九州年号一覧

第835話 2014/12/10

「聖徳」は九州年号か、法号か

 昨晩は名古屋で仕事でしたので、「古田史学の会・東海」の林伸禧さん(古田史学の会・全国世話人、瀬戸市)や石田敬一さん(名古屋市)とSKE48で有名な栄で夕食をご一緒しました。
 会食での話題として、明石書店(秋葉原のAKB48劇場のやや近くにあります)から出版していただいている『古代に真実を求めて』の別冊構想について相談しました。というのも、毎年発行している『古代に真実を求めて』とは別にテーマ毎の論文や資料による別冊の発刊企画を検討しているのですが、私案として「九州年号」資料集も別冊として出版したいと考えてきました。そこで永く九州年号史料の収集を手がけられてきた林さんにその編集を引き受けていただけないかとお願いしました。
 そうしたこともあり、九州年号についての意見交換を林さんと交わしたのですが、『二中歴』には「聖徳」は無いが、「聖徳」が九州年号かどうかとのご質問が出されました。基本的には九州年号群史料として『二中歴』が最も優れていると考えていますが、『二中歴』には無く、他の九州年号群史料に見える「聖徳」(629〜634、『二中歴』では「仁王」7〜12年に相当)を九州年号とするのかという問題は、研究途上のテーマでもあり難しい問題です。
 ホテルに戻ってからもこの問題について考え、何とか史料根拠に基づいた論証ができないものかと思案したところ、次のような論証が可能ではないかと気づきました。

1.九州年号原型論研究において、『二中歴』が最も優れた、かつ成立が古い九州年号群史料であることが判明している。
2.その『二中歴』に見えない「聖徳」は本来の九州年号ではない可能性が高いと考えるべきである。
3.しかし、それではなぜ他の九州年号群史料等に「聖徳」が九州年号として記されているのか。記された理由があるはず。
4.その理由として正木裕さんは、多利思北孤が出家してからの法号の「法興」が年号のように使用されていることから、「聖徳」も利歌彌多弗利(リ、カミトウのリ)の出家後の法号ではないかとされた。
5.この正木説を支持する史料根拠として、『二中歴』の九州年号「倭京」の細注に「二年、難波天王寺を聖徳が造る」という記事があり、倭京2年(619年)は多利思北孤の治世であり、その太子の利歌彌多弗利が活躍した時代でもある。従って、難波天王寺を建立するほどの九州王朝内の有力者「聖徳」を利歌彌多弗利とすることは穏当な理解である。
6.『日本書紀』に、四天王寺を大和の「聖徳太子」が建立したとする記事が採用されたのは、九州王朝の太子「聖徳」(利歌彌多弗利)が天王寺を建立したとする事績を近畿天皇家が盗用したものと考えることが可能。しかも、考古学的事実(四天王寺の創建年が『日本書紀』に記された6世紀末ではなく、620年頃とする見解が有力)も『二中歴』の細注を支持している。
7.以上の史料根拠に基づく論理性から、九州王朝の天子(多利思北孤が没した翌年の仁王元年・623年に天子に即位したと考えられる)「聖徳」(利歌彌多弗利)の「名称」を政治的年号に採用するとは考えられない。
8.従って、利歌彌多弗利が即位の6年後に出家し、その法号を「聖徳」としたとする正木説が今のところ唯一の有力説である。それが後世に、「法興」と同様に年号のように使用された。その結果、多くの年代記などに他の九州年号と同列に「聖徳」が記載された。ちなみに、多利思北孤も天子即位(端政元年・589年)の2年後が「法興元年(591)」とされていることから、即位後に出家したことになる。利歌彌多弗利も父の前例に倣ったか。
9.付言すれば、利歌彌多弗利「聖徳」の活躍がめざましく、その事績が近畿天皇家の「聖徳太子」(厩戸皇子)の事績として盗用されたと考えられる。
10.同様に九州王朝内史書にも「聖徳」としてその活躍が伝えられた。『二中歴』倭京2年の難波天王寺聖徳建立記事も、利歌彌多弗利出家後の法号「聖徳」の名称で記載されたことになる。

