古田武彦一覧

2694話 2022/03/05

古田先生の土器編年試案(セリエーション) (4)

 須恵器セリエーション分類作業におけるハードルとして次の四点を示しました。

(a) 遺跡調査報告書の刊行が遅れることがあり、考古学関係者は知っている最新データが未発表のケースがある。
(b) 出土土器の破片が小さい場合、型式が判断できないケースが発生する。その数が多量だと、セリエーションの不確定要素が増し、編年誤差が拡大する。
(c) 遺跡調査報告書に掲載された出土土器の写真や断面図が、出土した土器の全てとは限らないケースがある。土器やその破片が大量に出土した場合は尚更で、報告書に全てが収録されることは期待できない。
(d) 出土土器型式に地域差や定義の違いがあり、飛鳥編年による型式(須恵器坏H・G・B)と対応が一見して困難なケースがある。その地域差を理解していないと型式の分類を間違ってしまうことがある。

 まず最初に、(c)についての体験を紹介します。水城の築造時期を探るために考古学エビデンスとできる堤体内からの出土須恵器に注目し、報告書(注①)を精査したところ、東門付近の木樋遺構SX050とその木樋付近SX051から須恵器が出土していました(第5次)。これらの土器は水城堤体内部(基底部)からの出土であり、築造当時までに使用あるいは廃棄されていたものですから、その土器年代以後に水城が築造されたことを意味します。
 『水城跡 下巻』192頁の図面(Fig156)に掲載された須恵器はSX050(坏身1点)とSX051(坏蓋5点、坏身6点、高坏の脚2点)の14点ですが、高坏の2点を除けばいずれも坏Hと呼ばれる型式の須恵器坏です。他方、山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」(注②)では次の説明がなされています。

 「水城跡では水処理を目的とした木製の箱型の暗渠である『木樋』が土塁の下に設置されているが、木樋の設置坑は長さ80㍍にわたって水城を縦断するように土塁の構築中に設定され、土塁の構築とともに埋められていた。5次と62次調査ではこの設置坑(5次SX051)から須恵器坏Ⅳ型式(奈文研坏H)に少量のⅤ型式の坏身(奈文研坏G)と短脚の高坏が一定量出土している。」202頁

 更に「第2表 遺跡出土遺物表」(213頁)中の「水城跡」「5次」「SX050,051」欄の坏Hと坏Gに「○」印があり、同木樋遺構から須恵器坏HとGが出土していることを指示しています。しかし、土器の図面(Fig156)には坏Gが見当たらないので、わたしは困惑しました。しかし、太宰府市教育委員会の考古学者である山村さんが、「設置坑(5次SX051)から須恵器坏Ⅳ型式(奈文研坏H)に少量のⅤ型式の坏身(奈文研坏G)と短脚の高坏が一定量出土している。」と明記していることから、少量の坏Gが伴出していることを疑えません。従って、図面(Fig156)に掲載された14点以外にも須恵器が出土していたと考えざるを得ません。更に、「短脚の高坏が一定量出土」という表記からも、図面(Fig156)に掲載されている2点以外にも「一定量」の高坏が出土したことがうかがえます。
 このことから、水城堤体内(木樋遺構SX051)から出土した須恵器の全てが報告書に掲載されているわけではないことに気づいたのです。ですから、正確な土器セリエーションを確立するためには、報告書に掲載されていない全ての出土須恵器のデータが必要となるわけです。(つづく)

(注)
①『水城跡 下巻』192頁Fig156に掲載されたSX050 SX051 SX135の土器(須恵器坏H、坏G、他)。
②山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。


第2691話 2022/03/01

古田先生の土器編年試案(セリエーション) (1)

 太宰府関連遺構の造営年代の研究のため、七世紀の須恵器編年の報告書や論文を読んできました。その中で全体的な編年を論じた山村信榮さんの「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」(注①)に興味深い言葉が用いられていました。それはセリエーションとという考古学の専門用語です。web上の論稿(注②)では次のように説明されています。

 「セリエーションとは、何だろうか?代表的には、以下のような説明がなされている。
 身辺の流行現象を見ればわかるように、モノは突如出現するわけでもないし、それ以前からあった同種のモノに直ちに置き代わるわけでもない。新しいモノは次第にあるいは急速に台頭し、それに合わせて、古いモノは次第に姿を消す。こうしたモノの変遷を視覚的・数量的に示す手法がセリエーションである。アメリカ考古学で開発されたこの方法(後略)」(上原真人 2009 「セリエーションとは何か」『考古学 -その方法と現状-』放送大学教材:129.)

