古賀達也一覧

第2551話 2021/08/28

10月3日、久留米大学公開講座のレジュメ

古代戸籍に記された超・長寿の謎 — 古今東西の超高齢者

 この数日間、10月3日の久留米大学公開講座向けレジュメの作成に追われていました。本日、ようやく書き上げました。テーマと要約は次の通りです。

「古代戸籍に記された超・長寿の謎 ―古今東西の超高齢者―」

1.現代日本の長寿社会
 人類史上初の長寿社会(平均寿命は女性87.14歳、男性80.98歳。2016年)に突入した日本において、平均寿命が50歳を越えたのはそれほど昔のことではない。ところが、東洋と西洋の古典には80歳を越える長寿者や100歳を越える超長寿者は少なくない。

2.古代ギリシアの超長寿記事
 例えば、古代ギリシア(紀元前四~五世紀)の哲学者の寿命について、次の記録がある。
【ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』からのギリシア哲学者死亡年齢の抜粋】(以下抜粋)
 アテノドロス(82歳) カルネアデス(85歳) クレアンテス(80歳 B・E・リチャードソンによれば99歳) デモクリトス(100か109歳) ディオゲネス(90歳) エピカルモス(90歳) ゴルギアス(100、105もしくは109歳) イソクラテス(98歳) ミュソン(97歳) プラトン(81歳) ピューロン(90歳) ピュタゴラス(80か90歳) テレス(78か90歳) テオフプラストス(85か100歳以上) ティモン(90歳) ゼノン(98歳)
 ジョルジュ・ミノワは「ギリシア時代の哲学者はほとんどが長生きをした」(『老いの歴史 古代からルネッサンスまで』)と説明している。

3.古代ローマの超長寿記事
 ローマ帝政初期のセネカ(前4年頃~後65年)の『人生の短さについて』に次の年齢記事が見える。
 「沢山の老人のなかの誰かひとりをつかまえて、こう言ってみたい。『あなたはすでに人間の最高の年齢に達しているように見受けられます。あなたには100年目の年が、いやそれ以上の年が迫っています。』」
 セネカよりも100年前の古代ローマのキケロー(前106~前43年)の『老年について』にも次の超高齢記事が見える。
 「かつてガーデースにアルガントーニオスという王がいて、80年間君臨し、120歳まで生きたという」

4.古代エジプトの超長寿記事
 古代エジプトにおける最も著名なファラオの一人、ラメセス二世(在位、前1279~1212年)は67年間在位し、92歳で没したとされる。

5.古代中国(周代)の超長寿記事
 古代中国の堯は118歳、舜は100歳で没したと『史記』に記されている。周を建国した人々(紀元前12世紀頃)や穆(ぼく)王の寿命も次のように伝えられている。
○初代武王の曽祖父、古公亶父(ここうたんぽ):120歳説あり。
○武王の祖父、季歴:100歳。(『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』)
○武王の父、文王:97歳。在位50年。(『綱鑑易知録』『史記・周本紀』『帝王世紀』)
○武王:93歳。在位19年。(『資治通鑑前編』『帝王世紀』)
○五代穆王は50歳で即位し、55年間在位。105歳没(『史記』)。

6.古代インド(釈迦)の超長寿記事
 『長阿含経』に、人の寿命は「今では百歳以下になった」という仏陀の言葉が記されている。
 「我れ今、世に出づるに、人寿の百歳は、出でたるが少なく、減ずるが多し。」(『長阿含経』巻第一)
 釈迦の没年齢は80歳と伝えられている。弟子には120歳の須跋がいた。
 「是の時、拘尸城の内に一梵志有り、名づけて須跋と曰う。年は百二十、耆旧(きぐ)にして多智なり。」(『長阿含経』巻第四)

7.古代日本(弥生時代)の超長寿記事
 古代日本列島において、倭人は一年を二つに分けて二年とする暦法、即ち「二倍年暦」を使用していたことが、古田武彦氏により明らかにされた(『「邪馬台国」はなかった)。それは『三国志』倭人伝と魏略の記述から導き出されたものだ。
 「その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年」(倭人伝)
 「その俗正歳四節を知らず、ただ春耕秋収を計りて年紀となす」(魏略)
 二倍年暦の影響は古代戸籍(『大宝二年籍』702年)にも及んでおり、二倍年暦で自らの年齢を計算していた人々が二倍年齢で戸籍登録した痕跡が遺っている。

8.二倍年暦で激変する世界の古代史編年
 古代社会においては、人の年齢を一年間に二歳と計算する二倍年暦(二倍年齢)の時代があったことがわかる。この二倍年暦という概念が承認されると、世界の古代文明の年代が地滑り的に新しくなる。エジプト文明、ギリシア文明、ローマ文明、インド文明、中国文明、そしてわが国の古代史においてもそれは避けられない。


第2549話 2021/08/24

「倭の五王」時代の九州の古墳(1)

 「倭の五王」の宮都にふさわしい五世紀の遺構が見つかりませんので、視点を変えて、倭国王の陵墓にふさわしい大型古墳について検討してみます。とりあえず、九州島内に限定して考察します。
 場所にこだわらず規模だけを見れば、宮崎県西都原古墳群の九州最大の前方後円墳、女狭穂塚古墳(墳丘長176m、五世紀前半)が年代とともに「倭の五王」の陵墓候補に最もふさわしいと思います。同じく隣接する男狭穂塚古墳(墳丘長155m、五世紀前半)も国内最大の帆立貝式前方後円墳で、これも「倭の五王」の陵墓候補にふさわしいものです。同県にはこの他にも次の五世紀頃の大型前方後円墳(墳丘長100m以上)があります。

○児屋根塚古墳(墳丘長110m、五世紀前半の前方後円墳)西都市茶臼原
○松本塚古墳(墳丘長104m、五世紀末~六世紀初頭の前方後円墳)西都市三納
○菅原神社古墳(墳丘長110m、四世紀末~五世紀前半の前方後円墳)延岡市

