九州王朝(倭国)一覧

第2745話 2022/04/21

多利思北孤の東征(東進)論と都城論

 本日はドーンセンターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。来月の関西例会は6月19日(日)に変更し、アネックスパル法円坂(大阪市中央区法円坂1-1-35)で開催します(参加費1,000円)。例会は午前中だけとなり、午後は『古代史の争点』(『古代に真実を求めて』25集)出版記念講演会(参加費無料)と「古田史学の会」会員総会を開催します。

 今回の例会では、大原さんや服部さんの発表を受けて、リモート参加された谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)も交え、『隋書』俀国伝の行程記事について活発な論争が続きました。これは九州王朝の太宰府(倭京)と前期難波宮(難波京)の複都制前史にも関わるテーマです。難波を多利思北孤の都とする野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)の仮説を皮切りに、隋使(裴世清)が多利思北孤と難波で対面したという服部説、正木さんやわたしが発表してきた多利思北孤の東征(東進)説などの諸仮説が〝火花を散らしている〟状況です。実に関西例会らしい素晴らしい学問論争であり、この諸仮説群がどのように収斂していくのかを楽しみにしています。学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化発展させますから。
 5月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔5月度関西例会の内容〕
①「オホゴホリ」は大宰府の旧名〈先回に頂いたご指摘について〉(東大阪市・萩野秀公)
②縄文語で解く神々 第一話 初めて生まれた神々(大阪市・西井健一郎)
③作られた乙巳の変と鎌足なる人物(大山崎町・大原重雄)
④日本書紀と扶桑略記の法興寺記事の核心部分は史実である(茨木市・満田正賢)
⑤石井公成氏の「古代史の争点」批判について(川西市・正木 裕)
⑥白村江戦前後の九州王朝(川西市・正木 裕)
⑦国書の紛失はなかった 小野妹子と難波で裴世清と会った多利思北孤(大山崎町・大原重雄)
⑧【速報】石井公成氏より反論をいただけました(八尾市・服部静尚)
⑨裴世清は難波で倭王と対面した(八尾市・服部静尚)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(三密回避に大部屋使用の場合は1,000円)
 06/19(日) 10:00~12:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市中央区法円坂1-1-35) ※午後は出版記念講演会と「古田史学の会」会員総会


第2744話 2022/05/19

久留米大学公開講座(6月26日)のレジュメ完成

 6月26日(日)の久留米大学公開講座のレジュメがようやく完成し、本日、大学事務局に提出しました。演題は〝筑紫なる倭京「太宰府」 ―九州王朝の両京制《倭京と難波京》―〟です。この九州王朝(倭国)の両京制というテーマは近年ようやく到達できた仮説で、その最新研究を発表させていただきます。レジュメの冒頭と末尾を転載します。

【レジュメから一部転載】
筑紫なる倭京「太宰府」
 ―九州王朝の両京制《倭京と難波京》―
      古賀達也(古田史学の会・代表)

1.はじめに

 九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代を『旧唐書』倭国伝・日本国伝では次のように記しており、その時期が八世紀初頭(701年・大宝元年)であることが古田武彦氏の研究により判明している。

 「日本国は倭国の別種なり。(略)或いは云う、日本は舊(もと)小国、倭国の地を併す。」
 「長安三年(703年)、その大臣、(粟田)朝臣真人が来りて方物を貢ず。」『旧唐書』日本国伝

 倭国は建国(天孫降臨)以来、北部九州(筑紫)を拠点として、五世紀(倭の五王時代)には関東までその領域を拡大したが、その都は一貫して筑紫(筑前・筑後)に置かれたと考えられてきた。七世紀前半には日本列島初の条坊都市(太宰府=倭京)を造営し、その地を都とした。そして、七世紀中頃には律令制による全国統治を開始し、新たな行政単位「評制」を施行したことが出土木簡や古代文献から判明している。
 評制による全国統治は、列島の中心部にあり、交運の要衝でもある難波京(前期難波宮)で始まったとされているが、そうであれば難波京は評制を採用した九州王朝の都ということになる。他方、前期難波宮を孝徳天皇の宮殿とする従来説(大和朝廷一元史観)においても、前期難波宮の規模と様式は近畿天皇家の王宮の発展史から逸脱したものとされ、創建年代は天武期ではないかと疑問視する論者もあった。

2.倭京(太宰府)と難波京(前期難波宮)
 〔略〕

3.権威の都(倭京)と権力の都(難波京)
 〔略〕

4.『万葉集』『養老律令』に見える両京制の痕跡

 九州王朝の両京制の痕跡は、大和朝廷への王朝交代後も、万葉歌に筑紫大宰府が「遠の朝廷」と歌われたり、『養老律令』に大和朝廷の神祇官に相当する「大宰の主神」という、他に見えない官職として遺されている。こうした史料状況は九州王朝の両京制という概念により説明可能である。今回の講演ではこうした両京制の痕跡について詳述し、九州王朝の都としての太宰府と難波京の姿をクローズアップする。


