九州王朝(倭国)一覧

第1237話 2016/07/24

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(13)

 九州王朝が九州から遠く離れた難波になぜ前期難波宮(副都)を造営できたのかという問題について、わたしは九州王朝と摂津難波が何らかの事情で密接な関係があったと考えていました。それは現存最古の九州年号群史料『二中歴』に見える次の記事などが根拠でした。

 「倭京二年、難波天王寺を聖徳が造る。」『二中歴』「年代歴」(古賀訳)

 九州年号の倭京二年(619)に聖徳という人物が難波に天王寺を造ったという記事で、九州年号によって記録されていることから、九州王朝系の記事と考えられます。
 当初わたしはこの記事の「難波」を博多湾岸付近ではないかと考え、7世紀初頭の寺院遺跡や地名を調査したのですが、見つかりませんでした。そこで「難波」「天王寺」とあるのだから摂津難波の四天王寺のこととする理解が妥当と気づき、四天王寺は元来「天王寺」と呼ばれていたことに気づきました(明治時代の地名は天王寺村、「天王寺」銘の瓦も出土)。
 また、当地(大阪歴博)の考古学者による四天王寺の創建年が620年頃とされている事実から、『二中歴』という九州年号史料と考古学編年(軒丸瓦の編年)が一致してることから、『二中歴』に倭京二年に創建されたと記されている難波天王寺は摂津難波の「天王寺」であるという結論に到達したのです。
 倭京二年(619)は九州王朝の天子、多利思北孤の時代ですから、難波天王寺を造営した「聖徳」と記された人物は九州王朝の有力者と考えられます(正木裕さんの説では多利思北孤の息子の利歌彌多弗利)。こうした論理展開により、多利思北孤の時代には難波は九州王朝が寺院を建立できるほどの、いわば直轄支配領域とする認識へと至ったのです。
 他方、九州王朝の天子が九州から瀬戸内海を行き来していたことを、古田先生は『万葉集』の史料批判により明らかにされていましたから、海上交通の要地である難波が九州王朝支配領域としても矛盾はありません。(つづく)


第1236話 2016/07/20

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(12)

 前期難波宮九州王朝副都説にとって避けられない課題が、なぜ九州から遠く離れた難波の地が副都造営の地に選ばれたのか、選ぶことができたのかという疑問に対する説明です。
 九州王朝説の立場から考えると、次の三つの理由があげられます。

1.唐や新羅との戦争に備えて、朝鮮半島から離れたより安全な難波に副都を造営した。
2.全国に評制を施行して中央集権的律令体制の行政拠点として、列島の中心に近い難波を副都とした。
3.難波は海運の便が良く、全国的流通(物資・防人)の拠点となる。

 一応こうした理由を挙げることができます。しかし問題はこの後です。九州から離れた、しかも近畿天皇家のお膝元(近隣)に副都など造営できるのかという問題です。この疑問・批判は大和朝廷一元論者のみならず古田学派内からも出されました。というよりも、この仮説を提起するとき、わたし自身が最も悩んだ問題でもあったのです。
 古田学派内からの批判に対しては「九州王朝は列島の代表王朝であり、支配領域内の難波に副都を造営することは可能」と反論してきましたが、実はこの返答は大和朝廷一元論者との「他流試合」では通用しません。
 余談ですが、古田学派の論者で自説の証明に、こうした「他流試合」では全く通用しない論法で事足りるとする方があります。古田先生なき今、「他流試合」をわたしたちが戦わなければなりませんから、こうした点、すなわち自分の説明や論証が「他流試合」に有効かどうかという視点も持っていただければ幸いです。
 こうして、「他流試合」でも通用するような論証や史料根拠を求めて、近年、「古田史学の会」関西例会では研究と報告が本格的に始められました。(つづく)


