難波朝廷(難波京)一覧

第1453話 2017/07/14

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(4)

 前期難波宮「天武朝」造営説の根拠とされてきた白石説は正しくは「天智朝」造営説なのですが、その白石論文「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」(『近つ飛鳥博物館館報16』2012年)の基礎データそのものに問題があることも服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)により明らかにされています。そのことについて服部さんからわたしのfacebookに次のようなコメントが寄せられましたのでご紹介します。

【服部さんからのコメント】
 飛鳥編年でもって七世紀中頃(孝徳期)造営説を否定した白石太一郎氏の論考「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」があります。私はこの白石氏の論考批判を、「古代に真実を求めて第十七集」に掲載してもらったのですが、この内容についてはどなたからも反応がありません。こき下ろしてもらっても結構ですので批判願いたいものです。
 白石氏の論考では、①山田池下層および整地層出土土器を上宮聖徳法王帝説の記事より641年とし、②甘樫丘東麓焼土層出土土器を乙巳の変より645年とし、③飛鳥池緑粘砂層出土土器を655年前後とし、④坂田寺池出土土器を660年代初めとし、⑤水落貼石遺構出土土器を漏刻記事より660年代中から後半と推定して、前期難波宮の整地層と水利施設出土の土器は④段階のものだ(つまり660年代の初め)と結論付けたものです。
 氏は①〜⑤の坏H・坏G土器が、時代を経るに従って小径になっていく、坏Gの比率が増えていくなどの差があり、これによって10年単位での区別が可能であるとしています。
 私の論考を読んでいただければ判ってもらえますが、小径化の傾向・坏HおよびGの比率とも、確認すると①〜⑤の順にはなっていないのです。例えば①→②では逆に0.7mm大きくなっていますし、②→③では坏Hの比率がこれも逆に大きくなっています。白石氏のいうような10年単位での区別はできないのです。だから同じ上記の飛鳥編年を用いても、大阪文化財協会の佐藤氏は②の時期とされています。(以下略)

 白石説を批判された服部さんの論稿「須恵器編年と前期難波宮 -白石太一郎氏の提起を考える-」は『古代に真実を求めて』17集(古田史学の会編、明石書店。2014年)に収録されています。服部さんは金属工学がご専門で、データ解析処理なども得意とされています。同論文では飛鳥編年の根拠とされた須恵器の外径の測定値が誤っていることや、サンプル母集団の問題点などが具体的に指摘されています。あわせて『日本書紀』の暦年記事の年代の問題点も古田説など多元史観に基づいて批判されています。
 同論文に先立ち、服部さんはその研究報告を「古田史学の会・関西例会」でも発表されていました。しかしその後も、前期難波宮「天武朝」造営説論者からは賛否も意見もないまま、飛鳥編年を「是」とする意見が出されています。なぜでしょうか。(つづく)


第1452話 2017/07/13

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(3)

 前期難波宮「天武朝」造営説の主な論拠として次の三点を紹介しました。

1.天武朝の頃であれば九州王朝は弱体化しており、近畿天皇家の天武が国内最大規模の朝堂院様式の前期難波宮を造営したとしても問題ない。
2.従って、前期難波宮は天武による天武の宮殿と古賀の質問に対して答えることができる。
3.飛鳥編年(白石説)によって前期難波宮整地層出土土器が天武朝の頃と判断できる。

 この中で「天武朝」とする根拠として、3の飛鳥編年(白石説)が正しいとされているのですが、実はこの主張は錯覚ではないかと、わたしは疑っています。というのも、一元史観に基づく白石太一郎さんの飛鳥編年によれば、前期難波宮の成立年代を「早くても660年代の早い時期」で「天武朝までは下らない」とされているからです。従って白石説は「天武朝」造営説ではなく、正しくは「天智朝」造営説なのです。ですから、前期難波宮「天武朝」造営説論者が白石さんの飛鳥編年を自説の根拠とされているのは、失礼ながら錯覚か勝手な思いこみによるものではないでしょうか。それとも白石論文「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」(『近つ飛鳥博物館館報16』2012年)そのものを読んでおられないのかもしれません。
 白石説によれば前期難波宮が「天智朝」造営であることを服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)は2014年から指摘されてきたのですが、残念ながら前期難波宮「天武朝」造営説論者から応答や反論はありません。なぜでしょうか。(つづく)