 従来の考古学の土器編年では、ある遺構や層位から出土した主要土器、あるいは最も新しい土器の編年をその遺構・層位の年代とすることが通例でした。しかし、実際は複数の年代の土器が混在しているので、その混在率を数値化して相対編年するという考え方は実に合理的な方法です。
 こうしたセリエーションという考え方や編年方法を、表現は違いますが古田先生は30年ほど前から主張されていました(注③)。そのことを古田先生からお聞きしたのは、わたしの記憶では佐賀県吉野ヶ里から弥生時代の環濠集落が発見されて話題になっていた頃だったと思います。このセリエーションという概念はとても重要ですから、わたしも前期難波宮に関する論稿(注④)で触れたことがあります。(つづく)

(注)
①山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。
②「第2考古学」セリエーション[総論] https://2nd-archaeology.blog.ss-blog.jp/
③古賀達也「洛中洛外日記【号外】」(2017/04/08)〝古田先生の土器編年の方法〟
【以下、転載】
 近年、わたしは考古学土器編年について勉強を進めてきました。その結果、土器の相対編年は研究者によってずれが見られるものの、比較的信頼できるのではないかと考えるようになりました。従来、古田学派の研究者は土器の相対編年は近畿を古く見て、筑紫は新しくする傾向にあり、信頼できないとする見解が多数だったのです。時には100年以上のずれが発生しているとする見解さえありました。わたし自身も永くそのように捉えてきました。
 しかし、考古学者も一元史観に基づいているとはいえ、それなりの出土事実に基づいて編年されているのですから、彼らがどのような論理性により土器の相対編年や暦年とのリンクを組み立てているのだろうかと、先入観を排して発掘調査報告書を見てきたのですが、特に大阪歴博の考古学者による難波編年がかなり正確で、文献史学との整合性もかなりとれていることがわかったのです。
 そして近年は筑紫の土器編年について考古学者の論稿を精査してきたのですが、これもまたそれほど不自然ではないことがわかりました。現時点でのわたしの理解では、北部九州では20~30年ほどのずれをがあるのではないかと考えていますが、土器の1様式の流行期間が従来の25年ほどとする理解よりも長いとする見解が出されていることもあって、編年観そのものは比較的正確ではないかと感じています。
 わたしは土器の相対編年の方法について、20年以上前に古田先生から次のようなお話をうかがったことがあります。それは、遺構から複数の様式の土器が出土したとき、その中の最も新しい土器の年代をその遺構の年代としてきた当時の編年方法に対して、複数の様式の土器が出土した場合は各様式の土器の割合で遺構ごとの相対編年を比較すべきという考え方でした。自然科学の「正規分布」の考え方を土器の相対編年においても援用する考え方で、現在の考古学ではこの考えが受け入れられています。古田先生の先見性を示す事例といえます。
 わたしはこうした古田先生の先進的な土器相対編年の考え方を知っていましたので、ある遺構から新しい様式の土器が少数出現したからといって、その新しい様式が流行した年代をその遺構の年代とするのは学問的には誤りと考えていました。ですから、前期難波宮九州王朝副都説への批判として、その整地層から極めて少数の須恵器坏Bが出土することを理由に、前期難波宮造営年代を須恵器坏Bが流行した天武期とする論者があったのですが、その学問の方法は誤りであると反論してきました。
 考えてもみてください。ある土器様式が発生したとたん、それまでの土器様式が無くなって新様式の土器だけが出土することなど絶対にありえません。土器様式の変遷というものは、発生段階は少数でそれ以前の土器に混ざって出土し、流行に伴って多数を占め、その後は新たに発生した新新様式の土器と共存しながら、やがては出土しなくなるという変遷をたどるものです。これは自然科学では極めて常識的な考え方(正規分布)です。近年ではこの考え方をとる考古学者が増えているようで、ようやく古田先生の見解が考古学界でも常識となったようです。
【転載おわり】
 ここでは、前期難波宮の整地層から極めて少数の須恵器坏Bが出土したと書いたが、後にそれは不正確な情報に基づいていたことに気づいた。現在では前期難波宮整地層からは須恵器杯Bは出土していないと理解している。次の拙論を参照されたい。
 古賀達也「前期難波宮『天武朝造営』説の虚構」―整地層出土「坏B」の真相―」『古田史学会報』151号、2019年4月。
「続・前期難波宮の学習」『古田史学会報』114号、2013年2月。


