第603話 2013/10/02

文字史料による「評」論(5)

 今日は出張で東京神田のホテルにいます。テレビで伊勢神宮式年遷宮のクライマックス、「遷御の儀」の様子を見ています。いつか伊勢神宮や式年遷宮について、多元史観によって研究してみたいと思っています。

 全国的評制施行時期が記された史料として『皇太神宮儀式帳』と『粟鹿大神元記』を紹介してきましたが、「天下」(全国的)という表現はないものの、この二書以外にも孝徳期(7世紀中頃)での「評制」開始を示す史料があります。というよりも、7世紀中頃以外の「評制」開始を記した史料の存在は、私の知る限り「絶無」です。もしあるのなら、ご教示下さい。
 わたしの知るところでは、次のような孝徳期(7世紀中頃)での「評制」開始を記した、あるいは示唆した史料があります。

○『類聚国史』(巻十九国造、延暦十七年三月丙申条)
 「昔難波朝廷。始置諸郡」
 ここでは「諸郡」と表記されていますが、「難波朝廷」の時期ですから、その実体は「諸評」です。『皇太神宮儀式帳』や『粟鹿大神元記』と同じ認識が示されています。

○『日本後紀』(弘仁二年二月己卯条)
 「夫郡領者。難波朝廷始置其職」
 ここでも「郡領」とありますが、「難波朝廷」がその職を初めて置いたとありますから、やはりその実体は「評領」あるいは「評督」となります。

○『続日本紀』(天平七年五月丙子条)
 「難波朝廷より以還(このかた)の譜第重大なる四五人を簡(えら)ひて副(そ)ふべし。」
 この記事は少し説明が必要ですが、難波朝廷以来の代々続いている「譜第重大(良い家柄)」の「郡の役人」(評督など)の選考について述べたものです。この記事から「譜第重大」の「郡司」(評督)などの任命が「難波朝廷」から始まったことがわかります。すなわち、「評制」開始時期を「難波朝廷」の頃である ことを示唆する記事なのです。

 以上のように、いずれも『日本書紀』(720年成立)以後に成立した史料のため、その影響を受けて「評」を「郡」と書き換えて表記されていますが、その言うところは例外無く、「難波朝廷」(7世紀中頃)の時に「評制」が開始されたということを主張しています。それ以外の時期に「評制」が開始されたとする史料はないのですから、多元史観であろうと一元史観であろうと、史料事実や史料根拠に基づいて「論」や「説」を立てる学問としての歴史学・文献史学であれば、「評制」開始は7世紀中頃とせざるを得ないのです。なお、個別地域の「建評」記事は多くの史料に見えますが、そのほとんどは「難波朝廷」・孝徳天皇の時としており、それよりも早い時期の「建評」記事の存在をわたしは知りません。この史料事実も「評制」開始を7世紀中頃とする理解を支持しているのです。(つづく)


第602話 2013/09/30

文字史料による「評」論(4)

 現存する唯一の全国的評制施行時期が記された史料として『皇太神宮儀式帳』を紹介しましたが、実はもう一つ全国的評制施行時期を記した史料が存在することを最近知りました。それは『粟鹿大神元記』(あわがおおかみげんき)という史料で、現在は宮内庁書陵部にあるそうです。それには「難波長柄豊前宮御宇天万豊日天皇御世。天下郡領并国造県領定賜。」という記事があり、この記事を含む系譜部分の成立は和銅元年(708)とされ ており、『古事記』『日本書紀』よりも古いのです。
 この記事の意味するところは『皇太神宮儀式帳』とほぼ同じで、孝徳天皇の時代に「郡領」や「国造」「県領」が定められたというものです。「郡領」とあり 「郡」表記ではありますが、孝徳天皇の時代ですから、その実体は「評」であり、「天下」という表記ですから、7世紀中頃に評制が全国的に施行されたという 記事なのです。
 『日本書紀』成立(720年)よりも早い段階で、すでに「評」を「郡」に書き換えていることも興味深い現象ですが、『皇太神宮儀式帳』成立の9世紀初頭よりも百年も早く成立した史料ですので、とても貴重です。なぜなら『日本書紀』の影響を受けていないことにもなるからです。
 『粟鹿大神元記』をまだわたしは見ておらず、その全体像や史料状況を知りませんので、現時点では用心深く取り扱いたいと思いますが、このような史料が現存していたことにとても驚いています。同史料あるいは活字本を実見したうえで、改めて詳述したいと思いますが、取り急ぎご報告しておきます。(つづく)


