史料批判一覧

第1615話 2018/02/28

「邪馬台国」畿内説の論理(3)

 「邪馬台国」畿内説は①の考古学的事実に基づく実証を、②の文献根拠と結びつけるという、③の「離れ業」により「成立」しているわけですから、反論や批判の方法としては次のアプローチが考えられます。

(a)箸墓古墳の編年を3世紀中頃ではなく、従来通り4世紀であることを考古学的に証明する。あるいは、3世紀中頃ではあり得ないことを証明する。
(b)『三国志』倭人伝の史料批判を根拠とする文献史学の立場から、「邪馬台国(正しくは邪馬壹国)」は畿内ではあり得えず、文献を「邪馬台国」畿内説の根拠とできないことを考古学者に解説する。
(c)畿内の巨大前方後円墳と『三国志』倭人伝の中心国の邪馬壹国を関連付ける学問的根拠がないことを説明する。あるいは関連しているとする根拠の明示を求める。
(d)文献史学における「邪馬台国」畿内説が原文改訂(邪馬壹国→邪馬台国、壹与→台与、南→東)の所産であり、理系では許されない方法(研究不正)であることを古代史学界と社会に訴える。

 このようなアプローチが考えられますが、わたしたち古田学派は「邪馬台国」畿内説の考古学者を説得するのか、文献史学の分野で論争を続けるのか、その双方を行うのか、最も効果的なやり方を自らの力量も含めて考えなければなりません。(つづく)


第1606話 2018/02/17

縄文土器の「イザナギ・イザナミ」神話

 本日、「古田史学の会」関西例会が大阪市福島区民センターで開催されました。関西例会としては初めて使用した会場です。今回は10名の発表があるため、冒頭に司会の西村秀己さんから「発表は質疑応答を含めて30分で行うこと。質問も長くなるものや余計なものはしないこと」と釘が刺されて例会が始まりました。これはいつも論議を長引かせるわたしへの「牽制」と思われました(苦笑)。
 今月発行の『古田史学会報』144号で会報デビューされたばかりの大原さんから驚愕の研究が報告されました。記紀に記されたイザナギとイザナミの神話の淵源が縄文時代に遡り、その痕跡が縄文土器にあったとするものです。新潟県井の上遺跡出土の「人体文土器」(縄文中期〜後期)にある男性と女性の図柄がイザナギとイザナミの神話を示しているとされました。驚くべき仮説ですが、根拠も論理性も明瞭な研究でしたので、『古田史学会報』への投稿を要請しました。それにしても、すごい研究が現れたものだと驚きました。
 2月例会の発表は次の通りでした。発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレスへ)か電話で発表申請を行ってください。

〔2月度関西例会の内容〕
①『日本書紀』の中の百姓(八尾市・服部静尚)
②住吉神社は「一大率」であった。の補足(奈良市・原幸子)
③短里の使用に関する一考察(茨木市・満田正賢)
④縄文にいたイザナミ・イザナギ(大山崎町・大原重雄)
⑤黒塚古墳と椿井大塚山古墳の三角縁神獣鏡(京都市・岡下英男)
⑥倭人伝・二十一国のありか(宝塚市・藤田 敦)
⑦伊都国の「世有王」の再考(姫路市・野田利郎)
⑧フィロロギーと古田史学【その9】(吹田市・茂山憲史)
⑨「アタ」の地の特定(東大阪市・萩野秀公)
⑩倭国(九州王朝)の新羅への白村江前の対応(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 1/21新春古代史講演会の報告・3/18久留米大学講演会の決定(講師派遣:正木、服部、古賀)・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の報告と案内、2/23安村俊史柏原市歴史資料館館長「七世紀の難波から飛鳥への道」・『古田史学会報』144号発行・会費入金状況・新入会員の紹介・『古代に真実を求めて』21集「発見された倭京 太宰府都城と官道」の編集状況・服部さんが和泉史談会で講演・1/28京都地名研究会(龍谷大学)で沖村由香さん(九州古代史の会・会員)講演・「古田史学の会」関西例会の会場3月はエル大阪(京阪天満橋駅西300m)・その他


第1604話 2018/02/12

須恵器の「打欠き」儀礼

 先日購入した『季刊考古学』142号を熟読しています。同書の特集「古墳からみた須恵器の変容」で「朝鮮半島」を執筆担当された高田寛太さん(国立歴史民俗博物館・準教授)と中久保辰夫さん(大阪大学・助教)により、朝鮮半島南端での須恵器の「打欠き」儀礼というものが紹介されていました。次の通りです。

