古田武彦一覧

第2583話 2021/09/29

『東日流外三郡誌』公開以前の和田家文書(3)

 「金光上人」史料を開米智鎧氏が紹介

 昭和24年に編纂された『飯詰村史』(注①)にて、和田家史料「役小角」関連遺物(銅銘板、舎利壺等)の調査報告「藩政前史梗概」を発表した開米智鎧氏(注②)は、次に和田家文書中の「金光上人」関連史料の研究を昭和39年(1964)に出版されます。『金光上人』(全288頁。注③)です。同書「序説」には、刊行までの経緯を次のように記されています。

 「野僧昔日芝中在学中、故平沢謙純先生の指示を体し、日夜に係念すること五十年、一も得る所ありませんでしたが昭和二十四年「役行者と其宗教」のテーマで、新発見の古文書整理中、偶然曙光を仰ぎ得ました。
 行者の宗教、即修験宗の一分派なる、修験念仏宗と、浄土念仏宗との交渉中、描き出された金光の二字、初めは半信半疑で蒐集中、首尾一貫するものがありますので、遂に真剣に没頭するに到りました。
 此の資料は、末徒が見聞に任せて、記録しましたもので、筆舌ともに縁のない野僧が、十年の歳月を閲して、拾ひ集めました断片を「金光上人」と題し、二三の先賢に諮りましたが、何れも黙殺の二字に終わりました。
 (中略)
 特に其の宗義宗旨に至っては、法華一乗の妙典と、浄土三部教の二大思潮を統摂して、而も祖匠法然に帰一するところ、全く独創の見があります。加之宗史未見の項目も見えます。
 文体不整、唯鋏と糊で、綴り合わせた襤褸一片、訳文もあれば原文もあります。原文には、幾分難解と思はれる点も往々ありますが、原意を失害せんを恐れて、其の儘を掲載しました。要は新資料の提供にあります。
 且つまた、上人の大遠忌を眼前に迎へ、篇者老衰甚しく、余命亦望むべからず。幸にして、資料提供者和田喜八郎氏と、摂取院檀頭の篤信者藤本幸一氏との懇志に依って、茲に出版の栄に浴しました事は、大慶の至りであります。
 起筆以来十五年、粒々辛苦の悲願は、偏に上人高德の、一片をも伝ふるを得ば僥倖之に過ぐるものありません。
 是非は諸彦の高批を仰ぎ、完成は後賢の力を俟つものであります。
     上人七百四十七年の忌辰の日
         於 大泉精舎
               七十七老 忍 阿 謹識」

 ここに記されている昭和24年当時、資料提供者の和田喜八郎氏はまだ22歳の若者です。開米氏が述べるように「其の宗義宗旨に至っては、法華一乗の妙典と、浄土三部教の二大思潮を統摂して、而も祖匠法然に帰一するところ、全く独創の見」のような難解高度な宗教書を22歳の喜八郎氏に書けるはずがありません。同書に掲載された和田家史料を読めば、そのことは質量共に一目瞭然です。ちなみに、同書巻末に収録されている、金光上人関連の和田家史料一覧には、231編の「金光上人編纂資料」名が列挙されています。その内の数十編はわたしも実見しています。(つづく)

(注)
①『飯詰村史』昭和26年(1951)、福士貞蔵編。
②五所川原市飯詰、大泉寺(浄土真宗)の住職。
③開米智鎧『金光上人』昭和39年(1964)。

開米智鎧氏

開米智鎧氏

金光上人 開米智鎧編

金光上人 開米智鎧編

金光上人由来一部 開米智鎧編

 

 

 


第2581話 2021/09/26

『東日流外三郡誌』公開以前の和田家文書(2)

  「役小角」史料を開米智鎧氏が紹介

 『飯詰村史』(昭和24年編集。注①)で和田家文書『飯詰町諸翁聞取帳』を福士貞蔵氏が紹介されたのですが、同時に和田家の「役小角」史料を同村史で紹介されたのが開米智鎧氏でした。同氏は和田家近隣の浄土真宗寺院・大泉寺のご住職で、洛中洛外日記(注②)で紹介した佐藤堅瑞氏(柏村・淨円寺住職)のご親戚です。
 開米氏は和田家が山中から発見した仏像・仏具・銅銘板や和田家収蔵文書を『飯詰村史』で紹介されました。それは村史巻末に収録された「藩政前史梗概」という論稿で、その冒頭に和田家が発見した「舎利壺」3個、「摩訶如来塑像」1体、「護摩器」多数の写真が掲載されています。本文1頁には次のように記され、それらが和田家発見のものであることが示されています。

 「今、和田氏父子が發見した諸資料を檢討綜合して、其の全貌をお傳へし度いと思ふ。」
 「今回發見の銅板に依って其の全貌が明らかにされた。」

 このように紹介し、銅板銘「北落役小角一代」の全文(漢字約1,200字)や樹皮に書かれた文書なども転載されています。この銅銘板は、昭和20年頃という終戦直後に、炭焼きを生業とする和田家に偽造できるようなものではありません。このことも和田家文書真作説を支持する事実です。なお、銅板は紛失したようで(盗難か)、写真でしか残されていないようです。
 開米智鎧氏の論稿「藩政前史梗概」について紹介した『古田史学会報』3号(注③)の拙稿を一部転載します。

【以下転載】
『和田家文書』現地調査報告 和田家史料の「戦後史」

開米智鎧氏の「証言」
 和田喜八郎氏宅近隣に大泉寺というお寺がある。そこの前住職、故開米智鎧氏は金光上人の研究者として和田家文書を紹介した人物であるが、氏もまた『飯詰村史』に研究論文「藩政前史梗概」を掲載している。グラビア写真と三三頁からなる力作である。内容は和田元市・喜八郎父子が山中の洞窟から発見した「役小角関連」の金石文や木皮文書などに基づいた役小角伝説の研究である。
 この論文中注目すべき点は、開米智鎧氏はこれら金石文(舎利壷や仏像・銘版など)が秘蔵されていた洞窟に自らも入っている事実である。同論文中にその時の様子を次のように詳しく記している。

 「古墳下の洞窟入口は徑約三尺、ゆるい傾斜をなして、一二間進めば高サ六七尺、奥行は未確めてない。入口に石壁を利用した仏像様のものがあり、其の胎内塑像の摩訶如来を安置して居る。總丈二尺二寸、後光は徑五寸、一見大摩訶如来像と異らぬ 。(中略)此の外洞窟内には十数個の仏像を安置してあるが、今は之が解説は省略する。」
 このように洞窟内外の遺物の紹介がえんえんと続くのである。偽作論者の中にはこれらの洞窟の存在を認めず、和田家が収蔵している文物を喜八郎氏が偽造したか、古美術商からでも買ってきたかのごとく述べる者もいるが、開米氏の証言はそうした憶測を否定し、和田家文書に記されているという洞窟地図の存在とその内容がリアルであることを裏付けていると言えよう。
ちなみに和田氏による洞窟の調査については、『東日流六郡誌絵巻 全』山上笙介編の二六三頁に写真入りで紹介されている。
 このように、和田家文書に記された記事がリアルであることが、故開米氏の「証言」からも明らかであり、それはとりもなおさず和田家文書が偽作では有り得ないという結論へと導くのである。
【転載おわり】

