九州年号一覧

第803話 2014/10/16

日本古代史学界の「反知性主義」

  佐藤優さんの『「知」の読書術』(集英社、2014年8月)を読みました。現代社会や世界で発生している諸問題を近代史の視点から読み解き、警鐘を打ち鳴らす好著でした。皆さんへもご一読をお勧めします。同書の第四章「『反知性主義』を超克せよ」の「反知性主義は『無知』 とは異なります。」とする次の指摘には深く考えさせられました。

 「誤解のないように言っておくと、反知性主義は「無知」とは異なります。たとえ高等教育を受けていても、自己の権力基盤を強化するために「恣意的な物語」を展開すれば反知性主義者となりうるのです。
反知性主義者に実証的批判を突きつけても、有効な批判にはなりません。なぜなら、彼らにはみずからにとって都合がよいことは大きく見え、都合の悪いことは視界から消えてしまうからです。だから反知性主義者は、実証性や客観性にもとづく反証をいくらされても、痛くも痒くもありません。」(82頁)

 わたしたち古田学派にとって、彼ら(大和朝廷一元史観の古代史学界)が「実証性や客観性にもとづく反証をいくらされても、痛くも痒くも」ない「反知性主義者」であれば、古田先生やわたしたちが提示し続けてきた実証や論証は「都合の悪いこと」であり、「視界から消えてしまう」のです。このような佐藤さんの指摘には思い当たることが多々あります。

 たとえば、『二中歴』に記された九州年号と一致する「元壬子年」木簡(芦屋市出土。白雉元年壬子652年に一致。『日本書紀』の白雉元年は庚戌の年で650年。『日本書紀』よりも『二中歴』等の九州年号に干支が一致しています。)について何度も指摘してきましたが、一切無視されており、近年の木簡関連 の書籍・論文ではこの木簡の存在自体にも触れなくなったり、「元」の字を省いて「壬子年」木簡と恣意的な紹介に変質したりしています。

 あるいは『旧唐書』では、「倭国伝」(九州王朝)と「日本国伝」(大和朝廷)の書き分け(地勢や歴史、人名等あきらかな別国表記)がなされているという古田先生の指摘に対しても、真正面から反論せず、「古代中国人が間違った」などという恣意的な解釈(物語)で済ませています。

 『隋書』イ妥国伝(「イ妥」は「大委」の当て字か)の阿蘇山の噴火記事や、天子の名前が阿毎多利思北孤(男性)であり、大和の推古天皇(女性)とは全く異なり、両者は別の国であるという古田先生の指摘を40年以上も彼らは無視しています。

 考古学の立場から、太宰府の条坊造営が国内最古であることを精緻な調査から示唆された井上信正説が、九州王朝説(太宰府は九州王朝の首都)と整合するというわたしからの主張に対しても沈黙したままです。(注)

 こうした実証性や客観性に基づく反証が、「反知性主義者」には「無効」という佐藤さんの指摘に改めて衝撃を受けたのですが、それならばわたしたち古田学派はなにをなすべきでしょうか。そのヒントも佐藤さんの『「知」の読書術』にありました。(つづく)

(注記)わたしは列島内の条坊都市の歴史として、九州王朝の首都・太宰府条坊都市が7世紀初頭(九州年号の倭京元年・618 年)の造営、次いで九州王朝の副都・難波京(前期難波宮)条坊が7世紀中頃以降の造営、そして7世紀末に大和朝廷の「藤原京」条坊が造営されたと考えています。井上信正説では太宰府条坊と「藤原京」条坊が共に7世紀末頃の造営と理解されているようです。


第792話 2014/09/25

所功『年号の歴史』を読んで(4)

 所さんは『二中歴』所収「年代歴」に見える「古代年号」(九州年号)を信頼できないとして、鎌倉時代末期の僧侶等による偽作とされたのですが、信頼できないとする理由は次のようなことでした。
 『二中歴』所収「年代歴」の九州年号記事の末尾に次の記述があり、その「只有人伝言」を「九州年号はただ人が言い伝えている」と解し、九州年号は確かな出典や根拠が不明な言い伝えにすぎず、信頼できないとされたのです。

 「已上百八十四年、年号卅一。代〃不記年号。只有人伝言。自大宝始立年号而已。」(句読点は所さんによる。17頁)

