九州王朝(倭国)一覧

第3389話 2024/12/09

『旧唐書』倭国伝・日本国伝の

          「蝦夷国」 (1)

 「洛中洛外日記」〝『旧唐書』倭国伝の「東西五月行、南北三月行」 〟(注①)で、倭国伝冒頭(注②)に見える倭国(九州王朝)に「附屬」している「五十餘国」に蝦夷国が含まれる可能性について論じました。そこでの結論は、倭国伝には「在新羅東南大海中」とあり、本州島が半島ではなく大海中の島国と認識されていることから(津軽海峡の存在を知っている)、このことを重視すれば、倭国に「附屬」する「五十餘国」に、津軽海峡を知悉しているであろう蝦夷国(陸奥国・出羽国)が含まれていたと考えた方がよいとしました。すなわち、「東西五月行」の領域には蝦夷国(後の出羽国・陸奥国)が含まれるとする理解です。

 これは七世紀後半に蝦夷国が倭国(九州王朝)に服属していたか否かというテーマでもあります。わたしの考察によれば、七世紀後半頃の蝦夷国は倭国の影響下にあり、その状況を「附屬」と『旧唐書』編者は表したとするに至りました。このことを示唆する『日本書紀』斉明五年(659)七月条の「伊吉連博德書」の記事があります(注③)。

「天子問いて曰く、蝦夷は幾種ぞ。使人謹しみて答ふ、類(たぐい)三種有り。遠くは都加留(つかる)と名づけ、次は麁蝦夷(あらえみし)、近くは熟蝦夷(にきえみし)と名づく。今、此(これ)は熟蝦夷。毎歳本國の朝に入貢す。」

 唐の天子の質問に対して、蝦夷国には都加留と麁蝦夷と熟蝦夷の三種類があると、倭国の使者は答えています。遠くの都加留とは津軽地方(現・青森県)のことと思われ、その地の蝦夷が津軽海峡の存在を知らないはずがありません。従って、倭国伝には倭国の位置を「在新羅東南大海中」の島国と記されたわけです。また、熟蝦夷が毎歳「本國之朝」に入貢しているという記述も、倭国に「附屬」している「五十餘国」に蝦夷国が含まれているとする、わたしの見解を支持しているのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3385話(2024/12/03)〝『旧唐書』倭国伝の「東西五月行、南北三月行」 (1)〟
②『旧唐書』倭国伝冒頭の記事。
「倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島、五十餘國、皆附屬焉。」
③『日本書紀』斉明五年(659)七月条に次の蝦夷関連記事がある。
秋七月丙子朔戊寅、遣小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥、使於唐國。仍以道奧蝦夷男女二人示唐天子。
伊吉連博德書曰「(前略)天子問曰、此等蝦夷國有何方。使人謹答、國有東北。天子問曰、蝦夷幾種。使人謹答、類有三種。遠者名都加留、次者麁蝦夷、近者名熟蝦夷。今此熟蝦夷毎歳入貢本國之朝。天子問曰、其國有五穀。使人謹答、無之。食肉存活。天子問曰、國有屋舍。使人謹答、無之。深山之中、止住樹本。天子重曰、朕見蝦夷身面之異極理喜怪、使人遠來辛苦、退在館裏、後更相見。(後略)」
難波吉士男人書曰「向大唐大使觸嶋而覆、副使親覲天子奉示蝦夷。於是、蝦夷以白鹿皮一・弓三・箭八十獻于天子。」


第3387話 2024/12/06

『旧唐書』倭国伝の

   「東西五月行、南北三月行」 (3)

今回は『旧唐書』倭国伝冒頭に見える、「東西五月行、南北三月行」の「南北三月行」について検討します。
「東西五月行」の検証と同様の視点により、倭国(九州王朝)の南北の距離(月数表記)を得るために、古代官道(駅路)と海道の対馬・壹岐から薩摩国・南島諸国までの駅数(『延喜式』「兵部省」による、注①)を合計するのですが、『延喜式』や『養老律令』には海路についての規定が見えず、種子島・屋久島・奄美大島などの南島諸国の行程日数の判断が今のところ困難です。そこでとりあえず、南北行路(九州縦断西陸路)にあり、薩摩国の古代からの港、坊津までの駅数を仮定し合計すると、概ね次のようになります。

❶肥前国(登望~大村 5駅)→筑前国内大宰府経由(佐尉~把伎 10駅) 計15駅
❷筑後国内(国府~狩道) 4駅
❸肥後国内 15駅
❹薩摩国内(市来~櫟野 6駅)→坊津(南さつま市)まで(仮に3駅と仮定) 計9駅

Ⅰ ❶❷❸❹の合計43駅
43駅÷29.5日≒1.5ヶ月 概数表記 「南北二月行」
Ⅱ これに壱岐島の2駅を加えると45駅。更に九州島との海峡渡海に1日を加える。
(45駅+1日)÷29.5日≒1.6ヶ月 概数表記 「南北二月行」
Ⅲ 更に対馬島内を4駅と仮定し、壹岐島への渡海1日を加える。
(49駅+2日)÷29.5日≒1.7ヶ月 概数表記 「南北二月行」
Ⅳ 更に南島諸国の面積・人口比較などに基づき(注②)、種子島3駅・屋久島2駅・奄美大島3駅・徳之島2駅(計10駅)と仮定し、それぞれの渡海1日(計4日)を加える。
(59駅+6日)÷29.5日≒2.2ヶ月 概数表記 「南北二月行」

以上の試算によれば、「南北二月行」との概数が得られました。『旧唐書』の「南北三月行」には足りませんが、南島諸国の範囲・駅数や、海路の行程日数などが全て仮定の値を使用しており、不正確なものとせざるを得ません。しかしながら大きくは外れていませんし、慎重を期して沖縄(琉球国)を南島諸国に入れていませんので、沖縄を加えれば「南北三月行」という表現は妥当となりそうです。結論として、『旧唐書』や『隋書』に見える倭国の領域表記「東西五月行、南北三月行」は、当時の倭国側の実測値に基づく妥当な認識のように思われます。(おわり)