 更に、開米氏は地元紙「青森民友新聞」にも和田家発見の遺物についての紹介記事を長期連載されています。『古田史学会報』16号(注④)で紹介しましたので、これも一部転載します。

【以下転載】
「平成・諸翁聞取帳」東北・北海道巡脚編
出土していた縄文の石神(森田村石神遺跡)

 旅は五所川原市立図書館での調査から始まった。和田家文書を最も早くから調査研究されていた大泉寺の開米智鎧氏が、昭和三一年から翌年にかけて青森民友新聞に連載した記事の閲覧とコピーが目的だ。
 昭和三一年十一月一日から始まったその連載は「中山修験宗の開祖役行者伝」で、翌年の二月十三日まで六八回を数えている。さらにその翌日からは「中山修験宗の開祖文化物語」とタイトルを変えて、これも六月三日まで八十回の連載だ。
 合計百四十八回という大連載の主内容は、和田家文書に基づく役の行者や金光上人、荒吐神などの伝承の紹介、そして和田父子が山中から発見した遺物の調査報告などだ。その連載量からも想像できるように、開米氏は昭和三一年までに実に多くの和田家文書と和田家集蔵物を見ておられることが、紙面に記されている。これら開米氏の証言の質と量の前には、偽作説など一瞬たりとも存在不可能。
 これが同連載を閲覧しての率直な感想だ。まことに開米氏は貴重な証拠を私たちに残されたものである。
【転載おわり】

 開米氏は「役小角」史料調査のおり、和田家文書のなかに「金光上人」史料が存在することに気づかれ、後に『金光上人』(注⑤)を著されています。(つづく)

(注)
①『飯詰村史』昭和26年(1951)、福士貞蔵編。
②古賀達也「洛中洛外日記」2577話(2021/09/22)〝『東日流外三郡誌』真実の語り部(3) ―「金光上人史料」発見のいきさつ(佐藤堅瑞さん)―〟
「『和田家文書』現地調査報告 和田家史料の『戦後史』」『古田史学会報』3号、1994年11月。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga03.html
④古賀達也「平成・諸翁聞取帳 東北・北海道巡脚編 出土していた縄文の石神(森田村石神遺跡)」『古田史学会報』16号、1996年10月。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou16/koga16.html
⑤開米智鎧『金光上人』昭和39年(1964)。

開米智鎧氏

開米智鎧氏

「藩政前史梗概」に掲載された舎利壺

「藩政前史梗概」に掲載された舎利壺

「藩政前史梗概」に掲載された仏像

「藩政前史梗概」に掲載された仏像


第2580話 2021/09/25

『東日流外三郡誌』公開以前の和田家文書

『飯詰町諸翁聞取帳』

  昭和24年、福士貞蔵氏が紹介

昭和50年頃から『市浦村史』資料編として世に出た『東日流外三郡誌』よりも先に公開された和田家文書があります。それは『飯詰町諸翁聞取帳』(注①)というもので、『飯詰村史』に多数引用されています。『飯詰村史』は昭和26年に刊行されていますが、編者の福士貞蔵氏による「自序」には昭和24年の年次が次のように記されており、終戦後間もなく編集されたことがわかります。

「昭和廿四巳(ママ)丑年霜月繁榮を極めたる昔の飯詰町を偲びつゝ
七十二翁 福士貞蔵識之」

福士氏は『飯詰町諸翁聞取帳』を学会誌(注②)にも紹介されています。「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」という論文です。

〝(前略)然るに今回端なくも飯詰本村に於て意外の史料を発見した。
記録は『諸翁聞取帳』といって、飯詰を中心に隣村の史實を或る文献より寫したり、又は口碑傳説など聞取った事柄を書留めた物で、筆者と同じく餘り學力のある方ではないらしく、文体は成って居らんし、それに用語も無頓着で意味の判らぬ個所もあるが、全く耳新しい史料であるから、同好の士に紹介することにした。〟『陸奥史談』第拾八輯、昭和26年(1951)、20頁

このような前文に続いて、「高舘城系譜」という史料を転載されています。『飯詰村史』にも同文の「高舘城系譜」が転載されていますから、『陸奥史談』で紹介された『諸翁聞取帳』は『飯詰村史』に多数引用された『飯詰町諸翁聞取帳』のことであることがわかります。おそらく『飯詰町諸翁聞取帳』表紙には「飯詰町」と「諸翁聞取帳」を二行わたって表題が識されていたと推定されますから、『飯詰町諸翁聞取帳』と『諸翁聞取帳』という二つの書名が現れたと思われます。『飯詰村史』123頁には「諸翁聞取帳」という表記も見え、このことを裏付けています。なお、和田家文書には『東日流 津軽諸翁聞取帳』(注③)という史料があり、これも表紙には「東日流」と「津軽諸翁聞取帳」の二行表記になっています。
ちなみに『飯詰村史』の「編輯を終へて」には福士氏により次の謝辞があり、『飯詰町諸翁聞取帳』は和田家文書であることがうかがえます。

「本史編纂に當り、資料提供せられたる青弘両圖書館長、岩見常三郎、種市有隣、大久保勇作翁の方々に感謝し、併せて資料蒐集に協力せられし開米智鎧、濱館徹、和田喜八郎等の有志者に對し、茲に敬意を表する。」326頁

昭和24年といえば、和田喜八郎さんが22歳のときであり、専門の歴史研究家である福士氏により『飯詰村史』に引用されるような古文書を偽作できるはずはありません。これは、和田家文書真作説を支持する事実であり、わたしがこのことを指摘(注④)しても偽作論者からの応答反論はありません。この後も、和田家からは多くの古文書が研究者に開示されています。(つづく)

(注)
①五所川原市図書館の福士文庫には福士貞蔵氏の蔵書や研究記録が収蔵されている。その中の「郷土史料蒐集録 第拾壱號」に『飯詰町諸翁聞取帳』が書き写されている。その書名の下に「文政五年 今長太」とあり、同書の成立が文政五年(1822)であり、今長太は編者名と思われる。『飯詰村史』収録の同村絵地図には「今長太」と記された人家が見える。これは『飯詰町諸翁聞取帳』編者と同一人物ではあるまいか。
②福士貞蔵「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」『陸奥史談』第拾八輯、陸奥史談會、昭和26年(1951)4月。
③和田喜八郎編『東日流六郡語部録 諸翁聞取帳』八幡書店、1989年。④古賀達也「『和田家文書』現地調査報告和田家史料の『戦後史』」『古田史学会報』3号、1994年11月。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga03.html

