九州年号一覧

第618話 2013/11/04

『赤渕神社縁起』の九州年号

 『赤渕神社縁起』に九州年号の「常色元年」「常色三年」「朱雀元年」が記されていることは既に紹介してきたところですが、実はこの史料事実が持つ重要な論理性を見落とすところでした。わたしにとって、九州年号の実在性は、あまりにも当然でわかりきったことでしたので、 うっかり大切なことに気づかずにいました。このことについて説明します。
 現存の『赤渕神社縁起』は書写が繰り返された写本ですが、その成立は「天長五年丙申三月十五日」と記されていますから、828年のことです(天長五年の干支は戊申。丙申とあるのは誤写誤伝か)。従って、『日本書紀』成立(720)以後に記された縁起です。もちろん、九州年号を含む記事の原史料の成立はおそらく7世紀にまで遡ることでしょう。そのため、『赤渕神社縁起』には『日本書紀』の影響下で編纂された痕跡が当然のこととして見られます。たとえば7世紀の出来事であっても、行政単位は「評」ではなく、「郡」で表記されています。「丹後国与佐郡」「丹波天田郡」「養父郡」「朝来郡」などです。天皇の名前も「神武天皇」「孝徳天皇」「皇極天皇」「斉明天皇」といったように、『日本書紀』成立以後につけられた漢風諡号が用いられています。
 こうしたことは、天長五年成立の文書であれば、当然ともいえる現象なのですが、それなら何故九州年号の「常色」が記されたのでしょうか。『日本書紀』にはこの常色元年(647)に当たる年は「大化三年」とされていますし、常色三年(649)は「大化五年」であり、わざわざ九州年号の常色を使用しなくても、『日本書紀』にある「大化」を使用すればよかったはずです。しかし、『赤渕神社縁起』には、年号については九州年号の常色が使用されているのです。
 この史料事実は、『赤渕神社縁起』編纂に当たり引用した元史料には九州年号の常色が既に書かれていたことを意味します。もし、元史料が干支のみの年代表記であれば、そのとおりの干支を用いるか、『日本書紀』にある「大化」を使用したはずで、わざわざ九州年号などで記す必要性はありません。ということは、 天長五年時点に九州年号「常色」による元史料があったことを意味するのです。近畿天皇家一元史観の通説では、九州年号は鎌倉・室町時代以降に僧侶により偽作されたものとしているのですが、828年に成立した『赤渕神社縁起』に記された九州年号「常色」の存在は、この通説を否定する論理性を有しているのです。この論理性を、わたしは見過ごすところでした。
 もともと、九州年号偽作説には学問的根拠がなく、論証の末に成立した仮説ではありません。いうならば、近畿天皇家一元史観というイデオロギー(戦後型皇国史観)により、論証抜きで「論断」された非学問的な「仮説(憶測)」に過ぎなかったのです。したがって、わたしが提起した「元壬子年」木簡(九州年号の白雉元年壬子、652年。芦屋市三条九ノ坪遺跡出土)についても全く反論できず、無視を続けています。こうした、九州年号偽作説(鎌倉・室町時代に僧侶が偽作したとする)を否定する論理性を『赤渕神社縁起』の九州年号「常色」は有していたのです。
 また、九州年号には「僧聴」「和僧」「金光」「仁王」「僧要」などのように仏教色が強い漢字が用いられていることから、僧侶による偽作と見なされてきたのですが、実際の史料状況は『赤渕神社縁起』のように、寺院よりも神社関連文書に多く九州年号が見られます。こうした点からも、九州年号偽作説がいかに史料事実に基づかない非学問的な「仮説」であるかは明白なのです。


