史料批判一覧

第1466話 2017/07/29

「[身冉]牟羅国=済州島」説を撤回

 「古田史学の会」内外の研究者による、『隋書』の[身冉]牟羅国についてのメール論争を拝見していて、これはえらいことになったとわたしは驚愕しました。
 今から22年も前のことなのですが、『古田史学会報』11号(1995年12月)でわたしは「『隋書』[身冉]牟羅国記事についての試論」という論稿で、[身冉]牟羅国を済州島とする仮説を発表しました。今から読み直すと、明らかに論証は成立しておらず、どうやら結論も間違っていることに気づいたからです。
 そこで、7月の「古田史学の会」関西例会にて22年前に発表した自説を撤回しますと宣言しました。そうしたら野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)から「えぇーっ。古賀さん撤回するの?」と声があがり、「すみません。撤回します」と謝りました。学問研究ですから、間違っていると気づいたら早く撤回するに限る、意地をはってもろくなことにはならないと思い撤回したのですが、恥を忍んで撤回の事情と理由を説明します。
 これは言い訳にすぎませんが、当時は会員も少なく今ほど『古田史学会報』に原稿が集まらず、編集を担当していたわたしは不足分の原稿を自分で書くことがありました。その際、余った余白分の字数にあわせて原稿を書く必要がありました。11号の拙稿もそうした穴埋め原稿として仕方なく急遽執筆したことを憶えています。従って、論証も説明も不十分な論稿と言わざるを得ません。こうした事情が当時はあったのです。しかし、それでも掲載に問題ないと判断したわけで、40歳のときのわたしの学問レベルを恥じるほかありません。
 次に研究論文としての論証上の問題点を説明します。対象となった『隋書』の当該部分は次の通りです。

「其國東西四百五十里,南北九百余里,南接新羅,北拒高麗」「其南海行三月,有[身冉]牟羅國,南北千餘里,東西數百里」(『隋書』百済伝)

 この記事によれば、[身冉]牟羅國を済州島とするためには少なくとも次の論証が必要です。

①国の大きさが「南北千餘里,東西數百里」とあり、短里(1里76m)表記であることの説明。
②同じく国の形の表記が縦横逆であることの説明。
③その位置が百済の南「海行三月」の所と表記されていることの説明。
④『隋書』国伝には済州島のことを「[身冉]羅国」とされ、「[身冉]牟羅國」とは異なることの説明。

 この中で、拙稿でとりあえず説明したのは①と②だけで、③と④は検討課題として先送りにして論証していませんでした。しかも、今から見ると②の論証も不適切でした。すなわち、「筑後国風土記逸文」の磐井の墓(岩戸山古墳)の縦横の距離の表記が実際の古墳とは一見逆になっている例を[身冉]牟羅國にも援用したのですが、「筑後国風土記逸文」には「南北各六十丈、東西各四十丈」とあり、『隋書』百済伝の表記にはない「各」という文字があり、南北間が六十丈ではなく南辺と北辺が各六十丈という意味です。「東西各四十丈」も東辺と西辺が各四十丈となり、岩戸山古墳の現状に対応しています。他方、『隋書』の記事には「各」の字が無く、表記通り縦長の地形を意味していると理解せざるを得ず、従って横長の済州島では一致しません。
 『隋書』国伝の済州島の表記「[身冉]羅国」との不一致についても次のように曖昧に処理して、論証していません。
 「国伝には済州島が[身冉]羅国と記されている。はたしてこの[身冉]羅国と百済伝末尾の[身冉]牟羅国が同一か別国かという問題(通説ではどらも済州島とする)も残っているが、この表記の差異についても別に論じることとする。」
 このように問題を先送りにして、しかも別に論じることなく22年も放置していました。更に論稿末尾を次のような「逃げ」の一文で締めくくっています。
 「本稿では問題提起にとどめ、いずれ論文として詳細を展開するつもりである。」
 以上のように、22年前の拙稿は論証が果たされておらず、その後も論じることなく今日に至っています。そのため、わたしは自説を撤回しました。拙稿の誤りに気づかせていただいた「メール論争」参加者の皆さんに感謝します。それにしても、「若気の至り」とはいえ、インターネット上に後々まで残るみっともない論稿で、恥ずかしい限りです。


第1464話 2017/07/27

冨川ケイ子さん「[身冉]牟羅国論争メモ」

 「洛中洛外日記」1448話で、「古田史学の会」内外の研究者による、『隋書』の[身冉]牟羅国についてのメール論争が勃発したことをお知らせしましたが、参加者による熱心な応答により学問的にとても優れた論争へと発展しています。もちろん「決着」がついたわけではありませんが、学問の方法や史料批判など重要な問題も含まれており、興味深く拝読させていただいています。
 その論争内容をまとめた「[身冉]牟羅国についての論争メモ」が冨川ケイ子さんから論争参加者に発信されましたので、転載させていただきます。その中に、わたしの説の紹介もあり、わたしが自説を撤回すると今月の「古田史学の会」関西例会で述べたのですが、そのことも紹介されています。自説撤回の理由については別に説明する予定です。
 以下、冨川さんからのメールを転載します。なお、冨川さんからは「メモ」なので文章として不完全で、これでもよければ転載してくださいとの趣旨のコメントをいただいています。この点、お含みおきください。