 以上のような論理展開が可能ではないでしょうか。引き続き検証を行いますが、今のところ論証として成立しているような気がしますが、いかがでしょうか。なお、正木さんも「聖徳」法号説の論証を更に深められており、関西例会で発表予定です。

(補注)上記の論理展開において、7が最も重要な論理性です。


第833話 2014/12/08

九州年号史料と

  九州年号付加史料

 関西例会に姫路市から参加されている熱心な会員の野田利郎さんから、最近の「洛中洛外日記」の更新頻度が増えている理由についてご質問いただきました。確かに意識的に「洛中洛外日記」の更新ペースを上げているのですが、その理由の一つに、情報の共有化により古田史学・多元史観の研究速度を加速させるという目的がありました。
 たとえ「洛中洛外日記」のようなコラム的な小文とはいえ、新知見や新仮説、あるいは論証的にも妥当な内容をできる限り記すように心がけてきました。しかし、自分一人で研究するのではなく、多くの古田学派の研究者やホームページ読者にも一緒に考えていただいたほうが、学問的にも有益ですし、より真実に近づきやすいと思い、論証が成立していなくても、あるいは単なるアイデア・思いつきレベルのテーマでも、「洛中洛外日記」で紹介することにしたのです。ですから結果的に思い違いや誤ったことを書いてしまうかもしれませんが、そのことが読者のご指摘により明確になれば、それはそれで学問的に有益で前進でもあります。
 さらには自分では公知であると思い、とりたてて解説していないことが、結構知られていなかったり、理解の深さに差があることに気づかされることも少なくなく、そうした経験をするたびに、やはり繰り返して説明することも大切だと思うようになりました。
 たとえば、今年初めて参加した八王子セミナーのとき、たまたま夜にラウンジでお会いした皆さんと懇談する機会があったのですが、九州年号についてのご質問があり、九州年号史料と九州年号付加史料の差異やそれらの優劣についての説明をさせていただいたところ、そうしたことを初めて聞かれた方もあり、自分では常識でありわざわざ説明するまでもないと思っていることでも、丁寧な説明が必要であることに気づかされました。
 具体例を上げますと、九州年号が記されている国東長安寺蔵(大分県豊後高田市)『屋山関係年代記』(『九州歴史資料館研究論集13』所収、1998年)には「善記」を始め約30の九州年号が見えます。しかし、子細に観察しますと、誤字や異伝のものが散見され、九州年号の時代に成立した年代記の写本ではなく、後世において年代記編纂時に別の九州年号史料を参考にして、それら九州年号を付加したと見られます。従って、『屋山関係年代記』は「九州年号付加史料」であり、九州年号の時代に編纂された本来の「九州年号史料」の写本とは言い難いものです。ですから、九州年号史料としての価値は『二中歴』などに比べれば、はるかに劣ります。
 初期の頃の九州年号研究においては、このような「九州年号付加史料」をも本来の「九州年号史料」と同列に扱い、その原型論研究において、史料の「多数決」の一つとして使われたこともありました。史料の優劣を「多数決」で決めるという方法は誤っており、古田史学の方法とは異なるのですが、なかなか理解していただけないこともありました。
 この「多数決」という方法は、「邪馬台国」説の方が「邪馬壹国」説よりも多いから「正しい」とすることと同次元の「方法」であり、古田史学とは全く異なるもので、学問的に間違っています。こうした古田学派にとって当然のことでも、形やテーマが変わると誤って使用されることもあります。このような問題を「洛中洛外日記」でも丁寧に説明していきたいと思います。


第816話 2014/11/02

後代「九州年号」

  金石文の紹介

 「洛中洛外日記」810話で同時代「九州年号」史料を紹介し、調査協力を要請しましたが、後代作製と思われる「九州年号」金石文についてもご紹介します。
 愛媛県越智郡朝倉村に「樹の本さん」と呼ばれている「樹の本古墳」(円墳と見られています)があります。その墳頂に江戸時代作製と見られている法篋印塔があり、これが白鳳時代開基とされる浄禄寺の尼僧、輝月妙鏡律尼の墓石で、九州年号「白鳳」が記されています。
 数年前に合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、同・四国の会・事務局長)のご案内で現地を訪問し、この墓石を実見しました。見たところ「白鳳十二年 七月十五日」と没年が彫られていました。年号だけで干支が記されていませんから、古代の金石文とは様式が異なっており、後代成立と見て、問題ないと思いま す。当地の地誌には「白鳳十三年七月十五日」と紹介されていますので、わたしの見間違いかもしれませんので、再確認の必要があります。同古墳は見学可能です。後代製造とはいえ、「九州年号」金石文は希少ですので、みなさんも訪問してみてください。
 もう一つ紹介します。「大化元年」石文として豊国覚堂「多野郡平井村雑記(上)」『上毛及上毛人』61号(大正11年)に掲載されているものです。次のように記されています。

