九州年号一覧

第627話 2013/12/01

「学問は実証よりも論証を重んじる」(6)

 京都御所の木々も紅葉し、京都は最も美しい季節を迎えています。拙宅前の銀杏並木も見事に黄葉し枯れ葉となり舞い散り、冬の気配も感じさせてくれます。

 「元壬子年」木簡と「大化五子年」土器の研究における実証と論証の関わりについて説明してきましたが、これらとは異なり、論証のみが成立し、その後に実証が「後追い」するというケースもありました。「学問は実証よりも論証を重んじる」という言葉が最も際立つケースと言えますが、自然科学では少なからずこのような事例が見られます。たとえば、物理学の相対性理論などはアインシュタインの論理的考察から生まれた「論証」であ り、それまでのニュートン力学による実験データ(実証)からは生まれない理論でした。近年の例ではヒッグス粒子の発見が有名です。ヒッグス博士により約 50年前にその存在が「予言」されていたのですが、科学実験によりヒッグス粒子の存在が確認(実証)されたのはつい最近のことでした。このように直接証拠などの実証を伴わないまま論証が先行して成立するケースが学問にはあるのです。

 わたしもこのようなケースを経験したことがあります。最後にこの経験について紹介します。それは九州年号「大長」の研究のときのことでした。(つづく)


第626話 2013/11/30

「学問は実証よりも論証を重んじる」(5)

 観察の結果、確認した「大化五子年」という直接証拠(一次史料)に基づく「実証」結果と、『二中歴』などの後代史料(二~三次史料)を史料根拠として成立したそれまでの九州年号論の「論証」結果が一致しない今回の場合、とるべき学問的態度として、わたしは次の三つのケースを検討しました。
 第一は、これまでの九州年号論(主に史料批判や論証に基づく仮説体系)を見直し、「大化五子年」土器に基づいて九州年号原型論を再構築する。第二は、「大化五子年」土器が誤りであることを論証する。第三は、これまでの九州年号論と「大化五子年」土器の双方が矛盾なく成立する新たな仮説をたて論証する。 この三つでした。
 一緒に「大化五子年」土器を調査した安田陽介さんが主張されたのが第一の立場で、後代史料よりも同時代金石文や同時代史料に立脚して九州年号原型論を構築すべきというものでした。これは歴史学の方法論として真っ当な考えですが、わたしはこの立場をとりませんでした。何故なら、他の九州年号金石文(鬼室集 斯墓碑銘「朱鳥三年戊子」など)や『二中歴』を中心とする九州年号群史料の史料批判の結果、成立し体系化されてきた、それまでの九州年号論の優位性は簡単には崩れない、覆せないと判断していたからでした。
 第二の立場もまた取り得ませんでした。同土器が地元の考古学者により7世紀末から8世紀初頭のものと編年されており、同時代金石文であることを疑えなかったからです。また、「同時代の誤刻」(古代人が干支を一年間違って記した)とする、必要にして十分な論証も不可能と思ったからです。
 その結果、わたしがとった立場は第三のケースを史料根拠に基づいて論証することでした。そして結論として、「大化五子年」土器が出土した地域では、九州王朝中枢で使用されていた暦とは干支が一年ずれた別の暦が使用されていたとする史料根拠に基づいた仮説を提起、論証したのでした。詳しくは『「九州年号」 の研究』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房刊)所収の拙論「二つの試金石 — 九州年号金石文の再検討」をご参照ください。
 この「大化五子年」土器のケースのように、同時代金石文という直接証拠を検証したうえでの「実証」と、それまでの「論証」がたとえ対立していたとしても、「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡先生の言葉を貫くことが、いかに大切かをご理解いただけるのではないでしょうか。「論証」を重視したからこそ、古代日本における「干支が一年ずれた暦の存在」という新たな学問的視点(成果)を得ることもできたのですから。(つづく)


第625話 2013/11/26

「学問は実証よりも論証を重んじる」(4)

