田会ニュース』No.210の紹介

 『東京古田会ニュース』210号が届きました。拙稿「『東日流外三郡誌』の考古学」を掲載していただきました。拙稿は福島城跡(旧・市浦村)の創建年次などについて論じたものです。東北地方北部最大の城館遺跡とされている福島城(旧・市浦村)は東京大学による調査(注①)により、14~15世紀の中世の城址と見なされてきましたが、他方、東日流外三郡誌には福島城の築城を承保元年(1074)とされていました(注②)。ところが、その後行われた発掘調査(注③)により、福島城は古代に遡ることがわかり、出土土器の編年により10~11世紀の築城とされ、東日流外三郡誌に記された「承保元年(1074)築城」が正しかったことがわかりました。この事実は東日流外三郡誌偽作説を否定するものとなりました。
当号には注目すべき論稿がありました。橘高修さん(東京古田会・副会長、日野市)による「古代史エッセー73 マクロ的に見た史観の推移」です。【皇国史観】【津田史学の登場】【皇国史観に対する津田の立場】【古田武彦の津田史学批判】【津田説から古田説へ】という小見出しからもわかるように、戦前から戦後、そして現在に至る日本古代史学の思潮を概説した好論です。特に津田史学の解説は興味深く拝読しました。
津田史学の特筆すべき業績に、皇国史観による『日本書紀』の解釈を否定したことがあります。戦前戦中は非難の対象となった津田史学でしたが、戦後は一転して評価されます。しかし、神話などを学問(史料批判)の対象から除外するという、行き過ぎた古代史学や戦後教育を生み出す一因にもなりました。こうした津田史学の影響を学問的に乗り越えたのが古田史学であり、フィロロギー(注④)という学問でした。
古田史学の歴史的意義を論じた橘高稿を読み、古田先生亡き後、改めて先生の学問やその方法、歴史的位置づけを確認することが、今日の古田学派にとって重要ではないかと考えさせられました。

(注)
①昭和30年(1955)に行われた東京大学東洋文化研究所(江上波夫氏)による発掘調査。
②『東日流外三郡誌』北方新社版第三巻、119頁、「四城之覚書」。
③1991年より三ヶ年計画で富山大学考古学研究所と国立歴史民俗博物館により同城跡の発掘調査がなされ、福島城遺跡は平安後期十一世紀まで遡ることが明らかとなった(小島道祐氏「十三湊と福島城について」『地方史研究二四四号』1993年)。
④古田武彦「アウグスト・ベエクのフィロロギィの方法論について〈序論〉」『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)古田史学の会編、明石書店、2016年。初出は『古代に真実を求めて』第二集、1998年。
古賀達也「洛中洛外日記」1370話(2017/04/15)〝フィロロギーと古田史学〟
茂山憲史「『実証』と『論証』について」『古代に真実を求めて』22集、2019年。初出は『古田史学会報』147号、2018年。


第3027話 2023/05/30

「富岡鉄斎文書」三編の調査(2)

 ―ブログ「北山愚公」の長楽寺石盤銘―

 「京や」のご主人から依頼された富岡鉄斎(注①)の文書三編(注②)の内、「長楽寺関連文書」(大正八年四月)について次のように解読しました。訓み下し文については、加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)と西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)のご助言をいただきました。わたしは古文や漢文に弱いので、助かりました。

長楽寺山頭有頼氏
及名家塋域距此僅不
過數十歩而有人欲洗
手吊之者此地乏水余
與寺主相謀寄附水
盥且以筧引菊渓水
溜備其便云
大正八年四月
寺主 壽山代
寄附者丸山左阿彌辻道仙
妻 寿美
鉄斎□史識  (※一字虫喰いにより未詳。)

〔訓み下し〕
長楽寺山頭に頼氏(頼山陽)及び名家の塋域(墓地)有り。此を距てるに僅か数十歩を過ぎず。而うして人洗手吊を欲するの者有り。此の地水に乏し。余と寺主と水盥の寄附を相謀る。且つ筧(かけい)を以て菊渓の水を引き、溜めて、其の便に備うと云う。
大正八年四月
寺主 壽山代
寄附者丸山左阿彌辻道仙
妻 寿美
鉄斎□史識す

