古賀達也一覧

第2759話 2022/06/11

鬼ノ城西門と北魏永寧寺九重塔の造営尺

 鬼ノ城西門の造営尺27.3cm(正確には27.333cm)に極めて近い尺として、北魏洛陽の永寧寺(えいねいじ、516年創建。注①)九重塔造営尺があるとの指摘が『鬼城山』(注②)にありましたので、調べてみました。
 奈良国立文化財研究所の調査報告書(注③)によれば、永寧寺九重塔は東西101.2m、南北97.8mの堀込地業(ほりこみじぎょう)上に一辺38.2m、高さ2.2mの基壇とあります。基壇の二つの数値(38.2mと2.2m)で完数に近くなる尺は約27.3~27.4cmで、それぞれ約140尺と約8尺になります。正確に両者を完数とできる尺はありませんので、複数の尺が併用されたのかもしれません。
 古代中国の尺に27.3cmのような尺は見当たりませんので(注④)、鬼ノ城西門の造営尺が北魏永寧寺九重塔造営尺に関係するとしても、その造営時期が六世紀まで遡るとするのは無理があるように思います。たとえば、鬼ノ城第0水門流路下流から出土した木製品(方形材、加工材)の炭素年代測定により、「伐採年代をAD680年より新しい年代とは考えにくいとし、西門の築造を680年以前と推測している。」とあります(注⑤)。これは出土土器編年とも整合し、鬼ノ城築城年代を七世紀後半頃とする説を支持しています。
 なお、永寧寺は菩提達摩が訪れた寺としても有名で、そのことが『洛陽伽藍記』(注⑥)に次のように記されています。

 「時に西域の沙門で菩提達摩という者有り、波斯国(ペルシア)の胡人也。起ちて荒裔なる自り中土に来遊す。(永寧寺塔の)金盤日に荽き、光は雲表に照り、宝鐸の風を含みて天外に響出するを見て、歌を詠じて実に是れ神功なりと讚歎す。自ら年一百五十歳なりとて諸国を歴渉し、遍く周らざる靡く、而して此の寺精麗にして閻浮所にも無い也、極物・境界にも亦た未だ有らざると云えり。此の口に南無と唱え、連日合掌す。」『洛陽伽藍記』巻一

 なお、菩提達摩の年齢を「一百五十歳」とありますが、二倍年齢としても75歳ですから、当時のペルシアから中国まで来訪できる年齢とは考えにくく、信頼しにくい年齢記事です。

(注)
①北魏の孝明帝熙平元年(516年)に霊太后胡氏(宣武帝の妃)が、当時の都の洛陽城内に建立した寺。高さ「千尺」の九重塔があったと『洛陽伽藍記』にある。永寧寺の伽藍配置は日本の四天王寺の祖形とされる。
②『鬼城山 国指定史跡鬼城山環境整備事業報告』岡山県総社市文化振興財団、2011年。
③『北魏洛陽永寧寺 中国社会科学院考古研究所発掘報告』奈良国立文化財研究所、1998年。
④山田春廣氏(古田史学の会・会員、鴨川市)のブログ(sanmaoの暦歴徒然草)に掲載された「古代尺の分類図」には27.3cm尺に近い尺は見えない。山田氏に鬼ノ城西門造営尺についての調査協力を要請した。
⑤『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書236 史跡鬼城山2』岡山県教育委員会、2013年。177頁。
⑥『洛陽伽藍記』全五巻。六世紀、東魏の楊衒之の撰。


第2758話 2022/06/10

鬼ノ城の造営年代と造営尺の謎

 鬼ノ城のビジターセンターで購入した報告書『鬼城山』(注①)を何度も読んでいるのですが、従来の認識ではうまく説明できないことがいくつもありました。その一つが、鬼ノ城の造営年代と造営尺です。わたしはいわゆる神籠石山城の造営年代を多くは七世紀後半と考えてきました。その根拠を「洛中洛外日記」(注②)で次のように説明しました。一部転載します。

