古賀達也一覧

第2843話 2022/09/24

九州王朝説に三本の矢を放った人々(3)

 「九州王朝説に刺さった三本の矢」の《二の矢》(注①)を強く意識したのは、駒澤大学仏教学部名誉教授の石井公成さんのブログ「聖徳太子研究の最前線」を拝見したことによります。同ブログには聖徳太子研究に関する幅広い知見が記されており、多元史観ではないものの勉強になりました。これまでも「洛中洛外日記」で紹介したことがありました(注②)。
 6~7世紀、九州王朝で仏教が崇敬されていたことは、『隋書』に記された多利思北孤の記事や、九州年号に仏教色の強い漢字(僧要・僧聴・和僧・法清・仁王、他)が用いられていることからもうかがえます。したがって、九州王朝説が正しければ、日本列島を代表する九州王朝の中心領域である北部九州に仏教寺院などの痕跡が日本列島中最密であるはずです。ところが考古学的出土事実は〝6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿〟なのです。これを九州王朝説に突き刺さった《二の矢》としたのですが、わたしがこの問題の深刻性にはっきりと気づいたのが、石井さんのブログ中のやりとりで、九州王朝説支持者からの批判に対して、この《二の矢》の考古学的事実をもって反論されている記事を読んだときでした(注③)。
 この九州王朝説反対論に対する九州王朝説側からの有効な再反論をわたしはまだ知りません。(つづく)

(注)
①《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
②古賀達也「洛中洛外日記」465話(2012/09/10)〝中国にあった聖徳太子書写『維摩経疏』〟
 同「洛中洛外日記」471話(2012/09/23)〝韓昇「聖徳太子写経真偽考」を拝読〟
 同「洛中洛外日記」476話(2012/10/01)〝「三経義疏」国内撰述説〟
 同「洛中洛外日記」477話(2012/10/02)〝「三経義疏」九州王朝撰述説〟
③同「洛中洛外日記」1223話(2016/07/07)〝九州王朝説に突き刺さった三本の矢(3)〟で紹介した。


第2842話 2022/09/23

九州王朝説に三本の矢を放った人々(2)

 わたしには、「九州王朝説に刺さった三本の矢」(注①)の存在をはっきりと意識した瞬間やきっかけがありました。たとえば《一の矢》については、ある科学者との対話がきっかけでした。その科学者とは年輪セルロース酸素同位体比年代測定法の開発者、中塚武さんです。
 2016年9月9日、わたしは服部静尚さんと二人で、京都市北区にある総合地球環境学研究所(地球研)を訪問し、中塚武さんにお会いしました。中塚さんは年輪セルロース酸素同位体比年代測定法を用いて、前期難波宮出土木柱の年輪が7世紀前半のものであることや平城京出土木柱の伐採年が709年であったことなどを明らかにされ、当時、もっとも注目されていた研究者のお一人でした。
 2時間にわたり、中塚さんと意見交換したのですが、理系の研究者らしく、論点がシャープで、九州王朝存在の考古学的事実の根拠や説明を求められました。たとえば、巨大古墳が北部九州よりも近畿に多いことの説明や、7世紀の北部九州に日本列島の代表者であることを証明できる考古学的出土事実の説明を求められました。これこそ、「九州王朝説に刺さった《一の矢》」に相当するものでした。中塚さんは、考古学的実証力(金属器などの出土事実)を持つ邪馬壹国・博多湾岸説には理解を示されたのですが、九州王朝説の説明には納得されなかったのです。
 巨大前方後円墳分布などの考古学事実(実証)を重視するその中塚さんからは、繰り返しエビデンス(実証データ)の提示を求められました。そして、わたしからの文献史学による九州王朝実在の説明(論証)に対して、中塚さんが放たれた次の言葉は衝撃的でした。

 「それは主観的な文献解釈に過ぎず、根拠にはならない。古賀さんも理系の人間なら客観的エビデンスを示せ。」

 中塚さんは理由もなく一元史観に固執する人ではなく、むしろ論理的でシャープなタイプの世界的業績を持つ科学者です。その彼を理詰めで説得するためにも、戦後実証史学で武装した大和朝廷一元史観との「他流試合」に勝てる、史料根拠に基づく強力な論証を構築しなければならないと、このとき強く思いました。(つづく)

(注)
①《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
 《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
 《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。
②酸素原子には重量の異なる3種類の「安定同位体」がある。木材のセルロース(繊維)中の酸素同位体の比率は、樹木が育った時期の気候が好天だと重い原子、雨が多いと軽い原子の比率が高まる。この酸素同位体比は樹木の枯死後も変わらず、年輪ごとの比率を調べれば過去の気候変動パターンが分かる。これを、あらかじめ年代が判明している気温の変動パターンと照合し、伐採年代を1年単位で確定できる。この方法は年輪年代測定のように特定の樹種に限定されず、原理的には年輪がある全ての樹木の年代測定が可能となる。


第2841話 2022/09/22

九州王朝説に三本の矢を放った人々(1)