 「大化元年の石文
 又富田家には屯倉の遺址から掘出したと称する石灰岩質の牡丹餅形の極めて不格好の石に『大化元乙巳天、□神王命』と二行に陰刻した石文がある。神王の上に大か天か不明の一字があつて、其左方より上部は少しく缺損して居るが−−見る所随分ふるそうなものである、併し大化の頃、果して斯る石文があつたものか、或は後世の擬刻か、容易には信じられない、又同所附近よりは赤土素焼の瓶をも発掘したと聞いたが未だ實物は一覧しない。」(38頁)

 同誌に掲載されている同石文の拓本を見ると、「大化元巳天 文神王命」と見えます。元年干支が「巳」とありますから、 『日本書紀』にある「大化元年乙巳(645)」と一致しますから、この石文は『日本書紀』成立以後に作成されたと考えられる後代作製「九州年号」金石文となります(本来の九州年号「大化元年」の干支は乙未で695年)。
 ちなみに、下山昌孝さん(多元的古代研究会)による2000年8月の調査によれば「多野郡平井村」は藤岡市とのことで、所蔵者とされる富田家に問い合わされたところ、同家ではこの石文のことはご存じなかったとのことでした。富山家は旧家のようで、藤岡市教育委員会にて同家所有古文書の目録作成をされてい るとのことでした。富田家にご迷惑をおかけしないようご配慮いただき、調査していただければ幸いです。
 以上、後代成立「九州年号」金石文2件をご紹介しました。


第811話 2014/10/26

山崎信二さんの「変説」(1)

 学問研究において自説を変更することは悪いことではありません。ただしその場合、何故「変説」したのかという説明責任と、「変説」の結果、より真実に近づくということが不可欠です。
 いきなりなぜこんなことを言い出すのかというと、「洛中洛外日記」808話の『「老司式瓦」から「藤原宮式瓦」へ』で山崎信二さんの『古代造瓦史 −東アジアと日本−』(2011年、雄山閣)で、次のように主張されていることを紹介しました。

 「このように筑前・肥後・大和の各地域において「老司式」「藤原宮式」軒瓦の出現とともに、従来の板作りから紐作りへ突 然一斉に変化するのである。これは各地域において別々の原因で偶然に同じ変化が生じたとは考え難い。この3地域では製作技法を含む有機的な関連が相互に生 じたことは間違いないところである。」
 「そこで、まず大和から筑前に影響を及ぼしたとして(中略)老司式軒瓦の製作開始は692~700年の間となるのである。(中略)このように、老司式軒瓦の製作開始と藤原宮大極殿瓦の製作開始とは、ほぼ同時期のものとみてよいのである。」

 このように山崎さんは瓦の製作技法の突然の一斉変化の方向が「大和から筑前へ」と、根拠を示さずに断定されていました。 ところが、昨日、岡下英男さん(古田史学の会・会員、京都市)からメールが届き、山崎さんは本来「筑前から大和へ」説だったはずで、九州王朝説に有利なこのような説を発表して差し支えないのだろうかと思っていた、という趣旨が記されていました。添付されていた資料によると、たしかに以前は山崎さんは次のように発表されていました。