第2742話 2022/05/17

高良大社研究の想い出 (3)

―玉垂媛神と倭王旨―

 『筑後国神名帳』に見える玉垂媛神を倭王旨ではないかと考えたことがありました。倭王旨とは、天理市の石上神社所蔵の七支刀銘文に見える倭王の名前(中国風一字名称)ですが、筑後(三潴)に君臨したこの倭王旨を女性ではないかとする仮説を初期の論文「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」などで発表しました(注①)。当該部分を要約して紹介します。

〝残された問題として、倭王旨は女性ではなかったかというテーマがある。その理由の一つは七支刀記事が『日本書紀』では神功皇后紀(神功五二年)に入れられていることだ。これは『日本書紀』編纂時に百済系史書にあった七支刀記事を単純に干支二巡繰り上げた結果とも考えられるが、七支刀贈呈時の倭王が女性であったため、神功皇后紀に入れられたのではないか。
 「高良の神は玉垂姫」という現地伝承の存在も無視できない。『筑後国神名帳』の「玉垂媛神」以外にも、『太宰管内志』に紹介された「袖下抄」に「高良山と申す處に玉垂の姫はますなり」という記事もあるからだ。〟

 この論文は1999年に発表したものですが、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は同趣旨の仮説を更に深化させた論を詳述されています(注②)。倭王旨女王説は有力ですが、他の可能性もあるのではないかと、わたしは考えています。というのも、筑後地方に色濃く遺る玉垂命信仰の淵源は縄文時代にまで遡るとする古田先生の考察があったからです。(つづく)

(注)
①古賀達也「高良玉垂命と七支刀」『古田史学会報』25号、1998年。
 同「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
②正木裕「九州王朝の女王たち ―神功皇后一人にまとめられた卑弥呼・壱与・玉垂命―」『古田史学会報』112号、2012年。


第2741話 2022/05/16

高良大社研究の想い出 (2)

―『筑後国神名帳』の玉垂媛神―

 高良玉垂命関連ファイルを整理していたら、古賀壽(たもつ)先生(注①)からいただいた『筑後国神名帳』(注②)のコピーが出てきました。とても懐かしい史料で、高良大社で実物を見せていただいた記憶があります。そのとき古賀壽先生と議論になったことを思い出しました。それは玉垂命が男か女かを巡っての問答です。
 わたしは玉垂命を四世紀から六世紀にかけての九州王朝(倭国)の王の別名(襲名)と考えていましたので(注③)、男性と理解していました。ところがわたしの父(正敏)が、生前に「大善寺(玉垂命)の神様は女子(おなご)の神様と聞いちょるけどな」と話していたことが気になっていましたので、古賀壽先生にたずねたところ、『筑後国神名帳』に「玉垂媛」とあるとのことで、同高良大社本のコピーをいただきました。それによると、三潴郡の「正六位上四十四前」の段に「玉垂媛神」とあるのですが、「媛」の字が不鮮明で、見方によっては「髟」にも見えました。そこで、本当に「媛」なのでしょうかと確認したところ、古賀壽先生は「媛」の字に間違いないと断言されました。しかし、わたしは半信半疑のままで今日に至ったのでした。
 同コピーが見つかったのも何かの御縁と思い、改めて他の写本を調査しました。国会図書館本がデジタルアーカイブで閲覧できたので精査したところ、古賀壽先生のご意見通り「玉垂媛神」とありました。しかも、国会図書館本と高良大社本を比較したところ、「玉垂媛神」の次の行から高良大社本に欠落があることがわかりました。国会図書館本の三頁分ほどが欠帳していたのです。この史料状況から、国会図書館本と高良大社本は異系統の写本であることがわかり、国会図書館本には明確に「玉垂媛神」とあることから、高良大社本のやや不鮮明な「媛」の字も、「媛」としてよいようです。
 こうして、永年の疑問が氷解したのですが、それではこの「玉垂媛神」とは何者かという、新たな疑問が生じたのでした。(つづく)

(注)
①高良大社文化研究所元所長。
②『筑後国神名帳』高良大社所蔵本。10世紀に成立した『延喜式』に収録されている。
③古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。http://furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai4/tikugoko.html


第2740話 2022/05/14

高良大社研究の想い出 (1)