第1235話 2016/07/19

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(11)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の《三の矢》に対抗する仮説として前期難波宮九州王朝副都説を苦悩の中から提起し、その後それを支持する研究や根拠(文献・考古学)が続出してきた経緯をご紹介してきました。ここから研究はいよいよ佳境に入ります。そこで、もう一度「三本の矢」を確認しましょう。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 《三の矢》に対抗して提示した前期難波宮九州王朝副都説でしたが、この仮説研究の進展により、今まで難問だった《一の矢》《二の矢》に対する九州王朝説に立った説明ができそうな段階まで「古田史学の会」関西例会での論議は進んできたのです。その紹介の前に、前期難波宮九州王朝副都説にとって避けられない検討課題がありましたので、そのことをまず説明します。
 それは九州王朝はなぜ副都造営の地として難波を選んだのか、選べたのかというテーマです。難波が王都・王宮の地としてふさわしいことは、近畿天皇家も律令体制よる全国支配のための後期難波宮(朝堂院様式)を前期難波宮の真上に造営したという歴史事実、近世では豊臣秀吉が全国支配の拠点として大阪城を築城したことからもわかります。
 なお、前期難波宮九州王朝副都説に反対する論者からは防衛上に難点があるとする批判意見も出されましたが、それならなぜ後期難波宮や大阪城がこの地に造営されたのかという歴史事実に基づく反論には答えられていません。聖武天皇や秀吉は防衛上不安定な地に王宮・王都や大阪城を造ったとでも言われるのでしょうか。(つづく)


第1232話 2016/07/15

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(10)

 正木裕さんに続いて、前期難波宮九州王朝副都説を支持する研究を発表されたのが、服部静尚さん(古田史学の会・編集長)です。服部さんの研究の中でも、わたしが特に注目しているのは「竜田の関」問題と「律令制官僚の人数と宮殿の規模」問題です。
 服部さんが指摘された「竜田の関」問題は意表をついたもので、大和川沿いに河内と大和を繋ぐ道に設けられた「竜田の関」は河内方面から大和盆地に進入する勢力から大和朝廷を防衛するためのものと考えられてきました。しかし、服部さんの調査によると、なんと「竜田の関」は大和盆地方面からの侵入に対して河内側を防衛する位置にあるとのこと。河内の先には前期難波宮があり、従って「竜田の関」は大和の近畿天皇家の勢力から前期難波宮を防衛するための関ということになります。
 確かに地図で確認すると、「竜田の関」があったとされる場所の地勢は、東側からの侵入を阻止するのに効果的な位置です。このことは大和朝廷一元論ではうまく説明できず、東の勢力(近畿天皇家等)から九州王朝の難波副都を防衛するための関という理解を支持します。近畿にある古代の関が九州王朝と関係していたという画期的な服部説ではないでしょうか。(つづく)


第1231話 2016/07/14

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(9)

 わたしが「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の《三の矢》に対抗する、前期難波宮九州王朝副都説を唱えて大和朝廷一元論との「他流試合」に挑み、古田学派の中では「古田先生と異なる意見を述べるのはけしからん」という「批判」を浴びながら孤軍奮闘していたとき、「古田史学の会」関西例会でわたしの説を支持する研究が発表され始めました。
 まず最初に紹介するのが正木裕さん(古田史学の会・事務局長)による九州年号史料『伊予三島縁起』に記されている「番匠の初め」記事の「発見」です。九州年号史料として著名な『伊予三島縁起』には九州年号の端政・金光・常色・白雉・大長などが用いられており、その内容から九州王朝系史料であることは疑えません。記事中には九州王朝の事績とみられるものが少なくありませんが、正木さんは次の記事に注目されました。