第601話 2013/09/29

文字史料による「評」論(3)

 現存する唯一の全国的評制施行時期が記された史料として『皇太神宮儀式帳』(延暦23年・804年成立)は著名ですが、以前から同史料に関して気になっていた問題がありました。
 同書には「難波朝廷天下立評給時」という記事があり、7世紀中頃に難波朝廷か天下に評制を施行したことが記されています。そのため『皇太神宮儀式帳』は 「評制」史料と思われがちなのですが、そうではなく同書は「郡制」史料なのです。幸い、インターネットで京都大学図書館所蔵本(平松文庫『皇太神宮儀式 帳』)を見ることができますので、全ページにわたり閲覧したところ、やはり同書が「郡制」史料であることを確認できました。
 たとえば「難波朝廷天下立評給時」の記事が記されている部分の表題は「一、初神郡度会多気飯野三箇本記行事」とあり、度会・多気・飯野の「神郡」と、 「郡」表記です。本文中にも「多気郡」「三箇郡」という「郡」表記が見えます。この項目以外でも「郡」表記です。成立が延暦23年(804)ですから、 『日本書紀』の歴史認識に基づいて、一貫して「郡」表記となっているのです。
 それにもかかわらず「一、初神郡度会多気飯野三箇本記行事」の項目には、『日本書紀』には見えない「難波朝廷天下立評給時」や「評督領」「助督」などの 「評制」記事が混在しています。こうした史料状況からすれば、これら「評制」記事は『日本書紀』以外の九州王朝系評制史料の影響を受けたと考えざるを得ま せん。「評」が全て「郡」に書き換えられている『日本書紀』をいくら読んでも、そこからは絶対に「難波朝廷天下立評」や評制の官職名である「評督」「助督」などの表記は不可能なのです。このことは言うまでもないほど単純な理屈ですが、このように考えるのが史料批判という文献史学の常道なのです。
 こうした史料批判の結果を前提にして、さらに「難波朝廷天下立評」記事が意味するところを深く深く考えてみましょう。「天下立評」という表現からわかる ように、原史料は九州王朝による全国的評制施行に関する「行政文書」と考えられます。ある地方の「評(郡)」設立に関する記事は『常陸国風土記』などにも 散見されますが、全国的な「評制施行」記事が見えるのは『皇太神宮儀式帳』だけです。したがって、九州王朝倭国はほぼ同時期に全国へ「評制施行」を通達したのではないでしょうか。
 次にその時期についてですが、「難波朝廷天下立評給時」とありますから、「難波朝廷」の時代です。『日本書紀』の認識に基づいての表記であれば、「難波 朝廷」すなわち難波長柄豊碕宮にいた孝徳天皇の頃となりますから、7世紀中頃です。九州王朝の「行政文書」が原史料と思われますから、そこには九州年号が記されていた可能性もあり、7世紀中頃であれば「常色(647~651)」か「白雉(652~660)」の頃です。いずれにしても『皇太神宮儀式帳』成立期の9世紀初頭であれば、その時代の編纂者が「難波朝廷」と記す以上、孝徳天皇の時代(7世紀中頃)と認識していたと考えられます。(つづく)