 「全羅道出土須恵器には、いくつか口縁部を打欠いた事例がある(図3:紫龍里例)。打欠き儀礼は、浅岡俊夫によって日本列島で弥生時代にさかのぼる事例も紹介されており、例えば大阪府久宝寺1号墳供献土器に口縁部を打欠いた例があるなど、古墳時代前期にも確認できる。(中略)
 したがって、栄山江流域にみる須恵器供献例のなかには、土器そのものの入手と使用に意味があっただけではなく、〔瓦泉〕の体部を手に持ち、口縁部の一部あるいは頸部を含めて破損するという所作の共有を見出すことができる。ただし、口縁部打欠きについては、日本列島各地のすべての〔瓦泉〕出土古墳で認めることはできない。」(69〜70頁)
 ※〔瓦泉〕は偏が「瓦」で、その右に「泉」。

 この指摘はとても示唆的です。朝鮮半島南部の須恵器と日本列島の弥生時代の土器や古墳時代の須恵器に頸部の打欠き儀礼が共通して見られるとのことです。4世紀末頃に須恵器が朝鮮半島から倭国(九州王朝・筑前)に伝わっているのですが、打欠き儀礼は須恵器伝来以前の弥生時代の日本列島に見られるということですから、この打欠き儀礼は日本列島発の可能性も考えてみる必要があります。
 同論文には打欠き儀礼の意味については触れられていませんが、葬儀において現代日本でも故人が使用したお茶碗を出棺時に割るという儀礼があり、この淵源が古代の土器「打欠き」儀礼にまで遡るのかもしれません。また、九州年号金石文として注目される「大化五子年」土器も、煮炊きに使用した後に頸部を打ち欠いて骨壺に転用されています。この土器転用は出土した茨城県地方の風習と、地元の考古学者からお聞きしました。これも土器の打欠き儀礼の一形態と思われます。
 土器の頸部を打ち欠いて骨壺に再利用する例は平安時代(10世紀)にも見られ、「洛中洛外日記」1536話で紹介しました。ご参考までに転載します。

「洛中洛外日記」第1536話 2017/11/05
古代の土器リサイクル(再利用)

 ちょっと理屈っぽいテーマが続きましたので、今回はソフトなテーマで土器のリサイクル(再利用、正確にはリユースか)についてご紹介します。
 同時代九州年号金石文に「大化五子年」土器(茨城県坂東市・旧岩井市出土)があります。当地の考古学者に鑑定していただいたところ、次の二つのことがわかりました。一つは、当地の土器編年によれば西暦700年頃の土器であるということで、『日本書紀』の大化5年(649)ではなく、九州年号の大化5年(699)に一致しました。もう一つは、同土器は煮炊きに使用された後、頸部を割って骨蔵器として再利用されているとのこと。この土器再利用は当地の古代の風習だったそうです。
 日常的に使用した土器が骨蔵器に再利用されていることと、その際に頸部を割るという風習を興味深く思いました。頸部を割ることにより、現在の骨壺の形に似た形状になることも偶然の一致ではないように思われました。こうした土器の頸部を割って骨蔵器として再利用するのは古代関東地方の風習かと思っていたのですが、最近読んだ榎村寛之著『斎宮』(中公新書、2017年9月)に次のような説明と共にその写真が掲載されていました。

 「斎宮跡から五キロメートルほど南にある長谷町遺跡で発見された十世紀の火葬墓では、当時としては高級品である大型の灰釉陶器長頸瓶の頸部を打ち欠いて転用した骨蔵器が出土し、なかから十八〜三十歳くらいの女性の骨が見つかっている。」(183頁)

 斎宮に奉仕した女官の遺骨と思われますが、「大化五子年」土器と同様に頸部を割って再利用するという風習の一致に驚きました。他の地域にも同様の例があるのでしょうか。興味津々です。
 ところで「大化五子年」土器は、今どうなっているのでしょうか。貴重な金石文だけに心配です。