【以下、転載】
 古代山城研究に於いて、わたしが最も注目しているのが向井一雄さんの諸研究です。向井さんの著書『よみがえる古代山城』(注③)から関連部分を下記に要約紹介します。

(1) 1990年代に入ると史跡整備のために各地の古代山城で継続的な調査が開始され、新しい遺跡・遺構の発見も相次いだ(注④)。
(2) 鬼ノ城(岡山県総社市)の発掘調査がすすみ、築城年代や城内での活動の様子が明らかになった。土器など500余点の出土遺物は飛鳥Ⅳ~Ⅴ期(7世紀末~8世紀初頭)のもので、大野城などの築城記事より明らかに新しい年代を示している。鬼ノ城からは宝珠つまみを持った「杯G」は出土するが、古墳時代的な古い器形である「杯H」がこれまで出土したことはない。
(3) その後の調査によって、鬼ノ城以外の文献に記録のない山城からも7世紀後半~8世紀初め頃の土器が出土している。
(4) 最近の調査で、鬼ノ城以外の山城からも年代を示す資料が増加してきている。御所ヶ谷城―7世紀第4四半期の須恵器長頸壺と8世紀前半の土師器(行橋市 2006年)、鹿毛馬城―8世紀初めの須恵器水瓶、永納山城―8世紀前半の畿内系土師器と7世紀末~8世紀初頭の須恵器杯蓋などが出土している。
(5) 2010年、永納山城では三年がかりの城内遺構探索の結果、城の東南隅の比較的広い緩やかな谷奥で築造当時の遺構面が発見され、7世紀末から8世紀初めの須恵器などが出土している。
【転載終わり】

 以上の見解は今でも変わっていませんが、鬼ノ城については七世紀前半以前まで遡る可能性も考える必要がありそうです。確かに鬼ノ城から出土した土器は七世紀の第4四半期頃の須恵器杯Bが多く、その期間に鬼ノ城が機能していたことがわかります。
 他方、城内の倉庫跡の柱間距離から、その造営尺が前期難波宮(652年創建)と同じ29.2cm尺が採用されていることから、倉庫群の造営が七世紀中頃まで遡る可能性がありました。更に倉庫群よりも先に造営されたと考えられる外郭(城壁・城門など)の造営尺は更に短い27.3cmの可能性が指摘されており、時代と共に長くなるという尺の一般的変遷を重視するのであれば、外郭の造営は七世紀前半以前まで遡ると考えることもできます。
 この27.3cm尺は鬼ノ城西門の次の柱間距離から導き出されたものです。
 「(西門の)柱間寸法は桁行・梁間とも4.1mが基準とみられ、前面(外側)の中柱二本のみ両端柱筋より0.55m後退している(棟通り柱筋との寸法3.55m)。」『鬼城山』211頁
 この4.1mと3.55mに完数となる一尺の長さを計算すると、27.3cmが得られ、それぞれ15尺と13尺となります。その他の尺では両寸法に完数が得られません。この短い27.3cm尺について『鬼城山』では、北魏の永寧寺九重塔(516年)の使用尺に極めて近いとしています。今のところ、27.3cm尺がいつの時代のものか判断できませんが、鬼ノ城外郭の造営は七世紀前半か場合によっては六世紀まで遡るのかもしれません。(つづく)

(注)
①『鬼城山 国指定史跡鬼城山環境整備事業報告』岡山県総社市文化振興財団、2011年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2609話(2021/11/05)〝古代山城発掘調査による造営年代〟
③向井一雄『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』吉川弘文館、2017年。
④播磨城山城(1987年)、屋島城南嶺石塁(1998年)、阿志岐山城(1999年)、唐原山城(1999年)など。