 この末尾の一行を所さんは「公式の年号は大宝よりはじめて立てられた」と理解されたのです。和風漢文ですので、こうした訓みも不可能ではありませ んが、逆に「大宝より始めて年号を立てたとするのは、ただ人の言い伝えにあるのみ」という訓みも考えられるのです。したがって、どちらの訓みが妥当かは 『二中歴』全体から編者の認識を読みとる必要があります。
 たとえば『二中歴』「第一 人代歴」の継体天皇の細注に「此時年号始」(この時に年号が始まる)とあり、「年代歴」に記されている最初の古代年号「継体」が継体天皇の時代に始まったと記しているのです。古代年号の最初の「継体」は元年干支が丁酉と記されており、その年は西暦517年で継体天皇の11年にあたり、まさに継体天皇の時代に相当します。
 『二中歴』「第七 官職歴」冒頭にも「孝徳天皇大化五年始置百官八省」とあり、『日本書紀』の「大化」年号が記されています。ここでも『二中歴』編者は「大宝」以前に年号があったと認識しているのです。
 このように『二中歴』編者は、「大宝」以前に「年代歴」の古代年号が実在したと認識しているのです。ですから、「只有人伝言。自大宝始立年号而已。」は 「大宝より始めて年号を立てたとするのは、ただ人の言い伝えにあるのみ」という訓みのほうが『二中歴』編者の認識に対応した訓みとなるのです。(つづく)


第791話 2014/09/24

所功『年号の歴史』を読んで(3)

 所さんは『二中歴』の成立時期に対する誤解から、九州年号の「出揃い(偽作)」時期を鎌倉末期とされ、平安時代の史料には存在しないとされています。しかし、「洛中洛外日記」618話「『赤渕神社縁起』の九州年号」などにおいて、わたしは平安時代に成立した『赤渕神社縁起』(兵庫県朝来市赤淵神社蔵)に九州年号の「常色元年」「常色三年」「朱雀元年」が記されていることを紹介しました。こうした史料の存在も所さんはご存じなかったようです。
 現存の『赤渕神社縁起』は書写が繰り返された写本ですが、その成立は「天長五年丙申三月十五日」と記されていますから、828年のことです(天長五年の干支は戊申。丙申とあるのは誤写誤伝か)。
 なお、古田先生が紹介された『続日本紀』神亀元年十月条(724)の聖武天皇詔報に見える九州年号「白鳳」「朱雀」を所さんは九州年号とは見なされていません。「白鳳」「朱雀」も『二中歴』に見える「古代年号」に含まれているのですから、九州年号が成立の早い史料に見えないとするのは不当です。(つづく)


第790話 2014/09/23

所功『年号の歴史』を読んで(2)

 所さんは『年号の歴史』において、九州年号を仏教僧侶・関係者による偽作とし、その時期は鎌倉時代末期には出揃ったとされています。次の通りです。

 「私は、「善記」以下三十あまりの「古代年号」が出揃った時期は、もう少し古く鎌倉末期ころとみて差し支えない(けれどもそれ以上に遡ることはむずかしい)と考えている。」(16頁)
 「“古代年号”の創作者は、おそらく鎌倉時代(末期)の僧侶か仏教に関係が深い人物と推測して大過ないと思われる。」(27頁)

 このような所さんの見解の根拠は、『二中歴』所収「年代歴」に見える「古代年号」が最も成立が古いとされ、その『二中歴』の成立を鎌倉末期と理解されたことによるようです。

 「周知のごとく、『二中歴』は、平安後期(天治~大治〔一一二四~三〇〕ごろ)成立の『掌中歴』と『懐中歴』とをもとにしながら、新しく大幅に増訂した類聚辞典で、文中に後醍醐天皇を「今上」と記しているから、一応その在位年間(文保二年〔一三一八〕から延元四年〔一三三九〕まで)に成立したとみてよいが、その後数代約一世紀の追記が認められる。」(16頁)

 しかし、これは所さんの誤解で、現存『二中歴』には後代における追記をともなう再写の痕跡があり、その再写時期の一つである鎌倉末期を成立時期と勘違いされているのです。現存最古の『二中歴』写本のコロタイプ本解説(尊経閣文庫)にも、『二中歴』の成立を鎌倉初頭としています。
 したがって「年代歴」に収録されている「古代年号」(九州年号)は遅くとも鎌倉初期あるいは平安時代には「出揃った」と言わなければならないはずなので す。このような所さんの史料理解の誤りが、九州年号偽作説の「根拠」の一つとなり、その他の九州年号偽作説論者は所さんの誤解に基づき古田説を批判する、 あるいは無視するという学界の悲しむべき現状を招いているのです。