「藤原宮軒瓦と老司式軒瓦の年代
 それでは、藤原宮軒瓦と筑前・肥後の老司式軒瓦のどちらが古く遡るのであろうか。(中略)
 決定的な資料はないが、以上のように、一般的には老司式が藤原宮の軒瓦のうち古い様相をもつものと共通点が多いことが指摘できる。これは老司式軒瓦の最も初期のものが、藤原宮軒瓦の最も初期のものと同時期か、それより若干遡る可能性を考えさせる。
 老司式軒瓦のうち最古のものは筑前観世音寺出土のものであろうが、(中略)
 このようにみると、九州の老司式軒平瓦と藤原宮軒平瓦の文様の使い分けは、九州の老司式軒平瓦の文様(6640)がすでに存在していたので、その文様を避けて藤原宮軒平瓦の文様(6641・6642・6643)を選択したと考えた方がよいだろう。観世音寺と藤原宮の造瓦において、文様・作製技法を含む技術的な交流がなければ、以上のような相互関係は成り立ち得ないだろう。(中略)
 即ち、老司式と藤原宮の瓦の相互関係については、まず観世音寺造瓦にたずさわった工人の一部(この工人は大和を経由して招来された可能性がある)が、藤原宮の造瓦開始に伴って大和へ移動した場合が想定できる。」(p.265-267)
 山崎信二「藤原宮造瓦と藤原宮の時期の各地の造瓦」『奈良国立文化財研究所創立40周年記念論集 文化財論叢II』所収(同朋舎出版、平成7年・1995年)

 このように1995年時点の論文では「藤原宮の造瓦開始に伴って大和へ」と工人の移動を「筑前から大和へ」とされており、藤原宮式よりも観世音寺創建瓦(老司1式)のほうが若干古いとされていたのです。ところが2011年発刊の『古代造瓦史 −東アジアと日本−』では「大和から筑前へ」に「変説」され、「老司式軒瓦の製作開始と藤原宮大極殿瓦の製作開始とは、ほぼ同時期」と微妙に表現が変化していたのです。1995年から 2011年の間になにがあったのでしょうか。山崎さんの論文等をすべて読んだわけではありませんが、わたしには思い当たることがありました。(つづく)


第810話 2014/10/25

同時代「九州年号」史料の行方

 今日は正木裕さん(古田史学の会・全国世話人)が見えられ、拙宅近くの喫茶店で2時間以上にわたって意見交換を行いました。主なテーマは『古代に真実を求めて』18集で特集する「盗まれた『聖徳太子』伝承」についてでしたが、19 集のテーマ「九州年号」についても最新の発見や仮説について論議しました。お互いに取り組まなければならない研究課題が次から次に出てくるという状況で、 もっと多くの研究者が古田学派には必要と感じました。
 わたし自身もやりたいけれども忙しくて手が回らない調査などがあり、今回、読者のみなさんのご協力を得るためにも、行方不明になったり未調査の同時代 「九州年号」史料を紹介し、手伝っていただける方があれば是非お願いしたいと思います。それは次のような史料です。

(1)「白鳳壬申」骨蔵器。『筑前国続風土記附録』(巻之六 博多 下)の「官内町・海元寺」に次のように記されており、現在では行方不明になっています。是非、さがして下さい。
 「近年濡衣の塔の邊より石龕(かん)一箇掘出せり。白鳳壬申と云文字あり。龕中に骨あり。いかなる人を葬りしにや知れず。此石龕を當寺に蔵め置る由縁をつまびらかにせず。」

(2)「大化元年」獣像。『太宰管内志』(豊後之四・大野郡)の「大行事八幡社」に次の記事があります。今も現存している可能性があります。
 「大行事八幡社ノ社に木にて造れる獣三雙あり其一つの背面に年號を記せり大化元年と云までは見えたれど其下は消て見えず」

(3)「白雉二年」棟札・木材。『太宰管内志』(豊後之四・直入郡)の「建男霜凝日子神社」に次の記事があります。今も現存している可能性があります。
 「此社白雉二年創造の由、棟札に明らかなり。又白雉の舊材、今も尚残れり」「又其初の社を解く時、臍の合口に白雉二年ら造営する由、書付けてありしと云」

 この他にも、江戸時代の諸史料に紹介された「同時代九州年号史料」が見えますが、別の機会に紹介したいと思います。ぜひ、上記の三件について九州の方に調査していただければ幸いです。何らかの発見があれば、『古代に真実を求めて』19集の「九州年号」特集で紹介したいと思いま す。


