九州王朝(倭国)一覧

第3415話 2025/01/24

日野智貴さんの歴史教科書改訂案

 1980年頃のこと。歴史教科書に古田説が掲載されたことがあったことを「洛中洛外日記」3404話(2024/12/31)〝教科書に「邪馬壹国」説が載った時代〟で紹介しました。その後、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)の調査により、昭和49年(1974)に三省堂から出版された家永三郎先生の教科書『新日本史』には、本文の「卑弥呼」で次のように書かれていたことがわかりました。

 「卑弥呼は、「魏志」の本文によれば、「邪馬壹国」の女王であったとしるされている。従来はこれを『後漢書』により「邪馬臺国」(臺は台)の誤りと考え、国名をヤマトと読み、そのヤマトが九州のヤマトであるか、今の奈良県のヤマトであるかについて、長年月にわたり、学界で論争がつづけられてきた。最近「壹」は誤字ではないという説があらわれ、卑弥呼の支配する国の名と所在地をめぐり、新しい論議を生んでいる。」16ページ

 このように『三国志』倭人伝原文には邪馬壹国とあることが記され、〝「壹」は誤字ではない〟とした古田説が紹介されています。しかし、現在の教科書本文からは邪馬壹国は消えています。そこで、教科書に詳しい日野智貴さん(古田史学の会・編集部員)に教科書改訂案を作って欲しいとお願いしたところ、次の案が示されました。教科書を書き換えるための効果的な視点を持つ改訂案ではないでしょうか。要点のみ紹介します。

山川出版社『詳説日本史 日本史探究』
「邪馬台国連合」改訂案
日野智貴

p.18 11行目より
《現状》
そこで諸国は共同して邪馬台国〈やまたいこく〉の卑弥呼〈ひみこ〉を女王として立てたところ、ようやく争乱はおさまり、ここに邪馬台国を中心とする29国ばかりの小国の連合が生まれた。

《修正案》
そこで諸国は共同して邪馬台国〈やまたいこく〉(邪馬壱国〈やまいち(ゐ)こく〉)の卑弥呼〈ひみこ(ひみか)〉を女王として立てたところ、ようやく争乱はおさまり、ここに邪馬台国を中心とする30国ばかりの小国の連合が生まれた。

《訂正の趣旨》
学習指導要領には「原始・古代の特色を示す適切な歴史資料を基に,資料から歴史に関わる情報を収集し,読み取る技能を身に付けること」とある。
現行教科書も資料引用部分には「読みといてみよう」の言葉とともに『魏志』「倭人伝」の引用が記され、そこには「今使訳通ずる所三十国」「邪馬壹国に至る」等の記述がある。また「邪馬壹国」の注釈には「壹(壱)は臺(台)の誤りか」とあり、誤りであると断定はしていない。
にも拘らず、本文では「邪馬台国」とのみ掲載し、さらに「三十国」も「29国」としているのは、単に古田学派の立場からオカシイだけでなく、歴史資料を読み取る能力を育成するうえでも問題である。資料の注釈が両論併記ならば、本文も両論併記にすることは当然である。それが資料を読み取る能力の育成につながる。

p.19 6行目より
《現状》
一方、九州説をとれば、邪馬台国連合は北部九州を中心とする比較的小範囲のもので、ヤマト政権はそれとは別に東方で形成され、九州の邪馬台国を統合したか、あるいは邪馬台国の勢力が東遷してヤマト政権を形成したということになる。

《修正案》
一方、九州説をとれば、邪馬台国(九州説では邪馬壱国が正しいとする見解もある)連合は北部九州を中心とするものであるが、北部九州のみの比較的小範囲のものか、本州西部まで含む規模のものかは議論がある。ヤマト政権はそれとは別に東方で形成され、九州の邪馬台国を統合したか、あるいは邪馬台国(邪馬壱国)の勢力かその分派が東遷してヤマト政権を形成したということになる。

《訂正の趣旨》
邪馬台国大和説とは異なり、九州説は多種多様な意見が存在するのであり、大和説同様一枚岩の仮説のように扱うのは不適であるし、また「多面的」な考察を妨げるものである。

 もちろん、様々な仮説を同様に紹介するのは困難であるが、例えば邪馬台国そのものではなくその分流が東遷したというのは、古田先生を批判していた安本美典氏も主張している説であり、立場の異なる複数の論者が主張している見解は教科書に掲載するべきである。


第3410話 2025/01/18

『旧唐書』倭国伝の「五十餘国」

         と「東西五月行」

 本日、 「古田史学の会」関西例会が豊中自治会館で開催されました。2月例会の会場も豊中自治会館です。

 今回、わたしは「『旧唐書』倭国伝の領域 ―東西五月行と五十餘国―」についての研究結果を発表しました。『旧唐書』倭国伝冒頭に記された倭国の領域記事の東西五月行や附属する五十餘国の数値は、従来言われてきた誇大なものではなく、七世紀当時の倭国(九州王朝)律令に基づく〝公的な数値〟とする仮説です。

