九州王朝(倭国)一覧

第1566話 2018/01/07

評制施行時期、古田先生の認識(2)

 日本古代史学界では有名な郡評論争というものが永く続きましたが、最終的には藤原宮などからの出土木簡により、7世紀は「国・評・里」という行政区画「評制」であり、8世紀になって全国一斉に「国・郡・里」の「郡制」に変化したことが明らかになりました。その郡評論争を主導したのが、坂本太郎さんとそのお弟子さんの井上光貞さんでした。7世紀は「評制」とする井上さんの説が論争では勝ったのですが、その師匠の坂本さんを批判した井上論文コピーを古田先生からいただきました。師匠への厚い礼儀を踏まえた批判論文で、師弟間の論争(論文)はかくあるべきとのことで、古田先生からいただいたものです。今から20年近く昔のことだったと思います。
 当時は「大化改新」やそれに関わって「評制」などについても古田先生を中心に勉強会を行っていたのですが、行政区画としての「評制」は九州王朝が施行したもので、その時期は通説と同じで、いわゆる「孝徳朝」時代の7世紀中頃という認識でした。もちろん古田先生も同見解でした。その古田先生の理解(認識)を示した文章がありますので、ご紹介します。『なかった』創刊号(2006年、ミネルヴァ書房)に収録された「学界批判 九州王朝論 白方勝氏に答える」です。

 「七世紀中葉から末まで、日本列島(九州から関東まで)に実在した『評制』としての『評督』の上部単位。これは『筑紫都督府』以外にありえない。」(30頁)

 このように「評制」とその長官『評督』の実在期間を「七世紀中葉から末まで」と記され、評制施行が「七世紀中葉」と認識されています。更に次のような文章もあります。

 「では、その『廃評立郡の詔』は、いずこに消えたか。また、なぜ『隠さなければ』ならなかったか。この一点にこそ、最大の疑問がある。
 また、これに“呼応”すべき、いわゆる『孝徳天皇』による『立評の詔勅』が、なぜ日本書記(ママ)の孝徳紀から“姿を消している”か。これもまた、誰人にも答えることができない。」(31頁)

 ここでも評制施行時期が「孝徳天皇」のとき(七世紀中葉)との認識を前提に「『立評の詔勅』が、なぜ日本書記(ママ)の孝徳紀から“姿を消している”か。」と問題提起されています。これらの記述から、評制施行時期について「七世紀中葉」と古田先生が認識されていることは明らかです。古田先生との30年に及ぶおつきあいでも、古田先生はこうした認識を前提に学問的対話をされていました。そうしたわたしの記憶ともこれらの記述は一致しています。
 なお同書に収録されている講演録「研究発表 『大化改新詔の信憑性』(井上光貞氏)の史料批判」では次のように記されています。

 「なぜかというと、『評督』の方は、出現が大体日本列島にほぼ限られている。そして、時期が、出現の時期が、七世紀半ばから七世紀末までに限られている。」(38頁)

 わたしはこの文章も、評制施行時期を「七世紀半ばから」とする古田先生の認識に基づいていると理解しているのですが、これを「評督」だけの開始時期のことで、「評制」開始時期ではないとする論者もあります。しかし、「評制」とその長官「評督」の成立は別時期とする理解は無理筋というものです。
 この文章は日本思想史学会(東京大学)での「講演録」ですから、「評制」と「評督」は「七世紀半ばから」との通説の理解を持つ研究者を対象にしたものです。従って、「評制」と「評督」の成立時期が同時か別かなどはそもそも発表の論点に含まれていません。この講演の主論点は、「評制」「評督」は九州王朝の「筑紫都督」下の制度とするものです。
 その点、先に紹介した「学界批判 九州王朝論 白方勝氏に答える」は論文ですから、不特定多数の読者を想定して、より正確な表記となっています。論文と講演録は同じ認識で古田先生は著し、口頭発表されているはずですから、「評制」とその長官「評督」の施行時期は「七世紀中葉」とするのが古田先生の理解(認識)と考えなければなりません。(つづく)


第1565話 2018/01/06

評制施行時期、古田先生の認識(1)