 古田史学・多元史観、なかでも九州王朝説に対する強力な実証的批判を「九州王朝説に刺さった三本の矢」と名付けて、「洛中洛外日記」を初め諸論文で解説してきました(注①)。「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」とは次の三つの考古学的出土事実のことです。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 《一の矢》については古田先生からの反論がなされており、その要旨は〝朝鮮半島へ出兵していた九州王朝に巨大古墳を造営できる余裕はなく、むしろ畿内の巨大古墳は当地の権力者(近畿天皇家)は朝鮮半島に出兵していた倭国ではないことの証拠である。〟というものでした。また、古田説支持者のなかからは「巨大古墳だから列島の代表王朝の墳墓だとは言えない」という意見もありました。
 しかし、わたしはこの主張では、九州王朝説支持者には納得してもらえても、通説支持者を説得できないと考えていました。列島内最大規模の古墳群を造営できる権力者は、それを可能とできる生産力や権威・権力を有していたと考えるのは、決して無茶なものではなく、むしろ合理的な理解だからです。また、ヤマト王権の命令で九州の豪族を朝鮮半島へ派兵したとする通説も解釈上成り立ち、否定しにくいと思います。
 《二の矢》については、九州王朝の都があった北部九州(筑前・筑後)には廃寺跡が多く、それらが九州王朝による古代寺院群とする意見もありました。しかし、畿内や近畿にも多くの廃寺跡があり、単純比較ではやはり畿内・近畿が古代寺院の最密集地とする通説は揺るぎそうにありません。
 《三の矢》に至っては、わたしが問題視するまでは古田学派内で注目もされてきませんでした。古田先生も前期難波宮を「『日本書紀』に記載されていない天武の宮殿ではないか」とする理解にとどまっておられました。それに沿った論稿も九州王朝説支持者から発表されてきました(注②)。
 この三本の矢は多元史観・九州王朝説にとって避けがたい〝弱点〟を突いており、戦後実証史学(大和朝廷一元史観)を支える強力な考古学的根拠と考え、わたしは古田学派内に警鐘を打ち鳴らしてきました。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1221~1254話(2016/07/03~08/14)〝九州王朝説に刺さった三本の矢(1)~(15)〟
 同「九州王朝説に刺さった三本の矢」『古田史学会報』135136137号。2016年。
②大下隆司「古代大阪湾の新しい地図 難波(津)は上町台地になかった」「古田史学会報」107号、2011年。


第2840話 2022/09/21

「泛科学」の日本語訳と小さな日台親善

 「洛中洛外日記」2830話(2022/09/08)〝中国での「夏商周断代工程」批判〟で、張富祥氏の中国語論文「『夏商周断代工程』の間違い」(注①)を紹介し、わたしの下手な日本語訳を掲載したのですが、その中の「泛科学的」の適切な日本語訳がどうしてもわからないので、「中国語が堪能な方の助言をいただければ幸い」と記しました。そうしたところ、知人から台湾人のエルさんをご紹介いただき、本日、お会いすることができました。エルさんは日本語に堪能で日本文学の研究者です。
 昼食をご一緒しながら、学問研究以外にも話題は多岐にわたり、台湾がコロナワクチンを海外から買えなくて困っていたとき、日本の安倍内閣が素早く送ってくれたこと、輸出できなくなった台湾産パイナップルを日本が買ってくれたことに深く感謝していると言っておられました。わたしからも、東北大震災の時、台湾の人々から多額の義援金をいただいたことが忘れ難いと、お礼を述べました。
 そして、張富祥氏の論文を見せて、「泛科学的」の適切な日本語訳を教えてほしいとお願いしたところ、ネガティブな意味で使用するが、「非科学的」や「反科学的」というほどではなく、そのまま当てはまる日本語が思い浮かばないとのこと。また、わたしが翻訳で使用した「汎科学的」(広義の科学の)という訳は不適切であり、とりあえず「泛科学的」と原文のまま引用し、「泛」の字義を注釈するのが良いのではないかとアドバイスをいただきました。
 そこで、「泛科学」の意味を具体的に教えてほしいとお願いすると、「一般の人が不正確に認識している科学」「表面的な理解にとどまっている科学」というニュアンスで、「非科学的」「反科学的」のように「間違った科学」とまでは言えないということでした。確かに張富祥氏の論文もそのような意味で使用されているようですので、この説明に納得できました。
 エルさんからも、日本古典(注②)の古い言葉が中国語にないケースがあり、翻訳に困っているとのことでした。その反面、現代中国語では失われた漢字の意味が日本語に遺っており、研究に役立つとも言われていました。わたしもこの意見に賛成で、『三国志』倭人伝の倭国地名がほぼ当時のままで現代日本に遺っているケースがあり、漢字の意味だけではなく、三世紀以前の漢字の音韻復元にも使用できることを説明しました。
 エルさんとは三時間ほど会談し、学問研究と日台親善を深めることができました。〝朋有り、遠方より来る、亦楽しからずや〟(注③)の一日でした。

