古田武彦一覧

第3094話 2023/08/15

論文削除を要請された『親鸞思想』(1)

 わが家の家宝となった古田先生からいただいた『親鸞思想』(注①)ですが、同書が冨山房から発刊されるに至った経緯には、「数奇な運命」がありました。そもそも同書は京都の書肆、法蔵館が出版する予定でした。同社から出版広告まで出されたにもかかわらず、突如、特定論文の削除を要請されたのです。このときの様子が、同書「自序」に描かれています。

 〝自序
親鸞の研究はわたしにおいて、一切の学問研究のみなもとである。わたしはその中で、史料に対して研究者のとるべき姿勢を知り、史学の方法論の根本を学びえたのである。
(中略)この一書は誕生の前から数奇な運命を経験した。かつて京都の某書肆から発刊することとなり、出版広告まで出されたにもかかわらず、突然、ある夕、その書肆の一室に招かれ、特定の論文類の削除を強引に求められたのである。当然、その理由をただしたけれども、言を左右にした末、ついに「本山に弓をむけることはできぬ。」この一言をうるに至った。
わたしの学問の根本の立場は“いかなる権威にも節を屈せぬ”という、その一点にしかない。それは、親鸞自身の生き方からわたしの学びえた、抜きさしならぬ根源であった。それゆえわたしは、たとえこのため、永久に出版の機を失おうとも、これと妥協する道を有せず、ついにこの書肆と袂を別つ決意をしたのである。思えば、この苦き経験は、原親鸞に根ざし、後代の権威主義に決してなじまざる本書にとっては、最大の光栄である、というほかない。――わたしはそのように思いきめたのであった。〟

 こうした経緯により出版の道が閉ざされたのですが、それを惜しんだ家永三郎氏のご尽力により、同書は冨山房から出版されました。そのことも「自序」に記されています。

 〝けれどもその後、幸いに事情を知られた家永三郎氏の厚情に遭い、今回、東都の冨山房より出版しうることとなった。かつて少年の日、わたしは冨山房の百科辞典を父の書棚に見出し、むさぼるように読みふけった思い出がある。本の乏しい戦時中であった。ここよりわたしの初の論文集を刊行しうることとなったのは、一個の奇縁と言うべきであろう。〟

 家永氏は、東北大学で学ばれていた古田先生に出会われたとのことで、同書「序」に次のように氏は紹介している。

 〝本書の著者は東北大学に学び故村岡典嗣先生に就いて日本思想史学を専攻し、近年まで育英の業に従事しつつその専攻の研究にいそしみ、めざましい業績を次々とあげてこられた篤学の士である。たまたま私が村岡先生逝去直後東北大に出講したという縁故により、著者は二十年後の今日まで上京されるごとに陋屋を訪れて研究の成果を私に示されるのであるが、そのたびにいつも学界の通念を根本からうち破る新説をもたらすのを常とした。その精進ぶりには舌を捲かないでいられないばかりでなく、研究を語るときの著者のつかれたような情熱に接すると、怠惰な私など完全に圧倒されてしまうのであった。
今、著者が全力投球の意気ごみでとりくんできた親鸞研究にひとくぎりのついたのを機会に、冨山房から一冊の論文集が上梓されることになったのは、まことによろこびにたえない。親鸞研究に豊富な新知見を加上する本書の公刊が、学界に寄与するところ絶大なもののあろうこと、とくにもともと活潑な親鸞研究をいっそう促進する強烈な刺激となることであろうことは、私の信じて疑わないところである。〟

 『親鸞思想』は明石書店から刊行された『古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編Ⅰ』(注②)に収録されています。古田学派研究者には是非とも読んでいただきたい一冊です。(つづく)

(注)
①古田武彦『親鸞思想 その史料批判』冨山房、1975年。
②古田武彦『古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編Ⅰ』明石書店、2002年。本書目次は次の通り。
〔目次〕
1 親鸞研究の方法
史料批判の方法について/親鸞研究の方法論的基礎/家永第3次訴訟と親鸞の奏状
2『親鸞思想――その史料批判』
3『親鸞思想』をめぐって
親鸞研究の根本問題/三願回転の史料批判/親鸞思想の史料批判/親鸞の史実/書評『教行信証の研究』/親鸞に於ける悪人正機説について/真実の出発点


第3092話 2023/08/13

親鸞「三夢記」研究の古田論文を読む

 先日、日野智貴さん(古田史学の会・会員)から論文が届きました。古田先生の親鸞研究「三夢記」(注)真偽論争に関する論文です。未発表論文のようですので内容には触れませんが、立派な論考でした。日野さんは古田学派で親鸞研究の論文を書ける数少ない研究者の一人です。