 他の二編が難読難解のため、富岡鉄斎の筆跡などを調査していたところ、北山愚公さんのブログ(注③)に「長楽寺の手洗い石盤について」という記事があり、その銘文が次のように紹介されていました。転載します。

 「(前略)山門をくぐると、庫裏がある。そこで受付を済ませ、階段を上がると、すぐ左手は小さな庭。その中に、中をくりぬいた半球形の手洗石盤がある。直径1メートルほどであろうか。水は、張られず、打ち捨てられたかのようにあり、顧みる人もいない。
石盤の側面を取り巻いて、次のような漢文が二字ずつ(一部、一字)刻まれている。

長楽 寺後 山上 有賴 氏及 名家 墳塋 行人 欲拜 之者 毎憂 無水 可以 盥漱 乃與 寺僧 相謀 敬造 石盤 幷設 竹筧 導引 菊溪 清水 常盈 盤中 以備 其用 大正 八年 四月 長楽 寺壽 山代 圓山 左阿 彌辻 道仙 妻壽 美敬 造 鐡齋 百錬 記

(長楽寺の後ろの山上に賴氏及び名家の墳塋あり。行人の之を拜せんと欲する者、毎に水の以て盥漱すべきなきを憂う。乃ち寺僧と相謀り、敬いて石盤を造り、幷びに竹筧を設け、菊溪の清水を導引し、常に盤中に盈たしめ、以てその用に備う。大正八年四月、長楽寺寿山代・円山左阿弥辻道仙 妻寿美敬いて造る。鉄斎百錬記す。)」
《転載終わり》

 北山愚公さんによれば、銘文は石盤の側面に彫られており、わたしが調べている文書とは趣旨は概ね同じですが、異なる用字や文章が散見されます。例えば次のようです。

〔文書〕     〔石盤銘〕
長楽寺山頭    長楽寺後山上
名家塋域     名家墳塋
距此僅不過數十歩 (なし)
有人欲洗手吊之者 行人欲拜之者
此地乏水     毎憂無水
余與寺主     乃與寺僧
相謀寄附水盥   相謀敬造石盤
且以筧引菊渓水  幷設竹筧導引菊溪清水
溜備其便云    常盈盤中以備其用
寺主 壽山代   長楽寺 壽山代
丸山       圓山
(なし)      敬造
鉄斎□史識    鐡齋百錬記

 以上のような差異があることから、文書は鉄斎による原案だったのではないでしょうか。そして最終案が石盤に彫られた銘文と思われます。そうであれば、銘文校正の経緯がうかがえる貴重な文書となります。わたしには、文書の方が簡潔な雅文に見えますが、いかがでしょうか。長楽寺石盤の銘文を実見したいものです。(つづく)

(注)
①富岡鉄斎(天保七年〈1837〉~大正十三年〈1924〉)は、明治大正期の文人画家、儒学者。日本最後の文人と謳われる。
②便宜上、次のように仮称した。
(史料A) 「長楽寺関連文書」(大正八年四月)
(史料B) 「佐々木信綱宛書簡」(三月三十日) ※年次未詳。
(史料C) 「各位御中書簡」(大正九年四月)
③「北山愚公のブログ」
http://hokusan-gukou.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-8a4b.html


第3026話 2023/05/29

「富岡鉄斎文書」三編の調査(1)

懇意にしているご近所の古美術・骨董のお店「京や」のご主人から、最近入手した古文書三編の調査依頼がありました。見たところ大正時代の文書のようなので、わたしにも読めるかもしれないと思い、勉強も兼ねて引き受けることにしました。
いずれも同一筆跡で、明治・大正に活躍した高名な文人画家、富岡鉄斎(注①)の自筆文書のようでした。鉄斎は京都御所の西側に居を構えていたとのことなので、近隣の旧家から入手されたものと思われます。三編の文書を便宜的に次のように名付けました。

(史料A) 「長楽寺関連文書」(大正八年四月)
(史料B) 「佐々木信綱宛書簡」(三月三十日) ※年次未詳。
(史料C) 「各位御中書簡」(大正九年四月)