(注)
①『延喜式』兵部省の「諸國駅傳馬」に記載された駅数よる。
②各島の面積と人口(2020年 総務省)。駅数は次のようにする。
壹岐島  135km2 25,000人 2駅『延喜式』による。
対馬島 696km2 28,374人 (4駅) 仮定。
種子島 444km2 27,690人 (3駅) 仮定。
屋久島 504km2 11,765人 (2駅) 仮定。
奄美大島 712km2 57,511人 (3駅) 仮定。
徳之島  248km2 21,803人 (2駅) 仮定。


第3386話 2024/12/04

『旧唐書』倭国伝の

    「東西五月行、南北三月行」 (2)

 本テーマで、わたしは古代官道(駅路)の行程日数を一日一駅として月数(概数)を計算しました。例えば、「東海道五十三次」であれば、終着点の京への一日を加えて、五十四日の旅程とし、それを陰暦の一月の平均値29.5日で割り(54÷29.5≒1.8ヶ月)、概算月数表記は「二月行」になると考えたわけです。これに対して、東海道は徒歩でも12~13日で行けるので(注①)、「一日一駅」は適切ではないとする反論が出ることを当然ながら予想できました。しかしその上で、『旧唐書』倭国伝の記事「東西五月行、南北三月行」は「一日一駅」によるものと判断しました。その理由はフィロロギーの方法と文献史学によるエビデンスと研究結果にありました。今回はこの二点について説明します。

 まず、フィロロギーの〝古代人がどのように考え、認識していたのかを、現代のわたしたちが正確に再認識する〟という視点で、次のように考察しました。

(1) 『旧唐書』倭国伝の記事「東西五月行、南北三月行」は前代の史書『隋書』俀国伝の「其國境、東西五月行、南北三月行、各至於海」を採用したものと考えられる。
(2) 俀国伝には、その記事の直前に「夷人は里數を知らず。但(ただ)、計るに日を以(もっ)てす」とあり、夷人(倭人)は里数(里という単位)を知らないので、距離を行程日数(月数)で計っていると『隋書』の編者は認識している。
(3) しかし、隋の時代(七世紀初頭)に至っても倭国が里単位を知らなかったなどとは考えられない。距離や長さの単位を国家が認定し、採用していなかったのであれば、法隆寺のような建築物や太宰府条坊都市などを設計・造営できないからだ。
(4) 従って、隋や唐が採用した長里(注②)と古くからの短里(一里約76m)を採用していた倭国の里単位とでは、同じ距離の測定値が大きく異なることになるため、隋の使者は〝倭人は里単位を知らない〟と判断したものと思われる。そのため、倭国の距離を倭人からの月数表記情報に基づき、隋使は「其國境、東西五月行、南北三月行」と本国に報告し、『隋書』編者はそれを採用した。
(5) この理解に立てば、倭人は自国の領域を「東西五月行、南北三月行」と認識していたことになる。従って、この月数は実際の行程日数に基づいたものと考えざるを得ない。倭人がウソをついたとするのであれば、そう主張する側が根拠を示し、論証しなければならない。
(6) 逆に、この「東西五月行、南北三月行」という認識が正しければ、そのことを証明できるエビデンスがあるはずだ。

 以上の考察により、わたしは『延喜式』「諸國駅傳馬」に記された駅路と駅数をエビデンスとして採用し、「一日一駅」で試算したところ、『隋書』や『旧唐書』の「東西五月行」という表現とピッタリ対応することに気づいたのです。
次に、文献史学によるエビデンス調査と研究を行いました。その調査は主に「一日一駅」の根拠に集中しました。そして『養老律令』(注③)に次の条項があることを確認しました。

(7) 凡そ諸道に駅置くべくは、卅里毎に一駅を置け。(後略)〔厩牧令「須置駅条」〕
(8) 凡そ行程、馬は日七十里、歩(かち)五十里、車卅里。〔公式令「行程条」〕

 厩牧令「須置駅条」によれば、駅路には三十里(約16km)毎に駅を置くことが定められています。ただし、地勢や水源などの条件によってはその距離の増減も同条後文で認められています。そして公式令「行程条」には、一日の行程距離が規定されており、荷物を運ぶ「車」は三十里とあり、これは駅間の距離と同じです。従って、食料や水などの必需品の「車」での運搬が必要な遠路の行程では、「一日一駅」が令条文により定められた行程であることがわかります。ちなみに、この「車」による行路であることを示す「車路(くるまじ)」「クルマジ」という地名が古代官道跡に遺存していることも知られています(注④)。

 以上のように、「一日一駅」として行程日数を求めたことは適切な判断でした。(つづく)

(注)
①武部健一『道路の日本史 古代駅路から高速道路へ』中公新書、2015年。同書120頁に「江戸時代の東海道の旅は、一般に一二~一三日を要した」とある。
②古賀達也「唐代里単位の考察 ―「小里」と「大里」の混在―」『古田史学会報』175号、2023年。『旧唐書』地理志によれば、唐では「小里」(約430m)と「大里」(約540m)が混在することを論じた。
③『律令』日本思想大系、岩波書店、1990年版。
④木本雅康「西海道の古代官道」『海路』海鳥社、2015年。同稿12頁に「白村江の敗北による対外危機に備えて造られたと推測される古代山城を結ぶように、「車路」と呼ばれる直線路がはりめぐらされている」とある。


第3385話 2024/12/03

『旧唐書』倭国伝の

   「東西五月行、南北三月行」 (1)

 「洛中洛外日記」3380話〝『旧唐書』倭国伝の「四面小島、五十餘国」〟(注①)において、倭国伝冒頭(注②)に見える倭国(九州王朝)に「附屬」している「五十餘国」を、律令制による六十六国(年代により変化する)から九州島の九国と蝦夷国に相当する陸奥国あるいは出羽国も除いた国の数(五十六国、五十五国)ではないかとしました。もし蝦夷国が「附屬」の国に含まれていれば五十七国となります。

