九州王朝(倭国)一覧

第3421話 2025/02/04

倭人伝「七万余戸」の考察 (2)

 ―弥生時代に戸籍はあったか―

 『三国志』魏志倭人伝に記された邪馬壹国の人口記事「七万余戸」という数字は誇張されたもので信頼できないとされているようです。その理由の一つに、「弥生時代に戸籍制度があったとは思われない」という意見があります。他方、当時の国家制度は中国の影響を受けて、その時代にふさわしい制度があったとする意見もあります。わたしもこの意見に賛成です。

 とは言え、当時の倭国の「戸」制度の内容は未詳です。しかし倭人伝に次の記事が見え、注目されます。

 「尊卑、各有差序、足相臣服。收租賦、有邸閣。國國有市、交易有無、使大倭監之。」

 「租賦を収む」とあるように、「租賦」(祖は穀物、賦は労役と考えられている。注①)を徴収する制度が記されていることから、徴税・徴発のためには戸籍が不可欠です。特に労役や徴兵のためには人口や年齢構成などの把握が必要ですから、吉野ヶ里遺跡や比恵那珂遺跡のような大規模集落、大都市遺構の存在を見ても、それらを造営・維持管理するための国家制度(戸籍・官僚制度・軍事制度・官道など)があったことを疑えません。

 戸制度については古田先生による考察が『倭人伝を徹底して読む』の「第七章 戸数問題」(注②)にあり、倭人伝に見える「戸」を「魏の制度としての戸」としています。そこでは『漢書』地理志の戸数が列記されており、その一戸あたりの人数を計算すると概ね四人から五人であることがわかります。この数値を援用すれば、邪馬壹国の「七万余戸」は約30~35万人となります。これでも邪馬壹国だけで現代の人口推計学による弥生時代の推定人口(北海道・沖縄を除く)約60万人の半数ほどになりますから、両者は整合していません。どちらがより正しいのでしょうか。わたしが学んだ文献史学の方法や立場からは、現代の人口推計学の方法は本当に正しいのかという疑問をどうしても払拭できません。(つづく)

(注)
①国営吉野ヶ里歴史公園HP「弥生ミュージアム 第五章 弥生時代の社会」の解説による。
②古田武彦『倭人伝を徹底して読む』大阪書籍、1987年。


第3420話 2025/02/03

倭人伝「七万余戸」の考察 (1)

 八王子セミナー(注①)の実行委員として、橘高修さん(東京古田会副会長)と意見交換する機会に恵まれました。今、検討しているテーマは、『三国志』魏志倭人伝に記された邪馬壹国の人口記事「七万余戸」の信頼性についてです。当該記事は次のようです。

 「南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戸。」

 一戸の人数がどれくらいかはわかりませんが、仮に5~10人であれば「七万余戸」の邪馬壹国の人口は35~70万人になります。橘高さんから教えていただいたのですが、現代の人口推計学によると、弥生時代の列島の人口(北海道・沖縄を除く)は約60万人とのことなので(注②)、倭人伝の「七万余戸」という記事は誇張されたもので信頼できないとされています。また、弥生時代に戸籍制度があったとは思われないことも、この「七万余戸」という史料事実を歴史事実とはできない理由になっているようです。

 他方、文献史学の方法からすれば、確たる根拠もなく、現代人の認識とあわないという理由で史料事実を否定してはならず、まずは書かれてあるとおりに古代中国人の認識として理解しておくということになります。そのため、現代人による人口推計値約60万人が、どの程度確かな方法や理論により成立しているのかを調べることが必要です。

 更に、もう一つの課題である、邪馬壹国の時代に戸籍があったのか、当時の一戸は何人くらいなのかという調査も必要です。橘高さんの問題提起を受けて、わたしはこれらのテーマについて勉強を始めました。(つづく)

(注)
①八王子市にある大学セミナーハウス主催の「古田武彦記念古代史セミナー」の略称。毎年11月に開催。協力団体として「古田史学の会」も参加している。
②鬼頭宏『図説 人口で見る日本史』PHP出版、2007年。


第3417話 2025/01/26

秀逸!『隋書』俀国伝の

       「九州王朝」解説動画

 「古田史学の会」の会員から、若者向けに古田説・古田史学の解説動画を作成し、YouTube配信してはどうかとのご意見が少なからず寄せられます。わたしも賛成ですし、具体的に検討したことも何回かありました。しかし、今のわたしにはその力が足りず、また時間的余裕もなく、具体化できないままでした。何よりも、今の若者たちの心に届くようなコンテンツを造れるのはわたしではなく、若きクリエイターであるということが決定的でした。