第600話 2013/09/28

九州年号「大長」史料の性格

 文献史学の研究で、まず最初に行う作業が「史料批判」という、その史料性格の調査検証です。簡単に言えば、その史料が誰によりいつ頃どのような目的や利害関係に基づいて書かれたのかを検証する作業です。それにより、その史料の記述内容がどの程度信頼できるのかを判断します。不正確な、偽られた史料を根拠に仮説や論を立てると、不正確で誤ったものになるので、史料を見極める眼力といえる「史料批判」は文献史学の基礎的で重要な作業なのです。
 たとえば九州年号が記された史料の場合、古田学派内でも史料批判抜きで「九州王朝系」と判断されているケースが見られますが、九州年号があるからといっても、その記事が九州王朝系のものとは限らないケースがあります。たとえば近畿天皇家の年号が無い時代、700年以前の記録を後世になって編集する場合、 『二中歴』など九州年号が記された「年代記」類を参考にして九州年号を追記して記事の暦年を特定するというケースも考えられます。したがって九州年号とともに記録された記事が、元々から九州年号により記録されたものか、後世に編集されたときに九州年号が付記されたものかを判断する作業、すなわち史料批判が必要となるのです。
 ところが『伊予三島縁起』に見えるような「大長」年号記事の場合、九州王朝系記事の可能性が論理的にかなり高くなります。それは次の理由からです。最後の九州年号である「大長」は元年が704年(慶雲元年)、最終年の九年は712年(和銅五年)で、すでに近畿天皇家の年号が存在している期間です。ですから後世に編集する場合、近畿天皇家の年号が採用されるはずで、最後の九州年号「大長」をわざわざ使用しなければならない理由がありません。それにもかかわ らず「大長」で暦年が特定されているということは、王朝交代後の701年以後でも九州年号を使用する人々、すなわち九州王朝系の人々により記録された可能性が高くなるのです。
 この場合、注意しなければならないことがあります。『二中歴』以外の九州年号群史料には700年以前に「大長」が移動されて記録されているケースが多 く、その移動された「大長」を使用して、後世の編纂時に700年以前の記事として「大長」年号とともに記録されている場合は、本来の九州王朝系記事ではない可能性が高くなります。『伊予三島縁起』のように701年以後の記事として「大長」が記されているケースとは異なりますので、この点について注意が必要です。
 こうした視点から『伊予三島縁起』を見たとき、「大長」年号とともに記された記事は九州王朝系記事とみなすべきとなり、その他の九州年号記事も本来の九州王朝系記事に基づかれたものとする理解が有力となるのです。従って、『伊予三島縁起』の原史料を記した人々、合田洋一さんがいうところの「越智国」は九州王朝との関係が深い地域ということになり、王朝交代後も九州年号「大長」を使用していたと考えられます。すなわち、大長九年(712)時点でも近畿天皇家の「和銅五年」ではなく、九州王朝の「大長九年」を使用するということは、近畿天皇家よりも九州王朝を「主」とする大義名分に越智国は立っていたことを指示していると思われます。こうした史料事実は、8世紀初頭の日本列島の状況を研究するうえで貴重なものと考えられます。
 同様に、701年以後の記事として「大長」が使用されている『運歩色葉集』の「柿本人丸」の没年記事「大長四年丁未(707)」も九州王朝系記事と見なされ、柿本人麿が九州王朝系の人物(朝廷歌人)であったとする古田説を支持する史料なのです。この他にも「大長」が記された史料がありますので、もう一度精査したいと思います。

(追記)プロ野球で楽天ゴールデンイーグルスがリーグ優勝しました。わたしは楽天ファンではありませんが、心から祝福したい気持ちです。球団誕生時のいきさつから思うと、本当に強いチームになったものです。絶対にあきらめない強い心を保ち、古田史学を世に認めさせると、楽天の優勝を見て決意を新たにしました。本当におめでとうございます。


第599話 2013/09/22

『伊予三島縁起』にあった「大長」年号

 本日の関西例会では、古田説に基づき『「倭」と「倭人」について』を発表された張莉さんのご夫君(出野さん)を始め初参加の方もあり、盛況でした。わたしにとっての今日の例会で最大の収穫は、多摩市から参加されている齊藤政利さんにいただいた内閣文庫本『伊予三島縁起』の写真でした。九州年号史料として有名な『伊予三島縁起』原本(写本)を以前から見たい見たいと私が言っているの を齊藤さんはご存じで、わざわざ内閣文庫に赴き、『伊予三島縁起』写本二冊を写真撮影して例会に持参されたのでした。
 まだそのすべてを丁寧に見たわけではありませんが、一番注目していた部分をまず確認しました。それは「天長九年壬子」の部分です。五来重編『修験道資料集』掲載の『伊予三島縁起』には「天武天王御宇天長九年壬子」と記されており、この部分は本来「文武天皇御宇大長九年壬子」ではないかと、わたしは考え、 701年以後の九州年号「大長」の史料根拠の一つとしていました(『「九州年号」の研究』所収「最後の九州年号」をご参照下さい)。
 齊藤さんからいただいた内閣文庫の写本を確認したところ、『伊豫三島明神縁起 鏡作大明神縁起 宇都宮明神類書』(番号 和42287)には「天武天王御宇天長九年壬子」とあり、『修験道資料集』掲載の『伊予三島縁起』と同じでした。ところが、もう一つの写本『伊予三島縁起』(番号 和34769)には 「天武天王御宇大長九年壬子」とあり、「天長」ではなく九州年号の「大長」と記されていたのです。わたしが推定していたように、やはり「天長九年」は「大長九年」を不審とした書写者による改訂表記だったのです。
 「大長九年壬子」とは最後の九州年号の最終年である712年に相当します。近畿天皇家の元明天皇和銅五年に相当します。なお、「天長九年壬子」という年号もあり、淳和天皇の時代で832年に相当します。『伊予三島縁起』書写者がなぜ「天武天王御宇」と記したのかは不明ですが、九州年号「大長」が 704~712年の9年間実在したことの史料根拠がまた一つ明確となったのです。内閣文庫写本の詳細の報告は後日行いたいと思います。齊藤さんに心より感謝申し上げます。
 9月例会の報告は次の通りでした。古田史学の会・東海の竹内会長が久しぶりに出席され、報告していただきました。

