和田家文書一覧

第3004話 2023/05/03

「東日流外三郡誌」、新野直吉氏の証言

 今月六日から青森県弘前市を訪れ、三十年ぶりに和田家文書調査を実施します。その事前準備のため、『東日流外三郡誌』をはじめ、関連資料の整理と精査を進めていますが、「東日流外三郡誌」に触れた、秋田大学名誉教授の新野直吉さん(注①)の発言記録を見つけました。それは『安倍・安東氏シンポジウム(記録)』という冊子で、平成元年八月八日に市浦村(青森あすなろホール)で開催されたシンポジウムの記録です(注②)。
そこで、昭和五七年(1982)の山王日吉神社発掘調査の経緯について、新野さんが次のように紹介されています。

〝それでは山王坊をどうして掘ろうとしたかという事でありますが、山王坊の事について『東日流外三郡誌』という、この村の村史の中に活字化された資料がありまして、その中に山王坊の事が出ております。それから山王坊という地名が先ずあるわけですから、山王坊というからには山王さんである事は明らかであり、しかもあそこに山王鳥居がちゃんとあって現実に山王さん―日吉神社―が祀られているわけで、あの地域に昔の山王さんの何らかの遺跡があるのではないか、という事は誰でも考える事ができるわけであります。
最初にあそこを発掘する事を、昭和五十七年に決める前には、実は檜山のある遺跡を発掘しようかという事も考えたのでありますが、そちらの方はある意味でここが○○のお寺の跡であるという事が史跡的に明確になっていました。いつでも掘れば明らかになるというか、どういった寺院の跡であるかは、ほぼ推察がつきました。ところが、山王坊の方は今言ったように神社はある。地名もある。それから市浦の村史の資料の中にも関係した記述がある、という事はあるけれども本当は学問的にはその事を誰も立証した事がないわけであります。そしてまた、わからないわけであります。
現実には豊島先生(注③)はじめ土地の方々はご承知のように、上の方の階段―要するに階(きざはし)―から上の方の部分には、当時既に石組等が露出していましたので、この土地ではここに何らかの遺跡があるんだという事は伝承されていたと考えられます。私はその年初めて現地に入ったわけでありまして、それ以前の状況は全く知りませんでした。唯、豊島先生という強い味方がおられていろいろ教えてもらえたわけです。〟52~53頁

 このように、昭和五七年の発掘調査までは山王坊遺跡の存在を「学問的にはその事を誰も立証した事がない」という、新野さんの証言は貴重です。すなわち、当時としては東日流外三郡誌の記述(絵図)が唯一の詳細な史料であったということなのです。そして、発掘調査の成果を次のように語られています。

〝現在の状況ではですね、展示されている坂田さん(注④)の描いた絵でもお分かりのように二列に並んだ日吉神社の社殿跡と考えられるものが検出されています。そして別に言えば、あのスペースには外三郡誌という資料の中に出ていたような十三宗寺というようなお寺の伽藍が稠密に並んでいた可能性はあれだけではありません。もしそういうものがどうしても存在するとするならば、それはあの山王坊の林の前面に連なっている田圃の中にあるかも知れませんが、その可能性は中世的建物の礎石ですから今までの耕作でいっぺんも当たっていないとするならば、無いんだと思います。思いますと言うので、断定しているわけではありません。従って私はまた今度、じゃ一体あの東日流外三郡誌に書いてある十三宗寺というようなもの―十三千坊というようなものになるんですね―そのようなものが本当にあったのかどうか。どうも、もしああいうものが近世以前からああいう絵のようなものの原図になるものが伝わっていたとするならば、「単なる宗教的な曼荼羅」だと、(後略)〟54頁

 山王坊を発掘したら二列に並んだ日吉神社の社殿跡が検出されたのですが、その反面、東日流外三郡誌に描かれたような「十三宗寺」のような伽藍は無いのではと語っていることから、新野さんはこのシンポジウムの時点(1982年)では懐疑的であったことがうかがえます。しかし、その後の発掘調査(2006~2009年)で、「山王坊の林の前面に連なっている田圃の中」から大型の伽藍跡が複数出土したのです。すなわち、新野さんの推定よりも東日流外三郡誌の絵図の方が当たっていたわけです。当時、懐疑的だった新野さんのこの証言「山王坊の林の前面に連なっている田圃の中にあるかも知れませんが」は、東日流外三郡誌の真作性を結果として指し示していたのです。