第613話 2013/10/20

表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の「鬼」

 天長5年(828)成立の『赤渕神社縁起』に見える、九州年号「常色元年(647)戦闘」に記された「鬼神」「悪魔」「悪鬼」が新羅でなければ、その正体は何だったのでしょうか。このことを検討・考察してみました。
 まず『日本書紀』を読みなおしてみました。すると常色元年に相当する孝徳紀大化三年(647)七月条に「渟足(ぬたり)柵を造りて、柵戸を置く。」とい う記事が見え、翌大化四年是歳条には「磐舟柵を造りて、蝦夷に備ふ。遂に越と信濃との民を選びて、始めて柵戸を置く。」とあります。岩波文庫『日本書紀』の注によれば、渟足(ぬたり)柵は新潟県新潟市沼垂、磐舟柵は新潟県村上市岩船のことと説明されています。これらの記事から、常色元年頃に倭国と蝦夷国は緊張関係にあったことがうかがえます。「柵」を造り「柵戸」(柵を防衛する屯田兵)を新潟に配置しているのですから、現実的な蝦夷国からの脅威にさらされていたと思われます。
 他方、同じ『日本書紀』孝徳紀大化三年(647)七月条には新羅から金春秋の来倭記事がありますし、翌年の是歳条には「新羅、使を遣して貢調(みつぎた てまつ)る。」とあり、両者の関係は親密です。こうした『日本書紀』の史料事実から考えてみますと、『赤渕神社縁起』の「常色元年戦闘」伝承で表米宿禰が戦った「鬼」とは、新羅ではなく蝦夷ではないでしょうか。斉明紀になると倭国による「蝦夷討伐」記事が現れますが、おそらく倭国からの侵略・攻撃だけではなく、蝦夷国からの倭国への攻撃・侵略もあったはずです。そうでなければ新潟に「柵」が造られたりはしないでしょう。こうした理解が正しければ、『赤渕神社縁起』に見える「常色元年戦闘」伝承こそ、蝦夷国による丹後への侵入と交戦の貴重な現地伝承だったことになります。
 以上、史料批判と分析から導き出された仮説ですが、是非とも現地を訪問し、より詳しい調査を行いたいと思います。また、丹後以外にも日本海側に蝦夷国との交戦伝承が残っている可能性もありそうです。今後の楽しみな研究テーマです。


第611話 2013/10/18

表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の真相

 天長5年(828)成立の『赤渕神社縁起』に見える、九州年号「常色元年(647)」に行われた「新羅」との丹後における交戦記事ですが、実は次のような表現となっています。

「(常色元年二月)十八日、丹後国与謝郡白糸浜而立向給、鬼神聞之引退海上。表米得力集数千艘船為悪魔降伏。悪鬼取返起悪風波立」「而責戦給、新羅難叶而引退。表米乗勝進給」「新羅退治」「常色元年九月三日、怱平悪鬼」(「、」「。」は古賀による付記)

 このように常色元年に丹後に攻めてきたのは、冒頭では「鬼神」「悪魔」「悪鬼」と記され、その後に「新羅」になり、最後は「悪鬼」でこの戦闘伝承は終わります。こうした史料状況から、常色元年(647)の戦闘伝承は本来「鬼」と表現されていたものが、天長五年(828)の 『赤渕神社縁起』編集時の歴史認識(720年成立の『日本書紀』の歴史観)により「新羅」が付加されたのではないでしょうか。
 なぜなら、もし常色元年の戦闘の相手が新羅であったのなら、この有名な隣国である「新羅」の表記で最初から戦闘伝承が語られたはずで、わざわざ抽象的な 「鬼神」「悪魔」「悪鬼」などと表記伝承する必然性が低いからです。むしろ、攻めてきた異賊が何者かわからない、あるいはよく知られていない異様な侵入者だったから、「鬼神」「悪魔」「悪鬼」という表現で伝承記録されたのではないでしょうか。
 それではこの常色元年に丹後半島に侵入した「鬼神」「悪魔」「悪鬼」とは何者でしょうか。検討と考察を続けてみましょう。(つづく)