 同論文への評価を求められたので、わたしは久しぶりに「三夢記」に関する古田先生の著作と論文を精読することにしました。11月の八王子セミナーや9月の東京古田会の和田家文書研究会での発表準備に追われていますので、〝こんな忙しいときに勘弁してほしい〟と思いながら読み始めたのですが、古田先生の名著『親鸞 人と思想』(清水書院、1970年)、『親鸞思想 その史料批判』(冨山房、1975年)、『古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編Ⅱ』(明石書店、2002年)、『わたしひとりの親鸞』(明石書店、2012年)を読み始めると面白くて、二日かけて、一気に読んでしまいました。とりわけ、冨山房の『親鸞思想』は古田先生から頂いたもので、大切な一冊です。表紙の裏には先生の直筆で次の一文が記されています。

 「人間(じんかん)好遇、生涯探求
古賀達也様
御机下
いつもすばらしい御研究やはげましに
導かれています。今後ともお導き下さい。
一九九六年五月十五日
古田武彦」

 過分のお言葉をいただき、この本も家宝の一つとなりました。

 日野論文のテーマである「三夢記」は、学界では偽作とされてきたのですが、古田先生の研究により真作であることが証明されました。なぜ親鸞が「三夢記」を末娘の覚信尼に与えたのかなど、とても興味深い内容を含む研究です。この「三夢記」が古田先生の親鸞研究にとっていかに重要であるかが、次の文からも理解できると思います。

〝問題の行き着くところ、それは「学問の方法」だ。人間の所業に対する、認識の仕方なのである。古代史も、親鸞も、対象こそ異なれ、同一の方法だ。
わたしがこの半世紀をふりかえってみて、真に憂いとすべきところ、それはこの「方法の停滞」と「旧手法の反復」である。(中略)
例えば、例の「三夢記」の信憑性問題。わたしの親鸞研究にとって一の核心をなしたこと、本集中にもくり返し言及されている通りである。〟『わたしひとりの親鸞』「あとがき」(明石書店、2012年)

 親鸞研究でも、日野さんに続く古田先生の後継者が出ることを願っています。

(注)「建長二年(1250年)文書」とも呼ばれ、「磯長(しなが)の夢告」「大乗院の夢告」「六角堂、女犯の夢告」の偈文(詩句)を記したもので、78歳の親鸞が末娘の覚信尼に与えた文書。


第3042話 2023/06/15

上岡龍太郎が見た古代史

 ―「アホ・バカ」「ツボケ」の分布考―

上岡龍太郎さんが亡くなられて、テレビ各局で追悼番組が放送されています。その中で必ず取り上げられるのが、上岡さんが司会をされていた名番組「探偵!ナイトスクープ」です。関西ローカルで始まった番組ですが、驚異的な視聴率を誇っていました。この番組で特集された「全国アホ・バカ分布図の完成」編(平成3年、1991年)は日本民間放送連盟賞テレビ娯楽部門最優秀賞などに輝いた日本テレビ史に残る名作でした。同番組で調査された「アホ・バカ分布図」に基づき、番組プロデューサーの松本修さんにより『全国アホ・バカ分布考』が上梓されています(注①)。
この「全国アホ・バカ分布」について、古田先生との対談で上岡さんが紹介されています。『新・古代学』第1集(注②)に掲載された「上岡龍太郎が見た古代史」です。関係部分を要約して転載します。

【以下、転載】

父祖の地足摺は侏儒国やないか

上岡 朝日新聞社から『「邪馬台国」はなかった』が出たんが昭和四六年ですか。人間て、何か変な……。勝手にファンとか、好きな人に事よせて、何か自分と似たところがあるかを見つけたいもんでね。ボクの親父も四国高知県で、土佐清水です。(中略)
ええ、で、先生の論証によると、わが父祖の地は侏儒国やないかと思いましてね。(中略)
古田 あそこは唐人岩とか唐人駄馬とかあるでしょう。あの辺の人たちは日常生活で「この唐人!」といって、罵り言葉ですね、「このバカ」ということをいうんですよ。

