史料批判一覧

第1684話 2018/06/04

「実証と論証」茂山さんからのメール

 「学問は実証よりも論証を重んずる」と村岡典嗣先生が言われたこの言葉の意味や、それを受け継がれた古田先生の学問の方法についてより深く学びたいとわたしは願ってきました。
 そこで、フィロロギーの創始者であるアウグスト・ベークの著書『解釈学と批判 -古典文献学の精髄-』にまで遡っての解説を茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)にお願いして始まった「フィロロギーと古田史学」と題した関西例会での11回に及んだ講義もこの五月で最終回を迎えました。毎回、資料を作成して難解なベークの著書を解説していただいた茂山さんに深く感謝いたします。
 その終了後に、「学問は実証よりも論証を重んずる」に絞ってご意見をまとめて欲しいと更にお願いしていたところ、メールで「実証と論証について」という御論稿をいただいたのですが、わたし一人のものとするのはもったいないと思い、茂山さんのご了解をいただいて、転載することにしました。
 茂山さんは哲学を専攻されたとのことで、難解なベークの著作を深く考察され、そのエッセンスをわたしたちに教えていただきました。このテーマは奥が深く、まだまだこれからも勉強しなければならないと考えていますが、今回いただいた茂山さんの論稿はよく納得できるもので、学問の方法を身につけるためにもこれからの指針にしていきたいと思っています。

【以下、メールを転載】
古賀 様
          2018.5 茂山憲史

 村岡典嗣氏の「学問は実証より論証を重んじる」という言葉を理解するためには、村岡氏が自らの学問を「アウグスト・ベークのフィロロギーに基づいています」と公言していたのですから、ベークのフィロロギーからこの言葉を理解しなければならないように思います。
 ベークのフィロロギーについて1年にわたって報告してきたことを踏まえると、村岡氏の「学問は実証よりも論証を重んじる」という言葉は、具体的には多くの意味を内蔵していて、「肯定してもよい部分」と「容認してはいけない部分」があるように思います。

 肯定できるのは、
「事実を示すことが実証だと勘違いしてはいけません」
「実証にも常に論証が含まれていなければ、つまり、事実の理解と主張についての論証がなければ、学問的とは言えません」
「論証抜きの事実だけを根拠に、ひとの論証を否定することはできません。ひとの論証を否定できるのは、さらなる論証によってのみです」
という意味に理解することです。

 一方、容認できないのは
「実証の証明力(信頼度)よりも論証の証明力(信頼度)の方が、より大きい」
「実証と論証の結果が対立したときは、論証の方が正しいと結論するべきです」
「論証が完全であれば、実証の作業は必要ありません」
などと理解することです。

 村岡氏が言及していない方法論上の問題を、論理学とベークのフィロロギーから追加するなら
「仮説は論証されるべきものです」
「事実と合わない、という理由だけで仮説を葬り去ることはできません」
「文献学における論証は、かならず事実から出発しなければなりません」
「したがって、自ずとその論証は実証でもあり、実証がないという批難は当たりません」
「個別部分的に実証がないという批判はできますが、それを理由に仮説や論証の全体を葬り去ることはできません」
「実証より論証を重んじるからといって、論証にあぐらをかき、論証に緻密さや論理性を欠くようでは学問とは言えません」
などでしょうか。

 ベークは「未完成は欠陥ではない」といっていました。「未完成」ですから「証明できた」ということでないのは、当然なのです。ここで重要なのは、それが「欠陥ではない」ということです。「その仮説を捨て去ってしまってはいけませんよ」と言ってくれているのです。「未完成」ということは「否定の論証」も完成していないのですから、何も決まっていません。


第1676話 2018/05/24

九州王朝の「分国」と

      「国府寺」建立詔(1)

 「洛中洛外日記」に連載した「九州王朝の『東大寺』問題(1〜3)」を「古田史学の会」会員の山田春廣さんがご自身のブログ(sanmaoの暦歴徒然草)に転載されました。そうしたところ、早速、読者から反応があり、山田さんと読者の服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)による応答が続けられました。学問的で真摯な応答であり、多元的「国分寺」研究の深化をもたらすものと思われました。

 同応答を読みますと、山田さんや服部さんが指摘された主たる疑問は概ね次の三点に集約できるようです。

①九州王朝による66国への分国が告貴元年(594)にはなされていたとは思えない。(山田さんからの疑義)