第610話 2013/10/17

表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の謎

 朝来市の『赤渕神社縁起』に見える、九州年号「常色元年(647)」に行われた「新羅」との丹後における交戦記事について「洛中洛外日記」で紹介しましたが、その頃の倭国(九州王朝)と新羅の関係は『日本書紀』によれば良好で、特に戦争状態にあったことはうかがえません。そのため、「洛中洛外日記」第606話において、「群書類従」の『群書系図部集 第六』(系図部六十七)に収録されている「日下部系図」に「養父郡大領(評督か)。天智天皇御宇異賊襲来時。為防戦大将。賜日下部姓。於戦場。被退怱異賊。」とある記事を根拠に、この新羅との戦闘記事は「常色元年」ではなく、天智天皇の頃の事件(唐・新羅連合と倭国の戦争)のことであれば理解できると述べました。
 ところが、森茂夫さんから送られてきた『赤渕神社縁起』には「常色元年(647)」の出来事として新羅との戦闘記事が詳述されています。しかも、表米宿禰伝承の中心記事として記されており、やはり「常色元年」の出来事と理解せざるを得ないことが判明しました。「日下部系図」に記された「天智天皇の時」とする記述は、後代において「常色元年」での新羅との交戦記事を不審とした系図編纂者により、『日本書紀』の認識に基づき、書き加えられた(伝承の改変)と思われるのです。少なくとも、系図よりもはるかに成立が早い『赤渕神社縁起』(天長5年成立・828年)の記事が史料批判の結果から優先されます。すなわち、現代や後代の認識に基づいて、史料を改変したり理解してはならないという、文献史学(古田史学)の原則がここでも試されているのです。
 それでは「常色元年(647)」の新羅との交戦記事は何だったのでしょうか。その真相に迫りたいと思います。(つづく)


第607話 2013/10/12

実見、『赤渕神社縁起』(活字本)

 「洛中洛外日記」第604話で、『赤渕神社縁起』を実見したいと書き、「浦島太郎」の御子孫も日下部氏を名乗っていたことを改めて紹介したのですが、なんとその御子孫の森茂夫さん(京丹後市在住)から、『赤渕神社縁起』をはじめとする「赤渕神社文書」の釈文(当地の研究者により活字化されたもの)の写真ファイルが送られてきました。森さんも九州年号が記されている史料として『赤渕神社縁起』に注目され、現地でこの縁起の活字本を写真撮影されたとのこと。わたしの「洛中洛外日記」でのお願いが、こうも早く実現でき感謝感激しています。森さん、ありがとうございます。
 その写真によれば『赤渕神社縁起』は複数あり、最も古いものは天長五年に成立したものの写本で、再写が繰り返されています。より古い『赤渕神社縁起』写本(赤渕神社縁起1)には九州年号の常色元年(647)、常色三年(649)、朱雀元年(684)が記されていますが、再写の過程で、それら九州年号を不審として、表米の没年「朱雀元年甲申三月十五日」が『日本書紀』に見える「朱鳥元年丙戌三月十五日」(686)に書き換えられている現象も見られました (赤渕神社縁起2)。
 このような史料状況てすので、どの史料が最も史実を伝えているのかを判断する作業、すなわち史料批判がまず必要です。しかも、天長五年成立の『赤渕神社縁起』も、既に改変されている可能性が高く、記事の内容ごとの個別の史料批判も必要と思われ、かなり困難な作業になりそうです。これから少しずつ、その史料批判の成果を報告していきたいと思います。まずはしっかりと読み込んでいきます。(つづく)


第606話 2013/10/06

「日下部氏系図」の表米宿禰と九州年号

 「洛中洛外日記」第604話で紹介しました「表米宿禰」伝承について、追跡調査をしましたので御報告します。
 表米宿禰の子孫が日下部氏を名乗っているとのことなので、「群書類従」の『群書系図部集 第六』(系図部六十七)に収録されている「日下部系図」と「日下部系図別本 朝倉系図」(以下「別本」と記します)を調べてみたところ、「表米」という人物について記録されていました。「日下部系図」では孝徳天皇の孫(有馬皇子の子供)として「表米」が記されており、「別本」では孝徳天皇の子供で、有馬皇子の弟として「表米」が記されています。その記された年代から判断すると、「別本」にあるように孝徳天皇の子供の世代としたほうがよいようです。もっとも、本当に孝徳天皇の子孫であったのかどうかは不明です。何らかの理由があり、後代において近畿天皇家の子孫として系図が創作された可能性が大きいのではないでしょうか。
 「日下部系図」には「表米」について次のように記されています。( )内は古賀による注です。

「養父郡大領(評督か)。天智天皇御宇異賊襲来時。為防戦大将。賜日下部姓。於戦場。被退怱異賊。朱雀元年甲申(684、九州年号)三月十五日卒。朝来郡久世田荘賀納岳奉祝表米大明神。」