 「洛中洛外日記」第624話で紹介した「元壬子年」木簡(九州年号の「白雉元年壬子」、652年)の事例は、実証(文字判読結果)そのものの不備・誤りを、学問的論証結果を重視したために実施した再調査により発見できたという、比較的わかりやすいケースでした。その意味では「足利事件」も、論理的に考えて冤罪であるとする弁護団の主張が受け入れられ、科学技術が進歩した時点でDNA再鑑定したことにより、当初の鑑定の誤りを発見できたのであり、よく似たケースといえます。
 しかし、「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡先生の言葉を理解するうえで、わたしはもっと複雑な学問的試練に遭遇したことがありました。今回はそのことについて紹介します。
 それは「大化五子年」土器の調査研究の経験です。茨城県岩井市から江戸時代(天保九年、1838年)に出土した土器に「大化五子年二月十日」という線刻文字があり、地元の研究者から専門誌に発表されていました。学界からは無視されてきた土器ですが、古田先生は九州年号「大化」が記された本物の同時代金石文ではないかと指摘されていました(『日本書紀』の大化五年(649)の干支は「己酉」で、その大化年間(645~649)に「子」の年はない)。
 ところが、九州年号史料として最も原型に近いと考えていた『二中歴』によれば、大化五年(699)の干支は「己亥」で、「子」ではありません。翌年の700年の干支が「庚子」であり、干支が1年ずれていたのです。もし、この土器が同時代金石文であり、「大化五子年」と間違いなく記されていたら、『二中歴』の九州年号を原型としてきたこれまでの九州年号研究の仮説体系や論証が誤っていたということになりかねません。そこでわたしは1993年の春、古田先生・安田陽介さんと共に茨城県岩井市矢作の冨山家を訪問し、その土器を見せていただき、手にとって観察しました。
 観察の結果、「子」の字が意図的な磨耗によりほとんど見えなくなっていることがわかりました。おそらく、『日本書紀』の大化五年の干支「己酉」とは異なるため、出土後に削られたものと思われました。しかしよく見ると、かすかではありましたが、「子」の字の横棒が残っており、やはり「子」であったことが確認できました。この土器は同地域の土器編年により、7世紀末頃のものとされていることから、まさに同時代金石文なのです。そうした第一級史料が『二中歴』 などの後代史料と異なっているため、同時代史料を優先するという歴史学の方法論からすれば、従来の九州年号研究による諸仮説や論証が間違っていたことにな るのです。すなわち、ここでも「大化五子年」土器という「実証」結果が、それまでの九州年号論という「論証」結果と対立したのです。(つづく)


第619話 2013/11/09

「宇佐八幡文書」の九州年号

 正木裕さんが『日本書紀』史料批判の新手法「34年遡上説」を駆使して、九州王朝史の解明に果敢に取り組んでおられることは、何度も紹介してきたところですが、わたしも20年以上前から九州王朝系史料の探索と分析により、九州王朝史復元に取り組んできました。中でも、「宇佐八幡文書」中に多くの九州王朝系伝承が含まれていることに気づき、一部は研究論文として発表してきましたが、大部分は史料批判や分析が困難で、未発表のままとなっています。そこで、その未発表史料について紹介し、古田学派研究者による解明や作業仮説の提起を促したいと思います。
 「宇佐八幡文書」や京都の「石清水八幡文書」に共通して見える不思議な伝承記事があります。それは、九州年号の「善記元年(522)」に八幡大菩薩が唐(当時は南朝の梁か北朝の魏)から日本に帰ってきて、その後生まれた四人の子供たちとともに日本を統治した、という伝承です。たとえば次の通りです。

 「香椎宮縁起云、善記元年壬寅、従大唐八幡大菩薩日本還給」
 「又善記元年記云、大帯姫従大唐渡日本」
 (『八幡宇佐宮御託宣集』第一巻)

 「善記元年壬寅、従大唐八幡大菩薩(私云、香椎御事也、)渡日本」
 (『八幡宇佐宮御託宣集』第十五巻)

「以善記元年壬丑(寅の誤写か:古賀)、従大唐八幡大菩薩日本渡給」
 (『石清水八幡宮史料叢書』2、高橋啓三編)

 わたしの知るところでは、以上の「八幡宮史料」にこの伝承記事が見えるのですが、その内容から北部九州(香椎宮)が舞台であり、「八幡大菩薩」と称される人物が「唐」より帰国して、日本の統治者になったというものです。おそらくは弥生時代の人物「大帯姫」の伝承と混同されて伝わった史料もありますが、九州年号「善記元年(522)」の事件として記録されていますから、「八幡大菩薩」が九州王朝の王であれば、当時の倭王「筑紫君磐井」その人の伝承と考えるべきかもしれません。
 史料的限界があり、決定的な論証は今のところ困難ですが、もし筑紫君磐井の伝承であれば、磐井は「唐(梁か北魏)」から帰国し、倭王に即位して、九州年号を「継体」から「善記」に改元したことになります。引き続き史料探索を進め、仮説を構築する必要があります。それにしても、不思議な伝承記事です。