「アホ・バカ」と「ツボケ」

上岡 その話でね、ボクは「探偵ナイトスクープ」という朝日放送の番組をやっているんですよ。これはテレビ見ている人からハガキが寄せられまして、その依頼にもとづいて、ボクが探偵局長で自分とこのタレントの探偵を派遣して、その真理について探るという番組です。
たまたま兵庫県の人からのハガキで「私は関東で主人は関西です。ケンカすると私はバカといい主人はアホといいます。アホとバカの境界線はどこにあるんでしょうか」というのがきたんで、「探しに行け!」と。東京ならみんな「バカバカ」というわけですよね。そしてずーっと来だしたら名古屋で「タワケ」ゾーンに突入してしもうたんです。名古屋では「タワケ」というんです。そして名古屋から滋賀県あたりまで来ると「アホ」になるんですね。北野誠というタレントがやっているんですが、「わかりました『タワケ』と『アホ』のゾーンは関ヶ原なんです」と、道を挟んで向こうは「タワケ」でこっちが「アホ」でした。
古田 アハハ、なるほど。
上岡 で、「わかりました」っていうから、「お前な、だれが『タワケ』と『アホ』を調べえというたんじゃ。『バカ』の分布図を調べよ」。これはもう手に負えんということで、朝日放送が日本中の各教育委員会、小学校にアンケートで配布しまして、そして「アホ・バカ」分布図というのを作り上げたんです。(中略)
全国各地から「あなたのところでは人を罵る時にどういうてますか」というふうに……。そしたら柳田国男の方言周圏論、「カタツムリの検証」という、都を中心にしてどんどん広がって外へ行くほど古い言葉が残っている、というのが実証されてたんです。この『全国アホ・バカ分布考』というのはテレビでしか調べようがないんだというんで、かなりすばらしい本なんですよ。
その中の地図を見てみますとですね、古代王朝があったとされるところはやっぱり特色があるんですよ。北九州、出雲、吉備、それからもちろん近畿、そいから越、これらだけは際だって言葉が違うんですよ。で、その中に東北で人をののしる時に「ツボケ」。
古田 そうそう。
上岡 これボクは松本修に聞いたんです。「『ツボケ』というのがあるそうやけど、どうなっている」というたら、「すいません、ボケの系譜に関しては非常に複雑なんで、この際ははずしました」と。「『アホ』と『バカ』に関しては全部分布できたんですけど、ボケは分布がおかしいんです」と。だから、東北では「ツボケ」なんですが、これがものすごう「アホ・バカ」の分布と違う分布をしているのです。で、「ツボケ」というのが北海道へ渡らないんですって、かたくなに本州で止まるんです。
古田 そうなんですよ。
上岡 他のは、離れ小島まで、南西諸島やろが八丈島やろがいくのに、「ボケ」だけはかたくなに止まるんですわ。ずっと分析した人が「これは何かある」っていうんですよ。これをやりたいんですけど、「アホ・バカ」に一生懸命でちょっと「ボケ」はやめてるんですけど、「頼むからいっぺんこれをやってくれ、何かそれから出るかもわからん」といってるんですが。
古田 いや、面白いですね。イギリスのほうで「このドルイド!」というそうですよ。つまり「ドルイド」というのが先住民で、これが罵り言葉で「ドルイド」というそうです。
上岡 ほう、やっぱり先住民。
古田 ええ「唐人」とか「ツボケ」とかあるんですねえ。「ドルイド」の話みたいに、世界的にそのノウハウが。人間がいるところ、日本だけじゃないんですね。
【転載、おわり】

(注)
①松本修『全国アホ・バカ分布考 ―はるかなる言葉の旅路』太田出版、平成五年(1993)。平成八年(1996)に新潮文庫から発刊。
②『新・古代学』第1集、新泉社、1995年。古田史学の会も協賛団体として同書編集委員会に参加した。


第3035話 2023/06/08

吉野ヶ里出土石棺墓が示唆すること (2)

 ―蓋裏面に刻まれた「×」印―

吉野ヶ里遺跡の〝謎のエリア〟から出土した石棺墓に関するニュースが連日のように報道されています。その中で注目したのが、石棺の蓋には線刻が認められ、裏面にも「×」印が刻まれていたことです。外からは見えない蓋の裏側に刻まれていた「×」印について、よく似た事例が弥生時代の出土品にあることを思い出しました。それは、島根県の荒神谷遺跡出土銅剣と加茂岩倉遺跡出土銅鐸に記された「×」印です(注①)。
銅剣は柄に埋め込む部分(茎)に、銅鐸はひもで吊す鈕の部分に「×」印があり、いずれも使用時には見えなくなる、あるいは見えにくくなる部分です。これらの「×」印は、石棺の蓋の内側という、目に触れなくなる部分に刻まれた「×」印と同類の何らかの思想に基づいたものと思うのです。古田先生は銅剣と銅鐸の「×」印には発見当初から関心を示されており、次のように述懐されています。

〝(一九九六年)十二月十六日、念願の出雲へ向った。松江市・斐川町と、なつかしい旅だった。(中略)加茂町の教育委員会社会教育主事の吾郷和宏さんが現場へ案内して下さった。そこには銅鐸が横むき、「ひれ」が上、の形で土中に露出している。二個だ。その手前に削ぎ取られて銅鐸の形にくぼみ、青ずんだ土があった。なまなましい。

降りてくると、意外にも、ジャーナリズムの人々に取り巻かれた。感想を聞かれた。わたしは答えた。

「この前の荒神谷と今回の加茂岩倉とは、埋納の時期がちがうと思います。

第一、埋納の場所が、荒神谷の方は数メートル上の途中の土にあったのに対し、今回の方は十五~六メートルも上の頂上ですね。場所の状況が全くちがっています。

第二、荒神谷は『剣』、わたしはこれは「矛」だと思っていますが、ともあれ『武器型祭祀物』が三五八本もあって、中心になっています。筑紫矛もありました。ところが、今回は、ほぼ近い時期の『中広形』や『広形』の矛(九州)、また『平剣』(瀬戸内海領域)が全く出土していません。銅鐸だけです。この点、対照的です。