 「五十餘国」とは律令で規定された66国から九州王朝直轄の九州(九国)を引いた57国(蝦夷国領域〈陸奥・出羽〉も含む)のことで、「東西五月行」も従来言われてきたような誇大値ではなく、律令で定められた「車」による一日の行程が官道の駅間距離の「卅里」に対応しており、東西の駅数を29.5日で割ると約五ヶ月となることから、正確な情報に基づいた記事と考えることができるとしました。
この点について、正木裕さんによる先行研究がありました。正木さんからのメールを紹介します。

《以下、メールから転載》
東西5月行の計算と根拠は以下のとおりです。
『後漢書』卷八十六。南蠻西南夷列傳第七十六「軍行三十里を程(*1日に進む距離)とす。」
(軍行三十里為程,而去日南九千餘里,三百日乃到,計人稟五升,用米六十萬斛,不計將吏驢馬之食,但負甲自致,費便若此。)
倭国:【東西5月行】軍行1日30里(14㌔)5月で150日≒1900㎞、5日1休(「每五日洗沐制」)で125日×14㌔≒1700㌔。五島列島から津軽海峡までの距離。
【南北3月行】3月で90日約1200㎞。5日1休で75日×14㌔≒1000㌔。ただし大半が「水行」なので軍行1日30里は当てはまらない。
『魏志倭人伝』で半島から邪馬壹国まで水行10日、邪馬壹国から投馬国まで20日、半島から投馬国まで計1月。地図で測ると600㎞、3月なら約1800㎞で台湾に届く。
《転載終わり》

 1月例会では下記の発表がありました。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔1月度関西例会の内容〕
①『古事記』定型句の例外について (姫路市・野田利郎)
②百済・倭王同一人物説や付随する諸問題に関して (大山崎町・大原重雄)
③扶桑国についての考察 (たつの市・日野智貴)
④縄文語で解く記紀の神々 景行帝西征譚 (大阪市・西井健一郎)
⑤熊本宇土への調査旅行報告 (東大阪市・萩野秀公)
⑥「磐井の崩御」と「磐井王朝(九州王朝)」の継承について (川西市・正木 裕)
⑦『旧唐書』倭国伝の領域 ―東西五月行と五十餘国― (京都市・古賀達也)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
02/15(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館
03/15(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館


第3404話 2024/12/31

教科書に「邪馬壹国」説が載った時代

 大学セミナーハウス主催の「古田武彦記念古代史セミナー2025」(通称:八王子セミナー)の実行委員をさせていただくことになり、過日の実行委員会にリモートで初参加しました。そのおり、荻上紘一実行委員長(注①)から同セミナーの目的は「教科書を書き変える」であることが強調されました。それは「古田史学の会」創立の精神(注②)にも通じるものですから、わたしは賛意と協力を表明しました。

 とは言え、精神論や抽象論だけではだめですから、教科書を書き変えるための具体的な手続きの調査、そして近年での成功事例として「五代友厚の名誉回復」についての勉強を進めています(注③)。このことは別に紹介したいと思います。

 ご存じの方は少なくなったと思いますが、古田説が教科書に掲載されたことがありました。それは1980年頃の高校歴史教科書です。当時、16種の歴史教科書が出版されており、その内2種の教科書に通説の「邪馬台国」とともに古田説の「邪馬壹国」が記載されていました。中でも家永三郎氏が執筆した三省堂の教科書『新日本史』脚注には次のように書かれていました(注④)。

「今日伝わる文献のうち、『後漢書』『梁書』『隋書』などには邪馬臺国とあり、『魏志倭人伝』では、邪馬台国を邪馬壹国と記すが、邪馬臺(台)が正しいとする説が有力である。」

 もう一つの門脇禎二氏らによる『高校日本史』(三省堂)には本文中に次のように記されています。

「各地約30の小国を統合し、支配組織をより大きくととのえた国家が出現した。中国の『魏志倭人伝』に記された邪馬臺国(以下、邪馬台国と書く。邪馬「壹」国説もある)」

 その他14の教科書には「邪馬臺(台)国」だけが記されています。現在の歴史教科書全てを見たわけではありませんが、いつのまにか「邪馬壹国」は消されたようです。「邪馬壹国」が併記された教科書が今もあれば、ご教示下さい。「教科書を書き変える」の一つとして、1980年頃の「邪馬壹国」が併記されていた教科書に「書き戻す」ことから取り組むのが現実的かもしれません。

(注)
①大学セミナーハウス理事長で数学者。古田武彦氏が教鞭をとった長野県松本深志高校出身。東京都立大学総長、大妻女子大学々長を歴任。二〇二一年、瑞宝中綬章受章。
②古田史学の会・会則第2条に次の目的が明記されている。
「本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。」
③八木孝昌『五代友厚 名誉回復の記録 ―教科書等記述訂正をめぐって―』PHP研究所、2024年。
《同書著者による解説》『新・五代友厚伝』(PHP研究所)発刊後に大阪市立大学同窓会を中心に始まった五代名誉回復活動は、この4年間で劇的な結末を迎えた。明治14年の開拓使官有物払い下げ事件で政商五代が不当な利益をたくらんだとする高校日本史教科書の記述が訂正されるとは、誰が予想したであろうか。本書は教科書記述訂正に至るプロセスを克明に追った迫真のドキュメントであるとともに、真実を求める活動の未来を指し示す希望の書である。
◆五代友厚 1836~85年。薩摩藩の士族出身。明治政府の役人として今の大阪府知事にあたる「判事」を務めた後、実業界に転じた。「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一と並び「東の渋沢、西の五代」と称された。
④百埼大次「『邪馬台国』から邪馬壹国へ」『市民の古代・古田武彦とともに』第二集増補版、古田武彦を囲む会編(後に「市民の古代研究会」に改称)、1980年。増補版は1984年刊。