 九州年号の「朱雀」が使用されていることが注目されます。赤渕神社縁起では「常色元年」(647)に新羅と交戦したとあるようですが、ここでは「天智天皇御宇異賊襲来時。」とありますから、これが正しければ九州王朝と唐・新羅連合軍との交戦(白村江戦など)の時期ですから、年代的にはよくあいます。
 「別本」では「日下部表米」とあり、次のように記されています。

 「難波ノ朝廷。戊申年(648、常色二年)養父郡(評)ノ大領(評督か)ニ補佐(任か)セラル。在任三年。」

 難波朝廷の戊申年(648、常色二年)に養父評の評督に任命されたことか記されていますが、この時期こそ「難波朝廷天下立評給時」に相当します。なお、 表米には子供が二~三人あり、長男の「都牟自」も「難波朝廷癸丑(653、白雉二年)養父郡(評)補任少領(助督か)。」と記され、己未年(659、白雉 八年)に大領(評督)に転じたと記されています。「都牟自」の没年は「癸未歳死(683、白鳳二十三年)」とありますから、父の「表米」よりも一年早く没したことになります。
 両系図の記録をまとめると、「表米」の年表は次のようになります。

648(常色二年)養父評の評督に就任。
653(白雉二年)長男の都牟自が養父評助督に就任。
659(白雉八年)長男の都牟自が評督に転任。
662頃 襲来した異賊(新羅か)と交戦し勝つ。この功績により「日下部」姓をおそらく九州王朝から賜る。
683(白鳳二十三年)長男の都牟自没。
684(朱雀元年)表米、三月十五日没。

 おおよそ以上のようになりますが、「日下部系図別本」はその後も天文二年(1533)まで続いていることから、当地には御子孫が今でも大勢おられるのではないでしょうか。
 以上の追跡調査の結果から、赤渕神社縁起の「表米宿禰」伝承は歴史事実と考えられ、白村江戦頃に新羅軍が丹後まで来襲し、表米が防戦し勝利したことも歴史事実を反映した伝承の可能性が高いのではないでしょうか。また、九州王朝による7世紀中頃の「難波朝廷天下立評」により、表米も養父評督となり、その子孫が評督職を引き継いだこともわかりました。
 疑問点として残ったのは、なぜ「表米」が孝徳天皇の孫や子供とされたのかということです。本当に孝徳の子孫だったのか、九州王朝の当時の天子(正木説に よれば伊勢王)の子孫だったのか、あるいは後世における全くの創作だったのか、今後の研究課題です。いずれにしても、九州年号「常色」「朱雀」付きの現地伝承・系図ですから、とても貴重です。まさに現地伝承恐るべし、です。


第604話 2013/10/03

赤渕神社縁起の「常色元年」

 このところ「洛中洛外日記」も史料批判など、やや理屈ぽいテーマが続きましたので、今回は息抜きに九州年号付きの面白そうな地方伝承を紹介します。
 「洛中洛外日記」第602話で 紹介した『粟鹿大神元記』(あわがおおかみげんき)の活字本の所在調査のためインターネット検索をしていたら、粟鹿神社が鎮座する兵庫県朝来市に赤渕神社という神社があり、その縁起書に九州年号の「常色元年」(647)が記されているとの記事がありました。それによると、御祭神の一人で表米宿禰命という人物に関する伝承があり、常色元年に丹後に攻めてきた新羅の軍船を表米宿禰が迎え討ち、勝利したというものです。表米宿禰命は孝徳天皇の第二皇子という伝承 もあるようで、当地の日下部氏の祖先とのことです。
 『日本書紀』にはこのような名前の皇子は見えませんし、この時期に新羅との交戦をうかがわせるような記事もありません。倭国(九州王朝)と新羅の関係が悪化するのは、もう少し後のことですので、何とも不思議な伝承なのです。しかも九州年号の「常色元年」とする具体的な年次を持つ伝承ですから、何の根拠もない創作や誤記誤伝とも思えません。もしかすると九州王朝の王族に関する伝承ではないかとも想像しています。
 表米宿禰命が現地氏族の日下部氏の祖先とされていることも気にかかります。というのも、九州王朝の天子の家系と思われる高良大社の祭神、高良玉垂命の子孫が日下部氏(草壁氏。後に稲員〔いなかず〕を名乗り、現在に至っています)を名乗っているからです。偶然の一致かもしれませんが、何とも気になる伝承で す。ちなみに、丹後半島の「浦島太郎」の御子孫も「日下部」を名乗っています(「洛中洛外日記」第58話「浦島太郎は『日下部氏』」をご参照ください)。
 是非とも同縁起書を実見したいと願っています。どなたか、現地調査をしていただければ有り難いのですが。