第1603話 2018/02/11

前期難波宮と藤原宮の「尺」

 先月、東京古田会の皆さんが大阪文化財研究所を見学されたとき、同所の高橋工先生に前期難波宮などについて解説していただきました。そのとき、「前期難波宮造営を孝徳期と編年された一番の根拠は何ですか。年輪年代ですか。干支木簡ですか。」と質問したところ、高橋さんのご返答は「土器編年です」とのことでした。
 前期難波宮を天武朝造営とされる論者から、わたしの前期難波宮九州王朝副都説に対して、「大阪歴博の考古学者の意見は信用できない」「大阪歴博の見解を盲信している古賀は間違っている」と批判されることがあるのですが、この批判方法は学問的とは言えません。大阪歴博の考古学者の研究や編年のどこがどのような理由により間違っているのかを、根拠を示して具体的に批判するのが学問論争です。たとえば服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)は、飛鳥編年の基礎データを具体的に検証され、その結果を根拠に「間違っている」と批判されています。これが学問的批判というものです。こうした批判であれば、具体的な再反論が可能ですから、互いの仮説を検証深化させることができ、学問研究にとって有益です。
 わたしは前期難波宮の造営は孝徳期であり、天武期ではありえない理由をいくつも指摘(論証)してきましたが、「論証よりも実証」という方々にも納得していただけるような実証的根拠も示してきました。そこで、改めて考古学的事実に基づいた実証的説明として前期難波宮の造営「尺」と天武朝により造営された藤原宮の「尺」について説明することにします。
 前期難波宮の遺構についてはその規模が大きく、測定データも膨大であり、その結果、造営に使用された「尺」についても判明しています。植木久『難波宮跡』(同成社。2009年)によれば、1尺29.2cmの「尺」で前期難波宮は設計されているとのことです。
 天武朝で造営された藤原宮は出土したモノサシにより、1尺29.5cmであることが明らかになっています。下記のように、造営「尺」は時代とともに1尺が長くなる傾向を示しています。

○前期難波宮 652年 29.2cm
○藤原宮   694年 29.5cm
○後期難波宮 726年 29.8cm

 この数値から、前期難波宮と藤原宮の設計は異なった「尺」が使用されており、両宮殿の造営時期や造営主体が異なっていると考えざるを得ません。両宮殿はその規模から考えても王朝の代表的宮殿ですので、設計にはその王朝が公認した「尺」を用いたはずです。従って、この使用「尺」の違いは、前期難波宮天武朝造営説を否定する実証的根拠となります。この説明であれば特段の論証は不要ですから、「論証よりも実証」という方にもご理解いただけるのではないでしょうか。
 なお、わたしは太宰府条坊や政庁の造営「尺」についても調査を進めています。というのも、3月18日(日)に開催予定の久留米大学での講演で、「九州王朝の都市計画 太宰府と難波京」というテーマをお話ししますので、九州王朝の設計「尺」について調べています。研究が進展しましたら、報告したいと思います。


第1601話 2018/02/04

『論語』二倍年暦説の論理構造(8)

 中村さんが「孔子の二倍年暦についての小異見」において、50歳を越える古代人が20%以上いたとされた考古学的根拠は次の二つの文献でした。その要旨を同稿の「注」に中村さんが引用されていますので、転載します。

【以下、転載】
注1 日本人と弥生人 人類学ミュージアム館長 松下孝幸 一九九四・二 祥伝社
p一六九〜p一七二 死亡時年齢の推定 要旨
【骨から死亡時の年齢を推定するのは性別判定よりさらに難しい。基本的には、壮年(二〇〜四〇)、熟年(四〇〜六〇)、老年(六〇〜 )の三段階のどこに入るのか大まかに推定できる程度だと思った方がよい。ただし、十五歳くらいまでは一歳単位で推定することも可能。子供の年齢判定でもっとも有効な武器は歯である。一般的に大人の年齢判定でもっとも頼りにされているのは頭蓋である。頭蓋には縫合という部分がある。縫合は年齢と共に癒合していって閉鎖してしまう。その閉鎖の度合いによって先ほど上げた三つのグループに分類するのである。これは単に壮・熟・老というだけではなく、「熟年に近い壮年」、「老年に近い熟年」といったレベルまでは推定することができる。

注2 日本人の起源 古代人骨からルーツを探る 中橋孝博 講談社 選書メチエ 二〇〇五・一
 中橋氏はこの本の中で、「弥生人の寿命」という項で大約次のように言います。
 『人の寿命の長短は子供の死亡率に左右される。古代人の子供の死亡状況を再現することは特に難しい作業である。寿命の算出には生命表という、各年齢層の死亡者数をもとにした手法が一般的に用いられるが、骨質の薄い幼小児骨の殆どは地中で消えてしまうために、その正確な死亡者数が掴めない。中略 甕棺には小児用の甕棺が用いられ、中に骨が残っていなくても子供の死亡者数だけは割り出せる。図はこのような検討を経て算出した弥生人の平均寿命である。もっとも危険な乳幼児期を乗り越えれば十五歳時の平均余命も三十年はありそうである。』
【転載終わり】

 そして、中村さんは根拠とされたグラフに次のような説明を付されています。
 「この生存者の年齢推移図からは、弥生人の二〇%強が五十歳以上生きていたことを示しています。」

 わたしはこの「注」の解説を読み、中村稿に掲載された「生存者の年齢推移図」グラフを仮説の根拠に用いるのは危険と感じました。わたしの本職は有機合成化学ですが、研究開発などでデータ処理と解析を行う際、データが示す数値からの実証的な判断だけではなく、そのデータは何を意味するのかということを論理的に深く考える訓練を受けてきました。その経験から、同グラフに対して違和感を覚えたのです。理由を説明します。