(注)
①張富祥(Zhang Fuxiang)「『夏商周断代工程』の間違い」『捜狐』デジタル版、2019年4月1日。
https://www.sohu.com/a/305083439_523187
②かぐや姫(竹取物語)などを日本語研究の史料として使用したいが、中国語に適切な訳語がない言葉もあり、大変だとのこと。
③『論語』学而編より。エル氏によれば、『三国志』や『旧唐書』は漢字の意味が異なり、現代中国語では読めないが、台湾では『論語』の授業があるため、『論語』なら読めるとのことであった。


第2839話 2022/09/18

「ヒトの寿命」は38歳、DNA研究で判明

 古代文献に見える長寿記事(90~120歳)を二倍年暦の痕跡とする論文を多数発表してきましたが、対象は西洋や東洋の古典に及びましたので、英文論文として発表するよう古田先生から勧められました。それで書いたのが“A study on the long lives described in the crassics”です。「古田史学の会」ホームページ「新・古代学の扉」収録の“Phoenix -Goddess of truth never dies-”(2007年)に掲載されていますので、ご覧いただければ幸いです(注①)。
 こうした研究によるまでもなく、古代人の寿命は短く、文明の発展により食糧事情が改善され医学も進歩し、寿命が延びたことは明らかです。最新の研究では動物の寿命を決めるDNAのメカニズムが解明され、ヒトの「自然な」寿命が38歳であることが判明したそうです。この情報を茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)から教えていただきました。この科学研究の成果は二倍年暦の傍証になるのではないかとのことでした。
 同記事を要約して転載します(注②)。それにしても科学は生命メカニズムについて、ここまで解き明かしつつあるのかと、驚きました。

【以下、要約して転載】
 生物の老化と寿命は生物学の重要なテーマだが、寿命の長さを決める特定遺伝子は見つかっていない。最近、オーストラリアの研究チームがDNAメチル化という現象を用いて生物の寿命を推定する方法を開発した。その計算法によって、人間の自然な寿命はわずか38年という結果が出た。学術ニュースサイトThe Conversationが報じた。
 生物の寿命は野生動物保護や漁業資源管理に必要な情報だが、ある生物種が何歳まで生きられるのかを調べることは難しい。それを調べるためには長期間にわたる観察が必要で、ほとんどの推定値は飼育された少数の個体データから出されている。
 この問題を解くカギとして、オーストラリア連邦科学産業研究機構(CSIRO、注③)の研究者らは、DNAメチル化という現象に着目した。これはDNAの一部にメチル基が付加される現象で、遺伝子の発現を調整する役割を担い、発生から発ガンまで幅広く関わっている。
 研究者らは脊椎動物種の252のゲノムデータを収集し、既知の生物の寿命データと比較・分析を行った。すると、42個の遺伝子でDNAメチル化が起こる場所を調べることにより、寿命を推定できることが分かった。現存する脊椎動物の中で最も長生きとされるホッキョククジラの場合、推定寿命は268年。現在までに確認されているホッキョククジラの最高齢は211歳で、この個体はさらに長生きする可能性がある。
 絶滅したヒト属の寿命も推定された。ネアンデルタール人とデニソワ人の最大寿命は37.8年であった。この手法での人間の推定寿命も38.0年で、絶滅した親戚たちとほぼ同じだ。有史以前の寿命は20~30年と考えられており、人間が自然に生きられる時間は長くても40年程度とDNAにも定められていたのだ。

(注)
①論文英訳については中嶋峯雄先生(1936~2013年。国際教養大学初代理事長・学長)のご助力を賜った。記して感謝したい。
Koga Tatsuya“A study on the long lives described in the crassics”
http://www.furutasigaku.jp/epdf/phoenix1.pdf
②「人間の本来の寿命は38年だった!DNA情報で判明、30代で体力がガクッと落ちる理由確定、40代以降は全員ゾンビ!」TOCANA、2019.12.16。
https://tocana.jp/2019/12/post_131817_entry.html
③わたしが化学会社に勤務していたとき、来日したCSIROの研究者と会話する機会があった(愛知県一宮市のIWS日本支社にて)。オーストラリアなまりの彼の英語と日本語なまりのわたし下手な英語で、対話がほとんど成立しなかった情けない記憶がある。


第2838話 2022/09/17

九州年号関連研究三件の発表

 本日はドーンセンター(大阪市中央区)で「古田史学の会」関西例会が開催されました。来月の関西例会もドーンセンターで開催します(参加費1,000円)。
 今回の例会では、珍しいことに九州年号関連の研究が三件発表されました。特に興味深く拝聴したのが、萩野さんの発表で、白雉開元の儀式が行われたのは前期難波宮ではなく、太宰府とするものでした。古田先生がご健在の時、先生(太宰府説)とわたし(前期難波宮説)とで厳しく論争したテーマでしたので、当時のことを思い出し、懐かしい気分になりました。このときのことを拙稿「古田先生との論争的対話 ―『都城論』の論理構造―」(『古田史学会報』147号、2018年)で紹介していますので、ご参照ください。
 正木さんからは九州年号の訓みについての試案が発表されました。基本的には日本呉音と思われるが、途中から日本漢音に変化した可能性についても言及されました。難しいテーマなので例会参加者を交えて検討が行われました。従来「ぜんき」と訓まれていた善記は、日本呉音では「ぜんこ」になり、白雉・白鳳は「びゃくち」「びゃくほう」、大化に至っては「たいけ」になるとのことで、ちょっと驚きました。『古代に真実を求めて』26集に大原重雄さん作成の「九州年号年表」を掲載しますので、そこに九州年号の訓みが付記される予定です。
 9月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