各位
谷本さんが参加されたのを機会に、皆様のご意見を集約してみました。下のメモは多元の会合からの帰りの電車の中でケータイで書いたものが元なので、ご意見の根拠など漏れている点が多々あってご不満もおありと思いますけれど。
メールでの議論は後から参加された方が読めないのが欠点ですね。
冨川

■史料
隋書百済伝 百済
「其國東西四百五十里,南北九百余里,南接新羅,北拒高麗」「其南海行三月,有[身冉]牟羅國,南北千餘里,東西數百里,土多?鹿,附庸於百濟。百濟自西行三日,至貊國云」

隋書[イ妥]国伝
「其國境東西五月行南北三月行至於海」

◆石田敬一氏の説
(東京古田会ニュースNo.161〜162)
[身冉]牟羅国=済州島
百済の南 [身冉]牟羅国は短里で済州島の大きさに合う
東西と南北は辺と辺(東西と南北は常識の反対)
九州は縱5月、横3月の大きさ

◆古田武彦氏の説
(『古代の霧の中から』p.166-167 ミネルヴァ版p.143-144)
(東京古田会ニュースNo.145〜146の講演録)
[身冉]牟羅国と[身冉]羅国は違う
隋書は短里か、東西と南北は辺と辺か、調べていうのが自分の学問
[身冉]牟羅国は百済から南に3月ならボルネオかスマトラかルソンか

◆清水淹氏の説
(多元NO.138)
石田説を支持
九州王朝の勢力は九州と山口県あたりまで
その他は間接支配
蘇我氏は九州王朝の代官
天智天皇は近畿豪族の勢力を結集して独立をはかる

◆西村秀己氏の説
百済の南3月は済州島ではない
[イ妥]国の東西5月は北米まで
[身冉]牟羅は「たんむら」ではなく「ぜんむら」と読む

◆服部静尚氏の説
(清水説批判、多元No.140に掲載)
[身冉]牟羅国にはノロ鹿が住む
沖縄のケラマ鹿は外来、鹿骨の出土はある
台湾に在来種の鹿あり

◆古賀達也氏の説
(古田史学会報No.11)
[身冉]牟羅国=済州島説は石田・清水両氏より古い
撤回したい
ボルネオだとこうやの宮の人形と関わりがあるかも

◆正木裕氏の説
根本的には3月行であれ5月行であれ九州島に収まらない
[身冉]牟羅国は済州島ではない
呉志は長里で「夷洲」は台湾(方位は南、距離は400㌔)ではなく「沖縄」等西南諸島

◆冨川ケイ子説
[身冉]牟羅国は百済より大きい可能性がある
5パーセントくらいセイロン島
20パーセントくらい台湾
75パーセント沖縄説
九州はどの方角でも1か月以内で横断できる


第1444話 2017/07/06

「鉄屋は長安寺にあり」欽明紀

 この度の豪雨で被災された福岡県・大分県の皆様にお見舞い申し上げます。明後日の8日(土曜日)に久留米大学で講演するのですが、被災地の様子が心配です。わたしが子供の頃、同じように大雨で筑後川が増水し、近くの田圃まで浸水したことを思い出しましたが、今回はそれ以上の被害のようです。
 テレビニュースで避難勧告が出された地名がアナウンスされるのですが、知っている所が多く、心が痛みました。その中には古賀家墓地がある「うきは市御幸」もあり、お墓の中の父親やご先祖様も驚いていることでしょう。
 中でも大きな被害が出ている朝倉市は九州王朝の故地としても有名なところで、たとえば古田先生が着目された『日本書紀』欽明23年条の次の記事は有名です。

 「鉄屋は長安寺にあり。この寺、何れの国に在りということを知らず。」『日本書紀』欽明23年条(562)

 古田先生はこの「長安寺」を朝倉市にあった「朝闇寺」であると、『太宰管内志』の次の記事を根拠に指摘されました。

 「朝倉社恵蘇八幡宮 社僧の坊を朝倉山長安寺といふ。(註)朝闇寺なるべし」『太宰管内志』

 この朝倉の長安寺廃寺からは複弁蓮華文の軒丸瓦が出土しています。もし長安寺の存在が欽明23年(562)まで遡れるのであれば、7世紀後半頃とされている「複弁蓮華文軒丸瓦」の編年が大きく変わることになるのですが、『日本書紀』の記事からは「鉄屋」が長安寺にあったのが欽明期の頃なのか、『日本書紀』編纂時の情報なのかが判断できません。
 わたしは老司Ⅰ式瓦や大宰府政庁出土品と酷似した鬼瓦が長安寺廃寺から出土していますので、長安寺は7世紀後半頃の造営とするのが妥当と考えています。この問題については、私見とは異なりますが大越邦生さんの先駆的な研究(注)がありますので、論議検討の進展が期待されます。

