九州年号一覧

第586話 2013/08/24

「九州年号」の証明(2)

 第585話に 続いて水野さん(古田史学の会・代表)からの御指摘について考察します。『襲國偽僣考』に記された古写本『九州年号』以外にも、「九州年号」が九州地方の 年号であることを記した史料があります。それは宇佐八幡宮文書で『八幡宇佐宮繁三』(元和三年〔1617〕、卜部兼従著)というもので、『襲國偽僣考』が著された文政3年(1820)より約200年前に成立した文書です。そこに次のような記事が見えます。

 「筑紫の教到四年にして第廿八代安閑天皇元年なり」

 ある事件について、その年を九州年号の教到四年であり安閑天皇元年(534)に相当するという注記なのですが、「筑紫の教到四年」という表記から。「教到」年号を「筑紫」の年号であり、近畿天皇家の安閑元年と同年であるとの認識が示されています。
 管見では、いわゆる九州年号が九州地方の年号であることを直接的な表現で示された史料は、この『八幡宇佐宮繁三』が最も成立が早いと思われます。『襲國偽僣考』の著者、鶴峰戊申は現大分県の出身ですし、宇佐八幡宮も大分県にありますから、この地方ではこうした九州王朝系史料が江戸時代まで残っており、興味深い現象です。なお、宇佐八幡宮文書につきましては『「九州年号」の研究』(古田史学の会編)に詳しく記していますので、ぜひご一読下さい。(つづく)


第585話 2013/08/22

「九州年号」の証明

 第584話「天智天皇の年号『中元』?」に 対して、水野さん(古田史学の会・代表)より、ちょっと意表をつかれた御指摘が寄せられました。それは、「白鳳」など『二中歴』などの諸史料に見える一連の古代年号が九州王朝(倭国)の年号であるという証明が必要ではないか、という御指摘です。今まで、それらの年号が九州年号であることは自明のことと考え てきましたので、水野さんの御指摘を受けて、改めて「九州年号」の証明について考えてみることにしました。
 とりあえず、水野さんには『襲國偽潜考』に「善記」から「大長」までの諸年号は『九州年号』という古写本より引用したと、著者の鶴峯戊申が記していますので、この「九州年号」という名称は、6~7世紀において「九州」地方で公布使用されていた「年号」ということを意味しているので、「九州年号」という名称こそ、九州王朝の年号であることを指し示していると返答しました。しかしながら、『襲國偽潜考』自体は江戸時代に成立した史料ですので、もっと古代まで遡った史料根拠に基づいた証明(論証)を考えてみたいと思います。(つづく)


第575話 2013/07/28

白雉改元「小郡宮」説

 わたしはこれまで、白雉改元の儀式が行われた宮殿は前期難波宮であり、その時期は九州年号の白雉元年(652)であることを論証してきました。そのキーポイントは『日本書紀』孝徳紀の白雉元年二月条(650)の白雉改元記事は、九州年号の白雉元年二月(652)に行われた 行事の白雉年号ごと二年ずらしての盗用であることを明らかにしたことです(宮殿完成記事は652年九月条)。
 ちなみに近畿天皇家一元史観の通説では、白雉改元の宮殿を小郡宮とされているようです。吉田歓著『古代の都はどうつくられたか 中国・日本・朝鮮・渤 海』(吉川弘文館、2011年)によれば、「難波宮の先進性」という章で白雉改元の宮殿について次のように紹介しています。

 「白雉元年(六五〇)、小郡宮とは明記されていないが、おそらくはそうであろう宮において白い雉が献上された(『日本書 紀』白雉元年二月甲申条)。その様子は以下のようであった。(中略)白雉献上の様子や礼法の規模の大きさからすると小墾田宮より大規模であったように推測 されるが、遺構などが見つかっていないため、これ以上踏み込むことはできない。」(117~118頁)