 なお、例会後の懇親会では、関西例会のリモート参加について役員とネット配信担当者とで検討を続けました。希望される「古田史学の会」会員に参加登録費(初回のみ)をお支払いいただいて、関西例会へのリモート参加を認める方向で話しがまとまりました。これから、具体的な検討に入ります。

〔9月度関西例会の内容〕
①日本書紀に出現する九州年号の成立に関する作業仮説(茨木市・満田正賢)
②白雉開元式は本拠地で(東大阪市・萩野秀公)
③神代七代の神(三)(大阪市・西井健一郎)
④『漢書』地理志・「倭人」項の臣瓚注について(神戸市・谷本 茂)
⑤『隋書』俀国伝の「此後遂絶」の解釈(京都市・岡下英男)
⑥装飾古墳絵画の馬に乗る小さな子(大山崎町・大原重雄)
⑦倭国にあった二つの王家 ―海幸山幸説話―(八尾市・服部静尚)
⑧不改常典とは(八尾市・服部静尚)
⑨九州年号の訓み(川西市・正木 裕)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(三密回避に大部屋使用の場合は1,000円)
 10/15(土) 会場:ドーンセンター(大阪市中央区)
 11/19(土) 会場:エル大阪(大阪市中央区)
12/17(土) 会場:エル大阪(大阪市中央区)


第2837話 2022/09/15

養老五年「下総国戸籍」の高齢結婚

 古代戸籍研究では九世紀の戸籍は偽籍という概念により、疑問点を説明しているようですが、大宝二年籍を初めとする八世紀の戸籍については、多くの高齢出産など、そのまま歴史事実として受け入れる論者が少なくないように思います。先に紹介した松尾光「大宝二年西海道戸籍にみるいわゆる高齢出産の年齢」もその一例です。他方、そのまま信じることができないとする論者に田中禎昭さん(専修大学)がおられます。氏の論文「編戸形態にみる年齢秩序―半布里戸籍と大嶋郷戸籍の比較から―」(注①)がその好例です。
 同論文を正木裕さんから紹介いただいたのですが(注②)、とても重要な先行研究が紹介されており、勉強になりました。重要な部分を転載して解説します。

〝大嶋郷戸籍では20歳以下の女性には配偶者・親世代尊属呼称者が1例も見えず,20歳代の女性でも同年代のわずか4.2%程度の割合でしか存在しない。つまり,「妻」「妾」の多数は41歳以上で,彼女たちが41歳以上の戸主に同籍されているという関係が見られるのである。
 では,こうした戸主の配偶関係に見られる特徴は,当時の婚姻・家族の実態を反映したものといえるのだろうか。
 もし仮に,これを8世紀初頭における実態とみるならば,当時は41歳以上の高齢結婚が中心で,40歳以下の結婚が少なかったということにもなりかねない。しかし,以下に述べる点から,こうした戸籍から婚姻・家族の実態を想定する考え方が誤っているのは明らかである。〟

 大嶋郷戸籍とは養老五年(721年)「下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」のことですが、同戸籍に見える晩婚夫婦(高齢結婚)の多さに着目され、「こうした戸籍から婚姻・家族の実態を想定する考え方が誤っているのは明らか」と断定されています。すなわち、戸籍が示す〝史料事実〟は当時の婚姻・家族の実態〝歴史事実〟とは異なるとされています。その理由として次の諸説を紹介しています。

〝人口統計学の方法を古代戸籍研究に適用した W.W.ファリスや今津勝紀は,7~8世紀当時,平均寿命(出生時平均余命)は約30年,また5歳以上の平均死亡年齢は約40年であった事実を明らかにした。また服藤早苗は,古代には40歳から「老人」とする観念があったことを指摘している。
 したがって,男性が41歳を超えてからはじめて年長の配偶者を持つとするならば,当時の平均死亡年齢を超えた男女「老人」世代に婚姻と新世帯形成のピークを認めることになってしまう。
 しかし現実には,すでに明らかにされているように,7~9世紀頃における古代女性の実態的な婚姻年齢は8歳以上か13歳以上という若年であった。
 それだけでなく,近年,坂江渉は古代の歌垣史料の検討から,婚姻適齢期に達した女性すべてに結婚を奨励する「皆婚」規範が存在した事実を明らかにしている。したがって,老年結婚の普遍性を示すように見える戸籍上の現象は,若年結婚が多かった当時の婚姻の実態とはまったくかけ離れていることがわかる。〟