 古田先生が亡くなられてから、古田学派内でちょっと不思議な現象が起こりました。それは古田先生の発言や認識について、わたしが30年にわたって先生から直接お聞きしてきたことと、古田先生の見解(認識)は異なるとする、わたしへのご批判の声が聞こえ始めたのです。学問研究ですから、ご批判は全くかまわないし、むしろ学問の発展に批判や論争は不可欠とわたしは考えています。しかし、先生のご意見が不正確に他の人には伝わっているとしたら、後世の研究者や読者のためにも、正しく伝えておかなければならないと考えています。
 そこで今回は九州王朝(倭国)における「評制」開始時期についての古田先生の見解(認識)について、わたしが直接に見聞きしたことをご紹介します。わたしがこのように聞いた、という説明では納得していただけないでしょうから、先生の著書や講演録を引用し、解説したいと思います。
 なお、ここでいう「評制」とは日本古代史学の一般的な定義である、行政区画としての「国・評・里(五十戸)」制のことであり、評の長官「評督」などの行政制度のことを意味します。もちろん、古田先生も「評制」について基本的にこうした意味で使用されてきました。(つづく)


第1563話 2017/12/31

「天武朝」に律令はあったのか(補)

 前期難波宮が律令制下の宮殿・官衙であり、九州王朝律令による「大蔵省」「兵庫職」や大蔵省配下の「漆部司」がその宮域に存在した痕跡や史料について説明してきました。こうした史料は九州王朝律令の復元研究に役立つものと思います。
 前期難波宮にあった「難波朝廷」でどのような律令が施行されていたのか、いつ施行されたのかなど、わからないことばかりです。おそらくは大和朝廷の大宝律令に内容的に近いのではないかと推定しています。というのも、王朝交代したばかりの近畿天皇家にとって、九州王朝律令は国内では唯一のお手本でもあり、おそらくは九州王朝の官僚群の一部は大和朝廷に徴用されたり、新王朝設立に参画したと思われますので、この推定はそれほど荒唐無稽ではないと考えています。
 その施行時期についても一つの試案があります。それは九州年号「常色」年間(647〜651)ではないかとするものです。九州年号研究の初期段階では、九州年号に仏教に関する文字が多いことから、この「常色」も仏教に関係する「用語」ではないかと考えていました。ところが正木裕さんの研究により、この常色年間に九州王朝(倭国)で様々な制度改革や政治的事績の痕跡が諸史料に見られることから、「常色」の「常」は「のり。典法」のことであり、法律や制度を意味するという説が有力となりました。
 評制(行政区画「国・評・里(五十戸)」制)が全国で開始(天下立評)されたのも、現在の研究では「常色」年間頃とされていますし、常色6年は改元されて白雉元年(652)となり、この年には国内初の朝堂院様式の巨大宮殿である前期難波宮が完成しています。こうした一連の国家的事業とともに常色年間に九州王朝(倭国)は新たな律令「常色律令」を施行したのではないかと考えています。これはまだ作業仮説(思いつき)の域を出ませんが、有力な視点ではないでしょうか。引き続き、研究を深めたいと思います。


第1562話 2017/12/28

「天武朝」に律令はあったのか(5)

 前期難波宮の規模や様式が、律令官制に基づく全国統治機能を持った宮殿・官衙であり、大蔵省下の漆部司などの考古学的痕跡が発見されていることなどを紹介してきましたが、前期難波宮に大蔵省があった史料根拠(痕跡)もあります。その史料とは他ならぬ『日本書紀』です。前期難波宮が失火により焼失した次の記事が天武紀に見えます。

 「乙卯の酉の時に、難波の大蔵省に失火して、宮室悉に焚(や)けぬ。或は曰く『阿斗連薬が家の失火、引(ほびこり)て宮室に及べり』といふ。唯し兵庫職のみは焚(や)けず。」『日本書紀』天武紀朱鳥元年(686)正月条

 岩波『日本書紀』の頭注では、この「大蔵省」や「兵庫職」を次のように解説し、『日本書紀』編纂時の追記などとしています。

〔大蔵省〕後の大蔵省に相当する官司の倉庫で、難波にあったもの。省は追記であろう。
〔兵庫職〕大宝・養老令制の左右兵庫・内兵庫に相当する官司。朝廷における武器の管理・出納のことにあたった。ここはおそらく兵庫職に所属する倉庫の意で、やはり難波にあったもの。