第600話 2013/09/28

九州年号「大長」史料の性格

 文献史学の研究で、まず最初に行う作業が「史料批判」という、その史料性格の調査検証です。簡単に言えば、その史料が誰によりいつ頃どのような目的や利害関係に基づいて書かれたのかを検証する作業です。それにより、その史料の記述内容がどの程度信頼できるのかを判断します。不正確な、偽られた史料を根拠に仮説や論を立てると、不正確で誤ったものになるので、史料を見極める眼力といえる「史料批判」は文献史学の基礎的で重要な作業なのです。
 たとえば九州年号が記された史料の場合、古田学派内でも史料批判抜きで「九州王朝系」と判断されているケースが見られますが、九州年号があるからといっても、その記事が九州王朝系のものとは限らないケースがあります。たとえば近畿天皇家の年号が無い時代、700年以前の記録を後世になって編集する場合、 『二中歴』など九州年号が記された「年代記」類を参考にして九州年号を追記して記事の暦年を特定するというケースも考えられます。したがって九州年号とともに記録された記事が、元々から九州年号により記録されたものか、後世に編集されたときに九州年号が付記されたものかを判断する作業、すなわち史料批判が必要となるのです。
 ところが『伊予三島縁起』に見えるような「大長」年号記事の場合、九州王朝系記事の可能性が論理的にかなり高くなります。それは次の理由からです。最後の九州年号である「大長」は元年が704年(慶雲元年)、最終年の九年は712年(和銅五年)で、すでに近畿天皇家の年号が存在している期間です。ですから後世に編集する場合、近畿天皇家の年号が採用されるはずで、最後の九州年号「大長」をわざわざ使用しなければならない理由がありません。それにもかかわ らず「大長」で暦年が特定されているということは、王朝交代後の701年以後でも九州年号を使用する人々、すなわち九州王朝系の人々により記録された可能性が高くなるのです。
 この場合、注意しなければならないことがあります。『二中歴』以外の九州年号群史料には700年以前に「大長」が移動されて記録されているケースが多 く、その移動された「大長」を使用して、後世の編纂時に700年以前の記事として「大長」年号とともに記録されている場合は、本来の九州王朝系記事ではない可能性が高くなります。『伊予三島縁起』のように701年以後の記事として「大長」が記されているケースとは異なりますので、この点について注意が必要です。
 こうした視点から『伊予三島縁起』を見たとき、「大長」年号とともに記された記事は九州王朝系記事とみなすべきとなり、その他の九州年号記事も本来の九州王朝系記事に基づかれたものとする理解が有力となるのです。従って、『伊予三島縁起』の原史料を記した人々、合田洋一さんがいうところの「越智国」は九州王朝との関係が深い地域ということになり、王朝交代後も九州年号「大長」を使用していたと考えられます。すなわち、大長九年(712)時点でも近畿天皇家の「和銅五年」ではなく、九州王朝の「大長九年」を使用するということは、近畿天皇家よりも九州王朝を「主」とする大義名分に越智国は立っていたことを指示していると思われます。こうした史料事実は、8世紀初頭の日本列島の状況を研究するうえで貴重なものと考えられます。
 同様に、701年以後の記事として「大長」が使用されている『運歩色葉集』の「柿本人丸」の没年記事「大長四年丁未(707)」も九州王朝系記事と見なされ、柿本人麿が九州王朝系の人物(朝廷歌人)であったとする古田説を支持する史料なのです。この他にも「大長」が記された史料がありますので、もう一度精査したいと思います。