 そうした問題意識もあって、古代史関係のYouTube番組を関心を持って見てきたのですが、先日、竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)より、優れた動画サイトの紹介がありました。「未知の日本史」というタイトルで、『隋書』俀国伝(動画では倭国伝とする)に記された「九州王朝」説を解説した動画でした。その内容から、作成者は古田説をよく勉強されていることがわかりました。アクセス件数も初日だけで九万件を越えたとのことで、同サイトはいわゆるインフルエンサーによるもののようです。ちなみに、昨年の久留米大学公開講座では若者の受講者が突然増えて驚いたのですが、大学関係者の話によると「インフルエンサーが(九州王朝説をテーマとする)同講座を紹介したようだ」とのことでした。現代は、古田説を書籍ではなく、ネットで知る若者が主流の時代であることを改めて思い知らされた次第です。
動画の最後は次の言葉で締めくくられています。

〝それは私たちが教科書で学んできた歴史とは大きく異なる様相を見せていた。
魏徴が編纂したこの歴史書が伝える3つの重大な謎
第一は、なぜ『日本書紀』から消された600年の遣隋使の存在
第二は、700人もの後宮を持つ謎の支配者・多利思北孤
そして第三は、阿蘇山の記述から浮かび上がるもう一つの王朝の可能性である。

 これらの謎は、『日本書紀』が描く推古天皇と聖徳太子による日本の統治という一元的な歴史像の背後に、より複雑な政治構造が存在していた可能性を示唆している。そして、7世紀の日本がいかなる国家であったのかを考える上で極めて重要な手掛かりとなっている。この謎は今なお完全には解き明かされていない。『隋書倭国伝』は1400年の時を超えて、私たちに古代日本の新たな可能性を問いかけ続けているのだ。〟
https://youtu.be/xjcap8plu3g?si=82YhFAL5I86zR4qY

 なお、同サイトは「ヤバイ都市伝説」として紹介していますが、わたしたちは学問的有力仮説として検証・研究しなければならないこと、言うまでもありません。

(参考)「宝命」について

サイトおよび記事内は「宝命」で検索願います。

市民の古代・古田武彦とともに 第3集 1981年 古田武彦を囲む会編
古田武彦講演録1 『日本書紀』の史料批判

「遣隋使」はなかった 古田武彦 第一代天子の「宝命」間題

 

中村幸雄論集

新「大化改新」論争の提唱─『日本書紀』の年代造作について
『日本書紀』推古紀の年代造作記事

 

古田史学会報123号(2014年 8月 8日)

『日本書紀の中の遣隋使と遣唐使 服部靜尚

 


第3416話 2025/01/25

日野智貴さんの

  藤原京「九州王朝首都」説の論理

 1月18日、古田史学の会・関西例会の終了後に、日野智貴さん(古田史学の会・編集部)より藤原京の性格について、九州王朝(倭国)の首都と考えるべきとの意見が出されました。その日の例会でわたしが、藤原京を近畿天皇家の天武や持統が王朝交代のために造営したとする見解を発表したことにより、日野さんからこうした批判的意見が出されたものです。日野さんの主張は次のような論理に基づいています。

(1) 九州王朝から大和朝廷へ王朝交代するにあたり、それが禅譲であり、その儀式が藤原京で行われたのであれば、その場に九州王朝の天子がいたはずである。
(2) そのために九州王朝の天子が一時的にでも藤原京にいたのであれば、その期間はそこが九州王朝の王都となる。
(3) 従って一時的であっても、藤原京は九州王朝の都であったと定義すべきである。

 以上のような指摘がなされました。日野さんらしい鋭い視点です。これには、王朝交代が禅譲だったのかという根源的なテーマの検討が必要です。良い機会でもありますので深く考えてみたいと思います。今までの研究では禅譲説を支持するエビデンスとその解釈として、次のことがあげられます。