 さらに、生目(いきめ)古墳群(宮崎市跡江)の1号墳(墳丘長120m、前方後円墳)は四世紀初頭では九州最大規模の古墳です。続いて3号墳(墳丘長143m、前方後円墳)は四世紀前半の古墳ですが、四世紀代を通じて九州最大です。そして五世紀には同じく九州最大の女狭穂塚古墳、男狭穂塚古墳へと続きます。
 このように宮崎県では、四~五世紀にかけて九州最大規模の古墳造営が続いています。更に、全県的に多数の古墳があり、大和(奈良県)や両毛(群馬県・栃木県)とともにわが国で最も古墳の多いところといわれており、古墳が全く見当たらないのは二~三町村にすぎないとされています(注①)。
 古田先生も宮崎県について、『失われた九州王朝』第五章「九州王朝の領域と消滅」の「遷都論」において次のように述べておられます(注②)。

 「九州王朝の都は、前二世紀より七世紀までの間、どのように移っていったのだろうか。少なくとも、一世紀志賀島の金印当時より三世紀邪馬壹国にいたるまでの間は、博多湾岸(太宰府近辺をふくむ)に都があった。(中略)また、同様に、南下して宮崎県の『都城』といった地名も、同県の古墳群とともに、注目されねばならぬ。」『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版475~476頁

 この指摘を重視するのであれば、宮崎県の西都原古墳群を筆頭とする四~五世紀の九州最大の古墳群の濃密分布と、当地に今も濃密分布する「阿万」姓の人々の存在(注③)などから、この地と「倭の五王」との関係を九州王朝史の視点から考察すべきではないでしょうか。(つづく)

(注)
①日高次吉『宮崎県の歴史』山川出版社、1970年。
②古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973年)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古賀達也「洛中洛外日記」2543~2548話(2021/08/19~23)〝「あま」姓の最密集地は宮崎県(1)~(4)〟


第2549話 2021/08/24

「倭の五王」時代の九州の古墳(1)

 「倭の五王」の宮都にふさわしい五世紀の遺構が見つかりませんので、視点を変えて、倭国王の陵墓にふさわしい大型古墳について検討してみます。とりあえず、九州島内に限定して考察します。
 場所にこだわらず規模だけを見れば、宮崎県西都原古墳群の九州最大の前方後円墳、女狭穂塚古墳(墳丘長176m、五世紀前半)が年代とともに「倭の五王」の陵墓候補に最もふさわしいと思います。同じく隣接する男狭穂塚古墳(墳丘長155m、五世紀前半)も国内最大の帆立貝式前方後円墳で、これも「倭の五王」の陵墓候補にふさわしいものです。同県にはこの他にも次の五世紀頃の大型前方後円墳(墳丘長100m以上)があります。

○児屋根塚古墳(墳丘長110m、五世紀前半の前方後円墳)西都市茶臼原
○松本塚古墳(墳丘長104m、五世紀末~六世紀初頭の前方後円墳)西都市三納
○菅原神社古墳(墳丘長110m、四世紀末~五世紀前半の前方後円墳)延岡市

 さらに、生目(いきめ)古墳群(宮崎市跡江)の1号墳(墳丘長120m、前方後円墳)は四世紀初頭では九州最大規模の古墳です。続いて3号墳(墳丘長143m、前方後円墳)は四世紀前半の古墳ですが、四世紀代を通じて九州最大です。そして五世紀には同じく九州最大の女狭穂塚古墳、男狭穂塚古墳へと続きます。
 このように宮崎県では、四~五世紀にかけて九州最大規模の古墳造営が続いています。更に、全県的に多数の古墳があり、大和(奈良県)や両毛(群馬県・栃木県)とともにわが国で最も古墳の多いところといわれており、古墳が全く見当たらないのは二~三町村にすぎないとされています(注①)。
 古田先生も宮崎県について、『失われた九州王朝』第五章「九州王朝の領域と消滅」の「遷都論」において次のように述べておられます(注②)。

 「九州王朝の都は、前二世紀より七世紀までの間、どのように移っていったのだろうか。少なくとも、一世紀志賀島の金印当時より三世紀邪馬壹国にいたるまでの間は、博多湾岸(太宰府近辺をふくむ)に都があった。(中略)また、同様に、南下して宮崎県の『都城』といった地名も、同県の古墳群とともに、注目されねばならぬ。」『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版475~476頁

 この指摘を重視するのであれば、宮崎県の西都原古墳群を筆頭とする四~五世紀の九州最大の古墳群の濃密分布と、当地に今も濃密分布する「阿万」姓の人々の存在(注③)などから、この地と「倭の五王」との関係を九州王朝史の視点から考察すべきではないでしょうか。(つづく)

(注)
①日高次吉『宮崎県の歴史』山川出版社、1970年。
②古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973年)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古賀達也「洛中洛外日記」2543~2548話(2021/08/19~23)〝「あま」姓の最密集地は宮崎県(1)~(4)〟


第2548話 2021/08/23

「あま」姓の最密集地は宮崎県(4)