 この仮説が妥当であれば、倭国伝に記された倭国の地勢や領域を表現した「東西五月行、南北三月行」について説明できることに気づきました(注③)。たとえば「東海道五十三次」のように、江戸から京までの宿場ごとに一泊すれば、東海道の距離を次のように月数表記できます。

 東海道53+京1=54日
54÷29.5日(陰暦の一ヶ月)≒1.8ヶ月
概数表記 「東西二月行」

 これと同様の視点により、倭国(九州王朝)の東西の領域を律令制諸国の肥前国から陸奥国(蝦夷国)までの古代官道(駅路)の駅数を『延喜式』(注④)の「諸國駅傳馬」記事から求めると、その合計は次のようになります。

❶肥前国(15駅)→大宰府(1)→豊前国北端(2駅) 計18駅
❷山陽道(56駅) 計56駅
❸畿内(摂津国3駅・河内国3駅・山城国1駅・京1駅) 計8駅
❹東山道(常陸国まで) 計51駅
❺東山道(陸奥国内24駅を含む) 計75駅

◎常陸国まで ❶❷❸❹133駅÷29.5日≒4.5ヶ月 概数表記 「東西五月行」
◎陸奥国内を含む ❶❷❸❺157駅÷29.5日≒5.3ヶ月 概数表記 「東西五月行」

 このように、倭国(九州王朝)に陸奥国(蝦夷国)が「附屬」していても、していなくても、月数表記の概数は「東西五月行」となり、『旧唐書』倭国伝の東西領域距離「東西五月行」と一致します。結論として、古田先生が提起された「東西五月行」領域と似た認識に至りました。また、倭国伝には「在新羅東南大海中」とあり、本州島が半島ではなく大海中の島国と認識されていますから(津軽海峡の存在を認識している)、このことを重視すれば「東西五月行」に、津軽海峡を知悉しているであろう蝦夷国(陸奥国・出羽国)が含まれていたと考えた方がよいように思われます。これは七世紀後半の蝦夷国が倭国に「附屬」していたか否かというテーマでもあり、速断しない方が良いかも知れません。

 なお、本稿の論証が成立するためには、『延喜式』成立時(927年)と唐代の倭国(七世紀後半頃)における駅路と駅数がほぼ同じであることを前提としますが、「東西五月行」という±10%の幅を持つ概数表記であるため、エビデンスや方法論に大過ないと思われます。続いて「南北三月行」も同じ視点で検証します。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3380話(2024/11/20)〝『旧唐書』倭国伝の「四面小島、五十餘国」〟
②『旧唐書』倭国伝の冒頭の記事。
「倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島、五十餘國、皆附屬焉。」
③『隋書』俀国伝にも俀国の領域を「其國境、東西五月行、南北三月行、各至於海」とする記事がある。
④『延喜式』兵部省の「諸國駅傳馬」に記載された駅数よる。


第3380話 2024/11/20

『旧唐書』倭国伝の

      「四面小島、五十餘国」

 飛鳥・藤原跡から出土した七世紀後半(評制)の荷札木簡の献上国一覧については、「洛中洛外日記」でも紹介してきました(注①)。その献上国分布には従来の一元史観では説明し難い問題がありました。その最たるものが、周防国・伊予国よりも西側の国々、すなわち九州諸国からの荷札木簡が一点も見えないという出土事実です。従来説では、九州諸国の献上物(税など)は、一端、大宰府に集められたためと説明されているようです。しかしそれならば、大宰府からの荷札木簡があってもよいはずですが、飛鳥・藤原跡からは出土していません。他方、平城京跡からは大宰府からの荷札木簡が出土しています(注②)。

 この荷札木簡の献上国の分布状況を知り、『旧唐書』倭国伝の記事と対応していることに気づきました。

【『旧唐書』倭国伝の冒頭】
「倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島、五十餘國、皆附屬焉。」

 「四面小島五十餘國、皆附屬焉」の一節は、倭国の周囲(四面)に小島と五十余国があり、皆倭国に附屬していると読めます。この五十余国とは、律令制の六十六国(年代により変化する)から九州島の九国と蝦夷国に相当する陸奥国を除いた国の数(五十六国)ではないでしょうか。なお、九州王朝(倭国)による六十六ヶ国分国については正木裕さんの研究がありますのでご参照ください(注③)。

 この理解が正しければ、九州を除く五十余国は王朝交代直前の近畿天皇家の統治領域となり、『旧唐書』日本国伝に見える「日本舊小國、併倭國之地」の「地」であり、倭国全体を併合する王朝交代の歴史経緯の一局面を荷札木簡の分布は示しているのではないでしょうか。そして、「東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國」に見える毛人国は蝦夷国とする理解も成立しそうです。

 このように同時代史料で自国出土の木簡を基本エビデンスとして、後代史料である中国史書の倭国伝などを理解するという学問の方法を改めて重視したいと思います。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2394話(2021/02/27)〝飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の国々〟
同「洛中洛外日記」2399話(2021/03/04)〝飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(2)〟
同「洛中洛外日記」3377話(2024/11/10)〝王朝交代前夜の天武天皇 (4)〟
②奈良文化財研究所HP「木簡庫」によれば、次の「大宰府」木簡が平城京跡から出土している。
○【木簡番号】0
【本文】・大宰府貢交易油三斗□□〔五升ヵ〕・○寶亀三年料
【遺跡名】平城京左京七条一坊十六坪東一坊大路西側溝
【遺構番号】SD6400 【国郡郷里】筑前国大宰府
【和暦】宝亀3年【西暦】772年
○【木簡番号】0
【本文】□□〔筑紫〕大宰進上筑前国嘉麻郡殖□〔種〕→
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【国郡郷里】筑前国大宰府・筑前国嘉麻郡
○【木簡番号】0
【本文】筑紫大宰進上筑前国穂波→
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【内容分類】荷札
【国郡郷里】筑前国大宰府・筑前国穂浪郡
○【木簡番号】0
【本文】筑紫大宰進上肥後国託麻郡…□子紫草
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【内容分類】文書
【国郡郷里】筑前国大宰府・肥後国託麻郡
○【木簡番号】0
【本文】←□〔紫〕大宰進上肥後国託麻郡殖種子紫→
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【内容分類】荷札
【国郡郷里】筑前国大宰府・肥後国託麻郡
○【木簡番号】0
【本文】筑紫大宰進上薩麻国殖→
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【内容分類】荷札
【国郡郷里】筑前国大宰府・薩摩国
③正木 裕「九州年号「端政」と多利思北孤の事績」『古田史学会報』97号、2010年。
「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の『六十六ヶ国分国・六十六番のものまね』と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』古田史学の会編、明石書店、2015年。