最も字が読みやすかった(史料A)「長楽寺関連文書」について、次のように解読できました。

長楽寺山頭有頼氏
及名家塋域距此僅不
過數十歩而有人欲洗
手吊之者此地乏水余
與寺主相謀寄附水
盤且以筧引菊渓水
溜備其便云
大正八年四月
寺主 壽山代
寄附者丸山左阿彌辻道仙
妻 寿美
鉄斎□史識  (※一字虫喰いにより未詳。)

〔訓み下し〕
長楽寺山頭に頼氏(頼山陽)及び名家の塋域(墓地)有り。此を距てるに僅か数十歩を過ぎず。而うして人洗手吊を欲するの者有り。此の地水に乏し。余と寺主と水盤の寄附を相謀る。且つ筧(かけい)を以て菊渓の水を引き、溜めて、其の便に備うと云う。
大正八年四月
寺主 壽山代
寄附は丸山左阿彌辻道仙(注②)
妻 寿美
鉄斎□史識す

円山公園にある料亭、左阿彌の主人夫妻から長楽寺に寄贈された水盤の由来について、鉄斎が記したものであることがわかります。同水盤は円山公園奥の長楽寺(注③)に今もあるようですので、拝見したいものです。(つづく)

(注)
①富岡鉄斎(天保七年〈1837〉~大正十三年〈1924〉)は、明治大正期の文人画家、儒学者。日本最後の文人と謳われる。
②丸山左阿彌は円山公園にある料亭「左阿彌」のこと。辻道仙は同料亭の主人。
③長楽寺は最澄が延暦二四年(805年)に開基したと伝えられている時宗(遊行派)の寺院。山号は黄台山。円山公園の東南方に位置する。


第3024話 2023/05/26

多元的「天皇」併存の傍証「野間天皇神」

 七世紀(九州王朝時代)において、九州王朝の天子の配下としての「天皇」号は、近畿天皇家(後の大和朝廷)の他に越智氏(袁智天皇)も採用したのではないかと考えています(注①)。その称号が由来となって、当地(今治市・西条市)に「紫宸殿」や「天皇」地名が遺存したのではないか。もしかすると越智氏はそれを地名や伝承として遺したのではないでしょうか。この度、当地にこの「天皇」を称していた神社があり、古代(9世紀)に遡る史料根拠を有していることを知りました(注②)。それは今治市の野間神社(注③)です。
史料上の初見は『続日本紀』天平神護二年(766)四月甲辰条で、「伊豫国…野間郡野間神…授従五位下。神戸各二煙」とあります。そして、『三代実録』貞観八年(865)閏三月七日壬子条に「伊豫国従四位上…野間天皇神…授正四位下」、同元慶五年(881)十二月廿八日壬寅条には「授伊豫国正四位上野間天皇神従三位」と「天皇神」の表記が見えます。『国分寺勧請神名帳』にも「正一位 濃満天皇神」の記事が見えるとのことです(注④)。
このように9世紀に「野間天皇」を神として祀る神社の位階記事が正史に記載されていることは重要です。野間神の名前が『続日本紀』に見えていることからも、この「天皇」号は九州王朝の時代に淵源を持つと考えるべきでしょう。自ら「天皇」を称していた王朝交代後に大和朝廷が伊予国の神社やその祭神に「天皇」号を許すとは考えられないからです。従って、恐らくは九州王朝の時代に配下としての「天皇」号を許された当地の有力者(越智氏か)があり、9世紀時点でも正史に掲載されるほどの影響力を有していたものと思われます。ちなみに、野間神社はこの「天皇」の名称を江戸時代まで続けており、明治になって「野間神社」に変更したようです。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2996~3003話(2023/04/25~05/02)〝多元的「天皇」併存の新試案 (1)~(4)〟
②白石恭子氏(古田史学の会・会員、今治市)のご教示による。
③『ウィキペディア(Wikipedia)』に次の解説がある。
「野間神社」
所在地 愛媛県今治市神宮甲699
主祭神 飽速玉命 若弥尾命 須佐之男命 野間姫命
社格等 式内社(名神大)・県社
創建 不詳
例祭 5月3日
野間神社(のまじんじゃ)は、愛媛県今治市神宮(かんのみや)に鎮座する神社である。式内社(名神大)で、旧社格は県社。飽速玉命は速谷神社の祭神で、阿岐国造の祖。若弥尾命はその三世の孫で、怒麻国造の祖。野間姫命は若弥尾命の妻とされる。
④上記③による。