第809話 2014/10/25

湖国の「聖徳太子」伝説

 滋賀県、特に湖東には聖徳太子の創建とするお寺が多いのですが、今から27年前に滋賀県の九州年号調査報告「九州年号を求めて 滋賀県の九州年号2(吉貴・法興編)」(『市民の古代研究』第19号、1987年1月)を発表したことがあります。それには『蒲生郡志』などに記された九州年号「吉貴五年」創建とされる「箱石山雲冠寺御縁起」などを紹介しました。そして結論として、それら聖徳太子創建伝承を「後代の人が太子信仰を利用して寺院の格を上げるために縁起等を造作したと考えるのが自然ではあるまいか。」としました。

 わたしが古代史研究を始めたばかりの頃の論稿ですので、考察も浅く未熟な内容です。現在の研究状況から見れば、九州王朝による倭京2年(619)の難波天王寺創建(『二中歴』所収「年代歴」)や前期難波宮九州王朝副都説、白鳳元年(661)の近江遷都説などの九州王朝史研究の進展により、湖東の「聖徳太子」伝承も九州王朝の天子・多利思北孤による「国分寺」創建という視点から再検討する必要があります。

 先日、久しぶりに湖東を訪れ、聖徳太子創建伝承を持つ石馬寺(いしばじ、東近江市)を拝観しました。険しい石段を登り、山奥にある石馬寺に着いて驚きました。国指定重要文化財の仏像(平安時代)が何体も並び、こんな山中のそれほど大きくもないお寺にこれほどの仏像があるとは思いもよりませんでした。

 お寺でいただいたパンフレットには推古二年(594)に聖徳太子が訪れて建立したとあります。この推古二年は九州年号の告貴元年に相当し、九州王朝の多利思北孤が各地に「国分寺」を造営した年です。このことを「洛中洛外日記」718話『「告期の儀」と九州年号「告貴」』に記しました。

 たとえば、九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)には、告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」に「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)という記事がありますし、『日本書紀』の 推古2年条の次の記事も実は九州王朝による「国府寺」建立詔の反映ではないかとしました。

「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」

 この告貴元年(594)の「国分寺創建」の一つの事例が湖東の石馬寺ではないかと、今では考えています。拝観した本堂には「石馬寺」と書かれた扁額が保存されており、「傳聖徳太子筆」と説明されていました。小振りですがかなり古い扁額のように思われました。石馬寺には平安時代の仏像が現存していますから、この扁額はそれよりも古いか同時代のものと思われますから、もしかすると6世紀末頃の可能性も感じられました。炭素同位体年代測定により科学的に証明できれば、九州王朝の多利思北孤による「国分寺」の一つとすることもできます。

 告貴元年における九州王朝の「国分寺」建立という視点で、各地の古刹や縁起の検討が期待されます。


第807話 2014/10/21

正木さん、

「願轉」の出典発見

 先週開催された10月度関西例会では様々な仮説の提起や新発見・知見の報告があり、かなり充実したものでした。中でも正木裕さん(古田史学の会・全国世話人、川西市)からの研究発表で、九州年号の「願轉」の出典が仏教教典にあったとの報告には驚きました。
 九州年号「願轉」(601~604年)は『隋書』に記されている九州王朝の輝ける天子・阿毎多利思北孤(あめ・たりしほこ)在位期間中の年号の一つで、 「願」や「轉(転)」という字が仏教的なものという感触は以前からあったのですが、その背景や出典は不明でした。たとえば「如来の本願」「本願寺」(浄土真宗)の「願」は有名ですし、「輪廻転生」や「転重軽受」(重い罪業を信仰により転じて軽く受ける。「日蓮遺文」)の「転」というように仏教用語によく見 られます。ところが、正木さんは「願轉」そのものを経典から見いだされたのです。たとえば次の通りです。

『佛説普曜経』308年漢訳
 「願轉法輪悉教衆生」
『正法華経・往古品第七』竺法護286年訳
 「願轉法輪演大聖典」「勸發世尊願轉法輪」
『十誦律・七法中受具足戒法第一』鳩摩羅什409年漢訳
 「功徳之寶海是願轉輪王」

