第327話 2011/07/23

野中寺弥勒菩薩銘の中宮天皇

 7月16日の関西例会で、わたしは野中寺の弥勒菩薩銘にある「中宮天皇」を九州王朝の天子 (薩夜麻)の奥さんのこととする、仮説以前のアイデア(思いつき)を発表しました。中宮天皇の病気平癒を祈るために造られた弥勒菩薩像のようですが、銘文中の中宮天皇について、一元史観の通説では説明困難なため、偽作説や後代造作説なども出ている謎の仏像です。
 造られた年代は、その年干支(丙寅)・日付干支から666年と見なさざるを得ないのですが、この年は天智5年にあたり、天智はまだ称制の時期で、天皇にはなっていません。斉明は既に亡くなっていますから、この中宮天皇が誰なのか一元史観では説明困難なのです。
 従って、大和朝廷の天皇でなければ九州王朝の天皇と考えたのですが、この時、九州王朝の天子薩夜麻は白村江戦の敗北より、唐に囚われており不在です。 そこで、「中宮」が後に大和朝廷では皇后職を指すことから、その先例として九州王朝の皇后である薩夜麻の后が中宮天皇と呼ばれ、薩夜麻不在の九州王朝内で代理的な役割をしていたのではないかと考えたのです。(不改常典については別に紹介したいと思います)
まだまだアイデアレベルの作業仮説ですので、間違っているかもしれませんが、皆さんのご意見を聞くために発表しました。
7月例会の発表は下記の通りですが、西村さんの隼人研究のための現地調査報告は歴史研究の王道とも言うべき取り組みで、「歴史は脚にて知るべきものなり」(秋田孝季)を実践されたものです。また、岡下さんの作成された資料は、鏡の銘文の裏文字・左文字を抜粋されたもので、なかなかの労作です。今後の銘文研究に役立つことが期待されます。
〔古田史学の会・7月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 竹村順弘氏作成資料の解説(向日市・西村秀己)
2). 鹿児島旅行の報告(隼人調査)(向日市・西村秀己)
3). 女多男少(京都市・岡下英男)
4). 『古鏡銘文集成』の裏文字銘文(京都市・岡下英男)
5). 古代大阪湾の新しい地図 難波(津)は上町台地になかった(豊中市・大下隆司)
6). 古田史学の会総会出席雑感メモ(豊中市・木村賢司)
7). 伊勢王と明日香皇子の歌(川西市・正木裕)
8). 百済大寺・高市大寺・大官大寺について(川西市・正木裕)
9). 中宮天皇と不改常典(京都市・古賀達也)
○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田氏近況・会務報告・役行者伝説の山々は大隅半島か・他(奈良市・水野孝夫)

第326話 2011/07/17

「ウィキペディア」の史料批判(1)

 7月2日、松山で講演してきました(古田史学の会・四国主催)。その冒頭で「ウィキペディア」の史料批判というテーマを少しお話ししたのです が、そこでの眼目は歴史研究における「史料批判」とは何かという問題でした。古田先生も『東京古田会NEWS』No.138(2011年5月)掲載の「学問論 第26回」で『「史料批判」の史料批判』というテーマで、ウィキペディアの「九州王朝説」について取り上げられていますが、そもそも史料批判とは何かということについて、古田史学以外の古代史ファンには意外と理解されていないようです。
 松山の講演会では、犯罪捜査を例にして史料批判の説明をしたのですが、歴史研究も犯罪捜査も過去に起きた事件について、証拠や証言に基づいて真実を明らかにするという点に於いて共通する性格を持った仕事(学問研究)だからです。
 たとえば、ある家(日本列島)に大和さん(大和朝廷)が住んでいますが、九州さん(九州王朝)がその家の主は元々は私で、大和さんに家を乗っ取られたと 警察に訴えたとしましょう。当然、警察は大和さんに事情聴取するでしょう。当然のことです。そこで大和さんは大昔からこの家の主人はわたしで、九州さんなんて見たことも聞いたこともないと証言(『古事記』『日本書紀』)します。
 次に警察はご近所に聞いて廻るでしょう。これも当然の捜査手法です。隣に住んでいる隋さんや唐さんに聞いたところ、この家のもともとの主人は九州さん で、大和さんは小部屋を間借りしていたが、いつのまにか九州さんを追い出していたと唐さんは証言(『旧唐書』倭国伝・日本国伝)し、隋さんはここに住んでいた人の名前はタリシホコさんで、お互い手紙のやりとりもしていたと証言(『隋書』イ妥国伝)しました。大和さんの証言では、大和家にはタリシホコなどという名前の人物はいません。
 さて、皆さんならこの事件について誰の証言を重視しますか。信用しますか。当然、利害関係の無い第三者である隣人の目撃証言や手紙を重要証拠として採用するでしょう。まかり間違っても、訴えられている被疑者の大和さんの証言(『古事記』『日本書紀』)を無批判に信用されることはなく、まずは正しいかどうか疑ってかかられると思います。この「誰の証言・証拠が信用できるのか、より真実を証言しているのか」を判断することが、歴史研究における史料批判なのです。ここを間違えると、犯人を取り逃がしたり冤罪事件が発生しますから、警察や裁判所は慎重に科学的学問的に捜査・審議するのです。
 この事件で言えば、大和朝廷一元史観の日本古代史学界は、大和さんの証言のみを無批判に採用し、隣家の目撃証言や証拠を不採用にしているわけですが、より客観的で利害関係のない隣国史料を重視するという古田先生の史料批判の方が優れており、学問的であることは決定的なのです。