〔9月度関西例会の内容〕
1). 日名照額田毘道男伊許知邇の考察(大阪市・西井健一郎)
2). 記紀の原資料と二倍年暦の形(八尾市・服部静尚)
3). 九州年号から考えた聖徳太子の伝記の系統(京都市・岡下英男)
4). 倭王武は武烈でありヒト大王だった(木津川市・竹村順弘)
5). 倭王武の時代の版図(木津川市・竹村順弘)
6). 邪馬壱国の南進(木津川市・竹村順弘)
7). ワニ氏の北方系海人族としての歴史的考察(知多郡阿久比町・竹内強)
8). 鬯草を献じたのは「東夷の倭人」か「南越の倭人」か(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・『古代に真実を求めて』16集初校・ミネルヴァ書房からの古田書籍続刊・張莉さんと古田先生の仲介・古田先生自伝刊行記念講演会の報告・古田先生八王子セミナーの案内・浄瑠璃「妹背婦女庭訓」の説明・『大神宮諸雑事記』の紹介・その他


第598話 2013/09/21

「二年」銘刻字須恵器を考える

 本日、ミネルヴァ書房主催の古田先生の自伝刊行記念講演会に行ってきました。遠くから見えられた懐かしい方々ともお会いでき、楽しい一日となりました。東京古田会の藤沢会長や多元的古代研究会の和田さん、福岡からは上城さん、埼玉からは肥沼さんも見えられ、挨拶を交わしました。
 古田先生も三角縁神獣鏡の三角縁に関する新説の発表など、お元気に講演されました。ミネルヴァ書房の杉田社長と席が隣だったこともあり、二倍年暦に関する本を早く出すようご助言をいただきました。

 中国出張から帰国した19日のテレビニュースなどで、石川県能美市の和田山・末寺山古墳群から出土した5世紀末の須恵器2点に、「未」と「二年」の文字が刻まれていることが確認されたとの報道がありました。当初、わたしは「未」と「二年」が本体と蓋のセットとなった須恵器 に刻字されていたと勘違いしていました。もしセットとしての「未」と「二年」であれば、二年が未の年である九州年号の正和二年丁未(527)ではないかと考えたのですが、報道では5世紀末の須恵器とありますから、ちょっと年代が離れています。
 その後、インターネットで詳細記事を読みますと、「未」と「二年」の刻字須恵器は別々であることがわかりましたので、正和二年丁未とするアイデアは根拠を失いました。それから、今日までずっとこの「二年」の意味付けに悩んでいたのですが、古田先生の講演を聞きながら突然あるアイデアが浮かんだのです。
 もし、ある年号の「二年」ということであれば、暦年を特定するためにその年号を記すか、干支を記す必要があります。そうでなければ「二年」だけでは暦年を特定できず、「二年」と記しても、それを見た人にはどの年号の二年か判断がつかず、意味がないからです。たとえば、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した 「元壬子年」木簡の場合は、元年が壬子の年ですから、九州年号の白雉元年壬子(652)と特定でき、「元壬子年」と記す意味があるのです。ところが今回確認された須恵器には「二年」とあるだけですので、刻字した人が何を知らせたかったのか、その人の「認識」を考え続けました。
 そして、「二年」だけでも暦年を特定でき、刻字した人も、それを見た人にも共通の暦年を認識できるケースがあることに気づいたのです。それは最初の九州年号の二年に刻字されたケースです。具体的には、『二中歴』によれば「継体二年」(518)のケースです。その他の九州年号群史料によれば「善記二年」(523)となります。すなわち、倭国で初めての年号の時代であれば、「二年」の年は一つしか無く、刻字した人にも、それを読んだ人も、倭国(九州王朝) が建元した最初で唯一の年号の「二年」と理解せざるを得ないのです。
 おそらく、倭国(九州王朝)が初めて年号を制定・建元したことは国中に伝わっていたでしょうから、この須恵器に「二年」と刻字した人も建元されたばかりの九州年号を強烈に意識していたと思われます。こうしたケースにのみ、「二年」という表記だけで具体的な暦年特定が可能となり、意味を持つのです。
 編年上でも継体二年(518)であれば、6世紀初頭であり、須恵器の編年の5世紀末とそれほど離れていません。もちろん、これは九州王朝説多元史観に立った理解と仮説であり、他に適当な仮説が無ければ有力説となる可能性があるのではないでしょうか。まだ当該須恵器を実見していませんし、遺構の状況や性格も報道以上のことはわかりませんので、現時点では一つの作業仮説として提起したいと思いますが、いかがでしょうか。


