第3318話 2024/07/05

読んでおきたい、古田武彦「風土記」論

 『古代に真実を求めて』28集の特集テーマ「風土記・地誌の九州王朝」の企画構成案を練っています。ある程度まとまれば、編集会議を招集して提案し、編集部員のご意見や企画案も聞かせていただく予定です。

 自らの投稿原稿についても執筆準備をしています。それに先だち、古田先生の「風土記」関連論文の読み直しも進めています。古田「風土記」論を久しぶりに集中して勉強していますが、その代表的関連論文を紹介します。特集論文の投稿を予定されている方にも読んでおいていただきたいものばかりです。なぜか、古田先生にしては『風土記』関連論文は比較的少なく、読破はそれほど難しくはありません。以下、そのジャンル分けを示します。

 まず、風土記全般の重要テーマである、「県(あがた)」風土記と「郡(こおり)」風土記について論じたものが、❶❷❺❿⓫です。「県」風土記が九州地方に遺っていることから、九州王朝風土記(筑紫風土記)の存在という古田「風土記」論にとって不可欠の研究分野です。

 『常陸国風土記』に関わって論じたものが、❸。『出雲国風土記』に関わって論じたものが、❸❻❼❽⓬⓭。『播磨国風土記』に関わって論じたものが、⓮。 「筑後国風土記逸文」と卑弥呼について論じたものが、❹❾です。いずれも懐かしいものばかりです。

 《古田武彦「風土記」論 主要論文一覧》
「九州王朝の風土記」『市民の古代』第4集、新泉社、昭和57年(1982)。
「九州王朝にも風土記があった」『よみがえる九州王朝』角川選書、昭和58年(1983)。
❸「日本列島各地の神話」『古代は輝いていたⅠ――『風土記』にいた卑弥呼』朝日新聞社、昭和59年(1984)。
❹「卑弥呼論」『古代は輝いていたⅠ――『風土記』にいた卑弥呼』朝日新聞社、昭和59年(1984)。
❺「二つの『風土記』」『古代は輝いていたⅢ――』朝日新聞社、昭和60年(1985)。
「国造制の史料批判――出雲風土記における「国造と朝廷」」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、昭和62年(1987)。
❼「部民制の史料批判――出雲風土記を中心として」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、昭和62年(1987)。
❽「続・部民制の史料批判――「部」の始原と発展」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、昭和62年(1987)。
「卑弥呼の比定――「甕依姫」説の新展開」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、昭和62年(1987)。
❿「九州王朝の短里――東方の証言」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、昭和62年(1987)。
⓫「二つの風土記と二つの里程」『倭人伝を徹底して読む』大阪出版、昭和62年(1987)。
⓬「出雲風土記の中の古代公害病」『古代は沈黙せず』駸々堂、昭和63年(1988)。
「縄文文明を証明する「国引神話」」『吉野ヶ里の秘密』光文社、平成1年(1989)。
「播磨風土記」『市民の古代』第12集、新泉社、平成2年(1990)。

 この他にも、古田先生の重要論文があるかもしれません。ご教示いただければ幸いです。また、古田学派研究者による重要論文もあり、別の機会に紹介します。


第3317話 2024/07/03

『古代に真実を求めて』

     28集の特集テーマ

 「古田史学の会」の会員論集『古代に真実を求めて』28集の特集テーマは「風土記・地誌の九州王朝」です。風土記や地誌を研究対象として、そこに遺された九州王朝や多元史観の痕跡を論じ、論文やフォーラム・コラムとして投稿してください。地誌の場合、その成立が中近世であっても、内容が古代を対象としており、適切な史料批判(古代の真実を反映していることの証明)を経ていれば、古代史研究のエビデンスとして採用できます。

 具体的には、現存する五つの風土記(常陸国・播磨国・出雲国・肥前国・豊後国)と風土記逸文が研究の対象になります。地誌は各地にあり、成立時期や史料性格(公的か私的か。編纂目的)が異なりますから、採用にあたっては当該史料の性格や概要の説明が必要です。これは読者に対しても必要な配慮ですので、ご留意下さい。この点、現存五風土記の場合は著名ですし、学界で古代史料として認められていますから、出典の明示があれば問題はないでしょう。

 ご参考までに、閲覧・入手が比較的可能で著名な九州地方の地誌を管見の範囲で紹介します。会員の皆さんからの、後世に残すべき優れた多元史観の論文、読んで勉強になり、かつ面白い投稿をお待ちしています。