第618話 2013/11/04

『赤渕神社縁起』の九州年号

 『赤渕神社縁起』に九州年号の「常色元年」「常色三年」「朱雀元年」が記されていることは既に紹介してきたところですが、実はこの史料事実が持つ重要な論理性を見落とすところでした。わたしにとって、九州年号の実在性は、あまりにも当然でわかりきったことでしたので、 うっかり大切なことに気づかずにいました。このことについて説明します。
 現存の『赤渕神社縁起』は書写が繰り返された写本ですが、その成立は「天長五年丙申三月十五日」と記されていますから、828年のことです(天長五年の干支は戊申。丙申とあるのは誤写誤伝か)。従って、『日本書紀』成立(720)以後に記された縁起です。もちろん、九州年号を含む記事の原史料の成立はおそらく7世紀にまで遡ることでしょう。そのため、『赤渕神社縁起』には『日本書紀』の影響下で編纂された痕跡が当然のこととして見られます。たとえば7世紀の出来事であっても、行政単位は「評」ではなく、「郡」で表記されています。「丹後国与佐郡」「丹波天田郡」「養父郡」「朝来郡」などです。天皇の名前も「神武天皇」「孝徳天皇」「皇極天皇」「斉明天皇」といったように、『日本書紀』成立以後につけられた漢風諡号が用いられています。
 こうしたことは、天長五年成立の文書であれば、当然ともいえる現象なのですが、それなら何故九州年号の「常色」が記されたのでしょうか。『日本書紀』にはこの常色元年(647)に当たる年は「大化三年」とされていますし、常色三年(649)は「大化五年」であり、わざわざ九州年号の常色を使用しなくても、『日本書紀』にある「大化」を使用すればよかったはずです。しかし、『赤渕神社縁起』には、年号については九州年号の常色が使用されているのです。
 この史料事実は、『赤渕神社縁起』編纂に当たり引用した元史料には九州年号の常色が既に書かれていたことを意味します。もし、元史料が干支のみの年代表記であれば、そのとおりの干支を用いるか、『日本書紀』にある「大化」を使用したはずで、わざわざ九州年号などで記す必要性はありません。ということは、 天長五年時点に九州年号「常色」による元史料があったことを意味するのです。近畿天皇家一元史観の通説では、九州年号は鎌倉・室町時代以降に僧侶により偽作されたものとしているのですが、828年に成立した『赤渕神社縁起』に記された九州年号「常色」の存在は、この通説を否定する論理性を有しているのです。この論理性を、わたしは見過ごすところでした。
 もともと、九州年号偽作説には学問的根拠がなく、論証の末に成立した仮説ではありません。いうならば、近畿天皇家一元史観というイデオロギー(戦後型皇国史観)により、論証抜きで「論断」された非学問的な「仮説(憶測)」に過ぎなかったのです。したがって、わたしが提起した「元壬子年」木簡(九州年号の白雉元年壬子、652年。芦屋市三条九ノ坪遺跡出土)についても全く反論できず、無視を続けています。こうした、九州年号偽作説(鎌倉・室町時代に僧侶が偽作したとする)を否定する論理性を『赤渕神社縁起』の九州年号「常色」は有していたのです。
 また、九州年号には「僧聴」「和僧」「金光」「仁王」「僧要」などのように仏教色が強い漢字が用いられていることから、僧侶による偽作と見なされてきたのですが、実際の史料状況は『赤渕神社縁起』のように、寺院よりも神社関連文書に多く九州年号が見られます。こうした点からも、九州年号偽作説がいかに史料事実に基づかない非学問的な「仮説」であるかは明白なのです。