第597話 2013/09/19

文字史料による「評」論(2)

 今、上海の浦東国際空港でフライト待ちです。今日は中秋の名月ということで、中国は祝日で会社もお休みです。そのかわり 22日の日曜日が「振り替え平日」だそうです。おもしろい制度ですね。近年制定された祝日とのことで、家族そろって名月を見る日だそうです。ホテルの朝食にも名物の月餅(げっぺい)が出ました(追記:JALの機内食でも出ました)。そういえば、昨晩見た上海の満月はみごとでした。以前と比べると上海の空も きれいになったようです。

 今日帰国しますが、16日の日は台風のおかげで関空に行けず、中国出張が一日遅れたので、楽しみにしていた武漢行きはキャンセルとなりました。

 さて、近年もっとも衝撃を受けた「評」史料の一つが、藤原宮出土の「倭国所布評」木簡でした。「洛中洛外日記」第447話「藤原宮出土『倭国所布評』木簡」で紹介しましたが、藤原宮跡北辺地区遺跡から出土した「□妻倭国所布評大野里」(□は判読不明の文字)と書かれた木簡です。奈良文化財研究所のデータベースによれば、「倭国所布評大野里」とは大和国添下郡大野郷のことと説明されています。

 近畿天皇家の中枢遺構から出土した「評」木簡ですが、700年以前すなわち九州王朝(評制)の時代に、近畿天皇家は自らの中枢領域(現奈良県に相当か) を「倭国」と表記していたのです。「倭国」とは当然のこととして九州王朝の国名であり、その国名を近畿天皇家が自らの中枢領域の地名表記に用いることができたということは、700年以前に既に列島内ナンバーワンの「国名」使用が近畿天皇家には可能であったということを示します。

 この史料事実からどのような仮説が導き出され、その仮説の中でもっとも有力な仮説を検討する必要性を感じています。まずは古田学派内で多くの作業仮説が出され、それらの中から相対的に最も合理的で優れた論証(わたしがいうところの相対論証)と仮説の絞り込みが必要です。読者や研究者の皆さんの仮説提起をお待ちしています。(つづく)


第596話 2013/09/15

文字史料による「評」論(1)

 わたしが古田史学に感銘を受けて、九州王朝や九州年号研究を始めて27年になりました。その間、遅々として進まない研究分野や、予想以上の展開を見せた分野など様々でしたが、近年、新たな史料の出土や発見、そして優れた研究者の登場により、九州王朝史研究は着実に進み始め たように思われます。もちろん、古田先生の先駆的で精力的な研究活動に触発され導かれたことは言うまでもありません。

 そこで今回は九州王朝の行政制度「評制」について、文字史料を中心とした史料根拠に基づいて論じてみたいと思います。歴史研究ですから、史料根拠に基づかない、あるいは明示しない「説」や「論」では他者を納得させることはできませんし、なによりも学問的態度とは言えませんので、史料根拠を明示しながら丁寧に論じたいと考えています。

 まず最初のテーマとして、前期難波宮遺跡出土木簡に見える「秦人凡国評」について考えてみました。『大阪城址2』(大阪府文化財調査研究センター、 2002年)によれば、大阪城三の丸跡地の遺構(16層)から出土した木簡に「戊申年」(648)の他、「秦人凡国評」と記されたものがあります。この地層は7世紀中頃のものと編年されていますが、前期難波宮の「ゴミ捨て場」のような遺構状況のようで、「戊申年」木簡は出土していますが、廃棄されたの前期難波宮完成(652)以後と見られています。