一冊残った『東日流(六郡語部録) 諸翁聞取帳』原本

一冊残った『東日流(六郡語部録) 諸翁聞取帳』原本

『飯詰村史』編者の福士貞蔵氏

『飯詰村史』編者の福士貞蔵氏

古田先生からいただいた『東日流六郡語部録 諸翁聞取帳』。

古田先生からいただいた『東日流六郡語部録 諸翁聞取帳』。


第2579話 2021/09/24

 『東日流外三郡誌』偽作説の根拠の一つに〝『東日流外三郡誌』の編著者である秋田孝季(あきた・たかすえ)が実在した証拠がない〟というものがありました。この偽作説に反論するため、わたしは秋田孝季の名前を求めて、和田家文書以外の史料調査を続けてきました。ところが、視点を変えた素晴らしい研究が発表されました。「洛中洛外日記」392話(注①)で紹介した、太田齊二郎さん(古田史学の会・会員、元副代表)による秋田市土崎地区の「橘」姓調査です。「寛政宝剣額」や『東日流外三郡誌』に記されているように、秋田孝季の居住地として「秋田土崎」が知られていました。更に孝季の元の姓は「橘」とされており、太田さんはこの二つに着目されました。
 和田家文書によれば秋田孝季のもとの名前は橘次郎孝季とされています。孝季の母親が秋田家三春藩主に「後妻」として入ったことにより、橘次郎孝季から秋田孝季と名乗るようになったようです。ですから、秋田土崎は孝季の「実家」の橘家があった可能性が高いのです。全国的に見れば、秋田県や秋田市に橘姓はそれほど多く分布していません。ところが、秋田市内の橘姓の七割が土崎に集中していることを太田さんが発見されました(太田さんは秋田県出身)。

〝孝季の兄「橘太郎守季」の確認がはかどらず、「橘」さん達への電話作戦を思い付き、図書館の資料室で電話帳を開いた時に気づいたのですが、秋田市の人口三十万のうち八万人の旧土崎湊地区に、市内全体で約四十の「橘」のうち七割が集中していたのです。〟(注②)

 この発見により、孝季が『東日流外三郡誌』をなぜ土崎で執筆したのかがわかりました。同書に記されたとおり、実家の橘家が土崎にあったのです。太田さんにより発見された秋田市内に於ける「橘」姓の分布状況は秋田孝季実在の根拠とでき、『東日流外三郡誌』真作説を支持するものです。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」392話(2012/03/05)〝秋田土崎の橘氏〟
http://furutasigaku.jp/jfuruta/nikki8/nikki392.html
太田齊二郎「孝季眩映〈古代橘氏の巻〉」『古田史学会報』24号、1998年2月。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/tugaru24.html

【写真】「寛政宝剣額」と『東日流内三郡誌』。共に「土崎之住人 秋田孝季」とある。

寛政宝剣額 土崎之住人 秋田孝季

寛政宝剣額 土崎之住人 秋田孝季

東日流内三郡誌 土崎之住人秋田孝季

東日流内三郡誌 土崎之住人 秋田孝季

 


第2578話 2021/09/23

『東日流外三郡誌』真実の語り部(4)

「門外不出、他見無用」文書の公開(和田章子さん)

 1995年5月4日、石塔山荒覇吐神社を訪れたわたしは、和田喜八郎さんのご長女、和田章子(わだ・ふみこ)さんに聞き取り調査を行いました。偽作論者達が偽作の証拠とした、喜八郎さんが書いたとする手紙・原稿類の筆跡確認が目的でした。そのおり、昭和五十年頃に『東日流外三郡誌』を『市浦村史』資料編として世に出されるに至った和田家内の状況について、章子さんの証言が得られましたので紹介します。経緯の詳細は、古田史学の会HP「新・古代学の扉」に収録された『古田史学会報』8号をご覧下さい(注①)。

【以下、『古田史学会報』8号から部分転載】
 本年(1995年)の五月四日、石塔山荒覇吐神社で和田喜八郎氏の娘さんにお話をうかがうことができた。偽作論者たちが入手した喜八郎氏の自筆原稿とされているもの(『季刊邪馬台国』五一号グラビア「和田喜八郎氏の自筆原稿」)が、娘さんの字であると、古田先生から聞いていたので、別原稿についても同様の確認をとることが目的であった。
 それは藤本光幸氏から借りた、『東日流内三郡誌』を原稿用紙に書き写したものだ。それを見せて、娘さんの筆跡であるかどうかを問うた。

 「たぶん私の字だと思いますが、昔のことなのではっきりとは断言できません」
 「こうした原稿用紙への書写や清書をよくされるのですか」
 「はい。父は字がへたなので、私がよく清書します」
 「文章そのものを書き直されることはありますか」
 「はい。文章がおかしいところは私が直すこともあります。でも、そのことがどうかしたのでしょうか」

 娘さんは筆跡が問題となっていることをご存じ無いようであった。私が、偽作論者は筆跡鑑定の基礎を取り違えていること、従って「喜八郎氏の自筆原稿」とされるものが娘さんの字であるという事実は、偽作論を根底から崩すものであることを説明すると、

 「“父の字”とされた私の字と文書の字は、そんなに似ているのでしょうか。」

 と、筆跡に関して率直な疑問を呈され、

 「助けて下さい。子供は学校でいじめられて泣いて帰って来ます。働きに出ても、父の名前は出せなくなりました。どうか助けて下さい。」

 と、深々と床に頭を下げられるのであった。そして、私からの質問に答えて、ぽつりぽつりと話しだされた。

 「家の文書のことをはっきりと知ったのは高校生の時でした。『東日流外三郡誌』を出すかどうかで、家族が話し合っているのを聞いて、文書のことを知りました。家族の者はみんな反対でした。しかし、父が出すことを決断しました。」
【転載、おわり】

 『東日流外三郡誌』が世に出たのは、和田家内での深刻な討議と決断の結果だったのでした。「門外不出、他見無用」と記された文書を出すのですから、和田家でのこうしたいきさつは痛いほどわかります。現に偽作キャンペーン(注②)により、その心配は現実のものとなったのですから。(つづく)

(注)
①古賀達也「『新・古代学』のすすめ ―「平成・諸翁聞取帳」―」『古田史学会報』8号、1995年8月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga08.html
②当時、古田先生やわたしたちへのバッシング・偽作キャンペーンは、NHKや週刊誌(『朝日芸能』他)、雑誌(『季刊邪馬台国』他)、地方紙をも巻き込んだもので、猖獗を極めた。和田喜八郎氏への誹謗中傷・人格攻撃に至っては、文章にするのも憚られるほどの悪質なものがあった。

【写真】『東日流外三郡誌』明治写本。冊子本がほとんどだが「大福帳」タイプのものも少数ある。

『東日流外三郡誌』明治写本冊子本

『東日流外三郡誌』明治写本冊子本

『東日流外三郡誌』明治写本。冊子本

『東日流外三郡誌』明治写本。冊子本

『東日流外三郡誌』明治写本「大福帳」タイプ

『東日流外三郡誌』明治写本「大福帳」タイプ


第2577話 2021/09/22

『東日流外三郡誌』真実の語り部(3)

 「金光上人史料」発見のいきさつ
(佐藤堅瑞さん)

『東日流外三郡誌』が『市浦村史』資料編で紹介されるよりも早く、昭和二四年頃には当地の歴史研究者には和田家文書の存在が知られていました。そこで、当時のことを知っている人の証言を得るために、わたしたちは津軽半島各地を行脚しました。そしてようやく証言を得ることができました。1995年5月5日、青森県仏教会々長の佐藤堅瑞さん(柏村淨円寺住職。インタビュー当時、80歳)から次の証言をいただきました。その一部を抜粋して紹介します。全文は古田史学の会・HP「新・古代学の扉」に収録しています(注①)。