②中国ではじめて全国に同じ寺院名の寺院を建立(あるいは既存の寺院に新たに命名する)したのは、隋もしくは唐の時代であると考えられ、告貴元年(594)に「国府寺」が建立されたとは考えにくい。7世紀以降ではないか。(服部さんからの疑義)

③中国では隋や唐になって初めで全国に同名の寺院が建立されており、倭国での同様の建立あるいは命名は、中国を習ってのこととみるのが妥当と考えられる。従って、倭国がそれよりも早く「国府寺」という名称の寺院を諸国に造らせたとは考えにくく、「国府寺」という名称にもこだわらない方がよいのではないか。(服部さんからのご意見)

 これらのご指摘・疑義に対して、わたしは告貴元年(594)までには九州王朝は全国を66国に「分国」しており、諸国に「国府寺」建立を命じたのも告貴元年とするのが最も有力な仮説であり、その通称として「国府寺」と称されていたとしても問題ないと、今のところ考えています。学問的論議が更に深化するよう、その理由について説明することにします。(つづく)


第1668話 2018/05/11

山田春廣さんの「実証・論証」論

 今年9月に東京家政学院大学で開催される『発見された倭京』出版記念講演会で、多元的古代官道について講演される山田春廣さん(古田史学の会・会員)がご自身のブログ(sanmaoの暦歴徒然草)で、「実証」と「論証」について論じられています。わたしは「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡典嗣先生の言葉を古田先生から教えていただいたのですが、わたし自身の理解が不十分なため、その意味についてうまく説明できないでいました。この山田さんのブログを拝見し、このような説明の仕方もあるのかと感銘しました。
 山田さんのご了解のもと、以下転載します。

「学問は実証より論証を重んじる」
―「実証主義」は「教条主義」、科学は「仮説主義」―

 肥さんが夢ブログでこの難しいテーマを論じられた。
 学問は実証より論証を重んじる
 http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/05/post-4dad.html
 私は、肥さんとは別の角度から論じてみたいと思う。
 学問は、様々な分野に分化している(化学、物理学、歴史学、社会学、…、〜学と)。
 〜学とつけば学問かといえば、そうではない。文学は学問ではなく芸術だ。芸術は「表現したい」という欲求を満たす活動で、副次的にその表現が他の人を楽しませる。
 学問は芸術とは違う。学問する者は、「表現したい」という欲求をもっているかもしれないが、それは目的ではない。学問は「知りたい」という欲求を満たす活動だ。ただ「知りたい」のであれば「読書」、「鑑賞」、「見学」、「旅行」などといった行為をすればよい。文学は鑑賞法といったことも扱うかも知れないが、それはハウ・ツー(How to 〜)であり、ハウ・ツー(うまくやるにはどうすれば良いか)を知ることは、学問とは異なる。学問は「真実」を「知りたい」という欲求を満たすための活動で、それが他の人の同じ欲求を満たす。
 「能書き」はこれくらいにして、本題に入ろう。
 私は、学問を「真実を知ろうとする活動」だと考えている。しかし、この考えを他人に強制しようという意図はない。
 学問(真実を知ろうとする活動)=サイエンス(科学)と考える。サイエンスでなければ真実を知ることができないと考えている。この考えに反対の考えもある。宗教やイデオロギーである。
 宗教やイデオロギーは「論証されていないこと」を事実・真実としている。科学と対極の考え方と言える。だとすれば、科学と宗教の違いを確認しておくことが重要だと考える。

 科学的とは

 「科学」は「科学的な方法論」によって成り立つ。「科学的な方法論」には「科学的なものの考え方」が含まれる、というよりそれが基礎になってはじめて成り立つといえる。
 「科学的なものの考え方」とは「科学は仮説によって成り立っている」とする考え方である。今現在「正しい」とされていることも、それは「今のところ、正しいとされている(だけ)」と考える「ものの考え方」である。昨日まで「太陽が地球を回っている」とされていても(それで天体の運行が計算できていても)、今日は「地球が太陽を回っている」と証明されてしまうようなことは科学では「起きるのが当たり前」と考える「ものの考え方」である。「科学的なものの考え方」によれば「現在正しいとされていること(認識や理論)も仮説である」ということである。これと対極にあるのが宗教・イデオロギーである。

 神学(イデオロギーの典型)