(追記)プロ野球で楽天ゴールデンイーグルスがリーグ優勝しました。わたしは楽天ファンではありませんが、心から祝福したい気持ちです。球団誕生時のいきさつから思うと、本当に強いチームになったものです。絶対にあきらめない強い心を保ち、古田史学を世に認めさせると、楽天の優勝を見て決意を新たにしました。本当におめでとうございます。


第599話 2013/09/22

『伊予三島縁起』にあった「大長」年号

 本日の関西例会では、古田説に基づき『「倭」と「倭人」について』を発表された張莉さんのご夫君(出野さん)を始め初参加の方もあり、盛況でした。わたしにとっての今日の例会で最大の収穫は、多摩市から参加されている齊藤政利さんにいただいた内閣文庫本『伊予三島縁起』の写真でした。九州年号史料として有名な『伊予三島縁起』原本(写本)を以前から見たい見たいと私が言っているの を齊藤さんはご存じで、わざわざ内閣文庫に赴き、『伊予三島縁起』写本二冊を写真撮影して例会に持参されたのでした。
 まだそのすべてを丁寧に見たわけではありませんが、一番注目していた部分をまず確認しました。それは「天長九年壬子」の部分です。五来重編『修験道資料集』掲載の『伊予三島縁起』には「天武天王御宇天長九年壬子」と記されており、この部分は本来「文武天皇御宇大長九年壬子」ではないかと、わたしは考え、 701年以後の九州年号「大長」の史料根拠の一つとしていました(『「九州年号」の研究』所収「最後の九州年号」をご参照下さい)。
 齊藤さんからいただいた内閣文庫の写本を確認したところ、『伊豫三島明神縁起 鏡作大明神縁起 宇都宮明神類書』(番号 和42287)には「天武天王御宇天長九年壬子」とあり、『修験道資料集』掲載の『伊予三島縁起』と同じでした。ところが、もう一つの写本『伊予三島縁起』(番号 和34769)には 「天武天王御宇大長九年壬子」とあり、「天長」ではなく九州年号の「大長」と記されていたのです。わたしが推定していたように、やはり「天長九年」は「大長九年」を不審とした書写者による改訂表記だったのです。
 「大長九年壬子」とは最後の九州年号の最終年である712年に相当します。近畿天皇家の元明天皇和銅五年に相当します。なお、「天長九年壬子」という年号もあり、淳和天皇の時代で832年に相当します。『伊予三島縁起』書写者がなぜ「天武天王御宇」と記したのかは不明ですが、九州年号「大長」が 704~712年の9年間実在したことの史料根拠がまた一つ明確となったのです。内閣文庫写本の詳細の報告は後日行いたいと思います。齊藤さんに心より感謝申し上げます。
 9月例会の報告は次の通りでした。古田史学の会・東海の竹内会長が久しぶりに出席され、報告していただきました。

〔9月度関西例会の内容〕
1). 日名照額田毘道男伊許知邇の考察(大阪市・西井健一郎)
2). 記紀の原資料と二倍年暦の形(八尾市・服部静尚)
3). 九州年号から考えた聖徳太子の伝記の系統(京都市・岡下英男)
4). 倭王武は武烈でありヒト大王だった(木津川市・竹村順弘)
5). 倭王武の時代の版図(木津川市・竹村順弘)
6). 邪馬壱国の南進(木津川市・竹村順弘)
7). ワニ氏の北方系海人族としての歴史的考察(知多郡阿久比町・竹内強)
8). 鬯草を献じたのは「東夷の倭人」か「南越の倭人」か(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・『古代に真実を求めて』16集初校・ミネルヴァ書房からの古田書籍続刊・張莉さんと古田先生の仲介・古田先生自伝刊行記念講演会の報告・古田先生八王子セミナーの案内・浄瑠璃「妹背婦女庭訓」の説明・『大神宮諸雑事記』の紹介・その他