 ここで注目したのが「評」木簡が出土したことの意味です。「秦人凡国評」が具体的にどの地域なのかは特定できませんが、7世紀中頃の難波の地、すなわち前期難波宮の地域が評制の施行範囲ということを示していることは確かでしょう。それは、7世紀中頃の難波は九州王朝による評制支配地域であることを意味します。それまでの国造等と称されていた地域豪族による支配から、九州王朝が任命する評督を介しての中央集権体制、すなわち評制が難波の地に及んでいた証拠の木簡なのです。

 従って、前期難波宮は九州王朝による評制下の宮殿ということができます。前期難波宮九州王朝副都説への反論として、近畿天皇家の勢力範囲、あるいはそれに近い難波に九州王朝が副都を造るとは考えられない、という意見がありました。それに対して、わたしは九州王朝は列島の代表王朝であり、必要であればその支配地のどこに副都を造ろうと不思議とするには当たらないと反論してきました。この反論が正当なものであることは、この「秦人凡国評」木簡の「評」の字が示しているのではないでしょうか。(つづく)

 ところで、明日から中国出張です。明日は上海で仕事をした後、湖北省武漢に向かいます。湖北省は三国志の名場面の地ですが、たぶん仕事だけで観光する時間は全く無いと思います。とりあえず台風で飛行機が欠航しないことを今は祈っています。


第595話 2013/09/14

古田武彦著『失われた日本』復刻

 ミネルヴァ書房より古田先生の『失われた日本 — 「古代史」以来の封印を解く』が「古田武彦古代史コレクション17」として復刻されました。同書は1998年に出版された本で、わたしにとっても特に印象に残る一冊です。
 冒頭の第1章「火山の日本-列島の旧石器・縄文」は「二つの海流に挟まれた火山列島、それが日本である。この事実がこの国の歴史を規定してきた。日本人 には、そしていかなる権力者といえども、この運命をまぬがれることはできないのである。」という印象的な文章で始まります。
 そして各章には古田史学の中心的テーマがコンパクトにまとめられており、その学説の真髄がよく理解できるよう配慮されてます。そうしたことからも、古田ファンや古田史学の研究者の皆さんには是非ともお手元においていただきたい一冊です。たとえば、第8章「年号の歴史批判 — 九州年号の確証」は年号研究の基礎的認識を深める上でも、とても重要な論文です。わたしも、読むたびに新たな刺激を受けています。
 最終章の「歴史から現代を見る」は本居宣長批判や村岡典嗣先生の研究にもふれられており、日本思想史上でも重要な論文です。村岡先生の写真なども掲載されており、貴重です。
 そして同書末尾には、復刻にあたり書き下ろされた「日本の生きた歴史(17)」が掲載されており、近年の古田先生の研究動向の一端に触れることができます。その最後を古田先生は次の一文で締めくくられています。

 わたしは、本居宣長の「孫弟子」です。なぜなら、東北大学で学んだときの恩師、村岡典嗣先生は「本居宣長」研究を学問の出発点とされた方です。(略)中でも、「本居さんはね、いつも『師の説に、な、なづみそ。』と言っています。これが学問です。“わたしの説に拘泥する な。”ということですね。」
 この言葉は、十八歳のわたしの耳と魂に沁みこみ、その後のわたしの一生の学問研究をリードしてくれました。そして今、八十六歳の現在に至っているのです。
 この運命の一稿によって、わたしはこれを本居さんの眼前に呈することができた。それを深く誇りといたします。(引用終わり)

 「『師の説に、な、なづみそ。』本居宣長のこの言葉は学問の真髄です。」と、わたしは三十代の若き日に、古田先生から繰り返し繰り返し聞かされてきました。わたしもこの言葉を生涯の学問研究の指針として、大切にしていきたいと思います。


第594話 2013/09/12

『旧唐書』の「倭国」と「日本国」(4)

 『旧唐書』倭国伝・日本国伝には両国の歴史・位置・地勢が明確に書き分けられており、当時の唐の官僚たちは日本列島に倭国と日本国が存在したという認識を持っていたことを疑えません。そして、そうした情報を唐の官僚たちは、日本列島に派遣した使者や、日本列島からの遣唐使から得たことも 疑えません。更には歴代中国史書の記録も参考にしたことでしょう。そこで、最後のテーマとして『旧唐書』倭国伝・日本国伝に記されている倭国と日本国の人 名について検討してみることにします。
 倭国伝にはただ一ヶ所だけ次のように人名が記されています。