第1451話 2017/07/13

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(2)

 わたしの前期難波宮九州王朝副都説への批判として提示されたのが前期難波宮「天武朝」造営説です。これはわたしから提起した次の四つの質問に対する回答として出されたものです。

1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 これらの質問に答えていただきたいと、わたしは繰り返し主張してきました。近畿天皇家一元論者であれば、答えは簡単です。すなわち「孝徳天皇が評制により全国支配した難波長柄豊碕宮である」と、『日本書紀』の史料事実(実証)と上町台地に存在する巨大な前期難波宮遺跡という考古学的事実(実証)を根拠にそのように答えられるのです(ただし4は一元史観では回答不能)。
 そこで古田学派の中の前期難波宮九州王朝副都説反対論者から出されたのが前期難波宮「天武朝」造営説です。その論点おおよそ次のようなものでした。

1.天武朝の頃であれば九州王朝は弱体化しており、近畿天皇家の天武が国内最大規模の朝堂院様式の前期難波宮を造営したとしても問題ない。
2.従って、前期難波宮は天武による天武の宮殿と古賀の質問に対して答えることができる。
3.飛鳥編年(白石説)によって前期難波宮整地層出土土器が天武朝の頃と判断できる。

 およそこのような論旨で説明されており、わたしの質問の1と2に対する一応の回答にはなっていますが、3と4に対する回答(具体的遺跡の提示)は相変わらずなされていません。なぜでしょうか。もし、「そのうち発見されるだろう」と言われるのであれば、それは学問的回答ではなく主観的願望に過ぎません。(つづく)


第1450話 2017/07/13

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(1)

 学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させると、わたしは考えています。ですから、わたしが10年ほど前から提唱してきた前期難波宮九州王朝副都説への学問的で真摯な批判は大歓迎です。聞くところによれば、関東でも前期難波宮九州王朝副都説への関心が高まり、賛否両論が出されているとのことで、とても感謝しています。
 思えば、2013年に開催された最後の「八王子セミナー」で、参加者からの「前期難波宮九州王朝副都説についてどのように考えられていますか」との質問に対して、「検討しなければならない」と古田先生は回答されました。その先生の学問的「遺言」ともいうべき言葉を関東の古田学派の皆さんにより実践していただいているのであれば、とても有り難いことです。もちろんその結果が「前期難波宮副都説は間違っている」というものであっても全くかまいません。学問にはそうした真摯な論争が必要だからです。
 そこでこの検討や論争がより正確に効率的に進められるよう論点整理を兼ねて、前期難波宮九州王朝副都説への反対意見として提起された前期難波宮「天武朝」造営説に焦点を絞って解説し、その疑問点を指摘したいと思います。関東や読者の皆さんの論議検討のお役に立てば幸いです。(つづく)


第1441話 2017/07/03

井上信正さんへの三つの質問(7)

 井上信正さん(太宰府市教育委員会)への三つ目の質問には一元史観による王都・王宮発展史に関わる重要な問題が含まれていました。おそらく井上さんもその問題をご存じのはずで、下記の質問に対して、前期難波宮を「北闕」様式とは見なされず、たまたま立地上の制約から「北闕」様式のようになったとする考えを示されました。

〔質問3〕井上説によれば平城京や大宰府政庁Ⅱ期の「北闕」型の都城様式は8世紀初頭の遣唐使(粟田真人)によりその情報がもたらされたものであるとのことだが、7世紀中頃の造営とされている前期難波宮が「北闕」型であることをどのように考えられるのか。
〔回答3〕前期難波宮は中国様式の宮殿であるが、上町台地の最も良い場所(北端部の高台)に造営されたものと考える。