 宗教・イデオロギーの典型として「神学」をとりだして論じよう。
 神学は、科学とは「ものの考え方」において科学の対極の考え方に基づいている。科学は「科学は仮説によって成り立っている」と考えるのに対して「神学は絶対的真理によって成り立っている」と考えている。いや、神学は言うであろう。「神は絶対的真理だ」と。
 とにかくこう言おう。科学が「真理・真実」といっても「仮の正しさ」であるが、神学が「真理・真実」といえば「絶対的正しさ」をいっている。これが科学と神学の違いである。

 神学の証明法

 神学の真理の証明法は、次の通りである。
・絶対的真理が定義されている(経典・福音書などに)
・ここにこう書かれていると実証する
・Q.E.D(証明終り)

 科学の証明法

・現象・事実をうまく説明できる仮説を立てる
・従来説明できなかったことがその仮説によって説明できると論証する
・論証した仮説の通りであることを実証する
・Q.E.D(証明終り)

 神学と科学の違い

 ご覧の通り、神学と科学の違いは「論証」が有るか無いかなのです。そしてこの「論証」は何の為になされているかといえば、「従来説明できなかったことがこの仮説によって説明できる」と論証しているのです。つまり「仮説」を立てて「この仮説で説明できる」と論証し、「仮説の通りである」ことを実証する、これが科学的方法論なのです。
 これに対して「神学」の真骨頂は「実証」です。「実証」こそが「神学」の「神学」たる所なのです。神学の実証法は「典拠主義」といわれます。「どこどこにこう書いてある」「誰々がいつどこでこう言われた」という実証法です。この実証からは何も新しい知見は出てきません。いや、出てきては困るのですから、神学にとって「典拠主義」は正しいありかたなのです。「実証主義(実証することが目的、つまり実証すれば事足りるとする立場)」は「典拠主義」なのです。「典拠主義」は英語で dogmatismといいます。「典拠主義」は「教条主義」とも訳されます(教義の条文をもって証明するから「教条」です)。これによって異端審判(宗教裁判)ができるわけです。
 一方、科学は、従来説明できないことを何とか説明できるようにする仮説を立てることに努力しますから、新しい仮説によって新しい知見がもたらされて、「真実(いまのところはそう見えている)を知りたい」という欲求を満たし、他の人の同じ欲求を満たすわけです。
 神学(イデオロギーの代表)が一つたりとも新しい知見をもたらさず、科学が新しい知見をもたらすのは、神学は「実証主義」であるが、科学は「仮説主義」だからなのです。
 つまり、科学の本質は「実証」などではなく、「仮説」を立てるところにあるのです。

 結語

 学問は新しい知見を得るための活動なのですから、「学問(科学)は実証より論証を重んじる」のです。
(追加注記)
「論証」は論理的に証明すること。
「実証」は具体的な事実を示して証明すること。
 これを混同してはならない。


第1667話 2018/05/10

九州王朝の「東大寺」問題(1)

 一昨日の東京出張では、代理店やお客様との夕食の予定が入らなかったので、肥沼孝治さん宮崎宇史さん冨川ケイ子さんと夕食をご一緒し、夜遅くまで5時間以上にわたり古代史談義を行いました。そこでの話題は、『論語』の二倍年暦、多元的「国分寺」研究、九州王朝の「東大寺」問題、そしてわたしが5月27日の多元的古代研究会主催「万葉集と漢文を読む会」で発表予定の「もう一つのONライン 670年(天智九年庚午)の画期」など多岐にわたり、とても有意義でした。

 中でも精力的に多元的「国分寺」研究に取り組んでおられる肥沼さんとの対話には大きな刺激を受けました。古田学派の研究者で進められている多元的「国分寺」研究の成果はいずれ『古代に真実を求めて』で特集したいと願っていますが、そのためにはどうしても避けて通れない研究テーマがあります。それは九州王朝にとっての「東大寺」はどこかという問題です。

 大和朝廷による国分寺の場合、その全国国分寺の「総本山」としての東大寺がありますが、もし九州王朝による「国分寺(国府寺)」創建が先行したのであれば、同様に九州王朝にとっての「東大寺」が九州王朝の中枢領域(筑前・筑後)にあってほしいところです。ところがその九州王朝「国府寺」の総本山にふさわしい寺院が見つかっていないのです。しかも、この問題についての古田学派内での研究を見ません。この問題抜きでの多元的「国分寺」研究特集は完成しないとわたしは思うのです。(つづく)


第1665話 2018/05/07

『論語』二倍年暦説の史料根拠(7)

