第182話 2008/07/26

暑いぞ!京都

 連日40℃近くの猛暑が続いています。京都の町全体が亜熱帯のようです。とくに自転車通勤(片道約30分)のわたしには、この暑さはこたえます。

  7月12日には東京で講演をしましたが、前期難波宮九州王朝副都説を中心に大化改新論など、かなり理屈ぽい話が続きましたので、聴いていただいた皆さまには判りにくかったのではないかと心配しています。
 19日には関西例会がありました。発表テーマは次の通りでした。わたしは夏ばてで発表はお休みにして、聞く側にまわりました。西村さんの「九州王朝の滅亡は禅譲か放伐か」という問題は古田学派内では古くて新しいテーマです。本格的な研究が期待されます。
 
  〔古田史学の会・7月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1). 東かがわ市「歴史民俗資料館」友の会(豊中市・木村賢司)
  2). 禅譲と放伐・・・そして藤原京遷都(向日市・西村秀己)
  3). 皇極元年九月の造宮記事(川西市・正木裕)
  4). 彦島に“長柄丘岬(神武紀)”を探る(大阪市・西井健一郎)
  5). 久留米大学古田講演会の報告(たつの市・永井正範)
  6). 難波宮遺跡の概略(生駒市・伊東義彰)
  7). 「魏志倭人伝」再読・女王国再発見(神戸市・田次伸也)
  ○水野代表報告
    古田氏近況・会務報告・「難」姓の調査・他(奈良市・水野孝夫)


第181話 2008/07/06

「大寶建元」の論理

『日本書紀』の三年号、大化・白雉・朱鳥が九州年号からの「盗用」、あるいは「実用」であったことは既に述べてきたところですが、実はそのことを端的に示している有名な史料があります。『日本書紀』の続編である『続日本紀』です。

 大和朝廷にとって最初の年号である大寶の建元記事が『続日本紀』大寶元年(701)三月条に次のように記されています。

「対馬嶋、金を貢(たてまつ)る。建元して大寶元年と為す」

 初めての年号に施行にしては大変素っ気ない記事ですが、ここでははっきりと「建元」とあります。一つの王朝が年号を最初に創ることを「建元」といい、それ以後は「改元」です。これが年号制定と継続の表記ルールなのです。ですから、『続日本紀』編纂者たちは大和朝廷にとって初めての年号、大寶を「建元」と表記したのです。大寶以後は、現在の平成に至るまで「改元」であることも当然です。

そうすると、『日本書紀』の三年号は大和朝廷の年号ではないということになります。その証拠に、『日本書紀』においても、最初の大化も「建元」ではなく「改元」(斉明天皇即位前紀)と表記されています。もちろん、白雉も朱鳥も「改元」と表記されています。このように、『日本書紀』において大和朝廷の史官たちは「建元」という表記を使用しなかったのです。何故なら、『日本書紀』が成立した720年時点では、既に大寶が701年に「建元」されていたのですから、当然と言えば当然のことでしょう。

 このように、『続日本紀』に見える「大寶建元」の史料事実と論理性は、『日本書紀』の三年号が別の王朝の年号であることを前提としており、すなわち九州王朝と九州年号の実在を証明しているのです。この史料事実と論理性に対して、やはり大和朝廷一元史観や九州王朝説反対派の人々は全く反論できていません。

 せいぜい、『日本書紀』の三年号は存在しなかった、使用されていなかった、くらいの弁舌でお茶を濁しているのが実状です。ここにおいては、芦屋市出土の(白雉)「元壬子年」木簡の存在は完全に無視されています。紀年銘木簡としては二番目に古いこの木簡の存在を、いやしくも古代史研究者であれば知らないはずがありません。古田説だけではなく、木簡の出土事実まで無視せざるを得ないのですから、彼らも相当に困っているのです。

 なお、付け加えれば、『日本書紀』の三年号に困ったのは現代の一元史観の学者だけではなく、『続日本紀』編纂者たちも同様だったと思われます。何故なら、大和朝廷にとって初めて年号を建元したのですから、この画期的な業績を祝賀する記念行事や、年号建元の詔勅があったに違いありませんが、それらが『続日本紀』では見事にカットされているのです。大化・白雉・朱鳥を、いかにも自らの年号かのように「盗用」した『日本書紀』の手前、大寶を初めての年号であるとする詔勅や記念行事を『続日本紀』に掲載することを憚ったのでしょう。しかし、先在した九州王朝の痕跡を消し去るという「完全犯罪」は、古田武彦氏の九州王朝説により露呈し、『日本書紀』や『続日本紀』にもその痕跡を完全に消し去ることはできなかったのです。これが、「大寶建元」の論理と結末です。