第2757話 2022/06/09

「古田史学の会・入会案内」の作成について

 残念ながら、コロナ禍や会員の高齢化、そして古田史学の新規読者獲得が困難な状況(書店や読書人口の減少)もあって、「古田史学の会」の会員数の減少が続いています。関西各地での講演会活動、ホームページでのYouTube配信など様々な事業を進めていますが、新たに「古田史学の会・入会案内」を作成することにしました。
 同「入会案内」にはゆうちょ銀行の払込用紙も掲載し、それを切り離して、入会申し込みを兼ねて会費入金ができるようにします。既に久冨直子さん(『古代に真実を求めて』編集部、京都市)にレイアウトを作成していただき、会計担当の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)に印刷経費見積を取っていただきました。最終的にはゆうちょ銀行の認証を経て、「古田史学の会」役員会で決裁する運びです。
 会員の皆様には会員拡大にご協力いただきますよう、お願い申し上げます。「古田史学の会」の創立目的である「古田史学を世に広め、後世に伝える」ため、これからもわたしたちは鋭意努力してまいります。


第2756話 2022/06/08

鬼ノ城の列石と積石遺構

 今回の鬼ノ城訪問と『鬼城山』(注①)の読書により、わたしの認識は大きく改まりました。そのことについて紹介します。
 古代山城には朝鮮式山城と神籠石山城とに分けられることが多く、『日本書紀』などに記されているものを朝鮮式山城、文献に見えない山城を神籠石山城とする区別が一般的になりました。また、その特徴から、一段列石が山を取り囲むタイプを神籠石山城、積石で囲むタイプを朝鮮式山城とする場合もありました。近年ではより学術的な呼称として、『日本書紀』天智紀に見える山城を「天智期の古代山城」とする表記も目立ってきました。また、「○○神籠石」をやめて、「○○山城」というように、「山名・地名」+「城」という表記にすべきとする意見も出されています。例えば「阿志岐城」(筑紫野市)のように、旧称の「宮地岳古代山城」に替えて、「地名」+「城」に変更した例もあります(注②)。
 文献に見えない場合は、この表記方法(「山名・地名」+「城」)がよいように思いますが、「鬼ノ城」(きのじょう)のような著名な通称もありますので、とりあえず「鬼ノ城」という表記をわたしは使用しています。他方、行政的な山名は「鬼城山」(きのじょうざん)とされており、遺跡名は「史跡鬼城山」と表記されています。
 これまで、鬼ノ城は一段列石(神籠石タイプ)と積石(朝鮮式山城)の両者が混在したタイプとわたしは認識していたのですが、今回の訪問により、それほど単純なものではないことを知りました。鬼ノ城は一段列石であれ、積石であれ、その上部に版築土塁が築かれています。これらの防塁・防壁(高さ5~6m)により、鬼ノ城は強力な防御施設になっているのです。(つづく)

(注)
①『鬼城山 国指定史跡鬼城山環境整備事業報告』岡山県総社市文化振興財団、2011年。
②『阿志岐城跡 阿志岐城跡確認調査報告書(旧称 宮地岳古代山城跡) 筑紫野市文化財調査報告書第92集』筑紫野市教育委員会、2008年。


第2755話 2022/06/07

鬼ノ城を初訪問

 先月、四国ドライブの帰途に、念願だった鬼ノ城(岡山県総社市)を初訪問しました。期待に違わず、九州の大野城や基肄城に並ぶ見事な巨大山城でした。山頂にある鬼ノ城遺跡近くまで道路が舗装されており、クルマで行けたのは有難いことでした。道幅が狭く、対向車があれば離合が難しい所が何カ所もありましたが、幸いにも、すれ違ったのは一台だけで、なんとか無事に往復できました。トヨタのハイブリッドカー、アクア(1500cc)をレンタルしたのですが、車種的にはこのくらいのサイズまでがよいと思います。
 鬼城山上には駐車場と鬼城山ビジターセンターがあり、その展示室は必見です。ガイドブックや報告書も販売されており、中でも『鬼城山』(注①)は研究者には特にお勧めです。拙稿「古代山城研究の最前線 ―前期難波宮と鬼ノ城の設計尺―」(注②)などで紹介した『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書236 史跡鬼城山2』(注③)はweb上で閲覧できますので、こちらと併せて読むことにより、鬼ノ城への理解が深まります。(つづく)