第3023話 2023/05/25

九州年号「大化」「大長」の原型論 (8)

 大長は701年以後に実在した九州年号であり、九州王朝についての記憶が失われた後代において、九州年号最後の大長を大和朝廷最初の年号である大宝元年に接続するため、各史料編纂者が下記のような思い思いの位置に大長を移動させたと考えました。

(a) 692年壬辰を大長元年とする丸山モデル。大長九年まで続く。
(b) 695年乙未を大長元年とするタイプ。大長六年まで続く。
(c) 698年戊戌を大長元年とするタイプ。大長三年まで続く。

 これら3タイプの大長は元年の位置は異なりますが、いずれも大長が最後の九州年号であり、その直後に大宝元年(701)が続いており、大長の直前の九州年号は大化という共通点があります。これらの史料情況から、大長の本来型は次のようなものと推論できます。

(1) 九州年号の最末は、大化→大長と続いている。大化と大長の間に他の九州年号を持つ史料は見えない。
(2) 大長は9年間続いたと考えられる。これよりも長い大長の史料は見えない。
(3) 同様に大化も最長9年間続く史料(注①)が見え、九州年号の末期は大化九年→大長九年であったと考えられる。
(4) 上記の推論結果を『二中歴』の朱鳥(686~694年)・大化(695~700年)を起点として復元すると、朱鳥(686~694年)→大化(695~703年)→大長(704~712年)となり、それぞれ9年間続いている(注②)。

 論証の結果、以上の復元案に至りました。こうして大長は701年の王朝交代後に実在した〝最後の九州年号〟とする仮説が成立したのです。なお、686年丙戌を大化元年とする丸山モデルですが、実は寺社縁起などの実用例として、686年丙戌を大化元年とするものは見つかっていません。そして、実際に使用された痕跡がなかったことを丸山氏自身も自説の弱点として認めていたのです(注③)。(つづく)

(注)
①『箕面寺秘密縁起』(『修験道史料集Ⅱ』)に「持統天皇御宇大化九秊乙未二月十日」とある。『峯相記』には「大化八年」の記事が見えるとのこと(『市民の古代』第11集所収〝「九州年号」目録〟による)。
②最末期の三つの九州年号がいずれも9年間続いていることについて、偶然のことか、意図的な改元なのか、未だ結論を持っていない。
③丸山晋司『古代逸年号の謎 ―古写本「九州年号」の原像を求めて―』株式会社アイ・ピー・シー刊、1992年。同書84頁に次のように述べている。
「寺社縁起などでの丙戌大化の実用例は遺憾ながら見つけ出せていない。このことは丙戌大化原型説の弱点である。」


第3020話 2023/05/19

九州年号「大化」「大長」の原型論 (7)

 『二中歴』以外のほとんどの九州年号群史料に見える大長ですが、それら大長を持つ史料には、692年を大長元年とする丸山モデルとは異なるタイプがあることにも注目していました。丸山晋司さんが採集された資料(注)によれば次の通りです。

(a) 692年壬辰を大長元年とする丸山モデル
『興福寺年代記』(中の一説)1615年成立。他
(b) 695年乙未を大長元年とするタイプ
『王代年代記』1448年成立。他
(c) 698年戊戌を大長元年とするタイプ
『海東諸国記』1471年成立。『続和漢名数』「日本偽年号」貝原益軒著、1695年成立。他

 元年の位置は異なりますが、いずれのタイプも大長が最後の九州年号であり、その直後に大宝元年(701)が続いているという共通点があります。この史料情況から、大長を後代偽作とするには位置や年数に統一性がなく、最後の九州年号とするために偽作したとする理解は困難と思いました。ある人物により大長が偽作され、どこかにはめ込まれたのであれば、このようにバラバラな史料情況にはならないはずです。