(注)
①新野直吉氏(1925年~)。日本古代史および東北地方史の専門家。秋田大学名誉教授、秋田県立博物館名誉館長。
②『安倍・安東氏シンポジウム(記録)』市浦村歴史民俗資料館編、平成五年(1993)。
③豊島勝蔵氏(1913~2001年)。当時、市浦村史編纂委員長。
④坂田泉氏。当時、東北大学工学部、建築史の専門家。

参考 2023年5月20日 古田史学会 関西例会

東日流外三郡誌の考古学
— 「和田家文書」令和の再調査 古賀達也


第2991話 2023/04/20

5月の津軽調査の目的と準備

 「洛中洛外日記」2979話(2023/04/05)〝来月、津軽へ調査旅行します〟で紹介した津軽(弘前市)での和田家文書調査に備えて、「東日流外三郡誌」を久しぶりに精読しています。調査報告と研究成果については、5月の和田家文書研究会(注①)や「古田史学の会」関西例会(5月20日)で発表の予定です。
今回の調査の目的は次の3点です。
(1)現存する和田家文書の精査、
(2)当地の「秋田孝季集史研究会」(竹田侑子会長)の皆さんとの交流、
(3)藤本光幸さん(注②)の墓参です。

 同氏は、わたしが30年前に和田家文書調査を始めたときからお世話になった恩人で、竹田侑子さんの実兄にあたります。なお、藤本さんの父方は天内(あまない)家ご出身とのことで、「東日流外三郡誌」や和田家文書の「天内家文書」にも記された一族です。同「天内家文書」を藤本邸で見せて頂きました。古田先生67歳、わたしが38歳のときの懐かしい想い出です。そのときの先生と同じ年齢になったわたしが、藤本さんのお墓参りをすることに不思議な縁(えにし)を感じます。「東日流外三郡誌」が、津軽へ、真実へと、わたしを導いているのかもしれません。

 これからの和田家文書研究テーマの一つとして、実現したいことがあります。それは和田家文書史料批判のアプローチとして、同史料群の分類とその方法論の確立です。具体的には、次のようなグループ分けが可能なのか、適切なのかを検討しています。

【和田家文書群の分類(試案)】

(α群)和田末吉書写を中心とする明治写本群。主に「東日流外三郡誌」が相当する。紙は明治の末頃に流行し始めた機械梳き和紙が主流。

(β群)主に末吉の長男、長作による大正・昭和(戦前)写本群。大福帳などの裏紙の再利用が多いようである。

(γ群)戦後作成の模写本(戦後レプリカ)。筆跡調査の結果、書写者は複数である。紙は戦後のもの。厚めの紙が多く使用されており、古色処理が施されているものもある。展示会用として外部に流出しているものによく見られるようだ。

 この他に「寛政原本」など江戸期成立と鑑定された史料が少数あり(注③)、これらの貴重史料は(S群)に分類しようかと考慮中です。こうした分類が可能であれば、次は分類ごとに史料批判を行い、その史料がどの分野の研究に有効であるかの検討へと進み、最終的には史料の内容がどの程度の信頼性を有しているかの検証作業になります。

 まずは上記分類の可能性と妥当性について検討を続けます。こうしたことも「秋田孝季集史研究会」や「和田家文書研究会」に提起できればと、調査旅行の準備に明け暮れています。

(注)
①東京古田会が隔月で開催。本年1月から和田家文書調査報告をリモート発表させていただいている。次回、5月13日には「『東日流外三郡誌』の考古学」を発表予定。
②藤本光幸氏(2005年10月没)は『東日流外三郡誌』を世に紹介した人物で、北方新社版『東日流外三郡誌』の編集者。次の遺稿と拙稿を参照されたい。
藤本光幸「『和田家文書』に依る『天皇記』『国記』及び日本の古代史考察1」『古田史学会報』71号、2005年。
同「『和田家文書』に依る『天皇記』『国記』及び日本の古代史考察2」『古田史学会報』72号、2006年。
同「『和田家文書』に依る『天皇記』『国記』及び日本の古代史考察3」『古田史学会報』73号、2006年。
「『和田家文書』に依る『天皇記』『国記』及び日本の古代史考察4」『古田史学会報』75号、2006年。
古賀達也「洛中洛外日記」39話(2005/10/25)〝故・藤本光幸さんのこと〟
③古田武彦氏が「寛政原本」として発表された「東日流内三郡誌」など6史料で、笠谷和比古氏(国際日本文化研究センター研究部教授)の鑑定による。