 このように小郡宮説が記されていますが、「小郡宮とは明記されていないが」「おそらくはそうであろう」「遺構などが見つかっていない」「これ以上踏み込むことはできない」という説明では、とても学問的仮説のレベルには達していません。それほど、白雉改元「小郡宮」説は説明困難な仮説なのですが、ある意味、著者は正直にそのことを「告白」されておられるのでしょう。その「告白」が指し示すことは、白雉改元の儀式が可能な大規模な宮殿遺構は前期難波宮しか発見されていないということです。「白雉」は九州年号ですから、改元した王朝は九州王朝です。その場所の候補遺構が前期難波宮しかなければ、前期難波宮は九州王朝の宮殿と考えざるを得ません。
 そして、『日本書紀』に記されている三つの九州年号「大化」「白雉」「朱鳥」のうち、「白雉」のみがその改元の様子が詳細に記されていることから、近畿天皇家が改元儀式に参列し、その様子を見ることができたからこそ、『日本書紀』に記すことができたと思われます。そうすると、孝徳の宮殿と改元の儀式が行われた九州王朝の宮殿は参列可能な程度の近くにあったことになります。この点も、前期難波宮九州王朝副都説でしかうまく説明できない『日本書紀』の史料事実なのです。


第570話 2013/07/10

九州年号史料「伊予三島縁起」

 わたしが大三島の大山祇神社を訪れたかった理由の一つに、九州年号史料として 著名な同神社の縁起「伊予三島縁起」を実見したかったからでした。わたしが持っている「伊予三島縁起」は五来重編『修験道史料集(2)西日本編』所収の活 字版ですので、是非とも実物か写真版で九州年号部分を確認したかったのです。残念ながら宝物館には「伊予三島縁起」は展示されておらず、販売されていた書 籍にも「伊予三島縁起」は掲載されていませんでした。
 「伊予三島縁起」の九州年号史料としての性格が、四国地方にある他の九州年号史料とはかなり異なっており、このことが以前から気にかかっていました。と いうのも、四国地方の他の九州年号史料に見える九州年号は、「白雉」や「白鳳」といった『日本書紀』『続日本紀』などの近畿天皇家の文献にも現れるものが 多く、そのため本来の九州年号史料ではなく、それら近畿天皇家史料からの転用の可能性を完全には否定できないのです。この点、「伊予三島縁起」に見える九 州年号は、「端政」「金光」「願転(転願)」「常色」「白雉」「白鳳」「大(天)長」などで、これらは『日本書紀』や『続日本紀』などからは転用のしよう がない九州年号であり、「番匠初、常色二年」など九州王朝系史料からの引用と思われる貴重な記事も含まれており、その史料性格は格段に優れているのです。
 こうした理由から、わたしはどうしても「伊予三島縁起」原本を見たかったのです。『修験道史料集』に掲載されている「伊予三島縁起」の解題には、原本は大山祇神社にあり、善本は内閣文庫にあると記されています。引き続き調査してみたいと思います。


第569話 2013/07/09

伊予大三島の大山祇神社参詣

 7月6日(土)に松山市にて「王朝交替の古代史-7世紀の九州王朝」というテーマで講演しました。「古田史学の会・四 国」の主催によるものです。大和朝廷の養老律令や宮殿の規模・様式変遷、飛鳥出土木簡などを通じて、九州王朝から大和朝廷への権力交替期についての持論や 作業仮説(思いつき)を発表しました。幸い、「わかりやすかった」「また来てほしい」とお褒めの言葉もいただきました。「古田史学の会・四国」の皆さん、 ありがとうございます。
 講演会終了後の「四国の会」の会員総会では、会員や例会参加者を増やす方法について真剣に議論されていたのがとても印象的でした。懇親会でも熱心な質疑 応答が続き、わたし自身も啓発されました。高松市から参加された西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)を交えての論議もまた楽しいものでした。
 翌日の日曜日には合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、四国の会事務局長)のご厚意により、一度行ってみたかった大三島の大山祇神社を西村さんもご 一緒に三人で訪問しました。最初に社務所に寄り、『「九州年号」の研究』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房)を進呈しました。宝物館は圧巻で、源義経奉納 の鎧(国宝)など重要文化財や国宝が多数展示してありました。国宝館には斉明天皇奉納と伝えられている大型の「禽獣葡萄鏡」がありました。「唐鏡」と説明 されていましたが、その大きさなどから国産のように思われました。
 大山祇神社の他にも、合田さんの案内で「しまなみ海道」の大島にある村上水軍の記念館なども見学できました。合田さんには何から何までお世話いただき、本当にありがとうございました。


