新井白石と
佐久間洞巌(『奥羽観蹟聞老志』の編者)
佐久間洞巌は『奥羽観蹟聞老志』で、栗原郡の八所權現に「善喜二年三月日」の銘文を持つ古い鰐口があると記していますが、その「善喜」については「按ニ善喜ノ年號不見」と説明し、従来の史書などに見えない年号としています。そして、年号の二文字目に「喜」の字があるのは「七十代後冷泉帝天喜」しかないと解説しています。
他方、佐藤信要は『封内名蹟志』において、「喜」の字を持つ年号として「延喜」と「寛喜」を加え、『奥羽観蹟聞老志』の不備を補っています。しかし、この鰐口の存在自体は認めており、「善喜」という年号が従来史料に見えないものであることには修正が施されておらず、洞巌の見解に従っています。そこで問題となるのが、洞巌は九州年号、なかでも「善記」年号(522~525年)を知っていたのかという点です。もし知っていれば、そのことに触れたと思うのです。二文字目の「喜」については「七十代後冷泉帝天喜」の存在を指摘したほどですから、年号としては九州年号「善記」以外には見当たらない(注①)「善」の字についても何かしらの見解が付記されてもよいと思うからです。このことは佐藤信要の『封内名蹟志』でも同様です。
江戸時代の伊達藩の学者、佐久間洞巌が九州年号や正史に見えない逸年号の存在を全く知らないはずはないと思うのですが、現時点ではその調査がまだ完了していません。しかし、佐久間洞巌の名前にわたしは見覚えがありました。『「九州年号」の研究』(注②)に収録した拙稿「『九州年号』真偽論の系譜」で洞巌の名前に触れていたからです。
〝江戸時代の学者新井白石は、当初、水戸藩による『大日本史』編纂事業に期待していたようですが、後にその内容に失望し、友人の佐久間洞巌に次のような厳しい手紙を出しています。
「水戸でできた『大日本史』などは、定めて国史の誤りを正されることとたのもしく思っていたところ、むかしのことは『日本書紀』『続日本紀』などにまかせきりです。それではとうてい日本の実事はすまぬことと思われます。日本にこそ本は少ないかもしれないが、『後漢書』をはじめ中国の本には日本のことを書いたものがいかにもたくさんあります。また四百年来、日本の外藩だったとも言える朝鮮にも本がある。それを捨てておいて、国史、国史などと言っているのは、おおかた夢のなかで夢を説くようなことです。」『新井白石全集』第五巻518頁〟
白石は九州年号真作説に立っていますが、もちろん九州王朝の年号という理解ではなく、正史から漏れた逸年号と捉えています。そのことは、水戸藩の友人の安積澹泊に出した次の手紙からわかります。
〝朝鮮の『海東諸国紀』という本に本朝の年号と古い時代の出来事などが書かれていますが、この年号はわが国の史書には見えません。しかしながら、寺社仏閣などの縁起や古い系図などに『海東諸国紀』に記された年号が多く残っています。干支などもおおかた合っているので、まったくの荒唐無稽、事実無根とも思われません。この年号について水戸藩の人々はどのように考えておられるのか、詳しく教えていただけないでしょうか。
その時代は文字使いが未熟であったため、その年号のおおかたは浅はかなもので、それ故に『日本書紀』などに採用されずに削除されたものとも思われます。持統天皇の時代の永昌という年号も残されていますが(那須国造碑)、これなども一層の不審を増すところでございます。〟『新井白石全集』第五巻284頁
新井白石(1657~1725年)と佐久間洞巌(1653~1736年)は同時代の学者で学問的交流もありました。ですから、洞巌がいわゆる九州年号の存在を知らなかったとは考えにくいのです。この時代、著名な学者たち(注③)が九州年号の真偽について論じていたことは先の拙稿「『九州年号』真偽論の系譜」でも紹介したところです。洞巌の九州年号に関する知見や認識については、『奥羽観蹟聞老志』などの著書を改めて精査した上で論じたいと思います。(つづく)
(注)
①『東方年表』平楽寺書店、1988年版による。
②『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
③筑前黒田藩の学者、貝原益軒(1630~1714年)は『倭漢名数』『続倭漢名数』で九州年号偽作説を唱えている。