九州王朝(倭国)一覧

第411話 2012/05/10

筑紫君の子孫

 仕事で香川県宇多津町に来ています。新幹線で広島県福山市まで行って、そこから車で来たのですが、瀬戸内海の夕焼けと瀬戸大橋、そして讃岐富士(飯野山)のシルエットが絶景でした。
 今日は九州王朝の天子、筑紫君の子孫についてご紹介します。この20年ほど、わたしは九州王朝の末裔について調査研究してきました。その一つとして筑紫 君についても調べてきましたが、福岡県八女市や広川町の稲員家(いなかず・高良玉垂命の子孫)が九州王朝末裔の一氏族であることが古田先生の調査で判明し たことは、今までも何度かご紹介してきたところです。
 それとは別に筑前に割拠した筑紫一族についても調べたのですが、今一つわからないままでした。ところが、江戸時代後期に編纂された『筑前国続風土記拾 遺』(巻之十八御笠郡四。筑紫神社)青柳種信著に、筑紫神社の神官で後に戦国武将筑紫広門を出した筑紫氏について次のように記されていました。

「いにしへ當社の祭を掌りしは筑紫国造の裔孫なり。是上代より両筑の主なり。依りて姓を筑紫君といへり。」

 そしてその筑紫君の祖先として、田道命(国造本紀)甕依姫(風土記)・磐井・葛子らの名前があげられています。この筑前の筑紫氏は跡継ぎが絶えたため、 太宰少貳家の庶子を養子に迎え、戦国武将として有名な筑紫広門へと続きました。ところが、関ヶ原の戦いで広門は西軍に与(くみ)したため、徳川家康から所領を没収され、その子孫は江戸で旗本として続いたと書かれています。
 現代でも関東地方に筑紫姓の人がおられますが、もしかすると筑前の筑紫氏のご子孫かもしれません。たとえば、既に亡くなられましたが、ニュースキャス ターの筑紫哲也さんもその縁者かもしれないと想像しています(大分県日田市のご出身らしい)。
 というのも、古田先生の著書『「君が代」は九州王朝の讃歌』を筑紫哲也さんに贈呈したことがあるのですが、そのおり直筆の丁寧なお礼状をいただいたことがあったからです。筑紫さんは古田先生の九州王朝説のことはご存じですから、ご自身の名前と九州王朝との関係に関心を持っておられたのではなかったでしょうか。生前にお尋ねしておけばよかったと今でも悔やんでいます。


第410話 2012/05/08

観世音寺の水碓(みずうす)

 観世音寺や大宰府政庁の編年見直しの研究に取り組んでいますが、一応の結論と して観世音寺の創建を白鳳10年(670)、大宰府政庁II期の創建を670~680年頃とする論文を執筆しました。執筆直後(5月5日)、正木裕さん (古田史学の会会員)に電話でその内容を説明し、「日本書紀」にこの結論と関係するような記事がないか問い合わせたのですが、その翌日、正木さんから素晴らしい一報が届きました。
 それは観世音寺創建に関する発見なのですが、「日本書紀」の天智9年(白鳳10年に相当)の「是歳」条に「是歳、水碓を造りて治鉄(かねわか)す」という記事があり、この水碓は観世音寺に現存する「碾磑(てんがい・水碓のこと)」ではないかと指摘されたのです。そしてそれを裏付けるように、貝原益軒の 『筑前国続風土記』(巻之七御笠郡上。観世音寺)寛政十年(一七九八)に、「観世音寺の前に、むかしの石臼とて、径三尺二寸五分、上臼厚さ八寸、下臼厚さ 七寸五分なるあり。是は古昔此寺営作の時、朱を抹したる臼なりと云。」という記事があることを発見されたのです。
 すなわち、観世音寺が創建された年にあたる「日本書紀」天智9年(白鳳10年)に水碓の記事が唐突に記されており、『筑前国続風土記』にも現地伝承とし て観世音寺創建時に造られた臼のことが記されていたのです。しかも、どちらもその用途を金属の粉砕(湿式粉砕と思われる)としているのですから、これは偶然の一致ではなく、共に同じ歴史事実を記したものと考えざるを得ません。とりわけ、「日本書紀」の記事の年代が「勝山記」に記された観世音寺創建年の白鳳 10年(670)なのですから、この一致は決定的です。
 「二中歴」や「勝山記」、そして創建瓦「老司I式」の編年が、いずれも観世音寺創建を白鳳年間(白鳳10年)であることを指し示し、更にだめ押しのような正木さんの「水碓」記事の発見が加わったことにより、観世音寺白鳳10年創建説は揺るぎないものになったのではないでしょうか。
 なお、わたしの観世音寺・大宰府政庁II期に関する論文と正木さんのこの発見については「古田史学の会報」6月号に掲載予定です。