❶評から郡への変更が701年に全国一斉に行われたことが藤原宮出土荷札木簡などから判断できる。これは王朝交代が事前に周到な準備により、平和裏に行われたことを示唆する。
❷福岡市西区の元岡桑原遺跡から「大宝元年(701年)」木簡が出土しており、九州王朝の中枢領域である筑前の地で、王朝交代の年に大和朝廷の「大宝」年号が使用されていることから、当地は平和裏に大和朝廷の統治下に入ったことを示唆する(注①)。
❸太宰府からは「和銅八年(715年)」のヘラ書きを持つ甕片が複数出土していることもこのことを裏付けている(注②)。

 他方、南九州での隼人の抵抗記事やその痕跡が『続日本紀』に記されており、仮に王朝交代が禅譲であっても、最後の九州年号「大長」の末年(大長九年・712年)まで徹底抗戦した勢力もありました(注③)。

 なお、藤原宮に九州王朝の天子がいたとする仮説は、西村秀己さん(古田史学の会・会計、編集部)が20年前に提起されたものです。日野さんの今回の主張も、西村さんの提起を受けて考察した結果とのことでした。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3053話(2023/06/26)〝元岡遺跡出土木簡に遺る王朝交代の痕跡(3)〟

元岡遺跡出土木簡

②同「洛中洛外日記」3384話(2024/11/28)〝王朝交代直後(八世紀第1四半期)の筑紫 (3)〟
③同「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」『「九州年号」の研究』古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』78号、2007年。


第3415話 2025/01/24

日野智貴さんの歴史教科書改訂案

 1980年頃のこと。歴史教科書に古田説が掲載されたことがあったことを「洛中洛外日記」3404話(2024/12/31)〝教科書に「邪馬壹国」説が載った時代〟で紹介しました。その後、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)の調査により、昭和49年(1974)に三省堂から出版された家永三郎先生の教科書『新日本史』には、本文の「卑弥呼」で次のように書かれていたことがわかりました。

 「卑弥呼は、「魏志」の本文によれば、「邪馬壹国」の女王であったとしるされている。従来はこれを『後漢書』により「邪馬臺国」(臺は台)の誤りと考え、国名をヤマトと読み、そのヤマトが九州のヤマトであるか、今の奈良県のヤマトであるかについて、長年月にわたり、学界で論争がつづけられてきた。最近「壹」は誤字ではないという説があらわれ、卑弥呼の支配する国の名と所在地をめぐり、新しい論議を生んでいる。」16ページ

 このように『三国志』倭人伝原文には邪馬壹国とあることが記され、〝「壹」は誤字ではない〟とした古田説が紹介されています。しかし、現在の教科書本文からは邪馬壹国は消えています。そこで、教科書に詳しい日野智貴さん(古田史学の会・編集部員)に教科書改訂案を作って欲しいとお願いしたところ、次の案が示されました。教科書を書き換えるための効果的な視点を持つ改訂案ではないでしょうか。要点のみ紹介します。

山川出版社『詳説日本史 日本史探究』
「邪馬台国連合」改訂案
日野智貴

p.18 11行目より
《現状》
そこで諸国は共同して邪馬台国〈やまたいこく〉の卑弥呼〈ひみこ〉を女王として立てたところ、ようやく争乱はおさまり、ここに邪馬台国を中心とする29国ばかりの小国の連合が生まれた。

《修正案》
そこで諸国は共同して邪馬台国〈やまたいこく〉(邪馬壱国〈やまいち(ゐ)こく〉)の卑弥呼〈ひみこ(ひみか)〉を女王として立てたところ、ようやく争乱はおさまり、ここに邪馬台国を中心とする30国ばかりの小国の連合が生まれた。

《訂正の趣旨》
学習指導要領には「原始・古代の特色を示す適切な歴史資料を基に,資料から歴史に関わる情報を収集し,読み取る技能を身に付けること」とある。
現行教科書も資料引用部分には「読みといてみよう」の言葉とともに『魏志』「倭人伝」の引用が記され、そこには「今使訳通ずる所三十国」「邪馬壹国に至る」等の記述がある。また「邪馬壹国」の注釈には「壹(壱)は臺(台)の誤りか」とあり、誤りであると断定はしていない。
にも拘らず、本文では「邪馬台国」とのみ掲載し、さらに「三十国」も「29国」としているのは、単に古田学派の立場からオカシイだけでなく、歴史資料を読み取る能力を育成するうえでも問題である。資料の注釈が両論併記ならば、本文も両論併記にすることは当然である。それが資料を読み取る能力の育成につながる。

p.19 6行目より
《現状》
一方、九州説をとれば、邪馬台国連合は北部九州を中心とする比較的小範囲のもので、ヤマト政権はそれとは別に東方で形成され、九州の邪馬台国を統合したか、あるいは邪馬台国の勢力が東遷してヤマト政権を形成したということになる。