 「孝徳天王位、番匠初。常色二戊申、日本国御巡礼給。」
 「孝徳天皇のとき、番匠がはじまる。常色二年戊申(648)に日本国を御巡礼される。

という記事です。この「番匠」とは『広辞苑』によれば、「番上の工匠の意。古代、交代で都に上り、木工(もく)寮で労務に服した木工。」とあります。『日本書紀』孝徳紀には見えない記事ですから、九州王朝が常色二年(648)頃に各地から番匠を集め、大規模な土木工事を行った記事と考えられます。前期難波宮の完成が九州年号の白雉元年(652)ですから、まさに常色二年(648)はその四年前に当たり、前期難波宮造営のための番匠として時期的に見事に一致します。九州年号で記された『伊予三島縁起』中の記事ですから、まさに九州王朝が前期難波宮を造営したとする、わたしの前期難波宮九州王朝副都説を支持する記事だったのです。『伊予三島縁起』を九州年号研究のため、わたしはこれまで何度も読んでいたのですが、この「番匠」記事の意味に気づきませんでした。
 正木さんの見解では、常色二年に九州王朝の天子(正木説によれば伊勢王)が前期難波宮造営のための筑紫の番匠を伴って、更に評制施行のために天下を巡行し、その途中に伊予に寄ったものとされました。前期難波宮から出土した「戊申年木簡」も、常色二年戊申の天下巡行と関係があるのではないかと、正木さんは考えておられます。わたしも両者の「戊申(648年)」は偶然の一致とは思えません。なお、この正木さんの研究は「常色の宗教改革」(『古田史学会報』85号、2008年4月8日。「古田史学の会」HP「新・古代学の扉」に収録)として発表されていますので、是非ご参照ください。とても刺激的な論文で、「番匠」問題以外にも重要な仮説や発見が記されています。(つづく)


第1230話 2016/07/12

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(8)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の《三の矢》に対して、前期難波宮九州王朝副都説という仮説を提起したのですが、この仮説を支持する考古学的事実、すなわち前期難波宮跡のある上町台地から北部九州(九州王朝中枢の筑前・筑後・他)の土器が出土していたことが寺井誠さん(大阪歴博)により報告されていました。「洛中洛外日記」224話(2009/09/12)に寺井論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号、2008年11月)の存在を知ったいきさつを記していますので、ご参照ください。こうして、古田先生からのダメだしの一つ、前期難波宮遺構から九州の土器が出土しているのかという質問をクリアできたのでした。
 続いて、『日本書紀』孝徳紀の白雉元年二月条(650)に記された大規模な白雉改元の儀式が、実は白雉二年二月条(652)からの切り貼りにより移動させられていたことを発見し、「白雉改元の史料批判」(『九州年号の研究』所収)として発表したのですが、652年は九州年号の白雉元年壬子の年に当たり、しかも『日本書紀』によればその年の秋には前期難波宮が完成しており、その前期難波宮であれば大規模な白雉改元の儀式が行えることに気づきました。
 通説では白雉改元の儀式は『日本書紀』の記述通り650年のこととされており、その結果、そのような儀式が行える大規模な宮殿は前期難波宮完成前の上町台地には存在しておらず、どこで行われたのかという説明に困っていました。
 この困惑は九州王朝説でも同様で、北部九州にもこの儀式が行えるような大規模宮殿跡は知られていません。古田先生もこの問題に気づいておられ、様々な試案を考えられていました。しかし、そうした大規模宮殿が北部九州に見つかっていないということは認識されていました。ですから、『日本書紀』に記されているような白雉改元の儀式が行える大規模な前期難波宮は九州王朝の宮殿と見なさざるを得ないとする私の仮説に対して、最後は古田先生にも「検討すべき仮説」と認めていただいたわけです。
 九州年号の白雉改元の儀式を行うのは九州王朝であり、その儀式が行われたのは九州王朝の宮殿であることは当然でしょう。そしてそれが可能な規模の宮殿は日本列島内では、九州年号の白雉元年(652)に完成した前期難波宮だけです。これら考古学的根拠と文献史学の根拠と論理性により、前期難波宮九州王朝副都説は有力な仮説へと発展していきました。こうしてようやく、大和朝廷一元論者からの《三の矢》に対抗しうる仮説をわたしたち古田学派は手にしたのでした。(つづく)