 宮崎県に集中分布する「あま」姓と「阿毎多利思北孤」(『隋書』イ妥国伝)の「阿毎」との〝一致〟、それと「あま」姓最密集分布地域(西都市・他)と九州最大の西都原古墳群の地域が重なるという二つの事実により、「阿万」「阿萬」姓の分布状況が古代の九州王朝に由来するとしたわたしの仮説は、更に傍証を得て有力仮説となるのですが、その傍証について説明します。
 わたしが白石恭子さん(古田史学の会・会員、今治市)からのメールで、「阿万」「阿萬」姓が宮崎県に濃密分布していることを知ったとき、文献史学と考古学の二つの研究が真っ先に脳裏に浮かびました。その一つは、西井健一郎さん(古田史学の会・前全国世話人、大阪市)の論稿「新羅本紀『阿麻來服』と倭天皇天智帝」(注①)で、『三国史記』新羅本紀の文武王八年(668年)条冒頭に見える記事「八年春、阿麻來服。」の「阿麻」を、白村江戦(663年)で敗北した九州王朝(倭国)の元天子とする仮説です。もう一つは、近年、韓国から発見が続いた前方後円墳の形状が宮崎県西都市やその近隣の前方後円墳とよく似ているという考古学的事実でした(注②)。
 まず西井さんの研究により、『三国史記』の不思議な記事〝阿麻が新羅に来て、服した〟のことがずっと気になっていました。「阿麻」という名前はいかにも倭人の名前らしく、九州王朝の王族に繋がる有力者ではないかと考えていたのです。
 また、韓国で発見された前方後円墳(注③)の形状は〝前「三角錐」後円墳〟とも言いうるもので、方部頂上が三角錐のようにせり上がっており、この特異な形状の古墳が宮崎県にも分布(注④)していることから、韓国で前方後円墳を造営した勢力と南九州(宮崎県)の勢力とは関係があったのではないかと考えてきました。
 この一見無関係に見える事象、『三国史記』の「阿麻來服」と韓国・宮崎の前「三角錐」後円墳とが、宮崎県西都市を中心とする「阿万」「阿萬」姓の分布事実が結節点となり、「あま」姓を名のる九州王朝(倭国)の支族が、宮崎県(日向国西都原)と韓国(恐らく任那日本府を中心とする領域)に割拠し、独特の前方後円墳(前「三角錐」後円墳)を造営したとする仮説へと発展しました。
 白石さんから届いたメールをヒントに、南九州と韓半島を結ぶ九州王朝史の一端に迫る仮説を提起したのですが、はたしてこの仮説が歴史の真実に至るものかどうか、皆さんのご判断に委ねたいと思います。(おわり)

(注)
①西井健一郎「新羅本紀『阿麻來服』と倭天皇天智帝」『古田史学会報』100号、2010年10月。
②古賀達也「前『三角錐』後円墳と百済王伝説」『東京古田会ニュース』167号、2016年4月。
 古賀達也「洛中洛外日記」1126話(2016/01/22)〝韓国と南九州の前「三角錐」後円墳〟
 古賀達也「洛中洛外日記」1127話(2016/01/23)〝百済王亡命地が南郷村の理由〟
③韓国の代表的な前方後円墳として月桂洞1号墳(光州広域市光山区)がある。全長は36.6m(推定復元45.3m)、後円部の高さ4.8m(推定復元6.1m)、方部の高さ4.9m(推定復元5.2m)。造営年代は6世紀前半頃で、九州の前「三角錐」後円墳と同時期。石室の構造には九州系横穴式石室の要素が指摘されている。
④宮崎県西都市の松本塚古墳。墳長104mで、五世紀末から六世紀初頭頃の「前方後円墳」とされている。
 熊本県山鹿市岩原古墳群の双子塚古墳も、墳長102mmの前方後円墳で五世紀中頃の築造と説明されており、その形状が似ている。
 宮崎県児湯郡新富町祇園原古墳群の弥吾郎塚古墳も同様で、墳長94mの六世紀代の「前方後円墳」とされている。『祇園原古墳群1』(1998年、宮崎県新富町教育委員会)掲載の測量図によれば、弥吾郎塚古墳以外にも次の古墳が前「三角錐」後円墳に似ている。
○百足塚古墳 墳長76.4
○機織塚古墳 墳長49.6m
○新田原五二号墳 墳長54.8m
○水神塚古墳 墳長49.4m
○新田原六八号墳 墳長60.4m
○大久保塚古墳 墳長84.0m


第2547話 2021/08/22

太宰府出土、須恵器と土師器の話(7)

 牛頸窯跡群の調査報告書『牛頸小田浦窯跡群Ⅱ』(注①)を読んでいて不思議な記述があり、わたしの太宰府土器編年研究が中断してしまいました。それは須恵器杯の様式名に、既存編年の名称とは異なる表記が散見されたからです。具体例二点を紹介します。

(1) 26頁第16図73・74の須恵器蓋には「つまみ」はないが、23頁の説明ではそれらを「杯G」とする。
(2) 37頁第24図83の須恵器蓋にも「つまみ」はないが、36頁の説明ではそれを「杯B」とする。

 須恵器様式については既に説明(注②)してきたところですが、それとは異なり、「つまみ」がない須恵器蓋を杯Gや杯Bとする説明をわたしは理解できませんでした。これでは太宰府土器編年の根幹が揺らぎかねませんので、大野城市ホームページの「問い合わせ」コーナーから、上記の点について質問しました。まもなくすると、同市ふるさと文化財課の上田さんから丁寧な回答が届きました。要約して紹介します。

《大野城市ふるさと文化財課の上田さんからの回答》
【質問1】26頁第16図73・74の「杯G」の認識
 ご指摘のとおり、一般的な「杯G蓋」は「つまみ」を有しており、大野城市でも「かえり」「つまみ」を有す蓋と身のセットを「杯G」と理解しています。
 ところが、本市の牛頸窯跡群では、「かえり」を有すものの「つまみ」を欠く蓋が一定量あり、「つまみ」がないものも含めて「杯G」と表現しています。

【質問2】37頁第24図83の「杯B」の認識
 ご指摘のとおり、一般的な「杯B蓋」には「つまみ」があり、杯身には「足=高台」を有しています。
 「杯G」と同様、牛頸窯跡群では、高台を有する杯身とセットになる蓋で「つまみ」を欠く蓋が一定量あり、「つまみ」がないものも含めて「杯B」と表現しています。

【参考資料】
 大野城市では、奈良文化財研究所の須恵器分類を採用しております。参考までに『牛頸窯跡群総括報告書Ⅰ』の「例言」を添付しておりますますので、参考にしていただければと思います。
 以上のとおり、牛頸窯跡群では、杯G蓋・杯B蓋につまみを欠くものが一定量存在しております。近畿地域では、つまみを有するものが一般的かと思いますが、この点は地域性が発現しているものと理解できるのかもしれません。
 簡単ではございますが、以上を回答とさせていただきます。何かご不明な点がございましたらご連絡いただければ幸いです。