第325話 2011/07/09

青田勝彦さん、来阪

6月19日に開催された古田史学の会定期会員総会に、福島県南相馬市の青田勝彦さん(古田史学の会・全国世話人)が見えられました。 青田さんは古田史学の会設立時からの草創の会員です。「市民の古代研究会」理事会が古田支持派と反古田派に分裂したときの会員総会に福島から出席され、帰 り間際に「古賀さん頑 張って下さい」と少数派になり関西で孤立していたわたしを激励していただいたのが、青田さんとの出会いでした。そして、古田史学の会創立から今日まで、共 に古田史学のためにご尽力いただいた魂の同志のお一人なのです。
その青田さんとは3月11日の大地震と大津波以後、一時期連絡がとれなかったのですが、青田さんのお話によると、地震と津波には何とか耐えたけれども、 その後の原発事故の発生で「もうだめだ」と思い、ご家族5人で宮城県へ車で逃げたとのこと。福島原発の爆発音が南相馬市まで聞こえたとのことですから、そ のときの驚きは想像を絶するものと思います。
今はご友人のすすめもあり、滋賀県大津市に避難されています。落ち着かれたら関西例会にも参加していただけるとのことで、草創の同志と会えた喜びと、災 害の甚大さやご苦労を思うと、複雑な気持ちです。ちなみに、青田さんは宮城県へ避難するとき、限られた持ち出し荷物の中に、古田先生の著書40冊を入れら れたそうです。さすがは筋金入りの古田ファンです。
会員総会の午前中に行われました関西例会の内容は次の通りです。太田副代表は久々のご出席で、お元気そうで何よりでした。
〔古田史学の会・6月度関西例会の内容〕
○研究発表
1) 『東日流外三郡誌』の津波記事(奈良市・太田斉二郎)
2) 百済寺・大官大寺移築説(川西市・正木裕)
3) 板付水田遺跡は弥生か縄文か(知多郡阿久比町・竹内強)
○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
    古田氏近況・会務報告・「出雲国」は島根県か?・他(奈良市・水野孝夫)

第324話 2011/07/2

『古田史学会報』104号の紹介

 少し遅くなりましたが、6月5日発行の『古田史学会報』104号を御紹介します。今号の冒頭論文は正木さんの別系統九州年号「法興・聖徳・始哭」についての考察です。法興と聖徳は多利思北孤と利歌弥多弗利の法号とし、始哭は玉垂命の葬儀に関する記事の一部であり、九州年号ではないとするものです。一つの有力な理解と思われました。  
 西村稿と古賀稿は紙上論争です。こうした論争により、古田学派内の研究活動や会員の学問的興味が刺激されることが期待されます。  
 古谷稿は古谷さんの博学な知識に基づくもので、三角縁神獣鏡銘文の研究に寄与することが期待されます。
 野田稿は関西例会でも発表されたもので、活発な質疑応答が展開されたテーマです。古田説とやや異なる内容でもあり、今後の展開が注目されます。