第3403話 2024/12/30

「列島の古代と風土記」

(『古代に真実を求めて』28集)の目次

来春発行予定の『古代に真実を求めて』(明石書店)の初校ゲラ校正が年末年始の仕事の一つになりました。28集のタイトルは「列島の古代と風土記」です。2024年度賛助会員に進呈しますが、書店やアマゾンでも購入できます。目次は次の通りです。

【巻頭言】多元史観・九州王朝説は美しい 古賀達也

【特集】列島の古代と風土記
「多元史観」からみた風土記論―その論点の概要― 谷本 茂
風土記に記された倭国(九州王朝)の事績 正木 裕
筑前地誌で探る卑弥呼の墓―須玖岡本に眠る女王― 古賀達也
《コラム》卑弥呼とは言い切れない風土記逸文にみられる甕依姫に関して 大原重雄
筑紫の神と「高良玉垂命=武内宿禰」説 別役政光
新羅国王・脱解の故郷は北九州の田河にあった 野田利郎
新羅来襲伝承の真実―『嶺相記』と『高良記』の史料批判― 日野智貴
『播磨風土記』の地名再考・序説 谷本 茂
風土記の「羽衣伝承」と倭国(九州王朝)の東方経営 正木 裕
『常陸国風土記』に見る「評制・道制と国宰」 正木 裕
《コラム》九州地方の地誌紹介 古賀達也
《コラム》高知県内地誌と多元的古代史との接点 別役政光

【一般論文】
「志賀島・金印」を解明する 野田利郎
「松野連倭王系図」の史料批判 古賀達也
喜田貞吉と古田武彦の批判精神―三大論争における論証と実証― 古賀達也

【付録】
古田史学の会・会則
古田史学の会・全国世話人名簿
友好団体
編集後記
第二十九集投稿募集要項 古田史学の会・会員募集


第3402話 2024/12/29

九州王朝の都、太宰府の温泉 (4)

九州王朝の多利思北孤が次田温泉(すいたのゆ)がある太宰府に都(倭京)を造営し、遷都(遷宮)したのは九州年号の倭京元年(618年)と考えています(注①)。そこで今回は阿毎多利思北孤と温泉という視点で考察しました。

多利思北孤は旅行が好きだったようで、その痕跡が諸史料に残されています(注②)。その代表が伊予温湯碑銘文です。碑は行方不明ですが、その銘文が『釈日本紀』または『万葉集註釈』所引「伊予国風土記逸文」に見えます。下記のようです。JISにない字体は別字に置き換えていますが、本稿テーマの主旨には問題ないと思いますので、ご容赦下さい。

○伊予温湯碑銘文
法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵慈法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。

惟夫、日月照於上而不私。神井出於下無不給。万機所以妙応、百姓所以潜扇。若乃照給無偏私、何異干寿国。随華台而開合、沐神井而瘳疹。詎舛于落花池而化羽。窺望山岳之巖崿、反冀平子之能往。椿樹相廕而穹窿、実想五百之張蓋。臨朝啼鳥而戯哢、何暁乱音之聒耳。丹花巻葉而映照、玉菓弥葩以垂井。経過其下、可以優遊、豈悟洪灌霄庭意歟。才拙、実慚七歩。後之君子、幸無蚩咲也。

冒頭の「法興六年」は多利思北孤の「年号」で596年(注③)に当たります。多利思北孤(法王大王)が恵慈法師と葛城臣を伴って伊予まで行幸したことを記した碑文です。夷与村で神井を見たことを記念して碑文を作ったとあり、その文に「沐神井而瘳疹」とありますから、神井に沐浴したようです。「神井」とあり、温泉とは断定できませんが(注④)、多利思北孤は旅先での沐浴を好んでいたようにも思われます。

この後、倭京元年(618)に新都「倭京」を太宰府に造営・遷都したのも、今の二日市温泉、次田温泉(すいたのゆ)が近傍にあることが理由の一つにあったものと、この碑文からうかがえるのではないでしょうか。(おわり)

(注)
①古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年。
②正木 裕「多利思北孤の『東方遷居』について」『古田史学会報』169号、2022年。
③正木裕氏によれば、「法興」は多利思北孤が仏門に入ってからの年数であり、それを「年号」的に使用したとする。
正木 裕「九州年号の別系列(法興・聖徳・始哭)について」『古田史学会報』104号、2011年。
④合田洋一氏の説によれば、碑文の「神井」は松山市の道後温泉ではなく、西条市にあった神聖(不可思議)な泉のこととする。
合田洋一『葬られた驚愕の古代史』創風社出版、2018年。