第551話 2013/04/25

難波朝廷の「立礼」

 洛中洛外日記「白雉改元の宮殿」の連載では、九州王朝の副都前期難波宮での「賀正礼」が、701年以後の大和朝廷に取り入れられたことを述べました。このように近畿天皇家は難波での九州王朝の諸制度を参考にしたと考えられるのですが、その痕跡が『日本書紀』天武11年九月条にも残されていました。

「勅したまはく『今より以後、跪(ひざまづく)礼・匍匐礼、並びに止(や)めよ。更に難波朝廷の立礼を用いよ。』とのたまう。」

 天武天皇の詔勅として、従来の「跪礼・匍匐礼」に代えて「難波朝廷」の「立礼」の採用を命じた記事です。倭国・九州王朝 が難波に副都を建設したおかげで、近畿天皇家は九州王朝の宮廷儀礼を間近に観ることができたのです。このことを示すかのように、孝徳紀白雉元年条 (650)には次のような記事が見えます。

「白雉元年の春正月の辛丑の朔に、車駕、味経宮に幸して、賀正礼を観る。」

 このように孝徳は「賀正礼を受ける」のではなく、「賀正礼を観る」と記されています。近畿天皇家にとって、九州王朝は良きお手本たったのです。おそらくは近畿天皇家の初めての律令である「大宝律令」も「九州王朝律令」をお手本として制定された条文が少なくないのではないでしょうか。こうした視点からも、「律令」研究は九州王朝史復元研究にとって重要なテーマといえます。


第549話 2013/04/11

白雉改元の宮殿(9)             

 『養老律令』の「儀制令」には「賀正礼」について次のような条文があります。
 「凡そ元日には、国司皆僚属郡司等を率いて、庁に向かいて朝拝せよ。訖(おわ)りなば長官は賀を受けよ。」
 都から遠く離れた国司たちに、元日は都の大極殿(庁)に向かって拝礼し、その後に部下からの「賀」を受けよ、という規定です。おそらくは九州王朝律令も同様の規定があったと想像できますが、この規定を孝徳や天武に当てはめると、九州王朝の副都前期難波宮のご近所(難波長柄豊碕宮)に住んでいた孝徳は、元日に前期難波宮で行われる「賀正礼」に出席していたでしょうから、『日本書紀』孝徳紀には元日の「賀正礼」記事が記されることとなります。
 たとえば、孝徳紀白雉元年条(650)には次のように記されています。
「白雉元年の春正月の辛丑の朔に、車駕、味経宮に幸して、賀正礼を観る。(中略)是の日に、車駕宮に還りたまふ。」
 ここでは「賀正礼を受ける」のではなく、味経宮に行き「賀正礼を観る」とあります。すなわち、味経宮(前期難波宮か)で孝徳は「賀正礼」を受ける立場ではなく、「賀正礼」に参加して、それを「観る」立場だったのです。孝徳紀のこの記事は、孝徳がナンバーワンではなかったことを正直に表現していたのです。 ちなみに孝徳紀の他の「賀正礼」記事も、「賀正礼を受ける」という表現はなく、「賀正す」というような、何かよくわからない表現です。これも、「賀正礼を受ける」のは九州王朝の天子だったからにほかなりません。
 天武紀になると、前期難波宮から離れた飛鳥に天武らは住んでおり、九州王朝の宮殿(前期難波宮または太宰府)での天子への「賀正礼」は欠席し、飛鳥から 九州王朝の宮殿に向かって拝礼していたことでしょう。そして、天武紀では「賀正礼」は翌二日の行事となる例が多くなっていることから、元日は九州王朝の都へ向かって拝礼し、翌日の二日に自らの部下からの「賀正礼」を受けていたと推察されます。おそらくは九州王朝律令にそのような規定があったのではないでしょうか。
 そして、701年以降の『続日本紀』の時代になって、文字通り誰はばかることなく元日に「賀正礼」を受ける身分(列島内ナンバーワン)になったのです。
 以上、「白雉改元の宮殿」の考察と「賀正礼」の史料批判により、七世紀末王朝交代期の復元が少しですができたように思われるのです。(完)