《修正案》
一方、九州説をとれば、邪馬台国(九州説では邪馬壱国が正しいとする見解もある)連合は北部九州を中心とするものであるが、北部九州のみの比較的小範囲のものか、本州西部まで含む規模のものかは議論がある。ヤマト政権はそれとは別に東方で形成され、九州の邪馬台国を統合したか、あるいは邪馬台国(邪馬壱国)の勢力かその分派が東遷してヤマト政権を形成したということになる。

《訂正の趣旨》
邪馬台国大和説とは異なり、九州説は多種多様な意見が存在するのであり、大和説同様一枚岩の仮説のように扱うのは不適であるし、また「多面的」な考察を妨げるものである。

 もちろん、様々な仮説を同様に紹介するのは困難であるが、例えば邪馬台国そのものではなくその分流が東遷したというのは、古田先生を批判していた安本美典氏も主張している説であり、立場の異なる複数の論者が主張している見解は教科書に掲載するべきである。


第3410話 2025/01/18

『旧唐書』倭国伝の「五十餘国」

         と「東西五月行」

 本日、 「古田史学の会」関西例会が豊中自治会館で開催されました。2月例会の会場も豊中自治会館です。

 今回、わたしは「『旧唐書』倭国伝の領域 ―東西五月行と五十餘国―」についての研究結果を発表しました。『旧唐書』倭国伝冒頭に記された倭国の領域記事の東西五月行や附属する五十餘国の数値は、従来言われてきた誇大なものではなく、七世紀当時の倭国(九州王朝)律令に基づく〝公的な数値〟とする仮説です。

 「五十餘国」とは律令で規定された66国から九州王朝直轄の九州(九国)を引いた57国(蝦夷国領域〈陸奥・出羽〉も含む)のことで、「東西五月行」も従来言われてきたような誇大値ではなく、律令で定められた「車」による一日の行程が官道の駅間距離の「卅里」に対応しており、東西の駅数を29.5日で割ると約五ヶ月となることから、正確な情報に基づいた記事と考えることができるとしました。
この点について、正木裕さんによる先行研究がありました。正木さんからのメールを紹介します。

《以下、メールから転載》
東西5月行の計算と根拠は以下のとおりです。
『後漢書』卷八十六。南蠻西南夷列傳第七十六「軍行三十里を程(*1日に進む距離)とす。」
(軍行三十里為程,而去日南九千餘里,三百日乃到,計人稟五升,用米六十萬斛,不計將吏驢馬之食,但負甲自致,費便若此。)
倭国:【東西5月行】軍行1日30里(14㌔)5月で150日≒1900㎞、5日1休(「每五日洗沐制」)で125日×14㌔≒1700㌔。五島列島から津軽海峡までの距離。
【南北3月行】3月で90日約1200㎞。5日1休で75日×14㌔≒1000㌔。ただし大半が「水行」なので軍行1日30里は当てはまらない。
『魏志倭人伝』で半島から邪馬壹国まで水行10日、邪馬壹国から投馬国まで20日、半島から投馬国まで計1月。地図で測ると600㎞、3月なら約1800㎞で台湾に届く。
《転載終わり》

 1月例会では下記の発表がありました。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔1月度関西例会の内容〕
①『古事記』定型句の例外について (姫路市・野田利郎)
②百済・倭王同一人物説や付随する諸問題に関して (大山崎町・大原重雄)
③扶桑国についての考察 (たつの市・日野智貴)
④縄文語で解く記紀の神々 景行帝西征譚 (大阪市・西井健一郎)
⑤熊本宇土への調査旅行報告 (東大阪市・萩野秀公)
⑥「磐井の崩御」と「磐井王朝(九州王朝)」の継承について (川西市・正木 裕)
⑦『旧唐書』倭国伝の領域 ―東西五月行と五十餘国― (京都市・古賀達也)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
02/15(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館
03/15(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館