①松下氏は「骨から死亡時の年齢を推定するのは性別判定よりさらに難しい」とされる。この点はわたしも同意見。
②そして、「壮年(二〇〜四〇)、熟年(四〇〜六〇)、老年(六〇〜 )の三段階のどこに入るのか大まかに推定できる程度」とされる。
③弥生の出土人骨の年齢を三段階に大まかに分けるという手法も理解できる。
④しかし、その三段階の年齢は何を根拠に(二〇〜四〇)(四〇〜六〇)(六〇〜 )と設定されたのかが不明。
⑤出土人骨の相対的な年齢比較はある程度可能と思われるが、その人骨が何歳に相当するのかの測定が困難であることは、①の記事からもうかがえる。寡聞にして、出土人骨の年齢を的確に測定できる技術の存在をわたしは知らない。
⑥従って、弥生時代の壮年・熟年・老年の年齢設定が現代とは異なり、仮に(十五〜三〇)(三〇〜四〇)(四〇〜)だとしたら、この三段階にそれぞれの人骨サンプルを相対年齢判断によって配分すれば、その結果できるグラフは全く異なったものになる。
⑦他方、弥生時代の倭人の寿命を記す一次史料として『三国志』倭人伝がある。それには「その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年」(二倍年暦)とある。これは倭国に長期滞在した同時代の中国人による調査記録であり、最も信頼性が高い。これによれば、倭人の一般的寿命は一倍年暦に換算すると40〜50歳である。
⑧また、周代の中国人の寿命を記す史料として、たとえば『列子』の次の記事がある。
 「楊朱曰く、百年は壽の大齊にして、百年を得る者は、千に一無し。」(「楊朱第七」第二章)
 百年(一倍年暦の50歳)に達する者は千人に一人もいないとの当時の人間の寿命について述べた記事である。
⑨これら文字記録による一次史料と考古学による推定年齢が異なっていれば、まず疑うべきは考古学「編年(齢)」の方である。
⑩中村さんが依拠したグラフでは、50歳が約20%、60歳が約10%、70歳超で0に近づく。もしこれが実態であれば、倭人伝の記述は「その人寿考、あるいは百二十年、あるいは九十、百年」(二倍年暦)とあってほしいところだが、そうはなっていない。
⑪また、50歳と60歳の区別がつくほどの人骨年齢測定精度があるのか不審とせざるを得ない。

 以上のように考えています。しかしながら、わたしは人骨年齢測定の専門家でもありませんので、専門家の意見を直接聞いてみたいと願っています。こうした理由により、このグラフを仮説(一倍年暦)の根拠にすることや、それに基づく中村さんのご意見にも賛成できないのです。さらに指摘すれば、『論語』の時代(周代)の中国人の寿命を論じる際に、地域も時代も異なる弥生時代の倭人の人骨推定年齢データを判断材料に用いる方法論にも問題なしとは言えません。
 以上、多岐にわたり論じましたが、拙論を批判していただいた中村さんに感謝申し上げ、最初のご指摘から9年も経っての応答となったことをお詫びします。(おわり)


第1600話 2018/02/04

『論語』二倍年暦説の論理構造(7)

 本シリーズも佳境に入ってきました。残された中村さんからの最大のご批判ご指摘にお答えします。これまでは文献史学の範囲内での応答でしたが、今回は考古学と文献史学の双方に関わる問題です。
 中村さんからの最大の指摘は、『論語』の時代の人間の寿命は50歳が限界ではなく、考古学的知見によれば日本列島の弥生人の寿命は「弥生人の二〇%強が五十歳以上生きていたことを示しています」(中村通敏「孔子の二倍年暦についての小異見」『古田史学会報』92号。2009年6月)という点でした。もちろん、50歳を越える古代人がいたことはあり得るとわたしも考えていますし、「仏陀の二倍年暦」でもそのことを示す記事を紹介してきました。たとえば次の記事などです。

○「是の時、拘尸城の内に一梵志有り、名づけて須跋と曰う。年は百二十、耆旧にして多智なり。」(『長阿含経』巻第四、第一分、遊行経第二)
○「昔、此の斯波醯の村に一の梵志有りき。耆旧・長宿にして年は百二十なり。」(『長阿含経』巻第七、第二分、弊宿経第三)
○(師はいわれた)、「かれの年齢は百二十歳である。かれの姓はバーヴァリである。かれの肢体には三つの特徴がある。かれは三ヴェーダの奥儀に達している。」(中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫、一九九九年版。)