第3378話 2024/11/12

王朝交代前夜の天武天皇 (5)

 本シリーズの最後に、『日本書紀』天武紀に記された天武の和風諡号「天渟中原瀛真人天皇」(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)について考察します。

 『日本書紀』の成立は720年であり、厳密には天武天皇と全くの同時代の史料とは言えません。しかしながら、同諡号は天武天皇が崩御(686年)したときに遺族(天武の子ら)により付けられたものと考えられることから、「天渟中原瀛真人天皇」そのものは崩御時の史料に基づいて、天武の子や孫の世代により『日本書紀』に記されたものと考えざるを得ません。

 この天武の諡号で注目されるのが、「天皇」でありながら「真人」が付されていることです。天武紀によれば、真人とは、天武十三年(684)に制定した八色(やくさ)の姓(カバネ)の一つです。上位から順に、真人(マヒト)・朝臣(アソミ)・宿禰(スクネ)・忌寸(イミキ)・道師(ミチノシ)・臣(オミ)・連(ムラジ)・稲置(イナギ)とあり、八色の姓で臣下第一の「真人」姓が、崩御後に天武天皇の諡号に採用されているのです。この事実の持つ意味は重いと思います。

 この『日本書紀』天武紀の記述が正しければ、天皇が臣下に与える「八色の姓」を天武十三年(684)に制定し、その二年後に天武の子らは天武の諡号として「真人天皇」を選んだことになり、これは一元史観の通説では説明し難いことです。そのため、諡号の真人は道教思想の真人(しんじん)のことであり、八色の姓の真人(まひと)とは異なるとする理解も出されているようですが、これはかなり無茶な言いわけではないでしょうか。その言葉の淵源が「真人(まひと)」であろうが「真人(しんじん)」であろうが、天武紀に八色の姓制定記事を載せ、その臣下第一の「真人」を天武の諡号に採用したという事実にかわりはないからです。

 しかし、多元史観・九州王朝説に立てば、八色の姓を制定したのは九州王朝の天子であり、その第一の臣下である天武天皇に「真人」姓を与えたという理解が可能です。飛鳥出土の荷札木簡によれば、九州を除く列島諸国を統治していた天武天皇ですが、王朝交代前夜の時代では九州王朝の天子が倭国全体を「治天下」しているという大義名分がまだ成立していたものと思われます。その根拠の一つとして、七世紀第4四半期に九州年号が使用されていたという史料事実もあります(注)。

 以上、本シリーズで紹介した同時代エビデンスは、王朝交代前夜の九州王朝下のナンバーツーとしての天武天皇の姿に迫ることができたように思われます。これからも九州王朝研究を同時代のエビデンスベースで進めていきます。(おわり)

(注)「白鳳壬申(672年)骨蔵器」や「朱鳥三年戊子(688年)鬼室集斯墓碑」、「大化五子年土器(699年、骨蔵器)」などの同時代金石文が九州年号の存在を証明している。

参考

九州王朝研究のエビデンス⑸  — 「天皇」「皇子」木簡 (付)金石文 古賀達也
https://www.youtube.com/watch?v=C_aCz0pAlPU


第3377話 2024/11/10

王朝交代前夜の天武天皇 (4)

 飛鳥池出土「天皇」木簡の天皇は天武のことであり、木簡の年代は天武五〜七年(676~678)を含む数年間に収まるとする奈良文化財研究所による年代観には幅がありますし、天武が天皇を称し始めた年次そのものを特定できるわけでもありません。この点、もう少し年次を絞り込める七世紀の金石文があります。京都市左京区上高野から出土した小野毛人墓誌です。銘文には「飛鳥浄御原宮治天下天皇」「歳次丁丑年(677)」とあることから、遅くとも丁丑年(天武六年、677年)には天武が天皇を称したことを示す同時代金石文です。

【小野毛人墓誌銘文】
(表)飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上
(裏)小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬
【釈文】
飛鳥浄御原宮に天の下治す天皇の御朝で、太政官、兼刑部大卿、大錦上の位を任ぜられる。
小野毛人朝臣の墓を歳次丁丑年(677)十二月上旬に営造し、即ち葬る。

 この墓誌銘も〝天武八年(679)頃に天武にとっての画期があった〟とする仮説と矛盾しません。当時、天武天皇の下に「太政官」「刑部大卿」という官職があったことも示しており、貴重な金石文です。ここで問題となるのが、「治天下天皇」の「治天下」の範囲です。近畿天皇家にとって、「天下」が倭国全土を意味するのは王朝交代(701年)以降のことですから、天武期に天武天皇が「治天下」した範囲は、飛鳥出土の荷札木簡により推定することができます。