第409話 2012/05/06

「竈門山旧記」の太宰府

ゴールデンウィークは外出せずに自宅で論文を書いたり、本を読んですごしました。その中で、太宰府の北東の宝満山(竈門山・御笠山とも呼ばれる)にある竈門神社の記録「竈門山旧記」(五来重編『修験道史料集』?)におもしろい記事を見つけましたので、ご紹介します。
それは太宰府に天智天皇の時代に都が造られたという次のような記述です。
「天智天皇ノ御宇、都ヲ太宰府ニ建玉ウ時、鬼門ニ當リ、竈門山ノ頂ニ八百萬神之神祭リ玉ヒ」
「太宰ノ府ト申ハ水城ヲ以テ惣門トシ片野ヲ以テ後トス。今ノ太宰府ハ往昔ノ百分一ト可心得、内裏ノ四礎今ニ明ケシ。」
天智天皇の時代に太宰府に都が造られ、水城が惣門にあたり、当時は今の百倍の規模で、内裏の礎が今も明確であるというものです。
太宰府に都があったという伝承が記された貴重な記録です。この「竈門山旧記」の成立年代は不明ですが、「延寶八年」(1680)までの記事が記されてい ますから、成立はこれ以後となります。おそらく当地には九州王朝に縁源する文書がまだ他にもあるのではないでしょうか。


第405話 2012/04/18

太宰府編年の再構築

 今日は仕事で長野県岡谷市に行ってきました。天候にも恵まれ、JR中央本線「特急しなの」の車窓から見える山々の冠雪や満開の桜がとてもきれいでした。
 このところ「古田史学会報」用論文の執筆に打ち込んでいます。題は「観世音寺・大宰府政庁Ⅱ期の創建年代」というもので、太宰府編年の整理と再構築がテーマです。九州王朝の王都太宰府については、古田学派内でも様々な編年観があるようですが、七世紀の九州王朝研究の深化のためにも、一度きちんと論文に まとめ直す必要を感じていました。
 というのも、わたし自身も当初の編年観が誤っていることに気づき、修正を重ねているからです。その修正ができたのは、二人の井上さんのおかげなのです が、一人は井上信正さん(太宰府市教育委員会)、もうお一人は井上馨さん(古田史学の会会員、山梨県在住)です。
 考古学者で太宰府遺構の調査研究にたずさわられている井上信正さんは、大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺・朱雀大路よりも条坊区画の方が先に造営されており、その時期を七世紀末とする新編年を発表されました。
 当初わたしは九州王朝の王宮である大宰府政庁Ⅱ期と条坊都市は共に九州年号「倭京」年間(618~622)に造営されたものと理解していました。ところが、両者の中心軸はずれており、造営にあたり使用された基準尺も異なっていることを井上信正さんは発見されたのです。この指摘は衝撃的でした。この井上説に立てば、我が国最初の条坊都市とされてきた藤原京よりも太宰府条坊都市の方が先に造営されたことになりかねないからです。少なくとも同時期となってしま うのです。このため、九州王朝説の立場に立っても太宰府編年の見直しがせまられたのです。
 次に井上馨さんですが、昨年送っていただいた『勝山記』のコピーを読み、観世音寺の創建年が白鳳10年(「白鳳十年鎮西観音寺造」とあります)と記録さ れいることに気づいたのです。観世音寺創建年については、『二中歴』では「白鳳年間(661~683)」とされているのですが、それ以上の具体的年次が不 明でした。ところが『勝山記』のおかげで、白鳳10年(670)であったことがわかったのです。
 観世音寺創建年が670年のこととわかったおかけで、大宰府政庁Ⅱ期も同時期の造営となることから、太宰府編年研究が一気に進んだのです。こうした、二人の井上さんの「ご協力」に基づいて、太宰府編年研究を再構築すべく原稿を執筆しています。「古田史学会報」次号でご紹介できると思います。