第2979話 2023/04/05

来月、津軽へ調査旅行します

 東京古田会主催の和田家文書研究会にリモート参加し、古田先生との『東日流外三郡誌』調査の思い出などを発表させていただいています(注)。それが契機となり、青森県の「秋田孝季集史研究会」(竹田侑子会長)の皆さんとの交流が本格化し、来月(5/06~10)、当地を訪問することになりました。連休中は弘前城などの花見客が多く、ホテルを予約できず、この日程になりました。
30年前、和田家文書調査のため弘前市を訪問したとき、弘前城の満開のしだれ桜に感動したことを覚えています。風が吹く度に周囲の空間が花びらでピンク色に染まります。今までわたしが見た桜では、ベストスリーに入る素晴らしさでした。
今回の津軽旅行の目的は、和田家文書の現状調査と当地の研究者との交流、そして藤本光幸さんのお墓参りです。藤本さんには和田家文書調査でお世話になった恩人です。藤崎町の藤本邸に泊めていただき、夜遅くまで歓談・痛飲したことは、忘れ得ぬ思い出です。藤本さんはお酒(ウイスキー)が大好きで、古田先生と三人のときは、お酒を飲まない先生の分までわたしが飲んだものです。笑顔が素敵で、実に心優しい方でした。

(注)1月は「和田家文書調査の思い出」、3月は「『東日流外三郡誌』真実の語り部たち」を発表。5月は「『東日流外三郡誌』の考古学」を発表予定。


第2952話 2023/02/26

『東日流外三郡誌』真実の語り部たち

昨日、安彦克己さん(東京古田会・副会長)からお電話をいただき、1月、3月に続いて5月も和田家文書研究会での発表の要請を受けました。三十年前に古田先生と行った和田家文書調査の記録を『東京古田会ニュース』に掲載していただいており、それと併行してリモートでも発表させていただくことにしたものです。
1月は「和田家文書調査の思い出」(注)、3月11日(土)のテーマは「『東日流外三郡誌』真実の語り部たち」で、早くから和田家文書や『東日流外三郡誌』の存在を知る次の方々の証言を紹介します。

佐藤堅瑞氏(泊村浄円寺住職・青森県仏教会々長)
松橋徳夫氏(山王日吉神社宮司・洗磯崎神社宮司)
白川治三郎(元市浦村々長)
藤本光幸氏(北方新社版『東日流外三郡誌』編集者)
和田喜八郎氏(和田家文書所蔵者)
和田章子氏(喜八郎氏の長女)
※肩書きは当時のもの。和田章子さん以外は故人。

5月の和田家文書研究会では、考古学的出土事実と『東日流外三郡誌』の整合について報告をします。青森県弘前市の「秋田孝季集史研究会」(竹田侑子会長)の皆さんもリモートで聴講されており、同会との交流を深めるため、久しぶりに津軽を訪問できればと願っています。

(注)古賀達也「洛中洛外日記」2917話(2023/01/15)〝「和田家文書調査の思い出」を発表〟


第2947話 2023/02/18

和田家文書偽作説への反証

 本日、大阪市福島区民センターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。来月は大阪市都島区民センター(JR京橋駅北口より徒歩10分)で開催します。初めて使用する会場ですので、ご注意下さい。

 今回、久しぶりに例会発表しました。30年ほど昔に古田先生と行った和田家文書調査の報告〝和田家文書調査の思い出 ―古田先生との津軽行脚―〟です。古田先生と津軽行脚した当時、『東日流外三郡誌』をはじめとする和田家文書を、所蔵者により昭和四十年代以降に偽作されたとする説が、マスコミを巻き込んで喧伝されていました。そうした偽作キャンペーンがあまりに酷いため、わたしたちは現地調査を実施し、和田家文書が戦後間もなく当地の研究者たちにより学術誌『陸奥史談』第拾八輯(昭和26年)や『市浦村史』(昭和26年)などに発表されていたことを突き止めました。

 和田家文書の存在を早くから知っていた人々に聞き取り調査も実施しましたが、当時の証言者の殆どが物故されたこともあり、わたしの記憶が鮮明なうちに関西例会で報告することにしました。当時の経緯は「洛中洛外日記」などでも紹介してきたところです(注)。この報告は次回例会でも続ける予定です。