九州年号総覧 へ


第180話 2008/06/28

会して議せず

 拙宅が御所の近所のため、この一週間は8カ国外相会合の警備で、警察だらけでした。しかも、他府県の警察だらけで、西日本一帯から駆り出されたようです。
一番目に付いたのは大阪府警でしたが、岡山県警、福岡県警、島根県警のお巡りさんも御所の各門を警備されていました。まるで、幕末の御所警備に各藩の藩士が動員されたような感じでした。
 両陛下が見えられる時でも、これだけの警備はされません。ブッシュ大統領以来のものものしい警備体制でした。もっとも、おかげで路上駐車は減り、町内の治安は抜群でした。
 ところで、今回の「外相会合」ですが、当初、わたしは「外相会議」かと思っていました。 しかし、テレビでも新聞でも「外相会合」とされており、変な表現だなと違和感を持っていたのですが、もしかすると「会合」の方が正確な表現かもしれません。すなわち、「会して議せず」のため、「会合」と命名されたのではないでしょうか。誰が最初に考えたのかは知りませんが、なかなかの「妙訳」だと思います。どうせ、大国のエゴや利害がからんで、まともには「議」せないのでしょうから。あるいは「議して決せず」かもしれません。

 話は変わりますが、7月12日(土)に東京(文京区民センター)で講演します(多元的古代研究会主催)。テーマは「九州年号研究の最先端 ー前期難波宮、九州王朝副都説の展開ー」です。九州年号研究のこの10年間の成果と、それに基づく7世紀の九州王朝史復原を試みます。前期難波宮から大化改新にせまり、九州王朝と近畿天皇家の王朝交代を中心テーマに発表します。ご期待下さい。


第179話 2008/06/21

尾張一宮、真清田神社参詣

 仕事で愛知県一宮市を頻繁に訪れるのですが、先日、同市に鎮座する真清田(ますみだ)神社を参詣しました。尾張一宮が熱田神宮ではなく、ここの真清田神社であるのも何か不思議ですが、きっといわれがあるのでしょう。

    この真清田神社の御祭神は天火明命であることも興味深いのですが、わたしは末社の天神社・犬飼社・愛鷹社に注目しました。「犬飼」とか「愛鷹」とありますから、鷹狩りとの関係が濃厚です。どなたか、地元の人で研究されてはいかがでしょうか。
  6月15日には関西例会と講演会・会員総会が行われました。わたしは大化改新詔の新発見について発表しました。古田先生もこの研究をされておられますの で、今後の展開が楽しみです。武雄市の古川さんはカラー映像を駆使して、天子宮の調査報告をされました。天子宮が九州に、就中、肥後に多いことは九州王朝や多利思北孤との関係をうかがわせます。この分布事実を大和朝廷一元史観の人々はどのように説明されるのでしょうか。本テーマも九州王朝説でなければ説明できないと思われ、重要な研究となるでしょう。
 
  〔古田史学の会・6月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1) 韓国を斜め横断四日間(豊中市・木村賢司)
  2) 古田史学の会「林間雑論会」開催(豊中市・木村賢司)
  3) 近江朝廷の正体─壬申の乱の「符」─(京都市・古賀達也)
  4) 多婆那国は「遠賀川流域、田川郡」にあった(姫路市・野田利郎)
  5) 西村さんの日付干支表活用法(木津川市・竹村順弘)
  ○水野代表報告
   古田氏近況・会務報告・本朝皇胤紹運録「持統天皇大化三年」の発見・他(奈良市・水野孝夫)
 
  〔古田史学の会・講演会〕
  1). 天子宮の調査報告(武雄市・古川清久)
  2). 前期難波宮、九州王朝副都説の展開─大化改新詔の真実─(京都市・古賀達也)