第3404話 2024/12/31

教科書に「邪馬壹国」説が載った時代

 大学セミナーハウス主催の「古田武彦記念古代史セミナー2025」(通称:八王子セミナー)の実行委員をさせていただくことになり、過日の実行委員会にリモートで初参加しました。そのおり、荻上紘一実行委員長(注①)から同セミナーの目的は「教科書を書き変える」であることが強調されました。それは「古田史学の会」創立の精神(注②)にも通じるものですから、わたしは賛意と協力を表明しました。

 とは言え、精神論や抽象論だけではだめですから、教科書を書き変えるための具体的な手続きの調査、そして近年での成功事例として「五代友厚の名誉回復」についての勉強を進めています(注③)。このことは別に紹介したいと思います。

 ご存じの方は少なくなったと思いますが、古田説が教科書に掲載されたことがありました。それは1980年頃の高校歴史教科書です。当時、16種の歴史教科書が出版されており、その内2種の教科書に通説の「邪馬台国」とともに古田説の「邪馬壹国」が記載されていました。中でも家永三郎氏が執筆した三省堂の教科書『新日本史』脚注には次のように書かれていました(注④)。

「今日伝わる文献のうち、『後漢書』『梁書』『隋書』などには邪馬臺国とあり、『魏志倭人伝』では、邪馬台国を邪馬壹国と記すが、邪馬臺(台)が正しいとする説が有力である。」

 もう一つの門脇禎二氏らによる『高校日本史』(三省堂)には本文中に次のように記されています。

「各地約30の小国を統合し、支配組織をより大きくととのえた国家が出現した。中国の『魏志倭人伝』に記された邪馬臺国(以下、邪馬台国と書く。邪馬「壹」国説もある)」

 その他14の教科書には「邪馬臺(台)国」だけが記されています。現在の歴史教科書全てを見たわけではありませんが、いつのまにか「邪馬壹国」は消されたようです。「邪馬壹国」が併記された教科書が今もあれば、ご教示下さい。「教科書を書き変える」の一つとして、1980年頃の「邪馬壹国」が併記されていた教科書に「書き戻す」ことから取り組むのが現実的かもしれません。

(注)
①大学セミナーハウス理事長で数学者。古田武彦氏が教鞭をとった長野県松本深志高校出身。東京都立大学総長、大妻女子大学々長を歴任。二〇二一年、瑞宝中綬章受章。
②古田史学の会・会則第2条に次の目的が明記されている。
「本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。」
③八木孝昌『五代友厚 名誉回復の記録 ―教科書等記述訂正をめぐって―』PHP研究所、2024年。
《同書著者による解説》『新・五代友厚伝』(PHP研究所)発刊後に大阪市立大学同窓会を中心に始まった五代名誉回復活動は、この4年間で劇的な結末を迎えた。明治14年の開拓使官有物払い下げ事件で政商五代が不当な利益をたくらんだとする高校日本史教科書の記述が訂正されるとは、誰が予想したであろうか。本書は教科書記述訂正に至るプロセスを克明に追った迫真のドキュメントであるとともに、真実を求める活動の未来を指し示す希望の書である。
◆五代友厚 1836~85年。薩摩藩の士族出身。明治政府の役人として今の大阪府知事にあたる「判事」を務めた後、実業界に転じた。「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一と並び「東の渋沢、西の五代」と称された。
④百埼大次「『邪馬台国』から邪馬壹国へ」『市民の古代・古田武彦とともに』第二集増補版、古田武彦を囲む会編(後に「市民の古代研究会」に改称)、1980年。増補版は1984年刊。


第3403話 2024/12/30

「列島の古代と風土記」

(『古代に真実を求めて』28集)の目次

来春発行予定の『古代に真実を求めて』(明石書店)の初校ゲラ校正が年末年始の仕事の一つになりました。28集のタイトルは「列島の古代と風土記」です。2024年度賛助会員に進呈しますが、書店やアマゾンでも購入できます。目次は次の通りです。

【巻頭言】多元史観・九州王朝説は美しい 古賀達也

【特集】列島の古代と風土記
「多元史観」からみた風土記論―その論点の概要― 谷本 茂
風土記に記された倭国(九州王朝)の事績 正木 裕
筑前地誌で探る卑弥呼の墓―須玖岡本に眠る女王― 古賀達也
《コラム》卑弥呼とは言い切れない風土記逸文にみられる甕依姫に関して 大原重雄
筑紫の神と「高良玉垂命=武内宿禰」説 別役政光
新羅国王・脱解の故郷は北九州の田河にあった 野田利郎
新羅来襲伝承の真実―『嶺相記』と『高良記』の史料批判― 日野智貴
『播磨風土記』の地名再考・序説 谷本 茂
風土記の「羽衣伝承」と倭国(九州王朝)の東方経営 正木 裕
『常陸国風土記』に見る「評制・道制と国宰」 正木 裕
《コラム》九州地方の地誌紹介 古賀達也
《コラム》高知県内地誌と多元的古代史との接点 別役政光