○『太宰管内志』伊藤常足、天保12年(1841)〈歴史図書社、昭和44年(1969)〉
○『筑前国続風土記』貝原益軒、宝永6年(1709)〈文献出版、昭和63年(1988)〉
○『筑前国続風土記付録』加藤一純・鷹取周成、寛政11年(1799)〈文献出版、昭和52年(1977)〉
○『筑前国続風土記拾遺』青柳種信、文化11年(1814)〈文献出版、平成5年(1993)〉
○『筑後志』杉山正仲・小川正格、安永6年(1777)〈久留米郷土研究会編、昭和49年(1974)〉
○『肥前旧事』南里有隣編著・糸山貞幹増訂、江戸後期〈『肥前叢書 第一輯』肥前史談会編、青潮社、昭和48年(1973)〉
○『肥前古跡縁起』大木英鉄、寛文5年(1665)〈『肥前叢書 第一輯』肥前史談会編、青潮社、昭和48年(1973)〉
○『肥後国誌』森本一瑞、明和9年(1772)〈青潮社、昭和46年(1971)〉
○『豊前志』渡辺重春、文久3年(1863)〈雄山閣、昭和46年(1971)〉
○『豊後国誌』唐橋君山・田能村竹田・伊藤猛、享和3年(1803)〈文献出版、昭和50年(1975)〉
○『三国名勝図会』天保14年(1843)〈青潮社、昭和57年(1982)〉※日向・大隅・薩摩の地誌。


第3316話 2024/07/02

『古代に真実を求めて』28集

        の投稿募集要項

 「古田史学の会」の会員論集『古代に真実を求めて』28集の投稿締め切り日は本年9月30日です。特集テーマは「風土記・地誌の九州王朝」です。下記の規定に従ってご投稿ください。

①特集論文・一般論文(一万五千字以内)、フォーラム(随筆・紀行文など。五千字以内)、コラム(解説小文。二千字程度)を募集します。
論文は新規の研究であること。他誌掲載論文、二重投稿、これに類するものは採用しません。それとは別に、編集部の判断に基づき、他誌掲載稿を転載することがあります。
②採用稿を本会ホームページに掲載することがありますので、ご承諾の上、投稿してください。
③28集の特集テーマは「風土記・地誌の九州王朝」です。古田史学・多元史観の継承発展に寄与できる論文をご投稿ください。
④投稿は一人四編までとします〔編集部からの依頼原稿を除く〕。
⑤投稿締め切り 令和六年(二〇二四)九月末
⑥原稿はワード、またはテキストファイル形式で提出して下さい。ワードの特殊機能(ルビ、段落自動設定など)は使用しないで下さい。ルビは()内に付記してください〔例 古田史学(ふるたしがく)〕。

 掲載する写真や表は、文書ファイルとは別に写真ファイル・エクセルファイルとして提出して下さい(ワード掲載写真は画像が不鮮明になるため)。その際、写真・表の掲載位置を原稿中に指示してください。
⑦投稿先 古賀達也まで。詳しくは27集末尾の投稿要項をご覧下さい。

 以下は採用審査における基本視点と執筆上の諸注意です。ご留意下さい。

Ⅰ.審査時の視点
(1) 「新規性」と「進歩性」
この二点が無ければ不採用となります。

(2) エビデンスの明示、エビデンスに対する解釈の合理性と普遍性
提示したエビデンス(史料事実や出土事実)が間違っていたり、不適切な論稿は審査以前の問題で、失格です。解釈の当否は重要な審査対象となります。ここで新説としての優劣を判断します。

(3) 先行説(特に古田説)の紹介と自説との比較説明
古田史学支持者が主たる読者である「古田史学論集」への投稿ですから、古田説と異なる新説については、古田説の正確な引用・紹介と丁寧な説明が要請されます。

(4) 話題性、面白さ、わかりやすさ、字数・文章の簡潔性
これらは読者への配慮であり、出版事業としても不可欠の視点です。

Ⅱ.論文の構成と様式

(1) 冒頭に要旨と結論を略記してください。学術論文は推理小説ではありませんから、読み進めなければ結論がわからないような構成は不適切です。短文の場合はこの限りではありません。

(2) 引用・参照文献の紹介と後注の書式について。
書式例) 著者名「論文名」『文献名』発行社、発行年次(西暦、必要であれば年号を併記)。
例) 古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、一九七一年。ミネルヴァ書房より復刻。
例) 中島恒次郞「日本古代の大宰府管内における食器生産」『大宰府の研究』高志書院、二〇一八年。