第789話 2014/09/22

所功『年号の歴史』を読んで(1)

「洛中洛外日記」775話で所功編『日本年号史大事典』の「建元」と「改元」について批判し、 古田先生の九州年号説に対して「学問的にまったく成り立たない」(15頁)と具体的説明抜きで切り捨てられていることを紹介しました。他方、同じく所功著の『年号の歴史〔増補版〕』(雄山閣、平成二年・1990年)では古田先生の九州年号説に対する批判が展開されています。

 所さんの九州年号説批判は古田説の根幹である九州王朝説には正面から検証するのではなく、そこから展開された九州年号に「焦点」を当て、その出典が信用できないというものです。その上で、次のように批判されています。

「もしもその“古代年号”(九州年号のこと。古賀注)が、ごくわずかでも六~七世紀の金石文なり奈良・平安時代の文献などに見出されるならば、当 然検討しなければならないであろう。しかし今のところ、そのような傍証史料は皆無であり、それどころか古田氏が高く評価される中国側の史書にも“古代年号”はまったくみえず、いわば“まぼろしの「九州年号」”とでも評するほかあるまい。」(26頁)

 この文章は「昭和五十八年八月三十日稿」(1983年)とされていますから、その後の九州年号金石文や木簡の発見・研究について、所さんはご存じなかったものと思われます。拙稿「二つの試金石」(『「九州年号」の研究』所収)などで紹介してきましたが、茨城県岩井市出土の「大化五子年(699)」土器や滋賀県日野町の「朱鳥三年戊子(688)」鬼室集斯墓碑などの九州年号金石文の存在をご存じなかったようです。

 更に、芦屋市三条九ノ坪遺跡出土「元壬子年」木簡の発見に より、「白雉元年」が「壬子」の年となる『二中歴』などに記されている九州年号「白雉」が実在していたことが明白となりました。そのため、大和朝廷一元史 観の研究者たちはこの木簡に触れなくなりました。触れたとしても「壬子年」木簡と紹介するようになり、「元」の一字を故意に伏せ始めたようです。すなわち、学界はこの「元壬子年」木簡の存在が一元史観にとって致命的であることに気づいているのです。

 所さんも年号研究の大家として、これら九州年号金石文・木簡から逃げることなく、正々堂々と論じていただきたいものです。


第774話 2014/08/27

貝原益軒と九州年号

 今朝はJR北陸本線を大聖寺から福井へと向かっています。昨日、北陸地方を襲ったとテレビで報道されていた大雨も、わたしが行った先ではそれほどではありませんでした。

 今朝、ホテルでいただいた読売新聞朝刊1面のコラム「編集手帳」に、今日が江戸時代の学者貝原益軒(1630-1714)の命日と紹介されていました。貝原益軒は筑前黒田藩の学者で『養生訓』『筑前国続風土記』など多くの著書を残しました。益軒はわたしにとってとてもなじみ深い学者です。というのも、九州年号研究で貝原益軒の名前は何度も見てきたからです。
 従来から九州年号は「私年号」や「逸年号」とされてきたり、あるいは僧侶による偽作(偽年号)扱いされてきました。こうした九州年号偽作説が誰により言われてきたのかという研究を、京都大学で開催された日本思想史学会で発表したことがあるのですが、益軒の『続和漢名数』の「日本偽年号」の項に、九州年号を僧侶による偽作と学問的根拠や論証を示さず断定しています。詳細は『「九州年号」の研究』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房刊)をご覧下さい。益軒以降、現在に至るまで九州年号偽作説論者は益軒と同様に学問的論証を経ることなく、偽作説を踏襲しているようです。
 益軒の九州年号偽作論は現在の学界に影響を及ぼしているだけではなく、筑前黒田藩有数の学者である益軒の影響もあってか、九州王朝の中枢地域だった筑前の寺社縁起や地誌などから九州年号がかなり消された可能性があるのです。理屈から考えれば九州王朝の中枢領域にもっとも九州年号史料が残存していてもよさそうなのですか、管見によれば筑後や肥前・肥後と比べてちょっと少ないように思われるのです。
 九州年号研究者にとっては益軒先生も困ったことをしてくれたものだと思っています。とはいえ、今日は益軒先生の命日とのことですので、郷里の先学のご冥福をお祈りしたいと思います。