―古賀壽先生からの手紙―

 45年勤めた化学会社を定年退職し、二年が過ぎようとしています。なぜか定年後も会社時代の夢をみます。なかでも、化学プラントの合成反応が暴走し、制御に苦しむ夢をよく見ます。三十代のとき、深夜に停電が発生した記憶がトラウマになっているようです。
 その夜のことは今でもよく覚えています。仮眠をとっていたわたしは、「古賀さん大変です。停電です」の大声にたたき起こされました。事務管理棟の灯りはついているものの、工場用高圧電源が止まっており、緊急事態の発生でした。夜勤メンバーに対応を指示すると、わたしは懐中電灯を手に真っ暗闇の工場に飛び込みました。エレベーターが動かないので、最上階(4F)まで階段を駆け上り、作業者の安否を確認すると、停止した装置の分電盤を片っ端から開けて元スイッチを切り、加熱用蒸気バルブを手動で閉めました。そうしないと、電源が回復したとき一斉に反応器が動き出し、最悪の場合、化学反応が暴走するからです。
 過去に異常反応で有毒ガスが発生し、逃げ遅れた同期入社の社員が重体になったこともありましたので、化学知識はもとより、非常時での対応力が要求されました。とりわけ深夜勤務は作業員も少なく、責任者ともなれば片時も気を抜けませんでした。このような夢を見ることは、これからは減ることと思います。
 定年後の生活リズムになれてきましたので、古い資料を整理しています。先日、高良玉垂命関連ファイルを整理していたら、古賀壽(たもつ)先生(注①)からのお手紙や貴重な資料が出てきました。古賀壽先生は高良大社研究の碩学で、古田先生とも懇意にされていました。わたしが久留米出身で同姓ということもあってか、何かと親身になってご教示いただきました。高良大社所蔵の貴重な史料を見せていただいたり、コピーをいただくこともありました(注②)。最初にいただいたお手紙を紹介します。氏のお人柄がうかがえます。

〝拝復
 このたびは『古田史学会報』24~32号並びに『古代に真実を求めて』第一集を御恵与賜り、また御丁寧な御便りに接し、誠に有難く厚く御礼申し上げます。
 会報所載の御高論「玉垂命と九州王朝の都」「高良玉垂命と七支刀」「稲員家と三種の神宝」、いずれも興味深く拝読しました。
 私ごとを申し上げますと、私は大川市(旧三潴郡田口村)の出身で、作曲家古賀政男は従祖父に当たります。
 小学生の頃、社会科の授業で教わった大善寺(現久留米市)の御塚・権現塚古墳を一人で見学に行き、そのことを担任の先生から激賞されたことがきっかけで、この道に入りました。だから三潴町の御廟塚・烏帽子塚、大川市の酒見貝塚などは日参する勢いで歩き廻り、リンゴ箱五六個分の土器や石器を集めたものです。それから五十年、現在は二度目になりますが高良大社に奉職し、高良の神=高良玉垂命とは一体何者かを、真剣に考える毎日となり、早や十年を経ました。その私の見解は、社報「たまたれ」第13号に述べたとおりです。
 私の考古学・古代史学研究は、水沼君にはじまり、水沼君に終わるような気がしています。
 白状すれば、私は古田先生や皆様とは、対極にある者ですが、歴史の真実を見極めるためには、さまざまな異なる角度からの研究こそが必要と考えております。
 地元に在って皆様の御研究を拝見しますと、この件ならもっとよい資料があるのに、と思うことが再々です。特に高良山関係の資料は活字化が遅れています。幸い今なら(残り少ないのですが)高良大社に私が居りますので、御研究の便宜を図ることは、微力なりに出来ようかと思います。当社の資料で必要なものがあれば、極力貴意に添いたいと考えています。
 先ずは右、取急ぎ御礼傍々、
 2伸 八月の久留米シンポジウムには、事情が許せば是非参加したいと存じております。その折り拝眉できればと楽しみです。
 同封の小冊子御笑覧下さい。 拝具
 六月七日(注③)
         高良大社 古賀 壽
 古賀達也様
     硯机〟

 古賀壽先生は、学問的見解が〝対極〟にある古田先生やわたしたちに対しても、資料紹介の労を惜しまれなかった真の歴史学者であり、郷土の偉人でした。

(注)
①高良大社文化研究所元所長。高良玉垂命研究の第一人者で関連著書や論文は多数。
②古田武彦「高良山の『古系図』 ―「九州王朝の天子」との関連をめぐって―」(『古田史学会報』35号、1999年)に次の記事がある。
〝今年の九州研究旅行は、多大の収穫をもたらした。わたしの「倭国」(「俀〈たい〉国」、九州王朝)研究は、従来の認識を一段と深化し、大きく発展させられることとなったのである。まことに望外ともいうべき成果に恵まれたのだった。
 その一をなすもの、それが本稿で報告する、「明暦・文久本、古系図」に関する分析である。今回の研究調査中、高良大社の“生き字引き”ともいうべき碩学、古賀壽(たもつ)氏から、本会の古賀達也氏を通じて、当本はわたしのもとに托されたものである。〟
③平成七年(1995)。