 上記の丁寧な回答が寄せられました。資料として添付されていた『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ―』(注③)の「例言」には、次の説明がありました。

 「須恵器蓋杯については、奈良文化財研究所が使用している名称杯H(古墳時代通有の合子形蓋杯)、杯G(基本的にはつまみとかえりを持つ蓋と身のセット。ただし牛頸窯跡群産須恵器にはつまみのない蓋もある)、杯B(高台付きの杯)、杯A(無高台の杯)を使用する場合がある。」『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ―』

 こうした説明を受けて、わたしもようやく事情が飲み込めてきました。すなわち、蓋に「かえり」(注④)が付いているものは「つまみ」がなくても杯Gに分類されていたわけです。おそらく同一遺構から「つまみ」付きの杯G蓋が多数出土し、併出した「つまみ」無しの蓋でも「かえり」があれば、杯Gに見なすということのようです。蓋がない杯Bも同様です。
 わたしは、蓋に「つまみ」がなく、「かえり」があるものは杯Hの進化形とする見解を大阪の考古学者から聞いていましたので、土器の地域差の発現だけではなく、考古学者の認識にも地域差があるのかもしれません。あるいは、わたしの認識・理解がまだ浅いのかも知れません。この点、他地域の考古学者の意見も聞いてみたいと思います。
 こうして、牛頸窯跡群出土土器の疑問については一応の解決をみたのですが、これからは調査報告書を精査する際、「つまみ」の有無だけでの単純な様式判断で済ませることなく、報告書の土器分類・編年表も用心深く見なければならないことを学びました。大野城市の上田さんに改めてお礼申し上げたいと思います。(つづく)

(注)
①『牛頸小田浦窯跡群Ⅱ ―79地点の調査― 大野城市文化財調査報告書 73集』大野城市教育委員会、2007年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2537話(2021/08/14)〝太宰府出土、須恵器と土師器の話(2)〟にて、次のように説明した。
〝この須恵器は、なぜか七世紀になると様相が急に進化し始めるので、土器編年に使用されています。大きな変化の目安として、古墳時代から続く丸底で丸い蓋を持つ「杯(つき)H」から始まり、蓋につまみが付く「杯G」、更に底に足が付く「杯B」と変化し、その様相の違いを利用して相対編年が可能となります。実際には細部の形式変化や大きさ(法量)の変化も利用して、より詳しく分類・編年されています。〟
③『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ― 大野城市文化財調査報告書 第77集』大野城市教育委員会、2008年。
④須恵器の「かえり」とは、蓋と杯身の併せ部分にある内側に向いた縁のことで、杯Hの場合は杯身側に「かえり」があり、蓋がそこに被さるようになっている。蓋側に「かえり」があるものは進化形で、食器内の湯気が蓋の天井で冷やされ、その雫(しずく)が「かえり」によって杯身の内側に流れ込むように工夫されている。蓋に「かえり」がない古いタイプの杯Hの場合は、内部で発生した雫(しずく)が杯身と蓋の隙間から外側へこぼれてしまう。そのため同じ杯Hでも、蓋に「かえり」を有するものが、より新しく編年されてきた。


第2546話 2021/08/21

九州年号と仏典研究のすすめ

 本日は久しぶりにホームタウンともいえるi-siteなんばで「古田史学の会」関西例会が開催されました。9月例会もi-siteなんば(参加費1,000円)で開催します。

 リモートテストには、西村秀己さん(司会担当・高松市)、正木裕さん(古田史学の会・事務局長、川西市)、杉本三郎さん(古田史学の会・会計監査、伊丹市)、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)、谷本茂さん(神戸市)、萩野秀公さん(東大阪市)、別役政光さん(高知市)らが参加されました。

 今回は久しぶりにわたしも発表させていただきました。仏典からの九州年号の出典調査という基礎研究の中間報告ですが、九州王朝(倭国)が重視した仏典に『五分律』(6世紀段階)や『四分律』(7世紀段階)があり、これは中国の南朝仏教から北朝仏教へと、九州王朝が傾斜していった痕跡ではないかなどの分析結果について報告しました。

 質疑応答では、西村さんから、基本的な検索条件の誤りの指摘を得ることができ、論文発表前でしたので助かりました。また、最初の九州年号を「継体」(『二中歴』)とする私見に対し、谷本さんより「善記」の方が有力とする意見も出され、有意義な議論ができました。大原さん(『古代に真実を求めて』編集長)からは、九州年号と仏教との関係を指摘した阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)の説(注①)についても触れるべきとの意見が出されました。阿部さんからの私説(注②)に対するご批判に対して、まだ返答していませんでしたので、これを機会に改めて論文執筆に入りたいと考えています。

 最後に九州年号や仏典研究を多くの研究者に取り組んでいただきたいと要請しました。

 今回の例会で、わたしが最も刺激を受けた発表が、満田さんによる石暁軍著「隋唐外務官僚の研究 ―鴻臚寺官僚・遣外使節を中心に」の紹介でした。隋唐が外交官を派遣する時、本来の官位とは異なる官位を臨時に授ける「仮官」という制度があったというもので、隋から倭国に派遣された裴世清の官位が『隋書』(文林郎:従八品)と『日本書紀』(鴻臚寺の掌客:正九品下)では異なる理由について、「仮官」という制度で説明できるという視点は新鮮でした。参加者からは反対意見が多かったのですが、検討すべきテーマと思いました。

 なお、発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔8月度関西例会の内容〕
①阿武山に眠る貴人の墓 (大山崎町・大原重雄)
②船行一年の参問 ―裸国と黒歯国は誤読されていた― (大山崎町・大原重雄)
③太湖望での実験から (明石市・不二井伸平)
④裴世清の称号問題 (茨木市・満田正賢)
⑤「大夫人」と「大后」 奈良時代の称号論争に見る九州王朝時代の残滓 (たつの市・日野智貴)
⑥九州年号の出典調査(仏典編) ―九州王朝(倭国)の仏典受容史― (京都市・古賀達也)