 わたしと中村さんのご意見との最大の相違点は、この二倍年暦で100歳(一倍年暦の50歳)を越える古代人の存在を希(まれ)と考えるのか、20%はいたとするのかにあるようです。もちろん、わたしには50歳を越える長寿古代人がどのくらいの比率で存在したのかはわかりませんが、中村さんが依拠したデータや研究に疑問を抱いていましたので、数年前にお会いしたときに「グラフというものは必ずしも実態に合っているとも言えない」と中村さんにお答えしたものです。(つづく)


第1599話 2018/02/04

『論語』二倍年暦説の論理構造(6)

 ここまで『論語』二倍年暦説における史料根拠とそれに基づく論証方法などの論理展開について解説してきました。次に中村通敏さんの論稿「『論語』は『二倍年暦』で書かれていない-『託孤寄命章』に見る『一倍年暦』」(『東京古田会ニュース』No.178)での、『論語』二倍年暦説へのご批判に対してお答えすることにします。
 今回の中村稿でわたしが最も注目したのは、『論語』の「託孤寄命章」と称される次の記事を一倍年暦の根拠とされたことです。わたしはこれまで『論語』を10回近くは読みましたが、同記事が二倍年暦や一倍年暦に関係するものとは全く捉えていなかっただけに、中村さんのご指摘を興味深く拝読しました。

 「曾子曰、可以託六尺之孤、可以寄百里之命。臨大節而不可奪也。君子人與、君子人也」(『論語』泰伯第八)
 【訳文】曾子曰く、「以て六尺(りくせき)の孤を託す可く、以て百里の命を寄す可し。大節に臨みて奪ふ可からざるなり。君子人か、君子人なり」と。
 【大意】曾子曰く、「小さなみなしごの幼君を(あんしんして)あずけることができ、一国の運命をまかせ(ても、りっぱに政治を処理す)ることができる。国家の大事に当たっても、(その人の節操を)奪うことはできない。(そういう人物は)君子人であろうか、(そういう人こそ、ほんとうの)君子人である」と。

 この一節を中村さんは一倍年暦の根拠とされました。その論旨は次の通りです。

①『新釈漢文大系1論語』(吉田賢抗著。明治書院)の語句説明に【「六尺」は十五、六歳以下のことで、身長で年齢を示した。周制の一尺は七寸二分(二十一センチ半)ぐらいだから、六尺は四尺二寸強(一メートル三十センチ弱)である。又年齢の二歳半を一尺という。】とある。
②『学研漢和大字典』(藤堂明保)には【六尺(ロクセキ):年齢が十四、五歳の者。戦国・秦・漢の一尺は二十三センチで、二歳半にあてる。六尺之孤(ロクセキノコ):十四、五歳で父に死別したみなしご】とある。
③六尺の子供(十四歳)の背丈は、日本人のデータでは一六二・八センチとされる(文科省の2015年度のデータ)。
④これを『論語』の世界は「二倍年暦」であったとすると、約七歳でありながら身長は一六〇センチ強であったということになり、これは常識外れの値である。
⑤結論として、『論語』の世界では「一倍年暦」で叙述されている。

 以上のような論理展開により、『論語』は一倍年暦で記されているとされました。しかしながら、この中村さんの説明は、失礼ですが学問的論証の体をなしていません。その理由は次の通りです。

(a)「六尺」を①「十五、六歳以下」、②「十四、五歳の者」とするのは、後代の学者の解釈です。『論語』そのものには、身長「六尺」の子供の年齢について何も記されていません。
(b)もし周代において、身長「六尺」という表記が「14歳」という年齢表記の代用だとされるのなら、『論語』か周代の史料にそうした用例があることを提示する必要があります。この学問的証明がなされていません。
(c)現代日本人の14歳の子供の身長(160cm)を、周代の身長「六尺」の子供の年齢を14歳とする根拠とはできず、その証明にも無関係な数値です。
(d)『論語』の当該記事は、身長「六尺」の「孤」(孤児)を託せる「君子」について述べたもので、その記述からは、『論語』が「一倍年暦」か「二倍年暦」かの判断はできません。

 なお、「中国古代度量衡史の概説」(丘 光明、楊 平。『計量史研究』18、1996年)によれば、殷の墓から出土した牙尺は1尺約16cm。戦国時代から漢代の出土尺は1尺約23cmとあります。殷代と漢代の間にある周代(春秋時代)は、『説文解字』「夫部」の記事「周制以八寸為尺」を信用すれば、漢代の1尺の0.8倍ですから約18.4cmとなり、時代と共に長くなる1尺の数値としては穏当です。そうすると『論語』の「六尺」は18.4×6=約110cmとなります。
 すなわち、当該記事は「六尺(身長約110cm)」と表記することにより、その孤児が幼い子供であることを示しているに過ぎず、そうした孤児を託せる人物こそ君子であると主張している記事なのです。この記事自体は、一倍年暦とも二倍年暦とも論証上は無関係です。(つづく)


