第2702話 2022/03/18

柿本人麻呂系図の紹介 (4)

 『柿本家系図』に人麿の實子と記された柿本男玉は東大寺建立に関わった人物ですが、東大寺二月堂の過去帳(注①)の他、『続日本紀』にも「柿本小玉」の名が遺されています。次の記事です。

 「正六位上柿本小玉、従六位上高市連真麻呂に並に外従五位下を授く。」天平勝宝元年(749)十二月条

 「また、大納言藤原朝臣仲麻呂を遣して、東大寺に就(ゆ)きて、従五位上市原王に正五位下を授く。従五位下佐伯宿禰今毛人に正五位上。従五位下高市連大国に正五位下。外従五位下柿本小玉・高市連真麻呂に並に外従五位上。」天平勝宝二年(750)十二月条

 天平勝宝二年(750)十二月の柿本小玉ら叙位記事に対して、岩波の『続日本紀 三』(注②)の脚注11(108頁)には「大仏鋳造の巧による叙位」とあり、柿本小玉が『柿本家系図』や『東大寺上院修中過去帳』に見える柿本男玉と同一人物として問題ありません。しかし、「男玉」と「小玉」とでは用字が異なりますので、『柿本家系図』は『続日本紀』以外の別系統の史料に依ったものと思われます。また、叙位記事に見える三名のうち、柿本小玉だけが姓(かばね)を持っていません(無姓)。このことも気になるところです。
 ちなみに、東大寺大仏の開眼供養は天平勝宝四年(752)四月のことです。(つづく)

(注)
①『東大寺上院修中過去帳』。東大寺二月堂での修二会で、3月5日夜とお水取りの行事が行われる3月12日夜に読み上げられる。
②『続日本紀 三』新日本古典文学大系、岩波書店、1992年。


第2701話 2022/03/16

柿本人麻呂系図の紹介 (3)

 「柿本人麻呂系図」には人麻呂の伝承に続いて「實子」の「男玉」の事績が記されています。次の通りです。

(e) 「人麿ノ 實子 柿本男玉 三條? 鍛冶師トナリ 聖武天皇奈良大佛建立ノ 際 鍛頭トナリ 之レ 則チ 三條小鍛冶ナリ」

 ここに記された「柿本男玉」は東大寺二月堂の過去帳(注①)にも見え、実在の人物です。東大寺のホームページ(注②)には次の記事があり、柿本男玉が大仏建立に鍛冶師ではなく鋳師(※印を付した。古賀)として参画しています。

 「お松明で有名な東大寺の修二会(しゅにえ)で読み上げられる過去帳の初めの部分を紹介しましょう。ここには大仏さまと大仏殿の造営に関わった人々の名前が挙げられています。
(中略)
 大伽藍本願 聖武皇帝
 聖母皇大后宮 光明皇后
 行基菩薩
 本願孝謙天皇
 不比等右大臣 諸兄左大臣
 根本良弁僧正 当院本願 実忠和尚
 大仏開眼導師天竺菩提僧正 供養講師隆尊律師
 大仏脇士観音願主尼信勝 同脇士虚空蔵願主尼善光

 造寺知識功課人
 大仏師 国公麻呂(だいぶっし くにのきみまろ)
 大鋳師 真国(おおいもじ さねくに)
 高市真麿(たけちのさねまろ)
※鋳師 柿本男玉(いもじ かきのもとのおだま)
 大工 猪名部百世(だいく いなべのももよ)
 小工 益田縄手(しょうく ますだのただて)
 材木知識(ざいもくのちしき)五万一千五百九十人
 役夫知識(やくぶのちしき)一百六十六万五千七十一人
 金知識(こがねのちしき)三十七万二千七十五人
 役夫(やくぶ)五十一万四千九百二人」

 『柿本家系図』に人麿の實子と記された柿本男玉は東大寺建立に関わった人物のようですが、同系図には「三條」の「鍛冶師」であり、大仏建立には「鍛頭」として参画したとしています。他方、東大寺二月堂の「過去帳」には「鋳師柿本男玉」とあり、鍛冶師ではありません。また、「大鋳師真国」という人物名もあることから、「大」が付かない「鋳師」である「柿本男玉」と系図の「鋳頭」という職掌についても対応が不明です。この不一致がいずれかの誤記誤伝なのか、祖先の格を上げるための系図編纂者の作意なのか、慎重な検討が必要ですが、著名な東大寺の過去帳に見える「鋳師柿本男玉」に基づいて系図を作成したとするのであれば、それとは異なる「鍛冶師」と記すことも考えにくいものです。
 また、系図に見える「三條小鍛冶」は奈良市に企業(注③)として現存していますが、それは「鍛冶」であり、東大寺建立に関わった「鋳師柿本男玉」との関係は今のところ見当たりません。この点も調査検証が必要なようです。
 希代の歌人であり晩年は石見國(注④)の官吏でもあった人麿と、奈良の鋳物師の男玉との関係性にも違和感がありますが、系図では「實子」とわざわざ記しており、系図編纂者としては両者の〝親子関係〟こそ最も強調したかったことではないでしょうか。(つづく)