(注)
①阿部周一「『倭国年号』と『仏教』の関係」『古田史学会報』157号、2020年4月。
②古賀達也「洛中洛外日記」2033~2046話(2019/11/03~22)〝『令集解』儀制令・公文条の理解について(1)~(6)〟。

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(「三密」回避に大部屋使用の場合は1,000円)
09/18(土) 10:00~17:00 会場:i-siteなんば
※コロナによる会場使用規制のため、緊急変更もあります。最新の情報をホームページでご確認下さい。

《関西各講演会・研究会のご案内》
※コロナ対応のため、緊急変更もあります。最新の情報をご確認下さい。

◆「市民古代史の会・東大阪」講演会 会場:東大阪市 布施駅前市民プラザ(5F多目的ホール) 資料代500円 〔お問い合わせ〕090-7364-9535
○08/28(土) 14:00~17:00 「倭の五王と倭国独立 ―九州年号の成立」 講師:服部静尚さん
○09/25(土) 14:00~17:00 「朝鮮半島と倭国 ―磐井の乱の真実」 講師:服部静尚さん

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 資料代500円 〔お問い合わせ〕℡080-2526-2584
○08/24(火) 13:00~16:00 会場:浄照寺本堂(奈良県田原本町茶町584)
前半「本薬師寺は九州王朝の寺」 講師:服部静尚さん(古田史学の会・会員)
後半「野中寺彌勒菩薩像の真実」 (同上)
○09/28(火) 13:00~16:00 会場:浄照寺本堂(奈良県田原本町茶町584)
前半「卑弥呼と邪馬台国 ―徹底解明邪馬台国九州説①卑弥呼と魏使の行程」 講師:正木裕さん(古田史学の会・事務局長)
後半「卑弥呼と邪馬台国 ―徹底解明邪馬台国九州説②邪馬台国の物証」 (同上)

◆「和泉史談会」講演会 会場:和泉市コミュニティーセンター(1階中会議室)
○09/14(火) 14:00~16:00
「縄文にいたイザナギ・イザナミ」 講師:大原重雄さん(『古代に真実を求めて』編集長)
「天皇と三種の神器」 講師:服部静尚さん(古田史学の会・会員)
○10/12(火) 14:00~16:00
「疫病の歴史に学ぶ」 岡本康敬さん

◆「市民古代史の会・京都」講演会 会場:キャンパスプラザ京都 参加費500円
《未定》

◆誰も知らなかった古代史の会 会場:福島区民センター 参加費500円
《未定》


第2542話 2021/08/18

太宰府出土、須恵器と土師器の話(6)

 牛頸窯跡群を筆頭に各地の窯から太宰府条坊都市に食器用途の須恵器、煮炊き用途に使用された土師器が供給されています。ところが、太宰府の土師器は、他地域とは異なる特徴を持つことが知られています。それは製法に関することで、ある時期から回転台(ろくろ)を使用して土師器が造られるようになることです。
 回転台成形による土器製造技術は須恵器製造技術と共に伝わったと考えられていますが、その後も土師器は地域伝統の「手持ち成型」技法で造られていました。ところが太宰府では須恵器杯Bの流行と同時期に土師器も回転台により造られるようになりました。これは大和の「宮都」にだけ見られた現象とされているようで、中島恒次郞さん(太宰府市都市整備部)の「日本古代の大宰府管内における食器生産」(注①)では次のように説明されています。

 「大宰府官制成立時に発現する回転台成形の土師器生産は、宮都以外に発現した一大画期とでもいえる事象で、大宰府管内においても重要な出来事である。」671~672頁
 「古代官衙成立後に発現する回転台成形の土師器を国家的な食器として見た時、九州内においては成川式土器、兼久式土器のように様式名称を上げることができるように大宰府との距離と正比例する強度で在地伝統が強くなる。逆を述べると大宰府を国家的な様相の極としていることになる。(中略)在地伝統の技術として捉えた手持ち成形の土師器は、実は都を包括する畿内では通有の事象であり、九州において在地伝統の技術を保持している集落と都がある畿内が同じ保守的様相を保っていることになる。」672~673頁

 この説明の重要点は、わたしの理解するところ次の通りです。

(1) 太宰府の官制成立時・官衙成立後に回転台成形の土師器が発現する。
(2) 須恵器と土師器が共に回転台成形になるのは、大和の「宮都」と太宰府にのみ見られる〝国家的〟現象である。

 そして、中島さんは土師器も回転台成形になった背景として、世襲工人の崩壊(筑前・筑後・肥前)や食器製造工人集団の統合がなされたためとしています。

 「(筑前・肥前・筑後の)土師器は、回転台成形の製品が優勢な大宰府を一方の極とし、前代からの系譜を引く手持ち成形の製品が優勢な集落を一方の極とする様相が観察できる。ただし、時間の経過とともに集落様相は、Ⅲー2期(八世紀後半~九世紀前半)には回転台成形の土師器が優勢へと転換していく。その背景は、生産工人のあり方を文献史学ならびに考古資料観察から導き出した、世襲工人の崩壊による多様な人々による生産への転換を想定している。」667頁 ※()内は古賀による注。
 「食器構成においてみるとⅢー1期(八世紀前半)において律令制国家的様相である土師器―須恵器の器種互換性・法量分化が成立し、国家的様相下に入るとともに、食器製作技法を見ると、地域の利害を無視した生産体制として土師器―須恵器の生産工人を整理統合、再分離を行ったと解せる事象が顕在化することになる。この食器生産体制の編成と時期を同じくして条坊制施行、官道整備、水城・大野城・基肄城の再整備など大規模でかつ広範な分野で国家制度を体現するための諸制度が敷かれていくことになる。」673頁 ※同上。