〔補論〕難波から九州王朝中枢領域である筑前・筑後の土器が出土していたことについて、それが何を意味するのかを指摘しておきたいと思います。
 この考古学的事実は前期難波宮造営時に、難波へ九州王朝中枢の土器を持った人々、すなわち九州王朝中枢地域の人々が訪れていたことを意味します。従って、九州王朝は国内最大規模の前期難波宮の造営を知悉していたことを疑えません。ということは、前期難波宮の造営を九州王朝が承認していたこともまた疑えません。
 こうした論理性からみて、前期難波宮を近畿天皇家の宮殿とするのならば、九州王朝は自らの宮殿よりも何倍も巨大な宮殿を配下の豪族(近畿天皇家)が造営することを認めたということになりますが、九州王朝説に立つ限り、こうしたことを認めることはできないはずです。
 この点、大和朝廷一元論者であれば、何の迷いもなく、「前期難波宮は近畿の孝徳天皇の宮殿であり、孝徳天皇が全国に評制を施行し、全国支配をするにふさわしい規模と様式(朝堂院)を持つのは当然であり、だから九州王朝説など成立しない」と断言できます。このことの意味を九州王朝副都説に反対される九州王朝説論者は正しく深く認識していただきたいものです。そして「他流試合」の厳しさをご理解いただければ幸いです。


第1229話 2016/07/11

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(7)

 下記の「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の中でも「致命傷」になりかねない最も深刻で強力なものが《三の矢》でした。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 《一の矢》と《二の矢》については、「お墓」や「お寺」の存在が必ずしも王朝の中枢を示すとは限らないという「強弁」も可能だったのですが、前期難波宮のような全国最大規模で中央集権的律令体制を前提とするようなわが国初の朝堂院様式の巨大宮殿の存在は、全国支配を前提とした王宮と見なさざるを得ないため、先の「強弁」や「わからない」という言い訳が大和朝廷一元論者に対しては通用しないのです。すなわち、「お墓」や「お寺」とはその遺構の存在目的が全く異なるため、わたしは何年も前期難波宮の存在を九州王朝説からどのように説明できるのかを考え続けたのでした。
 しかし、ひとたび「前期難波宮は九州王朝の宮殿(後に副都と理解した)」に至ると、そのことを支持する様々な痕跡(北部九州の土器出土、『日本書紀』の白雉改元儀式の場所など)の発見が続出したのです。もともとは大和朝廷一元史観において前期難波宮の存在を合理的に説明できないという問題点(近畿天皇家の宮殿様式の発展史からみて、前期難波宮は隔絶している)に基づく「消極的」理由を根拠に思い至った作業仮説だったのですが、その後の研究の進展により「九州王朝の王宮と見なければ説明できない」という「積極的」仮説へと変化しました。(つづく)


第1227話 2016/07/10

太宰府、般若寺創建年の検討(1)

 太宰府市の著名な考古学者、井上信正さんの論文「大宰府条坊の基礎的考察」(『年報太宰府学』第5号、平成23年)を読んでいて、興味深い問題に気づきました。この論文は太宰府条坊研究において考古学的には大変優れたものですが、大和朝廷一元史観との「整合性」をとるために非常に苦しい表現や矛盾点を内包しています。
 たとえば観世音寺の創建について「創建年代が天智朝に遡る可能性がある観世音寺」(p.90)と冒頭に紹介されています。他方、井上さんが発見されたように、太宰府条坊区画とその北部に位置する政庁2期・観世音寺・朱雀大路の主軸はずれており、条坊区画の造営が先行したと考えられることから、政庁2期などを7世紀末〜8世紀第1四半期、条坊区画はそれ以前とされました(p.88)。この表現からすると、観世音寺は天智朝の頃なのか、7世紀末〜8世紀第1四半期とされるのか混乱しており、意味不明です。
 井上さんの理解としては太宰府条坊区画は7世紀末頃の造営で、藤原京造営と同時期であり、政庁2期や観世音寺はそれ以後の造営とされています。しかし、そうすると観世音寺が天智天皇の発願により660〜670年頃に造営開始されたとする史料事実や伝承と矛盾してしまいます。この明白な矛盾の存在について井上論文では触れられていません。もし、観世音寺造営を660〜670年頃としてしまうと、自身の研究成果により条坊区画の造営が7世紀前半にまで遡ってしまい、わが国初の条坊都市とされてきた藤原京よりも太宰府条坊都市の方が古くなってしまうのです。これでは大和朝廷一元史観に不都合なため、その点を曖昧にし、矛盾を内包した不思議な論文となってしまうのです。
 この井上説が内包する重大な「矛盾」については、これまでも指摘してきましたが、今回、発見したのは同じく太宰府条坊内にある般若寺の創建年についての問題です。(つづく)