第404話 2012/04/11

『古事記』千三百年の孤独(5)

 大和朝廷にとって『古事記』編纂の最大の目的は先住した九州王朝をなかったこ とにして、神代の時代から天皇家が日本列島の中心権力者であったとすることです。しかし、『古事記』編纂時の712年といえば九州王朝に替わって最高権力 者となってから、まだ十数年しかたっていません。ですから、列島内の多くの人々には大和朝廷が新参の権力者であることは自明のことだったのです。そのた め、自らの権力基盤を安定化するための「大義名分」(アリバイ)作りが史書編纂という形で進められました。『古事記』にはその痕跡が残されています。
 『古事記』には推古天皇まで記されていますが、各天皇の事績・伝承記事があるのは顕宗天皇までで、その後は推古まで系譜や姻戚記録等だけとなります(これにも理由があるのですが、今回はふれません)。ところが、例外のように継体記の末尾にちょっとだけ伝承記事が掲載されているのです。いわゆる「磐井の 乱」の記事です。

「この御代に、竺紫君石井、天皇の命に従わずして、多く礼無かりき。故、物部荒甲の大連、大伴の金村の連二人を遣わして、石井を殺したまひき。」

 この短い記事を挿入しているのですが、この「例外」のような短文記事挿入こそ、『古事記』編纂の眼目の一つなのです。すなわち、九州王朝の王であった石井(日本書紀では磐井)より近畿の継体天皇が格上であり、この「磐井の乱」鎮圧の結果、名実ともに九州は大和朝廷の支配下にはいったという、「大義名分」 (アリバイ)作りの文章だったのです。
 これが、継体記に例外とも言える「伝承記事」を挿入した動機で、『古事記』編纂者の苦辛の跡なのです。しかし、その苦辛は報われませんでした。
 「天皇の命に従わずして、多く礼無かりき」程度の理由や記事では、九州王朝の王・石井を殺して倭国のトップになったのは「歴史事実」だと、列島内の人々に信じさせることはできないと継体の子孫たち、8世紀初頭の大和朝廷には見えたのです。その結果、『古事記』は「ボツ」にされ、「継体の乱」を事細かに記した『日本書紀』が正史として新たに編纂されたのです。
 このように、『古事記』には隠された編纂意図があちこちに残されてるのですが、それらを説明するには「洛中洛外日記」では荷が重すぎます。また別の機会に紹介したいと思います。


第387話 2012/02/20

九州王朝太子殺害記事の正木異説

 第381話で、『海東諸国紀』に「(賢接)三年戊戌(578)、六斎日を以て経論を被覧し、其の太子を殺す。」(以六斎日被覧経論殺其太子)とい う、九州王朝内での太子殺害事件が記されていることを紹介しました。これに対して、先週の関西例会で正木さんから異論が出されました。
 『聖徳太子伝傳記』(1318年成立)に、「太子七歳戊戌(578)経論被見六斎日殺生禁断」という記事があり、『海東諸国紀』の「以六斎日被覧経論殺 其太子」は、本来「以六斎日、被覧経論、殺生禁断、其太子~」とあったものが、誤写などで「生禁断」が抜け落ち、誤伝したのではないかとされたのです。
 なるほど、これは優れた見解と思われました。正木さんのこの異論は以前の関西例会でも発表されており、確かな史料根拠に基づいたもっともな説と思っているのですが、それにもかかわらず、わたしが第381話で「九州王朝太子殺害記事」として紹介したのには理由がありました。
 一つは、殺生禁断という仏教的にはありふれた記事が、太子殺害記事という重大事件に誤写誤伝されるものだろうか、という点です。二つ目は、この578年 という年は、日本史の中でも著名な「聖徳太子」の時代であり、朝鮮国の公的な書籍といえる『海東諸国紀』の編纂に当たって、太子が殺されたとする、それほ どずさんな誤写、あるいは誤伝史料の採用を行うだろうかという素朴な疑問を払拭できなかったからなのです。
 やはり九州王朝史料に「太子殺害事件」が記されており、後の時代に聖徳太子伝記を編集するときに、殺生禁断記事に書き換えられたという可能性を否定でき ないと思うのです。もちろん、現時点では正木異説も有力と考えており、断定するべきではないとも思っています。引き続き、研究を深めたいと思います。な お、正木さんの異説発表には敬意を払います。学問研究にとって、異論の提起は大切なことですから。