2014.2.23 「職員令」は「儀制令」の間違いでした。訂正済み


第509話 2012/12/27

NHK大河ドラマ「平清盛」雑感

 NHK大河ドラマ「平清盛」が終わりました。巷では視聴率が最低だったとか、場面が暗い汚いなどと散々な評判のようです が、わたしはなかなかの名作と思いました。NHK大河ドラマで、わたしが全編を見たのは「平清盛」と「龍馬伝」だけです。どちらも面白かったのですが、平 安時代末期という時代背景や、登場人物の名前が「平○○」「源○○」「○○法皇」「○○上皇」ばかりで、わかりにくかったことも視聴率低迷の要因かもしれ ません。
 しかし、わたしは平安時代の勉強になりましたし、場面の多くが地元の京都市内ということもあって、とても身近に感じられました。それと豪華俳優陣、中でも常盤御前(牛若丸の母)役の武井咲さんや、清盛の妻・時子役の深田恭子さんらの平安時代の衣装をまとった美しさも魅力的でした。清盛役の松山ケンイチさ んの演技や特殊メイクも回を追うごとに迫真さを増し、良かったと思います。この「平清盛」は後世必ずや再評価されるに違いありません。
 古代から中世に移る源平の時代ですが、鎌倉時代に入ると、それまで諸史料に散在していた九州年号が、各種年代暦や『二中歴』(鎌倉時代初頭の成立)などの文献に「九州年号群」史料としてまとまって出現・成立するようになります。この現象を、近畿天皇家という古代王権が衰退したため、別王朝(九州王朝・倭国)の年号である九州年号の「使用」「記述」がはばかられなくなったためと、わたしは理解してきました。ところが、どうもそれだけではないのではないかと思うようになりました。
 もしかすると、中世以降の文献に九州年号が「頻繁」に出現するようになったのは、本当に九州王朝の存在が忘却されたため、別王朝の年号という認識が無いまま「使用」「記述」されたのではないでしょうか。その証拠として、ほとんどの九州年号使用「年代暦」などは、6~7世紀の九州年号が701年からは近畿天皇家の「大宝」年号へと「継続」した表記となっているからです。何者かはわからないまま、古代史料に遺された九州年号を近畿天皇家の年号と「同類視」 し、両者を疑うことなく「継続」表記させたと思われるのです。
 もちろん、例外もあります。江戸時代成立の『襲国そのくに偽僭考』などのように、明確に「九州年号」という表記があり、このことから九州年号を「九州地方の年号」とする認識がうかがわれます。宇佐八幡宮文書にも「教到」を「筑紫の年号」と記されている文書のあることが知られています。これも、九州年号を「筑紫地方の年号」と理解していた痕跡です。
 こうした若干の例外はあるものの、ほとんどの場合は九州王朝の存在が忘却され、「九州年号」が「使用」「記述」されているのです。こうした九州年号史料の日本思想史的な考察・研究も、これからの古田学派の仕事でしょう。
 さて、来年の大河は「八重の桜」です。綾瀬はるかさん演じる山本八重(同志社創立者新島嬢の妻)の生涯をドラマ化したものです。わたしの娘の母校である同志社大学からも新島八重の生涯を漫画で綴った小冊子が送られてきました。なかなかの力の入れようですが、創立者の奥さんの生涯がNHK大河ドラマとなるのですから、当然でしょう。人気女優の剛力彩芽さんや黒木メイサさんも出演されるとのことで、来年の大河ドラマも楽しみにしています。