 正木さんの解説では「轉法輪」とは教義(法輪)を他人に伝えること(転)を言い、釈迦が鹿野苑で最初に教義を説いた出来事を「初転法輪」と言うとのこと。従って、「願轉法輪」とは仏法流布を願う、あるいは「説法により○○を願う」という意味になるそうです。
 「転輪王」とは「古代インド思想における理想的な王を指す概念」とのことで、「願轉輪王」とは「転輪王の願い」ということで、「正義と法によって世を治め一切を守護する願い」とされています。
 いずれも仏教に帰依した天子(菩薩天子『隋書』)にふさわしい年号として「願轉」が用いられたと、正木さんは指摘されたのです。見事な仮説だと思います。九州年号研究により、九州王朝の歴史や思想性が復元されることになり、今後の研究動向に目が離せません。
 正木さんのこの研究は『古田史学会報』や『古代に真実を求めて』に掲載されることになると思います。楽しみが増えました。


第805話 2014/10/18

九州年号

「願轉」「光元」の意義

 本日の関西例会では9月に続いて服部さんから古代中国の二倍年暦について、論語は一倍年暦でも理解可能との批判がなされました。すなわち、わたしが「洛中洛外日記788話『論語』の二倍年暦」でも紹介した事例について、「この論語 解釈を二倍年暦の根拠とするには、仮説としては成立しても証明にはならない」と反論されました。この反論自体はもっともなものですので、今後も論争を続け ることになりました。四天王寺の移設(前期難波宮造営に伴い、玉造から荒墓への移設)についての作業仮説も興味深く、今後の研究の進展が期待されます。
 萩野さんからは出雲神話に関する現地の神社伝承などを丹念に集められ紹介されました。『出雲風土記』にスサノオのオロチ退治が記されていないことについて、大和朝廷にはばかって意図的に収録しなかったのではとされました。
 正木さんからは九州年号「願轉」「光元」などについての新説が発表されました。「願轉」は十七条憲法制定、「光元」は全身を金箔で覆った法隆寺の「夢殿救世観音建立」に関連した年号とされました。九州王朝の天子・多利思北孤の時代の九州年号「端政・告貴・願轉・光元」の研究(仮説提起)により、九州王朝 史研究が着実に進展しています。
 出野さんからは『説文解字』と白川漢字学についての解説がなされました。その中で紹介された『漢書藝文志』に見える「古(いにしえ)は八歳にして小学に 入る」に興味を持ちました。これが二倍年暦では論語の「十有五にして学を志す」に対応するのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
 水野代表からは東海道新幹線開業50周年にあたり、開発時の思い出が語られました。開業二年前には試作車両(2両編成と4両編成)が完成し、それぞれ外観(六角形の窓など)が異なっていたとのことです。水野さんは営業初日に乗車され、そのときの切符は記念にもらえたので保存しているとのこと。
 このように関西例会はますます充実しています。会員の皆さんや一般の方のご参加をお待ちしています(参加費500円で、発表者の貴重な史料やレジュメがもらえ、それだけでもお得です)。10月例会の発表テーマは次の通りでした。

〔10月度関西例会の内容〕
1). 論語の中の二倍年暦(八尾市・服部静尚)
2). 統計的手法は歴史学になじまないか?(八尾市・服部静尚)
3). 四天王寺の移設問題(八尾市・服部静尚)
4). 日本書紀神代上・八岐大蛇におけるスサノオとその他(東大阪市・萩野秀公)
5). 多利思北孤の仏法流布と九州年号「願転」「光元」(川西市・正木裕)
6). 『説文解字叙』を読み解く(奈良市・出野正)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(『古田武彦が語る多元史観』発刊、『百問百答+α』続刊予定、続著『真実の誕生 宗教と国家論』(仮題)、11/08八王子大学セミ ナー、松本深志校友会誌への投稿)・『古代に真実を求めて』18集特集の原稿執筆「聖徳太子架空説」の紹介・小河原誠『反証主義』、三野正洋『戦艦大和最 後の戦い』を読む・東海道新幹線50周年・その他


第803話 2014/10/16

日本古代史学界の「反知性主義」

  佐藤優さんの『「知」の読書術』(集英社、2014年8月)を読みました。現代社会や世界で発生している諸問題を近代史の視点から読み解き、警鐘を打ち鳴らす好著でした。皆さんへもご一読をお勧めします。同書の第四章「『反知性主義』を超克せよ」の「反知性主義は『無知』 とは異なります。」とする次の指摘には深く考えさせられました。