第613話 2013/10/20

表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の「鬼」

 天長5年(828)成立の『赤渕神社縁起』に見える、九州年号「常色元年(647)戦闘」に記された「鬼神」「悪魔」「悪鬼」が新羅でなければ、その正体は何だったのでしょうか。このことを検討・考察してみました。
 まず『日本書紀』を読みなおしてみました。すると常色元年に相当する孝徳紀大化三年(647)七月条に「渟足(ぬたり)柵を造りて、柵戸を置く。」とい う記事が見え、翌大化四年是歳条には「磐舟柵を造りて、蝦夷に備ふ。遂に越と信濃との民を選びて、始めて柵戸を置く。」とあります。岩波文庫『日本書紀』の注によれば、渟足(ぬたり)柵は新潟県新潟市沼垂、磐舟柵は新潟県村上市岩船のことと説明されています。これらの記事から、常色元年頃に倭国と蝦夷国は緊張関係にあったことがうかがえます。「柵」を造り「柵戸」(柵を防衛する屯田兵)を新潟に配置しているのですから、現実的な蝦夷国からの脅威にさらされていたと思われます。
 他方、同じ『日本書紀』孝徳紀大化三年(647)七月条には新羅から金春秋の来倭記事がありますし、翌年の是歳条には「新羅、使を遣して貢調(みつぎた てまつ)る。」とあり、両者の関係は親密です。こうした『日本書紀』の史料事実から考えてみますと、『赤渕神社縁起』の「常色元年戦闘」伝承で表米宿禰が戦った「鬼」とは、新羅ではなく蝦夷ではないでしょうか。斉明紀になると倭国による「蝦夷討伐」記事が現れますが、おそらく倭国からの侵略・攻撃だけではなく、蝦夷国からの倭国への攻撃・侵略もあったはずです。そうでなければ新潟に「柵」が造られたりはしないでしょう。こうした理解が正しければ、『赤渕神社縁起』に見える「常色元年戦闘」伝承こそ、蝦夷国による丹後への侵入と交戦の貴重な現地伝承だったことになります。
 以上、史料批判と分析から導き出された仮説ですが、是非とも現地を訪問し、より詳しい調査を行いたいと思います。また、丹後以外にも日本海側に蝦夷国との交戦伝承が残っている可能性もありそうです。今後の楽しみな研究テーマです。


第611話 2013/10/18

表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の真相

 天長5年(828)成立の『赤渕神社縁起』に見える、九州年号「常色元年(647)」に行われた「新羅」との丹後における交戦記事ですが、実は次のような表現となっています。

「(常色元年二月)十八日、丹後国与謝郡白糸浜而立向給、鬼神聞之引退海上。表米得力集数千艘船為悪魔降伏。悪鬼取返起悪風波立」「而責戦給、新羅難叶而引退。表米乗勝進給」「新羅退治」「常色元年九月三日、怱平悪鬼」(「、」「。」は古賀による付記)

 このように常色元年に丹後に攻めてきたのは、冒頭では「鬼神」「悪魔」「悪鬼」と記され、その後に「新羅」になり、最後は「悪鬼」でこの戦闘伝承は終わります。こうした史料状況から、常色元年(647)の戦闘伝承は本来「鬼」と表現されていたものが、天長五年(828)の 『赤渕神社縁起』編集時の歴史認識(720年成立の『日本書紀』の歴史観)により「新羅」が付加されたのではないでしょうか。
 なぜなら、もし常色元年の戦闘の相手が新羅であったのなら、この有名な隣国である「新羅」の表記で最初から戦闘伝承が語られたはずで、わざわざ抽象的な 「鬼神」「悪魔」「悪鬼」などと表記伝承する必然性が低いからです。むしろ、攻めてきた異賊が何者かわからない、あるいはよく知られていない異様な侵入者だったから、「鬼神」「悪魔」「悪鬼」という表現で伝承記録されたのではないでしょうか。
 それではこの常色元年に丹後半島に侵入した「鬼神」「悪魔」「悪鬼」とは何者でしょうか。検討と考察を続けてみましょう。(つづく)