第2687話 2022/02/20

古田先生の「紀尺」論の想い出 (4)

古田先生が、皇暦を西暦に換算するという「紀尺(きしゃく)」論を発表されたのは1986年のことでした。その七年後の1993年には、対象を『日本書紀』神話にまで拡大した新たな「紀尺」論を執筆されました。『盗まれた神話』朝日文庫版の「補章 神話と史実の結び目」です(注①)。その中に「神の誕生と紀尺」という一節を設け、『日本書紀』神代巻冒頭の「神生み神話」に着目され、神話内容の比較により、その成立時期の相対編年が可能とする方法論(「時の物差し」)を提起されました。そして、それも「紀尺」と名づけられました。次の通りです。

〝以上、『日本書紀』の「神生み神話」には、人類史の中の「神の誕生」を語る、卓越した史料がふくまれていたのである。ここに示された「時の物差し」をもって、世界の神話を探求するとき、驚くべき成果がつぎつぎと出現した。これについては、改めて詳しく別述したい(これを「『日本書紀』の尺度」略して「紀尺」と、呼ぶことにした)。〟『盗まれた神話』朝日文庫版、433頁

ここに述べられた「驚くべき成果」の一端が次の著書に見えます。

〝そういうことで考えますと、まだその学問はないけれど、これから必ずできる学問、「神々の基準尺」によって人類の精神の発達史を打ち立てる。それを「神々の基準尺」というのは長たらしいので、「人」・「神人」・「神」ともっとも明確にでている日本書紀の「紀」をとって、「紀尺」と私は名まえをつけております。その「紀尺」によって人類の「神々の史料を判定する学問」というものが必ず生まれ、かつ発展するはずである。〟『古代通史』「投石時代から狩猟時代へ」、27~28頁(注②)

〝事実、日本書紀が引用する「一書」の中には、天照大神の時代よりはるかに古い、縄文や旧石器時代にさかのぼる説話群を含んでいるのだ。
これを私は「紀尺」と名づけた。そしてこれが、人類の各地の神話を分析する上で、有力な物差し(尺度)となった。〟『古代史の未来』「21 射日神話」、113頁(注③)

〝「紀尺」によって人類の「神々の史料を判定する学問」というものが必ず生まれ、かつ発展するはずである。〟という一節を読むとき、わたしは古田先生の講演に胸をときめかせた、入門当時の若き日(31歳)のことを想い出すのです。(おわり)

(注)
①古田武彦『盗まれた神話』朝日文庫、1994年1月1日。
②古田武彦『古代通史』原書房、1994年10月。
③古田武彦『古代史の未来』明石書店、1998年2月。


第2685話 2022/02/17

古田先生の「紀尺」論の想い出 (3)

古田先生が「紀尺(きしゃく)」を採用して論証に成功された高良大社文書『高良社大祝舊記抜書』(注①)を始め高良玉垂命系図である「稲員家系図(松延本)」や「物部家系図」(明暦・文久本、古系図)についての論考があります。それは「高良山の『古系図』 ―『九州王朝の天子』との関連をめぐって―」という論文(注②)で、次のような書き出しで始まります。

〝今年の九州研究旅行は、多大の収穫をもたらした。わたしの「倭国」(「俀〈たい〉国」、九州王朝)研究は、従来の認識を一段と深化し、大きく発展させられることとなったのである。まことに望外ともいうべき成果に恵まれたのだった。
その一をなすもの、それが本稿で報告する、「明暦・文久本、古系図」に関する分析である。今回の研究調査中、高良大社の“生き字引き”ともいうべき碩学、古賀壽(たもつ)氏から、本会の古賀達也氏を通じて、当本はわたしのもとに托されたものである。
この古系図は、すでに久しく、貴重な文書としてわたしたちの認識してきていた「古系図」(稲員・松延本)と、多くの共通点をもつ。特に、今回の主たる考察対象となった前半部に関しては、ほぼ「同型」と見なすことができよう。
しかしながら、古文書研究、歴史学研究にとって「同型・異類」写本の出現は重大だ。ことに当本のように、従来の古代史研究において、正面から採り上げられることの少なかった当本のような場合、このような別系統本の入手の意義はまことに決定的だ。しかも、当本は「高良山の大祝家」の中の伝承本であるから、先の「稲員・松延本」と共に、その史料価値のすぐれていること、言うまでもない。〟