第3400話 2024/12/23

九州王朝の都、太宰府の温泉 (3)

 太宰府条坊都市の近傍(南端)にある二日市温泉の存在が古代に遡り(注①)、九州王朝の天子や太宰府の官僚、庶民にとって貴重な温泉(次田温泉・すいたのゆ)であり、いうならば九州王朝が管理した王朝御用達の温泉だったと考えました。そのことを示す史料として、平安時代末期、後白河法皇が編纂した歌謡集『梁塵秘抄』に収録された、二日市温泉(すいたの湯)での入浴の順番を示した歌を紹介しました。

 「次田(すいた)の御湯の次第は、一官二丁三安楽寺、四には四王寺五侍、六膳夫、七九八丈九傔仗、十には國分の武蔵寺、夜は過去の諸衆生」 日本古典文学大系『和漢朗詠集 梁塵秘抄』「梁塵秘抄」383番歌、岩波書店。

 次いで検討したのが、太宰府(倭京)をこの地に造営した理由です。九州王朝の多利思北孤がこの地に都を造営し、遷都(遷宮)した理由は次の点ではないかと考えています。

(1) 新羅や高句麗による北(博多湾)からの侵攻と、隋による南(有明海)からの侵攻に対して、防衛に有利な地である。水城と筑後川が防衛ラインとなる。
(2) 北に大野城(列島最大の山城)、南に基山(城山)があり、緊急避難が可能。
(3) 筑後・豊前・豊後・肥前・肥後へと向かう官道があり、交通の要所に位置する。
(4) 福岡平野や筑紫平野という九州最大の穀倉地帯がある。
(5) 南の朝倉方面には最古の須恵器窯跡があり、西には三大須恵器窯跡群(注②)の一つ、牛頸(うしくび)窯跡群が有り、太宰府条坊都市へ土器や瓦を供給できる。
(6) 近隣に次田温泉(二日市温泉)があり、王家の人々や官僚、武人の湯治に便利である。

 以上のように、太宰府(倭京)は実に優れた地に造られた都と言えます。特に、古代に於いて京内に温泉を持つことは、難波京・近江京・藤原京・平城京・平安京にはない一大利点です。(つづく)

(注)
①『万葉集』巻六 961番歌の大伴旅人の歌に「次田(すいた)温泉」とあり、二日市温泉のこととされる。
作者 大伴旅人
題詞 帥大伴卿宿次田温泉聞鶴喧作歌一首
原文 湯原尓 鳴蘆多頭者 如吾 妹尓戀哉 時不定鳴
訓読 湯の原に鳴く葦鶴は我がごとく妹に恋ふれや時わかず鳴く
②堺市の陶邑、名古屋市の猿投山(さなげやま)と牛頸(うしくび)の須恵器窯跡群は三大須恵器窯跡群遺跡と称される。


第3398話 2024/12/20

九州王朝の都、太宰府の温泉 (2)

 「温泉」という切り口と多元史観・九州王朝説に基づき研究を始めたのですが、太宰府条坊都市の近傍(南端)にある二日市温泉の存在が古代に遡ることがわかり、九州王朝の天子や太宰府の官僚、庶民にとって貴重な温泉(次田温泉・すいたのゆ)であることに気づきました。いうならばそれは九州王朝が管理した王朝御用達の温泉だったと思われるのです。

 ちなみに筑紫野市観光協会のHPによれば、二日市温泉の泉温は55.6度、泉質はアルカリ性単純温泉(低張性アルカリ性高温泉)で、神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔症、冷え性、病後回復期、疲労回復、健康増進に効果があるとされています。
古代に於いて都の近くの温泉であれば、王朝にとっても貴重な施設であったはずです。そのことを示す史料がありました。平安時代末期、後白河法皇が編纂した歌謡集『梁塵秘抄』です。同書には、二日市温泉(すいたの湯)での入浴の序列を示した次の歌があります。

 「すいたのみゆのしたいは、一官二丁三安楽寺 四には四王寺五さふらひ、六せんふ 七九八丈九けむ丈 十にはこくふんのむさしてら よるは過去の諸衆生」

 岩波の日本古典文学大系『和漢朗詠集 梁塵秘抄』には次のように表記されています。

 「次田(すいた)の御湯の次第は、一官二丁三安楽寺、四には四王寺五侍、六膳夫、七九八丈九傔仗、十には國分の武蔵寺、夜は過去の諸衆生」 383番歌

 この歌によれば、最初に入浴するのは太宰府の高官、次に丁(観世音寺の僧侶と理解されているが未詳)、安楽寺の僧侶、四王寺の僧侶、太宰府勤務の武士、太宰府勤務の料理人が続き、「七九八丈」の意味も不明。「けむ丈」は傔仗で護衛の武士。そして最後に入浴するのは武蔵寺の僧侶、そのあと(夜)は過去の諸衆生(先祖の霊か)とされています。

 これは平安時代の序列ですが、七世紀の九州王朝時代であれば、太宰府の高官の前に、天子やその家族が入浴したのではないでしょうか。昼間の最後に武蔵寺の僧侶とされていますが、同温泉の所在地が旧・武蔵寺村ですから、地元の寺の僧侶が後片付けや掃除の担当だったのかもしれません。しかし、この歌には庶民の入浴が記されていませんので、古代でも「川湯」だったのであれば、庶民は下流で入浴していたのかもしれません。(つづく)