【以下、抜粋して転載】
インタビュー 和田家「金光上人史料」発見のいきさつ
佐藤堅瑞氏(西津軽郡柏村・淨円寺住職)に聞く

昭和二十年代、和田家文書が公開された当時のことを詳しく知る人は少なくなったが、故開米智鎧氏(飯詰・大泉寺住職)とともに和田家の金光上人史料を調査発表された青森県柏村淨円寺住職、佐藤堅瑞氏(八十才)に当時のことを語っていただいた。(中略)「正しいことの為には命を賭けてもかまわないのですよ。金光上人もそうされたのだから。」と、ご多忙にもかかわらず快くインタビューに応じていただいた。その概要を掲載する。(編集部)

――和田家文書との出会いや当時のことをお聞かせ下さい。

昭和二四年に洞窟から竹筒(経管)とか仏像が出て、すぐに五所川原で公開したのですが、借りて行ってそのまま返さない人もいましたし、行方不明になった遺物もありました。それから和田さんは貴重な資料が散逸するのを恐れて、ただ、いたずらに見せることを止められました。それ以来、来た人に「はい、どうぞ」と言って見せたり、洞窟に案内したりすることはしないようになりました。それは仕方がないことです。当時のことを知っている人は和田さんの気持ちはよく判ります。
金光上人の文書も後から作った偽作だと言う人がいますが、とんでもないことです。和田さんに作れるようなものではないですよ。どこから根拠があって、そういうことをおっしゃるのか、(中略)安本美典さんでしょうか、「需要と供給」だなんて言って、開米さんや藤本さんの要求にあわせて和田さんが書いたなどと、よくこんなことが言えますね。

――和田家文書にある『末法念仏独明抄』には法華経方便品などが巧みに引用されており、これなんか法華経の意味が理解できていないと、素人ではできない引用方法ですものね。

そうそう。だいたい、和田さんがいくら頭がいいか知らないが、金光上人が書いた『末法念仏独明抄』なんか名前は判っていたが、内容や巻数は誰も判らなかった。私は金光上人の研究を昭和十二年からやっていました。
それこそ五十年以上になりますが、日本全国探し回ったけど判らなかった。『末法念仏独明抄』一つとってみても、和田さんに書けるものではないですよ。

――内容も素晴らしいですからね。

素晴らしいですよ。私が一番最初に和田さんの金光上人関係資料を見たのは昭和三一年のことでしたが、だいたい和田さんそのものが、当時、金光上人のことを知らなかったですよ。

――御著書の『金光上人の研究』(注②)で和田家史料を紹介されたのもその頃ですね(脱稿は昭和三二年頃、発行は昭和三五年一月)。

そうそう。初めは和田さんは何も判らなかった。飯詰の大泉寺さん(開米智鎧氏)が和田家史料の役小角の調査中に「金光」を見て、はっと驚いたんですよ。それまでは和田さんも知らなかった。普通の浄土宗の僧侶も知らなかった時代ですから。私らも随分調べましたよ。お墓はあるのに事績が全く判らなかった。そんな時代でしたから、和田さんは金光上人が法然上人の直弟子だったなんて知らなかったし、ましてや『末法念仏独明抄』のことなんか知っているはずがない。学者でも書けるものではない。そういうものが七巻出てきたんです。

――和田さんの話しでは、昭和二二年夏に天井裏から文書が落ちてきて、その翌日に福士貞蔵さんらに見せたら、貴重な文書なので大事にしておくようにと言われたとのことです。その後、和田さんの近くの開米智鎧さんにも見せたということでした。開米さんは最初は役小角の史料を調査して、『飯詰村史』(昭和二四年編集完了、二六年発行)に掲載されていますね。

そうそう。それをやっていた時に偶然に史料中に金光上人のことが記されているのが見つかったんです。「六尺三寸四十貫、人の三倍力持ち、人の三倍賢くて、阿呆じゃなかろうかものもらい、朝から夜まで阿弥陀仏」という「阿呆歌」までがあったんです。日本中探しても誰も知らなかったことです。それで昭和十二年から金光上人のことを研究していた私が呼ばれたのです。開米さんとは親戚で仏教大学では先輩後輩の仲でしたから。「佐藤来い。こういうのが出て来たぞ」ということで行ったら、とにかくびっくりしましたね。洞窟が発見されたのが、昭和二四年七月でしたから、その後のことですね。

――佐藤さんも洞窟を見られたのですか。

そばまでは行きましたが、見ていません。

――開米さんは洞窟に入られたようですね。

そうかも知れない。洞窟の扉に書いてあった文字のことは教えてもらいました。とにかく、和田家は禅宗でしたが、亡くなった開米さんと和田さんは師弟の間柄でしたから。

――和田さんは忍海という法名をもらって、権律師の位だったと聞いています。偽作論者はこれもありそうもないことだと中傷していますが。

正式な師弟の関係を結んだかどうかは知りませんが、権律師は師弟の関係を結べばすぐに取れますからね。それでね、和田さんは飯詰の駅の通りに小さなお堂を建てましてね、浄土宗の衣着て、一番最下位(権律師)の衣着て、拝んでおったんです。衣は宗規で決っておりますから、「あれ、権律師の位を取ったんかな」と私はそばから見ておったんです。直接は聞いておりませんが、師弟の関係を結んで権律師の位を取ったと皆さんおっしゃっていました。

――それはいつ頃の話しでしょうか。

お寺建てたのは、洞窟から経管や仏像が出て、二~三年後のことですから昭和二十年代の後半だと思います。

――佐藤さんが見られた和田家文書はどのようなものでしょうか。

淨円寺関係のものや金光上人関係のものです。

――量はどのくらいあったのでしょうか。

あのね、長持ちというのでしょうかタンスのようなものに、この位の(両手を広げながら)ものに、束になったものや巻いたものが入っておりました。和田さんの話では、紙がくっついてしまっているので、一枚一枚離してからでないと見せられないということで、金光上人のものを探してくれと言っても、「これもそうだべ、これもそうだべ」とちょいちょい持って来てくれました。大泉寺さんは私よりもっと見ているはずです。

――和田さんの話しでは、当時、文書を写させてくれということで多くの人が来て、写していったそうです。(中略)それらがあちこちに出回っているようです。

そういうことはあるかも知れません。金光上人史料も同じ様なものがたくさんありましたから。

――和田さんと古文書の筆跡が似ていると偽作論者は言っていますが。

私の孫じいさん(曾祖父)が書いたものと私の筆跡はそっくりです。昔は親の字を子供がお手本にしてそのまま書くんですよ。似ててあたりまえなんです。

――親鸞と弟子の筆跡が似ているということもありますからね。

そうなんです。心魂込めて師が書いたものは、そのまま弟子が受け継ぐというのが、何よりも師弟の関係の結び付きだったんですから、昔は。似るのが当り前なんです。偽物だと言う人はもう少し内容をきちんと調べてほしいですね。文書に出て来る熟語やなんか和田さんに書けるものではありません。仮に誰かの模写であったとしても模写と偽作は違いますから。
和田さんが偽作したとか、総本山知恩院の大僧正まで騙されているとか、普通言うべきことではないですよ。常識が疑われます。