(注)
①『東大寺上院修中過去帳』。東大寺二月堂での修二会で、3月5日夜とお水取りの行事が行われる3月12日夜に読み上げられる。
②http://www.todaiji.or.jp/contents/qa/qa.html
③三條小鍛冶宗近本店(奈良市雑司町)。同社ホームページに「明治初期まで現奈良市尼ヶ辻町にて作刀す。右、記念碑現存す。」とある。
https://www.sanjyokokajimunechika.com/
④通説では人麿は石見で没したとされており、『柿本家系図』の記事「後 伯耆國ニ 閉居シ」とは異なる。この点も留意が必要である。


第2700話 2022/03/15

柿本人麻呂系図の紹介 (2)

 古田先生からいただいた「柿本人麻呂系図」コピーには、人麻呂の伝承について次の興味深い記事が見えます。

(a) 「柿本氏ハ 八色姓ノ 第一位ニシテ 人麿ニ 賜リシを真人姓ナリ」
(b) 「柿本人麿ノ 祖ハ 日本足彦國押人尊 又一名ヲ 天足彦國押人尊ト 奉穪ス」
(c) 「人麿ハ 天武 持統 文武ノ 三帝ニ 奉仕シ 遣唐使ナリシ事二度」
(d) 「後 伯耆國ニ 閉居シ 専ラ 和歌ニ 力ヲ 盡シ 世ニ 和歌聖人? 穪セリ」

 コピーが不鮮明なため、文字の誤読はあるかもしれませんが、大意に相違はないと思います(「?」は判読不明の文字)。特に注目したのが人麿が「真人」姓を賜ったとする(a)の記事です。『万葉集』では「柿本朝臣人麿」(注①)とあり、その姓(かばね)は朝臣とされています。「朝臣」は天武紀に見える八色姓の第二位であり、系図に見える一位の「真人」よりも下位です。この差異の理由は不明ですが、同系図が著名な『万葉集』とは異なった伝承を伝えていることに興味を覚えます。
 更に注目したのが、遣唐使として二度も唐に渡ったという初めて目にした(c)の記事です。恐らくは九州王朝(倭国)が派遣した遣唐使ではないでしょうか。そうであれば、「真人」という臣下第一位の姓(かばね)も九州王朝から賜った可能性が高いように思われます。
 このような従来の史料には見えない伝承が記された「柿本人麻呂系図」は貴重です。なお、同系図には人麻呂の生没年や出身地については記されていません。従来説でも生没年未詳とされているようです。他方、わたしの研究(注②)によれば、『運歩色葉集』は人麻呂の没年を九州年号の大長四年丁未(707)と伝えており(注③)、人麻呂が九州王朝の宮廷歌人であったとする古田説(注④)を支持しているように思います。(つづく)

(注)
①『万葉集』巻一、29番歌題詞に「近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌」とある。
②古賀達也「洛中洛外日記」600話(2013/09/28)〝九州年号「大長」史料の性格〟
 同「九州年号『大長』の考察」『古田史学会報』120号、2014年2月。
 同「九州年号『大長』の考察」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)、2017年。
③『運歩色葉集』に「柿本人丸」の没年記事として「柿本人丸――者在石見。持統天皇問曰對丸者誰。答曰人也。依之曰人丸。大長四年丁未、於石見国高津死。(以下略)」が見える。
 古賀達也「洛中洛外日記」274話(2010/08/01)〝柿本人麻呂「大長七年丁未(707)」没の真実〟
④古田武彦『人麿の運命』原書房、平成六年(1994)。ミネルヴァ書房より復刻。


第2699話 2022/03/14

柿本人麻呂系図の紹介 (1)

25年ほど前のことですが、古田先生から「柿本人麻呂系図」のコピーをいただきました。この度、必要があって同系図コピーを書架の中からようやく探し出すことができましたので、紹介します。
 古田先生から聞いた話では、佐賀県に柿本人麻呂の御子孫がおられ、就職で実家を離れるときに同家系図を親御さんから受け継いだとのことでした。その方は、祖母から「もし火事にあったら、系図を持って逃げるように」と子供の頃から言われてきたそうです。
 コピーによれば同系図は巻物二巻からなっており、一つは柿本家に伝わった人麻呂の伝承と同家の由来が書かれており、もう一つが系図です。どちらにも「柿本家系圖」と表記され、系図末尾には「柿本毅 書」とあり、柿本毅さんが書写したことがわかります。系図の最後の人物が「毅」さんと「妻 淑子」さんであることから、毅さんのご子息が実家を離れるときに、ご子息のために書写されたものではないでしょうか。そうであれば、佐賀県のご実家には書写原本があるはずです。毅さんの母、「良重」さんの旁書に「昭和五十九年九月/享年六十四才」とあることから、系図の作成(書写)時期は昭和59(1984)年以後で、古田先生が写真撮影された1995年までのこととなります(注①)。
 webサイト「日本姓氏語源辞典」(注②)で「柿本」さんの分布を調べたところ、次の通りでした。「顕著に見られる市区町村」には佐賀県神埼郡吉野ヶ里町もありますので、この系図の柿本さんは同地域の住民の可能性があります。また、久留米市に柿本さんが多いことも、注目されます。(つづく)