第3397話 2024/12/19

九州王朝の都、太宰府の温泉 (1)

 「洛中洛外日記」3395話(2024/12/17)〝蝦夷国と倭国(九州王朝)は温泉大国〟において、蝦夷国と倭国(九州王朝)が共に温泉大国であることを紹介しました。「温泉」という切り口で古代史研究することも面白そうなので、九州王朝と温泉について考えてみました。

 令和四年の県別の温泉湧出量順位(環境省調査)は次の通りです。

《都道府県別温泉の湧出量の順位》
一位 大分県  29万5708リットル/分
二位 北海道  19万6262リットル/分
三位 鹿児島県 17万5145リットル/分
四位 青森県  13万8559リットル/分
五位 熊本県  12万9962リットル/分
六位 岩手県  11万2081リットル/分
七位 静岡県  11万 495リットル/分
八位 長野県  10万4716リットル/分
九位 秋田県   8万8416リットル/分
十位 福島県   7万7379リットル/分

 以上のデータと対応する九州王朝関係の温泉地は次の通りです。

○湯布院温泉〔大分県由布市〕『日本書紀』(注①)
○別府温泉(鶴見岳)〔大分県別府市〕『万葉集』「伊予国風土記逸文」(注②)
○阿蘇山〔熊本県〕『隋書』俀国伝(注③)
○二日市(次田)温泉〔福岡県筑紫野市〕『万葉集』(注④)

 この中でわたしが最も注目したのが、九州王朝の都(倭京)太宰府(太宰府市)の南に隣接する二日市温泉です。この温泉は「次田温泉(すいたのゆ)」として史料上でも奈良時代まで遡ることができる古湯です。それは『万葉集』に見える大宰帥(だざいのそち)大伴旅人が亡き妻を慕って詠んだ次の歌です。

帥大伴卿 宿次田温泉 聞鶴喧 作歌一首
湯の原に 鳴く葦鶴は 我がごとく 妹に恋ふれや 時わかず鳴く

 「次田温泉」(現・二日市温泉)は太宰府条坊都市の南端に位置する温泉で、おそらく九州王朝時代から、太宰府にいた天子や官僚、武人、庶民が利用していたのではないでしょうか。というよりも、この温泉が湧く地に隣接した所に、天子の阿毎多利思北孤が九州王朝の都を置いたと考えることもできそうです。ちなみに二日市温泉は、近世に至るまで筑紫(福岡県)では唯一の温泉として知られていました。明治頃の写真や地図には、鷺田川をせき止めた「川湯」と紹介されており、珍しいタイプの温泉です。(つづく)

(注)
①古田武彦「第六章 蜻蛉島とはどこか」『盗まれた神話 記・紀の秘密』朝日新聞社、昭和五十年(一九七五)。ミネルヴァ書房より復刻。

 古田氏は、神武紀三十一年条に見える「……内木綿(ゆふ)の真迮(まさ)き国と雖も、蜻蛉(あきつ)の臀呫(となめ)の如くあるかな」の「木綿(ゆふ)」を湯布院盆地のこととされた。

②古田武彦氏は、『万葉集』巻一 2番歌の「天の香具山」を別府の鶴見岳とする説を「万葉学と神話学の誕生」(大阪、1999年)や「『万葉集』は歴史をくつがえす」『新・古代学』第4集(新泉社、1999年)などで発表した。

 また、『釈日本紀』巻七に収録された「伊予国風土記逸文」に見える「倭」の「天加具山」を鶴見岳とする論稿を筆者は発表した(「『伊予風土記』新考」『古田史学会報』68号、2005年)。

③『隋書』俀国伝に「阿蘇山」の噴火が記されている。
「阿蘇山有り、其の石、故無くして火を起こし天に接す。」

④『万葉集』巻六 961番歌
作者 大伴旅人
題詞 帥大伴卿宿次田温泉聞鶴喧作歌一首
原文 湯原尓 鳴蘆多頭者 如吾 妹尓戀哉 時不定鳴
訓読 湯の原に鳴く葦鶴は我がごとく妹に恋ふれや時わかず鳴く


第3395話 2024/12/17

蝦夷国と倭国(九州王朝)は温泉大国

「洛中洛外日」3389~3394話(2024/12/09~15)〝『旧唐書』倭国伝・日本国伝の「蝦夷国」 (1)~(3)〟を書き終えて、改めて蝦夷国についての関心を深めました。そうした意識でWEBの記事を読んでいると、面白いことに気づきました。それは、蝦夷国と倭国(九州王朝)が共に温泉大国だということです。それは次の記事でした。

【以下、部分転載】
日本は2800を超える温泉地を有する温泉大国です。それでは、日本で一番「温泉の湧出量」が多い都道府県はどこかご存知でしょうか。今回、アンケートで尋ねたところ、回答者全体の約6割が正解しました。
LIMO編集部が全国の10歳代〜60歳代の男女100名を対象に、「北海道」「青森県」「大分県」「鹿児島県」の4択のうち、「日本で一番『温泉の湧出量』が多い都道府県はどこでしょうか」というアンケートを取ったところ、全体の62%が大分県と回答。次に多かったのが同率16%の北海道と鹿児島県。そして6%の青森県という順番になりました。