 そこで、大長は701年以後に実在した九州年号であり、九州王朝についての記憶が失われた後代において、最後の九州年号の大長を大和朝廷最初の年号である大宝元年に接続するため、各史料編纂者が思い思いの位置に移動させたために発生した現象ではないかと考えたのです。(つづく)

(注)丸山晋司『古代逸年号の謎 ―古写本「九州年号」の原像を求めて―』株式会社アイ・ピー・シー刊、1992年。


第3019話 2023/05/18

九州年号「大化」「大長」の原型論 (6)

 二つの同時代九州年号金石文、「朱鳥三年戊子(688年)」銘を持つ鬼室集斯墓碑と「大化五子年(700年)」土器により丸山モデルは成立し難く(注)、『二中歴』年代歴の九州年号が最も原型に近いという結論に至りました。ところがこの過程で大きな疑問が生じました。それは、『二中歴』以外のほとんどの九州年号群史料に見える大長とは何なのか。大長を後代の造作(偽造)とするのであれば、その動機は何なのか。どのような必要性があって大長を造作したのかという疑問です。そして、この疑問に悩みながら『二中歴』原型説を受け入れたのですが、大長問題を解決しなければ九州年号研究は発展しないと、わたしは考え続けました。

 というのも、『二中歴』が九州年号の原型として先にあり、後に大長が〝偽造〟挿入されて丸山モデル型が発生したとするのであれば、それには次のような過程を経なければならないからです。

《『二中歴』型から丸山モデル型への変更過程》
(1) 大長の9年間を700年以前に割り込ませるために、朱鳥の9年間(686~694)を削除する。
(2) 削除した朱鳥年間に大化の6年間(695~700)を遡らせ、元年を丙戌とする位置(686~691)に貼り付ける。
(3) 上記の操作の結果できた大宝元年(701)までの隙間に、〝偽造〟した大長の9年間(692~700)を貼り付ける。

 上記の操作と〝大長の偽造〟の結果、『二中歴』と丸山モデルという二種類の年号立てが、後世の九州年号史料中に併存したと考えなければなりません。しかし、そうまでして大長を〝偽造〟し、大宝の直前に入れる必要性が不明なのです。なぜなら、『二中歴』年代歴には大化六年(700)の次に大宝元年(701)が続いており、年号史料として矛盾も支障もないからです。(つづく)

【二中歴】⇒【丸山モデル】
西暦 干支 年号    年号
686 丙戌 朱鳥    大化
692 壬辰       大長
695 乙未 大化
700 庚子 同六年   同九年
701 辛丑 (大宝)   (大宝)

(注)古賀達也「二つの試金石 — 九州年号金石文の再検討」『「九州年号」の研究』古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年。


第3018話 2023/05/17

神籠石山城分布域の不思議

先週の12日に開催された多元的古代研究会のリモート研究会で、古代山城や神籠石山城の築造時期について問われました。そこで、古代山城研究の第一人者である向井一雄さんの著書『よみがえる古代山城 — 国際戦争と防衛ライン』(注①)を紹介し、出土土器などを根拠に七世紀後半頃とするのが有力説だと答えました。そのうえで、近年の調査報告書の出土土器を見る限り、採用されている飛鳥編年の誤差や編年幅はあるとしても、鞠智城以外は七世紀頃の築造と見なして問題はなく、穏当な見解と述べました(注②)。
神籠石山城などの築造年代を七世紀後半頃とする説へと収斂しつつありますが、他方、未解決の問題も少なくありません。その一つに、なぜ神籠石山城の分布が北部九州と瀬戸内海沿岸諸国の範囲にとどまっているのかというテーマがあります。大和朝廷発祥の地となった近畿地方、出雲や越国など神話に登場する日本海側諸国、そして広大な濃尾平野と関東平野、更には南九州や四国の太平洋側にはなぜ故神籠石山城がないのかという疑問です。
理屈の上では、神籠石山城で防衛しなければならないような地域ではなかった、あるいは脅威となる外敵はいなかったなどの説明が可能ですが、それもよくよく考えると抽象的であり、今ひとつ説得力に欠けそうです。たとえば、近畿天皇家も王朝交代前に防衛施設として大和に山城群を築城してもよさそうですが、史料に現れるのは高安城くらいで、神籠石山城は皆無です。出雲国も伝統ある大国で、海からの侵入の脅威にさらされていますが、古代山城発見の報告を知りません。
このように、神籠石山城などには多元史観・九州王朝説でも解明できていない問題があるのです。この現象(神籠石山城分布域)をうまく説明できるよいアイデアや視点があれば、ご教示下さい。