第771話 2014/08/23

納音の古形「石原家文書」

本日の関西例会には遠く埼玉県さいたま市から見えられた会員もおられました。懇親会までお付き合いいただきました。ありがたいことです。
前回に続いて、出野さんからは『説文解字』を中心とした白川漢字学の講義がありました。荻野さんは二度目の発表で、宮城県蔵王山頂にある刈田嶺(かったみね)神社の縁起などに「白鳳八年」「朱鳥四年」という九州年号が記されていることが報告されました。わたしも知らなかった九州年号使用例でした。
今回の発表で最も驚いたのが、服部さんによる熊本県玉名郡和水町で発見された納音(なっちん)付き九州年号史料(石原家文書)についての分析でした。現在流布している納音よりも、和水町の石原家文書に記された納音が古形を示しているというもので、論証も成立しており、とても感心しました。服部さんには論文として発表するよう要請しました。
8月例会の発表テーマは次の通りでした。

〔8月度関西例会の内容〕
1). 『古事記』は本当に抹殺されたのか(高松市・西村秀己)
2). 石原家文書の納音は古い形(八尾市・服部静尚)
3). 真庭市大谷1号墳・赤磐市熊山遺跡の紹介(京都市・古賀達也)
4). 香川県の「地神塔」調査報告(高松市・西村秀己)
5). 『説文解字』(奈良市・出野正)
6). 「ニギハヤヒ」を追う・番外編(東大阪市・萩野秀公)
7). 俾弥呼への贈り物(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況(10/04松本深志高校で講演、11/08八王子大学セミナー)・『古代に真実を求めて』17集発刊・坂本太郎『史書を読む』を読む・角田文衛『考古学京都学派』を読む・梅原末治博士との記憶・河上麻由子『古代アジア世界の対外交渉と仏教』・その他


第764話 2014/08/13

大分県の「日羅」伝承

 九州における「聖徳太子」伝承を伴う寺院の開基や仏像について紹介し、それらの伝承は本来九州王朝の多利思北孤や利歌彌多弗利の事績であった可能性が高いことを説明してきましたが、6世紀末頃の九州における寺院開基伝承として、「日羅」によるとされるものが少なくありません。
 日羅は『日本書紀』(敏達紀、583年に帰国)に登場する百済王に仕えた倭人ですが、その日羅が熊本県や宮崎県・大分県に多数の寺院を開基したとする伝承や史料が残っています。もっとも『日本書紀』によれば、日羅は帰国後二ヶ月で百済人から暗殺されており、その短期間で多数の寺院を建立できるはずもありません。従って、日羅による開基とされてはいるものの、歴史事実としては九州王朝内の有力者による寺院開基が『日本書紀』に記されている「日羅」によるものと、後世において書き換えられたものと思われます。もしかすると「日羅」に似た名前の人物が九州王朝内にいたのかもしれません。
 その「日羅」伝承に早くから注目されていたのが藤井綏子さん(故人)でした。藤井さんは作家として文筆活動されるかたわら、「市民の古代研究会」にも参加されていた古田ファンで、著作の中で古田説を取り上げたり、ご自身でも研究されたりしておられました。大分県久重町に住んでおられ、直接お会いすること はできませんでしたが、わたしもお手紙や著書をいただき、何かと気にかけていただきました。
 ちょうど「市民の古代研究会」の分裂騒動を経て「古田史学の会」を立ち上げたばかりの1994年6月に藤井さんから次のようなお便りが届きました。

 「古賀達也様
 こちらは山々の頂きも隠れがちな風景ですが、京都の方もはっきりしないお天気でしょうか。 ところでこの度、同封のような著書を上梓いたしました。景行説話で最も激戦地であった豊後南部について、一度よく考えてみたいと思っていたのを、実現したわけですが、あまり自信はありません。お暇な折りにでもお目 通しいただき、ご教示でも賜れるようであれば、幸せです。
 だいぶ前ですが、ご丁重なお手紙をありがとうございました。まわりに会員の方が住んでおられるでもなく、一人で山の中に居て、何がどうなっているのか、さっぱりのみこめないでいるのですが、中央?に居られると、何かと気苦労も多いのでしょうね。
 ともかく、同じようなことをやってきた(つもり?)の者として、今後のご健闘を祈ります。お体に気をつけて下さい。
       一九九四年六月三〇日  藤井綏子」

 この手紙に同封されていた著書『古代幻想・豊後ノート』(1994年4月25日刊、株式会社双林社出版部)を20年ぶりに読んでみました。その中の「日羅の影」という一節には次のような記述があります。