(注)「コスモスとヒマワリ 〜古代瓦の編年的尺度批判〜」『Tokyo古田会News』94号、2004年1月。「古田武彦と古代史を研究する会」編。
 大越さんは「複弁蓮華文軒丸瓦」を通説よりも古く編年されており、7世紀後半頃とするわたしの見解とも異なります。学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させると、わたしは考えています。大越稿は論争や検討に値する優れた視点を持ったものと評価しています。


第1443話 2017/07/05

不二井さんの「倭年号」提起

 「九州年号」のより適切な表記として「倭国年号」を位置づけられている古田先生の見解を「洛中洛外日記」1442話で紹介しましたが、「倭国年号」について、不二井伸平さん(古田史学の会・全国世話人)からメールが届きました。
 それによると、不二井さんも「倭国年号」について「最初、違和感を持ちました」が、「古田先生が『新羅年号』を語る中で『倭国年号』を用いられている資料を見て、あ、そうかと納得」されたそうです。さらに、「私も九州王朝史年表を作ったとき、『百済年号』『新羅年号』と並べたとき、『九州年号』では、『理屈』にならないと思ったりしました」と記されていました。
 そしてその「理屈」として、「新羅国の年号『新羅年号』、百済国の年号『百済年号』、ならば倭国の年号は『倭国年号』(さらに言えば、『倭年号』)」との考えが示されていたのです。わたしはこの「倭年号」という表記にまで考えが及んでいませんでしたので、「理屈」(論理性)を突き詰めれば「倭年号」まで進展せざるを得ないことに気づかされ、不二井さんのご指摘に驚きました。
 不二井さんは学問における用語使用の論理性を重視される研究者で、「倭年号」以外にも『三国志』のヒミカの漢字表記について、従来の「卑弥呼」(倭人伝)ではなく、自署名の「俾弥呼」(帝紀)を古田学派は使用すべきと訴えられてきました。このヒミカの漢字表記問題はちょっと複雑なのですが、「倭人伝」に限定して論じる場合は「卑弥呼」が妥当と思われますが、倭人伝の内容に限定するのではなく、倭国の女王ヒミカを論じる場合は自署名の「俾弥呼」を採用することが古田学派であれば妥当とする不二井さんのご指摘はよく理解できます。
 このように「理屈」(論理性)を重視すべきという不二井さんの指摘は、古田学派ならではの学問的配慮と言うことができます。


第1440話 2017/07/01

村岡典嗣「学問には『実証』より論証を要する」

 わたしが30年前に古田先生の門を叩いてから、学問における論証の大切さを折に触れて学んだのですが、そのことを疑う方もおられるようです。
 村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」という言葉の意味のわたしなりの解説を「洛中洛外日記」で連載し、その後、『古田史学会報』にも転載しました。それは古田先生がまだご健在だった2013年のことで、「洛中洛外日記」第622話から第639話まで9回にわたって掲載しました。
 もし、わたしが古田先生から学んでもいないことを学んだとして「洛中洛外日記」で連載し、『古田史学会報』に転載したのなら、それを読まれた先生からお叱りをうけたはずです。しかし、先生からは何もご指摘などはありませんでした。
 また、わたしの言っていることが嘘だと思われたのであれば、古田先生に直接確認することも可能だったはずです。先生ご健在の時は「学問は実証よりも論証を重んずる」をわたしが解説していても、どなたからもご批判はありませんでしたが、先生がなくなられると突然“「古田史学の会」や古賀の主張は古田先生の学問とは真反対だ”との非難が始まるのは何故でしょうか。理解に苦しみます。
 わたしは31歳のとき古田先生に初めてお会いしたのですが、そのころから何度も「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡先生の言葉を講演会や個人的会話などでもお聞きしてきました。おそらく古くからの古田先生の支持者やファンの方も同様だと思います。
 この村岡先生の言葉は、近年では2013年の八王子セミナーで古田先生が述べられ、注目を浴びました。「洛中洛外日記」1439話で紹介した『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』(ミネルヴァ書房)の巻末の「日本の生きた歴史(十八)」にそのことを書かれたのも2013年11月です。わたしが知るところでは、1982年(昭和57年)に東北大学文学部「文芸研究」100〜101号に掲載された「魏・西晋朝短里の方法 中国古典と日本古代史」にこの村岡先生の言葉が「学問上の金言」として紹介されています。同論文はその翌年『多元的古代の成立・上』(駸々堂出版)に収録されました。下記に転載します。

 「わたしはかって次のような学問上の金言を聞いたことがある。曰く『学問には「実証」より論証を要する。〔43〕(村岡典嗣)』と。
 その意味するところは、思うに次のようである。“歴史学の方法にとって肝要なものは、当該文献の史料性格と歴史的位相を明らかにする、大局の論証である。これに反し、当該文献に対する個々の「考証」をとり集め、これを「実証」などと称するのは非である。”と。」(79頁)
 「〔43〕恩師村岡典嗣先生の言(梅沢伊勢三氏の証言による)。」(85頁)
(古田武彦「魏・西晋朝短里の方法 ーー中国古典と日本古代史」『多元的古代の成立[上]邪馬壹国の方法』所収、駿々堂出版、昭和58年。初出は東北大学文学部「文芸研究」100〜101号、昭和57年)