 このように一元史観の通説による解釈では、律令官制に基づく「大蔵省」「兵庫職」のことではなく、律令以前の難波にあった「役所」の「倉庫」のこととしています。
 しかし、前期難波宮に大蔵省配下の「漆部司」の存在をうかがわせる考古学的痕跡が出土していることから、朱鳥元年条に見える「大蔵省」「兵庫職」は九州王朝律令に基づく官司と理解することができます。もしこれらが『日本書紀』編纂時の追記・脚色であれば、この前期難波宮焼失記事中に突然このような律令官制に基づく「大蔵省」「兵庫職」という表記が現れる理由の説明が困難です。ところが前期難波宮九州王朝副都説に立ってみると、初めて考古学的出土事実と『日本書紀』の史料事実とが九州王朝律令によるものとする合理的理解が可能となるのです。(了)


第1561話 2017/12/27

「天武朝」に律令はあったのか(4)

 前期難波宮が律令官制による統治機構を有していたとする考古学的痕跡について、更に説明を加えます。

 2017年1月に大阪府文化財センターの江浦洋さんの講演会を「古田史学の会」で開催したのですが、そこで前期難波宮の西方官衙の北側にある「谷2」(13層)から大量の漆容器が出土していたことを説明されました。その出土層位は「戊申年」(648年)木簡が出土した「谷1」(16層)に対応するもので、前期難波宮存続期間に相当する堆積地層です。この漆容器は各地から前期難波宮に納められたと思われ、その数は三千個にも及んでいます。

 江浦さんが特に着目されたのが、その出土位置でした。前期難波宮の北西に位置する出土地(谷2)は前期難波宮の宮域に接しており、ゴミ捨て場として利用されたと推定されています。前期難波宮の周囲にはいくつもの谷筋が入り込んでいますが、宮域北西の谷に漆容器が大量廃棄されていることから、その付近に漆を取り扱う「役所」が存在していたと考えられます。
江浦洋さんの論文「難波宮出土の漆容器に関する予察」(『大阪城址Ⅲ』大阪府文化財センター、2006年3月)によれば、漆部司について次のように説明されています。

 「奈良時代には令制官司の一つとして『漆部司』の存在が知られている。漆部司は大蔵省の被官であり、漆塗り全般を担当している。」522頁
「今回の調査地から本町通を挟んだ南側の市立中央体育館の跡地では、(財)大阪市文化財協会による数次の発掘調査が行われている。この一連の調査では、前期難波宮段階に帰属する建物群が検出されている。建物群は塀によって区画されており、その中から整然と配置された総柱の堀立柱建物群が検出されている。

 この一画は内裏西方倉庫群、内裏西方官衙と仮称されており、すでに多くの研究者が注目し、呂大防の『長安城図』の対応する位置に『大倉』という記載とともに描かれた建物群との関連が注目され、『大蔵』に関連する施設である可能性が指摘されている。」524頁

「また、これも後の史料であるが、『陽明文庫』の平安京宮城図には宮城の北西隅に『漆室』と書かれた区画がある(図329)。これをそのまま対応させることには異論があろうが、今回の調査地が難波宮の北西隅近くに該当することは明らかであり、ここに漆を保管する『漆室』との記載がある点は看過しがたい事実であるといえる。」525頁

 このように前期難波宮宮域北西隅の谷から大量出土した漆容器と、律令官制の大蔵省下にある漆部司、そして唐の長安城図の「大倉」や平安京宮城図の「漆室」との位置の一致は、前期難波宮が律令官制による宮殿・官衙とする有力な考古学的事実・史料事実なのです。(つづく)


第1560話 2017/12/26

「天武朝」に律令はあったのか(3)