 実はこれはちょっと意地悪な質問だったかもしれません。井上さんも前期難波宮を中国様式の宮殿と認められたのですが、ということは唐の長安城の宮殿の様子を倭国は7世紀中頃には知っていたことになります。そうであれば当然のこととして、長安が「北闕」様式の都城であることも知っていたはずです。従って、8世紀初頭の遣唐使によって初めて「北闕」様式の都城の様子が伝えられ、平城京や大宰府政庁Ⅱ期の造営に採用されたとする井上説は成立困難でしょう。
 この王都の「北闕」様式については、考古学者の井上さんだけではなく、一元史観の文献史学研究者にとってもかなりやっかいな問題なのです。一元史観に立って近畿天皇家の王都・王宮の変遷を見たとき、飛鳥の雑然とした王宮に居した皇極、その次の孝徳はいきなりけた違いの巨大な朝堂院様式を持つ「北闕」型の前期難波宮を造営、次の斉明(皇極)はまた飛鳥の雑多な王宮へ戻り、次の天智は前期難波宮によく似た巨大な朝堂院様式の近江大津宮へ遷都、次の天武は飛鳥に戻り、それまでの雑多な王宮に「エビノコ郭」を増築、次の持統は飛鳥に巨大な朝堂院様式を持つ『周礼』型の藤原宮を造営、その後の710年には「北闕」型の平城京へ遷都、およそこのような変遷をたどります。
 このように一元史観に立った近畿天皇家の王都・王宮の変遷を見たとき、孝徳の前期難波宮だけが前後の王都・王宮とは様式も規模も異質で傑出しており、同じ「王朝」のものとは思えないのです。特に王宮を王都の北に置く(前期難波宮・平城宮)のか、中心(藤原宮)に置くのか、政治思想的にも異なりますし、律令官制による全国支配とその行政を中央で取り仕切ることに対応した「朝堂院」様式の王宮(前期難波宮)が孝徳になって突然出現し、かと思うと次の斉明はまた辺境の飛鳥の宮へと戻ります。孝徳から斉明に代替わりしたら、律令官制をやめたとでもいうのでしょうか。その数千人に及ぶとされる官僚群や家族たちはどこへ引っ越ししたのでしょうか。
 このように、一元史観による近畿天皇家の王都・王宮の変遷史から前期難波宮を見たとき、思想的に全く異質で規模もけた違いに巨大であることは明白です。このことに対して一元史観の研究者は合理的な説明に成功していません。この一元史観にとって困難な問題は井上さんの説でも避け難いのです。「ちょっと意地悪な質問」と記したのは、このような理由からだったのです。
 一元史観にとって前期難波宮の存在が説明困難な課題となっていることに、わたしが気づいたのは、ちょうど前期難波宮九州王朝副都説へ至ろうとしていた頃でした。九州王朝説にとっても一元史観にとっても説明困難な前期難波宮の存在を、九州王朝副都説でうまく説明できることを確信した瞬間でもありました。
 今回の井上さんのご講演と質疑応答を経て、一元史観では未だ前期難波宮問題を解決できていないのだなと思いました。そのことを確認できたことも、井上さんに大阪でご講演いただいた学問的成果の一つではないでしょうか。(完)


第1434話 2017/06/25

井上信正さんへの三つの質問(6)

 井上信正さん(太宰府市教育委員会)への三つ目の質問は次のようなものでした。

〔質問3〕井上説によれば平城京や大宰府政庁Ⅱ期の「北闕」型の都城様式は8世紀初頭の遣唐使(粟田真人)によりその情報がもたらされたものであるとのことだが、7世紀中頃の造営とされている前期難波宮が「北闕」型であることをどのように考えられるのか。