第三、もし両者が同時期の埋納なら、荒神谷の『小型銅鐸』も、今回の大・中銅鐸と“重ね入れ”になっててもいいのに、そうなっていない。(今回は、大・中“重ね入れ”です。)

第四、昨日報道された「×」印も、その“状態”が全くちがいます。
1. 荒神谷では、九十パーセント以上、「×」がつけられていたのに、今回は、今のところ一つだけ。「右、代表」の形です。
2. 荒神谷では、六個の銅鐸には全く「×」がないのに、今回は銅鐸につけられています。
3. 一番肝心のことがあります。荒神谷の場合、下の端の「柄」のところに「×」がつけられています。ここには「木の柄」がかぶせて使われるわけですから、儀式の場などで使うときにはこの『×』は『見えない』わけです。製造者だけに“判る”という仕組みです。
ところが今回のは、銅鐸の表面でデザインを“汚(けが)している”わけですから、儀式の場などでは、使いにくい状態です。
ですから、埋納直前にこの『×』が入れられ、“外部からの侵入、取り出し者”のないように、マジカルに『祈念』したもののように見えます。(中略)
要するに、荒神谷と加茂岩倉とは別集団です。もし『同一集団』という言葉を使うなら『歴史的同一集団』です。加茂岩倉の集団の人々は、荒神谷の『×』印入りを、『伝承』として知っていたわけです。ですから『荒神谷の後継者』と考えていいでしょう。」

以上であった。右のポイントを言葉にすれば、荒神谷の方は製造工房をしめし、「使われるための×印」、加茂岩倉の方は「使われないための×印」と言えるのではないか。マジカルな意志は両者ともあるだろうが、見た目には同じ「×」印でも、その目的がおのずから別だ。〟(注②)

このときの出雲紀行(加茂岩倉遺跡訪問)は、当地の関係者からの「出土により現地は大騒ぎになっているので、マスコミに知られないように来てほしい」との要請により、先生一人〝お忍び〟で行かれました。「意外にも、ジャーナリズムの人々に取り巻かれた」とあるのは、そうした背景があったことによるものです。著名な歴史学者の古田先生の訪問をマスコミはキャッチしていたようです。
そしてその調査報告を『古田史学会報』で発表したいと、事前に先生から要請されていたので、会報編集・発行を担当していたわたしは、発行日を年末(12月28日)ぎりぎりまで遅らせ、紙面1頁をあけて先生の原稿を待っていたことを思い出しました。先生も1頁分の字数内で原稿を書かれました。
ちなみに古田先生は、荒神谷遺跡での埋納を〝天孫降臨ショック〟、加茂岩倉遺跡での埋納を〝神武ショック〟(神武~崇神の大和占拠、銅鐸圏侵攻)と呼ばれ、それぞれ天孫族・倭国からの侵入を受けて、神聖な銅鐸や銅剣・銅矛を地中に隠したのではないかと考えておられました(注③)。
吉野ヶ里の石棺蓋の「×」印と銅鐸圏(出雲)での「×」印にどのような関係があるのか、古代日本思想史上の課題でもあり、石棺内の調査を興味深く見守っています。吉野ヶ里の有力者に相応しい金属器の出土が期待されます。(つづく)

(注)
①荒神谷遺跡出土銅剣358本中344本に、加茂岩倉遺跡出土銅鐸39個中13個に「×」印が刻まれていた。(雲南市ホームページの解説による)
②古田武彦「出雲紀行 ―使うための「×」と、使わないための「×」。―」『古田史学会報』17号、1996年。
③古田武彦「出雲銅鐸に関するデスクリサーチ 神武ショックと銅鐸埋納」『多元』16号、1997年。『古田史学会報』17号に転載。


第3034話 2023/06/07

吉野ヶ里出土石棺墓が示唆すること (1)

―吉野ヶ里の日吉神社と須玖岡本の熊野神社―

吉野ヶ里遺跡の〝謎のエリア〟から出土した石棺墓が注目されています。〝謎のエリア〟とは同遺跡北地区にあった日吉神社のエリアで、今回初めて発掘調査されました。甕棺墓が多数出土した吉野ヶ里から石棺墓が出土したことにより、当地域の有力者の墓と見られています。
三十年ほど前、わたしは古田先生と吉野ヶ里遺跡を訪れたことがあります。その当時から古田先生は同遺跡地域に鎮座する日吉神社に注目されていました。それは次のような理由からでした(注①)。