(注)
①『鬼城山 国指定史跡鬼城山環境整備事業報告』岡山県総社市文化振興財団、2011年。
②古賀達也「古代山城研究の最前線 ―前期難波宮と鬼ノ城の設計尺―」『東京古田会ニュース』202号、2022年。
 同「洛中洛外日記」2612話(2021/11/11)〝鬼ノ城、礎石建物造営尺の不思議〟
 同「洛中洛外日記」2613話(2021/11/12)〝鬼ノ城、廃絶時期の真実〟
③『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書236 史跡鬼城山2』岡山県教育委員会、2013年。


第2754話 2022/06/04

倭京・難波京・藤原京の研究動向

 「多元の会」でのリモート発表について、同会の和田事務局長から「倭京」に関するテーマを要請されています。すでに同テーマの論稿を執筆済みですので、それを『多元』に発表してからリモートで解説できればと思います。また、同稿は九州王朝説の立場からのものなので、それとは別に通説(一元史観)の研究動向についても紹介したいと考えています。
 近年の「古田史学の会」関西例会論客の主たる関心は、前期難波宮から藤原京へ移っていると感じていますが、通説でも藤原京をテーマとした示唆に富んだ論文が発表されています。いずれも一元史観に基づくものですが、王朝交替の舞台でもある藤原京の時代ですから、問題意識や仮説の方向性が近づいています。古田学派の研究者にも一読をお勧めします。

○寺崎保広・小澤毅「内裏地区の調査―第100次」『奈良国立文化財研究所年報』2000年-Ⅱ、2000年。
○林部 均「藤原京の条坊施工年代再論」『国立歴史民俗博物館研究報告』第160集、2010年。
○重見 泰「新城の造営計画と藤原京の造営」『奈良県立橿原考古学研究所紀要 考古学論攷』第40冊、2017年。


第2753話 2022/06/03

「多元の会」リモート発表会を終えて

 今朝は「多元の会」でリモート発表させていただきました。テーマは〝筑紫なる倭京「太宰府」 ―九州王朝の両京制《倭京と難波京》―〟で、主に前期難波宮九州王朝複都説に至った理由と、九州王朝(倭国)が採用した倭京と難波京の両京制において、太宰府(倭京)が権威の都であることを中心に解説しました。
 ご質問やご批判もいただけ、新たな問題点の発見や認識を深めることができました。いただいた質問に対しては次のように回答しましたので、一部を紹介します。

《質問》前期難波宮を九州王朝の都とするのであれば、七世紀頃の支配範囲はどのようなものか。
《回答》九州王朝が前期難波宮で評制支配を行った範囲は、出土した「評」木簡の範囲により判断できる。

《質問》七世紀に九州王朝が存在した史料根拠は『旧唐書』以外に何があるのか。
《回答》六世紀から七世紀にかけて九州年号がある。年号は代表王朝の天子のみが発布できるものである。

《質問》天武十二年条の複都詔を34年前とするのではなく、『日本書紀』にあるように天武によるものとすべきではないか。
《回答》わたしもそのように考えてきたが、複都詔は34年前の649年に九州王朝が出した前期難波宮造営の詔勅とすれば、九州年号の白雉元年(652年)に完成した前期難波宮に時期的に整合する。従って正木説(34年遡り説)が有力と考えている。
 ※この点については「洛中洛外日記」1986話(2019/09/10)〝天武紀「複都詔」の考古学〟や『多元』160号(2020年)の拙稿「天武紀『複都詔』の考古学的批判」で詳述しているので参照されたい。