 これは、直接には唐の長安城(「北闕」型の都)を見た遣唐使(粟田真人)により日本国に伝えられ、その「北闕」様式が平城京と大宰府政庁Ⅱ期の造営に採用されたとする井上説への質問なのですが、より深くは前期難波宮を一元史観に基づく考古学ではどのように説明されるのかを確認することが目的でした。当然ながら、井上さんはわたしのその目的を正確に理解され、次のように回答されました。

〔回答3〕前期難波宮は中国様式の宮殿であるが、上町台地の最も良い場所(北端部の高台)に造営されたものと考える。

 すなわち井上さんは、前期難波宮は好適地に造営したら、結果として「北闕」型のようになっただけと考えておられることがわかりました。自説が成立するためには、そのように考えざるを得ないということかもしれません。わたしとしては、それはかなり無理な解釈と思うのですが、実はこの「無理な解釈」をせざるを得ないのは井上説だけではなく近畿天皇家一元史観の論者が共通して持つ難問でもあるのです。(つづく)


第1421話 2017/06/13

前期難波宮の難波宮説と味経宮説

 「洛中洛外日記」1418話(2017/06/09)「前期難波宮は『難波宮』と呼ばれていた」で、前期難波宮(考古学的遺跡名称)が7世紀当時に「難波宮」と呼ばれていたとする、わたしの考えを説明しました。他方、正木裕さんの「味経宮(あじふのみや)」とする説も有力としました。また、前期難波宮「味経宮」説をわたしの説であるかのごとく扱い、わたしを論難する方にたいして、前期難波宮「味経宮」説は正木さんが発表されたものであり、そのプライオリティーを尊重して、「正木説」として批判されるべきと指摘しました。
 この同一の宮殿に二つの名称があったかもしれないという問題について、もう少し詳しく説明したいと思います。わたしは正木説の発表を受けて、「難波宮」は広域地名(難波)を冠した宮殿名、「味経宮」は小領域地名(味経)を冠した呼称と考え、7世紀当時、併用されていたのではないかと考えました。はるか遠くの九州では広域地名の「難波宮」と呼んだほうがよくわかり、現地の難波では宮殿がある具体的小領域名を冠した「味経宮」と呼ばれていたのではないでしょうか。
 他方、近畿天皇家の孝徳の宮殿は『日本書紀』では「難波長柄豊碕宮」と、大領域(難波)+中領域(長柄)+小領域(豊碕)を冠した呼称(表記)となっています。これは、難波には複数の宮殿が併存していたため、小領域地名まで具体的に冠しないと孝徳の宮殿と特定できないために、このような長ったらしい宮殿名表記とせざるを得なかったと思われます。
 九州王朝説の立場から見ると、孝徳には大領域地名だけの「難波宮」という名称を自らの宮殿に採用できなかったということになります。九州王朝から王朝交替後(701年以後)の聖武天皇の宮殿(後期難波宮)を一貫して「難波宮」(『続日本紀』)と呼んでいることとは対照的です。難波における代表的な最も巨大な宮殿こそ「難波宮」の呼称が自他ともに許されたのです。『日本書紀』孝徳紀には「難波宮」表記もありますから、その場合は九州王朝の副都である「前期難波宮」を指している可能性があり、この点、個別に検証が必要です。
 「洛中洛外日記」1418話を読まれた正木さんから、正木説の詳細な説明メールをいただきました。それによると、「味経宮(あじふのみや)」は建設中(完成まで)の名称、完成後は「難波宮」と呼ばれたと正木さんは考えられているとのことです。その理由として、「難波」にはすでに小郡宮・大郡宮・長柄宮などがあり、これらと区別するためには「より小域の地名」を冠する必要があったからとされました。そして、完成後はその圧倒的な規模から「難波宮」というだけで前期難波宮を指すことが明白になったとあります。この視点はわたしと同様であり、より具体的なご指摘です。
 さらに、史料的にも「味経宮」とあるのは「遷宮」までで、完成後も「味経宮」と呼ばれていたとは述べていないとされました。正木さんの論稿「前期難波宮の築造準備について」(『古田史学会報』124号)で「味経宮」に触れた部分は以下の通りで、「完成間近」では「難波宮(味経宮)」、入城は「新宮(難波宮)」と書き分けられています。