そして、「紀尺」による論証結果が次に示されています。

〝第二、〈その二〉の高良玉垂命神は、この「古系図」内の注記に
「仁徳天皇治天五十五年九月十三日」
とあるように、「仁徳五十五(三六七)」に当山(高良山)に来臨した、という所伝が有名である。(高良大社の「高良社大祝旧記抜書」〈元禄十五年壬午十一月日〉によって分析。古田『九州の真実 六〇の証言』かたりべ文庫。のち、駸々堂刊。注③)
中国の南北朝分立(三一六)以後、高句麗と倭国は対立し、撃突した。その危機(高句麗の来襲)を怖れ、博多湾岸中心の「倭国」(弥生時代)は、その中枢部をここ高良山へと移動させたようである。それが右の「仁徳五十五〈皇暦〉」(三六七)だ。
それ故、高良大社は、この「高良玉垂命神」を以て「初代」とする。〟

論文末尾は次のように締めくくられます。

〝「古系図」(稲員・松延本)に関しては、すでに古賀達也氏が貴重な研究を発表しておられる。「九州王朝の築後遷宮」(『新・古代学』第4集)がこれである(注④)。
「九躰の皇子」の理解等において、いささか本稿とは異なる点があるけれど、実はわたしも亦、本稿以前の段階では、古賀氏のように思惟していたのであった。その点、古賀論稿は、本稿にとっての貴重な先行論文と言えよう。
今、わたしは「俀国版の九州」の名称についても、この「九躰の皇子」にさかのぼるべき「歴史的名辞」ではないか、と考えはじめている。詳論の日を迎えたい。
先の稲員・松延氏と共に、今回の古賀壽氏の御好意に対し、深く感謝したい。
最後に、この「古系図」の二つの奥書を詳記し、今回の本稿を終えることとする。
(イ)明暦三丁酉年(一六五七)秋八月丁丑日
高良山大祝日往子尊百二代孫
物部安清
(ロ)文久元年(一八六一)辛酉年五月五日
物部定儀誌〟

以上のように、江戸期成立の近世文書を古代史研究の史料として採用するための方法論の一つとして、古田先生の「紀尺」論は有効性を発揮しています。江戸時代の文書や皇暦(『東方年表』)などを偽作扱い、あるいは軽視する論者があれば、この古田先生の論文を読んでいただきたいと思います。ここで示された「紀尺」を初めとする種々の方法論は和田家文書(明治・大正写本)の史料批判にも数多く採用されています。「紀尺」論は、古田先生の学問を理解する上で、不可欠のものとわたしは考えています。(つづく)

(注)
①『高良社大祝舊記抜書』元禄十五年(1702年)成立。高良大社蔵。
②古田武彦「高良山の『古系図』 ―『九州王朝の天子』との関連をめぐって―」『古田史学会報』35号、1999年12月。
③古田武彦『古代史60の証言』(駸々堂、1991年)59頁、「証言―55 七支刀をめぐる不思議の年代」。
④古賀達也「九州王朝の築後遷宮–玉垂命と九州王朝の都」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。


第2684話 2022/02/16

古田先生の「紀尺」論の想い出 (2)

古田先生が提唱・命名された「紀尺(きしゃく)」という言葉をわたしなりに説明すれば、「『日本書紀』紀年に基づく暦年表記の基準尺」とでもいうべき方法と概念です。この文献史学における暦年表記の論理構造について解説します。

(1) 古代に起こった事件などを後世史料に書き留める場合、60年毎に繰り返す干支だけでは絶対年代を指定できない。
(2) そこで、年号がある時代であれば年号を用いて絶対年代を指定できる。それが六~七世紀であれば、九州王朝の時代であり、九州年号を使用することができる。八世紀以後であれば大和朝廷の年号が採用されている。
(3) 五世紀以前の九州年号がない時代の事件であれば、中国の年号を使用するか、『日本書紀』に記された近畿天皇家の紀年、いわゆる皇暦(『東方年表』等)を使用するほかない。事実、江戸時代以前の文書には皇暦が採用されるのが一般的である。明治以降は西暦や皇暦が採用されている。
(4) 以上のような時代的制約から、中近世文書に古代天皇の紀年で年代表記されている場合、記された皇暦をそのまま西暦に換算して認識することが妥当となるケースがある。
(5) こうして特定した暦年の妥当性が、他の情報により補強・証明できれば、その年次を採用することができる。

おおよそ以上のような論理構造により古田先生の「紀尺」論は成立しているのですが、この方法は皇暦を援用してはいるものの、その天皇とは、とりあえず無関係に暦年部分のみを採用することに、いわゆる「皇暦」とは決定的に異なる方法論上の特徴があります。
それではこの「紀尺」による年代判定事例を先生の著書から引用・紹介します。それは江戸期成立の高良大社文書『高良社大祝舊記抜書』(注①)の史料批判と年代理解です。