第610話 2013/10/17

表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の謎

 朝来市の『赤渕神社縁起』に見える、九州年号「常色元年(647)」に行われた「新羅」との丹後における交戦記事について「洛中洛外日記」で紹介しましたが、その頃の倭国(九州王朝)と新羅の関係は『日本書紀』によれば良好で、特に戦争状態にあったことはうかがえません。そのため、「洛中洛外日記」第606話において、「群書類従」の『群書系図部集 第六』(系図部六十七)に収録されている「日下部系図」に「養父郡大領(評督か)。天智天皇御宇異賊襲来時。為防戦大将。賜日下部姓。於戦場。被退怱異賊。」とある記事を根拠に、この新羅との戦闘記事は「常色元年」ではなく、天智天皇の頃の事件(唐・新羅連合と倭国の戦争)のことであれば理解できると述べました。
 ところが、森茂夫さんから送られてきた『赤渕神社縁起』には「常色元年(647)」の出来事として新羅との戦闘記事が詳述されています。しかも、表米宿禰伝承の中心記事として記されており、やはり「常色元年」の出来事と理解せざるを得ないことが判明しました。「日下部系図」に記された「天智天皇の時」とする記述は、後代において「常色元年」での新羅との交戦記事を不審とした系図編纂者により、『日本書紀』の認識に基づき、書き加えられた(伝承の改変)と思われるのです。少なくとも、系図よりもはるかに成立が早い『赤渕神社縁起』(天長5年成立・828年)の記事が史料批判の結果から優先されます。すなわち、現代や後代の認識に基づいて、史料を改変したり理解してはならないという、文献史学(古田史学)の原則がここでも試されているのです。
 それでは「常色元年(647)」の新羅との交戦記事は何だったのでしょうか。その真相に迫りたいと思います。(つづく)


第607話 2013/10/12

実見、『赤渕神社縁起』(活字本)

 「洛中洛外日記」第604話で、『赤渕神社縁起』を実見したいと書き、「浦島太郎」の御子孫も日下部氏を名乗っていたことを改めて紹介したのですが、なんとその御子孫の森茂夫さん(京丹後市在住)から、『赤渕神社縁起』をはじめとする「赤渕神社文書」の釈文(当地の研究者により活字化されたもの)の写真ファイルが送られてきました。森さんも九州年号が記されている史料として『赤渕神社縁起』に注目され、現地でこの縁起の活字本を写真撮影されたとのこと。わたしの「洛中洛外日記」でのお願いが、こうも早く実現でき感謝感激しています。森さん、ありがとうございます。
 その写真によれば『赤渕神社縁起』は複数あり、最も古いものは天長五年に成立したものの写本で、再写が繰り返されています。より古い『赤渕神社縁起』写本(赤渕神社縁起1)には九州年号の常色元年(647)、常色三年(649)、朱雀元年(684)が記されていますが、再写の過程で、それら九州年号を不審として、表米の没年「朱雀元年甲申三月十五日」が『日本書紀』に見える「朱鳥元年丙戌三月十五日」(686)に書き換えられている現象も見られました (赤渕神社縁起2)。
 このような史料状況てすので、どの史料が最も史実を伝えているのかを判断する作業、すなわち史料批判がまず必要です。しかも、天長五年成立の『赤渕神社縁起』も、既に改変されている可能性が高く、記事の内容ごとの個別の史料批判も必要と思われ、かなり困難な作業になりそうです。これから少しずつ、その史料批判の成果を報告していきたいと思います。まずはしっかりと読み込んでいきます。(つづく)


第606話 2013/10/06

「日下部氏系図」の表米宿禰と九州年号

 「洛中洛外日記」第604話で紹介しました「表米宿禰」伝承について、追跡調査をしましたので御報告します。
 表米宿禰の子孫が日下部氏を名乗っているとのことなので、「群書類従」の『群書系図部集 第六』(系図部六十七)に収録されている「日下部系図」と「日下部系図別本 朝倉系図」(以下「別本」と記します)を調べてみたところ、「表米」という人物について記録されていました。「日下部系図」では孝徳天皇の孫(有馬皇子の子供)として「表米」が記されており、「別本」では孝徳天皇の子供で、有馬皇子の弟として「表米」が記されています。その記された年代から判断すると、「別本」にあるように孝徳天皇の子供の世代としたほうがよいようです。もっとも、本当に孝徳天皇の子孫であったのかどうかは不明です。何らかの理由があり、後代において近畿天皇家の子孫として系図が創作された可能性が大きいのではないでしょうか。
 「日下部系図」には「表米」について次のように記されています。( )内は古賀による注です。

「養父郡大領(評督か)。天智天皇御宇異賊襲来時。為防戦大将。賜日下部姓。於戦場。被退怱異賊。朱雀元年甲申(684、九州年号)三月十五日卒。朝来郡久世田荘賀納岳奉祝表米大明神。」