 今回の例会には、一月に京都市で開催した新春古代史講演会のおり入会された松田さん(京都市)が初参加されました。また、相模原市から冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人)が参加され、研究発表されました。上田武さん(古田史学の会・会員、八尾市)は初発表です。

 2月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔2月度関西例会の内容〕
①ここまでわかった? 歴史教科書 (八尾市・上田 武)
②『新唐書』を再評価する (姫路市・野田利郎)
③『日本書紀』における「呉」について (たつの市・日野智貴)
④和田家文書調査の思い出 ―古田先生との津軽行脚― (京都市・古賀達也)
⑤系図研究から九州年号にも関心を持った大名・秋田実季 (相模原市・冨川ケイ子)
⑥三角縁神獣鏡研究の新展開 (京都市・岡下英男)
⑦天武天皇に関する一考察 (茨木市・満田正賢)
⑧『古事記』序文の理解 谷本氏からのご指摘に答える (東大阪市・萩野秀公)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(三密回避に大部屋使用の場合は1,000円)
02/18(土) 会場:都島区民センター ※JR京橋駅北口より徒歩10分

(注)
「洛中洛外日記」2575~2578話(2021/09/20~23)〝『東日流外三郡誌』真実の語り部(1)~(4)〟
「洛中洛外日記」2580~2583話(2021/09/25~29)〝『東日流外三郡誌』公開以前の和田家文書(1)~(3)〟
「和田家文書に使用された和紙」『東京古田会ニュース』206号、2022年。
「『東日流外三郡誌』公開以前の史料」『東京古田会ニュース』207号、2022年。
「『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見―」『東京古田会ニュース』208号、2023年。

 

令和5年(2023)2月18日  古田史学会関西例会

和田家文書調査の思い出 — 古田先生との津軽行脚古賀達也


第2933話 2023/02/01

『東京古田会ニュース』No.208の紹介

『東京古田会ニュース』208号が届きました。拙稿「『東日流外三郡誌』」を掲載していただきました。同稿は本年1月14日(土)に開催された「和田家文書」研究会(東京古田会主催)で発表したテーマに対応したものです。同紙にはこのところ和田家文書関連論稿を掲載していただいています。次の通りです。

206号 和田家文書に使用された和紙
207号『東日流外三郡誌』公開以前の史料
208号『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見―

209号には「『東日流外三郡誌』真実の語り部 ―古田先生との津軽行脚―」を投稿しました。併行して、東京古田会主催の和田家文書研究会にもリモートで研究発表をさせていただいています。今月に続いて3月11日(土)も発表予定です。この機会に、三十年前に古田先生と実施した津軽行脚の記録を整理・紹介したいと考えています。
拙稿の他に皆川恵子さん(松山市)の「田沼意次と秋田孝季in『和田家文書』その3 前編」が掲載されています。秋田孝季と同時代の江戸期の史料『赤蝦夷風説考』工藤平助著などが紹介されており、勉強になりました。


第2922話 2023/01/20

『東日流外三郡誌』

   研究の推奨テキスト (3)

北方新社版『東日流外三郡誌』(注①)には欠字が多く、それは埋蔵金や財宝に関する記事が伏せ字になっているためであることに、わたしよりも早く気づいた人たちがいました。八幡書店版の編纂に携わった同社の関係者たちです。『東日流外三郡誌 別報6』(注②)に次の記事が見えます。

〝市浦版・北方新社版に共通する欠点としては、図版が底本とは似て否なるものであることや勝手に「左」が「右」に訂正されて図版が挿入されたり、その箇所にはない図版が割り込まれたりしていること。埋蔵金などの財宝に関する資料の時にはなぜか伏字が使用されていることなどが判明した。〟

ここにあるように、八幡書店版は先行した市浦村史版(注③)や北方新社版の問題点も把握したうえで、それよりも丁寧な編纂作業が行われていました。同社版が最も優れた校本であると古田先生が指摘された通りでした(注④)。この史料情況の論文発表を古田先生から止められたのですが、その事情を先生は次のように記しています。