湧出量とは、1分間に採取できる湯量のこと。自然に湧き出る量だけでなく、掘削した量やポンプなどで汲み上げた量のすべてを合計した値です。

ちなみに各県にある温泉地の数は、多い順で以下の通りです(環境省「令和4年度温泉利用状況」)。
・北海道 230 ・青森県 125 ・鹿児島県 87 ・大分県 63

環境省が公表している「令和4年度温泉利用状況」によると、日本で一番「温泉の湧出量」が多い都道府県は、大分県です。気になる湧出量は、29万5708リットル/分となっています。別府温泉、湯布院温泉などで知られる大分県は、県内に18ある市町村のうち16市町村で温泉が湧出しており、源泉総数も5090と全国1位。とくに別府温泉がある別府市や湯布院温泉が有名な由布市などで源泉数が多くなっています。

大分県に次いで二番目に湧出量が多いのは、北海道の19万6262リットル/分。北海道は温泉地数では全国47都道府県で1位。三番目は指宿温泉や霧島温泉が有名な鹿児島県の17万5145リットル/分、四番目は青森県の13万8559リットル/分でした。ちなみに、全国には2879もの温泉地があり、全国の湧出量の合計は251万5272リットル/分。日本では1日で36億リットル以上もの温泉が湧いているのです。

《都道府県別温泉の湧出量の順位》
一位 大分県  29万5708リットル/分
二位 北海道  19万6262リットル/分
三位 鹿児島県 17万5145リットル/分
四位 青森県  13万8559リットル/分
五位 熊本県  12万9962リットル/分
六位 岩手県  11万2081リットル/分
七位 静岡県  11万 495リットル/分
八位 長野県  10万4716リットル/分
九位 秋田県   8万8416リットル/分
十位 福島県   7万7379リットル/分
【転載おわり】

この記事を読み、温泉湧出量上位県の大半を蝦夷国と倭国(九州王朝)が占めていることに気づきました(北海道を蝦夷国に入れることについては未証)。面白いことに、九州王朝から大和朝廷への王朝交代後(八世紀)において、大和朝廷の支配侵攻に最も烈しく抵抗したのが、東北の蝦夷国と南の隼人(薩摩・他)です。薩摩には大宮姫伝説(注)で有名な指宿温泉があります。これらは偶然かもしれませんが、「温泉」という切り口で古代史研究するのも面白そうです。

そういえば、和田家文書調査のために津軽に行ったとき、古田先生から「津軽ではどこを掘ってもお湯(温泉)が出る」と教えて頂いたことを思い出しました。わたしが三十代の頃のことです。

(注)大宮姫を九州王朝の皇女とする説をわたしや正木裕さんが発表している。
古賀達也「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
正木 裕「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その1)」『古田史学会報』145号、2018年。
同「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その2)」『古田史学会報』146号、2018年。
「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その3)」『古田史学会報』147号、2018年。
同「大宮姫と倭姫王・薩末比売」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』(『古代に真実を求めて』22集)古田史学の会編、2019年、明石書店。


第3392話 2024/12/12

関川先生と京都講演会の打ち合わせ

 今日は奈良新聞本社で考古学者の関川尚功先生(元・橿原考古学研究所々員)と新春古代史講演会(1月19日、京都市)の打ち合わせを行いました。「古田史学の会」では案内チラシを二千部作成し、関西各地の博物館や図書館に配布していますが、今までになく多くのお問い合わせの電話をいただいています。

 「ヤマトを発掘して40年 考古学者が語る衝撃の真実 畿内に邪馬台国はなかった」というキャッチコピーと元・橿原考古学研究所の考古学者の講演ということで関心を集めているようで、毎日のように案内チラシを見た人から参加予約が必要かという問い合わせがあります。ちなみに、会場(キャンパスプラザ京都)は定員90名で、事前予約は行っていません。

 関川先生との打ち合わせが終わると、いつものように考古学談義が始まります。今回は、なぜ多くの考古学者が「邪馬台国」北部九州説を認めないのかについて、わたしの見解を紹介しました。それは次の二つの理由からではないかと考えています。

(1) 倭人伝に記された奴国(二万余戸)をナ国と読み、博多湾岸(旧地名は「那(ナ)の津」)にある列島内最大の弥生遺跡に比定したため、倭国の都、邪馬壹国(七万余戸)に比定できる弥生遺跡が列島から無くなってしまっ.た。そもそも「奴」を「ナ」とは読めない。「ノ」か「ヌ」であろう(注①)。

(2) 北部九州の弥生墓の編年を誤り、その結果、卑弥呼の時代(三世紀)の王墓が北部九州から無くなってしまった。梅原末治氏が晩年に発表した、須玖岡本遺跡(福岡県春日市)から出土した虁鳳(キホウ)鏡が魏の時代の鏡であり、同遺跡は三世紀の弥生墓とする研究を考古学界は無視した(注②)。