【都道府県順位】
1 大阪府(約2,000人)
2 兵庫県(約1,400人)
3 福岡県(約1,000人)
4 広島県(約800人)
5 長崎県(約600人)
6 京都府(約600人)
7 熊本県(約600人)
8 北海道(約600人)
9 岡山県(約500人)
10 東京都(約500人)

【市区町村順位】
1 兵庫県 加古川市(約200人)
2 石川県 金沢市(約200人)
3 福岡県 久留米市(約200人)
4 岡山県 備前市(約200人)
5 広島県 尾道市(約200人)
6 鹿児島県 鹿児島市(約200人)
7 大阪府 吹田市(約200人)
7 長崎県 長崎市(約200人)
9 大阪府 堺市(約200人)
10 高知県 高知市(約140人)

【小地域順位】
1 広島県 尾道市 向東町(約110人)
1 岡山県 備前市 日生(約110人)
3 鹿児島県 日置市 伊作田(約90人)
4 高知県 室戸市 羽根町乙(約70人)
4 大阪府 吹田市 垂水町(約70人)
4 福井県 大飯郡おおい町 久保(約70人)
7 鹿児島県 鹿児島市 上福元町(約60人)
7 大分県 日田市 山田町(約60人)
9 大阪府 守口市 梶町(約50人)
9 長崎県 五島市 岳郷(約50人)

(注)
①コピーには撮影年月日を示す「95.3.5」のデジタル文字が映っている。
②「日本姓氏語源辞典」 https://name-power.net/fn/%E6%9F%BF%E6%9C%AC.html


第2698話 2022/03/13

大宝二年西海道戸籍の二倍年齢 (3)

 松尾光「大宝二年西海道戸籍にみるいわゆる高齢出産の年齢」(注①)で指摘された大宝二年西海道戸籍の高齢出産を示す年齢表記は、二倍年齢による年齢計算の痕跡ではないかと思われました。というのも、わたしは八王子セミナー2020(注②)で、同じ大宝二年の御野国戸籍が二倍年齢の影響をうけているとする研究(注③)を発表したのですが、そのときの根拠は同戸籍に見える次の傾向でした。

(1) 大宝二年(702)当時としては考えにくい高齢者群が見える(注④)。
(2) 超高齢出産の事例が散見される(注⑤)。
(3) 戸主と嫡子(長子)の年齢差が30歳~40歳ほどの戸が少なからず存在し、当時の親子の年齢差としては不自然。

 これらの不自然な史料状況を合理的に解決する方法として、庚午年籍(670年)の造籍時までは当地で二倍年齢が採用されており、その二倍年齢で登記され、それ以後は一倍年齢として六年毎の造籍時に六歳が加算されたとする仮説に至りました(注⑥)。
 それでは西海道戸籍も同様の理解によりリーズナブルな年齢に換算できるでしょうか。(つづく)

(注)
①木本好信編『古代史論聚』(岩田書院、2020年)に収録。
②「古田武彦記念古代史セミナー2020」2020年11月14日(土)~15日(日)、大学セミナーハウス。
③古賀達也「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」https://iush.jp/uploads/files/20201126153614.pdf

④次の高齢者(70歳以上)が見える。
〔味蜂間郡春部里〕
 戸主姑和子賣(70歳)
〔本簀郡栗栖太里〕
 戸主姑身賣(72歳)
〔肩縣郡肩〃里〕
 寄人六人部身麻呂(77歳)・寄人十市部古賣(70歳)・寄人六人部羊(77歳)・奴伊福利(77歳)
〔山方郡三井田里〕
 下々戸主與呂(72歳)
〔加毛郡半布里〕
 戸主姑麻部細目賣(82歳)・戸主兄安閇(70歳)・大古賣秦人阿古須賣(73歳)・都野母若帯部母里賣(93歳)・戸主母穂積部意閇賣(72歳)・戸主母秦人由良賣(73歳)・下々戸主身津(71歳)・下々戸主古都(86歳)・戸主兄多比(73歳)・下々戸主津彌(85歳)・下中戸主多麻(80歳)・下々戸主母呂(73歳)・寄人石部古理賣(73歳)・下々戸主山(73歳)・寄人秦人若賣(70歳)・下々戸主身津(77歳)・戸主母各牟勝田彌賣(82歳)
⑤『御野国加毛郡半布里戸籍』「縣主族比都自」戸の「寄人縣主族都野」家族に、次の超高齢出産となる年齢が記されている。
 寄人縣主族都野(44歳、兵士)
 嫡子川内(3歳)
 都野甥守部稲麻呂(5歳)
 都野母若帯部母里賣(93歳)※「大宝二年籍」中の最高齢者。
 母里賣孫縣主族部屋賣(16歳)
 これを親子順に並べると、次の通り。
(母)若帯部母里賣(93歳)―(子)都野(44歳)―(孫)川内(3歳)
 この母と子と孫の年齢差は49歳と41歳であり、異常に離れている。特に都野は母里賣49歳のときの子供となり、女性の出産年齢としては考えにくい。また、二代続けて年齢差が異常に離れていることも不自然だ。
⑥【補正式】(「大宝二年籍」年齢-32)÷2+32歳=一倍年暦による実年齢