〝この「埋蔵金」問題は、土地の人に(青森県西部地方)の関心を“ひそかに”ひきつけつづけていたようです。当然のことでしょう。
その“証拠”に、最初に公刊された『東日流外三郡誌』として知られる「市浦村史資料編」版では、この「埋蔵金」関連かとみられる個所は「脱字」扱いにされているようです。
この点、すぐれた研究者として次々各方面に研究業績をしめしておられる古賀達也さん(京都市)が、すでに早く気づき、これを論文化して発表したい、とのこと。その御意向を知り、その時点では、わたしはあえて「反対」しました。
なぜなら、その当時、いわゆる「偽作説」が世間で話題を奪っていた最中でしたから、その上にこの「埋蔵金」問題が話題となれば、一段と“論点”が混迷し、当事者(和田喜八郎氏も存命中)も“迷惑”するのではないか、と心配したのです。それで、もう少し「発表時期をのばす」ことを提案しました。古賀さんも、賛成してくださったのです。
しかし、もう、時期は変わりました。喜八郎さんに次ぎ、長男の孝さんも亡くなられました。一般の書籍や文庫本、雑誌などでも、「すでに『東日流外三郡誌』の偽書であることは確定した」かに(虚報を)叙述するものも、次々と現われています。その意味では「偽作論争」のさかりの時期は“過ぎた”ようです。
その上、何よりも、この「埋蔵金」問題が、『東日流外三郡誌』の真相を探る上で、不可欠のテーマであること、今まで述べたことでお判りの通りです。
ですから、古賀さんも近く、その所論を発表されることと思います。〟(注⑤)

当論稿をわたしは失念していました。この〝近く古賀から発表される所論〟が未発表のままであることを、今回、秋田市在住の読者Tさん(注⑥)からのお電話で思い出しました。古田先生に「伏せ字」問題の存在を報告した日から20年以上を経て、ようやく「洛中洛外日記」で概要を発表することができました。お問い合わせいただいたTさんに感謝いたします。

(注)
①『東日流外三郡誌』北方新社版(全六冊) 小舘衷三・藤本光幸編、昭和五八~六〇年(1983~1985)。後に「補巻」昭和六一年(1986)が追加発行された。
②森克明「『東日流外三郡誌』の編纂を終えて」『東日流外三郡誌 別報6』八幡書店、1990年。
③『東日流外三郡誌』市浦村史資料編(全三冊) 昭和五〇~五二年(1975~1977)。
④古田武彦「秋田孝季の人間学 ―和田家文書の〝発見〟―」『東日流外三郡誌 別報2』八幡書店、1989年。
⑤古田武彦「浅見光彦氏への“レター”」『新・古代学』第8集、新泉社、2005年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai8/furuta82.html
⑥2023年1月14日に開催された和田家文書研究会(東京古田会主催)で、「和田家文書調査の思い出 ―古田先生との津軽行脚―」を古賀はリモート発表した。このとき、青森県弘前市でリモート聴講されていた「秋田孝季集史研究会」(竹田侑子会長)にTさんは出席されていたとのこと。


第2921話 2023/01/19

『東日流外三郡誌』

    研究の推奨テキスト (2)

北方新社版『東日流外三郡誌』(注①)には欠字が多いことに気づき、わたしは欠字部分の調査を行いました。八幡書店版(注②)と比較すると、虫食いや破損による欠字ではなく、埋蔵金や財宝に関する記事が伏せ字になっていることがわかりました。そこで北方新社版を編集された藤本光幸さん(故人、藤崎町)にそのことを問い合わせると、〝埋蔵金の記事や地図をそのまま掲載すると、埋蔵金探しの発生が懸念されたので、意図的に欠字にした〟とのことでした。実際に、それまでもそうした動きがあり、たとえば和田さん親子(元市さん、喜八郎さん)が炭焼きのために山に入ると、多くの人がぞろぞろと後をつけてきたこともあったとのことでした。「東日流外三郡誌」に記された遺跡の荒廃を防ぐため、藤本さんの配慮により北方新社版には欠字が多かったのです。
更に精査すると興味深い内容が八幡書店版にもありました。同社版『東日流外三郡誌 第六巻〔諸項篇〕』の末尾に掲載されている「底本編成」によれば、「東日流外三郡誌」の第六十三巻・第六十八巻・第七十七巻(ロ本)・第七十八巻・第二百巻付の五冊のみが底本を〔市浦本〕としています。すなわち、八幡書店版編集時にはこの五冊が紛失していたため、先に出版された市浦村史版(注③)を底本に採用したのです。五冊の中身を見ると、埋蔵金や財宝の隠し場所や遺跡を記した地図が収録されていました(注④)。これは偶然による散逸ではなく、埋蔵金の地図が記されていたことが紛失の理由ではないでしょうか。すなわち、その五冊を〝持ち去った〟人物は、「東日流外三郡誌」を偽書とは考えていなかったと思われます。
そこで、わたしは紛失した五冊の所在を調査しました。その結果、「東日流外三郡誌」明治写本を持っている人がいて、財宝探しをしているという情報がNさんから寄せられました。Nさんは津軽調査でお世話になった方で、当地の地理にも詳しい方です。しかし、それ以上の具体的なことは、事情があるようで、教えてはいただけませんでした。
こうした『東日流外三郡誌』刊行時の事情が徐々に分かってきたのです。当時、現地の関係者は「東日流外三郡誌」を偽書とは捉えておらず、むしろ、書かれていることは事実に基づいており、貴重な文書と受け取られてきたようなのです。偽作キャンペーンへの反証として、このことを論文発表しようと古田先生に調査概要を報告しました。ところが、先生からは論文発表を止められました。(つづく)