 関西例会で出された『論語』二倍年暦説への批判として、周代や「周代」史料が二倍年暦であったとしても、『論語』の年齢記事が二倍年暦かどうか論証されていないというものがありました。たとえば「周代」史料である『春秋左氏伝』が一倍年暦による編年体史料であることは、わたしも知っていましたし、谷本さんからも同様の指摘が関西例会でなされていました。こうした「周代」史料に一倍年暦のものがある理由について、わたしと谷本さんとでは見解が異なっていましたが、同時に同じような認識の部分もありました。今回はこのことについて説明します。
 わたしが二倍年暦の研究をしていて、いつも悩まされる問題がありました。それは二倍年暦から一倍年暦への変化に伴って発生する「二倍年齢」という概念でした。すなわち、天文観測技術の発展により、一年を360日(より正確には365日)とする一倍年暦が発明され、公権力により一倍年暦の暦法が採用されたのですが、このとき人間の年齢だけは従来の二倍年暦で計算するという「二倍年齢」が、一倍年暦の暦法と共に併存するという現象が発生しうるという問題です。一倍年暦を採用した公権力が年齢計算でも一倍年暦を同時に採用していればことは簡単なのですが、今までの研究結果からは「一倍年暦暦法下の二倍年齢表記」という史料痕跡が存在しており、当テーマの『論語』についても、その可能性をどのように論理的に排除できるのかという視点が必要となります。『春秋左氏伝』も同様の問題を抱えています。
 一例をあげれば、記紀に記された継躰天皇の寿命が『古事記』では42歳(485-527)、『日本書紀』では84歳(450-534)となり、継躰天皇の寿命が『古事記』との比較から『日本書紀』では二倍年暦に基づいて記された痕跡を示しています。すなわち、『日本書紀』に見える継躰の生年が二倍年齢により没年から逆算して記されたと思われます。しかし、『日本書紀』は一倍年暦で編年されていますし、継躰天皇の時代であれば、九州王朝は年号を建元しており、当時採用していた暦法が一倍年暦であったことを疑えません。
 この史料事実は、暦法は一倍年暦の時代でも、人の年齢は二倍年暦を淵源とする「二倍年齢」で計算され伝承されたことを示しているのです。すなわち、一倍年暦と「二倍年齢」併存の可能性を疑うという視点が、二倍年暦研究における史料批判には必要ということなのです。『論語』の史料批判においても、この問題があるため、わたしは『論語』の年齢記事が二倍年暦で理解したほうがリーズナブルであること、弟子の曾参が二倍年暦による年齢理解で語っていることなどを根拠として説明してきたわけです。(つづく)


第1659話 2018/04/28

『論語』二倍年暦説の史料根拠(3)

 わたしは「周代」史料の年齢記事は基本的に二倍年暦で表記されていると考えていますが、同時に後代の編纂時に一倍年暦に書き換えられる可能性もあることを指摘しました。たとえば『春秋左氏伝』などは一倍年暦で編年表記されていると関西例会で述べました。この点は谷本茂さんからも指摘された通りです。そこで、「周代」史料に一倍年暦と二倍年暦のものがあることについて、その史料状況が何を意味するのかについて説明します。
 おおよその目検討ですが、わたしは二倍年暦から一倍年暦への公権力による暦法変更は秦の始皇帝による度量衡の統一の頃に行われたのではないかと推定しています(今のところ史料根拠は見つけられていません)。そのため、「周代」の記録や伝承が一倍年暦の時代の漢代で編纂される際に、暦日記事が書き換えられる可能性があります。
 そうしたことから、漢代成立史料に「百歳」とかの二倍年暦による「長寿」記事が散見されるという史料状況が発生します。逆から言えば、周代における二倍年暦の存在がなければ、そのような史料状況は発生しません。すなわち、もし周代からずっと一倍年暦であれば、漢代に成立した「周代」史料に「百歳」などという長寿記事は空想の産物でもなければ出現できないのです。
 ところが「周代」史料に散見する「百歳」などの超長寿記事は通常の会話(説話)部分にも出現しており、当時の人々の普通の認識として語られています。たとえば、孔子の弟子の曾子の会話として次のような記事が『曾子』に見えます。

 「人の生るるや百歳の中に、疾病あり、老幼あり。」(『曾子』曾子疾病)