 「洛中洛外日記」(注①)でも紹介しましたが、飛鳥地域と藤原宮(京)地域からは約45,000点の木簡が出土しており、そのなかには350点ほどの評制時代(七世紀後半)の荷札木簡があり、飛鳥宮時代(天智・天武・持統)と藤原宮時代(持統・文武)の近畿天皇家の影響力が及んだ範囲(献上する諸国)を確認することができます。
市大樹さんの『飛鳥藤原木簡の研究』(注②)に収録されている「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」にある国別の木簡データを飛鳥宮地域と藤原宮(京)地域とに分けて点数を紹介します。ここでいう飛鳥宮地域とは飛鳥池遺跡・飛鳥京遺跡・石神遺跡・苑池遺構・他のことで、藤原宮(京)地域とは藤原宮跡と藤原京跡のことです。

【飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡】
国 名 飛鳥宮 藤原宮(京) 小計
山城国   1   1   2
大和国   0   1   1
河内国   0   4   4
摂津国   0   1   1
伊賀国   1   0   1
伊勢国   6   1   7
志摩国   1   1   2
尾張国   9   8  17
参河国  20   3  23
遠江国   1   2   3
駿河国   1   2   3
伊豆国   2   0   2
武蔵国   3   2   5
安房国   0   1   1
下総国   0   1   1
近江国   8   1   9
美濃国  18   4  22
信濃国   0   1   1
上野国   2   3   5
下野国   1   2   3
若狭国   5  18  23
越前国   2   0   2
越中国   2   0   2
丹波国   5   2   7
丹後国   3   8  11
但馬国   0   2   2
因幡国   1   0   1
伯耆国   0   1   1
出雲国   0   4   4
隠岐国  11  21  32
播磨国   6   6  12
備前国   0   2   2
備中国   7   6  13
備後国   2   0   2
周防国   0   2   2
紀伊国   1   0   1
阿波国   1   2   3
讃岐国   2   1   3
伊予国   6   2   8
土佐国   1   0   1
不 明  98   7 105
合 計 227 123 350

 七世紀の飛鳥・藤原出土荷札木簡の献上国に、九州諸国が見えないことにわたしは注目してきました。これは天武・持統期における近畿天皇家の統治領域に九州が含まれていないことを示唆しており、すなわち小野毛人墓誌の「治天下」には九州が含まれていないと考えることができます。

 この理解が正しければ、王朝交代前夜の日本列島には、九州を「治天下」していた九州王朝(倭国)の天子と、その他の領域を「治天下」していた近畿天皇家(日本国)の天皇とが〝併存〟していたことになります。もちろん、この場合でも年号(九州年号)を公布していたのは九州王朝であり、大義名分上は列島を「治天下」していた代表王朝は倭国(九州王朝)であったと考えられます。しかしながら、この時期の荷札木簡の献上国の範囲を比較する限り、実勢力は天武天皇ら近畿天皇家が上であったと考えざるを得ません(注③)。(つづく)

(注)
①「洛中洛外日記」2394話(2021/02/27)〝飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の国々〟
②市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』塙書房、2010年。
③本稿で論じた荷札木簡の献上国の分布事実は『旧唐書』日本国伝の記事「日本舊小國、併倭國之地」の歴史経緯の一端を示しているのではあるまいか。


第3376話 2024/11/09

王朝交代前夜の天武天皇 (3)

 当シリーズでは、天武八年(679)頃に天武にとっての画期(天皇号使用公認か。王朝交代は701年。:古賀試案)があったとする、エビデンスに基づく次の3件の調査研究を紹介しました。

(1) 飛鳥池出土「天皇」木簡の天皇は天武のことであり、その年代は天武五〜七年(676~678)を含む数年間に収まるとする奈良文化財研究所による年代観(注①)。
(2) 天武紀に見える「詔」の年次別出現数が天武八年(679)から目立って増加するという新保高之さんの調査結果(注②)。
(3)『日本書紀』『続日本紀』には、列島遠方地の災害が天武七年(678)から記録されており、この史料事実は、それよりも前は近畿天皇家は列島の代表者ではなかったことを示すとする都司嘉宣さんの研究(注③)。

 (1)は同時代史料の出土木簡を、(2)(3)は後代史料の『日本書紀』(720年成立)をエビデンスとして成立していますが、それぞれ異なる視点の調査研究でありながら、その結論は同じ方向へと収斂しており、これを偶然の一致とするよりも、史実を反映したものとするのが妥当と思われます。この理解を支持するもう一つのエビデンスを紹介します。それは飛鳥(飛鳥宮跡・飛鳥池遺跡・石神遺跡・苑池遺構・他)出土の荷札木簡群です。

 「洛中洛外日記」(注④)でも紹介しましたが、市大樹さんが作成した「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」(注⑤)によれば、七世紀(評制時代)の荷札木簡350点のうち、産品を献上した年次(干支)が記されたものが49点あります。年次順に並べました。次の通りです。