 九州年号の「朱雀」が使用されていることが注目されます。赤渕神社縁起では「常色元年」(647)に新羅と交戦したとあるようですが、ここでは「天智天皇御宇異賊襲来時。」とありますから、これが正しければ九州王朝と唐・新羅連合軍との交戦(白村江戦など)の時期ですから、年代的にはよくあいます。
 「別本」では「日下部表米」とあり、次のように記されています。

 「難波ノ朝廷。戊申年(648、常色二年)養父郡(評)ノ大領(評督か)ニ補佐(任か)セラル。在任三年。」

 難波朝廷の戊申年(648、常色二年)に養父評の評督に任命されたことか記されていますが、この時期こそ「難波朝廷天下立評給時」に相当します。なお、 表米には子供が二~三人あり、長男の「都牟自」も「難波朝廷癸丑(653、白雉二年)養父郡(評)補任少領(助督か)。」と記され、己未年(659、白雉 八年)に大領(評督)に転じたと記されています。「都牟自」の没年は「癸未歳死(683、白鳳二十三年)」とありますから、父の「表米」よりも一年早く没したことになります。
 両系図の記録をまとめると、「表米」の年表は次のようになります。

648(常色二年)養父評の評督に就任。
653(白雉二年)長男の都牟自が養父評助督に就任。
659(白雉八年)長男の都牟自が評督に転任。
662頃 襲来した異賊(新羅か)と交戦し勝つ。この功績により「日下部」姓をおそらく九州王朝から賜る。
683(白鳳二十三年)長男の都牟自没。
684(朱雀元年)表米、三月十五日没。

 おおよそ以上のようになりますが、「日下部系図別本」はその後も天文二年(1533)まで続いていることから、当地には御子孫が今でも大勢おられるのではないでしょうか。
 以上の追跡調査の結果から、赤渕神社縁起の「表米宿禰」伝承は歴史事実と考えられ、白村江戦頃に新羅軍が丹後まで来襲し、表米が防戦し勝利したことも歴史事実を反映した伝承の可能性が高いのではないでしょうか。また、九州王朝による7世紀中頃の「難波朝廷天下立評」により、表米も養父評督となり、その子孫が評督職を引き継いだこともわかりました。
 疑問点として残ったのは、なぜ「表米」が孝徳天皇の孫や子供とされたのかということです。本当に孝徳の子孫だったのか、九州王朝の当時の天子(正木説に よれば伊勢王)の子孫だったのか、あるいは後世における全くの創作だったのか、今後の研究課題です。いずれにしても、九州年号「常色」「朱雀」付きの現地伝承・系図ですから、とても貴重です。まさに現地伝承恐るべし、です。


第604話 2013/10/03

赤渕神社縁起の「常色元年」

 このところ「洛中洛外日記」も史料批判など、やや理屈ぽいテーマが続きましたので、今回は息抜きに九州年号付きの面白そうな地方伝承を紹介します。
 「洛中洛外日記」第602話で 紹介した『粟鹿大神元記』(あわがおおかみげんき)の活字本の所在調査のためインターネット検索をしていたら、粟鹿神社が鎮座する兵庫県朝来市に赤渕神社という神社があり、その縁起書に九州年号の「常色元年」(647)が記されているとの記事がありました。それによると、御祭神の一人で表米宿禰命という人物に関する伝承があり、常色元年に丹後に攻めてきた新羅の軍船を表米宿禰が迎え討ち、勝利したというものです。表米宿禰命は孝徳天皇の第二皇子という伝承 もあるようで、当地の日下部氏の祖先とのことです。
 『日本書紀』にはこのような名前の皇子は見えませんし、この時期に新羅との交戦をうかがわせるような記事もありません。倭国(九州王朝)と新羅の関係が悪化するのは、もう少し後のことですので、何とも不思議な伝承なのです。しかも九州年号の「常色元年」とする具体的な年次を持つ伝承ですから、何の根拠もない創作や誤記誤伝とも思えません。もしかすると九州王朝の王族に関する伝承ではないかとも想像しています。
 表米宿禰命が現地氏族の日下部氏の祖先とされていることも気にかかります。というのも、九州王朝の天子の家系と思われる高良大社の祭神、高良玉垂命の子孫が日下部氏(草壁氏。後に稲員〔いなかず〕を名乗り、現在に至っています)を名乗っているからです。偶然の一致かもしれませんが、何とも気になる伝承で す。ちなみに、丹後半島の「浦島太郎」の御子孫も「日下部」を名乗っています(「洛中洛外日記」第58話「浦島太郎は『日下部氏』」をご参照ください)。
 是非とも同縁起書を実見したいと願っています。どなたか、現地調査をしていただければ有り難いのですが。