(注)
①向井一雄『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』吉川弘文館、2017年。
②古賀達也「古代山城研究の最前線 ―前期難波宮と鬼ノ城の設計尺―」『東京古田会ニュース』202号、2022年。


第3017話 2023/05/16

桐原・古田対談テープなどを

  CD、DVDにダビング

 東日流外三郡誌をはじめとする和田家文書への偽作キャンペーンが猖獗を極めていたとき、こともあろうに古田先生が200万円を支払って、ある人物に偽書作成を依頼した疑惑があるとする悪意に満ちた記事が週刊誌(アサヒ芸能)や『季刊邪馬台国』(注①)などに掲載されたことがありました。その人物は桐原さんという広島市の方で、古田先生と親交がありました。

 そこで、平成9年4月9日、古田先生と水野さん(当時、古田史学の会・代表)、古賀の三人で、京都タワーホテルの会議室にて桐原氏と対談し、そうした報道が事実無根であるとの証言をしていただきました。この度、その録音テープを専門業者に依頼してCDにダビングしました。ことの真相(注②)や詳細な経緯が桐原さんより語られています。今は亡き古田先生の名誉を守るためにも、「古田史学の会」ではその内容の公開も含めて、今後の取り扱いについて検討したいと考えています。

 また、三十年前に古田先生と実施した津軽での聞き取り調査など、東日流外三郡誌に関わる当時の重要証言ビデオも専門業者に依頼してDVDにダビングしました。当時の証言者(注③)がほとんど物故されていますので、いずれも貴重な証言録画です。これらの編集を行い、関係団体にも提供できればと思います。ネットでの動画配信も有効かもしれません。このことも「古田史学の会」で検討を進めたいと考えています。編集作業や配信など、皆さんのご協力をお願いいたします。

(注)
①『季刊邪馬台国』56号、1994年。同誌冒頭に「古田武彦昭和薬科大学教授に衝撃の疑惑!! 二百万円支払って、古文書作成偽造を依頼」の見出しとともに、『アサヒ芸能』記事を転載している。
②古田先生から江戸期の紙の調査とサンプル収集依頼を受けたこと、桐原氏の娘さんの学費支援が古田先生からあったことなどが証言されている。別の日に、京都駅前の新阪急ホテルラウンジで古田先生、桐原さんと娘さん、古賀の四人でお会いしたこともある。終始なごやかな歓談が続いた。
③永田富智氏(北海道史、松前町史編纂委員)、松橋徳夫氏(市浦村、山王日吉神社宮司)、佐藤堅瑞氏(柏村、浄円寺住職。青森県仏教会々長)。地名・肩書きは当時のもの。


第3016話 2023/05/15

九州年号「大化」「大長」の原型論 (5)

 当初、わたしは丸山モデルを支持していたのですが、古田先生による『二中歴』原型説の提唱があり、再検討を行いました(注①)。その結果、丸山モデルは成立し難いという結論に至りました。理由は次の通りです。

 丸山モデルの特徴は、元年を692年壬辰とする大長を最後の九州年号とすることの他に、『日本書紀』や『二中歴』に見える朱鳥がないということでした。その部分だけを見ると、『二中歴』の朱鳥年間(686~694年の9年間)が消えて、その位置(686~691年)に『二中歴』の大化の6年間(695~700年)がずれ上がり、大化の後に大長の9年間(692~700年)が割り込んでいます。このように、朱鳥が消えて大長が大宝の直前に割り込むというのが丸山モデルの特徴です(注②)。ところが、現存する二つの同時代九州年号金石文が丸山モデルの特徴を否定するのです。