第381話 2012/02/05

九州王朝の太子殺害事件

 今日は京都市長選挙の投票日で、京都御所の東隣にある京極小学校へ妻と二人で投票に行ってきました。京極小学校は娘が通った小学校で、湯川秀樹さんがこの小学校を卒業されたことでも有名です。京都市長選は前回より電子投票になりましたので、集計作業も早く、現職の角川さんの当選がNHK大河ドラマ終了後のニュースで早々と報道されました。
 近代民主国家は平和的に選挙で政権やリーダーの決定・交替が可能ですが、古代社会においては譲位・禅譲とは別に、放伐やクーデター、内乱、内紛など様々 な血なまぐさい交代劇が少なくありません。恐らく九州王朝内部でも近畿天皇家へ列島の代表者が替わるまで、いろんな事件があったはずです。残念ながら九州王朝史書は抹殺され遺されていませんから、その詳細はほとんどわかりませんが、其の断片が諸史料にわずかですが残っています。
 その一つに、九州年号群史料としても有名な『海東諸国紀』があります。同書は1471年に李氏朝鮮で作成された、日本と琉球の歴史・地理・風俗・言語・ 通行を克明に記した史料で、著者は朝鮮の最高の知識人でハングル制定にも寄与した申叔舟(1417~1475)です。
その中に次のような九州王朝内の驚くべき事件が記されているのです。

「(賢接)三年戊戌、六斎日を以て経論を被覧し、其の太子を殺す。」

 賢稱三年(『海東諸国紀』は「賢接」とする)は敏達七年に当たり、大和朝廷では太子が殺されたなどという物騒な事件は起こっていません。従って、九州年号の賢稱とセットで記されたこの記事も九州王朝内部の事件と見なさざるを得ないのです。
 この記事が事実だとすると、この賢稱三年(578)は九州王朝の輝ける天子多利思北孤即位のほぼ前代に当たり(即位は端政元年〔589〕)、すなわち多利思北孤は正統たる皇位継承者の太子が殺害された結果、即位できた天子となるのです。このことについては拙論「九州王朝の近江遷都 — 『海東諸国紀』の史料批判」(『「九州年号」の研究』に収録)をご参照下さい。
 現時点では、これ以上のことは不明ですが、今後、丹念に諸史料に遺されている九州王朝系記事を精査する事により、失われた九州王朝史の復原が少しずつでも進むことが期待されます。