 「九州には、この日羅の創建と伝える寺が、あちこちに散見する。熊本の郷土史家平野雅曠氏によると、肥後には計十二、三カ寺もあるという。
 豊後にも、『豊後国誌』があげる確実なところで少なくとも五つの、日羅開基伝承の寺がある。大野郡の大恩寺、普光寺、阿西寺、大分郡の岩屋寺、海部郡の円通寺がそれである。海部郡では、もう一つ、例の端麗な臼杵石仏の寺が満月寺で、鶴峰戊申の前掲『臼杵小鑑拾遺』はこの寺にも日羅を開山とする縁起があったことを紹介している。」

 藤井さんが注目されたように、「日羅」や「日羅伝承」は九州王朝史研究にとって重要なテーマと思われるのです。


第762話 2014/08/09

『肥前叢書』の

「聖徳太子」伝承

 昭和12年に肥前史談会により発行された『肥前叢書』(昭和48年復刻版)によれば、肥前の寺院に「聖徳太子」御作とされる仏像に関する記事が散 見されます。おそらく九州王朝の天子、多利思北孤か太子の利歌彌多弗利に関わる仏像記事が、後世に「聖徳太子」伝承に置き換えられたものと推察されます。 そうであれば、作られたのは仏像だけではなく寺院も建立されたはずです。同書によれば次のような「聖徳太子」関連記事があります。

○勝楽寺
 「新庄の里勝軍山勝楽寺本尊は阿弥陀如来の尊僧聖徳太子の御作也」

○桐野山
 「桐野山妙覺寺は聖武天皇の勅願行基菩薩の開基、本尊は大悲観世音菩薩即ち行基の御作也、又護摩堂の本尊は太聖不動明王聖徳太子の御作也」

○黒髪山
 「黒髪山大権現、本地薬師如来の三尊聖徳太子の御作也」

○圓應寺
 「武雄圓應寺、本尊は聖観音の座像也、薩捶聖徳太子の御作、利生無双の霊像也」

 こうした「聖徳太子」伝承を持つ寺院や仏像は、本来は多利思北孤か利歌彌多弗利に関わるものであれば、7世紀初頭頃に肥前の地でも九州王朝による寺院が少なからず建立された可能性をうかがわせます。これもまた土器や瓦などの考古学的出土による編年研究が必要です。


第761話 2014/08/08

『肥後国誌』の

  寺社創建伝承

 「洛中洛外日記」757話において、7世紀前半における寺院の「九州の空白」 問題を指摘しました。考古学的痕跡からの指摘でしたが、九州の現地伝承を記した史料には7世紀前半以前における創建伝承を持つ寺院の存在が少なからず見え ます。たとえば平野雅曠著『倭国王のふるさと 火ノ国山門』(平成8年、熊本日日新聞情報文化センター)には『肥後国誌』に見える次の寺社創建記事を紹介されています。ちなみに、平野氏(故人)は「古田史学の会」草創期の会員で、古田学派における熊本の重鎮でした。

○山鹿郡中村手永 久原村の一目神社
 「当社ハ継体帝善記四年十一月四日高天山ノ神主祭之」(善記四年:525年)

○山鹿の日輪寺
「俗説ニ当寺ハ敏達天皇ノ御宇、鏡常三年百済国日羅大士来朝ノ時、当国ニ七伽藍ヲ建立スル其一ニテ、初メ小峰山日羅寺ト称シ法相宗ナリ」(鏡常三年:583年。『二中歴』では「鏡當」)

○上益城郡鯰手永 小池村の項
 「常楽寺飯田山大聖院  ・・・。寺記ニ云。推古帝ノ御宇、吉貴年中、聖徳太子ノ建立ト云伝ヘ・・・」(吉貴年中:594~600年。『二中歴』では「告貴」)

○下益城郡砥用手永 甲佐平村の項
 「福成寺亀甲山  ・・・。推古帝ノ御宇吉貴元年、湛西上人ノ開基。」(吉貴元年:594年。『二中歴』では「告貴」)

 このように熊本県北部に6世紀の寺社創建伝承が分布しており、中でも「聖徳太子建立」伝承から、多利思北孤の時代の創建伝承が「聖徳太子」伝承に置き換えられていることがわかります。おそらくこの山鹿や益城地方は『隋書』国伝に記された阿蘇山の噴火を見た隋使の行路で はないかと考えられます。
 6世紀末の吉貴(告貴)年間の創建であれば、法隆寺若草伽藍創建と同時期にあたりますから、その時代の瓦や土器が出土すれば、考古学的証拠と史料が一致し、九州王朝における寺院創建の可能性が高まります。地元の皆さんで現地調査や考古学的発掘調査報告書を調べていただければありがたいと思います。