 このように、古田先生は30年以上前から、一貫して村岡先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んずる」を「学問の金言」として大切にされ、学問にとって実証よりも論証が重要であると晩年まで言い続けられてきたのです。そして、わたしは若い頃からその言葉を古田先生から聞き続けてきたのです。


第1439話 2017/07/01

古田武彦「学問にとって重要なのは『論証』」

 わたしが古田先生から繰り返し聞かされた言葉があります。それは学問における論証の重要性に関することで、「論証は学問の命」という短い言葉でした。あるいは村岡典嗣先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」という言葉も教えていただきました。この古田先生の教えは、わたしの学問研究における生涯の指針となっています。このことは「洛中洛外日記」などで何度も述べてきたところですから、読者のみなさんはご承知のことと思います。
 ところが、古田先生がお亡くなりになったとたん、“「実証よりも論証」などという古賀や「古田史学の会」の主張は古田先生の学問とは真反対である”と非難する声が聞こえてきました。これは村岡先生や古田先生の教えに対する誤解、あるいは意図的な曲解と言わざるを得ないのですが、古田史学や学問を理解する上で大切な問題ですので、改めて事の真実を明らかにしておきたいと思います。
 もちろん「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡先生の言葉や、それを受け継ぐ古田先生や古賀の理解は間違いであると批判されるのは個人の自由ですから、まったくかまわないのですが、その場合はわたしと古田先生の教えが「真反対」というのではなく、“村岡も古田も古賀も自分の考え(論証よりも実証)とは真反対である”と正確に批判していただきたいものです。
 このような「古田史学の会」やわたしへの非難に対して、『東京古田会ニュース』No.173に掲載された拙稿で、古田先生が「学問にとって重要なのは『論証』」と著書で記されている事を紹介しました。その当該部分を転載しておきます。「学問は実証よりも論証を重んじる」とするわたしと古田先生の意見が「真反対」などとする批判(いいがかり)がいかに間違ったものであるかが明白となることでしょう。

【以下、『東京古田会ニュース』No.173から転載】
「論証」は学問の命
 –古田先生の言葉と思い出–
              古賀達也
 (前略)
六、論証こそ学問の命

 「論理の導くところへ行こうではないか、たとえそれがいかなるところへ到ろうとも」
 「学問は実証よりも論証を重んずる」
 こうした言葉に現れているように、古田先生は学問にとって「論理」や「論証」がいかに大切かを繰り返し強調されてきました。そのことがはっきりと著書にも残されていますので、ご紹介します。
 『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』(ミネルヴァ書房)の巻末の「日本の生きた歴史(十八)」に収録された古田先生の論文“「論証と実証」論”に次のように記されています。当該部分を引用します。

 《以下、引用》
日本の生きた歴史(十八)
 第一 「論証と実証」論
      一
 わたしの恩師、村岡典嗣先生の言葉があります。
「実証より論証の方が重要です。」と。
 けれども、わたし自身は先生から直接お聞きしたことはありません。昭和二十年(一九四五)の四月下旬から六月上旬に至る、実質一カ月半の短期間だったからです。
 「広島滞在」の期間のあと、翌年四月から東北大学日本思想史科を卒業するまで「亡師孤独」の学生生活となりました。その間に、先輩の原田隆吉さんから何回もお聞きしたのが、右の言葉でした。
 助手の梅沢伊勢三さんも、「そう言っておられましたよ。」と“裏付け”られたのですが、お二方とも、その「真意」については、「判りません。」とのこと。“突っこんで”確かめるチャンスがなかったようです。
      二
 今のわたしから見ると、これは「大切な言葉」です。ここで先生が「実証」と呼んでおられたのは、「これこれの文献に、こう書いてあるから」という形の“直接引用”の証拠のことです。
 これに対して「論証」の方は、人間の理性、そして論理によって導かれるべき、“必然の帰結”です。わたしが旧制広島高校時代に、岡田甫先生から「ソクラテスの言葉」として教えられた、
 「論理の導くところへ行こうではないか、たとえそれがいかなるところへ到ろうとも」(趣意)こそ、本当の「論証」です。
 (中略)
 やはり、村岡先生の言われたように、学問にとって重要なのは「論証」、この二文字だったようです。
 《引用終わり》

 このように古田先生は「実証より論証の方が重要」であることの解説のためにわざわざ一章を割かれているのです。この古田先生の言葉に示された“学問における「論証」の重要性”を深く重く受け止め、わたしはこれからも古代史研究を進めていきたいと思います。


第1436話 2017/06/29

朝代神社(舞鶴市)の白鳳元年創建

 今日は仕事で丹後の宮津市に来ています。京都縦貫道が全線開通したので便利になりました。途中の由良PAで休憩したとき、舞鶴市の観光案内のビラをいただいたのですが、そこに舞鶴市の朝代神社(あさしろじんじゃ)が「西暦673年創建といわれる古社で、吉原の太刀振りが行われます。」と紹介されていました。