 この記事は「曾子曰く」で始まり、曾子が親孝行について述べたもので、その普通の会話中に「人の生るるや百歳の中」という普通の人を対象にした発言です。従って、当時の一般的な人間の二倍年暦による「百歳(一倍年暦の五十歳)」の人生中に「疾病あり、老幼あり。」と記していることからも、孔子の弟子の曾子は二倍年暦により寿命や年齢を認識していたと考えざるをえません。この史料事実から、曾子の師である孔子も二倍年暦により年齢を認識をしていたと考えるのが真っ当な文献理解のあり方なのです。(つづく)


第1658話 2018/04/24

『論語』二倍年暦説の史料根拠(2)

 わたしは、『論語』(孔子〔紀元前552〜479年〕)の時代の前後に相当する「周代」史料に二倍年暦が採用されていれば、その「周代」に位置する『論語』も二倍年暦と考えるべきとしたのですが、史料根拠は次のような「周代」史料でした。

■『管子』(春秋時代〔?〜紀元前645年〕、管仲の作とされる)
「召忽曰く『百歳の後、わが君、世を卜る。わが君命を犯して、わが立つところを廃し、わが糺を奪うや、天下を得といえども、われ生きざるなり』。」(大匡編)

■『列子』(春秋戦国時代〔紀元前400年頃〕の人、列禦寇の書とされる)
「人生れて日月を見ざる有り、襁褓を免れざる者あり。吾既に已に行年九十なり。是れ三楽なり。」(「天瑞第一」第七章)
「林類年且に百歳ならんとす。」(「天瑞第一」第八章)
「穆王幾に神人ならんや。能く當身の楽しみを窮むるも、猶ほ百年にして乃ち徂けり。世以て登假と為す。」(「周穆王第三」第一章)
「役夫曰く、人生百年、昼夜各々分す。吾昼は僕虜たり、苦は則ち苦なり。夜は人君たり、其の楽しみ比無し。何の怨む所あらんや、と。」(「周穆王第三」第八章)
「太形(行)・王屋の二山は、方七百里、高さ萬仞。本冀州の南、河陽の北に在り。北山愚公といふ者あり。年且に九十ならんとす。」(「湯問第五」第二章)
「百年にして死し、夭せず病まず。」(「湯問第五」第五章)
「楊朱曰く、百年は壽の大齊にして、百年を得る者は、千に一無し。」(「楊朱第七」第二章)

■『荘子』(紀元前369〜286年頃の人、荘周の書とされる)
 「今、吾れ子に告ぐるに人の情を以てせん。目は色を視んと欲し、耳は声を聴かんと欲し、口は味を察せんと欲し、志気は盈(み)たんと欲す。人、上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十。病瘻*(びょうゆ)・死喪(しそう)・憂患(ゆうかん)を除けば、其の中、口を開いて笑う者、一月の中、四、五日に過ぎざるのみ。天と地とは窮まりなく、人の死するは時あり。時あるの具(ぐ)を操(と)りて、無窮の間(かん)に託す、忽然(こつぜん)たること騏驥(きき)の馳(は)せて隙(げき)を過ぐるに異なるなきなり。」(盗跖(とうせき)篇第二十九)
 ※病瘻*(びょうゆ)の 瘻*は、強いて言えば、やまいだれ編に由の下に八。(表示できない。)

■『荀子』(周代末期の人、荀況〔紀元前313?〜238年〕の思想を伝えたもの)
 「八十の者あれば一子事とせず。九十の者あれば家を挙(こぞ)って事とせず。」(巻第十九、大略篇第二十七)
【通釈】八十の老人がいる家ではその子供一人は力役につかなくてよい。九十の老人がいれば家中みな力役につかなくてよい。
 「古者、匹夫は五十にして士(つか)う。天子諸侯の子は十九にして冠し、冠して治を聴く其の教至ればなり。」(巻第十九、大略篇第二十七)
【通釈】むかし、一般の人民は五十歳になってから仕官したが、天子や諸侯の子は十九歳になると〔一人前の男子として元服して〕冠をつけ、冠をつけると政治をとったが、それはその教養が十分に身についていたからである。

■『礼記』(周代から漢代の儒教関係の書を編集したもの。前漢代の成立か。)
 「人生まれて十年なるを幼といい、学ぶ。二十を弱といい、冠す。三十を壮といい、室有り(妻帯)。四十を強といい、仕う。五十を艾といい、官政に服す。六十を耆といい、指使す。七十を老といい、伝う。八十・九十を耄という。七年なるを悼といい、悼と耄とは罪ありといえども刑を加えず。百年を期といい、やしなわる。」(曲礼上篇)

