九州年号一覧

第718話 2014/05/31

「告期の儀」と九州年号「告貴」

 テレビで高円宮家典子さんと出雲大社宮司千家国麿さんのご婚約のニュースを拝見していますと、皇室の婚姻行事の「告期の儀」について説明がなされていました。お婿さんの家から女性の家へ婚姻の日程を告げる儀式のことだそうです。古代にまで遡る両旧家のご婚儀に古代史研究者として感慨深いものがあります。

 その「告期」という言葉から、わたしは九州年号の「告貴」(594~600)を連想してしまいました。婚姻の期日を告げるのが「告期」であれば、九州年号の「告貴」は「貴を告げる」という字義ですから、九州王朝の天子・多利思北孤の時代(594年)に告げられた「貴」とは何のことだったのだろうかと考え込んでしまいました。改元して「告貴」と年号にまでしたのですから、よほど貴い事件だったに違いありません。

 この年に何か慶事があったのだろうかと『日本書紀』(推古2年)を見ても、それらしい記事は見えません。その前年には四天王寺造営記事がありますが、そのことと「告貴」とが関係するようにも思えません。

 漢和辞典で「貴」の字義や用語を調べてみますと、「貴主:天子の娘」というのがあり、多利思北孤の娘か息子(利歌彌多弗利)の誕生を記念しての改元ではないかと考えました。もちろん確かな根拠があるわけではありませんが、作業仮説(思いつき)として提案したいと思います。なお、利歌彌多弗利の生年を 577年とする説を「『君が代』の『君』は誰か — 倭国王子『利歌彌多弗利』考」(『古田史学会報』34号、1999年10月)等で発表したことがありますので、こちらもご参照ください。

 もう一つ注目すべき記録があることに気づきました。九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)の告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」の「国分寺(国府寺)建立」記事です。

 「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)

 もし、この『聖徳太子伝記』の記事が九州王朝系史料に基づいたもので、歴史事実だとしたら、「告貴」とは各国毎に国府寺(国分寺)建立せよという 「貴い」詔勅を九州王朝の天子、多利思北孤が「告げた」ことによる改元の可能性があります。そう考えると、『日本書紀』の同年に当たる推古2年条の次の記事の意味がよくわかります。

 「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」

 『日本書紀』推古2年条はこの短い記事だけしかないのですが、この佛舎建立の詔こそ、実は九州王朝による「国府寺」建立詔の反映ではないでしょうか。

 「告期の儀」の連想から、「九州王朝による国分寺建立」という思いもかけぬところまで展開してしまいました。これ以上の連想は学問的に「危険」ですので、今回はここで立ち止まって、もっとよく考えてみることにします。若いお二人のご多幸をお祈りいたします。


第717話 2014/05/31

『五行大義』の「納音」

 熊本県和水(なごみ)町で発見された「石原家文書」の「納音(なっちん)付き九州年号史 料」により、わたしは「納音」というものを知ったのですが、それがいつの時代にどこで成立したのかはわかりませんでした。インターネットや関連書籍の説明 では中国の唐代には成立していたようなのですが、出典などが不明で今一つ確信が持てませんでした。そのような中、服部静尚さん(古田史学の会・会員、八尾市)から隋代の書籍『五行大義』に「納音」に関する記述があることを教えていただきました。
 『五行大義』巻第一に、次のような書き出しで「納音」についての説明が見えます。

「第四、納音の数を論ず
 納音の数は、人の本命の属する所の音を謂(い)ふなり。」(以下略)

 以下、「木火土金水」などと関連付けながら難渋な説明が続くのですが、たとえば「山頭火」などの「納音」の冒頭の二文字「山頭」とかについては記述がありません。従って、今日見るような「納音」とは趣が異なるようです。
 明治書院のホームページにある説明によれば、『五行大義』5巻の編者は蕭吉で、「先秦時代から隋までの五行説を集め、組織的に整理、分類した書物。伝来の歴史は古く、『続日本紀』や日本国見在書目録にも載せられ、多くの鈔本が伝えられている。日本文学や平安貴族文化に多大な影響を与えたほか、陰陽道の教科書的存在にもなった。」とあります。
 服部さんから教えていただいた『五行大義』を手がかりに、引き続き「納音」の調査を行っていきます。