第501話 2012/12/06

『風土記』の中の短里

 昨日は曇天と雨の中、富山県魚津市に行ってきました。今日は大阪に来ています。午前中はお得意さまと新規開発案件や輸出等の商談、午後は学会(繊維応用技術研究会)に出席しています。
 この繊維応用技術研究会は「繊維」の学会なのですが、天然繊維・合成繊維のほか、毛髪・ナノファイバー・木材繊維・染色・染料・酵素・化粧品・機能性色 素など幅広い分野に関する研究発表や講演があり、異業種交流の場としても人気の高い学会です。わたしはこの学会の理事として、運営のお手伝いをさせていた だいています。

 さて、日本列島内での短里使用の時期についての正木裕さんとの意見交換ですが、最終的には七世紀末まで九州王朝では公的に短里が使用され、大和朝廷の時代となった八世紀でも短里使用の影響が残存した地域があったとする見解で一致をみました。
 具体的には、八世紀に成立した『風土記』の中に短里と考えざるを得ない記事があることが根拠です。古田先生の名著『よみがえる卑弥呼』(ミネルヴァ書房より復刻)に詳述されていますが、一つだけ紹介しますと、『肥前國風土記』に次の記事が見えます。

 「肥前国風土記に云う。松浦の県。県の東、六里。ヒレフリの岑有り。」(岩波古典文学大系『風土記』による)

 松浦の県(あがた)の東「六里」のところにヒレフリの岑があるとされているのですが、底本には「三十里」とされているの を、岩波本の編者は「六里」に原文改訂しているのです。『風土記』成立時の八世紀では1里約535mですので、これではヒレフリの岑までの実測地とはあわ ないので、底本の「三十里」を「六里」に原文改訂したのです。
 この『風土記』は行政単位が「郡(こおり)」ではなく、九州王朝の行政単位「県(あがた)」であることから、古田先生は「県(あがた)風土記」と命名さ れ、原本は九州王朝で成立したものとされました。すなわち、九州王朝では短里で『筑紫風土記』を編纂したと考えられるのです。その九州王朝『筑紫風土記』 に基づいて、大和朝廷の時代となった八世紀においても「短里」表記が転用されたのです。
 こうした史料根拠に基づき、古田先生は日本列島における短里使用の史的痕跡が「二~三世紀頃より八世紀初に及んでいる。」(『よみがえる卑弥呼』194頁)とされたのでした。(つづく)

(補記)
 『日本書紀』天武十年八月条に見える「多禰嶋に遣(まだ)したる使人等、多禰國の図を貢れり。其の國の、京を去ること、五千余里。筑紫の南の海中に居り。」の記事の「五千余里」を短里表記とする見解について、第500話で 「どなたが最初に発表されたのかは失念しました」と記したところ、正木裕さんから、中村幸雄さん(故人・「古田史学の会」元全国世話人)が発表された説で あることを教えていただきました。出典は「大和朝廷の成立と薩摩及び薩南諸島の帰属」(『南九州史談』五号、1989年)で、当ホームページ中の「中村幸雄論集」に収録されています。是非ご覧ください。


第490話 2012/11/07

「大長」木簡を実見

 坂出市の香川県埋蔵文化財センターで開催されている「続・発掘へんろ −四国の古代−」展を見てきました。目的は第448話で紹介した「大長」木簡(愛媛県松山市久米窪田II遺跡出土)の実見です。
同展示は12月16日まで開催され、来年1月10日からは徳島県埋蔵文化財センター(板野郡板野町)での開催となります。入館料は無料の上、「四国遺跡88ヶ所」マップなどもいただけ、かなりお得で良心的な展示会です。
さて問題の「大長」木簡ですが、わたしが見たところ、長さ約25cm、幅2cmほどで、全体的に黒っぽく、その上半分に墨跡が認められました。下半分は肉眼では墨跡を確認できませんでした。文字と思われる墨跡は5文字分ほどであり、上から二文字目が「大」と見える他、他の文字は何という字か判断がつきません。同センターの学芸員の方も同見解でした。