■『曾子』
 「三十四十の間にして藝なきときは、則ち藝なし。五十にして善を以て聞ゆるなきときは、則ち聞ゆるなし。七十にして徳なきは、微過ありと雖も、亦免(ゆる)すべし。」(曾子立事)
 「人の生るるや百歳の中に、疾病あり、老幼あり。」(曾子疾病)
 ※各著者生没年はウィキペディアを参照したが、諸説あり、大まかな先後関係の理解のために記した。周代の二倍年暦採用が正しければ、これら年代の西暦との対応も見直さなければならない。

 以上の用例が示すように、『管子』をはじめ『荀子』『礼記』に至るまで、「周代」史料の「年齢記事」が基本的に二倍年暦で著されていることは、まず動かないとわたしは判断しました。したがって、“『論語』だけは一倍年暦で記述されていた”と理解する方が不自然であり、どうしても「不自然だが一倍年暦の可能性が高い」と主張したいのであれば、そう主張する側に論証責任が発生します。
 関西例会でも繰り返し説明したことですが、わたしは『論語』の年齢記事は二倍年暦とした方がよりリーズナブルであると考えていますが、『論語』の年齢記事だけから『論語』二倍年暦説を唱えたわけではありませんので、この点は誤解の無いようにお願いします。
 なお、ここで紹介した「周代」史料とは、必ずしも周代で成立したというわけではなく、周代の説話や史料に基づいて、後の漢代に成立した史料を含みますが、具体的な年齢記事は周代の記録をそのまま採用したと考えています。なぜなら、成立時代(一倍年暦の時代)の寿命の二倍の年齢にわざわざ換算し、当時としては不自然な長寿年齢(百歳など)に書き換える必要や必然性はないからです。逆に、その当時の一倍年暦の認識により、「百歳」とあった「周代」史料の年齢記事を不審として、「五十歳」と一倍年暦に換算することはあり得ます。その場合は、「周代」史料でありながら、年齢記事は換算修正された一倍年暦表記となります。(つづく)


第1657話 2018/04/23

『論語』二倍年暦説の史料根拠(1)

 先日開催された「古田史学の会」関西例会で、わたしから「『論語』二倍年暦説の論理構造」を発表したのですが、批判意見が出され激しい論争となりました。そのときの主な批判意見の一つとして、『論語』そのものからは二倍年暦との論証は成立しておらず、『論語』の時代の前後の「周代」史料(『管子』『列子』)に二倍年暦が採用されていても、『論語』が二倍年暦で記されているとは限らないというものでした。
 わたしの理解では、『論語』の前後に相当する「周代」史料に二倍年暦が採用されていれば、その間に位置する『論語』も二倍年暦と考えるのが「周代」史料に対する基本的理解であり、『論語』だけは一倍年暦のはずとする側に論証責任が発生すると考えています。しかし、関西例会での論争(わたしからの説明)では納得していただけなかったため、それではどのような史料や論理性を提示すれば説得できるだろうかと、帰りの京阪電車の車中で思案しました。
 関西例会では激しい論争がよく勃発するのですが、大半はわたしが論争の当事者です。論争の結果、わたしが間違っていると気づけば自説を撤回し、どちらが正しいか判断がつかない場合はペンディングして、勉強を続けます。また、自分が正しいと思うが、相手を納得させることができなかった場合は、一人で「反省会」を行い、どうすれば納得させることができるのか、自分の説明のどこが不十分・不適切であったのかを考えるようにしています。
 学問研究とはこのようにして深化発展するものと確信していますし、異なる意見が出され、論争や検証が行われることこそが大切と思っています。誰からも疑問や反対意見が出なければ、その学問・学説はその時点で発展が止まります。ですから、批判や異なる意見が出され、頻繁に論争が勃発する関西例会とその参加者をわたしは誇りに思っています。(つづく)