第2735話 2022/05/02

九州王朝の権威と権力の機能分担

昨日、京都市で開催された『古代史の争点』出版記念講演会(主催:市民古代史の会・京都、注①)は過去最多の参加者で盛況でした。持ち込んだ同書も完売することができました。初参加の方も多く、古田説や九州王朝説をどこまで詳しく説明するべきなのか少々判断に迷いましたが、概ねご理解いただけたようでした。
参加者に中世社会史を研究されているSさんがおられ、懇親会にも参加され夜遅くまで学問対話をさせていただきました。Sさんからは、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代にあたり、それを為さしめた権威があったはずで、それはどちら側のどのようなものだったのか、なぜ九州王朝に代わって大和の天皇家が新王朝になれたのかという、本質的で鋭い質問が寄せられました。そうした対話の中で、わたしは九州王朝の両京制の思想的背景になった権威(太宰府・倭京)と権力(前期難波宮・難波京)の機能分担について説明していて、あることに気づきました。この機能分担には九州王朝内に歴史的先例があったのではないかということです。
それは『隋書』俀国伝に記された俀国の兄弟統治ともいうべき次の珍しいシステムです。

「俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出て政を聽き、跏趺坐し、日出づれば便(すなわち)理務を停め、云う『我が弟に委ねん』と。」『隋書』俀国伝

古田先生はこの記事により、俀王は「天を兄とし、日を弟とする」という立場に立っており、俀王の多利思北孤は宗教的権威を帯びた王者であり、実質上の政務は弟に当る副王にゆだねる、そういう政治体制(兄弟統治)だと指摘されていました(注②)。更にそれに先立って、『三国志』倭人伝に記された邪馬壹国の女王卑弥呼と男弟による姉弟統治、隅田八幡人物画像鏡銘文に見える大王と男弟王の兄弟統治の事例も指摘されました。この兄弟(姉弟)統治の政治体制こそ、権威と権力の都を分けるという七世紀中頃に採用した両京制の思想的淵源だったのではないでしょうか。
昨夜、ようやくこのことに気づくことができました。初めてお会いしたSさんとの夜遅くまでの学問対話の成果です。Sさんと講演会を主催された久冨直子さんら市民古代史の会・京都の皆さんに感謝いたします。

(注)
①『古代史の争点』出版記念講演会。主宰:市民古代史の会・京都、会場:プラザ京都(JR京都駅の北側)。講師・演題:古賀達也「考古学はなぜ『邪馬台国』を見失ったのか」「海を渡った万葉歌人 ―柿本人麻呂系図の紹介―」、正木裕「大化改新の真実」。
②古田武彦『古代は輝いていたⅢ』朝日新聞社、昭和六十年(1985)。ミネルヴァ書房より復刻。


第2734話 2022/05/01

『古今和歌集』仮名序傍注の「文武天皇」 (3)

 『古今和歌集』仮名序傍注の「文武天皇」が藤原定家の筆跡になるものとする大久間喜一郎氏の論文(注①)を紹介しましたが、仮名序には柿本人麿についての不思議な記述があります。それは人麿の位階を「おほきみつのくらゐ」(正三位のこと)としていることです。

 「(前略)いにしへより、かくつたはるうちにも、なら《文武天皇》の御時よりぞ、ひろまりにける。かのおほむ世や、哥のこゝろをしろしめたりけむ。かのおほん時に、おほきみつのくらゐ、かきのもとの人まろなむ、哥のひじりなりける。これは、きみもひとも、身をあはせたりといふなるべし。(後略)」日本古典文学大系『古今和歌集』仮名序、98~99頁

 正三位は諸王・諸臣の位階に相当し、臣下としては高位です。『万葉集』に見える人麿の姓(かばね)は朝臣(柿本朝臣人麿)であり、天武紀に見える八色の姓(注②)の真人に次ぐ2番目の姓です。真人であれば正三位は妥当かもしれませんが、朝臣である人麿にはやや不適切な位階ではないでしょうか。ちなみに、日本古典文学大系『古今和歌集』の頭注では仮名序の「おほきみつのくらゐ」に対して次のように解説しています。

 「おほきみつのくらゐ ― 正三位。柿本人麿は、万葉集では、持統天皇・文武天皇の時代の人で、身分は六位以下であったろうと考えられている。」日本古典文学大系『古今和歌集』98頁