〝すなわち、七支刀をたずさえた百済の国使は、当地(筑後)に来たのだ。それが、東晋の「泰和四年(三六九)」だった。
ところが、高良大明神の“当山開始(即位)”年代は、「仁徳五十五年(「皇暦」で一〇二七、西暦換算三六七)となる」。ピタリ、対応していた。平地で「こうや」、高地で「こうら」。百済・新羅に共通した、都城の在り方だったようである。〟(注②)

石上神宮(天理市)に伝わる七支刀(国宝)の銘文中に見える年代(泰和四年)と高良大社文書『高良社大祝舊記抜書』に記された「仁徳五十五年」が同時期であることから、七支刀は筑後にいた九州王朝(倭国)の王「高良大明神」に百済から贈られたものであるとする仮説の証明に「紀尺」が用いられた事例です。それまで意味不明とされてきた高良大社文書中の「仁徳五十五年」という年次が、生き生きと歴史の真実(四世紀の九州王朝史)を語り始めた瞬間でした。(つづく)

(注)
①『高良社大祝舊記抜書』元禄十五年(1702年)成立。高良大社蔵。
②古田武彦『古代史60の証言』(駸々堂、1991年)59頁、「証言―55 七支刀をめぐる不思議の年代」。


第2683話 2022/02/15

古田先生の「紀尺」論の想い出 (1)

古田史学の学問の方法論の一つに「紀尺(きしゃく)」という概念があります。文献史学における編年の論理性に関わる概念なのですが、この「紀尺」という言葉を初めて聞いたのは、1986年11月24日に大阪の国労会館で開催された古田先生の講演会(注)でした。この年にわたしは「市民の古代研究会」に入会し、古田先生の講演会にも参加するようになりました。ですから、古田史学に入門して間もないわたしにとって、先生の謦咳に接する貴重な機会で、35年以上経った今でも記憶に残る印象深い講演会だったのです。
その講演会で古田先生は中近世文書に見える古代の「○○天皇××年」という年代記事について、その実年代を当該天皇が存在した実際の年代で理解するのではなく、「○○天皇××年」を皇暦のまま西暦に換算するという編年方法(『東方年表』と同様)を提起され、その方法論を「紀尺」と名付けられました。この発想は当時の聴講者には驚きを持って受けとめられました。皇暦(『東方年表』)など〝皇国史観の権化〟のような紀年法と〝兄弟子〟たちは受けとめていたようで、この古田先生の新説に対して批判的でした。わたしや不二井伸平さん(古田史学の会・全国世話人、明石市)のように、深い感動をもって受けとめた〝弟子〟は少数だったように思います。(つづく)

(注)「市民の古代研究会」主催の古田武彦講演会。演題は「古代王朝と近世の文書 ―そして景初四年鏡をめぐって―」で、『市民の古代 古田武彦とともに』第9集(市民の古代研究会編、新泉社、1987年)に「講演録 景初四年鏡をめぐって」として、その前半部分が収録されている。「紀尺」に関する後半部分「近世文書」は同講演録からは割愛されているため、筆者の記憶に誤りがないかを、不二井伸平氏に録音テープを確認していただいた。その結果、筆者の記憶通りであり、不二井氏も同様の記憶であることを確認した。〝古賀の記憶違い〟との批難を避けるため、慎重を期した。


第2670話 2022/01/30

格助詞に着目した言素論の新展開

 本日、正木裕さんのご紹介で京都地名研究会主催の講演会(注①)を聴講しました。古田先生が提唱された「言素論」に関係が深そうな研究発表があるとのことで参加することにしたものです。それは大阪市立自然史博物館の職員で昆虫学者の初宿成彦(しやけ しげひこ)さんによる「格助詞に着目した地名の要素分解」という研究発表です。
 「言素論」とは、古代日本語の単語や文字表記において、「一字・一音節・一義」がより古い形態と考え、一音節ごとに言葉を分解し、その言葉の本来の意味を明らかにするという方法論です。たとえば、「魚」という字で表記される意味はfishですが、音は「ぎょ」(音読み)と「な」「うお」「さかな」(訓読み)などがあります。このfishを意味する日本語のうち、「な」を最も古いとする、これが「言素論」の基本前提です。すなわち、「魚」という表記の訓みの「一字・一音節・一義」が「な」と考えるわけです。詳細については拙稿「『言素論』研究のすすめ」(注②)をご参照下さい。
 初宿さんは地名や苗字を語頭+格助詞+語尾に分解し、語頭の意味を推定し、その多くは神の名前ではないかとされました。そして、次のような例を多数紹介されました。