 二つの同時代九州年号金石文とは、「朱鳥三年戊子(688年)」銘を持つ鬼室集斯墓碑(注③)と「大化五子(700年)」年土器(注④)のことです。検討の結果、両金石文は同時代金石文であり、『二中歴』の朱鳥と元年が同じ686年である「朱鳥三年戊子」銘により、九州年号に朱鳥が存在していたことを疑えませんし、七世紀末に大化年号が使用されていたことを示す「大化五子(700年)」年土器により、丸山モデルの大長(692~700年)は否定されることになります。また、丸山さんが自説の根拠とされた大長の実用例も子細に見ると、『運歩色葉集』の「大長四季丁未(707)」と『伊予三島縁起』の「天武天王御宇大長九年壬子(712)」は丸山モデルの大長元年692年壬辰とは異なり、704年甲辰を元年としており、決して丸山モデルを支持していたわけではないのです。従って、丸山モデルに代わって、古田先生が提唱した『二中歴』原型説が有力視されるに至りました。(つづく)

(注)
①古賀達也「二つの試金石 — 九州年号金石文の再検討」『「九州年号」の研究』古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年。
②丸山モデルと『二中歴』の比較(七世紀後半部分)
【丸山モデル】 【二中歴】
西暦 干支 年号   年号
652 壬子 白雉   白雉 ※『日本書紀』では白雉元年は650年庚戌。
661 辛酉 白鳳   白鳳
684 甲申 朱雀   朱雀
686 丙戌 大化   朱鳥 ※『日本書紀』では朱鳥元年の1年のみ。
692 壬辰 大長
695 乙未      大化 ※『日本書紀』では大化元年は645年乙巳。
700 庚子 同九年  同六年
701 辛丑 (大宝)  (大宝) ※大和朝廷の年号へと続く。
③滋賀県蒲生郡日野町、鬼室集斯神社蔵。
④茨城県坂東市(旧岩井市)出土。冨山家蔵。


第3015話 2023/05/14

九州年号「大化」「大長」の原型論 (4)

 九州年号研究の初期の頃、最後の九州年号を大長とするのか、大化とするのかが大きなテーマとなりました。『二中歴』には「大長」がなく、最後の九州年号は「大化」(695~700)で、その後は近畿天皇家の年号「大宝」へと続きますが、『二中歴』以外のほとんどの九州年号群史料では「大長」が最後の九州年号で、その後に「大宝」が続きます。この大長があるタイプ(元年を692年壬辰とする)が丸山モデルと呼ばれ、当時は最有力説と見なされていました。両者は次のような年号立てです(七世紀後半部分を提示。700年以外はいずれも元年を示す)。

【丸山モデル】 【二中歴】
西暦 干支 年号   年号
652 壬子 白雉   白雉 ※『日本書紀』では白雉元年は650年庚戌。
661 辛酉 白鳳   白鳳
684 甲申 朱雀   朱雀
686 丙戌 大化   朱鳥 ※『日本書紀』では朱鳥元年の1年のみ。
692 壬辰 大長
695 乙未      大化 ※『日本書紀』では大化元年は645年乙巳。
700 庚子 同九年  同六年
701 辛丑 (大宝)  (大宝) ※大和朝廷の年号へと続く。

 丸山モデルの根拠は、丸山氏が収集した九州年号群史料(年代記類)25史料(注①)の内、大長をもたないものは『二中歴』と『興福寺年代記』のみであり、他は全て大長を持っており、その多くは大長元年を692年壬辰としていたことによります(注②)。更に丸山氏は、藤原貞幹が「延暦中の解文」に「大長」を見たと記していることや(注③)、次の史料に大長の実用例が見えることも、自説の根拠とされました(注④)。

○『運歩色葉集』(1537年成立)「大長四季丁未(707)」
○『八宗伝来集』(1647年成立)「大長元年壬辰(692)」
○『伊予三島縁起』(1536年成立)「天武天王御宇天(ママ)長九年壬子(712)」※内閣文庫本には「天武天王御宇大長九年壬子(712)」とする写本がある(注⑤)。
○『白山由来長瀧社寺記録』(『白山史料集』下巻所収)「大長元年壬辰(692)」
○『杵築大社旧記御遷宮次第』「大長七年戊戌(698)」