(3) 縦書きを前提として、漢数字と英数字を使い分けてください。難字にはルビをふってください。


第3315話 2024/07/01

予期せぬ成果、

     公開講座聴講者に異変あり

 二十数年ぶりの同窓会(久留米高専化学科11期・昭和51年卒)と久留米大学公開講座での講演を盛会に終えることができました。昨晩からの大雨で、JR在来線がだだ遅れなので、久留米駅から九州新幹線みずほで新大阪まで向かっています。みずほは車両がグリーン車と同じ4列シートですからお得感があります。また、内装やシートの造りも高級感にあふれ、とても気に入っています。

 二十年ほど前に、仕事でJR九州の車両内装の製品開発を行ったことがありますが、JR九州の専属デザイナーは色やデザイン、素材にこだわる芸術家で、少々、コストがかかっても優れたものを使いたいという人物でした。ですから、わたしも初めて手がける素材(採用されていれば、恐らく車両用途としては世界初)でしたので、試行錯誤しながら開発を進めたことを覚えています(守秘義務があり、これ以上は申せませんが)。そうした経験もあって、わたしは九州新幹線やJR九州のファンです。

 昨日の公開講座のあと、久留米大学の福山教授や長崎市から参加さている聴講者の中村秀美さん(古田史学の会・会員)、菊池さん(久留米市)と夕食をご一緒させて頂きました。中村さん・菊池さんには和田家文書研究でもご協力いただいており、中村さんには長崎出島オランダ語通詞の調査もしていただきました(注①)。夕食会では、気になっていたことを福山先生にたずねました。

 「今日の講演会の参加者は若者が多く、見たところ四人に一人は40代以下のようでした。なかには20代の女性もいました。これは今までにはなかったことと思いますが、募集方法でも変わったのでしょうか。」

 「わたしも始めて見る方が少なくありませんでした。今回の受講者70名強の内、初めての参加者が40名もあり、驚いています。コロナあけということもあり、古くからのリピーターは減少していますが、初参加者が急増した理由はわかりません。」

 「どこでこの講座のことを知ったのかなどの調査はされていませんか。」

 「次週の正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の講演時にアンケート調査を予定しています。」

 「是非、その調査結果を教えて下さい。若い人々に古田史学・古田説を伝えるにはどのようなアプローチが効果的なのか、そうしたニーズはどこにどの程度存在するのか、わたしたちも苦慮しています。今回のような〝予期せぬ成果〟の出現は、マーケティングでも顧客クレームと同様に重視すべきこととされています。よろしくお願いします。」

 このような会話を交わしました。おそらく、わたしたちが気づかないところで、日本人の意識や社会構造に変化が起こっているはずです。そのことに誰よりも早く気づき、まだ誰もやったことのない新たなムーブメントやサービスを提供した者だけが時代(業界)の先駆者となり、その中の誰かが勝者になるはずてす。帰宅したら、ドラッカーの『非営利組織の経営』(注②)を読み直し、改めて勉強しなおしたいと思います。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3068~3071話(2023/07/14~17)〝秋田孝季の父、橘左近の痕跡調査(1)~(2)〟
②P.F.ドラッカー『非営利組織の経営』ドラッカー名著集4、ダイヤモンド社、2007年。


第3314話 2024/06/29

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (5)

 今日は博多に向かう新幹線車中で「洛中洛外日記」を書いています。二十数年ぶりに開催される久留米高専化学科11期(昭和51年卒)の同窓会に参加することと、明日、久留米大学公開講座で講演するため(注①)、帰郷します。わたしが久留米大学講演のために帰郷することを知った旧友が、地元の同窓生に呼びかけて、博多で同窓会を開催することになりました。聞けば、全国各地に散らばった同窓生も幾人か出席するようで、ありがたいことです。

 織田信長と摂津石山本願寺との合戦布陣図『石山古城図』(注②)に見える、長柄地域の天満山に置かれた「織田信長本陣」の文字にわたしは注目しました。織田軍の本陣が置かれた地ですから、周囲を見渡すことができる高台であり、川を距てた南の上町台地にある摂津石山本願寺を展望でき、かつ、距離も遠からず、近からずという地勢的に絶妙な場所であったことがうかがえます。そこで、天満山があったと思われる位置を現代の地図と比較したところ、大阪天満宮が鎮座している所のようです。大阪を代表する神社の一つであり、それに相応しい選地がなされたものと思われますから、織田軍本陣が置かれた地と考えてよいでしょう。
そこで、大阪天満宮のホームページを調べたところ、もともと当地には孝徳天皇の難波長柄豊碕宮を守護するため、白雉元年(650)に大将軍社が創建され、平安時代には菅原道真が大宰府下向の途中、当神社に参詣したと伝わっています(注③)。