第1588話 2018/01/26

倭姫王の出自

 過日の「古田史学の会」新春古代史講演会で正木裕さんが発表された新説「九州王朝の近江朝」において、天智が近江朝で九州王朝の権威を継承するかたちで天皇に即位できた条件として次の点を上げられました。

①倭王として対唐戦争を主導した筑紫君薩夜麻が敗戦後に唐の配下の筑紫都督として帰国し、九州王朝の臣下たちの支持を失ったこと。
②近江朝で留守を預かっていた天智を九州王朝の臣下たちが天皇として擁立したこと。
③九州王朝の皇女と思われる倭姫王を天智は皇后に迎えたこと。

 いずれも説得力のある見解と思われました。天智の皇后となった倭姫王を九州王朝の皇女とする仮説は、古田学派内では古くから出されてはいましたが、その根拠は、名前の「倭姫」を「倭国(九州王朝)の姫」と理解できるという程度のものでした。
 実は二十年ほど前のことだったと記憶していますが、倭姫王やその父親の古人大兄について九州王朝の王族ではないかと、古田先生と検討したことがありました。そのきっかけは、わたしから次のような作業仮説(思いつき)を古田先生に述べたところ、「論証が成立するかもしれませんよ」と先生から評価していただいたことでした。そのときは古田先生との検証作業がそれ以上進展しなかったので、そのままとなってしまいました。わたしの思いつきとは次のようなことでした。

①孝徳紀大化元年九月条の古人皇子の謀叛記事で、共謀者に朴市秦造田久津の名前が見える。田久津は朝鮮半島での対唐・新羅戦に参加し、壮絶な戦死を遂げており、九州王朝系の有力武将である。従って、ここの古人皇子は九州王朝内での謀叛記事からの転用ではないか。とすれば、古市皇子は九州王朝内の皇子と見なしうる。
②同記事には「或本に云はく、古市太子といふ。」と細注が付されており、この「太子」という表現は九州王朝の太子の可能性をうかがわせる。この時代、近畿天皇家が「太子」という用語を使用していたとは考えにくい。この点、九州王朝では『隋書』国伝に見えるように、「利歌彌多弗利」という「太子」が存在しており、「古市太子」という表記は九州王朝の太子にこそふさわしい。
③更に「吉野太子とい云ふ」ともあり、この吉野は佐賀県吉野の可能性がある。

 以上のような説明を古田先生にしたのですが、他の可能性を排除できるほどの論証力には欠けるため、「ああも言えれば、こうも言える」程度の作業仮説(思いつき)レベルを超えることができませんでした。
 ちなみに、「ああも言えれば、こうも言える。というのは論証ではない」とは、中小路駿逸先生(故人。元追手門学院大学教授)から教えていただいたものです。わたしが古代史研究に入ったばかりの頃、「論証する」とはどういうことかわからず、教えを乞うたとき、これが中小路先生からのお答えでした。


第1574話 2018/01/14

評制施行時期、古田先生の認識(10)

 本連載において、九州王朝(倭国)における行政区画「評制」(「国・評・里(五十戸)」制)の施行時期について、古田先生が7世紀中頃と認識しておられたことが先生の著書や講演録に記されていることを紹介してきました。
 こうした古田先生の認識については、わたしにとってあまりにも当たり前のことで、これを疑う方が古田学派内におられることに驚いています。もちろん、学問研究の問題ですから、この古田先生の見解やそれを支持するわたしに反対することも学問の自由です。「師の説にななづみそ」。本居宣長のこの言葉を「学問の金言」と古田先生は仰っていましたから、師の説といえども批判し、異なる説を発表することは学問の自由ですし、学問は真摯な批判や論争により発展してきました。
 しかし、古田先生がどのように認識されていたかを正確に理解した上で批判はなされるべきです。本テーマではありませんが、わたしが書いても言ってもいないことを誤引用・誤要約され、それを古賀の意見として批判されるという経験をわたしは度々しています。学問論争は批判する相手の意見を正確に理解することが基本であり常識です。
 古田先生は亡くなられましたが、わたし以外にも古参の「弟子」はご健在です(谷本茂さんら)。そうした方々への聞き取り調査も可能ですから、古田先生の見解を正確に理解した上で、学問的批判・討議の対象とされることを訴えて、本連載の結びとします。(了)


第1557話 2017/12/23

古田先生との論争的対話「都城論」(9)