 こうした豊富な史料根拠に基づいて、大長を持つ丸山モデルは成立しており、当初はわたしも支持していました。(つづく)

(注)
①丸山晋司『古代逸年号の謎 ―古写本「九州年号」の原像を求めて―』(株式会社アイ・ピー・シー刊、1992年)所収「古代逸年号史料異同対比表」252~253頁。
②一部に、大長元年を695年乙未(『王代年代記』1449年成立)や698年戊戌(『海東諸国紀』1471年成立、他)とする史料がある。この点、後述する。
③藤原貞幹『衝口発』に「金光ハ平家物語、大長延暦中ノ解文ニ出。」とある。
④上記①の83~84頁。
⑤古賀達也「学問は実証よりも論証を重んじる」『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)古田史学の会編、明石書店、2016年。


第3014話 2023/05/13

豊島勝蔵氏の証言、

   「墳館(ふんだて)」の発見

 この度の和田家文書調査では数々の成果に恵まれたのですが、その一つに弘前市の古書店で「東日流外三郡誌」関連の古書を購入できたことがあります。恐らく地元でなければ入手できないような資料もあり、望外のことでした。それはガリ版刷りでホッチキスどめの「津軽の安東について」の表題をもつ冊子です。表紙には次のように記されています。

「津軽の安東について
郷土史研究家
豊島勝蔵

昭和57年4月25日
於 五所川原市民図書館
昭和57年度北奥文化研究会総会 記念講演会」

 市浦村史版『東日流外三郡誌』を編纂された豊島勝蔵さんの講演録、本文39頁の手作り冊子です。東日流外三郡誌に触れた部分が多く、偽作説が現れた当時の雰囲気が豊島氏の口吻から感じられます。この中で次のような貴重な証言が記されています。市浦村(当時)の遺跡〝墳館〟発見の経緯が紹介された次の部分です。

〝(墳館)
それから、ずうっと市浦に入ってきてしまったんですけども、磯松の所に、これは外三郡誌馬鹿にならないなあと思った一つなんですけれども、市浦の方で今まで墳館発見していながったわけです。福島城、唐川城ね、太田の鏡城とかいうのはわかっていたのですけれども、墳館があったのはわからなかったんです。
外三郡誌によって初めて出て来たもんで、一体どこら辺だろうと言うので、磯松の人達の通りがかりの婆様をつかまえて聞いたわけです。「ん、あすことばフンダデってしたんだ…」というわけです。最初古舘かなと思っていたわけです。行って見ました。熊野宮のある傍なんです。行って見ましたら完全に城跡なんです。空堀が三つ位あるんでねんですか。残っている所は個人持ちで、上は畑にしています。けれども、完全な城跡だということわかったわけです。それで外三郡誌に書いてあるところを見ますと、そこは安東一族の霊を祀る所ですね。安東の墓所です。神護寺という名前も出て来ますけどね。完全な城跡だとわかったんです。
(五輪の塔)
ふしぎにも、そこから完全な五輪の塔が出るんです。あすこに墓地があ〈ママ〉ますけど、その墓地の所に二基完全なのがあるんです。三がい位になっていますけど同じものが二つ。これは一体どっから来たんだ聞きますと「墳館の所です。まだまだ五輪の部分品はたくさん出る。」というのです。ちょっとこう墳館の沢になっている所、五輪の沢という名前で呼んでいます。私達が古館だなあと思っていた所、墓場であったわけですね。墳墓の墳なんです。それが外三郡誌ではじめて上巻の中に名前を出すようになったわけです。〈後略〉〟

 東日流外三郡誌には「墳館」と記された地図などが見えますが、その遺構が現地の婆様たちからは「フンダデ」「墳館」と呼ばれており、実在していたことがわかったという内容です。それまでは、地元の研究者は「古舘」と理解していたようです。この豊島勝蔵さんの証言は東日流外三郡誌に記された「墳館」の存在が事実であり、それは安東氏の墓所(墳)であったことが五輪の塔の出土から明らかになったというものです。これは東日流外三郡誌真作説を指示するものです。

 この他にも同冊子には豊島さんによる貴重な情報が載せられており、別の機会に紹介したいと思います。