 この伝承で注目されるのが、白雉元年に大将軍社が創建されたという部分です。白雉元年とありますから、本来は九州年号の白雉元年(652年)のときと思われ、前期難波宮の創建時に、〝北の守り〟として、「大将軍」と呼ばれた有力者がこの地(難波長柄)に居館を構えたものと思われます。すなわち、九州王朝の〝東の都〟難波京(前期難波宮)北方の防衛を命じられた九州王朝(倭国)の配下の「大将軍」の居館が天満山に造営され、後に大将軍社として祀られたのではないでしょうか。従って、この難波長柄の「大将軍」の居館こそ、今の大阪天満宮の地にあった、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮ではないでしょうか。

 しかしながらこの仮説には、当地が「天満山」と呼ばれるに相応しい高台なのか今のところ不明ですし、また、現在の「豊崎」地名の場所とは異なるという弱点があります。梅雨があけたら現地調査します。(つづく)

(注)
①久留米大学公開講座2024年。【九州の古代史 ―九州王朝論を中心に】
□6月30日(日) 古賀達也 九州王朝の天子と臣下の天皇たち ―「天皇」号と「天皇」地名の変遷―
□7月7日(日) 正木裕 氏 王朝交代と隼人
□会場 久留米大学御井キャンパス
②『石山古城図』国会図書館蔵。江戸期成立の絵図と思われる。
③大阪天満宮のHPには次のように説明されている。
https://osakatemmangu.or.jp/about
大阪天満宮の創始(御鎮座)
奈良時代 白雉元年(650年)孝徳天皇様が難波長柄豊崎宮をお造りになりました頃、都の西北を守る神として大将軍社という神社をこの地にお祀りされました。以来この地を大将軍の森と称し、又後には天神の森ともいわれ、現在も南森町北森町としてその名を残しております。

 平安時代延喜元年(901年)当宮の御祭神である菅原道真公は太宰府へ向かう途中この大将軍社をお参りになり旅の無事を御祈願なされました。その後道真公は、太宰府において、お亡くなりになり、その50年あまり後の天暦三年(949年)この大将軍社の前に一夜にして七本の松が生え、夜毎にその梢を光らせたと申します。

 これをお聞きになりました村上天皇様は、勅命によって、ここにお社をお建てになり、道真公のお御霊を厚くお祀りされました。以来、一千有余年、氏子大阪市民はもとより広く全国より崇敬を集めています。

 大将軍社

 菅公が大宰府に向かう前に参拝したという大将軍社は、境内の西北に鎮座しています。天満宮の御鎮座よりも約300年遡った650年に創建されています。大将軍社があった場所に、大阪天満宮が創建されたことになります。
現在では、摂社として祀られており、大阪天満宮では元日の歳旦祭の前に、大将軍社にて「拂暁祭(ふつぎょうさい)」というお祭りを行い、神事の中で「租(そ)」と言ういわゆる借地料をお納めする習わしになっております。


第3313話 2024/06/28

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (4)

 古代から近世の諸史料に記された「長柄」地名の場所が大阪市北区長柄の地と考えられることから、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮がその付近にあったとするのは、同じ地名を持つ候補地が他にないことから、最も有力な推論(作業仮説)と思われます。そうであれば、難波(大領域)のなかの長柄(中領域)のなかの豊碕(小領域)にあったと考え、その位置をさらに絞り込んでみました。

 この考えに基づけば、現・豊崎神社付近が有力候補になるのですが、地勢的には洪水の影響を受けやすい旧・中津川寄りであることと、神社境内の発掘調査(注①)でも七世紀の遺跡は未検出であり、判断しかねてきました。そうした状況が10年ほど続いていたところ、この度、赤尾恭司さん(多元的古代研究会・幹事)からある史料をご紹介頂きました。織田信長と摂津石山本願寺との合戦の布陣絵図『石山古城図』(注②)です。