『古田史学会報』104号の内容
○九州年号の別系列(法興・聖徳・始哭)について  川西市 正木 裕
○乙巳の変は動かせる — 斎藤里喜代さんにお応えする  向日市 西村秀己
○三角縁神獣鏡銘文における「母人」「位至三公」について  枚方市 古谷弘美
○銀装方頭太刀について(小松町南川大日裏山古墳出土)  西条市 今井久
○再び内倉氏の誤論誤断を質す — 中国古代音韻の理解について  京都市 古賀達也
○「帯方郡」の所在地 −倭人伝の記述する「帯方」の探究−  姫路市 野田利郎
○卑弥呼の時代と税について  中国山東省曲阜市 青木英利
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会  関西例会のご案内
○古田史学の会会員総会・記念講演会のお知らせ
○『古代に真実を求めて』第14集・正誤表


第323話 2011/06/11

空海の遺言状

 第321話「九州の語源」において、九州王朝滅亡後の天平3年(731)時点でも、九州王朝の故地である九州島は、近畿天皇家にとって 「直轄支配領域」ではなく、大宰府による「間接統治」であったと述べましたが、実はこうした認識をわたしが持ったのは今から20年も前のことでした。
 1991年、わたしは「空海は九州王朝を知っていた–多元史観による『御遺告』真贋論争へのアプローチ」(『市民の古代』第13集所収、新泉社刊)という論文を発表しました。35歳の時でした。『御遺告』とよばれる空海の遺言状には、空海の唐からの帰国年について、「大同二年、我が本国に帰る」と記されており、大同二年(807)のことと空海自らが述べているのですが、空海がその前年の大同元年(806)に九州 大宰府へ帰ってきたことは、これも空海自身の別の文書(『新請来経目録』、最澄による同時代写本が東寺に現存)から判明しています。従って、この帰国年に ついての一年の差が平安時代から問題視されてきました。
 たとえば、「大同二年」は「大同元年」の「元」の下の二点が脱落したのだろうとか、筑紫に帰ったのが「大同元年」で、京都に戻ったのが「大同二年」のことだろうとか、さまざまな解釈がなされてきました。しかし、これらに対しても、『御遺告』の全写本が「大同二年」と記されていることや、京都のことを「我が本国」とは言わないとの反論も出されてきました。
 結局この一年の差の問題は未解決のままで、挙げ句は『御遺告』偽作説が横行したほどです。
 そこで、わたしは九州王朝説の立場から、空海にとって九州は 「我が本国」とは認識されていなかった。すなわち九州島が九州王朝の故地であることを空海は知っており、空海の時代でも九州島は「本国」扱いされていなかったとの認識に達したのです。
 今回、20年前の論文を読み返してみて、若い頃の稚拙な論文ではあるものの、その論証の根幹は今でも正しいと、感慨に耽りながら確認しました。そして、 空海の超難解な漢文に苦しみながら、京都府立総合資料館で空海全集を読破したことを思い出しました。残念ながら、今ではとても体力的に困難な、若き日の研究体験の想い出です。

第322話 2011/06/11

6月19日、記念講演会のご案内 済み

来る6月19日(日)に古田史学の会会員総会を開催します。総会に先だって、午後1時(開場)から恒例の記念講演会も開催します。今回の講演は次のお二人です。
石田敬一さん(古田史学の会会員) 演題「倭人伝の戸と家について」
正木 裕さん(古田史学の会会員) 演題「盗まれた九州」
記念講演会は、毎年その一年に優れた研究発表をされた古田学派の研究者を招聘して行われますが、今回は「古田史学の会・東海」の研究者石田さんと「古田史学の会・関西」の論客正木さんにお願いしました。
石田さんは「東海の古代」(古田史学の会・東海の機関紙)で好論を数多く発表されていますが、関西での発表は初めてです。学問の方法や原則を強く意識さ れて自説を展開し、他者への批判でもこうした視点をしっかりと持たれており、わたしも以前から注目してきた研究者のお一人です。今回の発表テーマは倭人伝 における「戸」と「家」についてで、古田説を更に展開・深化させるかもしれないと期待されています。
正木さんは皆さんご存じの通り、九州年号に基づいた『日本書紀』史料批判の展開を中心とする、その圧倒的な研究は質量とも素晴らしい内容と言わざるを得 ません。限られた現存史料という制約の中、危険な論理の領域にも踏み込まれており、これからの展開が益々楽しみな研究者です。今回はこれまで発表された九 州年号研究と『日本書紀』史料批判による九州王朝の実像解明をまとめて発表していただく予定です。
古田史学を愛する多くの皆さんの参加を呼びかけます。なお、会場は大阪市北区中之島にある「大阪府立大学中之島サテライト」(大阪府立中之島図書館別館 2階ホール)です。本会総会では初めて使用する会場ですので、お間違えないように。午前中は関西例会を開催していますので、こちらへも是非。