第600話 2013/09/28

九州年号「大長」史料の性格

 文献史学の研究で、まず最初に行う作業が「史料批判」という、その史料性格の調査検証です。簡単に言えば、その史料が誰によりいつ頃どのような目的や利害関係に基づいて書かれたのかを検証する作業です。それにより、その史料の記述内容がどの程度信頼できるのかを判断します。不正確な、偽られた史料を根拠に仮説や論を立てると、不正確で誤ったものになるので、史料を見極める眼力といえる「史料批判」は文献史学の基礎的で重要な作業なのです。
 たとえば九州年号が記された史料の場合、古田学派内でも史料批判抜きで「九州王朝系」と判断されているケースが見られますが、九州年号があるからといっても、その記事が九州王朝系のものとは限らないケースがあります。たとえば近畿天皇家の年号が無い時代、700年以前の記録を後世になって編集する場合、 『二中歴』など九州年号が記された「年代記」類を参考にして九州年号を追記して記事の暦年を特定するというケースも考えられます。したがって九州年号とともに記録された記事が、元々から九州年号により記録されたものか、後世に編集されたときに九州年号が付記されたものかを判断する作業、すなわち史料批判が必要となるのです。
 ところが『伊予三島縁起』に見えるような「大長」年号記事の場合、九州王朝系記事の可能性が論理的にかなり高くなります。それは次の理由からです。最後の九州年号である「大長」は元年が704年(慶雲元年)、最終年の九年は712年(和銅五年)で、すでに近畿天皇家の年号が存在している期間です。ですから後世に編集する場合、近畿天皇家の年号が採用されるはずで、最後の九州年号「大長」をわざわざ使用しなければならない理由がありません。それにもかかわ らず「大長」で暦年が特定されているということは、王朝交代後の701年以後でも九州年号を使用する人々、すなわち九州王朝系の人々により記録された可能性が高くなるのです。
 この場合、注意しなければならないことがあります。『二中歴』以外の九州年号群史料には700年以前に「大長」が移動されて記録されているケースが多 く、その移動された「大長」を使用して、後世の編纂時に700年以前の記事として「大長」年号とともに記録されている場合は、本来の九州王朝系記事ではない可能性が高くなります。『伊予三島縁起』のように701年以後の記事として「大長」が記されているケースとは異なりますので、この点について注意が必要です。
 こうした視点から『伊予三島縁起』を見たとき、「大長」年号とともに記された記事は九州王朝系記事とみなすべきとなり、その他の九州年号記事も本来の九州王朝系記事に基づかれたものとする理解が有力となるのです。従って、『伊予三島縁起』の原史料を記した人々、合田洋一さんがいうところの「越智国」は九州王朝との関係が深い地域ということになり、王朝交代後も九州年号「大長」を使用していたと考えられます。すなわち、大長九年(712)時点でも近畿天皇家の「和銅五年」ではなく、九州王朝の「大長九年」を使用するということは、近畿天皇家よりも九州王朝を「主」とする大義名分に越智国は立っていたことを指示していると思われます。こうした史料事実は、8世紀初頭の日本列島の状況を研究するうえで貴重なものと考えられます。
 同様に、701年以後の記事として「大長」が使用されている『運歩色葉集』の「柿本人丸」の没年記事「大長四年丁未(707)」も九州王朝系記事と見なされ、柿本人麿が九州王朝系の人物(朝廷歌人)であったとする古田説を支持する史料なのです。この他にも「大長」が記された史料がありますので、もう一度精査したいと思います。

(追記)プロ野球で楽天ゴールデンイーグルスがリーグ優勝しました。わたしは楽天ファンではありませんが、心から祝福したい気持ちです。球団誕生時のいきさつから思うと、本当に強いチームになったものです。絶対にあきらめない強い心を保ち、古田史学を世に認めさせると、楽天の優勝を見て決意を新たにしました。本当におめでとうございます。