 同古城図の元になったと思われる古地図には、それを偽造とする喜田貞吉氏の批判(注③)があります。たとえば上町台地を東西に横断する複数の河川などは存在が疑われており、全体の構図には不審点があります。しかし、記された地名は江戸期の認識を反映したものと思われ、「南長柄」「本庄豊﨑」「長柄川」「中津川」などの名称は作成当時に存在していたとしてもよいように思われます。

 そうした視点で長柄地域を精査すると、「天満山」に「織田信長本陣」がおかれていることに気づきました。敵対する石山本願寺の北側に、川を距てて織田軍の本陣が置かれていることから、「天満山」は地勢的に本陣を置くにふさわしい場所だったと思われます。そうであれば、同様の理由から、その地は難波長柄豊碕宮の有力な候補地と考えてもよいのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①伊藤純「豊崎神社境内出土の土器」『葦火』26号、大阪市文化財協会、1990年。
古賀達也「洛中洛外日記」561話(2013/05/25)〝豊崎神社境内出土の土器〟
②『石山古城図』国会図書館蔵。江戸期成立の絵図と思われる。
③喜田貞吉「難波の京」『摂津郷土史論』日本歴史地理学会編、1927年(昭和二年)。


第3312話 2024/06/27

関川尚巧(元橿原考古学研究所)さん

           との考古談義

 一昨日、奈良市で関川尚巧(せきかわ ひさよし)さんと長時間考古学・古代史談義をしました。関川さんは元橿原考古学研究所の考古学者で、学生時代から40年近く大和・飛鳥を発掘されてきた方です。今でも、発掘の現地指導をしているそうです。そうした永年の経験に基づいた〝大和に邪馬台国はなかった〟とする『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』(注①)の著者でもあります。「古田史学の会」でも講演していただきました。

 今回の面談では、「多元的古代研究会」「古田史学の会」創立30周年記念東京講演会(日程・会場は未定)での講演依頼とその打ち合わせを行いました。「古田史学の会」からは正木事務局長・竹村事務局次長・上田事務局員とわたしが出席し、打ち合わせ後は三時間にわたり考古学や古代史について歓談が続きました。

 関川さんの遺跡発掘体験談の数々をお聞きしましたが、なかでも太安萬侶墓発掘時(注②)のエピソードはとても興味深いものでした。同墓は茶畑開墾中に発見されたとのことで、そのとき墓誌が移動したため、墓誌本来の位置が不明だったのですが、墓誌の破片の一部が本来の場所に残っていることを関川さんが発見され、その破片の場所が本来の墓誌の位置であることを確定できたとのことでした。この他にも、飛鳥や奈良県から出土した多くの有名な遺跡発掘調査に関川さんが携わられていることをうかがうことができました。

 ちなみに、「邪馬台国」畿内説は全く成立せず、北部九州であるという点は、わたしたちと完全に意見が一致したことは言うまでもありません。氏の考古学に対する情熱や真摯な学問精神は共感するところ大でした。関東の皆さんにも関川さんの講演を聴いて頂きたいと願っています。

(注)
①関川尚巧『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②1979年(昭和54年)、奈良県奈良市此瀬町の茶畑から安万侶の墓が発見され、火葬された骨や真珠が納められた木櫃と墓誌が出土した。


第3311話 2024/06/26

『倭国から日本国へ』出版記念

    東京講演会(7/28)のご案内

 本年4月に明石書店から出版された『倭国から日本国へ』(『古代に真実を求めて』27集、古田史学の会編)の出版記念東京講演会を開催します。同書は、倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への王朝交代を特集したもので、様々な視点による古田学派研究者の論稿を収録しました。

 奈良や大阪での出版記念講演会に続き、7月28日(日)に東京の文京区民センターで下記の通り、開催します。会場では同書の特価販売も行います。多くの皆様の参加をお待ちしています。講師は正木裕さん(古田史学の会・事務局長)とわたしです。関東の皆様にもお聞き頂ければ幸いです。

『倭国から日本国へ』出版記念
東京講演会のご案内
■日時 2024年7月28日(日) 13:30開会 16:30終了
■会場 文京区民センター 2A会議室 (文京区本郷4-15-14)
■演題・講師
多元的「天皇」号の成立
―九州王朝の天子と諸国の天皇たち― 古賀達也
「王朝交代」と二人の女王
―武則天と持統― 正木 裕
■参加費 1,000円
■主催 古田史学の会
■協力 東京古田会・多元的古代研究会