 こうした中島さんの見解について、その編年(暦年とのリンク)には賛成できませんが、「土師器―須恵器の生産工人を整理統合、再分離」が行われたということについては、あり得ることと思います。既に論じられていることとは思いますが、そうした現象面の解釈以上に、なぜ律令官制成立時期に土師器も回転台成形になったのかという理由こそ追究すべき問題と思います。そこにも歴史的必要性があったと考えるからです。
 わたしは九州王朝説に基づいて、次のような背景を推定しています。すなわち、多利思北孤による太宰府遷都(倭京元年、618年。注②)と律令制統治体制確立による急激な人口増加が太宰府地区で発生したため、それに対応した食器量産体制拡充のため、より生産性が高い回転台成形が土師器にも採用されたとする理解です。当然、これは須恵器増産のための牛頸窯跡群拡大と軌を一にした政策と考えざるを得ません。そうすると、その時期は七世紀前半頃に位置づけるのが穏当となるのですが、中島さんの編年とは50年ほど異なり、太宰府土器編年の検討が必要となるわけです。
 なお、中島さんのいう「大宰府官制」とは、王朝交替後の『大宝律令』下における八世紀の「大宰府官制」を指していますから、そのこと自体は妥当な見方です。実際に七世紀中頃に減少した牛頸窯跡群は八世紀になると再び増加していることが知られています(注③)。ですから、七世紀中頃の九州王朝律令官制確立の時期と回転台成形土師器の発生時期との考古学的対応の検討が重要です(注④)。その当否はまだわかりません。これから精査したいと思います。(つづく)

(注)
①中島恒次郞「日本古代の大宰府管内における食器生産」『大宰府の研究』高志書院、2018年。
②古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
 古賀達也「太宰府建都年代に関する考察 ―九州年号『倭京』『倭京縄』の史料批判―」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
 正木裕「盗まれた遷都詔 ―聖徳太子の「遷都予言」と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
③石木秀哲(大野城市教育委員会ふるさと文化財課)「西海道北部の土器生産 ~牛頸窯跡群を中心として~」『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 ―発表資料集―』2017年。(同年2月に開催された「九州国立博物館『大宰府学研究』事業、熊本県『古代山城に関する研究会』事業、合同シンポジウム」の資料集)
④拙論〝前期難波宮九州王朝複都説〟によれば、「七世紀中頃の九州王朝律令官制確立の時期」には前期難波宮も含まれるので、検討範囲は難波地域(大阪市)や陶邑窯跡群(堺市)も対象となる。


第2541話 2021/08/17

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (17)

 ―九州年号「継体」の非「仏典」的性格―

 中断していた九州年号の出典調査を再開しました。今回は「継体」(517~521年)です。現存する最古の九州年号群史料として著名な『二中歴』「年代歴」に見える最初の九州年号が「継体」です。その他の九州年号群史料に「継体」はなく、その次の「善記」(522~525年)を最初の年号としています。
 これらの史料状況から、最初の九州年号が「継体」か「善記」かで、古田学派内では諸説が出されていました(注①)。古田先生やわたしは九州年号研究の結論として、『二中歴』「年代歴」が持つ史料的な信頼性、「継体」という天皇諡号が「九州年号」として誤って追加されることは考えにくいという論理性を重視し、「継体」を最初の九州年号とする見解に落ち着きました(注②)。しかし、それではなぜ他の九州年号史料に「継体」は見えず、「善記」を「年号の始め」とする記事が散見するのかという、うまく説明できない問題がありました。
 そのような研究状況にあって、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から、「継体」は九州年号「善記」建元時において、過去に遡って追号された年号とする仮説を発表されました(注③)。こうした研究を背景にして仏典調査を行ったところ、『大正新脩大蔵経』検索サイト(注④)でヒットした「継体」は全て七世紀から中世に成立した次の仏典でした。すなわち、いずれも「継体」(517~521年)年号よりも後代のもので、出典として適切なものではありません。

【「継体」が見える仏典】
○『辯正論』唐の法琳の著。 高祖の武徳九年(626年)の撰。八巻十二篇。
○『大唐西域記』唐僧玄奘がインド周辺の見聞を口述し、弟子の弁機がそれを筆録したもの。貞観二十年(646年)の成立。全12巻。
○『北山録』唐の神清(霊庾と号す)の撰。元和元年(806年)に成立。
○『佛祖統紀』南宋の僧志磐が咸淳五年(1269年)に撰した仏教史書。全54巻。
○『海東高僧傳』朝鮮、古代三国の高僧の伝記を集めた書。高麗の覚訓撰。高宗二年(1215年)に撰述。
○『演義抄』湛叡(1271-1346年)による。
○『五教章通路記』鎌倉時代後期の東大寺の学僧、凝然(1240-1321年)による。
○『佛祖歴代通載』古代より元統元年(1333年)に及ぶ仏教編年史書。撰者は元代の梅屋念常。全22巻。
○『夢窓正覺心宗普濟國師語綠』夢窻疎石は、鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧・作庭家・漢詩人・歌人。

 以上の史料状況によれば、「継体」は非「仏典」的な年号であり、仏典の影響を色濃く受けた「善記」以降六世紀の九州年号とは異なり、仏典を出典としない異質な年号のようなのです。このことが西村説と整合するのか、あるいは「継体」は九州年号ではなく誤伝の類いとする説の根拠となるのか、検証のための新視点になるのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①丸山晋司「古代逸年号“『二中歴』原形論”批判」『古代逸年号の謎 ―古写本「九州年号」の原像を求めて』(株式会社アイ・ピー・シー刊、1992年)は「継体」を九州年号ではなく誤伝とする。
②古田武彦『失われた九州王朝』朝日文庫版「補章 九州王朝の検証」(朝日新聞社、1993年)にて、『二中歴』の九州年号が原型であることの説明がなされている。
 古賀達也「洛中洛外日記」349話(2011/11/15)〝九州年号の史料批判(4)〟
 古賀達也「九州年号の史料批判 ―『二中歴』九州年号原型論と学問の方法―」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)明石書店、2017年。
 古賀達也「九州王朝の建元は『継体』か『善記』か」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)明石書店、2017年。
③西村秀己「倭国(九州)年号建元を考える」『古田史学会報』139号2017年4月。
④SAT大蔵経テキストデータベース研究会 https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.php