 「その王、姓は阿毎氏なり。」

 『隋書』に記されている「阿毎多利思北弧」の「阿毎」です。近畿天皇家の歴代天皇の姓が「阿毎」だったという記録は『日本書紀』や『古事記』には見られず、近畿天皇家とは別の「王」と考えざるを得ません。
 日本国伝になると、逆に「王」の名前は記されずに、次のような遣唐使の人名が記録されています。

 長安三年(703) 大臣朝臣真人(粟田朝臣真人)
 開元(713~741)の初 朝臣仲満(阿倍仲麻呂)
 貞元二十年(804) 学生橘免勢 学問僧空海
 元和元年(806) 高階真人(高階遠成)

 このように日本国伝にはわが国の国史に残る著名な人物が登場していることから、この日本国が近畿天皇家の王朝であることは自明です。他方、肝心の天皇家の姓や名前を記さないという史料状況は不思議です。この点、これからの研究テーマとなるでしょう。
 こうした日本国伝の人名記事もすべて701年以後の記録として登場することは重要な問題点です。すなわち、九州王朝から近畿天皇家へと列島の代表者が交代した「ONライン」以後に近畿天皇家の人物名が日本国伝に記録されていることとなり、この点も古田説と見事に一致するのです。
 その点、701年以前の九州王朝を対象とした倭国伝に倭国からの遣唐使の人名が記載されていないという史料事実も注目されます。『旧唐書』編纂時にそれらの記録が散逸して残っていなかったという可能性もあるかもしれませんが、『旧唐書』編纂方針に関係するのかもしれません。この点も、今後の研究課題で す。
 以上四回にわたり、『旧唐書』の倭国伝と日本国伝の解説を行ってきましたが、より本格的な史料批判、すなわち『旧唐書』全体に登場する「倭国」と「日本国」の全数調査に基づいた研究が必要です。既に古田先生が多くの著書で論究されているところですが、先生に続く古田学派の研究者の登場が待たれます。


第593話 2013/09/11

『旧唐書』の「倭国」と「日本国」(3)

 『旧唐書』倭国伝・日本国伝には両国の位置や地勢情報が記されています。次の通りです。

(倭国)
 「倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、新羅東南の大海の中にあり、山島に依って居る。東西は五月行、南北は三月行。」「四面に小島、五十余国あり、皆これに附属する。」

 ここでのキーポイントは「新羅東南の大海の中にあり」「山島に依って居る」「四面に小島」というように、倭国が「島国」 であることが明確に認識されていることです。「新羅東南の大海の中」という概略だけでは倭国が九州島なのか近畿なのかは断定しにくいのですが、「山島」で あり、「四面に小島」があるということから、倭国は九州島と考える他ないのです。なぜなら、近畿とするならば「本州島」が明確に「島」と断定されるために、津軽海峡の存在が当時の倭国や唐に認識されていなければなりません。しかし、そのような痕跡は見あたらず、やはり倭国は島国である九州島という選択肢 が最有力なのです。あえて言えば、四国も「島国」として候補地になりそうなのですが、四国の南側に「小島」があるとは言いにくいので、「四面に小島」とい う記述には合致しません。これが九州島であれば、問題なく「四面に小島」があるという表現に適応するのです。

(日本国)
 「その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。」「その国の界、東西南北各数千里あり、西界南界はみな大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国なりと。」

 日本国の場合は島国の倭国とは異なり、西と南は大海だが、東と北は大山があり、その先は倭人ではなく「毛人の国」と記されています。『旧唐書』東夷伝には「毛人国伝」はありませんから、この「毛人国」と唐は正式な国交がなく、情報も限られていたと想像されます。また、「そ の国日辺にある」という記述から、日本国は倭国よりも東に位置していることも推定できます。こうした点から、この日本国の地勢記事は近畿がふさわしいものとなります。より正確に言えば、関東もその候補になりえます。あるいは、当時の唐の認識としての日本国は近畿や関東を含む領域としていた可能性もありそうです。
 以上のように『旧唐書』に記された倭国と日本国の位置や地勢記事は、両者は明らかに別国という認識に基づいており、倭国は島国(中心領域)としての九州王朝であり、日本国は近畿地方の天皇家の王朝と見なされるのです。この史料事実も古田先生の多元史観・九州王朝説を強力に支持しているのです。
 なお、倭国伝中の「京師を去ること一万四千里」や「東西は五月行、南北は三月行」という記事の史料批判も必要ですが、別の機会に詳しく説明したいと思います。簡単に言えば、これらは『三国志』や『隋書』の影響を受けた表記であり、特に「一万四千里」は短里と長里を混在させた合計里程と思われ、興味深い問題を内在しています。(つづく)