第709話 2014/05/15

和水町「石原家文書」余滴

熊本県和水(なごみ)町の前垣芳郎さんの御厚意により、大量の「石原家文書」を二日間に わたり拝見せていただきました。そのおり、同文書の中から前垣さんから面白い「書き付け(紙片)」を紹介されました。それは「大化」から江戸時代までの年数を計算した「メモ書き」でした。私の知識では判読不明な字があり、誤読もあるかもしれませんがご紹介します。

「大化?年より安永四年迄
大化より天正四年迄
九百三十年成
天正四年より安永四年迄
?百年成
々千百三十年成
安永五年より安政二年迄
八十年成」

(古賀注)
1). 「より」は変体仮名。
2). 5行目の?は、計算上では「二」だが、そのようには見えない。「弐」の異体字かもしれない。
3). 6行目の「々」は「合」かもしれない。

大意は「大化」(『日本書紀』の「大化」で、元年は645年)から天正・安永・安政までの年数を計算したもので、西暦にすると次のようです。

大化元年  645年
1576-645=年931年
天正四年 1576年
1775-1576=199年
安永四年 1775年
1855-1775=80年
安政二年 1855年

紙片の前後に別の文があったのかどうかは不明ですが、「安政二年」という幕末の年号が記されていますので、この史料の成立は安政二年(1855)以後です。おそらくは安政二年かその数年後までの成立ではないでしょうか。
ただ、大化元年から安政二年までの年数を計算するのであれば、途中の天正や安永は必ずしも必要ではありませんから、もしかすると一旦は天正四年時点で計算した史料があり、その史料に基づいて安永四年に追加算した史料が成立し、更にその「安永四年」史料に基づき安政二年を起点に再計算し、全てを同一筆跡で書写されたものが、当史料ではないかと推測しています。そのように考えると、冒頭の「大化?年より安永四年迄」という計算に不要な一行の意味が理解できそうです。すなわち、「天正四年」史料に基づいて「安永四年」に計算したときの「表題」という位置付けが可能となるのです。そして、安政二年時点ではその安永四年時点の表題も含めて再書写したものと思われます。
しかし、この史料性格はよくわかりません。玉名郡の庄屋さんが何の必要があって、大化からの年数を計算するのでしょうか。恐らくこの史料の性格や目的がわかれば、石原家という庄屋の真の姿や「納音(なっちん)」付き九州年号史料の性格もわかるのではないでしょうか。こうした謎の解明も古文書調査(歴史研究)の醍醐味です。

納音(なっちん)年代計算資料

納音(なっちん)年代計算資料


第708話 2014/05/11

隋使の来た道

 和水町の講演で、『隋書』によれば倭国に来た隋使は阿蘇山の噴火を見ており、そのためには江田船山古墳に見られるような有力者がいた和水町まで来た可能性があると述べました。そして、隋使が来たのは7世紀初頭の九州年号の時代であることから、当地域に残された九州年号による記録や伝承を調査していただきたいと締めくくりました。
 そうしたら、質疑応答のさいに会場から「自宅の近くにある阿蘇神社の記録に『告貴』という年号が記されているが、それが九州年号であったことがよくわかりました。」という発言がありました。「告貴」は6世紀末(594~600年)の九州年号であり、『隋書』に記された九州王朝の天子、多利思北孤の時代の年号です。
 多利思北孤の事績は、後代において『日本書紀』の影響を受けて、近畿天皇家の「聖徳太子」に置き換えられて伝承されている例が多く(法隆寺の釈迦三尊像 など)、熊本県(下益城郡、『肥後国誌』)の九州年号に「聖徳太子」伝承に伴ったものがあることや、熊本県に「天子宮」という名称の神社が濃密に分布していることも(古川さんの調査による)、九州王朝の多利思北孤との関係をうかがわせるものです。
 このように考えてみると、6世紀末から7世紀初頭にかけて、九州王朝は肥後に一拠点をおいたのではないかと、わたしは考えています。例えば菊池城なども そうした背景と影響下に造営されたように思われるのです。また、九州王朝の宮廷雅楽である筑紫舞の「翁」も、「肥後の翁」が中心になって構成されていると聞いていますので、このことも九州王朝と肥後との関係の強さがうかがえるものでしょう。
 九州王朝研究において、筑前・筑後・肥前に比べて、肥後の研究はまだまだ不十分です。和水町での講演や、「納音」付き九州年号史料の発見を良い機会として、当地の皆さんによる調査研究を心から願っています。わたしもまた当地を再訪問したいと思ってします。