第2752話 2022/06/01

『東京古田会ニュース』No.204の紹介

 一昨日、『東京古田会ニュース』204号が届きました。拙稿「『歎異抄』と『古事記』の悪人」を掲載していただきました。拙稿では河田光夫さんの『親鸞と被差別民衆』(明石書店、1994年)に記された、親鸞の時代に「悪人」と呼ばれていたのは被差別民とする説を紹介しました。あわせて、『古事記』に見える「悪人」は、蝦夷や大和朝廷の敵対勢力であることも説明しました。「洛中洛外日記」でも紹介したところです(注①)。
 同号には注目すべき記事が掲載されていました。それは同会々長の田中巌さんの「会長独言」と泉英毅さん(渋谷区)の「メディアの見識」です。奈良新聞に大きく掲載された正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の講演記事「『邪馬壹国九州説』有力」(注②)を両氏は高く評価されています。同記事掲載の背景には、講師の正木さんをはじめ古代大和史研究会(原幸子代表)や竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)のご尽力があります。同時に、奈良県民が持つ歴史に対する深い知識や興味も反映していると思います。ちなみに、わたしが「市民の古代研究会」事務局長のときに都道府県別の会員数比率を調査したところ、奈良県が最も高い数値を示していました。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2584話(2021/09/30)〝親鸞『歎異抄』の「悪人」とは何か〟
 同「洛中洛外日記」2585話(2021/10/01)〝『親鸞と被差別民衆』の人間模様 ―河田光夫氏と古田先生、藤田友治さん―〟
 同「洛中洛外日記」2586話(2021/10/02)〝『古事記』の中の「悪人」〟
②同「洛中洛外日記」2651話(2021/12/29)〝奈良新聞に「邪馬壹国九州説」有力の記事〟


第2751話 2022/05/31

多元的古代研究会で研究発表します

 友好団体の多元的古代研究会の月例会などにリモート参加させていただき、勉強していますが、同会の和田事務局長から研究発表のご依頼をいただきました。日時とテーマは次の通りです。ご批判やご質問をよろしくお願いします。

○6月3日(金) 午前10時~11時30分 《リモート勉強会》
 【テーマ】筑紫なる倭京「太宰府」 ―九州王朝の両京制《倭京と難波京》―
○7月10日(日) 午後1時~4時 《多元の会月例会》
 【テーマ】考古学はなぜ「邪馬台国」を見失ったのか


第2750話 2022/05/30

「宇曽利(ウソリ)」地名の古さについて

 和田家文書に見える「宇曽利」地名が沿海州のウスリー川(中国語表記は「烏蘇里江」)と語源が共通するのではないかと、「洛中洛外日記」(注①)で推測しました。WEB辞書などにはウソリをアイヌ語とする説(注②)が紹介されていますが、わたしはもっと古く、縄文語かそれ以前の言葉に由来するのではないかと考えています。
 古田先生が提唱された言素論で「ウソリ」を分析すると、語幹の「ウ」+古い神名の「ソ」、そして一定領域を示す「リ」から成っているように思われます。語幹の「ウ」の意味については未詳ですが、「ソ」が古層の神名であることについて「洛中洛外日記」などで論じてきました(注③)。「リ」は現代でも「里」という字で使用されています。弥生の環濠集落で有名な「吉野ヶ里」はもとより、「石狩」「香取」「白鳥」「光」などの地名末尾の「リ」もたぶんそうでしょう。
 これらのことから、神様を「ソ」と呼んだ古い時代にウソリという地名が成立したと考えられます。他方、宇曽利の類似地名「加曽利(カソリ)」が現存しています(千葉県千葉市)。縄文貝塚で有名な加曽利貝塚があるところです。現時点の考察では断定できませんが、初歩的な仮説としては成立しているように思いますが、いかがでしょうか。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2738話(2022/05/09)〝ウスリー川と和田家文書の宇曽利〟
 同「洛中洛外日記」2748話(2022/05/28)〝菊地栄吾さん(古田史学の会・仙台)から「ウスリー湾」の紹介〟
②ウソリはアイヌ語ウショロ(窪地・入り江・湾)に由来するとする。
③古賀達也「洛中洛外日記」40~45話(2005/10/29~11/09)〝古層の神名〟
 同「『言素論』研究のすすめ」『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)古田史学の会編、明石書店、2016年。