 W.W.ファリスや今津勝紀氏の人口統計学の研究や、古代には40歳から「老人」とする観念があったとする服藤早苗氏の研究を紹介され、「老年結婚の普遍性を示すように見える戸籍上の現象は,若年結婚が多かった当時の婚姻の実態とはまったくかけ離れている」と結論されました。
 二倍年暦の概念をおそらくご存じないため、田中禎昭さんは従来の古代戸籍研究と同様に、戸籍記載年齢をそのまま採用して論究されています。やはり、古代戸籍の〝史料事実〟をそのまま〝歴史事実〟とは見なすのではなく、二倍年暦説により実際の年齢に復元(補正)するという作業(注③)が必要と思います。

(注)
①田中禎昭(たなか・よしあき)「編戸形態にみる年齢秩序―半布里戸籍と大嶋郷戸籍の比較から―」『専修人文論集』99号、2016年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2199話(2020/08/08)〝田中禎昭さんの古代戸籍研究〟
③古代戸籍の年齢を次の補正式により復元する試案をわたしは〝古田武彦記念古代史セミナー2020〟で提唱した。詳細は次の拙論を参照されたい。
 古賀達也「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」『古田武彦記念古代史セミナー2020 予稿集』大学セミナーハウス、2020年。
https://iush.jp/uploads/files/20201126153614.pdf

【大宝二年籍の補正式】※戸籍年齢33歳以上が対象。
 (「大宝二年籍」年齢-33)÷2+33歳=一倍年暦による実年齢

【養老五年籍の補正式】※戸籍年齢52歳以上が対象。
 (「養老五年籍」年齢-52)÷2+52歳=一倍年暦による実年齢


第2836話 2022/09/14

大宝二年「西海道戸籍」の高齢出産記事

 大宝二年(702年)「御野国戸籍」に高齢者や高齢出産が多いことを紹介しましたが、大宝二年「西海道戸籍」(注①)にも高齢出産記事が少なくないことが知られています。松尾光「大宝二年西海道戸籍にみるいわゆる高齢出産の年齢」(注②)には、大宝二年西海道戸籍に記載された67戸(1125人)中、40歳以上の女性による高齢出産の31戸の全例が紹介されています。それらの母親の名前と出産年齢は次の通りです。番号は論文で戸毎に付されたものです。

【大宝二年「西海道戸籍」の高齢出産】

〔筑前国嶋郡川邊里〕
(1) 卜部 甫西豆売 42歳
(2) 卜部 夜夫志売 42歳・45歳
(3) 中臣部 與利売 42歳・52歳
  吉備部 岐多奈売 42歳・45歳
(4) 建部 稲津売 48歳
(5) 卜部 宮津売 40歳・44歳
(6) 卜部 酒屋売 62歳
(7) 宇治部 彌乃売 42歳・45歳・47歳
(8) 秦部 咩豆売 47歳
(9) 葛野部 比良売 45歳・46歳
(10)大家部 泉売 40歳
(11)葛野部 美奈豆売 49歳・55歳

〔豊前国上三毛郡塔里〕
(12)秦部 小民売 43歳
(13)秦部 乎堤売 40歳・41歳
(14)秦部 小赤売 41歳・42歳
(15)秦部 意等比売 43歳・51歳
(16)秦部 伊比豆売 44歳

〔豊前国仲津郡丁里〕
(17)墨田赤売 40歳
(18)都加自売 43歳・46歳
(19)秦部 阿理売 41歳
  秦部 刀自売 45歳・47歳
(20)狭度 小赤目 40歳・41歳・42歳
(21)等能比売 40歳
(22)丁糠売 53歳
(23)秦部 犬売 40歳・42歳
(24)春日部 昨売 42歳
(25)狭度 赤売 47歳
(26)川邊 波太売 51歳
(27)秦部 夜波良売 43歳
(28)秦部 犬売 51歳
(29)膳 百手売 41歳
(30)秦部 蓑売 46歳
(31)韓売 42歳

 これだけの「高齢出産」が七世紀の倭国でありえたとは考えられないのですが、松尾氏は「(6)卜部酒屋売」の出産年齢の62歳についても、西海道戸籍の表記の正確性などを根拠に、「不安はあるが、いまは記載されている通りに六十二歳で出産したものとしておく。」としています。わたしにはとてもこのような大胆な理解はできません。松尾氏は〝史料事実〟を〝歴史事実〟と理解してしまったわけですが、もし二倍年暦(二倍年齢)という概念(古田説)をご存じでしたら、こうした判断にまでは至らなかったのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①大宝二年「西海道戸籍」は、筑前国嶋郡川邊里戸籍や豊前国上三毛郡塔里戸籍・仲津郡丁里戸籍などが現存している。
②松尾光「大宝二年西海道戸籍にみるいわゆる高齢出産の年齢」『古代史論聚』木本好信編、岩田書院、2020年。