第178話 2008/06/01

『類聚三代格』の白鳳年号

 第173話の「『白鳳以来、朱雀以前』の新理解」において、九州年号の白鳳と朱雀が聖武天皇の詔報として『続日本紀』神亀元年条(724)に記されていることを取り上げましたが、これは治部省からの問い合わせ内容に「白鳳以来、朱雀以前」が特に不明という具体的な時期の指摘があったから、このような返答になったと考えました。
 従って、治部省の官僚達は九州年号を「実用」していたこととなり、聖武天皇も詔報に「実用」したことになります。近畿天皇家は滅ぼした前王朝の年号を、行政用語として「実用」していたことになるのですが、この事を裏づける行政文書がもう一つ知られています。近畿天皇家の行政文書を集成した『類聚三代格』に収録されている、天平九年(737)三月十日の「太政官符謹奏」です。
   その中に「白鳳年より淡海天朝まで」という、先の聖武の詔報と同類の時期を指定する白鳳年号の用例があります。こうした史料事実から近畿天皇家の官僚達や聖武天皇が九州年号の少なくとも白鳳・朱雀を「実用」していたことを疑えないのです。
 更に言うならば、この九州年号の「実用」は『日本書紀』において、既になされています。孝徳紀の大化・白雉と天武紀の朱鳥の三年号がそれです。従来はこれら三年号を九州年号の「盗用」と考えていたのですが、より深く考えると、『日本書紀』という正史に使用しているのですから、これも一種の「実用」例なのです。
   それでは何故近畿天皇家は九州年号を「実用」したのでしょうか。この点について、6月15日(日)の古田史学の会・講演会(大阪市)で触れたいと思っています。


第177話 2008/05/25

『古田史学会報』86号の紹介

 昨日はミネルヴァ書房の方とお会いして、古田史学の会の2008年度事業の一つとして、「九州年号の研究」(仮称)という本の発行について相談しました。九州年号研究論文と同データベースを収録した最高水準の本になります。古田史学の会々員の皆さまには無料で進呈する予定です。あわせて、全国の主要図書館へも贈呈を検討しています。この10年間、九州年号に関する本格的な書籍が出ていませんので、今回の出版企画は日本古代史界にもインパクトを与えると 思います。
 ようやく、『古田史学会報』86号の編集が終わりました。6月6日発行予定です。お楽しみに。

『古田史学会報』86号の内容
○古写本「九州年号」の証言  京都市 古賀達也
○伊倉5 ─天子宮は誰を祀るか─  武雄市 古川清久
○自我の内面世界か俗流政治の世界か
    ─漱石『心』の理解をめぐって(その三)─  豊中市 山浦 純
○伊勢王と筑紫君薩夜麻の接点  川西市 正木 裕
○「白鳳以来、朱雀以前」考
─『続日本紀』神亀元年、聖武詔報の新理解─ 京都市 古賀達也
○「トロイの木馬」メンテナンス  相模原市 冨川ケイ子
○わたしの古代史仮説  奈良市 水野孝夫
○古田史学の会 二〇〇八年度会員総会・講演会のお知らせ
○古田史学の会 関西例会のご案内
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 二〇〇八年度会費お支払いのお願い


第176話 2008/05/24

御霊神社祭

 関西例会翌日の5月18日は、ご近所の上御霊神社の例大祭の日で、町内を御神輿が練り歩きました。今年は中京区の下御霊神社と合同で行列が行われ、御神輿三基と馬に乗った武者や牛車、八乙女やお稚児さんの行列もあり、例年になく賑やかでした。

 御霊神社は無念の死を遂げた人々、例えば崇道天皇らが祀られています。こうした伝統は、「敵を祀る」という日本古来のものでしょう。思想史上からも興味深い研究テーマです。
 また、今年の行列には法被を着た女性も参加されており、時代の変化を感じさせるものでした。もっとも、御神輿は男性だけで引かれていました。いずれはここにも女性が参加する日が来るかもしれません。そうした意味では、女性天皇の出現(再現)も、時代の流れでもあるようです。
   さて、5月の関西例会の内容は次の通りでした。
 
  〔古田史学の会・5月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1). 優秀なホームペインターが大勢誕生(豊中市・木村賢司)
  2). 磐余彦東征する(大阪市・西井健一郎)
  3). 小川論文と九州王朝(木津川市・竹村順弘)
  4). 「裸国・黒歯国」の頃のエクアドル(豊中市・大下隆司)
  5). 難波宮の名称について(京都市・古賀達也)
  6). 大化改新の全貌─文武天皇の郡司任命─(京都市・古賀達也)
  7). 「大化の改新」と「常色の改新」の視点(川西市・正木裕)
 