 前期難波宮に関する一元史観の通説「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」とわたしの九州王朝副都説の論理構造について解説しましたので、最後に古田先生が提唱された「難波長柄豊碕宮=博多湾岸」説の論理構造について説明します。
 『日本書紀』には九州王朝(倭国)の事績が盗用(転用)されていることは、『盗まれた神話』などで古田先生が明らかにされてきたところですが、晩年、先生は更にそれを敷衍して、近畿から出土した金石文・木簡や『日本書紀』の記述中に北部九州の類似地名があれば、それは北部九州を舞台にした地名や事績の盗用とする方法論を多用されました。本件の「難波長柄豊碕宮=博多湾岸」もその論理構造に基づかれたものです。
 通説では前期難波宮を難波長柄豊碕宮と理解するのですが、「長柄」や「豊碕」地名は、前期難波宮がある大阪市中央区の法円坂ではなく、北区にあることから、前期難波宮は孝徳紀に見える難波長柄豊碕宮ではないとされました。この点はわたしも同意見で、そうであれば難波長柄豊碕宮は北区の「長柄」「豊崎」にあったのではないかとわたしは考えたのですが、古田先生は博多湾岸にも「名柄」「難波(なんば)」「豊浜」という類似地名があることから、大阪市北区ではなく博多湾岸説に立たれたのです。そして、その理解の延長線上に博多湾岸に「難波朝廷」もあり、その地の宮殿で「天下立評」したとまで仮説を展開されました。
 この論理構造は、大阪市と博多湾岸の両者に類似地名がある場合は、必要にして十分な論証や考古学的実証(7世紀中頃の宮殿遺構の出土)を経ることなく、九州王朝の中枢領域にあったとする理解を優先させるということが特徴的です。この方法を古田先生は晩年に多用されたため、その方法論上の有効性と適用範囲について、わたしと先生との間で様々な論議や論争が行われましたが、このことは別に詳述したいと思います。
 極論すれば、古田先生は近畿出土の金石文や『日本書紀』に見える「地名」を北部九州へと収斂させる方向で七世紀の九州王朝史復元を試みられました。他方、わたしは前期難波宮副都説や九州王朝近江遷都説のように、九州王朝の直轄支配領域を近畿へと拡大させることで七世紀の九州王朝史復元を試みました。すなわち、両者の仮説のベクトルが真反対だったのです。
 ですから、前期難波宮副都説を発表するとき、わたしはこの古田先生とのベクトルの「衝突」を明確に意識し、意見の対立は避け難いのではないかと懸念していました。そしてそれは現実のものとなり、先生との学問的意見対立は10年近くにも及んだのでした。この体験は「弟子」としてはかなりつらいものでしたが、2014年の八王子セミナーにて、それまで反対されてきた副都説に対して「検討しなければならない」と言っていただいたことが、わたしにとってどれだけ嬉しかったことか、ご想像いただけると思います。しかし、検討される間もなく、翌年10月に先生は亡くなられました。(了)


第1538話 2017/11/14

邪馬壹国説博多湾岸説の論理構造

 今朝は名古屋に向かう新幹線車中で執筆しています。名古屋駅で長野行きの特急しなのに乗り換え、松本市に行きます。午後、松本市中央図書館で開催される講演会で正木裕さんと二人で講演します。主催は「古田史学の会」と「邪馬壹国研究会・まつもと」です。そこで、今回の「洛中洛外日記」は古田先生の邪馬壹国博多湾岸説に関連したテーマとしました。