第759話 2014/08/04

『菊水史談会会報』第20号

先月、熊本県玉名郡和水町の菊水史談会事務局の前垣芳郎さんから、同会会報第20号が送られてきました。それには、本年五月にわたしが同地で講演した記事が掲載されていました。同記事中には「古田史学の会」ホームページの「洛中洛外日記」も紹介されていました。ありがたいことです。
同会会長の有江醇子様からのお手紙も同封されており、講演へのお礼が記されてありました。お手紙によると、「会報」第20号が菊水地区の熊本日々新聞の折り込みとして7月17日の朝刊と一緒に各家庭へ配達されたとのこと。すごい取り組みですね。
有江さんは「九州の古代は倭国の本拠地であったというお話に、私どもは驚きと誇りをいただきました。空白の4~6世紀と言われる現在の日本史を一日も早く復元し、日本の正史に取り上げていただけることを祈っております。」と記されており、恐縮しています。
このように、九州の各地で古田史学・九州王朝説が確実に浸透していることがわかります。これからも各地の団体や研究者と連絡を取り合い、協力して古田史学の啓蒙宣伝を進めていきたいと願っています。


第729話 2014/06/17

7月5日(土)、
松山市で講演します済み

 今朝は新幹線で東京に向かっています。今週は週末まで東京と山形で仕事です。

 往復の車中の読書用に京都駅構内の本屋さんで『イシューからはじめよ 知的生産の「シンプルな本質」』(安宅和人著)を買い、読んでいます。最新 のビジネス理論などを勉強するのに、東京行き新幹線は時間的にピッタリです。名古屋出張では京都から36分で到着しますので、読書には短すぎて不適です。 うっかりして名古屋で下車せずに、新横浜駅まで行ってしまいそうですから。
 著者の安宅和人さんはマッキンゼーで消費者マーケティングを担当されたコンサルタントであると同時に、脳神経科学の学位も持つという、珍しい経歴の持ち 主です。ですから、同書には脳神経科学の知見も紹介しながら「問題解決力」について記されており、読者を飽きさせない工夫をこらした、なかなかの好著で す。
 本書は「イシュー」の定義として、

(A)2つ以上の集団の間で決着のついていない問題
(B)根本に関わる、もしくは白黒がはっきりしていない問題

 この両方の条件を満たすものと定義付け、まず最初にこのイシューを見つけることがビジネス速度(知的生産性)をあげるための要点であることが繰り返し強調されています。
 わたしもこの意見に共感できます。ビジネスでもそうですが、古代史研究においても研究テーマを設定する際に、わたしは上記のABを意識してきました。た とえば、前期難波宮遺構について一元史観内でも決着が付いていませんし、九州王朝説の立場からも解決できない問題(なぜ大宰府政庁よりもはるかに大規模な のか)を含んでいました。しかも枝葉末節ではなく、九州王朝の宮殿か孝徳天皇の宮殿かという根本的な対立点となるテーマでした。
 九州年号の「大長」についても同様で、『二中歴』のように「大長」がなく「大化」を最後の九州年号とする史料と、「大長」を最後の九州年号とする史料が対立しており、古田学派内でも決着がついていませんでした。
 二倍年暦もそうです。釈迦や弟子等の超高齢、ギリシア哲学者の超高齢、エジプトのファラオの超高齢、周王朝の天子の超高齢など、古代人は長生きだったとか、古代文献の年齢は信用できないという安直な「判断」で済まされ、本質的な解決に至っていないテーマでした。
 このように、わたしは「より本質的な選択肢=カギとなる疑問」を研究テーマにしたいと願ってきましたし、現実にそうしました。ですから、著者の安宅さんのご意見には共感するところが多いのです。
 ということで、7月5日(土)に松山市で行う講演(「古田史学の会・四国」主催)では、こうした本質的テーマを中心に、わかりやすく九州年号史料についてお話しする予定です。演題は「九州年号史料の出現と展望」です。ぜひ、お越しください。

 ようやく東京駅に着きました。これから八重洲のブリジストン美術館に併設されているティールーム・ジョルジェットでランチにします。