第2835話 2022/09/13

「御野国戸籍」の親子間年齢差

 大寶二年(702年)「御野国戸籍」には、高齢者(70歳以上)の多さ以外にも不自然な史料事実があります。それは戸主と嫡子・次子らとの年齢格差が異常に大きいことです。この傾向は、戸主が高齢であるほど顕著に表れ、高齢者が多いという御野国戸籍の特徴とも密接に関連しています。この史料事実の異常さは従来から指摘されてきました。たとえば、南部昇『日本古代戸籍の研究』(注①)には次の指摘があります。

 「『大日本古文書』に記載されている八世紀前半の戸籍を検討してゆくと、第60図に例示した型の戸がかなり多いことがわかる。これらの戸は戸主の余命幾許もないのにその嫡子はいまだ幼少である、という型の戸であるが、ここに揚げた例の外に、戸主と嫡子の年齢差が三十歳以上、四十歳以上と開いている戸は非常に多い。」同書315頁

 南部氏が非常に多いと指摘したこの傾向は、戸主以外の「寄人」家族(注②)にも見られ、たとえば「御野国加毛郡半布里戸籍」の「縣主族比都自」戸に次の「寄人 縣主族 都野」家族の記載があります。

 「寄人 縣主族 都野」(44歳、兵士)
 「嫡子 川内」(3歳)
 「都野甥 守部 稲麻呂」(5歳)
 「都野母 若帯部 母里賣」(93歳)※「大宝二年籍」中の最高齢者。
 「母里賣孫 縣主族 部屋賣」(16歳)

 これを親子順に並べると、次の通りです。

 (母)「若帯部 母里賣」(93歳)―(子)「都野」(44歳)―(孫)「川内」(3歳)
              ―(子)「(不記載)」―(孫)「稲麻呂」(5歳)
              ―(子)「(不記載)」―(孫)「部屋賣」(16歳)

 この母と子と孫の年齢差は49歳と41歳であり、異常に離れています。特に都野は母里賣49歳のときの子供となり、女性の出産年齢としては考えにくい超高齢出産です。古代ではなおさらです。また、二代続けて年齢差が異常に離れていることも不可解です。
 次に、「戸主と嫡子の年齢差が三十歳以上、四十歳以上と開いている」例として、「御野国加毛郡半布里戸籍」(注③)の特に顕著な戸の親子関係を紹介します。

(Ⅰ)「中政戸務從七位下縣主族都野」戸
 「下〃戸主 都野」(59歳)
 「戸主妻 阿刀部 井手賣」(52歳)
   ―「嫡子 麻呂」(18歳)※41歳差
   ―「次 古麻呂」(16歳)※43歳差
   ―「次 百嶋」(1歳)※58歳差
   ―「児 刀自賣」(29歳)※30歳差
      ―「刀自賣児 敢臣族 岸臣眞嶋賣」(10歳)
      ―「次 爾波賣」(5歳)
   ―「次 大墨賣」(18歳)※41歳差
 「妾 秦人 意比止賣」(47歳)
   ―「児 古賣」(12歳)※47歳差
 「戸主姑 麻部 細目賣」(82歳)

〔解説〕戸主「都野」(59歳)の嫡子「麻呂」(18歳)との年齢差は41歳。末子の「百嶋」(1歳)との年齢差は58歳で、戸主の妻「井手賣」(52歳)が51歳のときの超高齢出産となる。

(Ⅱ)「中政戸守部加佐布」戸
 「下〃戸主 加佐布」(63歳)
 「戸主妻 物マ 志祢賣」(47歳)
  ―「嫡子 小玉」(19歳)※44歳差
  ―「次 身津」(16歳)※47歳差
  ―「次 小身」(10歳)※53歳差

 「戸主弟 阿手」(47歳)
 「阿手妻 工マ 嶋賣」(42歳)
  ―「児 玉賣」(20歳)※阿手と27歳差
  ―「次 小玉賣」(18歳)※阿手と29歳差
  ―「次 大津賣」(15歳)※阿手と32歳差
  ―「次 小古賣」(8歳)※阿手と39歳差
  ―「次 依賣」(2歳)※阿手と45歳差

 「戸主弟 古閇」(42歳)
  ―「古閇児 廣津賣」(3歳)※古閇と39歳差

〔解説〕戸主「加佐布」(63歳)の嫡子「小玉」(19歳)との年齢差は44歳。末子「小身」(10歳)とは53歳差。

(Ⅲ)「中政戸秦人山」戸
 「下〃戸主 山」(73歳)
 「戸主妻 秦人 和良比賣」(47歳)
   ―「嫡子 古麻呂」(14歳)※59歳差
   ―「次 加麻呂」(11歳)※62歳差
 「妾 秦人 小賣」(27歳)
   ―「児 手小賣」(2歳)※71歳差

〔解説〕戸主「山」(73歳)の嫡子「古麻呂」(14歳)との年齢差は59歳。次子の「加麻呂」(11歳)とは62歳差。妾「秦人小賣」(27歳)との子「小賣」(2歳)とは71歳差。