 この紹介文を読み、わたしにはピンとくるものがありました。西暦673年といえば「壬申の乱」の翌年にあたり、九州年号の白鳳13年に相当します。ですから、創建年次伝承の方法として、九州年号の白鳳を用いて年次を特定するか、年干支(癸酉)か『日本書紀』紀年の「天武2年」という表記が用いられたと推定されます。これまでの地方伝承・寺社縁起研究の経験から、わたしは九州年号「白鳳」が用いられて伝承された可能性が高いのではないかと考えたのです。

 そこでスマホの検索機能を用いて調査したところ、朝代神社の創建のことが『加佐郡誌』に記されていることをつきとめ、国会図書館デジタルコレクションにある『加佐郡誌』をスマホの画面で閲覧しました。その62頁に「郷社 朝代神社」の項目があり、次のように記されていました。

◎郷社 朝代神社(舞鶴町字朝代鎮座)
一、祭神 伊弉諾命
一、由緒 天武天皇白鳳(但し私年號)元年九月三日(卯ノ日)淡路國日之少宮伊弉諾命大神を當國田造郷へ請遷したものである。其後の年代は詳でないけれども現地に奉った。〔以下略〕
※()内は『加佐郡誌』編者の認識による付記と思われます。

 やはりわたしの推定通り九州年号「白鳳」が使用されていました。ところが、「白鳳元年」は661年で天武天皇の時代ではありません。しかし、後世において、白鳳を天武の年号とみなす傾向があり、「白鳳元年」の前に「天武天皇」と付記されたものと思われます。そのため、「白鳳元年」を「天武元年」と見なし、現代の解説文ではそれを『日本書紀』の672年とするものと、先の舞鶴市観光案内ビラのように、天武即位年に相当する673年の創建とするものが出現したのです。

 こうした考察から、本来の伝承は「白鳳元年」(661年)の創建ではないでしょうか。なお、『加佐郡誌』編者による、九月三日を「(卯ノ日)」とする記事が気になりましたので、古代の日付干支調査ソフトを持っておられる西村秀己さんに電話して、九月三日が「卯ノ日」になる年を調べてもらったところ、672年の天武元年とのこと。ですから『加佐郡誌』編者は日付干支を調査して(卯ノ日)という説明文を付記したことがわかりました。

 舞鶴市は旧加佐郡で、700年以前は加佐評であり、8世紀になり丹後国が成立するまでは丹波国に所属していました。丹波国のお隣の但馬国(元々は丹波国に所属していたとする説もあるそうです)には赤淵神社縁起(朝来市)の「常色」「朱雀」など九州年号の痕跡が色濃く残っている地域です。この朝代神社の白鳳元年創建伝承も丹波国(丹後国)と九州王朝の関係性の深さを感じさせるのです。

 さて、お昼の休憩も終わりましたので、これから仕事(近赤外線吸収発熱染料のプレゼン)です。


第1435話 2017/06/28

「古田史学の会」会則の思い出

 過日の「古田史学の会」会員総会で会則の一部変更を承認していただきました。古田先生ご逝去に伴う最小限の変更で、「第二章 目的」は次のようになりました。

〔旧〕本会は、古田武彦氏の研究活動を支援し、旧来の一元通念を否定した氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。

〔新〕本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。

 総会では目的に古田史学の方法論や古田説を具体的に書き加えてはどうかとするご意見も出されましたが、この会則を大きく変更する必要はなく、逆に大きく変更するとその説明と論議がこの会則のもとに入会された全会員間で必要となることもあり、最小限に留めました。
 この会則は「古田史学の会」創設後に古田先生や中小路駿逸先生ともご相談し、ご了解を得たうえで決められたものであり、わたしとしては基本的に変更する必要性はないと考えています。
 会則決定のことを『古田史学会報』9号(1995年9月25日)の編集後記に次のようにわたしは記しました。

▽初めての会員総会で、無事会則採択され、喜んでいます。同会則は会の将来に無用な混乱や道を誤らないようにする為に中小路駿逸先生の御助言をいただきながら作ったものです。今後は「細則」により、詳細についても整備していきたいと考えています。

 ここでいう中小路先生のご意見は、『古田史学会報』8号(1995年8月25日)にご寄稿いただいた次の論稿に記されています。全文はHP「新古代学の扉」に収録していますので、ぜひお読みいただければと思います。