 「そうして、十二月の晦に、全面完成間近な難波宮(味経宮)において、新宮の無事を祈念するための大法要を執り行ったのち、新宮(難波宮)に入城し新年の賀を受け、白雉改元に向けた諸準備をおこなったことになる。」

 従って正木説は“「難波宮」と「味経宮」は完成前と完成後の時間帯により呼称(表記)が変化した同一の宮殿(前期難波宮)”という説であることがわかりました。わたしは正木説を不正確に理解していたわけで、このことを本稿にて明確にし、誤解していたことをお詫びしたいと思います。いずれにしましても、前期難波宮「味経宮」説のプライオリティーは正木さんにあり、これからは「正木説」として評価・批判されるべきであることを再度指摘しておきます。


第1418話 2017/06/09

前期難波宮は「難波宮」と呼ばれていた

 「洛中洛外日記」163話(2008.02.24)「前期難波宮の名称」175話(2008.05.12)「再考、難波宮の名称」などで、わたしは前期難波宮(考古学的遺跡名称)が7世紀当時に「難波宮」と呼ばれていたのではないかと発表しました。他方、正木裕さんは前期難波宮の名称を「味経宮(あじふのみや)」とする説を発表され、この正木説も検討すべき有力説であるとわたしは「再考、難波宮の名称」で賛意を表しました。そして、今でも正木説は有力であるとの評価は変わりません。
 ところが、前期難波宮「味経宮」説をわたしの説であるかのごとく扱い、わたしを論難する方があります。学問は批判を歓迎するとわたしは考えていますが、同時にそれは真摯であるべきです。他者を批判する前に、その論文をよく読んで正しく理解してからにするべきと、わたしは古田先生から学びました。ですから、前期難波宮「味経宮」説は正木さんが発表されたものであり、そのプライオリティーを尊重して、「正木説」として批判されるべきです。
 わたしは前期難波宮の真上に造営された聖武天皇の後期難波宮が、『続日本紀』には一貫して「難波宮」と表記されていることを根拠に、同じ場所にあった前期難波宮も「難波宮」と呼ばれていたと理解しています。そしてこの度、札幌市の阿部周一さんから『令集解』所収「古記」に「造難波宮司」という表記があることを教えていただきましたが、701年成立の『大宝律令』の注釈書「古記」に「難波宮」とあるとすれば、7世紀の前期難波宮が「難波宮」と呼ばれていたと言えるでしょう。
 阿部さんからの情報に基づき、わたしも『令集解』の当該記事を確認するため、大阪梅田阪急の古書店で『令集解』(国史大系本)全4冊を購入しました。『令集解』引用の当該「古記」部分には次のように記されていました。

 「(前略)古記云、其外配者便送配所謂西方之民。便配造難波宮司也。以近及遠。謂先番役近國。次中國。次遠國也。依名分配。謂依名簿。木工者配木工寮。鍛師者配鍛冶司也。(後略)」『令集解』第二(国史大系本)「巻十四 賦役令」426頁

 難解な漢文ですが、『大宝律令』の注釈書と見られる「古記」からの引用文に「造難波宮司」や「番役」という表記があり、7世紀の前期難波宮に関する規定と理解されています。貴重な史料が残っていたものです。阿部さんの情報提供に感謝します。『古田史学会報』への投稿が待たれます。