 このように朝臣姓の人麿は六位以下と考えられています。従って、仮名序に記された正三位という位階は『万葉集』の朝臣姓とは異なる情報に基づいたものと思われます。また、この「おほきみつのくらゐ」の部分には傍注は付されていませんから、定家も特に疑問視していなかったのではないでしょうか。
 ここで注目されるのが、「洛中洛外日記」(注③)で紹介した『柿本家系図』の系譜冒頭の「柿本人麿真人」と由緒書中の「柿本氏ハ 八色姓ノ 第一位ニシテ 人麿ニ 賜リシを真人姓ナリ」という記事です。この「真人」姓であれば、正三位は妥当です。例えば天武天皇の和風諡号は天渟中原瀛真人天皇とされています。また遣唐使として唐に派遣された粟田朝臣真人も名前に真人を有しており、最終的な位階は正三位まで上り詰めています。
 ここからは全くの推測ですが、人麿の没年記事(注④)が九州年号の大長四年丁未(707)で記されていることから、真人の姓(かばね)や正三位の位階は九州王朝(倭国)から与えられたものかもしれません。そうした九州王朝系史料に遺された人麿伝承が、『古今和歌集』仮名序の「おほきみつのくらゐ」や『拾遺和歌集』の渡唐伝承(注⑤)のように、平安時代になると世に出始めたのではないでしょうか。そして、そのような九州王朝系伝承に基づいて記されたのが『柿本家系図』かもしれません。

(注)
①大久間喜一郎「平安以降の人麿」『人麿を考える』万葉夏季大学13、上代文学会編、昭和61年(1986)。
②天武十三年条に見える八色の姓(やくさのかばね)は、真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)の八つの姓の制度。
③古賀達也「洛中洛外日記」2699~2711話(2022/03/14~04/03)〝柿本人麻呂系図の紹介 (1)~(8)〟
④『運歩色葉集』に「柿本人丸」の没年記事として「柿本人丸――者在石見。持統天皇問曰對丸者誰。答曰人也。依之曰人丸。大長四年丁未、於石見国高津死。(以下略)」が見える。
 古賀達也「洛中洛外日記」274話(2010/08/01)〝柿本人麻呂「大長七年丁未(707)」没の真実〟
⑤古賀達也「洛中洛外日記」2707話(2022/03/26)〝柿本人麻呂系図の紹介 (6) ―人麻呂の渡唐伝承―〟


第2732話 2022/04/29

『古今和歌集』仮名序傍注の「文武天皇」 (2)

 『古今和歌集』には仮名漢字書きによる仮名序と漢文による真名序があり、いずれにも柿本人麿の名前が見えます。わたしが人麿研究において注目したのが仮名序にある不思議な傍注でした。日本古典文学大系『古今和歌集』によれば、仮名序の次の記事中の「ならの御時」部分に「文武天皇」という傍注(《文武天皇》の部分)があります。

 「(前略)いにしへより、かくつたはるうちにも、なら《文武天皇》の御時よりぞ、ひろまりにける。かのおほむ世や、哥のこゝろをしろしめたりけむ。かのおほん時に、おほきみつのくらゐ、かきのもとの人まろなむ、哥のひじりなりける。これは、きみもひとも、身をあはせたりといふなるべし。(後略)」日本古典文学大系『古今和歌集』98~99頁

 その傍注「文武天皇」の解説が同書頭注に記されています。

 「ならの御時よりぞ ― あとの方の『かの御時よりこの方、としはもゝとせあまり、世はとつぎになむなりにける』という『かの御時』が、この『ならの御時』であるとすると、第五十一代平城天皇ということになるが、柿本人麿や山部赤人のいた時代ということになると、持統天皇・文武天皇・聖武天皇などを考えなければならなくなる。」同書98頁頭注

 延喜五年(905)に成立した紀貫之の編纂になる『古今和歌集』の仮名序に「ならの御時」とあれば、それは平城天皇(治世806~809年)の御時となるのですが、柿本人麿・山部赤人の頃であれば、持統天皇・文武天皇・聖武天皇などの御時と考えなければならないという解説です。これと同様の理解をした後代の人物が、「ならの御時」の天皇に対して「文武天皇」と傍書したものと思われます。その傍書した人物についての説明が見当たらないので、わたしは気になっていました。
 確かに「平城の御時」とあれば普通は平城天皇を思い浮かべます。これが奈良時代(平城京の時代)であれば、元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁と桓武の各天皇が対象となり、傍注の「文武天皇」は含まれません。従って、この傍注の筆者は「ならの御時」を柿本人麿の時代のことと認識したうえで、その時代の天皇として「文武天皇」と注記したと思われます。すなわち、人麿の生きた時代の代表的天皇、あるいは没したときの天皇が文武と認識していたのではないでしょうか。わたしは後者の可能性が高いと考えています。というのも、『古今和歌集』や『万葉集』の読者であれば、人麿の歌が詠まれた時代の天皇は文武だけではなく持統も含まれていると知っていたはずだからです。従って、「持統天皇 文武天皇」ではなく、「文武天皇」とだけ注記していますから、人麿が没したときの天皇として注記したのではないでしょうか。
 ところが人麿の没年については『日本書紀』『続日本紀』をはじめ『万葉集』や『古今和歌集』にも記されておらず、現代の通説でも没年は不明とされています。ですから傍注筆者は文武天皇の時代とする情報を持っていたと考えざるを得ません。わたしは人麿の没年を九州年号の大長四年丁未(707)と考えていますので(注①)、この年であれば文武天皇の最晩年(慶雲四年)ですから、傍注筆者の認識は正しいことになります。もう少し正確に言いますと、大長四年三月十八日没(注②)であり、同年六月に文武は崩御していますから、人麿の没年を文武天皇の治世のときとする傍注筆者の認識は正確だったわけです。
 そこで、このような情報を持っていた傍注筆者とはどのような人物なのかが気になっていたのです。ところが昨日、偶然にもご近所の古書店で入手した『人麿を考える』(注③)に収録された大久間喜一郎氏の「平安以降の人麿」にこの傍注のことが触れられており、その筆者について「恐らく定家の筆跡と見られる」とされていたのです。『明月記』の作者としても著名な藤原定家(1162~1241年)は『古今和歌集』の校訂者としても知られています。日本古典文学大系『古今和歌集』の解説には、「定家本は定家の校訂した本であるが、世間に広く用いられている。」(61頁)とあります。もし、大久間氏の推定が正しければ、定家は人麿の没年を知っていたことになり、もしかすると九州年号による「大長四年丁未」という史料を見ていたのかもしれません。(つづく)