『古田史学会報』8号より部分転載

古田史学の会のために
            中小路駿逸

(前略)
 古田武彦氏の言説に強烈な関心を(思わくはいろいろ違っても)持つ人々が集まってできた(と私は思っているのだが)いくつかの会のなかの「市民の古代研究会」という会が、別れるの別れないのとゴタゴタしていたとき、私は「旗印をハッキリと」と「市民の古代ニュース(一二六号)」に書いた。古田氏の言説が「近畿大和なる天皇家の王権は、七世紀よりも前から日本列島内で唯一の卓越して尊貴な中心的権力であった」という「一元通念」を学理上「非」なりとしている一点(この一点で古田説は通念に対して決定的に勝ったのである)に、同意するか、明言せずに伏せるか、ハッキリしなさい、という趣旨を述べたものであった。ゴタゴタの原因の肝心カナメのカンどころはここにあり、ここが分かれ目となって会は少なくとも二つのグループに分かれると見、この「ことのスジミチ」が後世にハッキリわかるような記録を、シッカリ残しておきたいと思ったからである。
 私が「古田武彦氏についていくか、いかないか」とか「古田氏の学問のどこに、どういう意味で関心を持つか、持たないか」などで分けようとしなかったのはなぜか、おわかりであろう。そんな「対古田学態度」などで分けようとしたら最後、答は千差万別 、千変万化、あらゆる言い抜けが可能となって分類は無意味となり、何よりも、肝心カナメのカンどころ、「一元通念」を「論証を経ざるもの」とした古田氏の指摘、日本古代史の研究史のなかで古田氏の学の位置を決定した理論上の「定礎」を「是」なりと明言するかしないかという、大事の一点が棚上げされ、覆われ、隠され、忘れられてしまい、結果は「学理上無効な一元通念が無期限に安泰」となること、明白だからである。「一元通念」を「非」とするか。この件を伏せて言わないか。この規準が明晰かつ有効であることを私は確信していた。この規準を用いれば、ありとあらゆる錯乱(無知、ウソ、ゴマカシ、スリカエ、だまし、そういうのをすべて含め、一括して「錯乱」と言っておく。こういうものをこまかく詮索して分類したってしかたがあるまい。)が、ゴタゴタの前後にわたってみずからの正体を自主的にさらけだして記録に残すこと、明らかだからである。
 (中略)
 この「名分に関する、信仰を含む宣言」を「史実宣言」へと横滑りさせ、この「名分」に合うように歴史のワク組みを構想した「錯乱」の所産が「一元通 念」なのだった。--私は今、そう考えているのである。古田氏の指摘はこの「錯乱」を非なりとし、その裏づけを提示した私も、同様これを非とし、歴史像を通念型から古代の文献の示しているものに返せ、と要求している。たとえこの通念が数百年、あるいは千年余、日本人の心を規制し、文化の深部に根付いているように思われていようとも、より深い基層にあるものが真実ならば、そこに復帰して当然ではないか。「一元通念を非とする。」--この一句に私が固執する意味がおわかり願えようか。日本の文化が、精神が、ほんとに確かな基礎に立ったものになれるかなれないか、その分かれ目がこの一句にある。私はそう思っているのである。
  「古田史学の会」の会則案には、この肝要の一句が入っているようである。この一句が会の総会で承認されるか否かを、はるかな過去からの歴史と、これから歴史として形成されるのを待つ、限り知られぬ未来とが、深い関心をこめたまなざしをもって見守っているのである。
 (なかこうじしゅんいつ・追手門学院大学教授)


第1427話 2017/06/20

中小路駿逸先生の遺稿集が発刊

 先日の「古田史学の会」全国世話人会のおり、小林嘉朗さん(古田史学の会・副代表)から、中小路駿逸先生の遺稿集『九州王権と大和王権』(海鳥社)が発刊されたことを教えていただきました。案内文によると次の遺稿が収録されているとのことで、わたしも読んだことがある好論文で、とても懐かしく思いました。

〔収録論文一覧〕
答えが先か根拠が先か
古田言説が出現してから
神武東征の意味
宣命の文辞とその周辺
日本神話の構造とその成立
『日本書紀』の書名の「書」の字について
唐代文献の日本像
大和(日本)王権の対唐政策
王維が阿倍仲麻呂に贈った詩にあらわれる「九州」、「扶桑」および「孤島」の意味について
日本(大和)王権は冊封を受けず

 中小路先生は追手門学院大学の文学部教授で日本古典文学の研究をされていました。その過程で古田説と巡り会い、古田先生の九州王朝説を支持される論稿を発表し続けられました。「市民の古代研究会」時代に、わたしも親しくおつき合いさせていただき、古典や学問について多くのことを教えていただきました。
 わたしが三十代の頃、古田先生から学問研究における「論証」の重要性を繰り返し教えられてきたのですが、それは「論理の導くところへ行こう。たとえそれが何処に至ろうとも」とか「論証は学問の命である」、ときには「学問は理屈が大切なのです。たとえ“屁理屈”でも理屈が通っていなければなりません」というような言葉を通してでした。当時、古田先生が言われるのだからその通りだと受け止めていたのですが、いざ自分で研究論文を書こうとするとき、「論証する」とはどういうことなのだろうか、ということがよく理解できず悩んでいました。わたしは理系(化学)の人間でしたので、再現性実験ができない歴史研究における「論証(証明)の方法」というものがよくわからなかったのです。
 そのようなとき、中小路先生にそのことをおたずねしたことがあります。中小路先生のお答えは「ああも言えれば、こうも言える、というのは論証ではありません」というものでした。この言葉も抽象的でしたが、わたしの理解は一歩進みました。今でもこのときの学恩が忘れられません。
 中小路先生は2006年にご逝去されましたが、晩年、古田先生と王維の詩にみえる「九州外」の意味について意見が対立され、ちょっとした論争になりました。この論争により、結論だけではなく古田先生と中小路先生の学問の方法の「差」も明らかとなったもので、とても刺激的な論争内容でした。機会があれば、このときの経緯や背景、論争内容についてもご紹介したいと思います。