 学問研究において仮説の優劣は、発表者の地位や肩書きではなく、その論証により決まると古田先生から教わりましたが、その論証がよって立つ基礎・基盤とも言える論理構造というものがあります。ともすればその論理構造とは無縁の、あるいは反する「思いつき」を論証として発表されるケースも散見されますので、この論理構造というものについて、古田先生の邪馬壹国博多湾岸説を題材として説明したいと思います。なお、この「論理構造」という名称はわたしがとりあえず採用したもので、もっとふさわしい名称があることと思いますので、ご提案いただければ幸いです。
 古田古代史学衝撃のデビュー作『「邪馬台国」はなかった』では、その『三国志』中の「壹」と「臺」の全数調査という方法が注目されがちなのですが、そのテーマは文献(『三国志』)の史料批判に属します。他方、「邪馬台国」論争の花形テーマであるその所在地論争において、古田先生は邪馬壹国博多湾岸説を提唱され、その根拠や論証を圧倒的な説得力で詳述されました。同書の出現により、それまでの諸説は完全に論破され、「邪馬台国」論争を異次元の高みへと引き上げました。
 この博多湾岸説の基礎となり、その論証・仮説群の成立を支えた論理構造は「部分の総和は全体になる」という自明の公理との整合でした。すなわち、邪馬壹国への行程記事に見える「部分里程」の合計は「総里程=12000余里」にならなければならないという論理構造です。そして、苦心惨憺された結果、対海国と一大国の半周行程の和(1400里)を発見され、部分里程の総和が総里程(12000余里)となる読解に成功されたのです。博多湾岸説誕生の瞬間でした。
 こうして「部分里程」の合計が「総里程=12000余里」になるという古田説が成立し、そうならない他の説を圧倒する説得力を持ったのです。この論理構造、「部分の総和は全体になる」という自明の公理との整合こそ古田説が際だつ決定的論点だったのです。このように、優れた仮説にはその根幹に強固な論理構造が存在しています。このことを意識し、強固な論理構造(万人が了承する理屈)に依拠した学問研究は優れた仮説を生み出すことができます。
 なお付言すれば、古田先生は博多湾岸説に至るもう一つの仮説「短里説」を成立させています。先の論理構造と短里説が逢着して博多湾岸説は盤石な仮説となりました。短里説の成立だけでも邪馬壹国は北部九州にあったことがわかるのですが、里程記事の新解釈によって博多湾岸説を確固としたものにされたのです。
 また、古田先生と同様の論理構造に立たれて、古田説とはやや異なる有力説を発表されたのが野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)です。倭人伝に見える「倭地を参問するに、(中略)周旋五千余里」の新解釈として、狗邪韓国から侏儒国に至る陸地行程の合計が5000里となることを発見されました。詳細は『邪馬壹国の歴史学』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房)の野田利郎「『倭地、周旋五千余里』の解明」をご参照ください。
 最後に、この論理構造を採用された背景には、古田先生の学問精神、すなわち深い思想性があるのですが、そのことは別の機会に論述したいと思います。


第1500話 2017/09/15

大型前方後円墳と多元史観の論理(5)

 「九州王朝説に刺さった三本の矢」の《一の矢》「日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。」に対する多元史観・九州王朝説での反証をなすべく、前方後円墳について集中的に勉強しています。中でも青木敬著『古墳築造の研究 -墳丘からみた古墳の地域性-』(六一書房、2003年)は特に勉強になった一冊で、今も熟読を重ねているところです。優れた考古学者による論文は、たとえ一元史観に基づいていても基礎データが明示されていますので、理系論文を読んでいるような錯覚にとらわれるときがあります。この青木さんの論文もそうした考古学者による優れた研究で、とても勉強になります。
 同書などを読んでいて、九州地方最大の前方後円墳である宮崎県西都市の女狭穂塚古墳についていくつかの重要な視点が得られました。その内の二つを紹介します。
 一つは、隣接する男狭穂塚古墳との関係です。両古墳は同時期(5世紀前半中頃)に計画性を持って隣接する位置に築造されたとする説明もあるようですが、男狭穂塚古墳の方が古いとする説や逆に女狭穂塚古墳が先とする説などもあるようです。わたしの見るところでは、男狭穂塚古墳の前方部の外周部分を破壊し、重ねるように女狭穂塚古墳の後円部外周が築造されていますから、単純に考えると男狭穂塚古墳の方が先に築造されたと理解すべきと思われます。
 この理解が正しければ、両古墳の築造主体は異なる時期の異なる権力者と考えるべきではないでしょうか。すなわち、女狭穂塚古墳の築造者は男狭穂塚古墳の外周を破壊していることから、男狭穂塚古墳の被葬者に敬意を払っていないと考えざるをえないからです。すなわち、西都原古墳群を築造した当地の権力者には男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳の間で断絶が発生していた可能性があるのです。
 これが一つ目の視点です。『日本書紀』や現地伝承にそうした権力者の断絶・交代の痕跡があるのか、考古学的実証から文献史学での論証へと展開するテーマが惹起されるのです。
 二つ目は近畿の前方後円墳との関係性です。九州地方の前方後円墳には珍しい「造り出し」と呼ばれている前方部と後円部の間のくびれ部分にある方形の突起台地が女狭穂塚古墳にはその左側にあるのです。この「造り出し」は近畿の前方後円墳で発生し、発展したと理解されており、その「造り出し」を持つことを根拠に、女狭穂塚古墳は近畿型前方後円墳と説明されています。この考古学的事実は大和朝廷一元史観を実証する現象の一つとして、古墳時代には大和朝廷が全国支配を進めたとする有力な根拠(実証)とされています。
 この女狭穂塚古墳が近畿の前方後円墳の影響を受けているという考古学的事実(実証)を多元史観・九州王朝説からどのように説明(論証)するのかが問われているのです。(つづく)