第2697話 2022/03/08

大宝二年西海道戸籍の二倍年齢 (2)

 京都府立大学文学部図書館で閲覧した松尾光「大宝二年西海道戸籍にみるいわゆる高齢出産の年齢」(注①)には、大宝二年西海道戸籍に記載された67戸(1125人)中、40歳以上の女性による高齢出産の31戸の全例が紹介されています。それらの母親の名前と出産年齢は次の通りです。番号は論文で戸毎に付されたもの(注②)。

〔筑前国嶋郡川邊里〕
(1) 卜部甫西豆売 42歳
(2) 卜部夜夫志売 42歳・45歳
(3) 中臣部與利売 42歳・52歳
  吉備部岐多奈売 42歳・45歳
(4) 建部稲津売 48歳
(5) 卜部宮津売 40歳・44歳
(6) 卜部酒屋売 62歳
(7) 宇治部彌乃売 42歳・45歳・47歳
(8) 秦部咩豆売 47歳
(9) 葛野部比良売 45歳・46歳
(10)大家部泉売 40歳
(11)葛野部美奈豆売 49歳・55歳
〔豊前国上三毛郡塔里〕
(12)秦部小民売 43歳
(13)秦部乎堤売 40歳・41歳
(14)秦部小赤売 41歳・42歳
(15)秦部意等比売 43歳・51歳
(16)秦部伊比豆売 44歳
〔豊前国仲津郡丁里〕
(17)墨田赤売 40歳
(18)都加自売 43歳・46歳
(19)秦部阿理売 41歳
  秦部刀自売 45歳・47歳
(20)狭度小赤目 40歳・41歳・42歳
(21)等能比売 40歳
(22)丁糠売 53歳
(23)秦部犬売 40歳・42歳
(24)春日部昨売 42歳
(25)狭度赤売 47歳
(26)川邊波太売 51歳
(27)秦部夜波良売 43歳
(28)秦部犬売 51歳
(29)膳百手売 41歳
(30)秦部蓑売 46歳
(31)韓売 42歳

 これだけの「高齢出産」が七世紀の倭国でありえたとは考えられないと言わざるをえませんが、松尾さんは「(6)卜部酒屋売」の出産年齢の62歳についても、西海道戸籍の表記の正確性などを根拠に、「不安はあるが、いまは記載されている通りに六十二歳で出産したものとしておく。」としています。わたしにはとてもこのような理解はできません。(つづく)

(注)
①木本好信編『古代史論聚』(岩田書院、2020年)に収録。
②掲載順は『寧楽遺文』上巻によるとのこと。


第2696話 2022/03/07

大宝二年西海道戸籍の二倍年齢 (1)

 先週、久しぶりに京都府立大学文学部図書館に行き、書籍を閲覧しました。『古代史論聚』(注①)に収録された中川収「中臣習宜朝臣阿曽麻呂について」を読むことが目的でした。同論文は日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)からご紹介いただいたもので、「洛中洛外日記」〝難波宮の複都制と副都〟(注②)で採りあげた大宰府主神の習宜阿曽麻呂についての先行研究論文です。日野さんからは古代氏族の氏(うじ)名や姓(かばね)の歴史的経緯や性格についての通説を度々教えていただいており、リモート勉強会(注②)での講義もお願いしています。
 『古代史論聚』には古代史学界の多くの学者の論文が収録されており、最新の研究動向を知る上でも役立ちそうです。中でもわたしが着目したのが、松尾光「大宝二年西海道戸籍にみるいわゆる高齢出産の年齢」という論文でした。同論文で松尾さんは、大宝二年西海道戸籍には40~50歳代女性による高齢出産が少なからず見られ、従来は古代におけるこのような高齢出産は考えられないとされてきたが、同戸籍を史料根拠として、こうした高齢出産を否定できないと論じています。西海道戸籍だけではなく、美濃国戸籍などにも同様の高齢出産が認められるとする論文を松尾さんは発表されています(注③)。
 この〝高齢出産〟現象に、わたしは思い当たる節がありました。高齢出産とされる大宝二年(702年)における女性の年齢は、庚午年籍造籍時(670年)の二倍年齢登記の痕跡ではないかと。(つづく)

(注)
①木本好信編『古代史論聚』岩田書院、2020年。
②関東や遠方の研究者との情報交換や勉強を目的として、「古田史学リモート勉強会」を有志と行っている。
③松尾光「養老五年下総国戸籍にみるいわゆる高齢出産者の年齢」『歴史研究』649号、2017年。
 同「東国御野・大宝二年戸籍にみるいわゆる高齢出産者の年齢」横浜歴史研究会創立三十五周年記念誌『壮志』2017年。