第369話 2012/01/02

三社参り

皆様、新年おめでとうございます。京都に戻る新幹線の車中で書いています。久留米の実家で新年を迎えるたびに思うことがあります。それは九州では初詣の習慣として「三社参り」があることです。
わたしの子供の頃は、初詣として近所の神社と高良大社、そして太宰府天満宮の三社をお参りするのがしきたりでした。なぜ三社なのかは父親も教えてくれませんでしたが、子供心にも三社参らないと正月の行事をきちんと行った気がしませんでした。
ちなみに筑前の福岡あたりでは、太宰府天満宮・筥崎宮・宮地嶽神社の三社が、三社参りの定番とのことですが、誰がいつ決めたのかは知りません。おそらくは九州王朝の歴史にまで縁源があるのではないかとにらんでいます。
わたしはこの三社参りが九州のローカルな風習であることを、就職で京都に来るまで知りませんでした。恥ずかしながら、三社参りは日本全国の初詣の習慣だと、30歳頃まで思っていました。
ところで、先の宮地嶽神社ですが、九州新幹線に配備されているJR九州が作ったフリーペーパー「プリーズ」2012年1月号(No.296)に宮地嶽神社の特集があり、同神社にある宮地嶽古墳(7世紀造成と紹介)について、権禰宜の渋江公誉(しぶえ・きみたか)さんの説明として、「この古墳の王はこの地 を治めた王朝の王であろうと思われます。ただこのように、この時代に特に貴重な黄金や瑠璃をふんだんに使用した出土品を見れば、この地を支配した氏族が繁栄し、富を持っていたことは一目瞭然です。当時の日本において、相当の力を持っていたことは間違いありません」と紹介されています。
大和朝廷一元史観による通説では、宮地嶽古墳は「大和朝廷支配下の北部九州の豪族の墓」とされているのですが、権禰宜の渋江さんは、この地を治めた「王朝」の王の墓と説明されているのです。これこそ九州王朝説に他なりません。おそらく渋江さんは古田先生の九州王朝説をご存じのことと推察しました。
どうやら、古田史学・九州王朝説はわたしたちの思っている以上に、深く広く静かに浸透しているようです。新年も古田史学にとって、すばらしい一年になりそうな予感がしています。


第343話 2011/10/16

『古田史学会報』106号の紹介

『古田史学会報』106号が発行されましたので御紹介します。105号での上城さんからの論争提起に応えて、正木さ んが小郡のアスカについての関西例会などで発表されてきた自説を詳細に説明されています。読者の皆さんにも関西例会の討論の内容や雰囲気が伝わるのではな いでしょうか。
正木さんのもうひとつの論稿「磐井の冤罪 I」も関西例会で発表されてきたものです。『日本書紀』継体紀の新たな史料批判が展開されており、注目されます。
古谷さんからは、史料紹介として「明王より豊臣秀吉に贈れる冊封」に尚書の「海隅日出 罔不率俾」や「卉服」が見えること、南京市の南朝石碑に全面「鏡文字」があることなどが紹介されました。古谷さんの博識ぶりがうかがえます。
このところ、会報への投稿が増えており、不採用や掲載が後回しになる原稿も少なくありません。早く掲載されるコツとしては、短い論文にされることです。 空いたスペースを埋めるさいに、採用される可能性が高くなります。古田説と異なることを理由に不採用になることはありませんが、その場合、なぜ古田説より も自説が優れているかの説明が不可欠です。御配慮下さい

『古田史学会報』106号の内容
○論争の提起に応えて  川西市 正木裕
○「邪馬一国」と「投馬国」の解明 
ーー倭人伝の日数記事を読む 姫路市 野田利郎
○唐書における7世紀の日本の記述の問題  山東省曲阜市 青木英利
○反論になっていない古賀氏の「反論」  富田林市 内倉武久
○磐井の冤罪 I  川西市 正木裕
○史料紹介  枚方市 古谷弘美
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会  関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集