(注)
①『運歩色葉集』に「柿本人丸」の没年記事として「柿本人丸――者在石見。持統天皇問曰對丸者誰。答曰人也。依之曰人丸。大長四年丁未、於石見国高津死。(以下略)」が見える。
 古賀達也「洛中洛外日記」274話(2010/08/01)〝柿本人麻呂「大長七年丁未(707)」没の真実〟
②古賀達也「洛中洛外日記」2711話(2022/04/03)〝柿本人麻呂系図の紹介 (8) ―石見国益田家の「柿本朝臣系図」―〟
③『人麿を考える』万葉夏季大学13、上代文学会編、昭和61年(1986)。


第2731話 2022/04/28

『古今和歌集』仮名序傍注の「文武天皇」 (1)

 柿本人麿の名前が『古今和歌集』の仮名序にあるのですが、そのことについて少し触れることにします。以前、わたしは『古今和歌集』の古写本について調査したことがありました(注①)。
 阿倍仲麻呂の有名な歌「天の原 ふりさけみれば春日なる みかさの山に いでし月かも」が、『古今和歌集』古写本(注②)では「天の原 ふりさけみれば春日なる みかさの山を いでし月かも」となっていることから、仲麻呂は「みかさの山(の上)に」出た月ではなく、「みかさの山を」とあるように、みかさ山から出た月を歌ったとする研究を古田先生と行いました。その結果、奈良の御蓋山では低すぎて(標高約283m)、月は後方の春日山連峰から出るので、仲麻呂が歌った「みかさ山」は太宰府の三笠山(宝満山、標高829m)のこととしました。
 このときの『古今和歌集』写本調査の経験もあって、柿本人麿系図の研究で気づいたのが同集仮名序に傍記されている「文武天皇」の四文字でした。(つづく)

(注)
①「みかさ山と月」に関しては次の拙稿や「洛中洛外日記」で論じた。
 「平城宮朱雀門で観月会 — みかさの山にいでし月かも??」『古田史学会報』28号、1998年10月。
 「『三笠山』新考 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』43号、2001年4月。
 〔再掲載〕「『三笠山』新考 — 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』98号、2010年6月。
 「三笠の山をいでし月 -和歌に見える九州王朝の残映-」『九州倭国通信』193号、2019年1月。
 「九州王朝説で読む『大宰府の研究』〝凍りついた発想〟大和朝廷一元史観の「宿痾」〈前編〉」『九州倭国通信』195号、2019年5月。
 「九州王朝説で読む『大宰府の研究』〝凍りついた発想〟大和朝廷一元史観の「宿痾」〈後編〉」『九州倭国通信』196号、2019年7月。
 「洛中洛外日記」第731話(2014/06/19)〝「月」と酒の歌〟
 「同」第1733話(2018/08/27)〝杉本直治郞博士と村岡典嗣先生(1)〟
 「同」1842話(2019/02/20)〝九州王朝説で読む『大宰府の研究』(6)〟
②延喜五年(905)に成立した紀貫之の編纂になる『古今和歌集』は、貫之による自筆原本が三本あったとされているがいずれも現存しない。しかし、自筆原本あるいは貫之の妹による自筆本の書写本(新院御本)にて校合した二つの古写本の存在が知られている。一つは前田家尊経閣文庫所蔵の『古今和歌集』清輔本(保元二年、1157年の奥書を持つ)であり、もう一つは京都大学所蔵の藤原教長(のりなが)著『古今和歌集註』(治承元年、一一七七年成立)である。清輔本は通宗本(貫之自筆本を若狭守通宗が書写したもの)を底本とし、新院御本で校合したもので、「みかさの山に」と書いた横に「ヲ」と新院御本による校合を付記している。また、教長本は「みかさの山を」と書かれており、これもまた新院御本により校合されている。これら両古写本は「みかさの山に」と記されている流布本(貞応二年、1223年)よりも成立が古く、貫之自筆本の原形を最も良く伝えているとされる。