第2695話 2022/03/06

古田先生の土器編年試案(セリエーション) (5)

 須恵器セリエーションの分類作業におけるハードル(d)は考古学者でなければ判断を誤りかねないケースで、文献史学の研究者にはかなり難しいものです。

(d) 出土土器型式に地域差や定義の違いがあり、飛鳥編年による型式(須恵器坏H・G・B)と対応が一見して困難なケースがある。その地域差を理解していないと型式の分類を間違ってしまうことがある。

 出土土器型式の地域差や定義の違いにより、分類を間違えそうになったという、わたしの体験を紹介します。「洛中洛外日記」〝太宰府出土、須恵器と土師器の話(7)〟(注①)で紹介しましたが、牛頸窯跡群の調査報告書『牛頸小田浦窯跡群Ⅱ』(注②)に掲載された須恵器坏に次のような説明があり、わたしは途方に暮れました。

(1) 26頁第16図73・74の須恵器蓋に「つまみ」はないが、説明ではそれらを「坏G」とする。
(2) 37頁第24図83の須恵器蓋にも「つまみ」はないが、説明ではでは「坏B」とする。

 「つまみ」がない須恵器蓋を坏Gや坏Bとする説明をわたしは理解できませんでした。これでは太宰府土器編年の根幹が揺らぎかねませんので、調査報告書を発行した大野城市に上記の点について質問したところ、次の回答が届きました。その要旨を転記します。

【質問1】26頁第16図73・74の「坏G」の認識
 ご指摘のとおり、一般的な「坏G蓋」は「つまみ」を有しており、大野城市でも「かえり」「つまみ」を有す蓋と身のセットを「坏G」と理解しています。
 ところが、本市の牛頸窯跡群では、「かえり」を有すものの「つまみ」を欠く蓋が一定量あり、「つまみ」がないものも含めて「坏G」と表現しています。
【質問2】37頁第24図83の「坏B」の認識
 ご指摘のとおり、一般的な「坏B蓋」には「つまみ」があり、坏身には「足=高台」を有しています。
 「坏G」と同様、牛頸窯跡群では、高台を有する杯身とセットになる蓋で「つまみ」を欠く蓋が一定量あり、「つまみ」がないものも含めて「坏B」と表現しています。
 以上のとおり、牛頸窯跡群では、坏G蓋・坏B蓋につまみを欠くものが一定量存在しております。近畿地域では、つまみを有するものが一般的かと思いますが、この点は地域性が発現しているものと理解できるのかもしれません。

 以上の回答とともに、資料として添付されていた『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ―』(注③)の「例言」には、次の説明がありました。

 「須恵器蓋坏については、奈良文化財研究所が使用している名称坏H(古墳時代通有の合子形蓋坏)、坏G(基本的にはつまみとかえりを持つ蓋と身のセット。ただし牛頸窯跡群産須恵器にはつまみのない蓋もある)、坏B(高台付きの坏)、坏A(無高台の坏)を使用する場合がある。」『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ―』

 すなわち、蓋に「かえり」が付いているものは「つまみ」がなくても坏Gに分類していたのです。おそらく同一遺構から「つまみ」付きの坏G蓋が多数出土し、併出した「つまみ」無しの蓋でも「かえり」があれば、坏Gに見なすということのようです。蓋に「つまみ」がない坏Bも同様です。こうしたことから、調査報告書の須恵器を分類する際は「つまみ」の有無だけでの単純な型式判断で済ませることなく、地域差も考慮しなければならないことを知ったのです。
 以上のことから、太宰府関連遺構出土の須恵器坏セリエーション分類作業は、当地の考古学者の協力を得たり、地域差について教えを請うことから始めなければならないことに気づき、わたしは土器編年研究に一層慎重になりました。他方、土器セリエーションによる相対編年は考古学界の先進的研究者に採用されつつあります。その成果が古田史学・九州王朝説と整合する日が来ることを期待し、わたしたち古田学派研究者による精緻なセリエーションでの土器編年確立が待たれます。(おわり)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2547話(2021/08/22)〝太宰府出土、須恵器と土師器の話(7)〟
②『牛頸小田浦窯跡群Ⅱ ―79地点の調査― 大野城市文化財調査報告書 73集』大野城市教育委員会、2007年。
③『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ― 大野城市文化財調査報告書 第77集』大野城市教育委員会、2008年。

 


2694話 2022/03/05

古田先生の土器編年試案(セリエーション) (4)