――当時の関係者、福士貞蔵氏、奥田順蔵氏や開米智鎧さんなどがお亡くなりになっておられますので、佐藤さんの御証言は大変貴重なものです。本日はどうもありがとうございました。〔質問者は古賀〕
【転載、おわり】

このインタビューは、1995年5月の連休に「古田史学の会・北海道」会員の皆さんと西津軽郡柏村淨円寺を訪問したときに行ったものです。一週間にわたる調査旅行でしたので多くの収穫に恵まれました。インタビューの前日には、昭和五十年頃に和田家文書のなかでも代表的な文書である『東日流外三郡誌』を『市浦村史』資料編として世に出されるに至った和田家内の状況について、和田喜八郎さんのご長女、和田章子(わだ・ふみこ)さんの証言が得られました。(つづく)

(注)
「インタビュー 和田家「金光上人史料」発見のいきさつ 佐藤堅瑞氏(西津軽郡柏村・淨円寺住職)に聞く」『古田史学会報』7号、1995年6月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/kaihou07.html
②佐藤堅瑞『金光上人の研究』昭和三五年(1960年)。

【写真】飯詰村史(昭和24年編集)と同誌に掲載されている和田家が山中から発見した仏像・仏具・舎利壺。

和田家が山中から発見した仏像・仏具・舎利壺

和田家が山中から発見した仏像・仏具・舎利壺

和田家が山中から発見した仏像

和田家が山中から発見した仏像

飯詰村史(昭和24年編集)

飯詰村史(昭和24年編集)


第2576話 2021/09/21

『東日流外三郡誌』真実の語り部(2)

 『東日流外三郡誌』が初めて本格的に世に出たのは、『市浦村史』の資料編(注①)として収録されたときです。その『市浦村史』を刊行された当時の市浦村々長の白川治三郎さん(昭和四六年から3期12年村長を務められた)からお手紙をいただきました。というのも、安本美典氏責任編集『季刊邪馬台国』52号(注②)に掲載された「虚妄の偽作物『東日流外三郡誌』が世に出るまで」という記事で、白川さんに対して、秘宝探しのために公費を支出したなどという誹謗中傷が同誌編集部からなされたため、白川さんの反論を御寄稿いただいたものです。
 秘宝探しのために公費を支出したなどという『季刊邪馬台国』の記事は、事実無根の中傷であり、村の公費支出が事実ならば、記録が残されているはずです。議会の承認がなければそのような支出を村長個人で決められるものでもありません。あまりにひどい中傷記事でしたので、『古田史学会報』6号(注③)に白川さんからの反論を掲載しました。その一部を転載します。

【以下、転載】
○和田氏から発掘調査の費用を出してほしいと申し出たこと。
 この話は村にもちかけられたこともないし、従って公費を出す訳はない。
 他の五~六人のひとが、また藤本氏が多額出資したと言うことも聞いていない。その後秘宝が出ないからと言って、和田氏といざこざがあったと言うことも聞いていない。
 また、村では秘宝探しの発掘もしていないから、和田氏を追及する根拠もない。 

○『東日流外三郡誌』と市浦村関係者が名付けたと言うこと。
 『東日流外三郡誌』を初めて見たのは、昭和四十六年の秋頃と思う。場所は市浦村役場の村長室です。資料は一冊がコピーされてから次の一冊が届けられるので、日数の間隔はかなり費やされている。その都度一冊ずつ、全部読み切らず断片的に見ていた。
 私の記憶では最初から史料に『東日流外三郡誌』と書かれていたと思う。

○秘宝探しに公費支出した責任逃れの為、『外三郡誌』を刊行したと言うこと。
 資料(『東日流外三郡誌』)はこれまでの日本史に書かれなかった、安倍安東氏にまつわる極めて貴重と思われる内容が多く、これを一般に公開して世論を喚起し、その真偽の程を学者の研究にゆだねると共に、安倍安東氏の政策の根底には、混迷せる国際情勢に於てこれからは真に平和な国際社会醸成の為の人権確立や、正しい宗教観が貫かれていること等を世に喧伝したいという目的があった。責任逃れ等とは、とんでもないことだ。

○仏像その他出土品を分けた話。
 村として秘宝発掘の事実はないし、他にも仏像その他発掘による出土品のことは全く聞いていない。従って、これらを出資者が分けたと言う話は全く根拠がない。
【転載おわり】

 以上のような反論を掲載した『古田史学会報』に対して、偽作論者からは〝白川氏はそのようなことは言っていない、『古田史学会報』の内容は詐術〟とする中傷報道がなされました(注④)。そこで『古田史学会報』16号に白川さんのお手紙のコピー(冒頭部分)をそのまま掲載しました。なぜ偽作論者達は〝すぐにばれる嘘〟をつくのか、不思議に思ったものです。こうしたなりふりかまわぬ偽作論者の攻撃は、真実を語る現地の人々の証言に、彼らが追い詰められている証拠と思われました。(つづく)

(注)
①『市浦村史資料編』(上・中・下)市浦村史編纂委員会、昭和五〇年(1975)~昭和五二年(1977)。『市浦村史資料編』刊行以前、『車力村史』(1973年刊。つがる市)にも『東日流外三郡誌』の一部が掲載されているようです。
②「なぜ原本を出さぬ、詐術にまみれた三郡誌騒動」『ゼンボウ』1996年9月号。
③白川治三郎「『季刊邪馬台国』の中傷記事に反論する『東日流外三郡誌』公刊の真実」『古田史学会報』6号、1995年4月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/kaihou06.html
④古賀達也「古田史学会報への中傷に反論する 地に堕ちた偽作キャンペーン」『古田史学会報』16号、1996年10月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou16/koga16.html

【写真】白川元村長からの手紙(部分)。『市浦村史資料編』他。

白川元村長からの手紙(部分)

白川元村長からの手紙(部分)

『市浦村史資料編』他

『市浦村史資料編』他


第2575話 2021/09/20

『東日流外三郡誌』真実の語り部(1)

 『東日流外三郡誌』の編著者、秋田孝季(あきた・たかすえ)の名前が記された「寛政宝剣額」を見つけ、青山兼四郎さん(当時72歳、中里町)の証言を得ることができました(注①)。「洛中洛外日記」2572話(2021/09/17)〝『東日流外三郡誌』、「寛政宝剣額」の発見(2)〟で紹介した通りです。それ以降も古田先生とわたしは、津軽の古老達の証言を求める調査を続けました。
 平成6(1994)年8月4日には、山王日吉神社宮司松橋徳夫さん(市浦村・洗磯崎神社宮司)の証言を得ることができました。「寛政宝剣額」が奉納されていた神社宮司の証言ですから、第一級の証言と言えるでしょう。松橋宮司は見るからに誠実な方で、「わたしは神に仕える身ですから、嘘はつけません」と次のように語られ、ビデオ撮影とその公開も了承されました。聞き手は古田先生です(注②)。

(古田)お忙しいところ、どうもすみません。この宝剣額(宝剣額の写真を示しながら)は市浦の教育委員会にあったものでございますが、その前は日枝神社にあったとお聞きしてておりますが、そうでございますか。