第592話 2013/09/08

正木さんの「34年遡上盗用」説の真髄

 多元的古代研究会(安藤哲朗会長)の会誌『多元』117号に正木裕さんの論稿 「九州王朝説と通説との分水嶺 — 盗用を認めるか・否か」が掲載されました。正木さんの「34年遡上盗用」説がコンパクトにまとめられ、この仮説の検証が古田説の正しさを証明することにもなるということが示された好論でした。ちょうど良い機会ですので、この正木説の論証方法と真髄について説明したいと思います。
 正木さんも当論稿で明確に述べられていますが、『日本書紀』の天武紀や持統紀に34年前の記事が盗用されており、それらの事例を示されたうえで、「勿論 個々の事例について『絶対的な根拠』などあるはずもない。(それがあるなら通説はとっくに瓦解している)しかし、『通説では不審な記事だが゛九州王朝の史書からの盗用″なら合理的に説明できる』事例を積み重ね、かつ『何故そのような盗用を行ったのか』を検討する」と正木論証の性格と目的について記されてい ます。
 この「絶対的根拠」はないが通説では不審な記事が合理的に説明できる、という論証性格こそ、わたしが「相対論証」と命名した論証方法なのです。すなわち、史料根拠に基づいて他の可能性を論理的に排除できる「絶対論証」に対して、同じく史料根拠に基づきながらも他の可能性を排除できないが、他の仮説よりも合理的に説明できる「相対論証」に相当するのが正木さんの「34年遡上盗用」説なのです。わたしはこのような論証方法があることを古田先生から学びまし た。古田説にもこの「相対論証」に相当する論証が少なくありません。
 従って、「絶対論証」と「相対論証」の差は、直接証拠に基づいているとか、間接証拠にもとづいているとかの史料根拠の違いではなく、他の仮説を排除できる論理性を有しているのか、他の仮説を排除はできないものの他の仮説よりも相対的に合理的であるという論理性を有しているかの違いなのです。直接証拠が圧倒的に少ない古代史学では、必然的に「相対論証」を多用せざるを得ないのは当然でもあるのです。
 しかし、今回特筆したいのは正木説の根幹・真髄についてです。その真髄とは「何故34年なのか」の説明に成功されたことなのですが、正木説に反対する人だけではなく、賛成する人にも理解を深めていただければと思い、このことについて説明します。
 正木さんが「34年遡上盗用」説を関西例会で発表されてから、何故33年でも35年でもなく34年前の記事から移動盗用されたのかの説明ができなけれ ば、恣意的との反論を免れないと、わたしは度々批判してきました。そうすると、正木さんはこの34年の理由を九州年号史書から年号ごとに移動させた結果、 34年のずれになったと説明されたのです。すなわち、白鳳の23年間、朱雀の2年間、朱鳥の9年間の合計が34年であることから、たとえば白鳳の前の白雉 の9年間の記事を34年移動させると、白雉元年(652)の記事が朱鳥元年(686)へと、同じ「元年」から「元年」へと記事が移動することになるので す。同様に白雉2年の記事は朱鳥2年への移動となり、その差はやはり34年なのです。
 このように九州年号による編年体史書の九州王朝系記事が、『日本書紀』の天武紀・持統紀に九州年号の34年差のまま移動盗用されたとする仮説に、正木さ んは到達されたのです。この「何故34年なのか」という疑問に答えられる仮説の発見こそ、正木説の本質であり真髄なのです。この点にご留意いただき、これ までの正木論文を読み直してみてください。正木説の真の凄さがご理解いただけると思います。

韓国・扶余出土木簡の衝撃 — やはり『書紀』は三四年遡上していた 正木裕
(古田史学会報94号)

(追記)本日早朝のニュースで2020年の東京オリンピック開催が決まったことを知りました。小学生の時にテレビで見た東京オリンピックをもう一度見ることができそうです。皆さんとともに喜びたいと思います。