第1417話 2017/06/08

『大宝律令』注釈書「古記」に

        「造難波宮司」「番役」

 先日、札幌市の阿部周一さん(古田史学の会・会員)からメールをいただき、『大宝律令』の注釈書である「古記」に「造難波宮司」「番役」の記述があることをお知らせいただきました。詳細は阿部さんの論文発表を待ちたいと思いますが、正木裕さんが発見された『伊予三島縁起』に記された常色年間の「番匠初」記事に対応するもので、このような記録が大和朝廷側の「公文書」に残されていたことに驚きました。
 阿部さんからのメールによれば、『大宝律令』(701年成立)の注釈書「古記」にあることなどから、この「造難波宮司」が造営した「難波宮」は8世紀(726年)に造営された聖武天皇の後期難波宮ではありえず、7世紀に存在した「難波宮」と考えざるを得ないとのこと。他方、この「古記」の記述からも、前期難波宮を大和朝廷が「難波宮」と呼んでいたことが、より一層明白となりました。
 阿部さんには『古田史学会報』への投稿をお勧めしました。とても楽しみにしています。


第1408話 2017/05/30

佐藤論文に見える飛鳥編年の脆弱性

 土器の相対編年(様式変遷)などにより10年単位で暦年(絶対編年)が可能とする飛鳥編年(白石説)が、その根拠とした基礎データや『日本書紀』の暦年記事の信頼性が学問的に脆弱であることを、これまでも繰り返し指摘してきました。たとえば「洛中洛外日記」1387話「服部論文(飛鳥編年批判)への賛否を」においても、次の服部さんのメッセージを転載しました。

【服部さんのメッセージの転載】
飛鳥編年でもって七世紀中頃(孝徳期)造営説を否定した白石太一郎氏の論考「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」があります。私はこの白石氏の論考批判を、「古代に真実を求めて第十七集」に掲載してもらったのですが、この内容についてはどなたからも反応がありません。こき下ろしてもらっても結構ですので批判願いたいものです。

 白石氏の論考では、①山田池下層および整地層出土土器を上宮聖徳法王帝説の記事より641年とし、②甘樫丘東麓焼土層出土土器を乙巳の変より645年とし、③飛鳥池緑粘砂層出土土器を655年前後とし、④坂田寺池出土土器を660年代初めとし、⑤水落貼石遺構出土土器を漏刻記事より660年代中から後半と推定して、前期難波宮の整地層と水利施設出土の土器は④段階のものだ(つまり660年代の初め)と結論付けたものです。
氏は①〜⑤の坏H・坏G土器が、時代を経るに従って小径になっていく、坏Gの比率が増えていくなどの差があり、これによって10年単位での区別が可能であるとしています。

 私の論考を読んでいただければ判ってもらえますが、小径化の傾向・坏HおよびGの比率とも、確認すると①〜⑤の順にはなっていないのです。例えば①→②では逆に0.7mm大きくなっていますし、②→③では坏Hの比率がこれも逆に大きくなっています。白石氏のいうような10年単位での区別はできないのです。だから同じ上記の飛鳥編年を用いても、大阪文化財協会の佐藤氏は②の時期とされています。(以下略)

 ※服部静尚「須恵器編年と前期難波宮 -白石太一郎氏の提起を考える-」(『古代に真実を求めて』17集。古田史学の会編、明石書店。2014年)

 前期難波宮孝徳期造営説に対して飛鳥編年を根拠に批判される論者からは、残念ながらまだ服部説への応答がないようです。学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させるとわたしは考えていますので、服部説への真摯なご批判を期待しています。