 須恵器セリエーション分類作業におけるハードルとして次の四点を示しました。

(a) 遺跡調査報告書の刊行が遅れることがあり、考古学関係者は知っている最新データが未発表のケースがある。
(b) 出土土器の破片が小さい場合、型式が判断できないケースが発生する。その数が多量だと、セリエーションの不確定要素が増し、編年誤差が拡大する。
(c) 遺跡調査報告書に掲載された出土土器の写真や断面図が、出土した土器の全てとは限らないケースがある。土器やその破片が大量に出土した場合は尚更で、報告書に全てが収録されることは期待できない。
(d) 出土土器型式に地域差や定義の違いがあり、飛鳥編年による型式(須恵器坏H・G・B)と対応が一見して困難なケースがある。その地域差を理解していないと型式の分類を間違ってしまうことがある。

 まず最初に、(c)についての体験を紹介します。水城の築造時期を探るために考古学エビデンスとできる堤体内からの出土須恵器に注目し、報告書(注①)を精査したところ、東門付近の木樋遺構SX050とその木樋付近SX051から須恵器が出土していました(第5次)。これらの土器は水城堤体内部(基底部)からの出土であり、築造当時までに使用あるいは廃棄されていたものですから、その土器年代以後に水城が築造されたことを意味します。
 『水城跡 下巻』192頁の図面(Fig156)に掲載された須恵器はSX050(坏身1点)とSX051(坏蓋5点、坏身6点、高坏の脚2点)の14点ですが、高坏の2点を除けばいずれも坏Hと呼ばれる型式の須恵器坏です。他方、山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」(注②)では次の説明がなされています。

 「水城跡では水処理を目的とした木製の箱型の暗渠である『木樋』が土塁の下に設置されているが、木樋の設置坑は長さ80㍍にわたって水城を縦断するように土塁の構築中に設定され、土塁の構築とともに埋められていた。5次と62次調査ではこの設置坑(5次SX051)から須恵器坏Ⅳ型式(奈文研坏H)に少量のⅤ型式の坏身(奈文研坏G)と短脚の高坏が一定量出土している。」202頁

 更に「第2表 遺跡出土遺物表」(213頁)中の「水城跡」「5次」「SX050,051」欄の坏Hと坏Gに「○」印があり、同木樋遺構から須恵器坏HとGが出土していることを指示しています。しかし、土器の図面(Fig156)には坏Gが見当たらないので、わたしは困惑しました。しかし、太宰府市教育委員会の考古学者である山村さんが、「設置坑(5次SX051)から須恵器坏Ⅳ型式(奈文研坏H)に少量のⅤ型式の坏身(奈文研坏G)と短脚の高坏が一定量出土している。」と明記していることから、少量の坏Gが伴出していることを疑えません。従って、図面(Fig156)に掲載された14点以外にも須恵器が出土していたと考えざるを得ません。更に、「短脚の高坏が一定量出土」という表記からも、図面(Fig156)に掲載されている2点以外にも「一定量」の高坏が出土したことがうかがえます。
 このことから、水城堤体内(木樋遺構SX051)から出土した須恵器の全てが報告書に掲載されているわけではないことに気づいたのです。ですから、正確な土器セリエーションを確立するためには、報告書に掲載されていない全ての出土須恵器のデータが必要となるわけです。(つづく)

(注)
①『水城跡 下巻』192頁Fig156に掲載されたSX050 SX051 SX135の土器(須恵器坏H、坏G、他)。
②山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。


第2693話 2022/03/03

古田先生の土器編年試案(セリエーション) (3)

 山村信榮さんが「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」で説明されたように、確実な須恵器セリエーション分類のためには出土土器のサンプル数が重要です。この分類方法そのものはそれほど難解ではないのですが、文献史学の研究者には困難な課題が少なくありません。わたしの経験だけでも次のようなハードルがあり、未だに解決できていない問題もあります。

(a) 遺跡調査報告書の刊行が遅れることがあり、考古学関係者は知っている最新データが未発表のケースがある。
(b) 出土土器の破片が小さい場合、型式が判断できないケースが発生する。その数が多量だと、セリエーションの不確定要素が増し、編年誤差が拡大する。
(c) 遺跡調査報告書に掲載された出土土器の写真や断面図が、出土した土器の全てとは限らないケースがある。土器やその破片が大量に出土した場合は尚更で、報告書に全てが収録されることは期待できない。
(d) 出土土器型式に地域差や定義の違いがあり、飛鳥編年による型式(須恵器杯H・G・B)と対応が一見して困難なケースがある。その地域差を理解していないと型式の分類を間違ってしまうことがある。

 上記の(a)(b)については説明は不要と思いますので、(c)(d)の具体例を紹介します。(つづく)


第2692話 2022/03/02

古田先生の土器編年試案(セリエーション) (2)

 太宰府関連遺構の全体的な編年を論じた山村信榮さんの「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」(注①)にセリエーションという考古学の専門用語が用いられており、とても興味深い内容でした。出土土器のセリエーションという現象の比較による詳細な太宰府遺構の相対編年がなされており、その説得力を高める工夫がなされています。この山村論文では従来の編年について次のように指摘しています。