第2540話 2021/08/16

太宰府出土、須恵器と土師器の話(5)

 本テーマで紹介した「須恵器杯Bや律令制国家官僚群は、七世紀の中葉頃、九州王朝(倭国)の都(太宰府)にて、他に先駆けて成立した」とする仮説には、有利な点と克服すべき課題を併せ持っています。このことについて説明します。
 まず、有利な点ですが、「飛鳥編年」など既存の土器編年を北部九州以外では基本的にそのまま採用できるということにあります。修正の対象が太宰府を中心とする北部九州(須恵器の先進地域)の土器編年であるため、新たな土器編年の検討作業を「九州編年」に集中することができます。
 克服すべき課題は、太宰府土器編年の見直しの方法論の確立です。具体的には次の諸点です。

(1) 杯Gや杯Bの相対土器編年と絶対編年(暦年)とのリンク。
(2) 文献史学による太宰府遺跡の編年と土器編年の整合。
(3) 各太宰府遺跡(政庁Ⅰ期・Ⅱ期、観世音寺、朱雀大路、太宰府条坊、水城、大野城、基肄城、土塁、阿志岐山城、等)相互の造営年代の整合。

 以上の諸点ですが、なかでも(1)が最も重要で困難な作業になります。土器編年を暦年にリンクするためには、科学的年代測定か確かな文献史料との対応が必要となりますが、後者の九州王朝系史料は極めて少なく、仮にあったとしても通説支持者はそれを史実とは認めないと思います。
 前者の場合、近年精度を増したとはいえ、炭素同位体比年代測定法の測定値には年代幅があり、七世紀(百年間)のなかで、杯H・杯G・杯Bと変化した土器編年と正確にリンクさせるのは困難です(注)。その点、年輪年代測定法は樹皮が遺っていればピンポイントで伐採年を判定できますが、伐採年と遺跡造営年が一致するのかどうかについては、木材の転用・再利用などの可能性があり、やはり研究者の解釈による恣意性が発生しそうです。
 このようにわたしの仮説の証明には大きな壁が待ち受けています。(つづく)

(注)大宰府政庁や水城の炭素同位体比年代測定の難しさを指摘した次の論稿を筆者は発表した。
○「理化学的年代測定の可能性と限界 ―水城築造年代を考察する―」『九州倭国通信』186号、2017年5月。
○「太宰府条坊と水城の造営時期」『多元』139号、2017年5月。
○「太宰府都城の年代観 ―近年の研究成果と九州王朝説―」『多元』140号、2017年7月。
○「前畑土塁と水城の編年研究概況」『古田史学会報』140号、2017年8月。
○「太宰府『倭の五王』王都説の検証 ―大宰府政庁編年と都督の多元性―」『多元』164号、2021年7月。
○「太宰府『倭の五王』王都説の限界 ―九州大学「坂田測定」の検証―」『多元』165号、2021年9月(予定)。


第2539話 2021/08/15

太宰府出土、須恵器と土師器の話(4)

 七世紀における須恵器杯Bの発生と増加の背景に、机で執務・食事をする律令制官僚群の誕生があったとする作業仮説をわたしは抱いていますが、このことを九州王朝説の視点から考察すると次のようになります。

(1) 九州年号の倭京元年(618年)に筑後から太宰府に遷都した多利思北孤の時代は全国統治の初期段階と考えられ、太宰府官衙に机で執務・食事する国家官僚群が配置・増員された。
 これに対応するように牛頸窯跡群から官僚用食器として須恵器杯Bの製造と供給が開始された。同窯跡群の生産活動が六世紀末から七世紀初頭にかけて急増するという考古学的出土事実がある。
 従って、杯Bの発生は七世紀中葉頃と考えている。以前、わたしは北部九州での杯B発生を七世紀初頭と考えていたが(注①)、それでは通説との乖離が大きくなり、やや早すぎると思われることもあって、「中葉頃」とする表現がより適切と現時点では考えている。七世紀中葉(約634~666年)の内のどの時期が有力かは、まだ確定できていない。

(2) 九州王朝(倭国)の律令制による全国統治が進むにつれ、七世紀中葉~後葉にかけて各地に国衙・評衙が造営され、地方官僚の配備と地方長官の派遣が始まる。それに伴って杯Bが各地に伝播し、七世紀第3四半期頃には各地で杯Bが一斉に普及し始める。その痕跡として、660~670年頃の遺跡層位から杯Bが出土し始める。なお、この出土事実と『日本書紀』に基づいて飛鳥編年は作られた。

(3) 七世紀中頃には評制による本格的な全国統治体制が確立し始める(注②)。九州年号の白雉元年(652年)には、全国統治拠点として、巨大な難波複都(前期難波宮と条坊都市)が完成する。そこで執務する数千人に及んだであろう国家官僚のために、陶邑窯跡群(堺市)でも杯Bの製造が始まり、難波京や周辺各地に供給された。
 前期難波宮整地層からは杯Bの出土は見られず(注③)、前期難波宮の活動時期の層位から杯Bの出土がみられる事実は、この仮説に対応している。すなわち、それまでの近畿地方には杯Bを必要とするような律令制国家官僚群は存在していなかった(倭国の都は近畿地方になかった)。