【飛鳥・藤原出土の評制下荷札木簡の年次】
西暦 干支 天皇年 木簡の記事の冒頭 献上国 出土遺跡
《天智期》
665 乙丑 天智4 乙丑年十二月三野 美濃国 石神遺跡
《天武期》
676 丙子 天武5 丙子年六□□□□ 不明  苑池遺構
677 丁丑 天武6 丁丑年十□□□□ 美濃国 飛鳥池遺跡
677 丁丑 天武6 丁丑年十二月次米 美濃国 飛鳥池遺跡
677 丁丑 天武6 丁丑年十二月三野 美濃国 飛鳥池遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅年十二月尾張 尾張国 苑池遺構
678 戊寅 天武7 戊寅年四月廿六日 美濃国 石神遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅年高井五□□ 不明  藤原宮跡
678 戊寅 天武7 戊寅□(年カ)八□  不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年十一月三野 美濃国 石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年八月十五日 不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年      不明  石神遺跡
680 庚辰 天武9 □(庚カ)辰年三野  美濃国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年鴨評加毛五 伊豆国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年□(鰒カ)一連 不明  石神遺跡
682 壬午 天武11 壬午年十月□□□ 下野国 藤原宮跡(下層大溝SD1901A)
683 癸未 天武12 癸未年十一月三野 美濃国 藤原宮跡(下層大溝SD1901A)
684 甲申 天武13 甲申□(年カ)三野  美濃国 石神遺跡
684 甲申 天武13 甲申□(年カ)□□  不明  飛鳥池遺跡
685 乙酉 天武14 乙酉年九月三野国 美濃国 石神遺跡
686 丙戌 天武15 丙戌年□月十一日 参河国 石神遺跡
《持統期》
687 丁亥 持統1 丁亥年若佐国小丹 若狭国 飛鳥池遺跡
688 戊子 持統2 戊子年四月三野国 美濃国 苑池遺構
692 壬辰 持統6 壬辰年九月□□日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月廿四日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月七日三 参河国 石神遺跡
693 癸巳 持統7 癸巳年□     不明  飛鳥京跡
694 甲午 持統8 甲午年九月十二日 尾張国 藤原宮跡
《694年12月 藤原京遷都》
695 乙未 持統9 乙未年尾□□□□ 尾張国 藤原宮跡
695 乙未 持統9 乙未年御調寸松  参河国 藤原宮跡
695 乙未 持統9 乙未年木□(津カ)里 若狭国 藤原宮跡
696 丙申 持統10 丙申年九月廿五日 尾張国 藤原京跡
696 丙申 持統10 丙申□(年カ)□□ 下総国 藤原宮跡
696 丙申 持統10 □□□(丙申年カ)  美濃国 藤原宮跡
《文武期》
697 丁酉 文武1 丁酉年若佐国小丹 若狭国 藤原宮跡
697 丁酉 文武1 丁酉年□月□□□ 若狭国 藤原宮跡
697 丁酉 文武1 丁酉年若狭国小丹 若狭国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年三野国厚見 美濃国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年□□□□□ 若狭国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年六月波伯吉 伯耆国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 □□(戊戌カ)□□  不明  飛鳥池遺跡
699 己亥 文武3 己亥年十月上捄国 安房国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年九月三野国 美濃国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年□□(月カ)  若狭国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年□□□国小 若狭国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年十二月二方 但馬国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年若佐国小丹 若狭国 藤原宮跡
700 庚子 文武4 庚子年三月十五日 河内国 藤原宮跡
700 庚子 文武4 庚子年四月佐国小 若狭国 藤原宮跡
701 《「大宝」建元 王朝交代》

 天武期に注目すると、天武五年から荷札木簡が現れ、六~八年に増えており、この時期に天武の統治力が増したように見えます。ただし、その範囲は東国諸国(美濃国)が中心のようです。恐らくは壬申の乱でこの地域の豪族が天武を支持したのではないでしょうか。もちろん、出土木簡中の年干支が記されたものに限っての判断であり、実際の統治範囲はもっと広範囲だったと思われます。このような飛鳥での荷札木簡の出現・増加時期が、天武八年(679)頃に天武にとっての画期があったとする本テーマの仮説と整合しており、貴重なエビデンスです。(つづく)

(注)
①『奈良文化財研究所学報第七一冊 飛鳥池遺跡発掘調査報告 本文編〔Ⅰ〕─生産工房関係遺物─』奈良文化財研究所、2021年。
②新保高之「東京古田会・読書会〔天武天皇紀下⑩〕」2024年10月26日。
③都司嘉宣「七世紀末の王朝交代を災害記録から検証する」『古田史学会報』184号、2024年。
④古賀達也「洛中洛外日記」2395話(2021/02/28)〝飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の年代〟
⑤市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』塙書房、2010年。


第3375話 2024/11/08

王朝交代前夜の天武天皇 (2)

 「洛中洛外日記」前話(注①)で、飛鳥池出土「天皇」木簡の年代を天武五〜七年(676~678)を含む数年間に収まるとする判断と、天武紀に見える「詔」の年次別出現数が天武八年(679)から目立って増加するという新保高之さんの調査結果(注②)により、天武が天皇を名のり始めた頃から詔を多発し始めたとする見解を述べました。この天武八年頃に天武にとっての画期点があったのではないでしょうか。このことを示唆する研究が最近発表されました。都司嘉宣さんの論文「七世紀末の王朝交代を災害記録から検証する」です(注③)。

 『古田史学会報』最新号一面に掲載された同論文はわずか2頁弱(半頁の表を含む)の短文ですが、『日本書紀』『続日本紀』には、列島遠方地の災害が天武七年(678)から記録されており、この史料事実は、それよりも前は近畿天皇家は列島の代表者ではなかったことを示すものとしました。そして、わたしや新保さんの研究結果とも整合する内容であり、王朝交代前夜の近畿天皇家の実体に迫る上で貴重な知見と言えるでしょう。都司稿は非常に簡潔で秀逸な論文であり、まるで理系論文を読んでいるような気がしました。

 余談ですが、二十世紀最大の発見とされるワトソンとクリックによるDNAの二重らせん構造説を発表したネイチャー誌掲載論文(注④)もわずか2頁です。この短い論文によりワトソンらはノーベル生理学・医学賞(1962年)を受賞しました。わたしも古代史の分野で画期的で短い論文をいつかは書いてみたいと、青年の頃、身の程知らずにも思ったものです。

 都司さんは元東京大学地震研究所准教授で、古田先生が立ち上げた国際人間観察学会の特別顧問でした。同研究会の会報「Phoenix」No.1(2007)は同地震研究所のお力添えを得て発行したもので、都司さんの論文“Similarity of the distributions of the strong seismic intensity zones of the 1854 Ansei Nankai and the 1707 Hoei Earthquakes on the Osaka Plain and the ancient Kawachi Lagoon”と拙稿“A study on the long lives described in the classics”などが収録されています。拙稿は世界の古典に見える二倍年暦(二倍年齢)に関する英文論文です。都司論文は歴史地震学に関するもので、こうした専門知識と研究実績が背景にあって、「七世紀末の王朝交代を災害記録から検証する」を書かれたものと思われます。なお、「Phoenix」は「古田史学の会」ホームページに採録されています。ご覧いただければ幸いです。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3374話(2024/11/07)〝王朝交代前夜の天武天皇 (1)〟
②新保高之「東京古田会・読書会〔天武天皇紀下⑩〕」2024年10月26日。
③都司嘉宣「七世紀末の王朝交代を災害記録から検証する」『古田史学会報』184号、2024年。
④J.D.Watson & F.H.C.Crick: MOLECULAR STRUCTURE OF NUCLEIC ACID A Structure for Deoxyribose Nucleic Acid Nature 171,737-738(1953)