地名 =語頭+格助詞+語尾⇒格助詞がない同義地名
穴生  あ   の   お  粟生・阿尾
稲田  い   な   だ  井田
稲本  い   な  もと  井本
勝田  か   つ   た  加太・嘉田
神奈川 か   な  がわ  香川
真田  さ   な   だ  佐田
砂田  す   な   だ  須田
角田  つ   の   だ  津田
箕面  み   の   お  三尾
湊   み   な   と  水戸
水上  み   な  かみ  三上
箕輪  み   の   わ  三輪・三和
渡辺  わた  な   べ  渡部(わたべ)

 上記の分解や理解がすべて正しいのかどうかはわかりませんが、言素を格助詞で繋ぎ、新たな名詞が構成されるという視点は重視すべきと思いました。今までの言素論研究に格助詞の視点を導入する必要を感じました。(つづく)

(注)
①京都地名研究会(会長:小寺慶昭氏)第57回地名フォーラム。於:キャンパスプラザ京都。

各助詞に着目した地名の要素分解 初宿成彦

研究発表「各助詞に着目した地名の要素分解」
初宿成彦(しやけしげひこ)

②古賀達也「『言素論』研究のすすめ」『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)古田史学の会編、明石書店、2016年。

 


第2611話 2021/11/10

『多元』No.166掲載

「『古事記』序文の『皇帝陛下』」の紹介

 先日、友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.166が届きました。同号の一面に拙稿「『古事記』序文の『皇帝陛下』」を掲載していただきました。ご評価頂き有り難いことです。
 同稿は、15年ほど前に古田先生との意見交換(内実は論争)で何度も対立したテーマを紹介しました。それは、『古事記』序文に見える「皇帝陛下」を唐の天子とするのか、通説通り元明天皇とするのかという問題で、ついには古田先生のご自宅まで呼び出され、長時間の論争となった、いわく付きのテーマでした。今となっては懐かしい限りですが、当時は先生から散々叱られて、泣きそうになりました。しかし、自らが正しいと思うことについては頑張ってみるもので、最終的には通説でよいとする論文を先生は『多元』(注)で発表されました。
 ご自宅での論争の数日後、先生は書き上げたばかりの二百字詰め原稿用紙30枚に及ぶ「お便り」を拙宅まで持参され、その最後には「わたしは古賀さんを信じます」の一言が付されており、激しい〝師弟論争〟も「破門」されることなく終わりました。31歳のあの日、古田先生の門をたたいてから35年が過ぎました。先生からはよく叱られ、何歳になっても震え上がったものです。

(注)古田武彦「古事記命題」『多元』80号、2007年7月。


第2610話 2021/11/06

古田先生と安徳大塚古墳の想い出

 最近、安徳大塚古墳(注①)を邪馬壹国の女王俾弥呼(ひみか)の墓ではないかとする見解があることを知りました。20年ほど前の話しですが、わたしも同じことを古田先生に述べ、叱られたことがありましたので、当時のことを懐かしく想い出しました。
 それは2003年5月26日のことでした。福岡市で開催された古田先生の講演会の翌日、小林嘉朗さん(古田史学の会・現副代表)や当地の会員さんら(クルマ2台を出していただきました)と共に古田先生と那珂川町の安徳台遺跡調査を行いました(注②)。小雨が降る中、ぬかるみに足をとられ泥だらけになりながらの調査でしたので今でもよく憶えています(クルマの中も泥だらけにしてしまいました)。
 当日は、春日市の「奴国の丘歴史資料館」・熊野神社(須玖岡本山に鎮座)を初め、那珂川町の安徳台(あんとくだい)遺跡・裂田溝(さくたのうなで)・現人(あらひと)神社・安徳大塚古墳等を訪れたのですが、主たる目的は「奴国の丘歴史資料館」に展示されている須玖岡本出土の虁鳳鏡見学と、古田先生が俾弥呼の墓の候補とされた春日市須玖岡本山にある熊野神社社殿下の墳丘墓調査でした。
 笹などに覆われた安徳大塚古墳(墳丘全長約64m)に登りましたが、樹木に遮られて視界があまり良くなく、墳丘の全体像は確認できませんでした。那珂川町のパンフレットには福岡平野最古の前方後円墳とあり、後円部の規模が倭人伝の表記「径百余歩」(約25m)に近いので、わたしは不用意にも「卑弥呼の墓ではないでしょうか」などと口走ってしまい、先生から叱られました。
 その理由は、倭人伝には「径百余歩」とあることから、円墳と解さざるを得ないという点にあり、〝『三国志』の著者陳寿を信じとおす〟という学問の方法を貫かれた古田先生らしいものでした。今思えば、文献史学(倭人伝の史料批判)や考古学(古墳の編年)の研究成果や学問の方法を軽視した思いつきでした。
 わたしは、先生からは褒められるよりも叱られることの方が多かった〝不肖の弟子〟でしたが、どのようなことに対して古田先生が叱るのかについては、お陰さまでわかるようになりました。それは学問研究に関する〝不公正〟と古田学派内への〝非学問的対立〟の持ち込みでした。このことについてのわたしの体験も、おいおい紹介したいと思います。