 前期難波宮造営時期について、飛鳥編年と難波編年の対立が考古学者間でも続いてきましたが、現在ではほとんどの考古学者が前期難波宮孝徳期造営説を支持するに至っていると聞いています。もちろん、学問は「多数決」ではありませんから、その当否・優劣は論証そのものにより決まります。
わたしの前期難波宮九州王朝副都説への批判においても、飛鳥編年を根拠に否定するという論者が見られますが、どちらの編年がより正しいのかが考古学的に論争されてきたのであり、“飛鳥編年によれば難波編年が間違っている”“飛鳥編年によれば660年代となる土器が前期難波宮整地層から出土している”というレベルの批判(循環論法)では、およそ学問論争の体をなしません。
その点、難波編年の妥当性を証明するために、出土「戊申年」木簡(648年)や出土木材の年輪年代測定値(634年)、出土木柱の年輪セルロース酸素同位体比年代測定値(583年、612年)を根拠(実証)に、孝徳期造営説が妥当としてきた大阪歴博や大阪府埋蔵文化財センターの考古学者の説明(論証)の方が合理的で説得力があります。他方、孝徳期造営説を批判する側からは、自説の根拠となる前期難波宮出土物の理化学的年代測定値の提示(実証)は全くありません。こうした両者の提示した実証や論証を冷静に比較したとき、そこには質・量ともに明確な差があり、従って大多数の考古学者が前期難波宮孝徳期造営説を支持していることも当然であり、既に「勝負はついている」と、わたしには思われるのです。
今回、読んだ大阪歴博『研究紀要』15号の佐藤隆さんの論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」でも、直接的な表現ではありませんが、随所に飛鳥編年の問題点が指摘されています。たとえば、土器の「法量変化」に関する指摘です。土器の径が時代とともに小さくなることを前提に成立していた飛鳥編年(白石説)に対しては、先に紹介したように服部さんも批判されていますが、佐藤論文にも同様の指摘がなされています。

 「筆者は飛鳥Ⅲを細分する必要性は感じていないが、たしかに飛鳥Ⅱの資料や飛鳥Ⅳの代表例である雷丘東方遺跡SD110などの資料と比べると、後者との様相差がより小さく見える(図4)。その内容としては、飛鳥Ⅲ・Ⅳでは土師器・須恵器ともに坏A・Bが定型化すること、土師器坏Cの器高がこの間に低下していくこと、いったん極限まで縮小した須恵器坏Gの法量が再び大きくなることなどである。」(8頁)

 わたしは「いったん極限まで縮小した須恵器坏Gの法量が再び大きくなる」という部分を読み、図4を確認したところ、佐藤さんの指摘通り、より新しく編年されている飛鳥Ⅲ・Ⅳの須恵器の方が飛鳥Ⅱよりもかなり大きいのです。わたしも、土器(主に須恵器)の径は時代が下がるとともに小型化するという飛鳥編年の基本テーゼは信用していましたので、佐藤論文の指摘にとても驚きました。考古学の土器編年を、もっと勉強しなければならないと深く反省しました。


第1407話 2017/05/28

前期難波宮の考古学と『日本書紀』の不一致

 大阪歴博『研究紀要』15号の佐藤隆さんの論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」を何度も読み返しています。興味深い出土事実や『日本書紀』の記事との関係についての指摘が記されているのですが、次の点は特に重要と思われました。

 「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。たとえば、白雉4年(653)には中大兄皇子が飛鳥へ“還都”して、翌白雉5年(654)に孝徳天皇が失意のなかで亡くなった後、難波宮は歴史の表舞台からはほとんど消えたようになるが、実際は宮殿造営期以後の土器もかなり出土していて、整地によって開発される範囲も広がっている。それに対して飛鳥はどうなのか?」(1〜2頁)
 「難波Ⅲ中段階は、先述のように前期難波宮が造営された時期の土器である。続く新段階も資料は増えてきており、整地の範囲も広がっていることなどから宮殿は機能していたと考えられる。」(6頁)
 「孝徳天皇の時代からその没後しばらくの間(おそらくは白村江の戦いまでくらいか)は人々の活動が飛鳥地域よりも難波地域のほうが盛んであったことは土器資料からは見えても、『日本書紀』からは読みとれない。筆者が『難波長柄豊碕宮』という名称や、白雉3年(652)の完成記事に拘らないのはこのことによる。それは前期難波宮孝徳朝説の否定ではない。
 しかし、こうした難波地域と飛鳥地域との関係が、土器の比較検討以外ではなぜこれまで明瞭に見えてこなかったかという疑問についても触れておく必要があろう。その最大の原因は、もちろん『日本書紀』に見られる飛鳥地域中心の記述である。」(12頁)