第321話 2011/06/05

九州の語源

九州新幹線により一つに結ばれた九州ですが、九州新幹線のシンボルカラーは九州7県を象徴した7色のレインボーカラーでした。厳密に言うと、九州新幹線は長崎県・大分県・宮崎県は走っていないので、7色で表現するのはビミョーかもしれません。
ご存じのように、その昔、九州は筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向・薩摩・大隅の9国からなっており、そのため「九州」と呼ばれるようになった とするのが通説でした。しかし、中国では天子の直轄支配地を9に分けて統治する伝統があり、その影響により「九州」と言えば単なる地名ではなく、天子の直 轄支配領域を指す「政治地名用語」となりました。例えば、『旧唐書』にも「九州」という表記が頻出します。その上で、古田先生の九州王朝説によれば、古代 九州島は天子が直轄支配する政治的地域であり、倭国(九州王朝)が中国に倣って命名したものとされました。
その証拠に、意図的に9国に分けられた痕跡として、筑紫・肥・豊の3国のみが前・後に分割され、ちょうど9国となっています。薩摩を薩前・薩後、日向を 日前・日後などとは分割しなかったのです。恐らく倭国の天子にとって、直轄中の直轄領域であった筑紫・肥・豊を前後に分割したのではないでしょうか。
なお、9国への分国の時期が日出ずる処の天子・多利思北孤の時代(6世紀末)であったことを、わたしは『九州王朝の論理』(古田先生・福永晋三さんとの 共著、明石書店刊。2000年)で論証しましたので、ご参照いただければ幸いです。
こうした認識に立つと、九州王朝にとっての直轄支配領域は九州島であり、それ以外の本州や四国は支配領域ではあっても、「直轄地」ではなかったことにな ります。恐らくそれらは地方豪族により統治されており、その豪族達の上に九州王朝の天子が列島の代表者として間接統治したのではないでしょうか。そし て7世紀中頃になると、全国に評制を実施し、律令による中央集権的統治を進めたものと思われます。
701年以後になると、大和朝廷が列島の新たな代表者となりますから、大和朝廷にとって自らの直轄支配領域を「九州」と呼ぶ「大義名分」が発生します。 その史料的痕跡は『日本書紀』にはありま せんが、『続日本紀』には1回だけ見えます。天平3年(731)12月21日の聖武天皇の詔中に「朕、九州に君臨す。」とあり、この時になってようやく大 和朝廷は「九州」という政治的地名を使用したようです。九州王朝を滅ぼして間もない『日本書紀』成立時(720)では、九州王朝による九州島の九州という 地名が「現存」しており、『日本書紀』での使用はためらったのではないでしょうか。
聖武天皇による「九州」という表現ですが、ここには微妙な検討課題があります。それは、聖武天皇にとっての「九州」に、九州島は含まれていたのかという 問題です。すなわち、九州王朝の故地である九州島を聖武天皇は自らの直轄支配領域と認識していたのかというテーマです。
わたしの現時点での考えとしては、天平3年の時点では九州島は大和朝廷の直轄支配領域とはされておらず、聖武天皇の詔勅中の「九州」には九州島は含まれ ていなかったのではないかと考えています。その根拠の一つは、養老律令によれば九州島は大宰府が統括しており、大和朝廷の直轄支配というよりも、大宰府に よる間接統治だったからです。このテーマは九州王朝の滅亡過程とも密接に関 係しており、今後の研究テーマでもあります。引き続き、検討したいと思います。