第707話 2014/05/10

続・「九州年号」の王朝

 「九州年号」が九州の権力者により制定された年号であることを示す史料として、古写本「九州年号」という出典史料名や『二中歴』の「九州年号」記事細注の他に、隣国史書の『旧唐書』(945年成立)があります。
 「洛中洛外日記」第590~594話で連載した「『旧唐書』の倭国と日本国」でも詳述しましたが、『旧唐書』には「倭国伝」と「日本国伝」が別国として記録されています。その地勢表記から、倭国は九州島を中心とする国であり、日本国は本州島にあった国であることがわかります。そして、唐と倭国との交流記事の最後は倭国伝では貞観22年(648)、唐と日本国との最初の国交記事は日本国伝には長安3年(703)とあり、両者の日本列島代表王朝の地位の交代は648~703年の間にあると考えられます。そして、『二中歴』記載の九州年号の最後「大化6年(700)」と近畿天皇家の最初の年号(建元)である大宝元年(701)が、その期間に入っていることからも、「九州年号」の王朝が『旧唐書』に記録された倭国であることは明白です。
 このように「九州年号」と近畿天皇家の年号(大宝~平成)の関係と、『旧唐書』の「倭国伝」と「日本国伝」の関係が見事に対応しているのです。すなわち隣国史書『旧唐書』の記事が示していることも、「九州年号」は九州王朝(倭国)の年号であるということなのです。(つづく)


第706話 2014/05/09

「九州年号」の王朝

 「洛中洛外日記」第705話『「改元」と「建元」の論理性』で記しましたように、和水町での講演会で近畿天皇家以前に「九州年号」を公布した王朝があったとする論理性(理由)を説明しました。次いで、その王朝がどこにあったのかについて次のように説明しました。
 『二中歴』などに記された古代年号が「九州年号」と呼ばれてきた事実こそが、それらの年号が九州の権力者によって公布されたことを意味します。たとえば、江戸時代の学者、鶴峯戊申が書いた『襲国偽僭考』に九州年号が紹介され、古写本「九州年号」によったと出典を記しています。
 また、『二中歴』の九州年号部分の「細注」の考察からも、この九州年号記事部分が北部九州で成立したことがうかがわれます。それは「倭京二年(619)」に「難波天王寺を聖徳が造る」という天王寺(大阪市の四天王寺)建立記事と、「白鳳」年間に「観世音寺を東院が造る」という太宰府観世音寺建立記事の比較分析です。観世音寺には地名がなく、天王寺には難波という地名が付記されていることから、こられの記事は、太宰府の観世音寺のことを「観世音寺」だけでそれと理解できる地域で成立したことがわかります。すなわち、北部九州で成立した記事であり、読者も同じく北部九州の人々を想定しているわけで す。
 他方、天王寺のほうは「難波」と地名を付記しなければ、遠く離れた大阪の天王寺であることが、北部九州の読者には特定できないから、地名を付記した表記になったわけです。このように、九州年号記事の細注の分析からも、これら「九州年号」記事が北部九州で成立したことが推定できます。このことも、『二中歴』に記された「九州年号」が、九州で成立したことを指示しているのです。(つづく)