第1422話 2017/06/11

古田史学会報』140号のご案内

『古田史学会報』140号が発行されましたので、ご紹介します。本号には天文学者の谷川清隆さんからご寄稿いただきました。

『日本書紀』の天文関連記事の史料批判により、古代日本に二つの権力集団が存在したとする論稿です。これまでも天文学という視点から古田説を支持する研究を発表されてきた谷川さんの論稿は読者にもご満足いただけるものと思います。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が谷川稿を過不足無く解説されていますので、以下に転載します。

【転載】
《谷川清隆博士の紹介》
谷川氏は現役の天文学者です。

 その天文学者の目で見た古代史研究論文に感銘を受け、無理を言って今回寄稿願いました。

 日本書紀には、漢文の正確性からα群・β群があって、巻によって著者が異なると言う森博達氏の研究が有名ですが、谷川氏はその天文観測記事より、単に著者が違うのではなく、書かれた団体・組織が異なることを発見されたわけです。

 森氏の言うβ群は天群の人々(九州王朝ととっていただくと分かり易い)によって書かれた、α群は地群の人々(近畿天皇家)によって書かれたとなります。

 過去古田説は、谷本茂氏の『周髀算経』からの数学的アプローチによって、又メガース博士の南米における縄文土器発見によって、その都度新しい実証・論証ツールを得てきました。ここに谷川氏によって又強力なツールを得たわけです。(服部静尚)

『古田史学会報』140号の内容
○七世紀、倭の天群のひとびと・地群のひとびと 国立天文台 谷川清隆
○谷川清隆博士の紹介 八尾市 服部静尚
○6月18日(日)井上信正氏「大宰府都城について」講演会・「古田史学の会」会員総会のお知らせ
○前畑土塁と水城の編年研究概要 京都市 古賀達也
○「白鳳年号」は誰の年号か -「古田史学」は一体何処へ行く 松山市 合田洋一
○高麗尺やめませんか 八尾市 服部静尚
○「佐賀なる吉野」へ行幸した九州王朝の天子とは誰か(上) 川西市 正木 裕
○西村俊一先生を悼む 古田史学の会・代表 古賀達也
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己


第1415話 2017/06/06

原稿採否基準、新規性と進歩性

 福岡県での仕事を終え、鹿児島中央駅に向かう九州新幹線の車中で書いています。車窓からの景色はずいぶん薄暗くなりました。今日、九州南部が梅雨入りしたとのことです。

 先月の関西例会後の懇親会で、常連の会員さんから『古田史学会報』に掲載された某論文について、「古田史学の会」としてその論文の説に賛成しているのかという趣旨のご質問をいただきました。その質問をされた方は『古田史学会報』に採用されたということは編集部から承認されたのだから、その論文の説を編集部は賛成したものと理解されていたようです。こうした誤解は他の会員の皆様にもあるかもしれません。
 よい機会ですので、学術誌などの採用基準と学問研究のあり方について、わたしの考えを説明させていただきたいと思います。『古田史学会報』に採用する論稿の評価基準については、「洛中洛外日記」1327話(2017/01/23)「研究論文の進歩性と新規性」でも説明してきたところです。学術論文の基本的な条件としては、史料根拠が明確なこと、論証が成立していること、先行説をふまえていること、引用元の出典が明示されていることなどがありますが、もっと重要な視点は新規性と進歩性がその論文にあるのかということです。
 新規性とは今までにない新しい説であること、あるいは新しい視点が含まれていることなどです。これは簡単ですからご理解いただけるでしょう。次に進歩性の有無が問われます。その新説により学問研究が進展するのかという視点です。たとえば、その新説により従来説では説明できなかった問題や矛盾していた課題がうまく説明できる、あるいはそこで提起された仮説や方法論が他の問題解決に役立つ、または他の研究者に大きな刺激を与える可能性があるという視点です。
 こうした新規性と進歩性が優れている、画期的であると認められれば、仮に論証や史料根拠が不十分であっても採用されるケースがあります。結果的にその新説が間違いであったとしても、広く紹介した方が学問の発展に寄与すると考えるからです。
 『古田史学会報』ではそれほど厳しい査読はしませんが、『古代に真実を求めて』では採用のハードルが高く、編集部でも激論が交わされることがあります。しかし、その採否検討にあたり、わたしや編集委員の意見や説に対して反対か賛成、あるいは不利・有利といった判断で採否が決まることはありません。ですから、採用されたからといって、編集部や「古田史学の会」がその説を支持していることを意味しません。しかし、掲載に値する新規性や進歩性を有していると評価されていることは当然です。
 以上のように、わたしは考えていますが、抽象論でわかりにくい説明かもしれません。「洛中洛外日記」1327話ではもう少し具体的に解説していますので、その部分を転載します。ご参考まで。