第320話 2011/05/29

九州新幹線の旅

 先週は仕事で博多から鹿児島県・宮崎県を旅しました。そのおり、3月12日に全線開業した九州新幹線に初めて乗りました。博多のアクロス天神ビルにある 福岡県産業科学技術財団を訪問した後、鹿児島中央駅まで九州新幹線で向かったのですが、夜遅くの移動だったため沿線風景が見られず残念でした。
 九州出張の際は飛行機を使うことが多いのですが、今回は九州新幹線に乗りたくて、JRを利用しました。というのも、九州新幹線全線開業のテレビCMがと ても感動的な内容だったからです。その内容は最長の3分間バージョンでは、鹿児島中央駅から出発した「さくら」の車窓から、開業を歓迎する沿線住民の笑顔や工夫をこらしたパフォーマンスを延々と博多駅まで映し続けるというものです。あまりにも感動的な画像でしたので、わたしの故郷の久留米駅を通過する頃には滂沱の涙を流していました。
 このコマーシャル撮影は事前に沿線住民に知らされていたので、みんな自分の姿がテレビに映るかも知れないとの期待から、2万人近くの九州の人々が参加した そうです。例えば、のどかな田園地帯で子供を肩車して新幹線を追いかける家族や、住宅地の道路や家の窓から横断幕を垂らしたり仮装した人々が手を振る風景など、見ていてとても幸せな気分になるコマーシャルなのです。しかし、開業時期が東日本大震災に重なり、わずか3日でテレビ放映が中止され、幻のコマーシャルとなりました。
 わたしはこのCMの存在を職場の同僚から知らされ、インターネットのJR九州のホームページ等で見たのですが、見るたびに涙が出るのです。その理由は、 わたしが九州出身ということだけではなく、その素朴でのどかな風景が東北の被災地とオーバーラップしているからだと思います。テレビCMでこれほど涙が出たのは初めての経験でした。
 バックに流れている音楽も素敵な曲で、スウェーデンの人気歌手マイア・ヒラサワさんが歌っている「ブーン」という曲です。ちなみに彼女のお父さんは日本人で、彼女自身も仙台で暮らした経験があるとのこと。
 九州王朝の故地が新幹線で結ばれ、多くの九州王朝の民の末裔が参加してできたJR九州のCMを是非見て欲しいと思います。

一例としてYouTubeのものを期間限定で紹介

九州新幹線全線開業 祝!九州縦断ウェーブ CM「総集編」180秒ver.


第319話 2011/05/22

九州王朝鎮魂の寺

 昨日の関西例会では、西村さんから研究発表するようにと常々言われ続けていたこともあり、久しぶりに発表しました。 数日前に発見したテーマで、法隆寺が大和朝廷による九州王朝鎮魂の寺であったとする仮説です。7月2日の古田史学の会・四国の例会でも発表予定です。その 後に論文にしようと思っています。
 小林さんからは大歳神社についての岩永芳明稿が紹介され、その分布が播磨に集中していることなどが指摘されました。以前、わたしが研究した「八十神」の分布と重なっているようなので興味深く聞きました。
 竹村さん発表の「大聖勝軍寺の聖徳太子弑逆伝承」は初めて聞く伝承なので驚きました。今後の調査が期待されます。
 例会の発表は次の通りでした。
 
〔古田史学の会・5月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). Basic & New (豊中市・木村賢司)
2). 乙巳の変は動かせる(2) (向日市・西村秀己)
3). 『三国志』の第一読者が理解したこと −古賀達也氏への返答−(姫路市 野田利郎)
4). 倭人伝の国々 −「邪馬一国」の内部に所在する小国について−(姫路市 野田利郎)
5). 隅田八幡神社人物画像鏡の銘文(補足) (京都市・岡下英男)
6). 九州王朝鎮魂の寺 −「天平八年二月二二日法会」の真実− (京都市・古賀達也)
7). 大歳神社について(岩永芳明稿の紹介) (神戸市・小林嘉朗)
8). 宣化紀の松浦佐用姫(木津川市・竹村順弘)
9). 天智の中元年号(木津川市・竹村順弘)
10).大聖勝軍寺の聖徳太子弑逆伝承(木津川市・竹村順弘)
11).弥努王の爵位(木津川市・竹村順弘)
○2010年度関西例会会計報告(豊中市・大下隆司)
○水野代表報告(代理報告:西村秀己)
   古田氏近況・会務報告・『諸寺縁起集』の金剛山・天狗は猿田彦・他(奈良市・水野孝夫)