 「大宰府の成立を概観する際に重要な時間軸についても解決すべき課題がある。九州における大宰府成立期に係わる考古学的な時間軸は、遺跡から出土する頻度の高い須恵器が用いられてきた。(中略)しかし、型式と期の設定を同一化し、設定した土器型式を、重箱を重ねる方式で時間軸をたてる方式には問題点があり、研究史や新たな編年案についてかつて考察したことがある。また、実年代に関わる諸問題についても指摘した。」199頁

 こうした従来の相対編年方法に替えて、次のようなセリエーションの概念を導入した編年方法を明示しています。

 「本稿においては九州編年における『期』として括られた遺物の一群から一つの典型的な型式を抽出し、型式間には時間の流れに従った量的増減がありながらの共伴を認め、新しい型式の出現をもって期を区切る考え方で時間軸を立てる。」200頁

 そして、六~七世紀の須恵器杯H・G・Bのセリエーション(共伴状況)とその時間帯(フェイズ)を具体的に説明され、各遺構の編年を設定しています。同時にこの編年作業の難しさや限定条件についても触れています。

 「(前略)一つの遺構が存在した厳密な時期を知るためには埋没した環境が知られることや、一定量の同器種複数系統の土器が出土する必要がある。現実的には本論で取り扱う官衙や古代山城の特定の一つの遺構や層から多量の土器が出土するのは稀で、少量の土器が示す時期には不確実性がある。しかし、同じ遺跡が継続して使用され、土壌の堆積や遺構の切りあいが繰り返される場合、少量の土器の出土であっても一定の時間的変遷の傾向は遺物群の前後関係から見て取れる場合が少なくない。遺構が巨大である場合は各地点で出土した少量の遺物が同一性を示すのであれば、一定の幅で遺構の存在した時期を知ることはできる。」200頁

 山村さんはこのように土器のセリエーションによる遺構・層位の存在時期の幅(フェイズ)の判断の可能性について述べられており、いずれも重要な視点が含まれています。具体的には次の視点です。

(1) 少量の土器が示す時期には不確実性がある(注②)。
(2) 同じ遺跡が継続して使用され、土壌の堆積や遺構の切りあいが繰り返される場合、少量の土器の出土でも一定の時間的変遷の傾向は見て取れる場合が少なくない。
(3) 遺構が巨大である場合は各地点で出土した少量の遺物が同一性を示すのであれば、一定の幅で遺構の時期を知ることはできる。

 (2)(3)の視点は、巨大遺構である大野城や水城の編年に活かされており、山村さんは出土須恵器セリエーションに基づいて、両遺構の造営時期などについて、「現状では大野城の築造開始期は『日本書紀』の記述に沿う形で理解しておく。ともあれ、出土した須恵器の土器相が水城と整合的であることを指摘しておきたい。」(203頁)としています。すなわち、両遺構の須恵器セリエーションによる相対編年と暦年とのリンクに『日本書紀』の記事(注③)が採用されていることから、大野城と水城の築造開始時期を七世紀第3四半期と〝現状では理解〟されているようです。
 ちなみに、わたしは水城の完成時期を考古学エビデンスによれば七世紀中葉頃(『日本書紀』天智三年(664)水城築造記事の年代を含む。注④)、大野城はその規模の巨大さから完成は七世紀中葉(注⑤)で、築造開始は七世紀前半まで遡ると考えた方がよいと思っています。(つづく)

(注)
①山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。
②服部静尚「孝徳・斉明・天智期の飛鳥における考古学的空白」、古田史学の会・関西例会、2022年2月。同発表の質疑応答で、セリエーションによる相対編年を行う際の、母集団として必要な出土土器サンプル数についての筆者からの質問に対して、25点との返答がなされた。同研究は古田学派による初めての本格的な須恵器セリエーションの採用であり、注目される。
③『日本書紀』によれば水城の築造記事が天智三年(664)条、大野城の築城記事が天智四年(665)八月条見える。
④古賀達也『洛中洛外日記』2620話(2021/11/24)〝水城築造年代の考古学エビデンス(3)〟において、次のように述べた。同要旨を転載する。
〝水城築造年代のエビデンスとできるのは、堤体内から出土した土器です。堤体内からの出土土器は少数ですが、水城の基底部に埋設した木樋の抜き取り跡から須恵器杯Gが出土しています。他方、水城の上や周囲から出土した主流須恵器が杯Bであることを併せ考えると、水城の築造年代は杯Gが発生した7世紀中葉以降かつ杯B発生よりも前ということができます。具体的年代を推定すれば640~660年頃となり、「7世紀中葉頃」という表現が良い。〟
⑤大野城大宰府口城門から出土したコウヤマキ柱根最外層の年輪年代測定が648年とされており、大野城築造が650年頃まで遡る可能性がある。

 

【写真】大宰府政庁出土土器編年図(参考図です)


第2691話 2022/03/01

古田先生の土器編年試案(セリエーション) (1)

 太宰府関連遺構の造営年代の研究のため、七世紀の須恵器編年の報告書や論文を読んできました。その中で全体的な編年を論じた山村信榮さんの「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」(注①)に興味深い言葉が用いられていました。それはセリエーションとという考古学の専門用語です。web上の論稿(注②)では次のように説明されています。

 「セリエーションとは、何だろうか?代表的には、以下のような説明がなされている。
 身辺の流行現象を見ればわかるように、モノは突如出現するわけでもないし、それ以前からあった同種のモノに直ちに置き代わるわけでもない。新しいモノは次第にあるいは急速に台頭し、それに合わせて、古いモノは次第に姿を消す。こうしたモノの変遷を視覚的・数量的に示す手法がセリエーションである。アメリカ考古学で開発されたこの方法(後略)」(上原真人 2009 「セリエーションとは何か」『考古学 -その方法と現状-』放送大学教材:129.)