(1)『三国志』倭人伝に見える倭国の中心国「邪馬壹国」の本来の国名部分は「邪馬」である(注②)。
(2) この「邪馬」国名の淵源について古田先生は、弥生時代の須玖岡本遺跡で有名な春日市の須玖岡本(すぐおかもと)にある小字地名「山(やま)」ではないかとされた。
(3) 須玖岡本遺跡からはキホウ鏡など多数の弥生時代の銅製品が出土しており、当地が邪馬壹国の中枢領域と思われ、「須玖岡本山」はその丘陵の頂上付近に位置する。
(4) そこには熊野神社が鎮座しており、卑弥呼の墓があったのではないか。日本では代表的寺院を「本山(ほんざん)」「お山(やま)」と呼ぶ慣習があり、この小字地名「山」も宗教的権威を背景とした地名ではないか。そしてその権威としての「山」地名が「邪馬国」という広域国名となり、倭人伝に邪馬壹国と表記されるに至ったのではないか。
(5) 神社は神聖な地に造営されるのが通常であることから、吉野ヶ里遺跡の日吉神社にも重要な遺構があると推定できる。

この度の石棺墓出土の報道に触れ、30年前にうかがった古田先生のご意見、眼力(論理力)が正しかった事が明白となりました。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1805話(2018/12/19)〝「邪馬国」の淵源は「須玖岡本山」〟
②この古田説を次の「洛中洛外日記」で紹介した。
同「洛中洛外日記」1803~1804話(2018/12/18~19)〝不彌国の所在地(1)~(2)〟


第3029話 2023/06/02

上岡龍太郎さんの思い出

 本日、上岡龍太郎さんの訃報に接しました。心より哀悼の意を捧げます。上岡さんは京都市ご出身のタレントで、トーク番組やバラエティーでのお笑いの芸は天才と評されていました。人気も実力も絶頂期の58歳で突然のように芸能界を引退され、以来、テレビやラジオ番組に出られることはなかったと聞いています。また、読書家でその博覧強記ぶりはよく知られていました。
そんな上岡さんに初めてお会いしたのは、信州諏訪湖畔にある昭和薬科大学諏訪校舎で、平成三年(1991)八月五日のことでした。古田先生の提唱により開催された「古代史討論シンポジウム 『邪馬台国』徹底論争 ―邪馬壹国問題を起点として―」(8月1日~6日、東方史学会主催)の実行委員会にわたしは「市民の古代研究会」事務局長として参画し、講演者として来場された上岡さんらと打ち合わせする任務についていました。上岡さんの印象はテレビで見るよりもスマートで端正なお顔立ちでした。また、言葉も態度も丁寧で、芸能人としての〝上岡龍太郎〟の印象とは全く異なっていました。
予定では上岡さんの持ち時間は1時間で、その後が皇學館大学の田中卓先生(1923~2018年)でした。確認のため、そのスケジュールを説明すると、上岡さんは「わたしは30分で結構です。その分、専門家の皆さんの発表時間に使って下さい。」とのこと。そして、その言葉通り、軽妙なトークで会場を盛り上げると、ぴったり30分で話を終えられたのです。しかも、時計も見ずにです。さすがはプロフェッショナル、見事な話芸を見せて頂き、感激したことを今でもはっきりと覚えています。その内容は『「邪馬台国」徹底論争』第3巻(新泉社、1993年)に収録されています。
その後も、上岡さんとは古田先生の講演会々場でときおりお会いしました。わたしが受付をやっていると、突然ふらっと現れて「カミオカです」と小声で挨拶されるのですが、どちらのカミオカさんだろうかと見るとあの上岡龍太郎さんでした。いつも物静かな感じで〝芸能人オーラ〟は全く見せない方でした。電話での会話は別にして、最後にお会いしたのは、平成十四年(2002)二月二一日、嵐山の料亭だったと記憶しています。そのときの写真を見てみますと、机を挟んで古田先生と熱心に対話されており、本に掲載するための対談風景のようですが、残念ながらその内容を思い出せません。なお、このときとは別に、『新・古代学』第1集(新泉社、1995年)に両者の対談録「上岡龍太郎が見た古代史」が掲載されています。
上岡さんは道義に篤い方でしたし、古田先生のことを敬愛しておられ、「古田先生には学恩ではなく芸恩を感じている」と仰っていました。きっと今頃は冥界で先生と対話を楽しまれていることでしょう。心よりご冥福をお祈りします。


第3017話 2023/05/16

桐原・古田対談テープなどを

  CD、DVDにダビング

 東日流外三郡誌をはじめとする和田家文書への偽作キャンペーンが猖獗を極めていたとき、こともあろうに古田先生が200万円を支払って、ある人物に偽書作成を依頼した疑惑があるとする悪意に満ちた記事が週刊誌(アサヒ芸能)や『季刊邪馬台国』(注①)などに掲載されたことがありました。その人物は桐原さんという広島市の方で、古田先生と親交がありました。

 そこで、平成9年4月9日、古田先生と水野さん(当時、古田史学の会・代表)、古賀の三人で、京都タワーホテルの会議室にて桐原氏と対談し、そうした報道が事実無根であるとの証言をしていただきました。この度、その録音テープを専門業者に依頼してCDにダビングしました。ことの真相(注②)や詳細な経緯が桐原さんより語られています。今は亡き古田先生の名誉を守るためにも、「古田史学の会」ではその内容の公開も含めて、今後の取り扱いについて検討したいと考えています。