(注)
①福岡県那珂川町安徳にある前方後円墳(方部が細長い手鏡型)。墳丘の全長約64m(前方部幅約20m、同長さ30m、後円部径約35m)。4世紀後半の福岡平野最古の前方後円墳とされる。
②古賀達也「五月二六日、卑弥呼(ひみか)の墓調査報告 安徳台遺跡は倭王の居城か」『古田史学会報』57号、2003年8月。


第2595話 2021/10/16

万葉歌〝大和三山〟「高山」調査の思い出

 本日はドーンセンターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。11月はi-siteなんばで開催します(参加費1,000円)。
 今回の例会でわたしは来月14日に迫った〝八王子セミナー2021〟の予行練習を兼ねて、〝「倭の五王」時代(5世紀)の考古学 ―古田武彦「筑後川の一線」説の再評価―〟をパワポを使用して発表しました。関西例会参加者からの厳しい批判や指摘を事前にいただいておけば、当日の発表に役立つと考えたからです。おかげさまで、想定される批判や反論、不十分な点などが参加者から次々と指摘され、発表内容の修正に活かせそうです。ご指摘いただいた皆さんにお礼申し上げます。
 不二井さんが紹介された、万葉歌に見える〝大和三山〟の「高山」(原文)を通説の香具山ではなく、交野山(このさん、交野市)とする説は、古田先生との現地調査で発見されたものです。先生とドライブ中に偶然に発見した「高山町」(生駒市)という道路標識が新説誕生の端緒となったのですが、交野山々頂の巨岩に古田先生と登った思い出が、不二井さんの発表を聞きながら蘇ってきました。この〝大和三山〟「高山」説は古田武彦著『古代史の十字路 万葉批判』「第五章 あやまれる『高山』の歌」(東洋書林、2001年。後にミネルヴァ書房から復刻)に収録されています。

 なお、発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔10月度関西例会の内容〕
①大和三山 (明石市・不二井伸平)
②俀国と兄弟統治 (姫路市・野田利郎)
③服部論文「磐井の乱は南征だった」の根拠が失われる可能性について (茨木市・満田正賢)
④「倭の五王」時代(5世紀)の考古学 ―古田武彦「筑後川の一線」説の再評価―(京都市・古賀達也)
⑤会誌第二十二集『倭国古伝』(荒覇吐神社~)の絵図に関して (大山崎町・大原重雄)
⑥名字と本姓の扱い方 ―秋田次郎橘孝季の例― (たつの市・日野智貴)
⑦景初鏡・正始鏡 (京都市・岡下英男)
⑧藤原宮造営中断の実相 (川西市・正木 裕)
⑨斉明紀の征西記事と朝倉宮 (東大阪市・荻野秀公)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(「三密」回避に大部屋使用の場合は1,000円)
11/20(土) 10:00~17:00 会場:i-siteなんば
 ※コロナによる会場使用規制のため、緊急変更もあります。最新情報をホームページでご確認下さい。

《関西各講演会・研究会のご案内》
 ※コロナ対応のため、緊急変更もあります。最新情報をご確認下さい。

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 資料代500円 〔お問い合わせ〕℡080-2526-2584
○10/27(水) 13:30~16:30 会場:奈良県立図書情報館
 「伊勢王の時代⑤ 大化の改新と二つの大化年号」 講師:正木裕さん(古田史学の会・事務局長)
 「王朝交代の真実 天武は筑紫都督だった」 講師:服部静尚さん(古田史学の会・会員)
○11/24(水) 13:30~16:30 会場:奈良県立図書情報館
 「白村江の戦い① 白村江前史~専守防衛に徹した伊勢王」 講師:正木裕さん(古田史学の会・事務局長)
 「飛鳥寺は飛鳥にあったのか」 講師:服部静尚さん(古田史学の会・会員)