  ○水野代表報告
   古田氏近況・会務報告・陶(須恵)器の里に土師姓が多い・他(奈良市・水野孝夫)
  ○2007年度関西例会の会計報告(豊中市・大下隆司)


第175話 2008/05/12

再考、難波宮の名称

 163話で、 前期難波宮は「難波宮」と呼ばれていたとする考えを述べましたが、4月の関西例会で正木裕さん(本会会員、川西市)から、孝徳紀白雉元年と二年条に見える味経宮(あじふのみや)が前期難波宮ではないかとの異論が出されました。その主たる根拠は、白雉二年に味経宮で僧侶2100余人に一切経を読ませたり、2700余の燈を燃やしたりという大規模な行事が行えるのは、前期難波宮しかない。更にそこで読まれた安宅・土側経は、翌年完成する難波宮の地鎮に相応しい経典であるというものでした。
 この説明を聞いて、成る程と思いました。というのも、わたし自身も味経宮は前期難波宮ではないかと考えた時期があったからです。ただ、孝徳紀を読む限り、白雉改元の儀式が味経宮でのこととは断定できず、『続日本紀』に見える「難波宮」説を採ったのでした。
 しかし、正木さんの異論を聞いて、再考したところ、『万葉集』巻六の928番歌にある

「味経の原に もののふの 八十伴の男は 庵して 都なしたり」

が、聖武天皇の時代の後期難波宮を示していることから、後期難波宮が「味経の原」にあったこととなり、同じ場所にあった前期難波宮も味経の原にあった宮、すなわち味経宮であるという理解が可能となることに、遅まきながら気づいたのです。なお、この歌には「長柄の宮」という表現もあり、難波宮は「長柄の宮」とも呼ばれていたようです。
 そして、ここでは「長柄豊碕宮」と呼ばれていないことが注目されます。前期と後期難波宮は「長柄豊碕宮」とは別であるということは、この歌からも言えるのではないでしょうか。ちなみに、この歌を笠朝臣金村が読んだのは、『日本書紀』成立直後の頃と推定できますから、孝徳紀の「難波長柄豊碕宮」という記事を知っていた可能性、大です。それにもかかわらず、「難波長柄豊碕宮」とはしないで、「味経の原」「長柄の宮」と読んでいることは同時代史料として、重視しなければなりません。
   以上のことから、正木さんの異論、「前期難波宮の名称は味経宮」説は検討されるべき有力説と思われます。


第174話 2008/05/03

古写本「九州年号」の証言

 古田先生が『失われた九州王朝』で紹介された九州年号は、その後の九州王朝研究の重要な一テーマとなりましたが、その「九州年号」という名称については、江戸時代の学者鶴峯戊申の『襲国偽僭考』に紹介された「古写本九州年号」に拠られました。その後の九州年号研究において、この「古写本九州年号」とい うものは鶴峯による創作であり、本当は無かったのではないかという論者(丸山晋司さん)もでるほど、他の文献には見られないものでした。

   ところが、本会会員の冨川ケイ子さんが、明治期の研究書に「九州年号」という史料が引用されていることを発見され、「九州年号・九州王朝説−明治25年−」という論文で発表されました(『古代に真実を求めて』8集所収)。その研究書とは今泉定介「昔九州は独立国で年号あり」で、明治25年発行の『日本史学新説』広池千九郎著に収録されており、国会図書館のホームページ内「近代デジタルライブラリー」で閲覧できます。
 こうして、「九州年号」という古写本が江戸期から明治に存在していたことは決定的となりました。ところが、実はこの「九州年号」という名称そのものが九州王朝説を証明する論理性を有しているのです。すなわち、九州地方に近畿天皇家に先だって年号を公布してきた王朝が存在していたという意味を、この「九州年号」という名称は前提としているからです。古田先生による九州王朝説発表よりもはるか昔に「九州年号」という古写本が存在していたことは、偶然の一致で はなく、九州王朝説は真実であるという必然の帰結であり、そうした論理性を示しています。
 日本古代史学界の学者や、九州王朝説反対派はこの史料事実と論理性に対して、全く反論できていません。この30年来、じっと無視・沈黙しているのです。 裸の王様(日本古代史学界・九州王朝説反対派)は、さぞ辛いことでしょう。30年来、「王様は裸だ!」と言い続けられているのですから。本会のホームページの存在も辛いことでしょう。歴史を研究しようとする青年達は、インターネットの時代ですから、必ず本会のホームページを目にするに違いありません。その 時、真実の歴史(古田説)を知ってしまった若者を、学校の大和朝廷一元史観教育で洗脳できるのも、いつまででしょうか。
   なお、付言しますと宇佐八幡宮文書に『八幡宇佐宮繋三』という史料があります。同書は、元和三年(一六一七)五月、神祇卜部兼従が編纂した宇佐宮の縁起書ですが、その中に、次のような興味深い記事があります。