 近畿天皇家が「天武朝」のときには自前の律令を持っていなかったことを説明しましたが、前期難波宮が律令官制による統治機構を有していたとする論理性と考古学的痕跡について説明します。
 まず大枠の論理として、平城宮・藤原宮と前期難波宮の規模・様式の対応という視点があります。王朝交代後の平城宮や藤原宮が、大宝律令・養老律令により全国統治した大和朝廷の王宮・官衙遺構であることは論を待たないと思います。そうであれば、律令官制による全国統治に必要な規模と様式を備えていたのが平城宮と藤原宮であったと理解できます。このことにも反対意見は出ないでしょう。したがって、平城宮・藤原宮とほぼ同じ規模で同じ朝堂院様式を持つ前期難波宮も「律令官制による全国統治が可能」な宮殿・官衙遺構と見なしうるということになります。
 もしこの論理性に反対されるのであれば、その反対論は「律令も持たず、全国統治もしていなかった近畿天皇家が、必要もなくなぜか突然に列島内最大規模の王宮を造営した」ということになります。更に言えば、日本列島の代表王朝であった九州王朝(倭国)は自らの王宮(太宰府)よりも大規模な前期難波宮を近畿天皇家が造営することを咎めることもなく、また造営にあたり各地から「番匠」「工人」を徴用したことも許したということになります。このような歴史解釈は、古田先生の九州王朝説を是とするわたしには到底理解も賛成もできません。(つづく)


第1559話 2017/12/25

「天武朝」に律令はあったのか(2)

 701年以前の近畿天皇家には律令がなかったとする古田説ですが、その根拠の一つに次の金石文の存在があります。
 それは「金銅威奈大村骨蔵器」(国宝)です。江戸時代の明和年間(1764〜1772)に現在の奈良県香芝市から発見されたもので、甕を伏せた下からこの骨蔵器が出土したと伝えられています。球形の容器で、蓋と身が半球形に分かれる特殊な形です。同骨蔵器は蓋に319字におよぶ銘が刻まれています。これには、威奈大村が宣化天皇の子孫にあたり、「後清原聖朝(持統朝か)」のときに任官、「藤原聖朝(文武朝か)」で少納言、大宝律令制定とともに従五位に列せられ、慶雲2年(705)に越後守に任ぜられるが、同4年(707)に任地で歿し、大和の葛城下郡山君里、今の香芝市穴虫の地に葬ったことなどが記されています。
 このようにこの骨蔵器は九州王朝から大和朝廷への王朝交代直後に製造された同時代金石文で第一級史料です。その銘文に「以大宝元年律令初定」と、大宝元年(701)に成立した大宝律令が大和朝廷として初めて制定した律令である旨が記されています。大宝律令を制定した文武朝の高級官僚(少納言)だった威奈大村の骨蔵器に記されているのですから、大和朝廷としての最初の律令は大宝律令であり、それ以前の九州王朝の時代には自前の律令は持っていなかったことを意味します。すなわち九州王朝説に立てば、700年以前の九州王朝の時代には、近畿天皇家も含む九州王朝(倭国)支配領域内は「九州王朝(倭国)律令」に基づいて統治されていたということになるのです。
 したがって、「天武朝」は律令を持っていなかったこととなり、前期難波宮が仮に「天武朝」の宮殿であったとしても、律令制に対応した朝堂院様式の官庁や東西の官衙は、近畿天皇家以外の権力者(九州王朝)が制定した律令により官僚群が政務に就いていたと理解せざるを得ません。ですから前期難波宮を「九州王朝(倭国)律令」に基づいて全国統治していた官僚群がいた九州王朝の宮殿・官衙と理解する九州王朝副都説は有力な仮説なのです。
 7世紀中頃における九州王朝の勢力を過小に見積もり、近畿天皇家が九州王朝よりも優勢であったかのような論調が古田学派内でも見られますが、そうした方々は本稿で紹介したような史料根拠に基づく論理的な歴史理解の方法、すなわち論証をもっと重視されるべきです。「学問は実証よりも論証を重んずる(村岡典嗣先生)」「論理の導くところへ行こう。たとえそれが何処へ至ろうとも(岡田甫先生)」「論証は学問の命(古田武彦先生)」という言葉を、古田学派の皆さんに繰り返しわたしは訴えたいと思います。(つづく)


第1558話 2017/12/24

「天武朝」に律令はあったのか(1)