第2729話 2022/04/25

天武紀の「倭京」考 (2)

 新庄宗昭さんが指摘された天武紀の次の「倭京」記事は重要です。

 「庚子(12日)に、倭京に詣(いた)りて、嶋宮に御す。」『日本書紀』天武元年(672)九月条

 これは壬申の乱に勝利した天武が倭京に至り、嶋宮に居したという記事ですが、岩波書店の日本古典文学大系『日本書紀』で「詣」の字を「いたりて」と訓でいることに新庄さんは疑義を呈されました。「詣」の意味は貴人のもとへ参上する、あるいは神仏にお参りすることであり、下位者が上位者を訪れるという上下関係の存在を前提とした言葉であり、ここは「詣(もう)でて」と訓むべきとされました。そして、天武が詣でた倭京には近畿天皇家とは別の上位者がいたと理解されたわけです。
 この史料解釈により、壬申の乱のときには飛鳥には既に倭京があり、その宮殿は飛鳥浄御原宮と称され、藤原京の先行条坊が倭京の痕跡であると結論づけられました。「詣」の一字に着目された鋭い指摘です。仮説としては成立していると思いますが、学問的には次の検証作業が不可欠です。古田先生がよく用いられた史料中の全数調査です。この場合、『日本書紀』に見える「いたる」という動詞にはどのような漢字が用いられているのか、「詣」の字がどのような意味で使用されているのかという調査です。『日本書紀』の全数調査の結果、「詣」の字が上下関係を表す「もうでる」という意味でしか使用されていなければ、この新庄説は証明され、有力説となります。
 この証明は、新仮説を提起された新庄さんご自身がなされるべきことですが、取り急ぎ天武紀を中心に『日本書紀』を確認したところ、日本古典文学大系『日本書紀』で、「いたる」と訓まれている例として次のような漢字がありました。

 「至る」「到る」「及る」「詣る」「逮る」「臻る」「迄る」「及至る」

 「至る」が最も多く使用されていますが、問題となっている「詣」が他にもありました。次の通りです。

 「是(ここ)に、赤麻呂等、古京に詣(いた)りて、道路の橋の板を解(こほ)ち取りて、楯を作りて、京の邊の衢(ちまた)に竪(た)てて守る。」天武元年七月壬辰(3日)条

 「甲午に、近江の別将田邊小隅、鹿深山を越えて、幟を巻き鼓を抱きて、倉歴(くらふ)に詣(いた)る。」天武元年七月甲午(5日)条

 この二例の「詣」記事は、文脈から〝貴人に詣でる〟という主旨ではないので、普通に〝ある場所(古京、倉歴)へ至る〟の意味と解釈するほかありません。同じ天武紀の中にこのような用例がありますから、それらを除外して、天武元年(672)九月条だけを根拠に、倭京に上位者がいたとする仮説を貫き通すのは無理なように思います。また、「洛中洛外日記」(注)で紹介したように、藤原宮内下層条坊を天武期より前の造営とすることも考古学的にはやや困難ではないでしょうか。
 やはり、現時点での多元史観に於ける解釈論争としては、「倭京に詣る」の「倭京」を飛鳥宮(通説)のこととするのか、難波京(西村秀己説)とするのかに収斂しそうです。もっとも、新庄説も新たな視点や論証の積み重ねにより強化されることはありえます。いずれにしても自由に仮説が発表でき、真摯な論争による学問研究の発展が大切です。
 なお、付言しますと、天武紀の「倭京」が西村説の難波京であれば、そこには九州王朝の天子がいた可能性もあり、その場合には「倭京に詣(もう)でる」という訓みはピッタリとなります。とは言え、『日本書紀』編者がそのように認識して「詣」の字を使用したのかどうかは、別途検証が必要です。

(注)古賀達也「洛中洛外日記」2724~2727話(2022/04/20~23)〝藤原宮内先行条坊の論理 (1)~(4)〟


第2728話 2022/04/24

天武紀の「倭京」考 (1)

 四月の多元的古代研究会月例会での新庄宗昭さん(建築家)の「倭京は実在した 藤原京先行条坊の研究・拙著解題」をリモートで聴講し、考古学的テーマ以外に『日本書紀』の読解についても刺激を受けました。なかでも新庄さんが着目された天武紀の「倭京」記事は古田史学でも重要なワードであり、古田先生も注目されていました。まず、古田学派にとって『日本書紀』に見える「倭京」にどのような学問的意味や仮説が提示されているのかを簡単に説明します。