 あえて試案として述べるなら次のような文字に似ていました。字体はとても上手とは言えないものでした。

 「丙大??※」?=不明 ※=口の中にヽ

 これはあくまでも肉眼で見える墨跡からの一試案ですから、だいたいこんな「字形」という程度の参考意見に過ぎません。来年三月には愛媛県埋蔵文化財センターに「大長」木簡は帰りますので、それから赤外線写真撮影などの再調査が待たれます。

 この他に松山市久米高畑遺跡出土の「久米評」刻書土器なども展示されており、同展は一見の価値ありです。


第482話 2012/10/14

中国にあった「始興」年号

 第480話で、「始興」という年号は中国にも日本にも無いと書いたのですが、出張時に持っていた「東方年表」に基づいた判断でしたのでちょっと気にかかり、帰宅後にネットで調べてみました。そうしたらなんと7世紀初頭に「始興」という年号があったのです。
 たとえばウィキペディアによると、隋末唐初に「燕」という短命の政権が高開道により樹立され、「始興」(618~624)という年号が建元されています。同じく隋末に操師乞(元興王)により樹立された地方政権が「始興」(616)が一年間だけ建元されています。
 ウィキペディアではこの二つの「始興」年号を「私年号」と説明していますが、短命ではありますが、樹立された地方政権が建元しているのですから、「公的」なものであり「私年号」とするのは学問的な定義としては問題があります。九州年号を「私年号」とする日本古代史学会も同様の誤りを犯しているのです。 年号が「私」か「公」かをわける基準を政権の「勝ち」「負け」で決めるのは不当です。より厳密にいえば、「年号」とはどれほど狭い地域や短い期間に使用されていても、それが「支配者」により公布され使用されていれば「私」ではなく、「公」的なものであることから、そもそも「私年号」という名称が概念として矛盾した名称と言わざるを得ないのです。
 そういうことで、「始興」年号の出典を確認しました。『隋書』巻四の「煬帝下」に次の記事があり、操師乞による「始興」建元は確認できました。

 (大業12年12月、616年)「賊操天成挙兵反、自号元興王、建元始興。」

 『隋書』によれば、この頃各地で地方政権が樹立され年号が建元されています。たとえば、「白烏」「昌達」「太平」「丁丑」「秦興」などが見えます。

 次に高開道による「始興」建元ですが、『旧唐書』によれば「列伝第五」にある高開道伝には、「(武徳三年・620年)復称燕王、建元」とあり、年号名は記されていません。「建元」とありますから620年が元年のはずですが、ウィキペディアに記された期間(618~624)とは異なります。
 以上のことから、高開道の「始興」は確認できませんでしたが、操師乞による「始興」建元は信用してもよいようです。しかし、『維摩詰経』巻下残巻末尾に見える「始興」は定居元年(611)よりも前のこととなりますから、操師乞の「始興(616)」年号では年代があいません。また、百済僧の来倭記事に隋末 の短命地方政権の年号を使用するというのも不自然です。従って、「始興」は「始哭」の誤写・誤伝ではないかとするわたしの作業仮説は有効と思います。
 最後に、歴史研究において簡単な「辞典」や「年表」に頼りきるのは危険であることを再認識させられました。ましてやウィキペディアの記載をそのまま信用するのは更に危険です。素早く調べるための「道具」として利用するのには便利ですが、その上で原典にしっかりとあたる、というのが大切です。その意味でも良い勉強となりました。(つづく)


第480話 2012/10/09

「始興」は「始哭」の誤写か

 今、湖西線を走る特急サンダーバードに乗っています。今朝は天気も良く、車窓から見える琵琶湖がとてもきれいです。湖面に浮かぶ船や竹生島もくっきりと見えます。

 韓昇さんの中国語論文「聖徳太子写経真偽考」(『東と西の文化交流(関西大学東西学術研究所創立50周年記念国際シンポジウム’01報告書)』所収)に紹介された、九州年号「定居元年」が末尾に記されている『維摩詰経』巻下残巻ですが、韓昇さんが説明できていない問題があります。