第1226話 2016/07/09

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(6)

 わたしは「前期難波宮は九州王朝の副都」という論文を2008年に発表しました(『古田史学会報』85号、「古田史学の会」ホームページ「新・古代学の扉」に掲載)。九州王朝説に突き刺さった《三の矢》から九州王朝説を守るにはこの仮説しかないと、考え抜いた末の結論でした。

 しかし、古田先生からは賛同していただけない月日が永く続き、前期難波宮から九州の土器は出土しているのか、神籠石のような防御施設がない、副都の定義が不明確と次々とダメ出しをいただきました。また、各地で開催される講演会で、わたしの「前期難波宮九州王朝副都説」に対する見解を問う質問が参加者から出されるたびに、古田先生からは否定的見解が表明されるという状況でした。

 そうした中でわたしにできることはただ一つ、論文を書き続けることだけでした。もちろん古田先生に読んでいただくこと、そして納得していただきたいと願って研究と発表を続けました。次の論文がそうです。想定した第一読者は全て古田先生です。

《前期難波宮関連論文》※「古田史学の会」ホームページ「新・古代学の扉」に掲載
前期難波宮は九州王朝の副都(『古田史学会報』八五号、二〇〇八年四月)
「白鳳以来、朱雀以前」の新理解(『古田史学会報』八六号、二〇〇八年六月)
「白雉改元儀式」盗用の理由(『古田史学会報』九〇号、二〇〇九年二月)
前期難波宮の考古学(1)ーここに九州王朝の副都ありきー(『古田史学会報』一〇二号、二〇一一年二月)
前期難波宮の考古学(2)ーここに九州王朝の副都ありきー(『古田史学会報』一〇三号、二〇一一年四月)
前期難波宮の考古学(3)ーここに九州王朝の副都ありきー(『古田史学会報』一〇八号、二〇一二年二月)
前期難波宮の学習(『古田史学会報』一一三号、二〇一二年十二月)
続・前期難波宮の学習(『古田史学会報』一一四号、二〇一三年二月)
七世紀の須恵器編年 ー前期難波宮・藤原宮・大宰府政庁ー(『古田史学会報』一一五号、二〇一三年四月)
白雉改元の宮殿ー「賀正礼」の史料批判ー(『古田史学会報』一一六号、二〇一三年六月)
○難波と近江の出土土器の考察(『古田史学会報』一一八号、二〇一三年十月)
○前期難波宮の論理(『古田史学会報』一二二号、二〇一四年六月)
○条坊都市「難波京」の論理(『古田史学会報』一二三号、二〇一四年八月)

 論文発表と平行して「古田史学の会」関西例会でも研究報告を続けました。そうしたところ、参加者から徐々に賛成する意見が出され始めました。西村秀己さん、不二井伸平さん、そして正木裕さんは『日本書紀』の史料批判に基づいてわたしを支持する研究発表をされるようになり、近年では服部静尚さんも新たな視点(難波宮防衛の関)から前期難波宮副都説支持の研究を開始されました。

 そして2014年11月8日の八王子セミナーの日を迎えました。古田先生との質疑応答の時間に参加者からいつものように「前期難波宮副都説をどう思うか」との質問が出されました。わたしは先生を凝視し、どのような批判をされるのかと身構えました。ところが、古田先生の返答は「今後、検討しなければならない問題」というものでした。6年間、論文を書き続け、ついに古田先生から「否定」ではなく、検討しなければならないの一言を得るに至ったのです。検討対象としての「仮説」と認めていただいた瞬間でした。その日の夜は、うれしくて眠れませんでした。しかしその一年後、検討結果をお聞きすることなく、先生は他界されました。(つづく)

 


第1225話 2016/07/09

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(5)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の《三の矢》に悩んでいたわたしは、難波宮に関する先行論文の調査を続けました。その過程で、大和朝廷一元史観内でも前期難波宮の隔絶した規模に困惑している状況があることを知りました。

 たとえば中尾芳治著『難波京』(ニュー・サイエンス社、昭和61年)では、前期難波宮がその前後の近畿天皇家の宮殿(飛鳥板葺宮、飛鳥浄御原宮)とは規模も様式も隔絶していると指摘されています。