第1650話 2018/04/13

古代日本銘文鏡のフィロロギー

 「洛中洛外日記」1646話(2018/04/10)「縄文神話と縄文土器のフィロロギー」で、『古田史学会報』145号に掲載された大原重雄さんの「縄文にいたイザナギ・イザナミ」の画期性について述べました。古代人の思想性や精神文化をフィロロギーにより復元する方法として、縄文土器の文様を史料として採用するという着眼点が素晴らしい論文でした。
 このように従来は思想史の史料として省みられなかった物について、古田先生から託されたテーマがあります。30年ほど前のことだったと思いますが、三角縁神獣鏡に記された銘文について、学界は単なる中国伝来の「吉祥句」として受け止めているが、これら国産鏡に記された銘文は当時の日本人の思想や価値観を著した第一級の同時代史料であり、フィロロギーの研究対象であると古田先生からうかがいました。そして誰かこの研究をやってもらいたいとも言われました。
 このときの先生の言葉が今でもときおり脳裏に浮かぶのですが、わたしの研究対象から外れていたこともあり、全く手をつけてきませんでした。ところが今回の大原論文に触発され、少しずつでも始めなければ冥界の先生に叱られるのではと思うようになりました。
 三角縁神獣鏡の紋様や銘文についての古田先生の見解については「三角縁神獣鏡の盲点」(古田史学の会HPに収録)が参考になります。どなたか一緒に研究しませんか。


第1649話 2018/04/13

九州王朝「官道」の造営時期

 「古田史学の会」は会誌『発見された倭京 太宰府都城と官道』(明石書店、2018年3月)において、太宰府を起点とした九州王朝「官道」を特集しました。その後、同書執筆者の一人である山田春廣さんが、ご自身のブログ(sanmaoの暦歴徒然草)において「東山道」の他に「東海道」「北陸道」についての仮説(地図)を発表されました。こうした古田学派研究陣による活発な研究活動に刺激を受けて、わたしも九州王朝「官道」について勉強を続けています。
 中でも九州王朝「官道」の造営時期について検討と調査をおこなっているのですが、とりあえず『日本書紀』にその痕跡がないか精査しています。山田さんが注目され、論文でも展開された景行紀に見える「東山道十五国」も史料痕跡かもしれませんが、そのものずばりの道路を意味する「大道」については次の三つの記事が注目されます。

(A)「この歳、京中に大道を作り、南門より直ちに丹比邑に至る。」『日本書紀』仁徳14年条(326)
(B)「難波より京への大道を置く。」『日本書紀』推古21年条(613)
(C)「処処の大道を修治(つく)る。」『日本書紀』孝徳紀白雉4年条(653)

 (B)(C)はいわゆる「難波大道」に関する記事と見なされて論争が続いています。(A)は、仁徳の時代に「京」はないとして、歴史事実とは見なされていないようです。
 わたしたち古田学派としてのアプローチは『日本書紀』のこれらの記事が九州王朝系史料からの転用かどうかという視点での史料批判から始めなければなりませんが、わたしとしては確実に九州王朝系史料に基づいた記事は(C)ではないかと考えています。すなわち、前期難波宮を九州王朝が副都として造営したときにこの「大道」も造営したと考えれるからです。また、実際に前期難波宮朱雀門から真南に通る「大道」の遺構も発見されており、考古学的にも確実な安定した見解と思います。
 しかし、この「処処の大道」が太宰府を起点とした「東海道」「東山道」などの「官道」造営を意味するのかは、『日本書紀』の記事だけからでは判断できません。7世紀中頃ではちょっと遅いような気もします。本格的検討はこれからですが、(A)(B)も含めて検討したいと思います。

 


第1646話 2018/04/10

縄文神話と縄文土器のフィロロギー

 『古田史学会報』145号で発表された大原重雄さんの「縄文にいたイザナギ・イザナミ」は「古田史学の会」関西例会での発表を論文化したものです。大原さんの発表を聞いたとき、わたしはその学問の方法と縄文神話という未知の領域に挑んだ画期的な研究に驚きました。そして同時に脳裏に浮かんだもう一つの論文がありました。
 古田武彦「村岡典嗣論 時代に抗する学問」(『古田史学会報』38号、2000年6月)です。『古田武彦は死なず』(古田史学の会編、明石書店、2016年)にも収録した、古田先生にとっての記念碑的論文です(自筆原稿を古田先生から記念にいただきました。古賀家の家宝としています。自筆原稿の写真も『古田武彦は死なず』に掲載)。
 その中で村岡典嗣先生の論文「日本思想史の研究方法について」を紹介された部分があります。村岡先生がドイツのアウグスト・ベエクのフィロロギーを日本思想史として取り入れられたのですが、その思想史という学問について古田先生は次のように紹介されました。