(松橋)はい、間違いございません。わたくしが昭和二十四年五月に宮司に就任いたしまして、ここのお神楽は毎年旧の六月の十六日でございまして、その場に参りました時に、昭和二十四年の年に初めてこの額を拝見したわけでございます。

 二十四年でございますね。

 そうでございます。剣が二本と、「奉納御神前日枝神社」というような字は見ておりますけれども、あとは何が書いてあるかよく気をつけなかったのではっきりしたことは判りません。

 この特徴的な図柄でございますから、この二本の宝剣のついた額はあった、ということは間違いございませんですね。

 はい。

 それで、やはりこの宝剣の額のことについて、それまでの氏子さんや氏子総代さんともお話になったわけですね。

 ええ。珍しい額だというので、その時は「ああ、これ古い額ですね」ということを申し上げまして、皆で見ておりました。しかし、下の文字とかは記憶しておりませんので。

 「御神前」とか「日枝神社」とかいうのはあったわけでございますね。

 そうでございます。

 ここに「日枝神社」と書いてありますが、現在、現地で(神社を)拝見しますと「日吉神社」と字は書いてございますね。

 そうでございます。

 発音はやはり「ひえ」神社と。

 そうでございます。東京に同じ日枝神社という神社がございますし、ここは俗に山王様と申し上げまして、昔は山王宮とも言われた神社でございます。いずれにしても「ひえ」神社、字は違っていても「ひえ」神社、「日」の下に「吉」書いても「枝」書いても「ひえ」神社ということでございます。

 京都の比叡山の所にもございますものね。

 はい、そうでございます。

 そうしますと、念を押すようでございますけれど、氏子さんや氏子総代さんも含んで、そういう方々も永年この額には慣れ親しんできておられると。

 ええ、当時の方はそういうことでございますね。

 昭和四十年代の終りの頃か五十年代の初めに教育委員会に移ったということのようで。

 そうでこざいますね。私もはっきり記憶はございませんが、昭和五十年頃ではないかと記憶しております。

 それまでは氏子さんたちもよく慣れ親しんでおられたということでございますね。

 そうです。

 それからもう一つお聞きしておきたいのですが、先ほど、文字が「奉納御神前」とか「日枝神社」というのははっきり憶えていると、他ははっきり憶えていなかったと仰ったんですが、しかし、ここ(額面の「秋田孝季」「東日流外三郡誌」などの部分)にこういうふうに文字があったこと自身はよく憶えておられるのですね。

 ええ、それは書いてあったことはよく憶えております。その時分まだ興味はなかったものですので、はっきりしたことは憶えておりません。ただ文字が書いてあったことは記憶しております。

 こういう感じの字面というか、姿をしておったわけですね。

 はい

 貴重な御証言、どうもありがとうございました。

 以上の証言を得ました。次いで、市浦村元村長の白川治三郎さん(『東日流外三郡誌』や「宝剣額」写真を収録した『市浦村史』発刊時の村長)からはお手紙をいただきました。(つづく)

(注)
①古賀達也「特集/和田家文書 秋田孝季奉納額の「発見」 「和田家文書」現地調査報告」『古田史学会報』創刊号、1994年6月
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga01.html
「山王日吉神社宮司松橋徳夫氏の証言 宝剣額は日吉神社にあった」『古田史学会報』5号、1995年2月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/kaihou05.html

【写真】「寛政宝剣額」と『東日流内三郡誌』

寛政宝剣額 土崎之住人 秋田孝季

寛政宝剣額 土崎之住人 秋田孝季

東日流内三郡誌 土崎之住人秋田孝季

東日流内三郡誌 土崎之住人秋田孝季


第2572話 2021/09/17

『東日流外三郡誌』、「寛政宝剣額」の発見(2)

 『東日流外三郡誌』の編著者、秋田孝季(あきた・たかすえ)の名前が記された「寛政宝剣額」を探し求めて、古田先生と二人で津軽の五所川原市を訪れたのは1994年5月5日のことでした。そして、市浦村役場の成田義正さんのご協力を得て、「宝剣額」が同村教育委員会で保管していることをつきとめ、ガラスケースの中に納められていた「宝剣額」とようやく対面することができました。
 その「宝剣額」の実見調査に基づく古田先生の所見が『古田史学会報』創刊号に報告(注①)されています。次の通りです。

〝「新しい段階」は、一枚の奉納額によって導入された。長さ、約七十センチ、幅、約三十三センチ、厚さ、約三・四センチの木板だ。その中央には、二振りの矛状鉄剣(宝剣)が打ちつけられている。長さ、約四八・五センチ。
 その周辺の文字は、次のようである。
 「(向って右側)
 奉納御神前 日枝神社
 (下部署名)
 土崎住
  秋田孝季
 飯積住
  和田長三郎
  (向って左側)
 寛政元年酉八月□日 東日流外三郡誌 (右行)筆起(左行)爲完結」(後略)〟『古田史学会報』創刊号

 後日、古田先生は「宝剣額」を市浦村からお借りして、昭和薬科大学で木材部分の顕微鏡写真撮影、東北大学金属研究所にて金属部分の検査を実施されました。その検査結果については後述します。
 このように徹底した学術調査が実施されました。しかし、偽作論者たちによる〝反論〟、たとえば「宝剣額は和田喜八郎氏による偽造」、あるいは「別の所にあった宝剣額を盗んで、文面を書き換えた」などの中傷が予想されたので、「宝剣額」が昔(例えば戦前)から山王日吉神社に奉納されていたことを知っている当地のご老人の証言を得るために、それこそ津軽半島を駆け巡りました。そして、ついに青山兼四郎さん(当時72歳、中里町)の証言を得ることができたのです。次の通りです。

〝青山兼四郎氏、七二歳。地元で建築関係の仕事に携わられておられ、郷土史にも詳しい方だ。青山氏の証言によれば次の通りだ(ビデオに収録。後日、手紙で再確認)。
①この額は山王日吉神社に掲げられていたものである。子供の頃から見て知っていた。
②昭和二八年秋頃、市浦村の財産区調査により測量を行ったが、自分以外にも調査関係者がこの額を見ている。存命の者もいる。
③当時、関係者の間でも大変古い貴重な額であることが話題になった。
④「日枝神社」「秋田孝季」という字が書かれていたことは、はっきりと覚えている。〟『古田史学会報』創刊号(注②)

 青山さんには詳細な事実関係等について、『古田史学会報』(注③)にも寄稿していただきました。
 古田先生とわたしは、津軽の古老達の証言を求める調査旅行を翌年以降も続けました。その結果、山王日吉神社宮司の松橋徳夫さん、市浦村元村長の白川治三郎さん(『東日流外三郡誌』や「宝剣額」写真を収録した『市浦村史』発刊時の村長)、青森県仏教会々長の佐藤堅瑞さん(柏村・浄円寺住職)ら当地有力者による貴重な証言を次々と得ることができました。(つづく)