第705話 2014/05/07

「改元」と「建元」の論理性

 熊本県和水(なごみ)町での講演会で「九州年号」を紹介するにあたり、まず最初に説明したのは「改元」と「建元」についてでした。
 講演を聴きに来られた皆さんやわたしの世代は、日本最初の年号を「大化」(645年)と学校で習ったはずです。「大化の改新」の「大化」です。ところがその「大化」年号や「大化の改新」を記した『日本書紀』には、天豊財重日足姫天皇(皇極天皇)の四年を改めて大化元年とする(孝徳天皇即位前紀)とあり、 王朝が初めて年号を制定する際の「建元」ではなく、なんと「改元」記事なのです。
 それでは大和朝廷(近畿天皇家)にとって最初の年号制定を意味する「建元」記事はどこにあるかといえば、『続日本紀』の文武天皇大宝元年三月条(701年)にあります。
 「建元して大宝元年としたまう。」(『続日本紀』)
 『日本書紀』も『続日本紀』も近畿天皇家が自らの歴史を、自らの利益のために、自らが編纂記録したものであり、自らに有利になるように記事を「修正・改竄・捏造」することはあっても、不利になるような変更はしないはずです。年号においても同様で、645年に「大化」年号を建元したのであればそう記すはずで、「改元」記事に変更する必要はまったくありません。同様に、701年に「大宝」年号を建元したと自ら主張しているのですから、これもまた嘘をつく必要はありません。すなわち、近畿天皇家は正直に「大化」は「改元」で、「大宝」は「建元」と主張していると考えざるを得ないのです。
 そうすると当然のこととして、一つの王朝にとって「建元」は最初の一回だけで、後は「改元」しかありません。近畿天皇家にとっての「建元」が701年の 「大宝」建元であれば、『日本書紀』に記された「大化(645~649年)」「白雉(650~654年)」「朱鳥(686年)」の3年号はいずれも「改元」と記されていることから、近畿天皇家以外の王朝が、近畿天皇家の「建元」よりも以前に、それらの年号を公布・改元していたと考えざるを得ません。これ が「改元」と「建元」の論理性なのです。
 『日本書紀』に改元記事として記されている「大化」「白雉」「朱鳥」は、『二中歴』などに見える「九州年号」中にありますので、「九州年号」は近畿天皇家以外の王朝が、近畿天皇家よりも以前に「建元」「改元」した年号であることは、上記の論理的帰結なのです。わたしのこの説明に、和水町の皆さんは深く同意され、「九州年号」というものをご理解していただけたようでした。(つづく)


第704話 2014/05/05

『隋書』と和水(なごみ)町

 昨日の和水町での講演会の演題は「『九州年号』の古代王朝」で、副題は「阿蘇山あり、その石、火起こり天に接す。『隋書』」でした。九州年号を発布した古代王朝こそ、『隋書』イ妥国伝に記された阿蘇山のある「九州王朝」であることを、講演の結論としたのですが、今回、初めて江田船山古墳がある和水町を訪問し、『隋書』イ妥国伝に記された風物がこの地に存在していることを確信したのです。
 『隋書』には倭国(九州王朝)について次のような記事があります。わかりやすく、順不同で列挙します。

1.阿蘇山あり、その石、故なくして火起こり天に接す。
2.葬に及んで屍を船上に置き、陸地これを牽(ひ)くに、或いは小輿を以てす。
3,二百余騎を従えて郊労せしむ。
4,小環を以て「慮鳥」「茲鳥」(ろじ)の項にかけ、水に入りて魚を捕らえしめ、日に百余頭を得る。