 この二点を関川先生に申し上げたところ、さすがは考古学者ですから、北部九州の弥生末期の墳墓の名前をいくつかあげられ、三世紀の弥生墓があることを教えて頂きました。このようなお話しが来年の新春古代史京都講演会でもお聞かせ頂けるのではないでしょうか。

 なお、10月に開催した東京講演会の動画配信(関川先生、正木裕さん)を「古田史学の会」ホームページ『新古代学の扉』でスタートしました(注③)。記念すべき講演ですので、古代の真実と学問を愛する多くの皆様に見て頂きたいと願っています。そして京都講演会にもおこし頂ければと思います。同講演会後、講師の先生方を囲んでの懇親会も企画中です(人数制限あり)。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」780話(2014/09/06)〝奴(な)国か奴(ぬ)国か〟
同「洛中洛外日記」1507話(2017/09/24)〝倭人伝の「奴」国名と現代日本の「野」地名〟
②同「洛中洛外日記」873話(2015/02/14)〝須玖岡本D地点出土「キ鳳鏡」の証言〟
同「洛中洛外日記」1988話(2019/09/12)〝梅原末治さんの業績と不運〟
③「古田史学の会」ホームページ『新古代学の扉』に収録
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta.html#tokyo


第3390話 2024/12/10

『旧唐書』倭国伝・日本国伝の

          「蝦夷国」 (2)

 『旧唐書』の倭国伝(注①)に記された倭国の領域「東西五月行」には蝦夷国(後の出羽国・陸奥国)が「附屬」の「五十餘国」の一つとして含まれるとしましたが、日本国伝(注②)に見える「其の国界は東西南北各數千里。西界、南界は大海に至る。東界、北界は大山が有り、限りと為す。山外は卽ち毛人の国」の「国界」とは異なることが気になっていました。と言うのも、東と北にある大山の外の「毛人の国」をわたしは蝦夷国としましたので、701年の倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への王朝交代にともない、日本国は倭国の統治領域をほぼそのまま受け継いだとすれば、「国界」(国境)も大きくは変わらないと考えていたからです。しかし、これはわたしの誤解でした。

 結論を言えば、七世紀以前の九州王朝時代と八世紀以降の大和朝廷時代とでは、両国と蝦夷国との関係は大きく異なっており、その関係性の変化が「国界」にも現れていたのです。従って、倭国伝には七世紀後半頃の倭国の「附屬」の「五十餘国」として「東西五月行」に蝦夷国は含まれ、王朝交代後の姿を記した日本国伝には山外の別国(毛人の国)として蝦夷国が記されたと考えられます。すなわち、七世紀頃には倭国と蝦夷国は主従関係にあり、蝦夷国は倭国の文化(仏教も)を受容し、事実上の朝貢国であったと思われます(注③)。そのこと示す記事が『日本書紀』敏達紀に見えます。

〝十年の春閏二月に、蝦夷数千、邊境に冦(あたな)ふ。
是に由りて、其の魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)等を召して、〔魁帥は、大毛人なり〕詔して曰はく、「惟(おもひみ)るに、儞(おれ)蝦夷を、大足彦天皇の世に、殺すべき者は斬(ころ)し、原(ゆる)すべき者は赦(ゆる)す。今朕(われ)、彼(そ)の前の例に遵(したが)ひて、元悪を誅(ころ)さむとす」とのたまふ。
是(ここ)に綾糟等、懼然(おぢかしこま)り恐懼(かしこ)みて、乃(すなわ)ち泊瀬の中流に下て、三諸岳に面(むか)ひて、水を歃(すす)りて盟(ちか)ひて曰(もう)さく、「臣等蝦夷、今より以後子子孫孫、〔古語に生兒八十綿連(うみのこのやそつづき)といふ。〕清(いさぎよ)き明(あきらけ)き心を用て、天闕(みかど)に事(つか)へ奉(まつ)らむ。臣等、若(も)し盟に違はば、天地の諸神及び天皇の霊、臣が種(つぎ)を絶滅(た)えむ」とまうす。〟『日本書紀』敏達十年(581)閏二月条

 この記事は三段からなっており、一段目は蝦夷国と倭国との国境で蝦夷の暴動が発生したこと、二段目は倭国王が蝦夷国のリーダーとおぼしき人物、魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)らを呼びつけて、大足彦天皇(景行)の時のように征討軍を派遣するぞと恫喝し、三段目では綾糟らは詫びて、これまで通り臣として服従することを盟約した、という内容です。すなわち、綾糟らは自らを倭国の臣と称し、倭国と蝦夷国は天皇(天子)と臣の関係であることを現しています。これは倭国を中心とする日本版中華思想として、蝦夷国を冊封していた記事ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①『旧唐書』倭国伝冒頭の記事。
「倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島、五十餘國、皆附屬焉。」
②『旧唐書』日本国伝冒頭の記事。
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云、日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云、其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國。」
③古賀達也「洛中洛外日記」2381~2397話(2021/02/15~03/02)〝「蝦夷国」を考究する(1)~(12)〟
同「洛中洛外日記」2795話(2022/07/23)〝羽黒山開山伝承、「勝照四年」棟札の証言〟
同「洛中洛外日記」2799話(2022/07/31)〝勝照四年(588年)、蝦夷国への仏教東流の痕跡〟
同「洛中洛外日記」2800話(2022/08/01)〝倭国(九州王朝)の天子と蝦夷国の参仏理大臣〟
同「洛中洛外日記」2901~2903話(2022/12/26~30)〝蝦夷国領域「会津・高寺」への仏教伝来 (1)~(3)〟
「蝦夷国への仏教東流伝承 ―羽黒山「勝照四年」棟札の証言―」『古田史学会報』173号、2022年。