 「文武天皇元年壬辰大菩薩震旦より帰り、宇佐の地主北辰と彦山権現、當時〔筑紫の教到四年にして第廿八代安閑天皇元年なり、〕天竺摩訶陀國より、持来り給ふ如意珠を乞ひ、衆生を済度せんと計り給ふ、」
   ※〔 〕内は細注。

 細注に記された「筑紫の教到四年にして第廿八代安閑天皇元年なり」という文は、いわゆる九州年号の「教到」が天皇家とは別の筑紫地方の年号、あるいは筑紫の権力者が公布した年号であるという、編者の認識を示しています。これも古写本「九州年号」と同じ論理性を有しており、このように複数の史料が九州王 朝・九州年号説を支持しているのですが、この事に対しても「裸の王様」たちは沈黙しています。哀れというほかありません。


第173話 2008/05/02

「白鳳以来、朱雀以前」の新理解

 九州年号の白鳳と朱雀が聖武天皇の詔報として『続日本紀』神亀元年条(724)に、次のように記されていることは著名です。

「白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。亦、所司の記注、多く粗略有り。一たび見名を定め、よりて公験(くげん)を給へ」

 これは治部省からの問い合わせに答えたもので、養老4年(720)に近畿天皇家として初めて僧尼に公験(証明書、登録のようなもの)を発行を始めたのですが、戸籍から漏れていたり、記載されている容貌と異なっている僧尼が千百二十二人もいて、どうしたものかと天皇の裁可をあおいだことによります。
 しかし、その返答として、いきなり「白鳳以来、朱雀以前」とあることから、そもそもの問い合わせ内容に「白鳳以来、朱雀以前」が特に不明という具体的な時期の指摘があったと考えざるを得ません。というのも、年代が玄遠というだけなら、白鳳以前も朱雀以後も同様で、返答にその時期を区切る必要性はないからです。
 にもかかわらず「白鳳以来、朱雀以前」と時期を特定して返答しているのは、白鳳から朱雀の時期、すなわち661年(白鳳元年)から685年(朱雀二年)の間が特に不明の僧尼が多かったと考えざるをえませんし、治部省からの問い合わせにも「白鳳以来、朱雀以前」と時期の記載があったに違いありません。
 この点、古田先生は『古代は輝いていたIII』で、「年代玄遠」というのは只単に昔という意味だけではなく、別の王朝の治世を意味していたとされました。九州王朝説からすれば一応もっともな理解と思われるのですが、わたしは納得できずにいました。何故なら、別の王朝(九州王朝)の治世だから不明というならば、白鳳と朱雀に限定する必要は、やはりないからです。朱雀以後も九州王朝と九州年号は朱鳥・大化・大長と続いているのですから。

 このように永らく疑問としていた「白鳳以来、朱雀以前」でしたが、疑問が氷塊したのは、前期難波宮九州王朝副都説の発見がきっかけでした。既に発表してきましたように、九州王朝の副都だった前期難波宮は朱雀三年(686)に焼亡し、同年朱鳥と改元されました。もし、九州王朝による僧尼の公験資料が難波宮に保管されていたとしたら、朱雀三年の火災で失われたことになります。『日本書紀』にも難波宮が兵庫職以外は悉く焼けたとありますから、僧尼の公験資料も焼亡した可能性が極めて大です。従って、近畿天皇家は九州王朝の難波宮保管資料を引き継ぐことができなかったのです。これは推定ですが、難波宮には主に近畿や関東地方の行政文書が保管されていたのではないでしょうか。それが朱雀三年に失われたのです。
 こうした理解に立って、初めて「白鳳以来、朱雀以前」の意味と背景が見えてきたのです。九州王朝の副都難波宮は九州年号の白雉元年(652)に完成し、その後白鳳十年(670)には庚午年籍が作成されます。それと並行して九州王朝は僧尼の名籍や公験を発行したのではないでしょうか。そして、それらの資料が難波宮の火災により失われた。まさにその時期が「白鳳以来、朱雀以前」だったのです。
 以上、『続日本紀』の聖武天皇詔報は、わたしの前期難波宮九州王朝副都説によって、はじめて明快な理解を得ることが可能となったのでした。