「始興中慧師聰信奉震旦善本観勤深就篤敬三宝」
「経蔵法興寺 定居元年歳在辛未上宮厩戸写」

 この末尾2行部分の「定居」については、「日本の私年号」と説明されているのですが、「始興」については、「定居」とともに「始興」も年号とする他者の論稿の引用のみで、韓昇さん自身の説明はありません。それも仕方がないことで、「始興」という年号は中国にも近畿天皇家にもなく、九州年号にもないからです。そのため、韓昇さんは「始興」の説明ができなかったものと思われます。
 わたしも「始興中」とはある期間を特定した記事であることから、「始興」は年号のように思うのですが、確かに未見の「年号」です。そこでひらめいたのですが、「始興」ではなく、「法興」か「始哭」の誤写・誤伝ではないかと考えたのです。字形からすると「始哭」の方が近そうです。他方、「法興」とすると、「定居元年」(611)が法興年間(591~622)に含まれてしまいますので、二つ並んだ年号表記記事としては不自然です。
 そこで、「始興」を「始哭」の誤写・誤伝とすればどうなるでしょうか。正木裕さん(古田史学の会々員・川西市)の研究(洛中洛外日記311話「正木さんからのメール『始哭』仮説」・他、参照)によれば、「始哭」は589年か590年頃とされており、定居元年(611)よりも少し前の時期に相当しますの で、記事内容に矛盾が生じません。すなわち、「始哭」(589~590)中に慧師聰がもたらした震旦(中国の異称)の善本を、定居元年(611)に上宮厩戸が書写し、法興寺に蔵されている、という理解が可能となるのです。
 しかしそれでも解決できない問題が残っています。年号としての「始哭」の誤写・誤伝であれば、「定居元年」と同様に「始哭元年」とか「始哭二年」とあってほしいところです。この疑問を解決できるのが、やはり正木さんの「始哭は年号ではなく、葬送儀礼の『哭礼』の始まりを意味する」という仮説です。
 正木説によれば、端政元年(589)に玉垂命が没したとき、後を継いだ多利思北弧が葬儀を執り行い、その儀礼として「哭礼」を開始したという記事に、「始哭」という表記があり、それを後に九州年号と勘違いされ伝わったということです。「哭礼」は通常は一年程度続き、長くても三年程度というのが正木さんの見解ですので、もし正木説が正しければ、玉垂命の葬儀に慧師聰が参列し、そのおりもたらされた震旦の善本『維摩詰経』を定居元年に上宮厩戸が書写したということになります。
 ちなみに慧師聰は『日本書紀』推古三年条(595)に百済より来訪した「慧聰」として見え、翌年、高麗僧「慧慈」と共に法興寺に住まわされています。この『日本書紀』の記事が正しければ、慧聰は「始哭中」に相当する端政元年(589)に九州王朝に来倭し、玉垂命の葬儀に参列した後、推古三年(595、九州年号の告貴二年・法興五年)に近畿へ来たことになります。
 このように、「始興」を「始哭」の誤写・誤伝と見た場合、九州王朝説の立場から『維摩詰経』末尾2行の文意がうまく説明できるのです。そしてこのアイデアが当たっていれば、この末尾2行を書いた人は「始哭」などが記された九州王朝系史料を見ていたこととなります。中国にある『維摩詰経』残巻を実見しないことには結論は出せませんが、現時点での「作業仮説」として検証・研究をすすめたいと考えています。
 なお、念のため付け加えれば、「始興」のままでよりうまく説明できる仮説があれば、わたしの提案した「始哭」説よりも有力な仮説となることは当然です。 「原文を尊重する」「必要にして十分な論証を経ずに安易な原文改訂をしてはならない」というのは、古田史学にとって重要な「学問の方法」なのですから。 (つづく)