(注)
①古田武彦「決定的一級史料の出現 ―「寛政奉納額」の「発見」によって東日流外三郡誌「偽書説」は消滅した―」『古田史学会報』創刊号、1994年6月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/furuta01.html
②古賀達也「特集/和田家文書 秋田孝季奉納額の「発見」 「和田家文書」現地調査報告」『古田史学会報』創刊号、1994年6月
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga01.html
③青山兼四郎「『東日流外三郡誌』は偽書ではない ―青森県古代・中世史の真実を解く鍵―」『古田史学会報』6号、1995年4月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/tugaru06.html


第2566話 2021/09/13

古田先生との「大化改新」研究の思い出(9)

古田先生は「大化改新」共同研究会を立ち上げられると、坂本太郎さんと井上光貞さんの郡評論争をはじめ大化改新関連重要論文を次から次へと配られ、参加者に同研究史を勉強するよう求められました。学界での研究・論争の大枠を把握しておくことが不可欠な分野だったからです。そこで、本シリーズでも「大化の改新」についての研究史が比較的わかりやすくまとめられている『ウィキペディア(Wikipedia)』の関係部分を転載し、要点を解説します。

【「大化の改新」研究史】
(前略)そんな中、坂本太郎は1938年(昭和13年)に「大化改新の研究」を発表した。ここで坂本は改新を、律令制を基本とした中央集権的な古代日本国家の起源とする見解を打ち出し、改新の史的重要性を明らかにした。これ以降、改新が日本史の重要な画期であるとの認識が定着していった。
しかし戦後、1950年代になると改新は史実性を疑われるようになり、坂本と井上光貞との間で行われた「郡評論争」により、『日本書紀』の改新詔記述に後世の潤色が加えられていることは確実視されるようになった。さらに原秀三郎は大化期の改革自体を日本書紀の編纂者による虚構とする研究を発表し「改新否定論」も台頭した。
「改新否定論」が学会の大勢を占めていた1977年(昭和52年)、鎌田元一は論文「評の成立と国造」で改新を肯定する見解を表明し、その後の「新肯定論」が学会の主流となる端緒を開いた。1999年(平成11年)には難波長柄豊碕宮の実在を確実にした難波宮跡での「戊申年(大化4年・648年)」銘木簡の発見や、2002年(平成14年)の奈良県・飛鳥石神遺跡で発見された、庚午年籍編纂以前の評制の存在を裏付ける「乙丑年(天智4年・665年)」銘の「三野国ム下評大山五十戸」と記された木簡など、考古学の成果も「新肯定論」を補強した。
21世紀になると、改新詔を批判的に捉えながらも、大化・白雉期の政治的な変革を認める「新肯定論」が主流となっている。
【転載おわり】

以上のように、「大化改新」は坂本太郎さんの研究により重視されますが、戦後、お弟子さんの井上光貞さんとの郡評論争(注①)などを経て、『日本書紀』編纂時の潤色が明らかとなり、「改新否定論」が優勢となります。その流れを大きく変えたのが前期難波宮の出土でした(注②)。このことが決定的証拠となり、「新肯定論」が大勢を占め、今日に至っています。
単純化すれば、七世紀半ばの改新詔などが『日本書紀』編纂時に令制用語で潤色されたが、本来の詔勅「原詔」は存在したとする説が最有力説となっており、その範囲内で諸説が出されています。たとえば潤色に使用された「令」を近江令・浄御原令・大宝律令のいずれとするのかという問題や、改新詔が発せられた都は難波なのか飛鳥なのかなどです。
このような諸説や視点は、通説のみならず九州王朝説・多元史観でも同様に生じます。古田先生が共同研究会のメンバーに通説を勉強することを求められていた理由もここにあったのです。(つづく)

(注)
①坂本太郎「大化改新詔の信憑性の問題について」『歴史地理』83-1、昭和27年(1952)2月。
井上光貞「再び大化改新詔の信憑性について ―坂本太郎博士に捧ぐ―」『歴史地理』83-2、昭和27年(1952)7月。
井上光貞「大化改新の詔の研究」『井上光貞著作集 第一巻』岩波書店、1985年。初出は『史学雑誌』73-1,2、昭和39年(1964)。
②中尾芳治『考古学ライブラリー46 難波京』(ニュー・サイエンス社、1986年)には、「孝徳朝に前期難波宮のように大規模で整然とした内裏・朝堂院をもった宮室が存在したとすると、それは大化改新の歴史評価にもかかわる重要な問題である。」「孝徳朝における新しい中国的な宮室は異質のものとして敬遠されたために豊碕宮以降しばらく中絶した後、ようやく天武朝の難波宮、藤原宮において日本の宮室、都城として採用され、定着したものと考えられる。この解釈の上に立てば、前期難波宮、すなわち長柄豊碕宮そのものが前後に隔絶した宮室となり、歴史上の大化改新の評価そのものに影響を及ぼすことになる。」(93頁)との指摘がある。


第2563話 2021/09/11

古田先生との「大化改新」研究の思い出(8)

 二年間にわたって続けられた「大化改新」共同研究の結果、「大化改新」の実像について、晩年の古田先生の見解が『古田武彦の古代史百問百答』では次のように述べられています(注①)。

〝質問 先生は改新の詔が九州王朝で出された詔を盗用したものだとおっしゃっていますが、その根拠を教えて下さい。
 回答 大化年間に行われた十六回の詔の第一回目は「(大化元年)八月丙申の朔庚子に東国等の国司を拝して」行われており、(中略)東国に対する詔はあっても他の西国、南国、北国という表現はありません。東国に突出した表記になっていると言えます。第五回目の改新の詔には「畿内」の定義が記されています。「凡そ畿内は、東は名墾の横河より以来、南は紀伊の兄山より以来、西は赤石の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波の合坂山より以来を、畿内とす。」この畿内国を原点として「東国」を指すとすれば、当然「西国」も必要です。中国や四国や九州が西国に当たります。しかし、それは出てきません。なぜ西国が出てこないのでしょうか。この畿内国の定義のすぐ後に「凡そ畿内より始めて、四方の国に及(いた)るまで」の文面があります。ここには「東国=四方の国」という概念が示されています。なぜでしょうか。その答えは一つです。「これらの詔勅の“原文面”における原点は九州である」からです。九州を原点とすれば、この「東国」が「四方の国」になることに何の問題もありません。〟146頁

 この質疑応答では、古田先生は「大化改新詔」は九州王朝(倭国)が出したもので、“原文面”は九州を原点としたものとされています。従って、「大化改新詔」は九州王朝が太宰府で発したと理解されていると思われます。

〝質問 孝徳紀には改新の詔以外にも数多くの詔勅が記載されていますが、乙巳の変の直後にこのように多くの制度が発表になることは不自然ではないでしょうか。
 回答 孝徳紀の大化時代(六四五~六四九年)には詔勅が十六回も集中して出てきています。これは『日本書紀』を編纂する時の方針の一つです。安閑紀にも「屯倉」記事がぎっしり詰め込まれています。(中略)『日本書紀』の編者はそのように分かりやすく構成することによって、記載されている内容が八世紀現在の政治に有効に反映するように意図しているのです。〟146頁

 ここでは、大化年間の諸詔は『日本書紀』編纂者による編集構成であり、必ずしも同年代の詔勅とは限らないことを示唆されています。要は、八世紀の大和朝廷に有利となるように詔勅を大化年間に集合している、との指摘です。