第598話 2013/09/21

「二年」銘刻字須恵器を考える

 本日、ミネルヴァ書房主催の古田先生の自伝刊行記念講演会に行ってきました。遠くから見えられた懐かしい方々ともお会いでき、楽しい一日となりました。東京古田会の藤沢会長や多元的古代研究会の和田さん、福岡からは上城さん、埼玉からは肥沼さんも見えられ、挨拶を交わしました。
 古田先生も三角縁神獣鏡の三角縁に関する新説の発表など、お元気に講演されました。ミネルヴァ書房の杉田社長と席が隣だったこともあり、二倍年暦に関する本を早く出すようご助言をいただきました。

 中国出張から帰国した19日のテレビニュースなどで、石川県能美市の和田山・末寺山古墳群から出土した5世紀末の須恵器2点に、「未」と「二年」の文字が刻まれていることが確認されたとの報道がありました。当初、わたしは「未」と「二年」が本体と蓋のセットとなった須恵器 に刻字されていたと勘違いしていました。もしセットとしての「未」と「二年」であれば、二年が未の年である九州年号の正和二年丁未(527)ではないかと考えたのですが、報道では5世紀末の須恵器とありますから、ちょっと年代が離れています。
 その後、インターネットで詳細記事を読みますと、「未」と「二年」の刻字須恵器は別々であることがわかりましたので、正和二年丁未とするアイデアは根拠を失いました。それから、今日までずっとこの「二年」の意味付けに悩んでいたのですが、古田先生の講演を聞きながら突然あるアイデアが浮かんだのです。
 もし、ある年号の「二年」ということであれば、暦年を特定するためにその年号を記すか、干支を記す必要があります。そうでなければ「二年」だけでは暦年を特定できず、「二年」と記しても、それを見た人にはどの年号の二年か判断がつかず、意味がないからです。たとえば、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した 「元壬子年」木簡の場合は、元年が壬子の年ですから、九州年号の白雉元年壬子(652)と特定でき、「元壬子年」と記す意味があるのです。ところが今回確認された須恵器には「二年」とあるだけですので、刻字した人が何を知らせたかったのか、その人の「認識」を考え続けました。
 そして、「二年」だけでも暦年を特定でき、刻字した人も、それを見た人にも共通の暦年を認識できるケースがあることに気づいたのです。それは最初の九州年号の二年に刻字されたケースです。具体的には、『二中歴』によれば「継体二年」(518)のケースです。その他の九州年号群史料によれば「善記二年」(523)となります。すなわち、倭国で初めての年号の時代であれば、「二年」の年は一つしか無く、刻字した人にも、それを読んだ人も、倭国(九州王朝) が建元した最初で唯一の年号の「二年」と理解せざるを得ないのです。
 おそらく、倭国(九州王朝)が初めて年号を制定・建元したことは国中に伝わっていたでしょうから、この須恵器に「二年」と刻字した人も建元されたばかりの九州年号を強烈に意識していたと思われます。こうしたケースにのみ、「二年」という表記だけで具体的な暦年特定が可能となり、意味を持つのです。
 編年上でも継体二年(518)であれば、6世紀初頭であり、須恵器の編年の5世紀末とそれほど離れていません。もちろん、これは九州王朝説多元史観に立った理解と仮説であり、他に適当な仮説が無ければ有力説となる可能性があるのではないでしょうか。まだ当該須恵器を実見していませんし、遺構の状況や性格も報道以上のことはわかりませんので、現時点では一つの作業仮説として提起したいと思いますが、いかがでしょうか。


第589話 2013/08/31

「九州年号」の証明(3)

 いわゆる九州年号が九州王朝(倭国)の年号であることは自明のこととわたしは考えていましたが、水野代表の御指摘を受けて改めてその論拠を考えてみました。それは次のような史料根拠と論理性に基づいています。
 まず基本認識として、古田先生の九州王朝説・多元史観に基づき、古代中国史書に記された九州王朝・倭国は7世紀末まで日本列島を代表する王朝であり、 701年のONラインを境として近畿天皇家が新王朝の日本国を建国し、九州王朝から列島の代表者の地位を交代します。そして、自らの史書『続日本紀』に 701年に「大宝」年号を「改元」ではなく「建元」したと記します。従って、近畿天皇家の日本国の年号は大宝元年から始まったことがわかります。
 この701年からの日本国とそれ以前の倭国については、『旧唐書』に倭国伝と日本国伝とが、その歴史や地形などが書き分けられていることとも対応しており、歴史事実と見なすに十分な史料根拠を有しています。
 他方、『二中歴』所収「年代歴」に掲載されている古代年号群も6世紀初頭から700年まで続く「継体」から「大化」までのいわゆる九州年号と、701年 からの「大宝」から始まる近畿天皇の年号群とが書き分けられていることが、先にあげた多元的歴史認識と見事に対応しており、いわゆる「九州年号」とされている年号群が九州王朝(倭国)の年号と理解することの史料根拠となるのです。
 以上のような史料根拠と論理性が九州王朝と九州年号を結びつける「証明」なのです。なお、701年以後も「大化」「大長」という九州年号が継続していたことが判明してきましたが、この点については『「九州年号」の研究』(古田史学の会編)に詳述していますので、ご参照ください。