 「前期難波宮、すなわち長柄豊碕宮そのものが前後に隔絶した宮室となり、歴史上の大化改新の評価そのものに影響を及ぼすことになる。」(p.93)

 そしてこの前期難波宮の朝堂院様式が前後の宮殿となぜ異なったのかという説明に非常に苦しんでいる様子が吉田晶著『古代の難波』(教育社、1982年)にも記されています。

 「残る問題は、その宮室構造と規模がその後の天智の大津宮や天武の飛鳥浄御原宮に継承されたとは考えがたいのに対して、持統朝に完成する藤原宮に継承関係がみられることを、どう説明するか、(中略)宮室構造と規模などはすぐれてイデオロギー的要素をふくむ政治的構造物であり、考古学上の遺物たとえば土器の編年と同様に考えることはできず、物自体については「後戻り現象」(横山浩一氏の表現)も生じうる。その意味で形式変化における断絶性をそれほど重視する必要はない。」(p.167〜168)

 わたしは大和朝廷一元論者の困惑したこれらの文章を見て驚きました。それにしても「後戻り現象」なる奇妙な解釈を持ち込んでまで「形式変化における断絶性をそれほど重視する必要はない」というに及んでは、これは「思考停止」であり、学問的敗北です。すなわち、彼らも前期難波宮の隔絶した規模と様式を、大和朝廷一元史観の中で処理(理解)できないことを「告白」しているのでした。

 この学問的状況を知ったとき、わたしの脳裏に、前期難波宮は大和朝廷ではなく九州王朝の宮殿ではないかとする作業仮説(思いつき)が稲妻のようにひらめきました。と同時に、古田学派にとってもあまりに常識から外れたこの新概念に、学問的恐怖を覚えました。こんな非常識な仮説を発表して、もし間違っていたらどうしようと、わたしは呻吟したのです。真っ暗闇の中で、誰も行ったことのない場所に一歩踏み出すという最先端研究が持つ恐怖にかられた瞬間でした。(つづく)


第1224話 2016/07/08

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(4)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の最後《三の矢》についての解説です。実はこの《三の矢》こそ、わたしが最初に気づいた九州王朝説にとっての最大の難関でした。そして同時に「三本の矢」を跳ね返すヒントが秘められていたテーマでもありました。

《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 今から10年以上前のことです。わたしは古田先生の下で主に九州王朝史と九州年号研究に没頭していました。そうした中で悩み抜いた問題がありました。それは大阪市法円坂から出土していた孝徳天皇の前期難波宮址(『日本書紀』に見える難波長柄豊碕宮とされている)が7世紀中頃の宮殿として国内最大規模で最古の朝堂院様式であり、九州王朝の宮殿と考えてきた大宰府政庁2期の宮殿とは比較にならないほどの大きさだったことです。朝堂院部分の面積比だけでも前期難波宮は大宰府政庁の数倍は大きく、「大極殿」や「内裏」を含めるとその差は更に広がります。

  これではどちらが日本列島の代表者かわからず、大和朝廷一元論者だけではなく九州王朝説を知らない普通の人々が見れば、倭国王の宮殿としてどちらがふさわしいかという質問に対して、おそらく全員が前期難波宮と答えることでしょう。この考古学的出土事実は九州王朝説にとって「致命傷」になりかねない重要問題であることに気づいて以来、わたしは何年も悩みました。この悩みこそ、九州王朝説に突き刺さった《三の矢》なのです。

 古田先生も最晩年まで前期難波宮について悩んでおられたようで、当初は『日本書紀』に記されていない「近畿天皇家の宮殿」と言われていましたが、繰り返し問い続けると「わからない」とされました。古田先生さえ悩まれるほど、難解かつ重要なテーマだったのです。(つづく)


第1223話 2016/07/07

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(3)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の《二の矢》について解説します。