 従来の考古学の土器編年では、ある遺構や層位から出土した主要土器、あるいは最も新しい土器の編年をその遺構・層位の年代とすることが通例でした。しかし、実際は複数の年代の土器が混在しているので、その混在率を数値化して相対編年するという考え方は実に合理的な方法です。
 こうしたセリエーションという考え方や編年方法を、表現は違いますが古田先生は30年ほど前から主張されていました(注③)。そのことを古田先生からお聞きしたのは、わたしの記憶では佐賀県吉野ヶ里から弥生時代の環濠集落が発見されて話題になっていた頃だったと思います。このセリエーションという概念はとても重要ですから、わたしも前期難波宮に関する論稿(注④)で触れたことがあります。(つづく)

(注)
①山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。
②「第2考古学」セリエーション[総論] https://2nd-archaeology.blog.ss-blog.jp/
③古賀達也「洛中洛外日記【号外】」(2017/04/08)〝古田先生の土器編年の方法〟
【以下、転載】
 近年、わたしは考古学土器編年について勉強を進めてきました。その結果、土器の相対編年は研究者によってずれが見られるものの、比較的信頼できるのではないかと考えるようになりました。従来、古田学派の研究者は土器の相対編年は近畿を古く見て、筑紫は新しくする傾向にあり、信頼できないとする見解が多数だったのです。時には100年以上のずれが発生しているとする見解さえありました。わたし自身も永くそのように捉えてきました。
 しかし、考古学者も一元史観に基づいているとはいえ、それなりの出土事実に基づいて編年されているのですから、彼らがどのような論理性により土器の相対編年や暦年とのリンクを組み立てているのだろうかと、先入観を排して発掘調査報告書を見てきたのですが、特に大阪歴博の考古学者による難波編年がかなり正確で、文献史学との整合性もかなりとれていることがわかったのです。
 そして近年は筑紫の土器編年について考古学者の論稿を精査してきたのですが、これもまたそれほど不自然ではないことがわかりました。現時点でのわたしの理解では、北部九州では20~30年ほどのずれをがあるのではないかと考えていますが、土器の1様式の流行期間が従来の25年ほどとする理解よりも長いとする見解が出されていることもあって、編年観そのものは比較的正確ではないかと感じています。
 わたしは土器の相対編年の方法について、20年以上前に古田先生から次のようなお話をうかがったことがあります。それは、遺構から複数の様式の土器が出土したとき、その中の最も新しい土器の年代をその遺構の年代としてきた当時の編年方法に対して、複数の様式の土器が出土した場合は各様式の土器の割合で遺構ごとの相対編年を比較すべきという考え方でした。自然科学の「正規分布」の考え方を土器の相対編年においても援用する考え方で、現在の考古学ではこの考えが受け入れられています。古田先生の先見性を示す事例といえます。
 わたしはこうした古田先生の先進的な土器相対編年の考え方を知っていましたので、ある遺構から新しい様式の土器が少数出現したからといって、その新しい様式が流行した年代をその遺構の年代とするのは学問的には誤りと考えていました。ですから、前期難波宮九州王朝副都説への批判として、その整地層から極めて少数の須恵器坏Bが出土することを理由に、前期難波宮造営年代を須恵器坏Bが流行した天武期とする論者があったのですが、その学問の方法は誤りであると反論してきました。
 考えてもみてください。ある土器様式が発生したとたん、それまでの土器様式が無くなって新様式の土器だけが出土することなど絶対にありえません。土器様式の変遷というものは、発生段階は少数でそれ以前の土器に混ざって出土し、流行に伴って多数を占め、その後は新たに発生した新新様式の土器と共存しながら、やがては出土しなくなるという変遷をたどるものです。これは自然科学では極めて常識的な考え方(正規分布)です。近年ではこの考え方をとる考古学者が増えているようで、ようやく古田先生の見解が考古学界でも常識となったようです。
【転載おわり】
 ここでは、前期難波宮の整地層から極めて少数の須恵器坏Bが出土したと書いたが、後にそれは不正確な情報に基づいていたことに気づいた。現在では前期難波宮整地層からは須恵器杯Bは出土していないと理解している。次の拙論を参照されたい。
 古賀達也「前期難波宮『天武朝造営』説の虚構」―整地層出土「坏B」の真相―」『古田史学会報』151号、2019年4月。
「続・前期難波宮の学習」『古田史学会報』114号、2013年2月。