『倭国から日本国へ』目次
【巻頭言】
三十年の逡巡を越えて 古田史学の会 代表 古賀達也
【特集】倭国から日本国へ
「王朝交代」と消された和銅五年(七一二)の「九州王朝討伐戦」 正木 裕
王朝交代期の九州年号 ―「大化」「大長」の原型論― 古賀達也
難波宮は天武時代「唐の都督薩夜麻」の宮だった 正木 裕
飛鳥「京」と出土木簡の齟齬 ―戦後実証史学と九州王朝説― 古賀達也
『続日本紀』に見える王朝交代の影 服部静尚
「不改常典」の真意をめぐって ―王朝交代を指示する天智天皇の遺言だったか― 茂山憲史
「王朝交代」と二人の女王 ―武則天と持統― 正木 裕
「王朝交代」と「隼人」 ―隼人は千年王朝の主だった― 正木 裕
倭国から日本国への「国号変更」解説記事の再検討 ―新・旧『唐書』における倭と日本の併合関係の逆転をめぐって― 谷本 茂
《コラム》「百済人祢軍墓碑銘」に〝日本〟国号はなかった! 谷本 茂
【一般論文】
『隋書』の「俀国」と「倭国」は、別の存在なのか 野田利朗
『隋書』の「倭国」と「俀国」の正体 日野智貴
倭と俀の史料批判 ―『隋書』の倭國と俀國の区別と解釈をめぐって― 谷本 茂
多元的「天皇」号の成立 ―『大安寺伽藍縁起』の仲天皇と袁智天皇― 古賀達也
法隆寺薬師仏光背銘の史料批判 ―頼衍宏氏の純漢文説を承けて― 日野智貴
伊吉連博徳書の捉え方について 満田正賢
『斉明紀』の「遣唐使」についてのいくつかの疑問について 阿部周一
俾彌呼の鏡 ―北九州を中心に分布する「尚方作鏡」が下賜された― 服部静尚
【フォーラム】
海幸山幸説話 ―倭国にあった二つの王家― 服部静尚
豊臣家の滅亡から九州王朝の滅亡を考える 岡下英男
【付録】
古田史学の会・会則
古田史学の会・全国世話人名簿
編集後記


第3310話 2024/06/25

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (3)

 九世紀の大阪(摂津国)に「長柄(ながら)」地名があったことを示す『日本後記』『日本文徳天皇實録』の記事よりも更にはやい、八世紀の史料『住吉大社神代記』があることを谷本茂さん(『古代に真実を求めて』編集部)から教えて頂きました。『住吉大社神代記』は、わたしも三十年前に研究したことがあり、当時の資料ファイルを書架から引っ張り出しました。わたしが持っている「校訂住吉大社神代記」(注)コピーには、「長柄」地名が記されている部分に傍線を引いていましたので、わたしも注目していたようです。当該部分を引用します。

 「長柄神」〔長柄の神〕
「難波長柄泊賜。膽駒山嶺登座時。」〔難波の長柄に泊り賜ふ。膽駒山の嶺に登り座す時。〕
「自長柄泊登於膽駒峯賜」〔長柄の泊(とまり)より膽駒の嶺に登り賜ひて〕
「長柄船瀬本記
四至(東限高瀬。大庭。南限大江。西限鞆淵。北限川岸。
右。船瀬泊~」〔長柄船瀬の本記 四至(東を限る、高瀬・大庭。南を限る、大江。西を限る、鞆淵。北を限る、川*岸。 右の船瀬泊は~)〕 ※「*岸」は土偏に岸。
「自筑紫難波長柄 仁 依坐 弖」〔筑紫より難波の長柄に依り坐して〕

 『住吉大社神代記』の奥書には「天平三年七月五日」(731年)とあり、この成立年次が正しければ八世紀前半には「長柄」地名があったことになります。しかも、「長柄船瀬本記」に見える長柄船瀬の四至により、長柄船瀬は上町台地の北にあると理解されているようです。脚注に次の説明があります。

○高瀬―和名抄、河内国茨田郡高瀬郷あり。播磨国風土記に「摂津国高瀬之済」とみゆ。行基年譜に「直道一所、高瀬より生馬大山への登道あり」とみえることに注意。
○大庭―河内志、茨田郡に大庭荘・大庭渠あり。
○大江―上町台地の北にそそぐ河内川なるべし。
○鞆淵―摂津志、東生郡に友淵あり。
○川*岸―この川は摂津志西生郡の長柄河(一名中津川)なるべし。

 この脚注が正しければ、長柄船瀬は大阪市北区長柄の地にあったとしてもよいように思いますし、大きくは外れていないのではないでしょうか。(つづく)