第341話 2011/10/02

「大歳庚寅」銘鉄刀の目的

福岡市西区の元岡古墳群から出土した鉄刀の銘文について検討考察をすすめてきましたが、いよいよ最終段階に入りたいと思います。それは、この鉄刀が作られた目的(史料性格)についてです。
実は、この鉄刀の銘文はちょっとへんなのです。「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果(練)」とあるだけで、その前後には銘文はないようですが、これ では鉄刀を作った年月日が記されているだけで、そのことにどんな意味があるのか銘文からは不明なのです。
銘文を持つ古代の鉄刀(剣)はいくつか出土していますが、欠損のため一部しか銘文が残っていないものはともかく、その他は基本的に何のためにその鉄刀 (剣)が作られたかという制作目的や史料性格を銘文からうかがい知ることが可能です。ところが、この「大歳庚寅」銘鉄刀には、それら制作意図や鉄刀を与え る目的などがわからないのです。
一応、わたしは大歳干支表記や九州年号改元年との一致などから、新倭王即位と改元を記念して作られたものとする理解をえましたが、銘文そのものには製作 年 月日ぐらいしか記されていないのです。わたしにはこのことが不思議に思えたのですが、マスコミの発表などを読む限りは、このような点に触れた記事はないよ うです。
そこでわたしは、そうした鉄刀制作者の意図とその授与の目的を銘文から読みとれないかと考え続けてきました。そして、そのキーワードを見つけたのです。 それは、銘文の後半部分「作刀凡十二果(練)」の部分です。新聞などの説明では、この部分を「全てよく練り鍛えた刀」という意味に読んでいますが、この解 釈には納得できません。
通常、鉄刀(剣)などの銘文での常套句は「百練」です。例えば、国内では最も古い後漢の年号を持つ「中平」銘鉄刀は「百練」と記されていますし、有名な 七支刀も「百練」、稲荷山古墳出土鉄剣銘も「百練利刀」、江田船山古墳出土鉄刀でも百練よりは少ないのですが「八十練」です。
これらの銘文が示すように優れた鉄剣・鉄刀を表す常套句(実際そのくらい練ったのかもしれませんが)は「百練」「八十練」であり、「大歳庚寅」銘鉄刀の よ うに「十二果練」では、鉄刀の出来を誉めているのか、けなしているのかわからないような回数ではないでしょうか。そこで、新聞発表などでは「凡十二果 (練)」を「全てよく練り鍛えた刀」などと、苦し紛れの解釈になったのではないかとにらんでいます。
そこでわたしは、「十二」を練った回数ではなく、鉄刀の数と理解しました。次のような読解です。「大歳庚寅正月六日庚寅の日の時に、十二本の刀すべてを作り練り果たした。」
このように「十二」を鉄刀の本数と見れば、数的に無理のない妥当なものとなります。すなわち、新倭王は即位改元にあたり、十二本の鉄刀を作り、その記念 すべき日に作った刀であることを象嵌し、恐らく九州王朝内の有力12氏族の長に与えたのでしょう。そしてその内の1氏族の子孫の墓が元岡古墳群だったので す。
そうすると次に問題となるのが、何故12本なのかということです。もちろん、九州王朝直属の有力氏族の数が12氏族だったという場合もあるかもしれませ んが、それだとちょっと少ないように思われます。従って、逆に積極的に12本(12氏族)が選ばれたと考えた場合、それはどのような場合でしょうか。
わたしには一つのアイデア(作業仮説)があります。それは、藤原宮のように12の門が当時の九州王朝の王宮にあったとすれば、藤原宮と同様にそれら各門 を1氏族で守ることになり、合計12氏族で王宮防衛にあたることになります。このように理解すれば、防衛任務の責任者に武力の象徴でもある「鉄刀」を下賜 することは、充分にあり得ることですし、宮門防衛氏族の象徴(証明)としてこの「大歳庚寅」銘鉄刀が自他共にその役割を認めることになるのです。
従って、王宮防衛氏族としてその任務と名誉は子孫に受け継がれたはずですから、7世紀中頃の古墳から出土したことも肯けます。おそらく、7世紀中頃には 王宮防衛の任務を解かれたため、その時点で古墳に埋納されたものと思われます。あるいは、新たな王宮防衛の「証明」物が与えられたのかもしれませんが、そ れよりもその氏族が任務を解かれたため、子孫に引き継ぐことなく埋納した可能性が高いのではないでしょうか。
更に、この7世紀中頃に王宮防衛の任務を解かれたという仮説に基づくならば、一体何が九州王朝で起こったのでしょうか。これも想像の域を出ませんが、九 州王朝の副都前期難波宮の完成(652年・九州年号の白雉元年)と関係があるのではないかとにらんでいます。難波の副都完成にあたり、王宮防衛の任務の一 部が関西の氏族と交替になったため、元岡古墳群被葬者の氏族が任務から外れたのではないでしょうか。
これらは想像の域を出ませんが、「大歳庚寅」銘鉄刀が大和朝廷から下賜されたとする、大和朝廷一元史観の説よりは説得力があると自負しています。