【一般論文】
「志賀島・金印」を解明する 野田利郎
「松野連倭王系図」の史料批判 古賀達也
喜田貞吉と古田武彦の批判精神―三大論争における論証と実証― 古賀達也

【付録】
古田史学の会・会則
古田史学の会・全国世話人名簿
友好団体
編集後記
第二十九集投稿募集要項 古田史学の会・会員募集


第3402話 2024/12/29

九州王朝の都、太宰府の温泉 (4)

九州王朝の多利思北孤が次田温泉(すいたのゆ)がある太宰府に都(倭京)を造営し、遷都(遷宮)したのは九州年号の倭京元年(618年)と考えています(注①)。そこで今回は阿毎多利思北孤と温泉という視点で考察しました。

多利思北孤は旅行が好きだったようで、その痕跡が諸史料に残されています(注②)。その代表が伊予温湯碑銘文です。碑は行方不明ですが、その銘文が『釈日本紀』または『万葉集註釈』所引「伊予国風土記逸文」に見えます。下記のようです。JISにない字体は別字に置き換えていますが、本稿テーマの主旨には問題ないと思いますので、ご容赦下さい。

○伊予温湯碑銘文
法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵慈法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。

惟夫、日月照於上而不私。神井出於下無不給。万機所以妙応、百姓所以潜扇。若乃照給無偏私、何異干寿国。随華台而開合、沐神井而瘳疹。詎舛于落花池而化羽。窺望山岳之巖崿、反冀平子之能往。椿樹相廕而穹窿、実想五百之張蓋。臨朝啼鳥而戯哢、何暁乱音之聒耳。丹花巻葉而映照、玉菓弥葩以垂井。経過其下、可以優遊、豈悟洪灌霄庭意歟。才拙、実慚七歩。後之君子、幸無蚩咲也。

冒頭の「法興六年」は多利思北孤の「年号」で596年(注③)に当たります。多利思北孤(法王大王)が恵慈法師と葛城臣を伴って伊予まで行幸したことを記した碑文です。夷与村で神井を見たことを記念して碑文を作ったとあり、その文に「沐神井而瘳疹」とありますから、神井に沐浴したようです。「神井」とあり、温泉とは断定できませんが(注④)、多利思北孤は旅先での沐浴を好んでいたようにも思われます。

この後、倭京元年(618)に新都「倭京」を太宰府に造営・遷都したのも、今の二日市温泉、次田温泉(すいたのゆ)が近傍にあることが理由の一つにあったものと、この碑文からうかがえるのではないでしょうか。(おわり)

(注)
①古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年。
②正木 裕「多利思北孤の『東方遷居』について」『古田史学会報』169号、2022年。
③正木裕氏によれば、「法興」は多利思北孤が仏門に入ってからの年数であり、それを「年号」的に使用したとする。
正木 裕「九州年号の別系列(法興・聖徳・始哭)について」『古田史学会報』104号、2011年。
④合田洋一氏の説によれば、碑文の「神井」は松山市の道後温泉ではなく、西条市にあった神聖(不可思議)な泉のこととする。
合田洋一『葬られた驚愕の古代史』創風社出版、2018年。


第3400話 2024/12/23

九州王朝の都、太宰府の温泉 (3)

 太宰府条坊都市の近傍(南端)にある二日市温泉の存在が古代に遡り(注①)、九州王朝の天子や太宰府の官僚、庶民にとって貴重な温泉(次田温泉・すいたのゆ)であり、いうならば九州王朝が管理した王朝御用達の温泉だったと考えました。そのことを示す史料として、平安時代末期、後白河法皇が編纂した歌謡集『梁塵秘抄』に収録された、二日市温泉(すいたの湯)での入浴の順番を示した歌を紹介しました。

 「次田(すいた)の御湯の次第は、一官二丁三安楽寺、四には四王寺五侍、六膳夫、七九八丈九傔仗、十には國分の武蔵寺、夜は過去の諸衆生」 日本古典文学大系『和漢朗詠集 梁塵秘抄』「梁塵秘抄」383番歌、岩波書店。