「第一に、思想史は、『ある意味において文化史に属する』こと。
 第二に、外来の思想を摂取し、その構成要素としつゝも、その間に、何等かの『日本的なもの』を発展して来たところ、そこに思想史の目標をおかねばならぬこと。
 第三に、外国における日本思想史学の先蹤として、第十八世紀の末から第十九世紀へかけて、ドイツの学界において学問的に成立した学問として『フィロロギイ』が存在すること。
 第四に、その代表者たるアウグスト・ベエクがのべている『人間の精神から産出されたもの、則ち認識されたものの認識』という定義がこの学問の本質をしめしている。
 第五に、ただし『思想史の主な研究対象といへば、いふまでもなく文献である。』
 第六、宣長が上古、中古の古典、即ち古事記や源氏物語などの研究によつて実行したところは、十分な意味で、『フィロロギイと一致』する。」

 そして、古田先生はこの村岡先生が取り扱われた学問領域について、次のように「批判」されています。

 「以上の論述の中には、今日の問題意識から見れば、矛盾とは言えないけれど、若干の問題点を含んでいると思われる。
 その一は、縄文時代における『人間の認識』だ。右の論文の記せられた昭和初期(発表は九年)に比すれば、近年における縄文遺跡の発掘には刮目させられる。三内丸山遺跡はもとより、わたしが調査報告した足摺岬(高知県)の巨石遺構に至るまで、当時の『認識範囲』をはるかに超えている。おびただしい土器群と共に、これらが『人間の認識』に入ること疑いがない。先述のベエクの定義によれば、これらも当然『フィロロギイ』の対象である。彼が古代ギリシヤの建築・体育・音楽等をもその研究対象としている点からも、この点はうかがえよう。
 確かに、縄文世界の真相は、ただ個々の遺物や遺跡に対する考古学的研究だけではなく、同時に『思想史学的研究』にとってもまた、不可欠の対象領域ではなかろうか。けれども、その十分なる方法論を学的に構築しようとした論文・著述を見ること、世に必ずしも多しとしないのではあるまいか。」

 この最後の部分にある「縄文世界の真相は、ただ個々の遺物や遺跡に対する考古学的研究だけではなく、同時に『思想史学的研究』にとってもまた、不可欠の対象領域ではなかろうか。けれども、その十分なる方法論を学的に構築しようとした論文・著述を見ること、世に必ずしも多しとしないのではあるまいか。」という指摘を思い出したのです。
 古田先生が待望されていた縄文世界の真相に肉薄する「その十分なる方法論を学的に構築しようとした論文」が大原論文であり、わたしたち古田学派の中から生まれた研究と言っても過言ではないと思います。古田先生が生きておられたら、大原さんの研究を高く評価されたことでしょう。


第1621話 2018/03/04

九州王朝の高安城(1)

 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から驚きの論稿が発表されました。多元的古代研究会の機関紙『多元』一四四号(二〇一八年三月)に掲載された「王朝交代 倭国から日本国へ (2)白村江敗戦への道」です。その中の「7.高安城・屋嶋城・金田城造営も白村江前」において、次のように高安城の築城目的を説明されているのです。

 「そして倭国(九州王朝)は、その後順次、対馬から瀬戸内経由難波までの防衛施設を整備していたと考えられる。(中略)また、高安の城は生駒山地の高安山(標高四八七m)の頂にあり大阪平野・大阪湾から明石海峡まで見通せる。
 これは唐・新羅が『筑紫から瀬戸内を超え、難波まで攻め込んでくる』ことを想定した防衛施設整備と言えよう。」(11頁)

 わたしは高安城は近畿天皇家による造営と、今まで特に疑問視することもなく考えてきたのですが、正木さんはそれを九州王朝(倭国)が造営したとされたのです。『日本書紀』天智6年(667)条には高安城築造について次のように記されており、わたしは大和国(倭国)防衛を主目的として大和を主領域としていた近畿天皇家によるものと単純に理解していました。

 「是月(十一月)、倭国に高安城、讃吉国山田郡に屋嶋城、對馬国に金田城を築く。」

 対馬の金田城や讃岐の屋嶋城は筑紫や難波副都防衛のために九州王朝(倭国)が築城したと理解していました。高安城については「倭国(やまと国)」とありますから、大和に割拠していた近畿天皇家によるものと理解していました。ところが正木さんによれば高安城も難波京(九州王朝の難波副都)防衛を主目的とした九州王朝による築城とされたのです。そこで、この正木説が成立するのかを検討します。(つづく)