(1) 九州年号に「倭京」(618~622年)があり、『日本書紀』編纂者はその存在を知ったうえで使用しているはずと考え、『日本書紀』の「倭京」を理解することが求められる。

(2) 倭の京(みやこ)の意味を持つ「倭京」の年号は、新都「倭京」への遷都、あるいは新都造営を記念しての年号と理解せざるを得ない。その時代は多利思北孤の治世であり、その新都は太宰府条坊都市のことと考えられる。すなわち、九州王朝(倭国)の都の名称が「倭京」であることを『日本書紀』編者は知ったうえで、「倭京」を使用したと考えざるを得ない。

(3) 王朝交代前の列島の代表王朝(九州王朝)の国名が「倭」であることも、『日本書紀』編者は当然知っている。そのうえで『日本書紀』中に「倭」を大和国(奈良県)の意味で使用している。

(4) 七世紀末頃に大和国が「倭国」と呼ばれていた痕跡が藤原宮出土の「倭国所布評」木簡(注①)により判明しており、九州王朝の国名「倭」が大和という地域地名に使用されている史実を前提に『日本書紀』は編纂されている。

(5) 天武紀に見える「倭京」は九州王朝(倭国)の都を意味する用語であることから、その時点の都である難波京(前期難波宮)が「倭京」であると解釈すべきとの指摘が西村秀己氏よりなされており、そのことを拙稿(注②)で紹介している。

 わたしたち古田学派の論者が『日本書紀』の「倭京」を論じる際、こうした史料事実や先行研究を意識した考察を避けられないと思います。(つづく)

(注)
①藤原宮跡北辺地区遺跡から「□妻倭国所布評大野里」(□は判読不明の文字)と書かれた木簡が出土している。「倭国所布評大野里」とは大和国添下郡大野郷のこととされる。次の拙論を参照されたい。
 古賀達也「洛中洛外日記」447話(2012/07/22)〝藤原宮出土「倭国所布評」木簡〟
 同「洛中洛外日記」464話(2012/09/06)〝「倭国所布評」木簡の冨川試案〟
 同「藤原宮出土『倭国所布評』木簡の考察」『東京古田会ニュース』168号、2016年。
②古賀達也「洛中洛外日記」1283話(2016/10/06)〝「倭京」の多元的考察〟
 同「洛中洛外日記」1343話(2017/02/28)〝続・「倭京」の多元的考察〟
 同「『倭京』の多元的考察」『古田史学会報』138号、2017年。

 


第2727話 2022/04/23

藤原宮内先行条坊の論理 (4)

 ―本薬師寺と条坊区画―

 藤原宮内下層条坊の造営時期を考古学的出土物(土器編年・干支木簡・木材の年輪年代測定)から判断すれば、天武期頃としておくのが穏当と思われ、そうであれば壬申の乱に勝利した天武が自らの王都として造営したのが〝拡大前の藤原京条坊都市〟ではないかと考えました。他方、木下正史『藤原宮』によると、木簡が出土した大溝よりも下層条坊が先行するとあります。

〝「四条条間路」は大溝によって壊されており、「四条条間路」、ひいては一連の下層条坊道路の建設が大溝の掘削に先立つことは明らかである。大溝の掘削が天武末年まで遡るとなると、条坊道路の建設は天武末年をさらに遡る可能性が出てくる。〟木下正史『藤原宮』61頁

 さらに本薬師寺が条坊区画に添って造営されていることが判明し、『日本書紀』に見える天武九年(680)の薬師寺発願記事によれば、条坊計画がそれ以前からあったことがうかがえます。こうした考古学的事実や『日本書紀』の史料事実から、壬申の乱に勝利した天武が自らの王都として藤原京を造営しようとしたのではないかとわたしは推定しています。
 わたしは九州王朝(倭国)による王宮(長谷田土壇)造営の可能性も検討していたのですが、その時期が天武期の680年以前まで遡るのであれば、再考する必要がありそうです。というのも、九州王朝の複都制による難波京(権力の都。評制による全国統治の中枢都市)がこの時期には存在しており、隣国(大和)の辺地である飛鳥に巨大条坊都市を白村江戦敗北後の九州王朝が建設するメリットや目的が見えてこないからです。しかし、これが天武であれば、疲弊した九州王朝に代わって列島の支配者となるために、全国統治に必要な巨大条坊都市を造営する合理的な理由と実力を持っていたと考えることができます。その上で九州王朝の天子を藤原宮に囲い込み、禅譲を強要したということであれば、「藤原宮に九州王朝の天子がいた」とする西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の仮説とも対応できそうです。