 次いで検討したのが、太宰府(倭京)をこの地に造営した理由です。九州王朝の多利思北孤がこの地に都を造営し、遷都(遷宮)した理由は次の点ではないかと考えています。

(1) 新羅や高句麗による北(博多湾)からの侵攻と、隋による南(有明海)からの侵攻に対して、防衛に有利な地である。水城と筑後川が防衛ラインとなる。
(2) 北に大野城(列島最大の山城)、南に基山(城山)があり、緊急避難が可能。
(3) 筑後・豊前・豊後・肥前・肥後へと向かう官道があり、交通の要所に位置する。
(4) 福岡平野や筑紫平野という九州最大の穀倉地帯がある。
(5) 南の朝倉方面には最古の須恵器窯跡があり、西には三大須恵器窯跡群(注②)の一つ、牛頸(うしくび)窯跡群が有り、太宰府条坊都市へ土器や瓦を供給できる。
(6) 近隣に次田温泉(二日市温泉)があり、王家の人々や官僚、武人の湯治に便利である。

 以上のように、太宰府(倭京)は実に優れた地に造られた都と言えます。特に、古代に於いて京内に温泉を持つことは、難波京・近江京・藤原京・平城京・平安京にはない一大利点です。(つづく)

(注)
①『万葉集』巻六 961番歌の大伴旅人の歌に「次田(すいた)温泉」とあり、二日市温泉のこととされる。
作者 大伴旅人
題詞 帥大伴卿宿次田温泉聞鶴喧作歌一首
原文 湯原尓 鳴蘆多頭者 如吾 妹尓戀哉 時不定鳴
訓読 湯の原に鳴く葦鶴は我がごとく妹に恋ふれや時わかず鳴く
②堺市の陶邑、名古屋市の猿投山(さなげやま)と牛頸(うしくび)の須恵器窯跡群は三大須恵器窯跡群遺跡と称される。


第3398話 2024/12/20

九州王朝の都、太宰府の温泉 (2)

 「温泉」という切り口と多元史観・九州王朝説に基づき研究を始めたのですが、太宰府条坊都市の近傍(南端)にある二日市温泉の存在が古代に遡ることがわかり、九州王朝の天子や太宰府の官僚、庶民にとって貴重な温泉(次田温泉・すいたのゆ)であることに気づきました。いうならばそれは九州王朝が管理した王朝御用達の温泉だったと思われるのです。

 ちなみに筑紫野市観光協会のHPによれば、二日市温泉の泉温は55.6度、泉質はアルカリ性単純温泉(低張性アルカリ性高温泉)で、神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔症、冷え性、病後回復期、疲労回復、健康増進に効果があるとされています。
古代に於いて都の近くの温泉であれば、王朝にとっても貴重な施設であったはずです。そのことを示す史料がありました。平安時代末期、後白河法皇が編纂した歌謡集『梁塵秘抄』です。同書には、二日市温泉(すいたの湯)での入浴の序列を示した次の歌があります。

 「すいたのみゆのしたいは、一官二丁三安楽寺 四には四王寺五さふらひ、六せんふ 七九八丈九けむ丈 十にはこくふんのむさしてら よるは過去の諸衆生」

 岩波の日本古典文学大系『和漢朗詠集 梁塵秘抄』には次のように表記されています。

 「次田(すいた)の御湯の次第は、一官二丁三安楽寺、四には四王寺五侍、六膳夫、七九八丈九傔仗、十には國分の武蔵寺、夜は過去の諸衆生」 383番歌

 この歌によれば、最初に入浴するのは太宰府の高官、次に丁(観世音寺の僧侶と理解されているが未詳)、安楽寺の僧侶、四王寺の僧侶、太宰府勤務の武士、太宰府勤務の料理人が続き、「七九八丈」の意味も不明。「けむ丈」は傔仗で護衛の武士。そして最後に入浴するのは武蔵寺の僧侶、そのあと(夜)は過去の諸衆生(先祖の霊か)とされています。