(注)
①『東日流外三郡誌』北方新社版(全六冊) 小舘衷三・藤本光幸編、昭和五八~六〇年(1983~1985)。後に「補巻」昭和六一年(1986)が追加発行された。
②『東日流外三郡誌』八幡書店版(全六冊) 平成元年~二年(1989~1990)。
③『東日流外三郡誌』市浦村史資料編(全三冊) 昭和五〇~五二年(1975~1977)。
④次の「地図」が収録されている。
「宇蘇利国図」「東日流中山図」(第六十三巻)、「安倍蒼海陣記及蒼海諸城図」「蒼海城図追而」(第六十八巻)、「安倍一族秘宝之謎」(第七十七巻ロ本)、「桧山勝山城図」「松前大館之図」(第七十八巻)、「東日流六郡之秘跡」(第二百巻付)。


第2920話 2023/01/18

『東日流外三郡誌』研究

     の推奨テキスト (1)

先週の和田家文書研究会(東京古田会主催)にて、「和田家文書調査の思い出 ―古田先生との津軽行脚―」をリモート発表させていただいたのですが、早速、お電話やメールで質問や感想が寄せられ、関心の高さを感じました。青森県弘前市からリモート参加された「秋田孝季集史研究会」(竹田侑子会長)のTさんからは、『東日流外三郡誌』研究の推奨テキストに関連したご質問をいただきました。
研究会では、『東日流外三郡誌』には次の三つの活字テキストがあり(注①)、(c)八幡書店版が最も優れていると推奨しました。

(a)『東日流外三郡誌』市浦村史資料編(全三冊) 昭和五〇~五二年(1975~1977)。
(b)『東日流外三郡誌』北方新社版(全六冊) 小舘衷三・藤本光幸編、昭和五八~六〇年(1983~1985)。後に「補巻」昭和六一年(1986)が追加発行された(注②)。
(c)『東日流外三郡誌』八幡書店版(全六冊) 平成元年~二年(1989~1990)。

(a)市浦村史版は『東日流外三郡誌』約350冊の三分の一程度の収録ですから、研究のテキストとするには不十分です。(b)北方新社版と(c)八幡書店版を比較すると、なぜか欠字が多い(b)北方新社版よりも(c)八幡書店版が優れていると、わたしは判断したのですが、古田先生も早くから同様の見解を示されていました。

「今年(平成元年)は、和田家古文書の全貌が白日のもとにさらされるべき、研究史上、記念すべき年となるであろう。豊島勝蔵・小舘衷三、そして藤本光幸さんや妹、竹田侑子さんたち、研究上の礎石を築かれた諸先輩の驥尾に付し、今年から、新たな研究開始の扉を開かせていただくこと、わたしは今、心を躍らせているのである。
今回、最も本格的にして厳密な校本として、この八幡書店版の刊行の開始されたこと、わたしはこれを無上の幸いとし、全巻の完結を鶴首待望している。(八幡書店版は東日流中山史跡保存会編、一九八九年一月、第一巻刊行。)
(一九八九年二月二八日稿)」(注③)