第587話 2013/08/25

観世音寺と観音寺

 太宰府の観世音寺の創建年について、『二中歴』「年代歴」記載の九州年号「白鳳」の細注(観世音寺東院造)に見える観世音寺創建記事から、白鳳年間(661~683)であることはわかっていましたが、その後、九州年号史料の『勝山記』(鎮西観音寺造)や『日本帝皇年代記』(鎮西建立観音寺)に白鳳10年(670)の創建とする記事のあることが発見され、観世音寺創建が白鳳10年(670)であることが判明しました。
 考古学的にも、創建瓦が7世紀後半頃の「老司1式」であることにも対応しており、考古学編年とも一致しています。こうした文献と考古学の一致から、観世音寺創建白鳳10年(670)説は最有力説だと思うのですが、一つだけ気になっていたことがありました。『二中歴』では「観世音寺」と正式名称が記載され ているのですが、『勝山記』や『日本帝皇年代記』では「観音寺」となっていることです。
 ところが、この疑問は思ったよりも簡単に解決してしまいました。観世音寺は古代から「観音寺」とも称されていたことがわかったからです。それは有名な次の史料です。

 「沙彌満誓、綿を詠ふ歌一首 造筑紫観音寺別當、俗姓笠朝臣麿といふ
 しらぬひ筑紫の綿は身につけていまだは著ねど暖かに見ゆ」『万葉集』巻三 336番

 『万葉集』の有名な歌ですが、その作者の沙彌満誓を「造筑紫観音寺別當」と紹介しているのです。この記事から、『万葉集』成立期には観世音寺を「観音寺」とも表記していたことがわかるのです。
 更にもう一つ見つけました。これも有名な菅原道真の漢詩「不出門」の一節です。

 「都府楼わずかに見る瓦色
  観音寺は只鐘の声を聴くのみ」

 ここでも道真は観世音寺を「観音寺」と表記しています。ただ七言律詩とするために、三文字の「観音寺」の方を採用したのかもしれません。いずれにしても「観音寺」と詠えば、聴く人にも「太宰府の観世音寺」のことと理解されることが前提(共通認識)となっていたから「観音寺」と作詩したと考えられま す。
 こうして『勝山記』『日本帝皇年代記』の「鎮西観音寺」を太宰府の観世音寺のこととする理解は妥当なものであることが、よりはっきりしました。なお、「鎮西」とありますから、この部分の成立は近畿天皇家の時代となります。恐らく、「観音寺」だけではどこのお寺か判断できないので「鎮西」(九州)という 表記を付け加えたのでしょう。この点、『二中歴』「年代歴」には「観世音寺」だけで、地名表記はありません。これは「年代歴」細注部分が北部九州で書かれ たため、地名をつける必要もなく、「観世音寺」と記すだけで太宰府の観世音寺のことだと、書いた人も読む人もそのように認識するということが前提の表記で す。
 同じ『二中歴』「年代歴」の細注でも、「難波天王寺」(倭京二年、619年)のように「難波」という地名表記があるケースとは対照的です。すなわち、北部九州の読者には「難波」と地名表記をつけなければ、どこの天王寺か特定できなかったからと思われます。したがって、この「難波」は北部九州ではなく、摂津難波の「難波」と理解することが最も穏当な理解となるのです。
 観世音寺を「観音寺」と表記するものは他の史料にもありそうですので、引き続き探索したいと思います。