 これは平安時代の序列ですが、七世紀の九州王朝時代であれば、太宰府の高官の前に、天子やその家族が入浴したのではないでしょうか。昼間の最後に武蔵寺の僧侶とされていますが、同温泉の所在地が旧・武蔵寺村ですから、地元の寺の僧侶が後片付けや掃除の担当だったのかもしれません。しかし、この歌には庶民の入浴が記されていませんので、古代でも「川湯」だったのであれば、庶民は下流で入浴していたのかもしれません。(つづく)


第3397話 2024/12/19

九州王朝の都、太宰府の温泉 (1)

 「洛中洛外日記」3395話(2024/12/17)〝蝦夷国と倭国(九州王朝)は温泉大国〟において、蝦夷国と倭国(九州王朝)が共に温泉大国であることを紹介しました。「温泉」という切り口で古代史研究することも面白そうなので、九州王朝と温泉について考えてみました。

 令和四年の県別の温泉湧出量順位(環境省調査)は次の通りです。

《都道府県別温泉の湧出量の順位》
一位 大分県  29万5708リットル/分
二位 北海道  19万6262リットル/分
三位 鹿児島県 17万5145リットル/分
四位 青森県  13万8559リットル/分
五位 熊本県  12万9962リットル/分
六位 岩手県  11万2081リットル/分
七位 静岡県  11万 495リットル/分
八位 長野県  10万4716リットル/分
九位 秋田県   8万8416リットル/分
十位 福島県   7万7379リットル/分

 以上のデータと対応する九州王朝関係の温泉地は次の通りです。

○湯布院温泉〔大分県由布市〕『日本書紀』(注①)
○別府温泉(鶴見岳)〔大分県別府市〕『万葉集』「伊予国風土記逸文」(注②)
○阿蘇山〔熊本県〕『隋書』俀国伝(注③)
○二日市(次田)温泉〔福岡県筑紫野市〕『万葉集』(注④)

 この中でわたしが最も注目したのが、九州王朝の都(倭京)太宰府(太宰府市)の南に隣接する二日市温泉です。この温泉は「次田温泉(すいたのゆ)」として史料上でも奈良時代まで遡ることができる古湯です。それは『万葉集』に見える大宰帥(だざいのそち)大伴旅人が亡き妻を慕って詠んだ次の歌です。

帥大伴卿 宿次田温泉 聞鶴喧 作歌一首
湯の原に 鳴く葦鶴は 我がごとく 妹に恋ふれや 時わかず鳴く

 「次田温泉」(現・二日市温泉)は太宰府条坊都市の南端に位置する温泉で、おそらく九州王朝時代から、太宰府にいた天子や官僚、武人、庶民が利用していたのではないでしょうか。というよりも、この温泉が湧く地に隣接した所に、天子の阿毎多利思北孤が九州王朝の都を置いたと考えることもできそうです。ちなみに二日市温泉は、近世に至るまで筑紫(福岡県)では唯一の温泉として知られていました。明治頃の写真や地図には、鷺田川をせき止めた「川湯」と紹介されており、珍しいタイプの温泉です。(つづく)

(注)
①古田武彦「第六章 蜻蛉島とはどこか」『盗まれた神話 記・紀の秘密』朝日新聞社、昭和五十年(一九七五)。ミネルヴァ書房より復刻。

 古田氏は、神武紀三十一年条に見える「……内木綿(ゆふ)の真迮(まさ)き国と雖も、蜻蛉(あきつ)の臀呫(となめ)の如くあるかな」の「木綿(ゆふ)」を湯布院盆地のこととされた。

②古田武彦氏は、『万葉集』巻一 2番歌の「天の香具山」を別府の鶴見岳とする説を「万葉学と神話学の誕生」(大阪、1999年)や「『万葉集』は歴史をくつがえす」『新・古代学』第4集(新泉社、1999年)などで発表した。

 また、『釈日本紀』巻七に収録された「伊予国風土記逸文」に見える「倭」の「天加具山」を鶴見岳とする論稿を筆者は発表した(「『伊予風土記』新考」『古田史学会報』68号、2005年)。

③『隋書』俀国伝に「阿蘇山」の噴火が記されている。
「阿蘇山有り、其の石、故無くして火を起こし天に接す。」

④『万葉集』巻六 961番歌
作者 大伴旅人
題詞 帥大伴卿宿次田温泉聞鶴喧作歌一首
原文 湯原尓 鳴蘆多頭者 如吾 妹尓戀哉 時不定鳴
訓読 湯の原に鳴く葦鶴は我がごとく妹に恋ふれや時わかず鳴く