第3374話 2024/11/07

王朝交代前夜の天武天皇 (1)

 七世紀の第4四半期、飛鳥宮にて近畿天皇家の天武は「天皇」を名乗り、その子供たちは「皇子」を称していたとする、飛鳥池遺跡出土木簡(同時代史料)という最有力エビデンスに基づく論稿を『古田史学会報』に発表しました(注①)。

 もし、七世紀における「天皇」号は九州王朝の「天子の別称」とする古田新説に基づくのであれば、同「天皇」木簡の天皇も九州王朝の天子の別称となりますが、そうであれば飛鳥にいた天武は「大王」とでも呼ばれていたのでしょうか。しかし、天武の子供たちは、「大王」や「王」の子を意味する「○○王子」ではなく、「舎人皇子」「大伯皇子」「大津皇(子)」「穂積皇子」と飛鳥池出土木簡にはあることから、父親の天武も「大王」ではなく、「天皇」を称していたと考えざるを得ません。こうした論理性から考えても、「天皇」木簡の天皇を天武のこととする通説は、エビデンスベース(注②)という学問の方法に基づき妥当なものです。同時代出土木簡という最有力エビデンスは、後代史料である『日本書紀』の解釈論よりも優先すること、論を俟ちません。

 「天皇」木簡が出土した飛鳥池遺跡の大溝遺構SD1130からは、干支(「庚午年」天智九年、六七〇年。「丁丑年」天武六年、六七七年。「丙子年」天武五年、六七六年)、「評(こおり)」、「五十戸(さと)」表記を持つ木簡も出土しており、「郡」(七〇一年から採用)「里」(天武期後半以降に出現)木簡は見えないので、天武期の前半頃とする年代観を示唆します。また、調査報告書(『奈良文化財研究所学報第七一冊 飛鳥池遺跡発掘調査報告 本文編〔Ⅰ〕─生産工房関係遺物─』奈良文化財研究所、二〇二一年)には遺構の年代を〝溝自体が短期間しか存続しなかったことから、木簡群は短期間に廃棄されたと考えられ、木簡の年代は天武五〜七年を含む数年間に収まると判断できる。〟としています。

 飛鳥池遺跡からは「詔」木簡も出土しており、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代前であるにもかかわらず、天武天皇らは飛鳥宮で詔を発するなど、「天皇」に相応しい振る舞いをしていたことも拙論で紹介しました。それは次の木簡です。

《飛鳥池遺跡南地区 SX1222粗炭層》
【木簡番号】63
【本文】二月廿九日詔小刀二口○針二口○【「○半\□斤」】
【木簡説明】天武天皇もしくは持統天皇の詔を受けて小刀・針の製作を命じた文書、あるいはその命令を書き留めた記録であろう。ただし「詔」は「勅旨」と同様、供御物であることを示す語の可能性もある。

 この様な木簡研究の知見に対応する文献史学の調査研究を新保高之さんが発表しました(注③)。それは天武紀に見える「詔」の年次毎の出現調査で、その一覧表によれば天武八年(679)から「詔」が増えていることが見て取れました(注④)。

 「天皇」木簡の年代が天武五〜七年(676~678)を含む数年間に収まると報告されており、新保さんの「詔」分布調査結果と整合することから、天武は天皇を名のった(名のることを九州王朝から認められた)頃から、飛鳥宮で詔を多発し始めたととらえることができそうです。「天皇」木簡の年代観と『日本書紀』天武紀の「詔」分布の対応は偶然の一致ではないように思われます。これは古田先生が言うところの〝シュリーマンの法則〟、すなわち「考古学出土事実と文献・伝承が一致していればそれはより真実に近い」に適っているのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「飛鳥池出土「天皇」「皇子」木簡の証言」『古田史学会報』184号、2024年。
②古田武彦記念古代史セミナー(大学セミナーハウス主催)の実行委員長、荻上紘一氏は同セミナーでの挨拶において、くり返しエビデンスベースの重要性を次のように訴えている。深く留意すべきである。
〝古代史学においては「史実」の解明が基本であり、そのための作業則ち「証明」は論理的、客観的、科学的であり、当然のことながらevidence-basedでなければなりません。〟「古田武彦記念古代史セミナー2024講演予稿集」
③新保高之「東京古田会・読書会〔天武天皇紀下⑩〕」2024年10月26日。
④新保氏作成の一覧表をまとめると、天武紀の「詔」分布は次のようである。
天武二年 3件、同三年 0件、同四年 5件、同六年 1件、同七年 0件、同八年 6件、同九年 1件、同十年 7件、同十一年 6件、同十二年 6件、同十三年 5件、同十四年 3件、朱鳥元年 3件。

 

参考

九州王朝研究のエビデンス⑸ 「天皇」「皇子」木簡 (付)金石文 古賀達也
https://www.youtube.com/watch?v=C_aCz0pAlPU


第3372話 2024/10/23

「九州王朝の宝冠」調査記録の発見

 10月11日に亡くなられた水野孝夫顧問(古田史学の会・前代表)の研究年譜を作成するため、13日は夜を徹して関連論文集などを調査しました。その作業中にいくつもの重要な論稿の存在に気づきました。発表当時に読んでいたはずですが、その重要性に気づかなかったようです。その一つが、『市民の古代研究』第52号(1992年8月、市民の古代研究会編)掲載の藤田友治(注)「謎の宝冠 失われた九州王朝の王冠か(2)」です。