 また、三十年前に古田先生と実施した津軽での聞き取り調査など、東日流外三郡誌に関わる当時の重要証言ビデオも専門業者に依頼してDVDにダビングしました。当時の証言者(注③)がほとんど物故されていますので、いずれも貴重な証言録画です。これらの編集を行い、関係団体にも提供できればと思います。ネットでの動画配信も有効かもしれません。このことも「古田史学の会」で検討を進めたいと考えています。編集作業や配信など、皆さんのご協力をお願いいたします。

(注)
①『季刊邪馬台国』56号、1994年。同誌冒頭に「古田武彦昭和薬科大学教授に衝撃の疑惑!! 二百万円支払って、古文書作成偽造を依頼」の見出しとともに、『アサヒ芸能』記事を転載している。
②古田先生から江戸期の紙の調査とサンプル収集依頼を受けたこと、桐原氏の娘さんの学費支援が古田先生からあったことなどが証言されている。別の日に、京都駅前の新阪急ホテルラウンジで古田先生、桐原さんと娘さん、古賀の四人でお会いしたこともある。終始なごやかな歓談が続いた。
③永田富智氏(北海道史、松前町史編纂委員)、松橋徳夫氏(市浦村、山王日吉神社宮司)、佐藤堅瑞氏(柏村、浄円寺住職。青森県仏教会々長)。地名・肩書きは当時のもの。


第2998話 2023/04/27

「九州王朝律令」復元研究の予察 (6)

古田先生は七世紀の九州王朝律令について、次のように考察しています(注)。本テーマの締めくくりとして紹介します。

〝その半世紀余りあとの多利思北孤の時代、中国の天子のみならず、新羅王も律令制のもとにあった。そのような東アジアの世界の中で、「天子」を自称した多利思北孤が、律令をもたぬはずはない。「天子―年号」と同じく、「天子―律令」もまた、いわば必然のセットだったのである。(中略)
『隋書』俀国伝によると、次のようにのべられている。
其の俗、人を殺し、強盗及び姦するは皆死し、盗む者は贓(ぞう)を計りて物を酬(むく)いしめ、財無き者は、身を没して奴と為す。自余は軽重もて或は流し或は杖す。……争訴罕(まれ)に、盗賊少なし。
(中略)
また右の文中には「死」「贓」「没」「流」「杖」といった用語が点綴されている。これらはいずれも律令用語だ。すなわち俀国の律令なのである。〟(ミネルヴァ書房版 153~154頁)

史料に見える九州王朝律令の断片を紹介されたものですが、もっとも重要な指摘は、中国南朝律令の影響下に九州王朝律令が成立したとする次の指摘です。

〝以上と対照すれば、中国側の法概念と同類の法概念が倭国側にもまた存在したこと、それを疑うことはできにくい。(俀国側は、磐井系列であるから、南朝系の法概念であろう)。
すなわち北朝系の「日没する処の律令」と同じく、南朝系の「日出づる処の律令」もまた、筑紫の地に存在していたのである。〟(ミネルヴァ書房版 154~155頁)

〝このような新視点に立つとき、唐制に依拠したはずの「大宝律令」に南朝系の条句が見られるという、法制史上著名の難問も、何の苦もなく解決しうるであろう。なぜなら、九州王朝系の律令は、当然ながら南朝系の律令を核心としていたからである。先にあげたように、「浄御原朝廷」(持統朝)は、九州王朝系の「令」に依存しており、大宝律令も、これを准正とした旨、『続日本紀』大宝元年項に明記されているからである。〟(ミネルヴァ書房版 317頁)

以上の古田先生の指摘によれば、九州王朝律令復元研究には中国南朝律令の研究も重要であることがわかります。(おわり)

(注)古田武彦『古代は輝いていたⅢ』朝日新聞社、昭和六十年(一九八五)。ミネルヴァ書房より復刻。


第2914話 2023/01/12

「司馬史観」批判の論文を紹介

 「洛中洛外日記」2912話(2023/01/10)〝司馬遼太郎さんと古田先生の思い出〟で紹介した、古田先生の「司馬史観」批判ですが、先生から聞いたのは20年以上も昔のことです。記憶は鮮明に残っているのですが、このことを活字化した論稿を探しました。というのも、先生は真剣な表情で語っておられましたので、これは重要テーマであり、文章として遺されているのではないかと考えたからです。ちなみに、わたしの記憶では次のような内容(大意)でした。

 〝明治の新政府を作り、日清・日露の両戦争を戦ったのは江戸時代に教育を受けた人々で、昭和の戦争を指揮した政治家・軍人達は明治時代に生まれ、その教育を受けた人々である。従って、「江戸時代(の文化・教育)は良かったが、明治時代(の文化・教育)はダメ」と言うべきである。
たとえば、明治政府は幕末を戦い抜いた貧しい下級藩士らが中心となったが、昭和の政府は明治維新で権力を握り、裕福になった人々の家庭で育った子供達による政府であり、この差が明治と昭和の為政者の質の差となった。〟