第2593話 2021/10/15

パリからの国際電話(古田先生の命日)

 昨晩、パリ市在住の奥中清三さん(古田史学の会・会員)から国際電話をいただきました。奥中さんはパリ市公認の画家で、年に一ヶ月ほどはモンマルトルのアトリエで観光客の似顔絵などを描き、それ以外のときは自らが好きな絵を描いておられるとのこと。今年はパリに渡って50年になるそうです。コロナでフランスも大変で、政府に対してワクチン接種反対デモなども頻繁に行われていると仰っていました。日本とは大違いです。
 コロナ禍のために帰国もままならいようで、前回は2016年11月に大阪市でお会いし、大阪城や難波宮跡などをご案内しました。昨日(10月14日)は、古田先生の命日ということで、お電話をいただきました。先生の命日を忘れずにいていただき、有り難いことと感謝しています。


第2585話 2021/10/01

『親鸞と被差別民衆』の人間模様

 河田光夫氏と古田先生、藤田友治さん

 四半世紀ぶりに、河田光夫氏の『親鸞と被差別民衆』(明石書店、1994年)を書架より探し出して読みました。同書冒頭には古田先生による序文が記されています。

〝(前略)
 わたしは馬齢を重ね、古希の坂へと登ろうとしている。しかし、振り返っても、君は亡い。
 河田氏の新著を祝うための一文が、一片の弔辞としてはじまったこと、それを読者におゆるしいただきたいと思う。わたしにとって氏は、親鸞研究の未知の沃野を開くべき刮目の人、そういう研究者だったのである。
 氏は、わたしの親鸞に関する論文を深く熟読して下さった。わたしの親鸞学の学問としての方法を理解し、その成果を深く摂取しつつ、新たな研究分野を切り開いてゆかれたのである。
 中でも、被差別民衆の立場から親鸞言説を検証する、その方法論は、出色だった。幾多の親鸞研究の中でも燦然たる光を放っている。今後も、失われることはないであろう。
 (中略)
 それゆえに、弔いの言葉としてではなく、お祝いの言葉をもって、本書の序文を結ばせていただきたいと思う。
  一九九四年十月十五日
  ――住井すゑさんの牛久の会の講演に赴く前夜――
                     古田武彦〟

 著者は親鸞研究を通して古田先生と懇意にされていたようです(注①)。河田氏はガンの闘病生活のなかで同書の校正を続け、その途中で亡くなられました(1993年12月18日没)。その校正作業を引き受け、出版にまでこぎ着けたのが藤田友治さん(注②)でした。同著末尾にある藤田さんの「河田光夫氏への追悼と本書の解題」にその経緯が記されています。また、藤田さんは河田氏を介して古田先生の著作を知り、先生との交流が始まったとのこと。当時の様子を次のように記されています。

〝河田氏の引越しの手伝いで河田氏宅にいった際、河田夫人から古田武彦『「邪馬台国」はなかった』や『親鸞 人と思想』の贈呈を受け、古田氏は河田氏の友人であることが解った。
 「偶然は人を思いがけないところへ導くものである」という言葉通り、河田氏から紹介された古田氏を中心にして、その後“囲む会”、さらに発展改称し、“市民の古代研究会”とし、全国組織となったのである(当初、事務局長、前会長)。そして最近は「古田史学の会」へその精神は引き継がれた。〟『親鸞と被差別民衆』146頁

 こうした学問研究を縁(えにし)とした人間模様は、これからも誰かに繋がっていくものと思います。河田氏、藤田さん、古田先生は既に鬼籍に入られました。残された者の一人として、記憶を書き留め、これからの新たな学縁を繫いでいきたいと願っています。

(注)
①古田武彦『親鸞 人と思想』(清水書院、1970年)に河田氏の研究が次のように紹介されている。
 「この問題について、河田光夫に『念仏弾圧事件と親鸞』〈『日本文学』一九六八・七・十月号〉という、みごとな研究がある。言語文法の側面から、この問題を分析したものだ。」170頁
②藤田友治氏(1947~2005年)。「市民の古代研究会 ―古田武彦と共に―」の創立者で、事務局長、会長を歴任された。1994年の「古田史学の会」創立に参加。