 前期難波宮九州王朝副都説への反論が、これまでの論争を通して、ほぼ前期難波宮「天武朝」造営説に収斂してきたように感じています。前期難波宮のような巨大宮殿が白村江戦以前の九州王朝(倭国)の興隆期に、九州王朝の配下である近畿天皇家の孝徳の宮殿と見なすことへの不自然さのためか、前期難波宮造営を天武の時代と見なし、その頃であれば九州王朝よりも近畿天皇家の勢力が優勢と考え、前期難波宮を近畿天皇家(天武天皇)の宮殿と理解することができるという見解です。
 しかし、この「天武朝」造営説には避け難い難問があります。それは「天武朝」に律令があったとするのかという問題です。一元史観の論者であれば、ことは簡単で、「近江令」や「浄御原令」が近畿天皇家には存在したとする通説通りの理解でなんの問題もありません。ところが、わたしたち古田学派は、701年以前の「近江令」「浄御原令」の内実は九州王朝律令であり、近畿天皇家の律令は大宝律令に始まるとする古田説を支持しています。この古田説は前期難波宮「天武朝」造営説と両立できないのです。
 大和朝廷の巨大宮殿、平城宮や藤原宮は朝堂院様式の中央官庁群を有しており、大宝律令・養老律令に基づく数千人(服部静尚さんの計算によれば約八千人)の官僚がそこで政務に就いていたことは古田学派の論者も反対はできないでしょう。とすれば、平城宮・藤原宮と同規模の朝堂院様式の宮殿である前期難波宮でも律令による官僚組織が機能していたと考えざるを得ません。
 したがって、古田学派の論者による前期難波宮を天武の宮殿とする理解では、先の古田説と矛盾してしまいます。ところが、わたしの九州王朝副都説では、九州王朝律令に基づいて前期難波宮で九州王朝の官僚群が政務に就いていたとしますので、古田説と矛盾がないのです。(つづく)


第1557話 2017/12/23

古田先生との論争的対話「都城論」(9)

 前期難波宮に関する一元史観の通説「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」とわたしの九州王朝副都説の論理構造について解説しましたので、最後に古田先生が提唱された「難波長柄豊碕宮=博多湾岸」説の論理構造について説明します。
 『日本書紀』には九州王朝(倭国)の事績が盗用(転用)されていることは、『盗まれた神話』などで古田先生が明らかにされてきたところですが、晩年、先生は更にそれを敷衍して、近畿から出土した金石文・木簡や『日本書紀』の記述中に北部九州の類似地名があれば、それは北部九州を舞台にした地名や事績の盗用とする方法論を多用されました。本件の「難波長柄豊碕宮=博多湾岸」もその論理構造に基づかれたものです。
 通説では前期難波宮を難波長柄豊碕宮と理解するのですが、「長柄」や「豊碕」地名は、前期難波宮がある大阪市中央区の法円坂ではなく、北区にあることから、前期難波宮は孝徳紀に見える難波長柄豊碕宮ではないとされました。この点はわたしも同意見で、そうであれば難波長柄豊碕宮は北区の「長柄」「豊崎」にあったのではないかとわたしは考えたのですが、古田先生は博多湾岸にも「名柄」「難波(なんば)」「豊浜」という類似地名があることから、大阪市北区ではなく博多湾岸説に立たれたのです。そして、その理解の延長線上に博多湾岸に「難波朝廷」もあり、その地の宮殿で「天下立評」したとまで仮説を展開されました。
 この論理構造は、大阪市と博多湾岸の両者に類似地名がある場合は、必要にして十分な論証や考古学的実証(7世紀中頃の宮殿遺構の出土)を経ることなく、九州王朝の中枢領域にあったとする理解を優先させるということが特徴的です。この方法を古田先生は晩年に多用されたため、その方法論上の有効性と適用範囲について、わたしと先生との間で様々な論議や論争が行われましたが、このことは別に詳述したいと思います。
 極論すれば、古田先生は近畿出土の金石文や『日本書紀』に見える「地名」を北部九州へと収斂させる方向で七世紀の九州王朝史復元を試みられました。他方、わたしは前期難波宮副都説や九州王朝近江遷都説のように、九州王朝の直轄支配領域を近畿へと拡大させることで七世紀の九州王朝史復元を試みました。すなわち、両者の仮説のベクトルが真反対だったのです。
 ですから、前期難波宮副都説を発表するとき、わたしはこの古田先生とのベクトルの「衝突」を明確に意識し、意見の対立は避け難いのではないかと懸念していました。そしてそれは現実のものとなり、先生との学問的意見対立は10年近くにも及んだのでした。この体験は「弟子」としてはかなりつらいものでしたが、2014年の八王子セミナーにて、それまで反対されてきた副都説に対して「検討しなければならない」と言っていただいたことが、わたしにとってどれだけ嬉しかったことか、ご想像いただけると思います。しかし、検討される間もなく、翌年10月に先生は亡くなられました。(了)