 1.の記事から九州王朝に来た隋の使者は阿蘇山を実見し、その噴火をリアルに記しています。「その石、故なくして火起こり天に接す」という表現は、活火山が無い中国の中原の人々にとっては驚きを持って受け止めた見事な文章ではないでしょうか。そこで、和水町の方にお聞きしたところ、和水町の山からは阿蘇山が見えるとのこと。わたしの実家の久留米市からは山に登っても阿蘇山は見えませんから、隋使は和水町まで行った可能性は小さくないと思われます。
 次に2.の葬儀の様子ですが、屍を船に乗せるという倭国の風習もまた、隋使にとって珍しい風習と受け止められ、記録に残されたものでしょう。この記事と対応するように、江田船山古墳がある清原(せいばる)古墳群の松坂古墳・首塚古墳・京塚古墳などに「舟形石棺」があります。さらには玉名市の石貫穴観音横穴墓内にも、ご遺体の安置台(側面)がゴンドラ型の石造物であり、まさに『隋書』の記事に対応した埋葬状況が見られるのです。わたしは前垣芳郎さん(菊水史談会事務局)と高木正文さん(当地の考古学者)のご案内により、横穴墓内のゴンドラ型の石造物を見たとき、先の『隋書』の一節を思いだし、その一致に驚 きました。
 3,の記事から、倭国は騎馬隊を持っていたことがわかりますが、高木さんのご説明では玉名地方の古墳から馬の骨が出土するとのこと。江田船山古墳からも 鉄製の鐙(あぶみ)・轡(くつわ)・馬具片が出土しています。有名な銀象嵌鉄刀(国宝)にも見事な馬の象嵌があります。こうしたことから、この地域では少なくとも古墳時代には馬が飼われていたことがわかります。この「馬」や「騎馬」の一致も、『隋書』と和水町を結びつけるものでしょう。
 最後に4.の鵜飼いの記事ですが、筑後川では今でも原鶴で鵜飼いが続けられていますし、矢部川でも江戸時代には鵜飼いが盛んであったことが『太宰管内誌』などの地誌に見えます。和水町を流れる菊池川には鮎はいるそうですが(今でも鮎釣りは盛んとのこと)、鵜飼いの風習はないそうです。ところが、先に紹介した江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀の「馬」の象嵌の裏面に「魚」と「鳥」の象嵌があることが発見されていたことを、わたしは今回の訪問で知りました。高木さんや前垣さんの御厚意によりいただいた『菊水町史 江田船山古墳編』(平成19年発行。菊水町は合併により現在では和水町になっています。)のカラー写真を確認したところ、「鳥」のくちばしの先が下に曲がっており、この「鳥」は鵜である可能性が高いのです。少なくとも、「魚」と一緒に描かれていること から「水鳥」と見るのが自然な理解です。また、「鳥」の首が長いことも「鵜」と見ることを支持していますし、首のあたりに「輪」とも見える象嵌が施してあり、鵜飼いの際に付ける「輪」のようにも思われるのです。
 以上、4点にわたり、『隋書』の記事と和水町の文物との一致を確認してきたのですが、これほどの一致は偶然と見るよりも、隋使がこの地を訪問した根拠とするに十分な傍証と思われるのです。(つづく)


第703話 2014/05/04

和水町での講演会、盛況!

 本日、熊本県玉名郡和水(なごみ)町で講演を行いました。当地の菊水史談会主催、和水町教育委員会後援によるもので、「『九州年号』の古代王朝」というテーマを発表しました。ゴールデンウィーク中にもかかわらず、100名以上の参加者で会場はほぼ満席でした。他府県からも参加されていたとのことで、今回発見された「納音(なっちん)」付き九州年号史料(石原家文書)への関心の深さがうかがわれました。
 和水町の福原秀治町長も見えられ、町をあげての熱意が感じられました。和水町の人口は一万人ほどとのことでしたので、100名以上の参加者はかなりのも のでしょう。久留米地名研究会の古川さんや荒川恒光さんらも見えられ、ご協力していただきました。
 わたしは昨日、当地に入ったのですが、希望していた江田船山古墳や横穴墓群の見学もできました。当地の考古学者、高木正文さんや前垣芳郎さん(菊水史談会事務局)のご案内により、大変勉強になり、多くの発見にも恵まれました。
 発見された「石原家文書」も二日間にわたり拝見させていただきました。主に寶暦年間から明治時代までの文書で、一部には大正時代のものもありました。当地の有力な庄屋だった石原家の文書らしく、出納帳や証文、渡し船関係の文書などが多数ありました。他方、神仏への起請文や願文、73年分の「伊勢暦」、そ して書簡や「恋文」のようなものも見えました。変わったところでは、「砲術入門」関連書簡もありました。未整理や未発見の文書が長持一杯にあるとの情報も あり、今後の調査が期待されます。それにしても、これだけの大量の文書が、よく保管されていたものだと驚きました。
 私自身も発見の連続で、講演会でも報告させていただきました。前垣さんを始め、当地の関係者の皆様に御礼申し上げます。

YouTubeに「納音菊水九州年号」古賀達也として掲載


第702話 2014/04/30

菊水史談会「会報」19号

 熊本県玉名郡和水(なごみ)町の菊水史談会「会報」19号が、同会事務局の前垣芳郎さんから送られてきました。前垣さんは和水町の「石原家文書」の中に「納音(なっちん)」付き九州年号史料があることを発見された方です。
 同会報にはその九州年号史料発見のいきさつと、同史料が「古田史学の会」ホームページで紹介されて有名となり、全国各地から研究者の来訪ラッシュとなっていることが紹介されています。同九州年号史料の写真も掲載されており、地元でも有名になることでしょう。和水町の「宝」にしていただきたいと願っていま す。
 また、古田先生が九州年号や九州王朝説を提唱したことも紹介されています。5月3日にはわたしも当地を訪れ、「石原家文書」を見せていただけることに なっています。翌4日には菊水史談会主催・和水町教育委員会後援により、「『九州年号』の古代王朝」というテーマで講演させていただきます。和水町のみなさんに、わかりやすく古田史学・九州王朝説や九州年号を説明させていただく予定です。わたしもとても楽しみにしています。