第318話 2011/05/15

葵祭

今日は京都三大祭りの一つ、葵祭が執り行われました。祭の行列が拙宅の前の道(河原町通)を通りますので、数年に一度は見物しています。少しその様子をお知らせしましょう。
その年毎に選ばれる斎王代を乗せた牛車(ぎっしゃ)が大勢のお供を伴って、京都御所から下賀茂神社と上賀茂神社へと行列が進むのですが、かなり長い行列 で、先頭が下賀茂神社に到着しても、最後尾はおそらくまだ京都御所の中でしょう。ちなみに、行列の最先頭は京都府警のパトカーと警察騎馬隊です。最後尾に 祭の主役「斎王代」の牛車となるのですが、実は更にその後に軽トラが続きます。これは祭りに参加した馬や牛の糞を回収するための軽トラです。
ところで斎王代の牛車ですがかなり大きなもので、牛一頭ではとても長距離を引き続けることはできそうにありません。ですから、牛車のすぐ後に控えの牛が 続いています。しかしよく見ると、牛車は牛が牽いているというよりも、白装束に烏帽子姿の若い人が後から10人くらいで牛車を押しているのです。おそら く、 こうでもしないと牛が歩かないのだと思います。10年くらい前の葵祭では拙宅前で牛が動かなくなり、大変でした。その時もみんなで牛車を押したり、牛を 引っ張ったりしていました。
祭の主役は斎王代です。もともとは天皇の娘が斎王となっていましたが、その後、娘を手放すことに天皇が悲しまれ、貴族の娘が斎王代として選ばれるように なりました。現在では京都市内の娘さんが選ばれていますが、極稀に市外から選ばれることもありました。わたしが住んでいる上京区梶井町には斎王代を二人も 出している家があり、これは町内の秘かな自慢話の一つになっています。
葵祭の斎王代に選ばれることは、本人にとっても家にとっても大変名誉なことですが、同時に地元のマスコミになどで紹介され、口うるさい京雀からは、「今 年の斎王代はんはべっぴんさんやなあ」とか「御室の桜やなあ」と品定めされます。これも地元ならではの葵祭の楽しみ方の一つではありますが。なお、「御室 の桜」と言われて喜んではいけません。御室の仁和寺の桜は枝が低く、花も低い所に咲くことから、「花(鼻)が低い」と言われているのです。ご用心を。

第317話 2011/05/03

『集韻』

今日は久しぶりに岡崎にある京都府立図書館に自転車で行って来ました。拙宅から10分ぐらいのところですから、大変便利です。ただ残念なことに黄砂が多く て、東山が霞んでしまい、本来なら美しいはずの新緑の景色が見られませんでした。余談ですが、もし今回のような原発事故が中国で発生したら、放射能汚染した黄砂に日本列島が包まれるのかと思い、ちょっとぞっとしました。近隣諸国が福島原発事故を脅威に感じているのも、今日の黄砂を見て、なるほどと思いまし た。
府立図書館に行った目的は二つ。一つは『古代に真実を求めて』14集を寄贈すること。もう一つは、中国語の音韻書『集韻』を調査することでした。現在、 倭人伝の固有名詞(国名・人名)の研究のため、古代中国語音韻の勉強をしていますが、その必要性から『集韻』を調べに行ったのです。幸い、府立図書館には 『集韻』の表音表記(「反切」と呼ばれる)のみを抜粋整理した『集韻切韻譜』(佐々木猛編)がありましたので、短時間で調べることができました。
わが国へは様々な文物が中国から渡来してきましたが、その中でも特筆して感謝すべきものが「漢字」だったのではないかと思っています。日本の文化はこの漢字を受け入れ、独自の発展進化(仮名)も行い、新たな日本文化を築き上げてきました。そうした意味からも、イデオロギーや国家間の利害とは別に真実の学 問交流(多元史観による)を行いたいものです。

 


第316話 2011/05/01

「越智国」論、合田さん熱弁

 4月16日の関西例会では、ゲスト発表者として松山市の合田洋一さん(古田史学の会全国世話人)をお招きして、「越智国の実像」というテーマで発表していただきました。「紫宸殿」地名や熟田津などの存在で、近年注目を集めている越智国についての研究成果をまとめて発表していただいたのですが、詳細な地図や豊富な資料も準備され、当地の土地鑑のない人にも大変わかりやすい報告でした。関西例会ではこれからも関西以外の地域の論客を招いて研究発表していただ くという企画を行いたいと考えています。
 当日の発表内容は次の通りでした。また、大下さんの発議により、東日本大地震被災地の会員に古田先生の新著を送るためのカンパも行われました。ご協力いただき、有り難うございました。
 
〔古田史学の会・4月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 「あと・さき」(てれこ)(豊中市・木村賢司)
2). 倭人伝の日数記事を読む–邪馬一国と投馬国の解明(姫路市 野田利郎)
3). 「始哭」年号について(川西市・正木裕)
4). 倭王と仏教伝来(木津川市・竹村順弘)
5). 清賀上人の来倭布教とその時代背景(木津川市・竹村順弘)
6). 前期難波宮=九州王朝副都説についての疑問(3)(豊中市・大下隆司)
7). 越智国の実像(松山市・合田洋一)
○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・会報103号斎藤稿への反論・他(奈良市・水野孝夫)