 同宝冠は男女二対あり、素人目で見ても国宝・重文級のものです。1999年6月19日、わたしは古田先生にご一緒し、所蔵者の柳沢義幸さんのご自宅(筑紫野市)で拝見したことがあります。柳沢さんの説明では、太宰府市五条に住んでいる老人から購入したとのことで、どうやら近くの古墳から出土したものらしく、貴重な遺物が散逸しないよう、柳沢さんが買い取っていたとのこと。しかし、それ以上のことは聞けませんでした。「洛中洛外日記」3066話(2023/07/12)〝九州王朝宝冠の出土地〟でも、この宝冠の出所について触れたのですが、藤田さんの報告は詳細なもので、今更ながら驚きました。柳沢さんの発言部分を転載します。

【以下、転載】
「この老人の姓名を始めて申しますが、佐藤荘兵衛といい、当時七十歳位の老人で、昭和三十年頃、丁度、福岡市近郊が宅地造成で沸き立っていた頃です。その老人が一粒の硝子玉を持参しました。彼は私の病院の患者で、高血圧症で通院し、太宰府近郊から出土した土器や瓦のカケラ等を持参するので、その都度、煙草銭と称してわずかの金銭をやっていました。彼は鬼の面などを自分で彫刻し、細々と独り暮しをしていました。彼の持参するものは、この地方から出土したもので(盗掘品であるかも知れませんが)、大切そうに持って来るのが常でした。ところが、この硝子玉は驚いたことに、従来のものとは全く異なっていました。その表面に銀化現象があるのです。詳しく聞いてみると、『まだ他に別のものがある』というのです。そこで、一つ位ではなく、全部一括して買ってやると約束しましたところ、同様の硝子玉全部と、玉二個を一緒にして、〝安い値〟(白米五升位)で買い取りました。その時、彼が言うには、『別に男女の冠が出ている。これは熊本市内の古物商が買い取り、京都へ売りに行くことになっている』というのです。

 私は次のように言ったのを記憶しています。『福岡地方に出土したものは、絶対に他県へ持ち出す事を固く禁止していた筈だ。(当時、我々有志の者で、太宰府文化懇話会を作っていました。)それなのに、その冠を他県へ売ってはいけない。もし、売ってしまったら今まで買った品は全部返却する』と申しますと、彼はしぶしぶながら、その宝冠を持参しました。出所は絶対に秘密にする条件を付けました。私は白米約壱俵分位の値段で買い取りました。彼の特徴は、高い値段をつけることはなく、小遣いかせぎ位の値段が常でした。とても、昔気質の男で韓国からの密輸品などは持って来ないし、もしこれが韓国などから密輸したものであったら、こんな安価な取り引きはしないと思います。また、私などよりもっと条件のよい相手と取り引きをやったと思います。さらに、貢(ママ)の宝冠の所有者が別にいたら、佐藤老人の如き素人に依託せずに、もっと高価な商売をしたと思います。

 ただ、残念なのは、この冠の出所を明確に出来なかった事であります。そのうち、彼の機嫌の良い時に聞き出せると思っていましたが、数年後に死亡してしまいました。

 ある日、彼の息子と称する農夫がやって来て、父が危篤ですから、往診をして下さいと申しますので、直ぐにその家に行きました。

 彼の家は筑紫野市の鉢摺(はちすり)峠にあり、老人はその息子の家で、静かに眠るが如く横たわっていました。脈をとると既になく、心音も聴診できず、死強(しごう)も死斑(しはん)もありました。然し、苦悶した様子は一切なく、明らかに老衰による自然死でした。」

 その後、藤田さんは柳沢さんの記憶をたよりに、息子さん(佐藤武氏、調査当時六七歳)の家を訪問すると、「柳沢先生、よう覚えて、来て下さった。」と大喜びされ、「父は一五年前に死にました。残念ながら、宝冠のことは父から何も聞いていません。」とのことでした。

 昨年の七月、久留米大学で講演した時、参加されたYさんから、宝冠の出土地が朝倉郡筑前町夜須松延の鷲尾古墳と記す書籍のことを教えていただきました。筑紫野市と夜須とはちょっと離れていますが、現地の方に調査していただければ幸いです。

 今回の藤田稿の存在をわたしは完全に失念していましたが、水野さんのお導きにより、再発見できたように思います。

(注)当時、市民の古代研究会々長。同会の創立者。古田史学の会の創立に参加された。


第3357話 2024/09/30

関川尚功先生と東京講演会の打ち合わせ

 今日は奈良市に向かい、竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)と二人で関川尚功(せきがわ・ひさよし)先生(元・橿原考古学研究所々員)と10月27日(日)の東京講演会の講演内容について、詳細にわたり打ち合わせを行いました。リハーサルを兼ねて、講演に使用する写真・図約60枚について解説していただきました。

 邪馬壹国時代の弥生後期を中心として、古墳時代前期の畿内と北部九州などから出土した鏡・鉄器製造遺物(ふいご、砥石、小鉄片)・銅鐸、古墳内の石室・木郭などを紹介され、ヤマトには「邪馬台国」の片鱗も見えず、それに比べて北部九州の金属器などの先進性が、これでもかこれでもかと説明が続きました。更に、弥生後期の金属器文化が古墳時代になるとヤマトへ流入したことも教えていただきました。こうしたことを10月27日、東京(文京区民センター)で報告されます。恐らく、関東の皆さんには初めて聞く内容ではないでしょうか。

 関川先生から提供された写真をレジュメとして編集する作業に入ります。『古代に真実を求めて』28集の投稿も多数届いていますので、その査読や自らの研究・執筆、講演の準備などが重なり、10月は超多忙な日々が続きます。健康に留意して頑張りますが、「古田史学の会」を支える次の世代や後継者の発掘・引き継ぎも鋭意進めたいと考えています。皆さんのお力添えもお願いいたします。