(Ⅳ)「中政戸秦人阿波」戸
 「下〃戸主 阿波」(69歳)
  ―「嫡子 乎知」(13歳)※56歳差
   ―「次 布奈麻呂」(11歳)※58歳差
   ―「次 小布奈」(8歳)※61歳差
   ―「次 根麻呂」(2歳)※67歳差
―「戸主児 志祁賣」(33歳)※36歳差

〔解説〕戸主「阿波」(69歳)の嫡子「乎知」(13歳)との年齢差は56歳。末子「根麻呂」(2歳)とは67歳差。

 以上のように、戸主と嫡子らの年齢差が開いていることや、出産年齢が超高齢出産となるケースもあり、同戸籍の記載年齢(史料事実)をそのまま古代人の寿命や年齢を表した〝歴史事実〟として使用するのは学問的に危険です。(つづく)

(注)
①南部昇『日本古代戸籍の研究』吉川弘文館、1992年。
②古代戸籍の寄人(よりゅうど)とは、戸主との血縁関係が当時の親族呼称では表せない場合につけられた一種の続柄。寄口(きこう・よりく)とも書く。
③『寧楽遺文』上巻、昭和37年版による。


第2834話 2022/09/12

大寶二年「御野国戸籍」と

 養老五年「下総国戸籍」の高齢者

 「大寶二年(702年)御野国戸籍」にわたしが注目したのは高齢者(70歳以上)の多さでした。古代戸籍研究でいくつもの戸籍を見てきたのですが、最高齢の93歳の女性(加毛郡半布里の都野母若帯部母里賣)を筆頭に高齢者が多く、この史料状況は二倍年暦の影響を受けて成立したのではないかと感じたのです。
 70歳以上の高齢者がわたしの調査では38人(男18人、女20人)記されています。文献によって総数が異なるのですが、その比率は全体(2428人。男1092人、女1336人)の1.57%(男1.65%、女1.5%)に相当します(注①)。高齢者率が男より女が低いことも不審ですが、比較的時代が近い養老五年(721年)「下総国戸籍」の高齢者は次の通りで、「御野国戸籍」はその約1.5倍の高齢者率なのです。

【「下総国戸籍」の70歳以上の人】

「妻 孔王部奈爲賣」(73歳)
「母 土師部刀自賣」(72歳)
「母 私部與伎賣」(71歳)
「戸主 孔王部三村」(71歳)
「母 孔王部乎弖賣」(73歳)
「母 小長谷部椋賣」(84歳)
「姑 三枝部宮賣」(75歳)
「孔王部大年」(79歳)

 最高齢は「母小長谷部椋賣」(84歳)で、70歳以上は計8人(男2人、女6人)であり、総数772人(男343人、女429人。注②)中の高齢者率は1.04%(男0.58%、女1.4%)です。こちらは女性の方が高く、人の寿命の男女差としてリーズナブルです。
 対象地域が御野国と下総国と離れてはいますが、どちらも八世紀第1四半期のほぼ同時代の戸籍ですから、約1.5倍も高齢者率が異なるのは不自然ではないでしょうか。両者を比較した場合、高齢者の男女比率の不自然さから判断しても、より疑うべきは「御野国戸籍」の方なのです(注③)。しかも、同戸籍の不自然さは他にもありました。(つづく)

(注)
①南部昇『日本古代戸籍の研究』(吉川弘文館、1992年)掲載の年齢分布表を元に、『寧楽遺文(上)』(竹内理三編、1962年)で高齢者数を確認した。見落としがあるかもしれないが、大きく異なることはないと考えている。
②同①。
③「下総国戸籍」の年齢も、52歳以上は二倍年暦の影響を受けており、正確には〝「下総国戸籍」よりも「御野国戸籍」の方が二倍年暦の影響を受けた年齢層が広い〟ということである(「御野国戸籍」は33歳以上が二倍年暦の影響を受けている)。この点、後述したい。


第2833話 2022/09/11

「大寶二年籍」の史料事実と歴史事実

 「延喜二年籍」(702年)の次は、現存最古の戸籍「大寶二年籍」(702年)の研究に入りました。「大寶二年籍」(注①)は西海道戸籍と御野国戸籍が遺っており、わたしが注目したのが御野国戸籍の高齢者群でした。それは次の高齢者(70歳以上)です。

〔味蜂間郡春部里〕
「戸主姑和子賣」(70歳)

〔本簀郡栗栖太里〕
「戸主姑身賣」(72歳)

〔肩縣郡肩〃里〕
「寄人六人部身麻呂」(77歳)
「寄人十市部古賣」(70歳)
「寄人六人部羊」(77歳)
「奴伊福利」(77歳)

〔山方郡三井田里〕
「下々戸主與呂」(72歳)