第3390話 2024/12/10

『旧唐書』倭国伝・日本国伝の

          「蝦夷国」 (2)

 『旧唐書』の倭国伝(注①)に記された倭国の領域「東西五月行」には蝦夷国(後の出羽国・陸奥国)が「附屬」の「五十餘国」の一つとして含まれるとしましたが、日本国伝(注②)に見える「其の国界は東西南北各數千里。西界、南界は大海に至る。東界、北界は大山が有り、限りと為す。山外は卽ち毛人の国」の「国界」とは異なることが気になっていました。と言うのも、東と北にある大山の外の「毛人の国」をわたしは蝦夷国としましたので、701年の倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への王朝交代にともない、日本国は倭国の統治領域をほぼそのまま受け継いだとすれば、「国界」(国境)も大きくは変わらないと考えていたからです。しかし、これはわたしの誤解でした。

 結論を言えば、七世紀以前の九州王朝時代と八世紀以降の大和朝廷時代とでは、両国と蝦夷国との関係は大きく異なっており、その関係性の変化が「国界」にも現れていたのです。従って、倭国伝には七世紀後半頃の倭国の「附屬」の「五十餘国」として「東西五月行」に蝦夷国は含まれ、王朝交代後の姿を記した日本国伝には山外の別国(毛人の国)として蝦夷国が記されたと考えられます。すなわち、七世紀頃には倭国と蝦夷国は主従関係にあり、蝦夷国は倭国の文化(仏教も)を受容し、事実上の朝貢国であったと思われます(注③)。そのこと示す記事が『日本書紀』敏達紀に見えます。

 〝十年の春閏二月に、蝦夷数千、邊境に冦(あたな)ふ。
是に由りて、其の魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)等を召して、〔魁帥は、大毛人なり〕詔して曰はく、「惟(おもひみ)るに、儞(おれ)蝦夷を、大足彦天皇の世に、殺すべき者は斬(ころ)し、原(ゆる)すべき者は赦(ゆる)す。今朕(われ)、彼(そ)の前の例に遵(したが)ひて、元悪を誅(ころ)さむとす」とのたまふ。
是(ここ)に綾糟等、懼然(おぢかしこま)り恐懼(かしこ)みて、乃(すなわ)ち泊瀬の中流に下て、三諸岳に面(むか)ひて、水を歃(すす)りて盟(ちか)ひて曰(もう)さく、「臣等蝦夷、今より以後子子孫孫、〔古語に生兒八十綿連(うみのこのやそつづき)といふ。〕清(いさぎよ)き明(あきらけ)き心を用て、天闕(みかど)に事(つか)へ奉(まつ)らむ。臣等、若(も)し盟に違はば、天地の諸神及び天皇の霊、臣が種(つぎ)を絶滅(た)えむ」とまうす。〟『日本書紀』敏達十年(581)閏二月条

 この記事は三段からなっており、一段目は蝦夷国と倭国との国境で蝦夷の暴動が発生したこと、二段目は倭国王が蝦夷国のリーダーとおぼしき人物、魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)らを呼びつけて、大足彦天皇(景行)の時のように征討軍を派遣するぞと恫喝し、三段目では綾糟らは詫びて、これまで通り臣として服従することを盟約した、という内容です。すなわち、綾糟らは自らを倭国の臣と称し、倭国と蝦夷国は天皇(天子)と臣の関係であることを現しています。これは倭国を中心とする日本版中華思想として、蝦夷国を冊封していた記事ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①『旧唐書』倭国伝冒頭の記事。
「倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島、五十餘國、皆附屬焉。」
②『旧唐書』日本国伝冒頭の記事。
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云、日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云、其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國。」
③古賀達也「洛中洛外日記」2381~2397話(2021/02/15~03/02)〝「蝦夷国」を考究する(1)~(12)〟
同「洛中洛外日記」2795話(2022/07/23)〝羽黒山開山伝承、「勝照四年」棟札の証言〟
同「洛中洛外日記」2799話(2022/07/31)〝勝照四年(588年)、蝦夷国への仏教東流の痕跡〟
同「洛中洛外日記」2800話(2022/08/01)〝倭国(九州王朝)の天子と蝦夷国の参仏理大臣〟
同「洛中洛外日記」2901~2903話(2022/12/26~30)〝蝦夷国領域「会津・高寺」への仏教伝来 (1)~(3)〟
「蝦夷国への仏教東流伝承 ―羽黒山「勝照四年」棟札の証言―」『古田史学会報』173号、2022年。