《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。

 6〜7世紀における九州王朝で仏教が崇敬されていたことは、『隋書』に記された多利思北孤の記事や、九州年号に仏教色の強い漢字(僧要・僧聴・和僧・法清・仁王、他)が用いられていることからもうかがえます。このことはほとんどの九州王朝説論者が賛成するところでしょう。したがって、九州王朝説が正しければ、日本列島を代表する九州王朝の中心領域である北部九州に仏教寺院などの痕跡が日本列島中最多であるはずです。ところが考古学的出土事実は「6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿」なのです。これが九州王朝説に突き刺さった《二の矢》です。

 わたしがこの問題の深刻性にはっきりと気づいたのは、ある聖徳太子研究者のブログ中のやりとりで、九州王朝説支持者からの批判に対して、この《二の矢》の考古学的事実をもって九州王朝説に反論されている記事を読んだときでした。この九州王朝説反対論に対する九州王朝説側からの有効な再反論をわたしはまだ知りません。すなわち、この問題に関して九州王朝説側は大和朝廷一元史観との論争において「敗北」しているというよりも、まともな論争にさえなっていない「不戦敗」を喫しているとしても過言ではないのです。

 この《二の矢》については古田先生も問題意識を持っておられましたし、少数ですが検討を試みた研究者もありました。わたしの見るところ、それは次のようなアプローチでした。

1.北部九州の寺院遺跡の編年を50年ほど古く編年する。たとえば太宰府の観世音寺を7世紀初頭の創建と見なす。

2.近畿の古い寺院を北部九州から移築されたものと見なし、それにより、北部九州に古い寺院遺跡がないことの理由とする。

 主にこの二点を主張する論者がありました。しかし、この主張の前提には「北部九州には6世紀末から7世紀前半にかけての寺院の痕跡が無い」という考古学的事実を認めざるを得ないという「事実」認識があります。そして結論から言えば、これら二点のアプローチは成功していません。それは次の理由からも明らかです。

1.観世音寺の創建が白鳳時代(7世紀後半)であることは、史料事実(『二中歴』『勝山記』『日本帝皇年代記』に白鳳期あるいは白鳳10年〔670〕の創建とある)と考古学的出土事実(創建瓦が老司1式)からみても動きません。7世紀初頭創建説の論者からはこのような史料根拠や論証の明示がなく、「自分がこう思うからこうだ」あるいは「九州王朝説にとって不都合な事実は間違っているはずだから解釈変更によって否定してもよい」とする「思いつきや願望の強要」の域を出ていません。

2.現・法隆寺は別の寺院を移築したものとする見解にはわたしも賛成なのですが、それが北部九州から移築されたとする考古学的・文献史学的根拠が示されていません。その説明は史料事実の誤認・曲解や、論証を経ていない「どうとでも言える」程度の「思いつき」の域を出ていません。

 九州王朝説論者からはこの程度の「解釈」しか提示できていなかったため、大和朝廷一元史観論者を説得することもできず、彼らの「6〜7世紀を通じて日本列島内で最も仏教文化の痕跡が濃密に残っているのは近畿であり、その事実は当時の倭国の代表者は大和朝廷であることを示しており、九州王朝など存在しない」という頑固で強力な反論が「成立」しているのです。わたしたち古田学派が大和朝廷一元史観論者との「他流試合」で勝つためにはこの頑固で強力な《二の矢》から逃げることはできません。

 この《二の矢》に対する学問的反論の検討は主に「古田史学の会」関西例会の研究者により続けられてきました。たとえば難波天王寺(四天王寺)を九州王朝による創建とする見解を、わたしや服部静尚さん正木裕さんが発表してきましたし、難波や河内が6世紀末頃から九州王朝の直轄支配領域になったとする研究も報告されてきました。

 また別の角度からの研究として、従来は8世紀中頃に聖武天皇の命令により造営されたとする各地の国分寺ですが、その中に九州王朝により7世紀に創建された「国府寺」があるとする多元的「国分寺」研究が関東の肥沼孝治さんらにより精力的に進められています。多元的「国分寺」研究サークルのホームページにはこの調査報告が大量に記されています。

 こうした研究は、ようやくその研究成果が現れ始めた段階です。このテーマは7世紀における土器編年の再検討という問題にも発展しており、古田学派にとって考古学も避けては通れない重要な研究テーマとなっているのです。(つづく)