第701話 2014/04/27

ONライン(701年)の画期

 読者の皆様やHP運営担当の横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人、東大阪市)のおかげで、「洛中洛外日記」も701話を迎えることができました。感謝申し上げます。そこで、701話にふさわしいテーマについて触れることにします。
 ご存じのように、古田先生は九州王朝(倭国)から近畿天皇家(日本国)への王朝交代の画期点として、701年を重視され、「ON(オーエヌ)ライン」と 命名されました。「ON」とは「オールド・ニュー」のイニシャルです。旧王朝から新王朝への交代年をこのように表現されたのですが、その主たる根拠は次の ような点でした。

1,『二中歴』などに見える九州年号は700年(大化6年)で終わり、701年からは近畿天皇家の最初の年号「大宝」が「建元」されます。『続日本紀』には大宝を「改元」ではなく、初めての年号制定を意味する「建元」と記されており、大宝が近畿天皇家最初の年号であることは明白です。
2,藤原宮出土木簡などから、700年までは行政単位は「評」であり、701年からは一斉に「郡」に変更されています。
3,『旧唐書』に見える「倭国伝」と「日本国伝」の記事は、倭国から日本国への政権交代が701年とする古田説と整合します。

 以上のような、文献(九州年号)と考古学的史料事実(木簡)、そして外国史料(『旧唐書』)などの一致を根拠に、王朝交代の画期点を701年とされました。わたしもこの古田説に賛成です。
 ところが、この10年間ほどで九州王朝研究は進展し、王朝交代の実体が複雑なものであることも判明してきました。例えば、九州年号は701年以後も継続しており、「大化」は703年まで続き、その後「大長」が712年までの9年間続いていたことがわかりました。そのため、701~712年の間は近畿天皇家と九州王朝がそれぞれ年号を持って併存していた可能性が出てきました。その間の九州王朝の実体はまだよくわかりませんが、701年に単純な王朝交代が行われたのではないようです。今後の九州王朝史研究の課題です。


第687話 2014/04/01

和水(なごみ)町「石原家文書」

調査と講演案内

 納音(なっちん)付き九州年号史料が発見された熊本県玉名郡和水(なごみ)町を5月の連休に訪問することになりました。みかん箱二箱分にも及ぶという「石原家文書」を見せていただけるということで、とても楽しみにしています。40代の頃、青森県五所川原市の「和田家文書」調査以来の本格的な古文書調査となりますので、歴史研究者としての血が騒ぎます。調査結果は、6月15日(日)に開催予定の「古田史学の会」会員総会記念講演で報告させていただきます。

 5月3日に和水(なごみ)町に入り、「石原家文書」を見せていただき、翌4日(日)の午後に当地で講演させていただきます。和水町のみなさまにお会いできることも、楽しみにしています。おそらく『隋書』に記されたように、倭国を訪問した隋使の一行は、阿蘇山の噴火を見ていますから、和水町あたりまで訪れたのではないでしょうか。講演では当地のみなさんに古田先生の九州王朝説と九州年号についてご説明させていただきます。詳細は次の通りです。多くの皆さんのご参加をお待ちしています。

講師 古賀達也(古田史学の会・編集長)

演題 「九州年号」の古代王朝

   -阿蘇山あり、その石、火起り天に接す-『隋書』

日時 5月4日(日)13:30~

会場 和水町中央公民館

   熊本県玉名郡和水町江田3883-1

   電話 0968-86-2022

   ※九州縦貫自動車道菊水インターから車で5分

    和水町町役場南隣(駐車場無料)

主催 菊水史談会(問い合わせ先 090-3787-4460 前垣様)

参加費 100円(資料代等)

YouTubeに「納音菊水九州年号」古賀達也として掲載