 20年以上も昔の会誌や講演録から探しだすのは大変な作業で、通常ですと数日かかるのですが、幸いにも今回はすぐに見つけることができました。『現代を読み解く歴史観』に収録された「教育立国論 ――全ての政治家に告ぐ」という論文中にあったのです(注①)。関係個所を転載します。

 〝ここで、一言すべきテーマがある。「昭和の戦争」を「無謀の戦争」として非難し、逆に、明治を理想の時代のようにたたえる。司馬遼太郎などの強調する立場だ。後述するように、それも「一面の真理」だ。だが、反面、いわゆる「昭和の愚戦」否、「昭和の暴戦」をリードしていたのは、まぎれもなく、「明治生れの、愚かしきリーダー」だったのである。この点もふくめて、後に明らかにしてゆく。〟『現代を読み解く歴史観』98頁

 〝では、わたしたちが今なすべきところ、それは何か。「教育立国」この四文字、以外にないのである。
明治に存在した、負(マイナス)の面、それは「足軽たちのおぼっちゃん」が、諸大名の「江戸屋敷」を“相続”し、数多くの「下男・下女」に囲まれて育った。当然、「見識」も「我慢」も知らぬ“おぼっちゃん”たちが、「昭和の愚劣にして悪逆」な戦争をリードした。少なくとも、「命を張って」食いとめる勇気をもたなかった。「昭和の愚劣と悪逆」は、「明治生まれの世代」の責任だ。この一点を、司馬遼太郎は「見なかった」あるいは「軽視」したのである。〟同上、101頁

 ほぼ、わたしの記憶と同趣旨です。また、〝「江戸屋敷」を“相続”し、数多くの「下男・下女」に囲まれて育った〟という表現(語り口)も、はっきりと記憶しています。これをわたしは〝明治維新で権力を握り、裕福になった人々の家庭で育った子供達〟という表現に代えて記しました。

 これからも、古田先生から聞いた貴重な話題については、わたしの記憶が鮮明なうちに書きとどめ、先生の思想や業績を後世に伝えたいと願っています(注②)。幸い、「市民の古代研究会」時代からの同志がご健在で、その方々への確認もできますので、この作業を急ぎたいと思います。最後に、古田先生の「司馬史観」批判を『現代を読み解く歴史観』に収録し刊行された、東京古田会と平松健さん(同書編集担当)に感謝いたします。

(注)
①古田武彦『現代を読み解く歴史観』ミネルヴァ書房、2013年。
②なかでも30年前に行った和田家文書調査(津軽行脚)は、古田先生をはじめ当地の関係者がほとんど物故されており、当時の情況の記録化が急がれる。


第2912話 2023/01/10

司馬遼太郎さんと古田先生の思い出

今年は司馬遼太郎さん(注①)の生誕百年とのこと。恐らく様々な記念番組が企画されるのではないでしょうか。古田先生は生前に司馬さんとお付き合いがあり、何度か司馬さんのことについて話されたことがありました。司馬さんも『週間朝日』に連載された「司馬遼太郎からの手紙・四七回」で古田先生との出会いの様子を記しており、そのことを『古田史学会報』で紹介したことがあります(注②)。
先生が文京区本郷にお住まいのとき(注③)、何度か訪問したことがあり、そのおりに司馬さんのことを聞いた記憶があります。司馬さんのご自宅の本棚には古田先生の著書が並んでいることや、「司馬史観」に対する見解などをお聞きしました。
「司馬史観」を単純化して言えば〝明治の政治家は良かったが、昭和の政治家はダメ〟というものですが、古田先生の視点は少々異なっていました。日本の近現代史について、先生とお話ししたことはあまり多くないのですが、「司馬史観」を批判して、次のように語られました。

〝明治の新政府を作り、日清・日露の両戦争を戦ったのは江戸時代に教育を受けた人々で、昭和の戦争を指揮した政治家・軍人達は明治時代に生まれ、その教育を受けた人々である。従って、「江戸時代(の文化・教育)は良かったが、明治時代(の文化・教育)はダメ」と言うべきである。
たとえば、明治政府は幕末を戦い抜いた貧しい下級藩士らが中心となったが、昭和の政府は明治維新で権力を握り、裕福になった人々の家庭で育った子供達による政府であり、この差が明治と昭和の為政者の質の差となった。〟(大意。古賀の記憶による)