(注)田中卓『住吉大社史』上巻「校訂住吉大社神代記」「訓解住吉大社神代記」1963年。


第3309話 2024/06/24

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (2)

 九世紀の大阪(摂津国)に「長柄(ながら)」地名があったことを紹介しました。次の『日本後記』と『日本文徳天皇實録』の記事です。

○『日本後記』嵯峨天皇弘仁三年(812)六月条
「己丑(5日)。遣使造攝津國長柄橋。」
○『日本文徳天皇實録』仁壽三年(853)十月戊辰(11日)条
「攝津國奏言、長柄三國両河、頃年橋梁断絶人馬不通。請准堀江川置二隻舩、以通濟渡。許之。」

 大阪市北区長柄の北側を淀川が流れます。当時はその部分が長柄川と呼ばれていたようで、後に中津川と呼ばれた時代もあったようです。今も北区に中津という地名が残っています。地下鉄御堂筋線に中津駅があり、その東側に孝徳天皇を祀る豊崎神社が鎮座しています。豊崎神社の由来について、戸田繁次氏著『稿本 長柄郷土誌』(注①)に次の記事があることを「洛中洛外日記」(注②)で紹介しました。

 「豊崎神社
豊碕東通四丁目に鎭座。孝徳天皇を主神として相殿に須佐男命を祀る。
由緒に依ると長柄豊碕宮の旧蹟地で宮の廃せられし後、星霜を経るに從ひ荒蕪の地となり、宮跡の一隅は一帯の松林となって世人はこれを八本松と呼んでゐたのを、正歴年間藤原重治、これを開墾するに當り、孝徳天皇故宮の湮滅せんことを畏れ樹林中に小祠を建立して、皇蹟を崇敬追拜し奉ったのに起る。」『稿本 長柄郷土誌』

 正歴年間(990~994年)に、難波長柄豊碕宮旧跡地が湮滅してしまうことを恐れた藤原重治という人物が同地に小祠を建立したことが豊崎神社の始まりと伝えています。

 正暦年間とは、聖武天皇が造営した難波宮(後期難波宮)が廃止された延暦十二年(793年、『類従三代格』三月九日官符)の二百年後です。当時、聖武天皇の難波宮跡地(後期難波宮・上町台地法円坂)が人々から全く忘れ去られていたとは考えにくく、むしろ孝徳天皇の難波長柄豊碕宮と聖武天皇の難波宮は別の場所と考えられていたのではないでしょうか。現在も北区にある「長柄」地名が九世紀以前に遡ることから、その地が難波長柄豊碕宮旧跡地と認識されており、同地に豊崎神社を建立し、孝徳天皇を祭神として祀ったと考えざるを得ません。もし、法円坂に孝徳天皇の難波長柄豊碕宮があったのなら、上町台地に古くから孝徳天皇を祀る神社があってもよいはずですが、寡聞にしてそのような神社を知りません。(つづく)

(注)
①戸田繁次氏著(戸田次郎氏蔵)『稿本 長柄郷土誌』1994年。
http://nora.my.coocan.jp/mac/Saigoku/Nagara/LIB/Nagara/index.html
②古賀達也「洛中洛外日記」268話(2010/06/19)〝難波宮と難波長柄豊碕宮〟


第3308話 2024/06/23

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (1)

 『日本書紀』孝徳紀に記された難波長柄豊碕宮を大阪市北区の長柄豊崎とした喜田貞吉氏の見解は(注①)、『日本書紀』の史料事実と現存地名との対応に基づいており、山根徳太郎氏による難波宮跡発見までは最有力説であったと思われます。しかし、前期難波宮が九州王朝の王宮(難波宮)であれば、その遺跡は孝徳天皇の難波長柄豊碕宮ではありませんから、喜田説に戻って、大阪市北区の豊崎・長柄を有力候補として探索することにしました。