 九州王朝説に立てば、以上のような解釈(歴史理解)が可能です。すなわち、須恵器杯Bや律令制国家官僚群は、七世紀の中葉頃、九州王朝(倭国)の都(太宰府)にて、他に先駆けて成立したとする仮説です。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1214話(2016/06/21)〝「須恵器杯B」発生の理由と時期〟において、次のように述べていた。
〝わたしは大阪歴博の考古学者の7世紀の難波の土器(須恵器)や瓦(四天王寺創建瓦:620年頃と展示。『二中歴』にも「倭京二年(619)の創建」と記されており、歴博の展示と一致)の編年は正確であると支持していますが、須恵器杯Bの発生について、九州王朝(北部九州、大宰府政庁1期下層出土など)において7世紀初頭頃と考えています。〟
②古賀達也「古田先生との論争的対話 ―「都城論」の論理構造―」『古田史学会報』147号、2018年8月
③前期難波宮水利施設造成時の客土層から出土した大型の〝杯Bの蓋〟(1点)について、江浦洋氏(大阪府文化財センター次長)は「普通の杯Bよりも大きめの坏で、いわゆる杯Bの範疇外」と筆者からの質問に返答された(2017年1月、「古田史学の会」新春古代史講演会にて)。
 また、佐藤隆『難波宮址の研究 第十一 前期難波宮内裏西方官衙地域の調査』(2000年3月、大阪市文化財協会)にも、前期難波宮整地層から須恵器杯Bは出土していないとされている。
 他方、小森俊寬『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 ―日本律令的土器様式の成立と展開、七~十九世紀―』(京都編集工房、2005年11月)において、前期難波宮整地層からの出土とされた杯Bは、いずれも後期難波宮整地層からの出土であり、前期難波宮整地層出土としたのは小森氏の誤認であることをわたしは次の論稿で指摘した。
○古賀達也「前期難波宮『天武朝造営』説の虚構 ―整地層出土「坏B」の真相―」『古田史学会報』151号、2019年4月。
○古賀達也「洛中洛外日記」1823~1839話(2019/01/12~02/17)〝難波宮整地層出土「須恵器坏B」の真相(1)~(5)(補)〟


第2538話 2021/08/14

太宰府出土、須恵器と土師器の話(3)

 須恵器杯の様式が大きく変化する七世紀ですが、その変化の概要は次のようにとらえられています。古墳時代から長く続いた杯Hの様式に重なるように、七世紀中葉に杯Gが発生します。そして、後葉になって杯Bが出現し、杯Hは激減します。しかも、この変化はほぼ全国的に一斉に進みます。わたしはこうした須恵器杯の様式変化は、九州王朝の全国統治の歴史に連動しているという作業仮説を持っています。このことについて説明します。
 七世紀の須恵器杯様相変化で、わたしがもっとも注目するのが杯Bの発生理由で、その機能性が変化の主要因と考えています。既に指摘されてきたことでもありますが(注)、杯身の底に足が付いた杯Bの最大の機能は、平たい机や台の上に安定して置くことができるということであり、食事の容器と考えられる須恵器杯ですから、机の上に食器を並べて食事するという習慣が生まれたことが、杯B発生の背景にあったと考えられます。しかも、三大窯跡群の一つである牛頸窯跡で大量の土器が六世紀末から七世紀初頭に製造され始めるのですから、杯Bも大量に太宰府条坊都市に供給されたことを疑えません。
 そのことから、机の上に食器を置いて食事する大勢の人々が発生したと考えざるを得ず、結論を言えば、机の上で執務する多くの文書官僚が誕生したことが杯B発生の主要因と思われます。たとえば律令制により全国統治するためには行政文書(命令書、報告書、戸籍類、役務や徴税、徴兵などの記録、他)の作成管理が不可欠です。その際、官僚たちが毎日床に這いつくばって行政文書を書いたとは考えられず、やはり机の上で執務したと思います。そして、食事もその机で、あるいは執務とは別の机で取るようになったと思われます。
 そうした多くの中央官僚たちが執務・食事する所こそ、権力中枢の地、すなわち「都(みやこ)」ではないでしょうか。ですから、杯Bの発生とその大量消費は、多くの律令制中央官僚の誕生、すなわち王朝による建都や遷都に連動した動きとわたしは考えています。(つづく)

(注)古賀達也「洛中洛外日記」1214話(2016/06/21)〝「須恵器杯B」発生の理由と時期〟で、小田裕樹さん(奈良文化財研究所研究委員)へのインタビューコラム「土器が語る食卓の『近代化』」(2016年6月1日・朝日新聞夕刊)の次の記事を紹介した。
 「推古天皇や聖徳太子が活躍した7世紀前半は、丸底の食器を手に持ち、手づかみで食べる古墳時代以来のスタイル。しかし7世紀後半の天智・天武天皇の時代に、平底から高台つきの食器を机や台に置き、箸やさじで料理を口に運ぶ大陸風のスタイルに変わったようです」


第2537話 2021/08/14

太宰府出土、須恵器と土師器の話(2)

 牛頸(うしくび)窯跡群から太宰府条坊都市に供給された食器(土器)は須恵器と土師器です。土師器は淡いオレンジ色がかった土器で、主に煮炊き用に使用されたと考えられています。須恵器は青みがかった灰色の土器で、こちらは食事用の容器、今でいえばお茶碗として使用されていたようです。須恵器の方が高温の還元炎で焼成するため、堅くて丈夫です。五世紀初頭頃に朝鮮半島から九州王朝(倭国)に伝わったようで、わが国最古の須恵器窯跡遺跡は福岡県筑前町(小隈・山隈・八並窯跡群等)から発見されています(注)。
 この須恵器は、なぜか七世紀になると様相が急に進化し始めるので、土器編年に使用されています。大きな変化の目安として、古墳時代から続く丸底で丸い蓋を持つ「杯(つき)H」から始まり、蓋につまみが付く「杯G」、更に底に足が付く「杯B」と変化し、その様相の違いを利用して相対編年が可能となります。実際には細部の形式変化や大きさ(法量)の変化も利用して、より詳しく分類・編年されています。それについては専門的になりますので、ここでは説明を省きます。
 これら須恵器杯の中で、わたしが最も注目しているのが杯Bです。その様式変化の理由と背景、その発生時期が九州王朝史と密接な関係があると考えています。なぜなら、その様式変化には必ず理由(歴史的必要性)があったはずだからです。(つづく)

(注)古賀達也「洛中洛外日記」1488~1494話(2017/08/26~09/03)〝須恵器窯跡群の多元史観(1)~(5)〟
 古賀達也「須恵器窯跡群の多元史観 ―大和朝廷一元史観への挑戦―」『古田史学会報』144号、2018年2月。