第2749話 2022/05/29

源平合戦の地、屋島を訪問

 先週、三年ぶりに四国方面をドライブしました。在職中は年に二~三度は出張で訪れていましたが、それ以来のことです。明石大橋から淡路島経由で高松市まで行き、お昼過ぎには屋島山頂に到着しました。十年ほど前にも来たことがあるのですが、当時の山上はお土産物店や水族館もあり賑わっていました。今では全て閉店して寂れていました。仕方がないので屋島寺(四国八十四番札所)を参詣し、山上から源平合戦の地とされる入り江を遠望しました。NHK大河ドラマの〝鎌倉殿の13人〟ではなぜか屋島合戦の名場面がスルーされており、高松市民にとっては残念なことだったと思います。
 夜は西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)と会い、久しぶりに二人で痛飲しました。話題は多岐にわたりましたが、二十年来の付き合いということもあり、「古田史学の会」の将来構想や後継者の育成について話し合いました。西村さんはコロナ騒動で関西例会にはリモート参加(司会進行担当)されているのですが、たまには大阪まで来て欲しいとお願いしました。
 翌日は瀬戸中央大橋から岡山県に渡り、総社市の鬼ノ城遺跡を初訪問しました。(つづく)


第2748話 2022/05/28

菊地栄吾さん(古田史学の会・仙台)から

  「ウスリー湾」の紹介

 多元的古代研究会の5月例会にリモート参加させていただいたとき、沿海州のウスリー川と和田家文書に見える地名の宇曽利(下北半島)との関係について質問したことを「洛中洛外日記」2738話(2022/05/09)〝ウスリー川と和田家文書の宇曽利〟で紹介しました。
 同様の質問を東京古田会主催の和田家文書研究会でもリモートで質問したのですが、菊地栄吾さん(古田史学の会・仙台)からメールが届き、ウラジオストクがある湾がウスリー湾と呼ばれているとのことでした。メールの一部を転載し、紹介させていただきます。菊地さんのご教示に感謝します。

【菊地栄吾さんからのメール】
 (前略)先日の和田家文書研究会で、「宇曽利」と「ウスリー」について話題・疑問を出されておられましたが、その時には発言しませんでしたので改めてお話します。
 アイヌ語では「ウソリ」は「ふところ」「湾」「入り江」を意味します。「湾」とは陸奥湾のことで、下北半島全体を「宇曽利郷」と言ったようです。
 一方、ウラジオストクの在る所の湾は現在は「ピョートル大帝湾」となつていますが元々は「ウスリー湾」でした。そしてこの辺一帯を古くから「ウスリー」と呼んでおり近くには「ウスリースク」という都市があります。ーウスリー川」はウスリー地域から流れ出る川であることから名付けられた様です。(中略)
 コロナでは、家に籠りがちとなりますが、歴史の勉強が唯一の老後の楽しみになります。今後とも、楽しく勉強できる古田史学をご指導くださるようお願いします。
 古田史学の会・仙台 菊地栄吾

 菊地さんのメールを読んで、わたしもウィキペディアで調べたところ、ピョートル大帝湾の東部分がウスリー湾と説明されていました。次の通りです。

【ウィキペディアから一部転載】
 ピョートル大帝湾(ピョートルたいていわん;ロシア語:Залив Петра Великого ザリーフ・ピトラー・ヴィリーカヴァ)は、日本海最大の湾。日本海の北西部、ロシア沿海地方の南部に位置する。湾の奥行きは80km、入口の幅は200kmほどで、中央のムラヴィヨフ半島とルースキー島などの島々が湾を東西(東のウスリー湾および西のアムール湾)に分けている。極東ロシアの港湾都市ウラジオストクはムラヴィヨフ半島の先端のアムール湾側(西側)にある。湾に注ぐ最大の河川は、中華人民共和国の黒竜江省から流れる綏芬河で、アムール湾の奥に河口と三角州がある。