第340話 2011/10/01

「大歳庚寅」鉄刀銘と「金光」改元

 前話で紹介した「大歳庚寅」鉄刀銘文について、ちょっと気にかかる点がありました。それは「大歳庚寅正月六日庚寅日時作凡十二果(練)」という短い文に年干支と日付干支の両方が記され、しかも共に「庚寅」という点です。
 もちろん、古代金石文において年干支と日付干支の両方が記されている例はあるのですが、鉄刀の背という狭いスペースに象嵌という手の込んだ技術で作刀の時期を記す場合、年干支「大歳庚寅」と「正月六日」という日付表記で事足りるのに、わざわざ「正月六日庚寅」と日付干支まで丁寧に記されていることに、作刀者の強い意志と意図を感じるのです。しかも、年干支と同じ「庚寅」なのですから、これも偶然とは考えにくいと思います。
 日付干支が「庚寅」となる「正月六日」にたまたま作刀したのではなく、年干支と同じ「庚寅」となる「正月六日」を作刀日に選んだ可能性が濃厚なのです。 それほど「庚寅」という干支を意識したのです。その理由をわたしなりに考えてみました。それは九州年号「金光」への改元との関わりです。
 この鉄刀銘の庚寅が570年であることは確実ですが、この同じ年に九州年号が「和僧」から「金光」へと改元されているのです。この「金光」との関係で作刀日を「庚寅」にしたのではないでしょうか。古代中国では陰陽五行説(諸説あります)に基づいて鏡や刀の作成日を選んだり、吉祥句として記したりしている 例が少なくありませんが、この「庚寅」という干支も陰陽五行説によれば、庚は「金」と「陽」に相当し、寅も「陽」に相当するとされています。この「金」と 「陽」に基づいて、あるいは因果関係は逆かもしれませんが、「金光」という年号が制定されたように思われるのです。
 従来わたしは、九州年号の「金光」は九州王朝への金光経伝来を記念して制定された年号ではないかと考えていました。しかし、この推測には弱点がありました。それは『二中歴』年代歴の「金光」年号細注に何も記されていないということでした。ご存じのように、『二中歴』年代歴の九州年号の細注には仏教関連記事が少なからずあり、たとえば、「端政」の細注には「唐より初めて法華経渡る」とあり、「仁王」には「唐より仁王経渡る」、「僧要」には「唐より一切経三 千余巻渡る」などの仏教経典伝来記事がありますが、「金光」にはないのです。
従って、今回の鉄刀銘文の考察のように、一応、金光経伝来とは別に、陰陽五行説との関連で「金光」年号を捉えることができたのは、新たな理解(作業仮説)として有益と思われました。
 こうした仮説が正しければ、この「大歳庚寅」象嵌鉄刀は、前年の倭王崩御に伴い、新倭王が即位し、「大歳庚寅正月六日庚寅」に「和僧」から「金光」へと九州年号が改元されたことを記念して作られたのではないかという考えへと進まざるを得ないのですが、いかがでしょうか。
 なお、「大歳庚寅」(570)に即位した倭王は、多利思北孤の前代の倭王(玉垂命・襲名するため一人ではない)の可能性が濃厚です。『太宰管内志』(筑後国大善寺玉垂宮)によれば、玉垂命は端政元年(589)に崩御したとありますから、金光元年(570)即位の倭王は当時の玉垂命と推定できます。この時、 九州王朝の都となる太宰府条坊都市は未完成で、それ以前の筑後遷宮期の倭王ですから、本拠地は筑後です。
 恐らく、新倭王(玉垂命)の即位と「金光」への改元を記念して作られた「大歳庚寅」象嵌鉄刀が、九州王朝直属の有力者へ配られ、その内の一つが今回出土した鉄刀ではないでしょうか。
 (追補)第339話を読んだ正木裕さんからメールが届き、『善光寺縁起』に「金光元年庚寅歳天下皆熱病」という記事があり、前代の倭王の死因はこの熱病と関係しているのではないかという御指摘を得ました。大変面白い記事です。他の九州年号史料の調査が待たれます。