 「誤解のないように言っておくと、反知性主義は「無知」とは異なります。たとえ高等教育を受けていても、自己の権力基盤を強化するために「恣意的な物語」を展開すれば反知性主義者となりうるのです。
反知性主義者に実証的批判を突きつけても、有効な批判にはなりません。なぜなら、彼らにはみずからにとって都合がよいことは大きく見え、都合の悪いことは視界から消えてしまうからです。だから反知性主義者は、実証性や客観性にもとづく反証をいくらされても、痛くも痒くもありません。」(82頁)

 わたしたち古田学派にとって、彼ら(大和朝廷一元史観の古代史学界)が「実証性や客観性にもとづく反証をいくらされても、痛くも痒くも」ない「反知性主義者」であれば、古田先生やわたしたちが提示し続けてきた実証や論証は「都合の悪いこと」であり、「視界から消えてしまう」のです。このような佐藤さんの指摘には思い当たることが多々あります。

 たとえば、『二中歴』に記された九州年号と一致する「元壬子年」木簡(芦屋市出土。白雉元年壬子652年に一致。『日本書紀』の白雉元年は庚戌の年で650年。『日本書紀』よりも『二中歴』等の九州年号に干支が一致しています。)について何度も指摘してきましたが、一切無視されており、近年の木簡関連 の書籍・論文ではこの木簡の存在自体にも触れなくなったり、「元」の字を省いて「壬子年」木簡と恣意的な紹介に変質したりしています。

 あるいは『旧唐書』では、「倭国伝」(九州王朝)と「日本国伝」(大和朝廷)の書き分け(地勢や歴史、人名等あきらかな別国表記)がなされているという古田先生の指摘に対しても、真正面から反論せず、「古代中国人が間違った」などという恣意的な解釈(物語)で済ませています。

 『隋書』イ妥国伝(「イ妥」は「大委」の当て字か)の阿蘇山の噴火記事や、天子の名前が阿毎多利思北孤(男性)であり、大和の推古天皇(女性)とは全く異なり、両者は別の国であるという古田先生の指摘を40年以上も彼らは無視しています。

 考古学の立場から、太宰府の条坊造営が国内最古であることを精緻な調査から示唆された井上信正説が、九州王朝説(太宰府は九州王朝の首都)と整合するというわたしからの主張に対しても沈黙したままです。(注)

 こうした実証性や客観性に基づく反証が、「反知性主義者」には「無効」という佐藤さんの指摘に改めて衝撃を受けたのですが、それならばわたしたち古田学派はなにをなすべきでしょうか。そのヒントも佐藤さんの『「知」の読書術』にありました。(つづく)

(注記)わたしは列島内の条坊都市の歴史として、九州王朝の首都・太宰府条坊都市が7世紀初頭(九州年号の倭京元年・618 年)の造営、次いで九州王朝の副都・難波京(前期難波宮)条坊が7世紀中頃以降の造営、そして7世紀末に大和朝廷の「藤原京」条坊が造営されたと考えています。井上信正説では太宰府条坊と「藤原京」条坊が共に7世紀末頃の造営と理解されているようです。


第792話 2014/09/25

所功『年号の歴史』を読んで(4)

 所さんは『二中歴』所収「年代歴」に見える「古代年号」(九州年号)を信頼できないとして、鎌倉時代末期の僧侶等による偽作とされたのですが、信頼できないとする理由は次のようなことでした。
 『二中歴』所収「年代歴」の九州年号記事の末尾に次の記述があり、その「只有人伝言」を「九州年号はただ人が言い伝えている」と解し、九州年号は確かな出典や根拠が不明な言い伝えにすぎず、信頼できないとされたのです。

 「已上百八十四年、年号卅一。代〃不記年号。只有人伝言。自大宝始立年号而已。」(句読点は所さんによる。17頁)