古田先生らしい骨太の歴史観であり、「司馬史観」を超えるものではないでしょうか。司馬さんの生誕百年にあたり、この話を先生からお聞きしたことを思い出しました。

(注)
①司馬遼太郎(しば りょうたろう、大正12年(1923年)8月7日~平成8年(1996年)2月12日は、日本の小説家、フィクション作家、評論家。位階は従三位。本名は福田定一(ふくだ ていいち)。筆名の由来は「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」から来ている。
司馬の作り上げた歴史観は、「司馬史観」と評される。その特徴としては日清・日露戦争期の日本を理想視し、(自身が参戦した)太平洋戦争期の日本を暗黒視する点である。人物においては、高評価が「庶民的合理主義」者の織田信長、西郷隆盛、坂本龍馬、大久保利通であり、低評価が徳川家康、山県有朋、伊藤博文、乃木希典、三島由紀夫である。この史観は、高度経済成長期にかけて広く支持を集めた。(ウィキペディアより抜粋)
②古賀達也「事務局だより」『古田史学会報』37号(2000年4月4日)。
③昭和薬科大学(東京都町田市)の教授に就任した時代。学問研究のため、東京大学図書館・史料室などに近い本郷に居したと聞いている。


第2908話 2023/01/05

古田先生が生涯貫いた在野精神 (3)

『古田武彦とともに』創刊第1集(古田武彦を囲む会編、1979年)に寄稿者として名を連ねている高田かつ子さん(多元的古代研究会・前会長)から教えていただいた次の逸話があります。それは古田先生が昭和薬科大学に教授として招聘されるときの話だそうです。

〝今から十二年前の昭和五十九年三月、上京していらっしゃった古田先生と池袋の喫茶店でお目にかかった。昭和薬科大学に教授として招かれたので、東京での拠点を探しに上京されたとのことであった。
「まだ迷っているのですよ。」
なぜ、と問いかける私に、大学教授という社会的に地位のある職に就くことは堕落に通じることではないかと心配しているのだとおっしゃる。それをお聞きして私はストンと胸に落ちるものがあった。それは、こういう話をお聞きしていたからであった。
昭和二十三年、先生は東北大学を卒業してすぐ、信州松本の深志高校に奉職された。深志での四年間は、教師として人間として、生徒と共に遊んで学んで育っていった原点でもあったとおっしゃる。そして昭和二十七年、あとどうなるか全く分からずに「やめます」と言って去る日、松本駅に見送りに来ていた人達の中から一人の青年が、動きだした列車と共に走りながら「堕落するなよ!」と叫んだというのである。
「堕落するなよ」、それは都会へ行って落ちぶれるなという意味ではもちろんない。エリート面してしまうなよ、雲の上のようなインテリになってしまうなよ、というのが彼の言う「堕落するなよ」という意味であることは先生にはすぐ分かったそうである。先生が最初に教えた三つ年下の生徒で、付き合いが深かったせいでもあるとおっしゃる。
(中略)
大学教授になってからの先生の行動は堕落とはおよそ対局にあるものであった。和田家文書にしてもしかり。大学教授としての地位に甘んじることなく研究に打ちこんでいらしたことは周知の事実である。〟「志の人・古田武彦に乾杯」(注)

古田先生が昭和薬科大学に奉職されるにあたってのエピソードで、生涯、在野精神を貫かれた先生らしい話です。この話を伝えた高田かつ子さんは、その後病に倒れられました(2005年5月7日没)。亡くなる二日前の言葉が遺されていますので、最後に紹介します。

「古田先生より先には死ねない。まだ死んでいる場合ではないんだ。きっと先生が亡くなった後はみんなが我が物顔に先生の説を横取りしてとなえ始める人が出できて大変だろうから、その時には私が証人にならなければ。(村本寿子さん談)」

(注)『古代に真実を求めて 古田武彦古稀記念特集』第二集、明石書店、1998年。


第2907話 2023/01/04

古田先生が生涯貫いた在野精神 (2)

『古田武彦とともに』創刊第1集(古田武彦を囲む会編、1979年)の末尾の資料紹介(古田先生の略歴・著作・論文・他)に、先生を紹介した新聞記事(発行日不明。朝日新聞か)「野に学者あり」のコピーが収録されています。「燃えたぎらす論争の炎」「批判できねば学問終わり」という見出しとともに次の記事が見えます。

〝古田氏の業績は古代の分野だけではない。親鸞研究では、早くからその名が知られていた。にもかかわらず、終始「素人」を名のる。大学からのさそいも、一貫してことわり続けている。
「現代の日本では、研究機関に所属すること、それはどこかの学閥の中に組み込まれることになる。となると、師や仲間うちの批判はきわめてむつかしい。非学問的理由で、先学を批判できないとしたら、学問の進歩もなければ面白味もない」
在野の弁を明快にこう語る。
(中略)
古田氏は、過去に一度だって、研究機関に職を得たことはなかった。それゆえ、学問のためとあらば、どんな大家であろうと、教えをこうた人であろうと、遠慮会釈なく俎上(そじょう)に乗せる。学問の本筋とは元来そうしたものであるべきだと固く信じている。しかし、あまりの批判の厳しさに、それとなく忠告してくれる人もいるが、彼はいつもそれに笑って答える。
「遠慮して批判を避けるようなときが来れば、在野にいる意味もない。私の学問も終わるときです」。〟(つづく)