第172話 2008/05/01

聖武詔報「白鳳以来、朱雀以前」の論理

 わたしは今日からゴールデンウィークです。先週の土曜日に明日香村の万葉文化館までドライブしてきましたので、今回は自宅でのんびりする予定です。

 さて、3月の関西例会で「聖武詔報の再検討−『白鳳以来、朱雀以前』の新理解−」という研究を発表したのですが、九州年号である白鳳と朱雀が近畿天皇家の詔報として『続日本紀』神亀元年条(724)に記されていることは、九州年号実在説の直接証拠ともいうべきものです。このことを古田先生は30年来指摘されているのですが、大和朝廷一元史観を「飯の種にしている古代史学界は沈黙を守ったままであることは、ご存じの通りです。まったく非学問的態度であると言わざるを得ません。この聖武天皇による「証言」は九州王朝を滅ぼした側のトップの発言であり、公式記録『続日本紀』に採用された記録であるだけに、その意味は重要であり、プロの学者であれば理解できないはずがありません。
 にもかかわらず、この白鳳と朱雀は『日本書紀』に記された白雉と朱鳥を、よりおめでたい鳥の名前に改変したものという、何の史料根拠もないへんてこな旧説(屁理屈)で、プロの学者達はすませているのです。おめでたいのは彼らの頭かもしれませんが、彼らは九州王朝説はなかったことにしたい、古田武彦はいなかったことにしよう、という「共同謀議」のまま30年来頑張っているのですが、何とも痛ましい限りです。プロの学者として恥ずかしくないのでしょうか。
 このような態度は、自然科学では実験データの無視・改竄に相当するもので、およそ許されることではありません。企業研究では、まずそのような研究者(社員)はクビでしょう。わたしは職業柄、いろんな自然科学系の学会発表を聴講してきましたが、このような発表は未だ聞いたことがありません。日本古代史学界は「学問」の学界ではない、そのような疑惑さえ生じさせる惨状です。わたし自身、彼らが古田説を知ってて無視・排除する現場を少なからず見てきていますし、古田先生からは更に多くの「実例」をお聞きしています。本当に酷いものです。(つづく)


第171話 2008/04/27

九州王朝の白鳳六年「格」

 大和朝廷に先だって九州王朝が律令を制定していたことを古田先生が指摘されていますが(「磐井律令」)、それであれば律令体制下の行政命令に相当する「格 きゃく」も存在していたものと推定されます。大和朝廷の史料では、『類従三代格』などが著名ですが、九州王朝系の「格」の痕跡をこの度「発見」することができました。
 4月の関西例会でも発表したのですが、『日本後紀』延暦十八年(799)十二月条に、亡命百済人等の子孫による賜姓を請う記事があり、その中で祖先が百済から亡命した際、当初、摂津職(難波)に安置され、その後の「丙寅歳正月廿七日格」にて甲斐国に移住を命じられたと述べています。この丙寅歳は666年に相当し、九州年号の白鳳六年のことです。この時代は九州王朝の時代ですから、「丙寅歳正月廿七日格」は九州王朝が発した「格」ということになります。
 更に言うならば、最初に留めおかれた所が「摂津職」とありますから、大和朝廷の『養老律令』などで規定された「摂津職」は、その淵源が九州王朝律令にあったこととなります。従来は、難波宮があったため大和朝廷は摂津を「国」ではなく、「職」にしたと理解されてきましたが、九州王朝の時代から既に「摂津職」とされていたことは、わたしの前期難波宮九州王朝副都説に対応しており、思いがけない発見となりました。すなわち、九州王朝は副都がある摂津を「職」と命名位置づけていたことになるのです。『日本後紀』の九州王朝「格」記事は、摂津職の淵源まで、明らかにしてくれたのでした。