 この末尾の一行を所さんは「公式の年号は大宝よりはじめて立てられた」と理解されたのです。和風漢文ですので、こうした訓みも不可能ではありませ んが、逆に「大宝より始めて年号を立てたとするのは、ただ人の言い伝えにあるのみ」という訓みも考えられるのです。したがって、どちらの訓みが妥当かは 『二中歴』全体から編者の認識を読みとる必要があります。
 たとえば『二中歴』「第一 人代歴」の継体天皇の細注に「此時年号始」(この時に年号が始まる)とあり、「年代歴」に記されている最初の古代年号「継体」が継体天皇の時代に始まったと記しているのです。古代年号の最初の「継体」は元年干支が丁酉と記されており、その年は西暦517年で継体天皇の11年にあたり、まさに継体天皇の時代に相当します。
 『二中歴』「第七 官職歴」冒頭にも「孝徳天皇大化五年始置百官八省」とあり、『日本書紀』の「大化」年号が記されています。ここでも『二中歴』編者は「大宝」以前に年号があったと認識しているのです。
 このように『二中歴』編者は、「大宝」以前に「年代歴」の古代年号が実在したと認識しているのです。ですから、「只有人伝言。自大宝始立年号而已。」は 「大宝より始めて年号を立てたとするのは、ただ人の言い伝えにあるのみ」という訓みのほうが『二中歴』編者の認識に対応した訓みとなるのです。(つづく)


第791話 2014/09/24

所功『年号の歴史』を読んで(3)

 所さんは『二中歴』の成立時期に対する誤解から、九州年号の「出揃い(偽作)」時期を鎌倉末期とされ、平安時代の史料には存在しないとされています。しかし、「洛中洛外日記」618話「『赤渕神社縁起』の九州年号」などにおいて、わたしは平安時代に成立した『赤渕神社縁起』(兵庫県朝来市赤淵神社蔵)に九州年号の「常色元年」「常色三年」「朱雀元年」が記されていることを紹介しました。こうした史料の存在も所さんはご存じなかったようです。
 現存の『赤渕神社縁起』は書写が繰り返された写本ですが、その成立は「天長五年丙申三月十五日」と記されていますから、828年のことです(天長五年の干支は戊申。丙申とあるのは誤写誤伝か)。
 なお、古田先生が紹介された『続日本紀』神亀元年十月条(724)の聖武天皇詔報に見える九州年号「白鳳」「朱雀」を所さんは九州年号とは見なされていません。「白鳳」「朱雀」も『二中歴』に見える「古代年号」に含まれているのですから、九州年号が成立の早い史料に見えないとするのは不当です。(つづく)


第790話 2014/09/23

所功『年号の歴史』を読んで(2)

 所さんは『年号の歴史』において、九州年号を仏教僧侶・関係者による偽作とし、その時期は鎌倉時代末期には出揃ったとされています。次の通りです。

 「私は、「善記」以下三十あまりの「古代年号」が出揃った時期は、もう少し古く鎌倉末期ころとみて差し支えない(けれどもそれ以上に遡ることはむずかしい)と考えている。」(16頁)
 「“古代年号”の創作者は、おそらく鎌倉時代(末期)の僧侶か仏教に関係が深い人物と推測して大過ないと思われる。」(27頁)

 このような所さんの見解の根拠は、『二中歴』所収「年代歴」に見える「古代年号」が最も成立が古いとされ、その『二中歴』の成立を鎌倉末期と理解されたことによるようです。

 「周知のごとく、『二中歴』は、平安後期(天治~大治〔一一二四~三〇〕ごろ)成立の『掌中歴』と『懐中歴』とをもとにしながら、新しく大幅に増訂した類聚辞典で、文中に後醍醐天皇を「今上」と記しているから、一応その在位年間(文保二年〔一三一八〕から延元四年〔一三三九〕まで)に成立したとみてよいが、その後数代約一世紀の追記が認められる。」(16頁)

 しかし、これは所さんの誤解で、現存『二中歴』には後代における追記をともなう再写の痕跡があり、その再写時期の一つである鎌倉末期を成立時期と勘違いされているのです。現存最古の『二中歴』写本のコロタイプ本解説(尊経閣文庫)にも、『二中歴』の成立を鎌倉初頭としています。
 したがって「年代歴」に収録されている「古代年号」(九州年号)は遅くとも鎌倉初期あるいは平安時代には「出揃った」と言わなければならないはずなので す。このような所さんの史料理解の誤りが、九州年号偽作説の「根拠」の一つとなり、その他の九州年号偽作説論者は所さんの誤解に基づき古田説を批判する、 あるいは無視するという学界の悲しむべき現状を招いているのです。