それではなぜ北方新社版には欠字が多いのか。わたしはこの史料情況に着目し、欠字部分の調査を行いました。その結果、昭和22年に和田家天井裏から落下した和田家文書と、和田家に降りかかった運命の一端を垣間見ることができたのです。(つづく)

(注)
①この他、『車力村史』(1973年)に『東日流外三郡誌』の一部が収録されている。
②同書「補巻」の小舘衷三氏による解題に次の説明がある。
「六巻を刊行した後に、和田家に外三郡志の一部とされる文書類が若干残っていることがわかり、追而編、日下領国風(景)画全八十八景、天真名井家文書の三つを合せて、補巻として刊行することにした。」
③古田武彦「秋田孝季の人間学 ―和田家文書の〝発見〟―」『東日流外三郡誌 第二巻 別報』八幡書店、1989年。


第2917話 2023/01/15

「和田家文書調査の思い出」を発表

昨日の和田家文書研究会(東京古田会主催)にて、「和田家文書調査の思い出 ―古田先生との津軽行脚―」をリモート発表させていただきました。当テーマは、和田家文書偽作キャンペーンが激しくなった、今から三十年程前に実施した、古田先生との津軽行脚の報告と和田家文書の史料情況について解説したものです。当発表は注目されていたようで、青森県弘前市からも「秋田孝季集史研究会」(竹田侑子会長)の皆さん約20名がリモート参加されていました。
今回の報告の主目的は、『東日流外三郡誌』をはじめとする和田家文書が昭和四十年代に和田喜八郎氏により偽作されたとする偽作説への反証として、津軽行脚での調査成果の紹介でした。当時の関係者のほとんどが物故されており、わたしの記憶が鮮明なうちに和田家文書研究者に伝え、偽作説が誤りであることを明確にすることでした。
当時(1996年8月)の聞き取り調査のうちで最も有力な証言は、北海道松前町阿吽寺で偶然にお会いした永田富智さん(当時、松前町史編纂委員。故人)によるものでした。その要旨は次の通りです。

(1) 津軽で貴重な文書が出たことを知り、当時、関わっていた北海道史の編纂に役立つかもしれないと思い、昭和46年に市浦村を訪問した。
(2) そのとき、同村役場で『東日流外三郡誌』約二百~三百冊を見た。
(3) 文書に使用されている紙は、明治の末頃に流行した機械梳きの和紙であった。
(4) 文字や墨の色も古く、戦後のものではありえず、明治の末頃のものと思われた。

この証言は決定的です。永田さんは中近世史研究の専門家で、数多くの古文書を見てきたプロフェッショナルです。その専門家が『東日流外三郡誌』約二百~三百冊を昭和46年に実見し、それらが明治の末頃のもので、決して戦後に作られたものではないと証言されのです。このときの証言はビデオ録画されており、証拠能力も申し分ありません。
このような報告をしたのですが、質疑も活発で時間不足のまま終わりました。主催された安彦克己さん(東京古田会・副会長)から、三月と五月の研究会での継続発表をご要請いただきました。ありがたいことですので、当時の調査資料の整理を兼ねて、準備したいと思います。


第2902話 2022/12/27

蝦夷国領域「会津・高寺」への仏教伝来 (2)

 和田家文書コレクション『奥州隠史大要 一』に収録されている「奥州佛法之事」には、六~七世紀頃の蝦夷国領域への仏教伝来記事があります。その中で、わたしが注目したのが次の福島県会津の高寺でした。

 「欽明天皇元年、梁僧青巌、来奥州會津蜷川根岸邑、高寺建立。」

 欽明天皇元年は西暦540年で、九州年号の僧聴五年に相当します。これが史実であれば近畿天皇家の受容(「仏法の初め」『日本書紀』敏達十三年条、584年)よりも早いことになり、わたしも研究を続けていました(注①)。同伝承の最古の出典を調査中ですが、『会津温故拾要抄』(宮城三平著、明治22年)に次の記事が見えます。

 「高寺恵隆寺千手観音縁起
一 茲ニ奥州大會津郡〔今、川沼ト云〕蜷河荘〔今、稲川ト云〕根岸村ト〔今、宇内ト云〕山ノ上草庵結〔昔、高寺、今、恵隆寺〕。人皇三十代欽明天皇即位元年庚申、唐梁國青岩ト云僧結庵。其頃日本ニテ寺ト云事ヲ不知、唯高處有故名高寺。自是百二十餘年過、人皇三十八代齊明天皇四年戊午、性空上人弟子蓮空上人、爰來、舊庵改大伽藍草創、號石塔山恵隆寺。本尊観音像(後略)」(注②)454~455頁。※〔 〕内は割注。句読点は古賀による。