〝質問 改新の詔には有名な「公地公民制」が含まれています。なぜそれほど政権の基盤が安定していないこの時期にこのような強権が発動できたのでしょうか。
 回答 (前略)『日本書紀』は「七〇一」以前の九州王朝関連の領地と領民を一度「私地私民」とし、大宝律令によって、「近畿天皇家や藤原氏たちの豪族」の有する「公地公民」としたのです。このように八世紀の(大宝律令の)公地公民制は決して(元正や藤原氏などの)勝手気ままに施行されたのではなく、あの天智天皇や天武天皇も承認していた公約の「実現」に他ならないということにするために、半世紀遡った時点の改新の詔に加えられたわけです。これは『日本書紀』最大の達成目標とすべきところだったのではないでしょうか。〟147頁

 この回答部分は重要です。「大化改新詔」の「公地公民制」は大宝律令に基づいた詔であり、それを権威づけるために孝徳紀まで半世紀遡らせ、他の改新詔に加えたとされています。すなわち、「大化改新詔」には九州王朝が九州(太宰府)を原点として発したものと、大宝律令に基づいて近畿天皇家が発した詔として半世紀遡らせたものが含まれるという理解なのです。

〝質問 孝徳紀の詔勅の中に薄葬令が出てきます。実行されたのでしょうか。
 回答 第十一回目の詔勅は、墓の大きさをテーマにしています。もう大きさを競うのはやめようという命令です(大化二年三月二十二日条)。(中略)この「薄葬の詔」は「近畿の天皇陵や古墳の現状」に全く合致していないのです。舞台を一転させて、九州の古墳と比較すれば、ここでは一変します。九州の場合、近畿のような大型古墳はありません。ことに六世紀後半や七世紀ともなれば、大型古墳はほとんど見られないのです。つまりこの詔勅は九州王朝で七世紀前半までに出されたものを盗用したものと言えるでしょう。〟127~128頁

 大化二年(646年)の「薄葬の詔」にいたっては、本来の詔勅(原勅)は七世紀前半までに九州王朝が発したもので、それを「盗用」したものとされています。

〝質問 『日本書紀』に出てくる年号は九州王朝の年号と同じものが使用されています。それらの年号と大化の改新の関係を説明してください。
 回答 『日本書紀』には年号が三つ登場してきます。「大化」(六四五~六四九年)、「白雉」(六五〇~六五四年)、「朱鳥」(六八六年)です。(中略)「白雉」と「朱鳥」は『日本書紀』と九州年号の時期は接近していますが、「大化」はほぼ半世紀のズレがあります。「大化」だけが飛び離れている理由は、『日本書紀』の「大化の改新」は、大宝律令(すなわち九州年号の「大化の改新」)の歴史的背景(淵源)を示している、という意義があります。言いかえれば、大宝元年は大化七年(三月二十一日まで)ですから、この大宝元年の一大変革は、文字通り「大化の改新」と呼ばれたはずです。九州年号による呼称だったわけです。『日本書紀』は七〇一年に発布された大宝律令を正当化するために五〇年遡った時点に同様の内容をもつ「改新の詔」を記載することによって「天智帝、天武帝もご承認された詔である」ということにしたのです。〟148~149頁

 以上のように古田先生は各質問に答えられていますが、同書の構成は「一問一答」形式であるため、論文のような厳密な論証や他の質問との厳格な対応はなされてはいません。〝わかりやすく〟ということに重点を置かれたためです。ですから、先生の回答全般から、「大化改新詔」に対する先生の理解を正しく把握することが肝要です。
 これらの回答が示していることは次の点です。

(1)『日本書紀』編纂者の主目的は、九州年号「大化」を孝徳紀に約50年遡らせて移動した「大化年間」に、九州王朝の「詔」や自らの大宝律令を基本とした「詔」を配置することにより、それらを権威づけることにある。
(2)その結果、「大化改新詔」には、七世紀前半に発せられた九州王朝の詔や、八世紀の大和朝廷による大宝律令に基づいた詔などが混在している。
(3)「東国」国司らを対象とした九州王朝による詔の発出地は九州(太宰府)である。

 おおよそ、以上のようです。「大化改新」共同研究会立ち上げ時の認識、〝「大化改新詔」は九州王朝により九州年号の大化年間に発せられた〟とする作業仮説が、より重層的多元的に、そして精緻に豊かに発展したことがわかります。中でも(1)の認識は重要なもので、「古田史学の会」関西例会でも様々な視点に基づいて諸説が発表され、「大化改新詔」研究は今日に至っています(注②)。(つづく)

(注)
①古田武彦『古田武彦の古代史百問百答』ミネルヴァ書房、平成二七年(2015)。
②古賀達也「洛中洛外日記」896話(2015/03/12)〝「大化改新」論争の新局面


第2561話 2021/09/09

古田先生との「大化改新」研究の思い出(7)

 1992年1月から始まった「大化改新」共同研究会と並行するように、同年11月に注目すべき研究が発表されました。増田修さんの「倭国の律令 ―筑紫君磐井と日出処天子の国の法律制度」(注①)という論文です。同論文が掲載された『市民の古代』14集をテキストとして、増田さんは翌1993年4月の共同研究で、九州王朝律令の推定研究について発表されました。その様子を、安藤哲朗さん(現、多元的古代研究会・会長)が次のように報告しています。

〝ついで増田氏より『市民の古代 14集』「倭国の律令」をテキストとして、「倭国の律令は古田氏の所説の如く筑紫君磐井の頃から、晋の泰始律令を継承して作られた。日本書紀の冠位十二階など隋書にある同じ十二階でも「官位」と、発音は同じでも大きく異なる。戸令・田令・公式令などは倭国の残影が感じられる。正倉院戸籍の美濃と筑前の相違は西晋と両魏の差である。大宝令以前の律令の存在があることから近江令が推定されているが、日本書紀に記述のない近江令の存在は否定されるべきである」と論じられた。〟(注②)

 この報告にあるように、増田さんの九州王朝(倭国)律令の検討範囲は広く、古田学派にとって同分野の基本論文の一つに位置づけられるものでした。わたしも「大宝二年籍」について研究(注③)してきましたので、なにかと参考にさせていただきました(注④)。なお、同論文には「大化改新詔」についての言及は見えません。(つづく)

(注)
①増田修「倭国の律令 ―筑紫君磐井と日出処天子の国の法律制度」『市民の古代』14集、新泉社、1992年。「古田史学の会」HPに収録。
②安藤哲朗「第六回 共同研究会(93・4・16)」『市民の古代ニュース』№118、1993年6月。
③古賀達也「『大宝二年、西海道戸籍』と『和名抄』に九州王朝の痕跡を見る」『市民の古代・九州ニュース』No.18、1991年9月。
 古賀達也「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」『古田武彦記念古代史セミナー2020 予稿集』大学セミナーハウス、2020年11月。
④古賀達也「洛中洛外日記」2149話(2020/05/10)〝「大宝二年籍」への西涼・両魏戸籍の影響〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2117~2198話(2020/03/22~08/08)〝「大宝二年籍」断簡の史料批判(1)~(22)〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2199話(2020/08/08)〝田中禎昭さんの古代戸籍研究〟