 そこで、まず当地の豊崎や長柄という地名が古代まで遡ることができるのかを調べたところ、次の二史料に「長柄」が見つかりました。

○『日本後記』嵯峨天皇弘仁三年(812)六月条
「己丑(5日)。遣使造攝津國長柄橋。」

○『日本文徳天皇實録』仁壽三年(853)十月戊辰(11日)条
「攝津國奏言、長柄三國両河、頃年橋梁断絶人馬不通。請准堀江川置二隻舩、以通濟渡。許之。」

 両史料は六国史であり、信頼できる記事です。摂津国に長柄川があり、そこに橋を架けたという記事と、その橋が壊れたため、渡し船を置いたという、九世紀前半~中頃の記事です。両記事に見える長柄という川名や橋名から、九世紀初頭頃に長柄地名があったことを疑えません。この長柄川や長柄という地名の存在は、織田信長と摂津石山本願寺との合戦の布陣絵図『石山古城図』(注②)にも記されており、古代から現代まで継続した地名であることがわかります。また、同絵図には「南長柄」の西に「本庄豊崎」という地名も見え、現代の北区豊崎・長柄と位置関係が一致しています。(つづく)

《追補》本稿執筆後、谷本茂さん(『古代に真実を求めて』編集部)より、『石山古城図』なるものは喜田貞吉氏が偽造物と指摘した難波古地図を基にしており、慎重な取り扱いが必要であること、『住吉大社神代記』に「長柄」地名が見えることなどをご教示いただきました。本稿論旨への影響について再考し、続稿に反映させたいと思います。ご教示に感謝いたします。

(注)
①喜田貞吉著『帝都』に次の見解があることを山根徳太郎氏が『難波の宮』で紹介している。

 「孝徳天皇大化の新宮は、実に此難波宮にて行はれた。精しくは難波長柄豊碕ノ宮と申す。今の豊崎村大字南北長柄は、実に其の名を伝へて居るものであろう。此所に始めて支那の長安城に模した新式の都城が経営された。」

②『石山古城図』国会図書館蔵。赤尾恭司氏(多元的古代研究会・幹事)より同絵図を紹介して頂いた。江戸期成立の絵図と思われる。この絵図の元本は大阪市東淀川区の定専坊(じょうせんぼう)所蔵『石山合戦配陣図』と思われる。


第3307話 2024/06/22

難波宮を発見した山根徳太郎氏の苦難 (5)

 『日本書紀』孝徳紀に記された難波長柄豊碕宮を大阪市北区の長柄豊崎とした喜田貞吉氏の見解は、『日本書紀』の史料事実と現存地名との対応という文献史学の論証に基づいており、他方、山根徳太郎氏の上町台地法円坂説は考古学的出土事実により立証されました。なぜ、このように論証と実証の結果が異なったのでしょうか。ここに、近畿天皇家一元史観では解き難い問題の本質と矛盾があるのです。

 結論から言えば、山根氏が発見した前期難波宮は『日本書紀』孝徳紀に書かれた「難波長柄豊碕宮」ではなく、九州王朝の王宮(難波宮)だったのです。その証拠の一つとして、法円坂から出土した聖武天皇の宮殿とされた後期難波宮は、『続日本紀』では一貫して「難波宮」と表記されており、「難波長柄豊碕宮」とはされていません。この史料事実は、法円坂の地は「難波長柄豊碕」という地名ではなかったことを示唆しています。このことについては、わたしが既に論じてきました(注①)。

 そして、この結論が妥当であれば、孝徳天皇の宮殿「難波長柄豊碕宮」は、九州王朝の難波宮(前期難波宮)で執行された賀正礼に参加し、その日の内に帰還が可能な近隣にあったはずです(注②)。その「難波長柄豊碕宮」の最有力候補地こそ、大阪市北区に現存する豊崎町・長柄ではないでしょうか。そうであれば、喜田貞吉氏が論証した長柄豊崎説と山根徳太郎氏が発掘実証した上町台地法円坂説は相並び立つことができるのです。わたしは、孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」が北区の長柄豊崎にあったことを立証してみたいと考えています。(おわり)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」163話(2008/02/24)〝前期難波宮の名称〟
同「洛中洛外日記」175話(2008/05/12)〝再考、難波宮の名称〟
同「洛中洛外日記」1418話(2017/06/09)〝前期難波宮は「難波宮」と呼ばれていた〟
同「洛中洛外日記」1421話(2017/06/13)〝前期難波宮の難波宮説と味経宮説〟
「白雉改元の宮殿 ―「賀正礼」の史料批判―」『古田史学会報』116号、2013年。『古代に真実を求めて』(17集、2014年)に再録。
②『日本書紀』白雉元年(650)と三年(652)の正月条に次の記事が見える。
「白雉元年の春正月の辛丑の朔に、車駕、味経宮に幸して、賀正礼を観る。(中略)是の日に、車駕宮に還りたまふ。」
「三年の春正月の己未の朔に、元日礼おわりて、車駕、大郡宮に幸す。」