 『会津温故拾要抄』に掲載されたこの「高寺恵隆寺千手観音縁起」の出典は未調査ですが、和田家文書「奥州佛法之事」と同内容が伝えられており、中国の梁から来た僧、青岩による高寺建立は、会津地方では古くから知られてきた伝承のようです。
 一つ不思議に思うのが、この伝承内容が九州王朝(倭国)時代のことであるにもかかわらず、そこに九州年号(継体元年・517年~大長九年・712年)が使用されていないことです。拙稿「蝦夷国への仏教東流伝承 ―羽黒山「勝照四年」棟札の証言―」(注③)で紹介した羽黒山への仏教伝来伝承では九州年号「勝照四年」(588年)のこととして伝えられており、同様に高寺への伝来記事も「欽明天皇元年」だけではなく、「僧聴五年」と九州年号もあってほしいところですが、管見では高寺伝承に「僧聴五年」は見えません。(つづく)

(注)
①北篤『謎の高寺文化 古代東北を推理する』(1978年)は、高寺への仏教伝来を「欽明天皇の元年(五四〇)のこと、と記録に出ている。梁国の僧で、青磐という人物である。『奥州会津蜷川荘の根岸村に来たり手』と続いている。」(29頁)と紹介する。
②国会図書館デジタルコレクション『会津温故拾要抄 四、五』による。
③古賀達也「蝦夷国への仏教東流伝承 ―羽黒山「勝照四年」棟札の証言―」『古田史学会報』173号、2022年。


第2901話 2022/12/26

蝦夷国領域「会津・高寺」への仏教伝来 (1)

『古田史学会報』173号で発表した拙稿「蝦夷国への仏教東流伝承 ―羽黒山「勝照四年」棟札の証言―」を読まれた菊地栄吾さん(古田史学の会・仙台)から、東北地方への仏教伝来を記した和田家文書紹介のメールが届きました。以下、メールを要約して転載します。

「古賀達也様
論文「蝦夷国への仏教東流伝承」拝見しました。これに関連する報告を、「和田家文書」研究会で小生の提案により、安彦さんが報告しております。
その概要は〝「和田家文書」コレクション「奥州隠史大要1」に「奥州佛法之事」に会津の「高寺」のことがあり、519年に最初の寺が造られていることが記されている。会津では「高寺山遺跡」が発掘されている。〟と言うものです。
コレクションもアクセスできます。羽黒山の事も記されておりますので参考にして下さい。
菊地栄吾」

こうした情報が会員や読者から毎日のように寄せられます。ありがたいことと感謝していますが、返信が遅れることも多々あり、申しわけありません。ご紹介いただいた「和田家文書」コレクションの「奥州佛法之事」を下記に転載します。七世紀の東北地方(蝦夷国領域)への複数の仏教伝来が記されており、興味深いものです。(つづく)

奥州佛法之事

欽明天皇元年、梁僧青巌、来奥州會津蜷川根岸邑、高寺建立。在佛弟子稱惠隆、梁惠志之師弟也。梁國號天監己亥年、高寺攺惠隆寺三十六坊也。
寛永六年九月一日 龍斉

奥州に佛法の傳来せるは、倭國より先代なり。梁僧・青巌坊が越州加志波浜に漂着し、人住多き會津に至り、持佛像薬師如来を草堂に安置し、日本將軍安倍國治に歸化を請ふて、高寺を建立せり。倭にては十二年後、百済の聖明王が阿弥陀佛を献ぜし前にして、梁國直通に渡れり。
安倍國治、荒覇吐王の南王たれば、是を入れたるも、吾が國に馴信なるは三十年後にして、惠隆坊が是を衆生に化渡を得たり。
此の時より、和賀の極樂寺、衣川の佛頂寺、閉伊の淨法寺及び西法寺、東日流の大光寺及び三世寺、中山大光院、秋田の日積寺及び山王寺、出羽の羽黒三山寺、相継ぎぬ。
倭僧圓仁や行基、葛城行者役小角来るは、此の古寺に求道せし故なると曰ふなり。
寛政六年八月五日 秋田孝季

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