第1555話 2017/12/16

九州王朝系近江朝説のキーパーソン、倭姫王

 本日、「古田史学の会」関西例会がドーンセンターで開催されました。来年1月もドーンセンターです。2月は福島区民センターで、関西例会としては初めて使用する会場です。お間違えなきよう。
 今回も関西例会らしく優れた研究発表や厳しい討論が行われ、発表者も多いため時間ぎりぎりまで続きました。参加者も増えてきたため、定員40名の会場では足らなくなりそうです。
 今回の発表では、正木さんの九州王朝系近江朝研究の進展が衝撃的でした。『日本書紀』天智紀で、天智が称制から正式に天皇に即位した天智七年に皇后として登場した倭姫王こそ九州王朝(倭国)の姫であり、天智は倭姫王を皇后に迎えたことにより九州王朝(倭国)の権威を継承(不改常典の成立)したのではないかとされました。壬申の乱以後、倭姫王は『日本書紀』から消えますが、鹿児島県の『開聞古事縁起』によれば壬申の乱で都から逃げてきた大宮姫の伝承が記されており、その大宮姫こそ倭姫王ではないかとされました。これは『日本書紀』と地方伝承の対応という面白いテーマです。来年1月21日(日)の「古田史学の会」新春講演会ではもっと詳しく本テーマを講演していただきます。
 12月例会の発表は次の通りでした。このところ参加者が増加していますので、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレスへ)か電話で発表申請を行ってください。

〔12月度関西例会の内容〕
①新唐書の目多利思比孤について(茨木市・満田正賢)
②隋書国伝「犬を跨ぐ」について(大山崎町・大原重雄)
③伊都国に常治したのは「一大率」ではない(姫路市・野田利郎)
④九州王朝説による(前期)難波宮造営の理由(八尾市・服部静尚)
⑤前期難波宮と「戊申年」木簡(神戸市・谷本茂)
⑥フィロロギーと古田史学【その7】(吹田市・茂山憲史)
⑦投馬国の里程について(川西市・正木裕)
⑧『日本書紀』天智紀の年次のずれについて(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 『古田史学会報』143号の紹介・会費入金状況・新会員の紹介・「古田史学の会」関西例会の会場、1月(ドーンセンター)、2月(福島区民センター)・1/21「古田史学の会」新春講演会(大阪府立大学i-siteなんば)・『古代に真実を求めて』21集の編集状況・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の報告と案内(12/28親睦会)・北朝鮮漁船漂着と出雲王朝の国引き神話・「難波京の実在性が現実に」大阪歴博、文化財研究所・「孝徳朝における難波の諸宮」市大樹氏論文紹介・1/19〜20東京古田会「難波宮跡と古市古墳群を訪ねる旅」・服部静尚さんが「多元の会」で発表・水野顧問の病状報告(竹村順弘事務局次長)・その他


第1550話 2017/12/08

九州王朝の都鳥

 昨日、東京からの帰りの新幹線グリーン車に備えてある雑誌『ひととき』(2017年12月)を読んでいると、「都鳥」という記事が目に留まりました。片柳草生さんによる文と鈴木一彦さんの写真からなるもので、興味深く拝読しました。
 同記事では隅田川を飛ぶユリカモメの写真などが掲載され、ユリカモメのことを都鳥というと紹介されていました。わたしはいつから都鳥をユリカモメのこととするようになったのだろうと不思議に思い調べてみると、古典(伊勢物語・万葉集)などに見える都鳥はユリカモメとするのが有力説であり、ミヤコドリ科のミヤコドリのこととする説は少数とのこと。そして、なぜ都鳥と呼ばれるようになったのかも不明とされているようなのです。
 今から30年ほど昔のことですが、わたしは「市民の古代研究会・九州」(当時)の灰塚照明さんらから、冬になるとシベリア方面から都鳥(ミヤコドリ科)が博多湾岸に飛来するということを教えていただいたことがあり、博多湾岸に九州王朝の都があったから都鳥と呼ばれるようになったのではないかと考えていました。このミヤコドリ科の都鳥はほとんどが博多湾など北部九州にしか飛来しないことから、九州王朝説に立たなければ都鳥という名称の説明がつきません。ですから、都鳥こそ九州王朝説の傍証ともいえる渡り鳥なのです。
 このようにわたしは理解していましたので、いつのまにかユリカモメが都鳥とされてしまい、おまけに東京都がユリカモメを「東京都の鳥」に指定したとのことで、話がややこしくなったようです。そこで提案ですが、ミヤコドリ科の本物の都鳥を福岡市か太宰府市の「市の鳥」に認定してはどうでしょうか。あるいは福岡県の鳥でもよいと思います。古田史学・九州王朝説を地元に広めるためにも、ユリカモメに負けることなく、「都鳥(ミヤコドリ科)=九州王朝の都の鳥」説を提唱したいと思います。