〔加毛郡半布里〕
「戸主姑麻部細目賣」(82歳)
「戸主兄安閇」(70歳)
「大古賣秦人阿古須賣」(73歳)
「都野母若帯部母里賣」(93歳)※「大寶二年籍」中の最高齢記事。
「戸主母穂積部意閇賣」(72歳)
「戸主母秦人由良賣」(73歳)
「下々戸主身津」(71歳)
「下々戸主古都」(86歳)
「戸主兄多比」(73歳)
「下々戸主津彌」(85歳)
「下中戸主多麻」(80歳)
「下々戸主母呂」(73歳)
「寄人石部古理賣」(73歳)
「下々戸主山」(73歳)
「寄人秦人若賣」(70歳)
「下々戸主身津」(77歳)
「戸主母各牟勝田彌賣」(82歳)

 わたしはこれらの高齢者の年齢は二倍年暦による計算結果(二倍年齢)ではないかと疑いましたが、従来の古代戸籍研究ではこの〝史料事実〟を無批判に〝歴史事実〟として採用してきたようです。しかし、古代における二倍年暦と二倍年齢の研究を続けてきたわたしは、「大寶二年籍」、なかでも同「御野国戸籍」の高齢者群の存在という〝史料事実〟をそのまま〝歴史事実〟とすることは学問的に危険と指摘しました(注②)。しかも、高齢者群以外にも「大寶二年籍」には不自然な史料状況がありました。(つづく)

(注)
①「大寶二年籍」『寧楽遺文(上)』竹内理三編、1962年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2193話(2020/08/03)〝「大宝二年籍」断簡の史料批判(17)〟
 同「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」『古田武彦記念古代史セミナー2020 予稿集』大学セミナーハウス、2020年。当拙論で次のように指摘した。
 「文献史学における基本作業としての史料批判が古代戸籍にも不可欠なのである。すなわち、どの程度真実が記されているのか、どの程度信頼してよいのかという基本調査(史料批判)が必要だ。ある古代戸籍に長寿者が記録されているという史料事実を無批判に採用して、その時代の寿命の根拠(実証)とすることは学問的手続きを踏んでおらず、その結論は学問的に危ういものとなるからである。」
https://iush.jp/uploads/files/20201126153614.pdf


第2832話 2022/09/10

「延喜二年籍」の史料事実と〝偽籍〟

 「延喜二年(902年)阿波国戸籍」に見える超高齢者群を二倍年暦(二倍年齢)の影響を受けたものではないかと、当初、わたしは考えていたのですが、同戸籍の年齢を全て半分にすると、新たに多くの問題点が発生することがわかりました。たとえば、親子間の年齢差や女性の出産年齢が非常識なものになる例が出てきたのです。このため、二倍年齢による解釈は成立困難と判断しました。
 そこで先行研究(注①)を調べたところ、この超高齢戸籍を〝偽籍〟とする説があることを知りました。すなわち、親や家族が亡くなると班田を国家に返却しなければならず、それを避けるため除籍せずに死者が生きていることにして、造籍時に年齢だけを加算した偽りの戸籍を作成し、国司や朝廷に報告した結果、〝偽籍〟「延喜二年阿波国戸籍」が成立したとするものです。現代社会でも、親が亡くなっても生きていることにして、親の年金を受給する事例が発覚していますが、それと同類の行為が十世紀初頭の平安時代にあったというわけです。しかも古代の場合、その〝偽籍〟は地方役人も加担して行われたに違いありません。
 この偽籍説は、「延喜二年阿波国戸籍」の〝史料事実〟を〝歴史事実〟とはせずに、班田返却を避けるための〝偽籍〟とするもので、学問の方法としても妥当な判断と思いました。しかし、同戸籍を精査すると、死者の年齢を造籍時に加算しただけでは説明できない超高齢の戸(家族)があり、やはり一部の戸には二倍年齢という概念を部分導入しなければ説明できないことに気づきました。その詳細については、八王子セミナーで発表した拙論「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」(注②)をご参照ください。
 こうして、「延喜二年籍」の超高齢者群の存在について、自分なりに納得できる結論に至ったので、次に現存最古の「大宝二年籍」(702年)の研究に入りました。そこにも、〝史料事実〟と〝歴史事実〟の間に大きな問題が横たわっていることを知りました。(つづく)

(注)
①平田耿二『日本古代籍帳制度論』吉川弘文館、1986年。
②古賀達也「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」『古田武彦記念古代史セミナー2020 予稿集』大学セミナーハウス、2020年。当拙論で次のように指摘した。
 「古代戸籍を歴史研究の史料として使用する場合は、この偽籍の可能性を検討したうえで使用しなければならない。文献史学における基本作業としての史料批判が古代戸籍にも不可欠なのである。すなわち、どの程度真実が記されているのか、どの程度信頼してよいのかという基本調査(史料批判)が必要だ。ある古代戸籍に長寿者が記録されているという史料事実を無批判に採用して、その時代の寿命の根拠(実証)とすることは学問的手続きを踏んでおらず、その結論は学問的に危ういものとなるからである。」
https://iush.jp/uploads/files/20201126153614.pdf