 この佐藤さんの指摘は革新的です。孝徳天皇が没した後も『日本書紀』の飛鳥中心の記述とは異なり、考古学的(出土土器)には難波地域の活動は活発であり、難波宮や難波京は整地拡大されているというのです。
 この現象は『日本書紀』が記す飛鳥地域中心の歴史像とは異なり、一元史観では説明困難です。孝徳天皇が没した後も、次の斉明天皇の宮殿があった飛鳥地域よりも「天皇」不在の難波地域の方が発展し続けており、その傾向は「おそらくは白村江の戦いまでくらい」続いたとされているのです。この考古学的事実こそ、前期難波宮九州王朝副都説に見事に対応しているのではないでしょうか。孝徳の宮殿は前期難波宮ではなく、恐らく北区長柄豊崎にあった「長柄豊碕宮」であり、その没後も九州王朝の天子(正木裕説では伊勢王「常色の君」)が居していた前期難波宮と難波京は発展し続けたと考えられるからです。そしてその発展は、佐藤さんによれば「白村江戦(663年)」のころまで続いたとのことですから、九州王朝の白村江戦での敗北により難波副都は停滞を始めたと思われます。
 わたしはこれまで難波編年の勉強において、土器様式の変遷に注目してきたのですが、佐藤さんは土器の出土量の比較変遷にも着目され、その事実が『日本書紀』の飛鳥地域中心の記述と「不一致」であることを指摘されました。難波を自ら発掘されている考古学者ならではの慧眼と思います。そして佐藤さんが指摘された考古学的出土事実こそ、わたしの前期難波宮九州王朝副都説と最もよく対応しているのではないでしょうか。
 佐藤さんは論文のまとめとして次のように記されています。

 「本論で述べてきた内容は、『日本書紀』の記事を絶対視していては発想されないことを多く含んでいる。筆者は土器というリアリティのある考古資料を題材にして、その質・量の比較をとおして難波地域・飛鳥地域というふたつの都の変遷について考えてみた。」(14頁)

 考古学者ならではの鋭い指摘と言わざるをえません。土器による相対編年以外にも、出土干支木簡や出土木材の年輪年代測定、出土木柱の理化学的年代測定という絶対編年の参考となる「実証」に基づいて難波編年を作り上げてきた大阪の考古学者たちに対して、『日本書紀』孝徳紀の記事を盲信したものと非難する論者もありますが、その非難が失当であることは、この佐藤論文からも明らかと言えるでしょう。


第1406話 2017/05/27

大阪歴博『研究紀要』15号を閲覧

 先日、大阪歴博に行き、最新の報告書を探しました。すると、本年3月発行の大阪歴博『研究紀要』15号があり、閲覧しました。余談ですが、大阪歴博の図書コーナーの受付の方や相談員の方(考古学者)にはいつも懇切丁寧に質問や書籍照会に応じていただき、感謝しています。
 『研究紀要』15号には次の3稿が特に注目すべき内容でしたので、コピーしました。

○村上健一「隋唐初の複都制 七世紀複都制解明の手がかりとして」
○佐藤 隆「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」
○栄原永遠男「難波屯倉と古代王権 -難波長柄豊碕宮の前夜-」

 村上稿は日本の複都制への中国の隋唐朝の影響について論じられたものです。佐藤稿は最新の土器研究に基づき難波編年と飛鳥編年、さらには『日本書紀』の記述との関係性について論じられたもの。栄原稿は文献史学により「難波屯倉」について論じられたもので、いずれも一元史観に立ってはいるものの、参考になる内容を含んでいました。
 とりわけ、佐藤稿は出土土器の最新状況や難波編年と飛鳥編年の関係性に論究した優れたものでした。『日本書紀』の記述との一致や不一致についても丁寧に論じられており、多元史観にとっても示唆に富むものでした。考古学の専門用語が多く、難解ではありますが、繰り返し精読しています。九州王朝説でなければ説明できないような、とても面白い指摘が随所に見えますので、これから「洛中洛外日記」で紹介していきます。お楽しみに。