第336話 2011/09/03

『勝山記』の観世音寺創建記事

 大型の台風12号の接近のため、今日は外出を控えて終日原稿執筆の予定ですが、昨日、山梨県の会員で井上さんからお便りが届き、九州年号史料としても有名な『勝山記』のコピーが同封されていました。
 『勝山記』は今から20年ほど前に読んだことがあるのですが、現在は当時よりも九州年号研究もはるかに進展していますし、問題意識も深まっていますので、送られたコピーを見ましたところ、いくつかの面白い記事が目にとまりました。
 その一つが観世音寺の創建に関する記載でした。『勝山記』の白鳳10年(670)の項に、「鎮西観音寺造」と記されているのですが、鎮西の観音寺とは太宰府の観世音寺のことと考えられ、その創建年次が具体的に記された史料としては管見では『勝山記』だけなのです。
 『二中歴』年代歴には白鳳年間の細注として、「観世音寺東院造」とあるのですが、白鳳の何年かまでは記されてはいません。従って、『勝山記』のように白鳳10年という具体的年次のわかる史料は貴重なものです。もちろん、『勝山記』の史料批判も含めて今後の課題として残されており、この白鳳10年記事が 歴史事実かどうかは総合的に判断しなければなりませんが、観世音寺の創建年次を記した史料として貴重なものであることに違いはありません。
 今回、『勝山記』の白鳳10年(670)「鎮西観音寺造」の記事に、わたしが興味を引かれたのには、ある理由がありました。それは、『二中歴』の白鳳年号細注の「観世音寺東院造」の読み方として、わしは「観世音寺を東院が造る」と解し、東院を人名とする読みが有力と考えているのですが、そうではなく「観世音寺の東院を造る」と読み、東院を建物とする理解も可能であり、そちらが正しいとする見解もあるからです。
 もちろん読み方としてはどちらも可能なのですが、年代歴の九州年号細注の記載方法として、「倭京二年難波天王寺聖徳建」という記事があり、こちらは「難波天王寺を聖徳が建てた」と読まざるを得ません。ですから同様の表記ルールで読むのが史料批判上まっとうな方法ですから、観世音寺の場合も東院という人物が造ったと読むべきですし、それに何よりも、もし東院とは別に観世音寺本体が創建されていたのなら、年代歴にはそちらが記載されるべきなのではないでしょうか。『二中歴』九州年号細注には「始めて~」という記載が多く、その始めての事例を記載することが目的のような年代歴なのですから、観世音寺本体の創建を記さず、その「東院」の創建記事のみを記したとは考えにくいのです。
 更にいうなら、白鳳年間に観世音寺の東院を造ったと読みたい論者の目的は、観世音寺創建年代を更に古くしたいということにあるようです。従って、『二中歴』の白鳳の記事を、その表記ルールを無視して、「白鳳年間に創建されたのは観世音寺の東院」としなければ、都合が悪かったのです。
 しかしこうした理解は、表記ルールだけでなく、考古学的にも無理があります。今までも度々指摘してきましたが、観世音寺創建瓦の「老司1式」は7世紀中頃から後半の瓦とされていますので、『二中歴』の白鳳年間創建でぴったり一致しています。その上、観世音寺遺構とは別に「東院」伽藍のような遺構は発見されていません。
 このように、『二中歴』年代歴の表記ルールや考古学的事実からも、観世音寺は白鳳年間に創建されたと理解せざるを得ないのです。その上で、今回「発見」した『勝山記』の白鳳10年(670)「鎮西観音寺造」の記事は、こうした理解を支持する史料根拠となるのです。他にも九州年号を用いた年代記に観世音寺創建記事が見つかるかもしれません。更に調査したいと思います。『勝山記』コピーを送っていただいた井上さんに感謝申し上げます。