【転載】
 (前略)「2016年の回顧『研究』編」で紹介した論文①の正木稿を例に、具体的に解説します。正木さんの「『近江朝年号』の実在について」は、それまでの九州年号研究において、後代における誤記誤伝として研究の対象とされることがほとんどなかった「中元」「果安」という年号を真正面から取り上げられ、「九州王朝系近江朝」という新概念を提起されたものでした。従って、「新規性」については問題ありません。
 また「近江朝」や「壬申の乱」、「不改の常典」など古代史研究に於いて多くの謎に包まれていたテーマについて、解決のための新たな視点を提起するという「進歩性」も有していました。史料根拠も明白ですし、論証過程に極端な恣意性や無理もなく、一応論証は成立しています。
 もちろん、わたしが発表していた「九州王朝の近江遷都」説とも異なっていたのですが、わたしの仮説よりも有力と思い、その理由を解説した拙稿「九州王朝を継承した近江朝廷 -正木新説の展開と考察-」を執筆したほどです。〔番外〕として拙稿を併記したのも、それほど正木稿のインパクトが強かったからに他なりません。
 正木説の当否はこれからの論争により検証されることと思いますが、7〜8世紀における九州王朝から大和朝廷への王朝交代時期の歴史の真相に迫る上で、この正木説の進歩性と新規性は2016年に発表された論文の中でも際だったものと、わたしは考えています。(後略)


第1401話 2017/05/19

前期難波宮副都説反対論者への問い(5)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

  「前期難波宮副都説」にわたしが決定的に傾いた瞬間(発見)がありました。それは上記の問4の「答え」に気づいたときのことでした。
 『日本書紀』孝徳紀白雉元年(650)二月条の大規模な白雉改元の儀式が行われた7世紀中頃の宮殿遺構候補が見つからず、永く考え込んでいた時期がありました。この白雉改元記事に関して、わたしは次のように論理展開していました。もちろん、実際は考察において右往左往しており、思考の順番は必ずしも一貫性があったわけではありません。

1.「白雉」は九州年号だから、この改元の儀式は九州王朝の宮殿で行われたはず。
2,その様子が『日本書紀』白雉元年(650)二月条に記載(盗用か)された。
3.その大規模な儀式を行うためにはかなり大規模な宮殿や「庭(朝廷)」が必要。
4.太宰府政庁Ⅱ期の宮殿では狭すぎて、白雉改元儀式の舞台とするには苦しい。
5,その点、7世紀中頃に造営された前期難波宮であれば、規模や様式(大規模な朝廷)は候補地として問題ない。
6.しかし、前期難波宮の造営は孝徳紀白雉三年(652)であり、まだ完成していない。
7.『日本書紀』白雉元年(650)二月条の白雉改元儀式が可能な規模と様式を持つ7世紀中頃の宮殿遺構がない。なぜだろう。

 このようにわたしの思考は展開(右往左往)していたのですが、四国の松山市(古田史学の会・四国の講演会)に向かう特急列車の中で、九州年号の白雉元年(652)は『日本書紀』の白雉元年(650)とは二年ずれているのだから、九州年号「白雉」改元儀式が行われたのは『日本書紀』にある650年ではなく652年。この年であれば前期難波宮はほぼ完成しているのではないかということに気づいたのです。そこで、松山駅に到着して迎えに来ていただいた合田洋一さん(「古田史学の会・四国」事務局長)にお願いして市内の大型書店に直行し、『日本書紀』を購入し「前期難波宮造営」記事の年次が652年であることを確認したのでした。その後、孝徳紀白雉元年二月条の白雉改元記事が同三年二月条から切り貼りされたものである痕跡を発見し、「白雉改元の史料批判 — 盗用された改元記事」(『古田史学会報』76号2006年10月。『「九州年号」の研究』に収録)として発表しました。
 この瞬間、わたしは「前期難波宮九州王朝副都説」の論証は成立するのではないかとの思いを強くしました。そして論理展開は更に進み、九州王朝の副都前期難波宮で行われた白雉改元儀式に近畿天皇家の孝徳(あるいはその代理者)は参列したのではないか。だからこそ白雉改元の儀式の内容を正確に把握でき、『日本書紀』孝徳紀に儀式の詳細を記載することができたと考えたのです。
 『日本書紀』によれば当時の孝徳の宮は「難波長柄豊碕宮」(大阪市北区長柄豊崎と推定)とされており、前期難波宮がある大阪市中央区法円坂とは地下鉄で5駅ほどの場所ですから、改元儀式に参列可能な距離です(通説では前期難波宮を「難波長柄豊碕宮」としていますが、地名が異なります)。
 『日本書紀』に記された九州年号「大化」「朱鳥」については改元儀式記事の記載がないことから、この二つの年号の改元儀式に近畿天皇家の天皇は参列していなかったのではないでしょうか。というのも、前期難波宮は686年に焼失しており、「朱鳥」改元はその後になされていますし、九州年号「大化」は元年が695年ですから、どちらも前期難波宮が焼失後のことで、おそらくこの二年号の改元儀式は太宰府で行われたと思われます。ですから近畿天皇家は遠く離れた太宰府での改元儀式の詳細がわからず、『日本書紀』に記載できなかったとも考えられるのです。(つづく)