《追記》念のため調べたところ、福岡県の鳥は鴬。そしてなんと福岡市の鳥(海鳥部門)はゆりかもめとのこと。ゆりかもめ、恐るべし。


第1549話 2017/12/06

渤海国書の「日本」

 今朝は久しぶりの東京出張で、新幹線車中で書いています。天候も良く、冠雪した富士山を見たくて窓側のE席を何とか予約できました。

 「洛中洛外日記」1537話の「百済禰軍墓誌の『日本』再考(1)」でも書いたように、「日本」表記に関する先行研究論文を読んでいます。そして、それらにもよく引用されている、『続日本紀』掲載の渤海国王からの国書に見える「日本」について考察を深めています。この渤海国の国書には以前から興味を持っていたのですが、今回、改めて読んでみると面白いことに気づきました。当該国書の一部を引用します。

 「武藝、啓(もう)す。(中略)伏して惟(おもひ)みれば、大王天朝命を受けて、日本、基を開き、奕葉(えきよう)光を重ねて、本枝百世なり。(後略)」聖武天皇 神亀五年正月条(728年)

 渤海国王(このときは渤海郡王)の武藝から聖武天皇に出された国書ですが、「啓す」という、共に唐の冊封を受けている対等な国の間で使用される字を用いていることから、渤海国は日本国とは対等であるとの立場に立った国書とされています。

 この国書記事がある神亀五年(728年)は『日本書紀』成立(720年)以後ですが、『日本書紀』に記された「天皇」という称号ではなく、「大王」と表記していることから、この時点では渤海国は『日本書紀』を入手していなかったと思われます。あるいは、唐の天子(高宗)が「天皇」を称していたことがあるため、それと同じ称号使用を避けたのかもしれません。

 国書では、日本国の成立について大王の天朝が命を受けて、日本を開基したとあり、この「天朝」という表記も意味深です。天朝が日本を開基する前は、その天朝の国名は何だったと理解しているのでしょうか。また、誰からの命を受けたというのでしょうか。一つの試案(作業仮説)として、唐の命を受けた天朝が日本を開基したという理解はいかがでしょうか。唐の冊封を受けている国が日本という国を開基したのですから、唐の命以外に誰からの命を受けたとできるのでしょうか。

 次に注目されるのが「奕葉光を重ねて、本枝百世なり」という日本国の歴史に関する表現です。倭国(九州王朝)と戦った高句麗の後継でもある渤海国は、701年に日本国が倭国(九州王朝)に替わって日本列島の代表者になったことを知っていたと思われますから、その天朝が日本を開基してから「百世」を経ていないことも理解しているはずです。そのため「本枝百世」という表現にしたのではないでしょうか。すなわち、倭国(本)と日本国(枝)を併せて「百世」と認識していたのではないでしょうか。

 倭国と日本国の関係を「本枝」という表現に例えたのは、多元史観・九州王朝説からすれば見事な歴史認識表記と思われるのです。そうだとすれば、倭国から日本国への王朝交代は所謂「放伐」てはなく、遠戚関係にあった権力者間による交代と、渤海国は認識していたと言えるようです。

 以上のように、728年に日本国にもたらされた渤海国からの国書は多元史観・九州王朝説に整合すると思われるのです。引き続き、国書文面の精査と、日本を開基した大王とは誰か、その時期はいつかについて研究したいと思います。

 ここまで書いたところで、新横浜駅に着きました。東京まであと少しです。