九州王朝(倭国)一覧

第2805話 2022/08/09

足立喜六訳注『入唐求法巡礼行記』を再読

 足立喜六氏の『長安史蹟の研究』(注①)を「洛中洛外日記」2804話(2022/08/08)〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (13)〟で紹介しましたが、わたしは足立氏のお名前に見覚えがありました。それは東洋文庫に収録されている円仁の『入唐求法巡礼行記』(注②)の訳注を施された人物として記憶していたのです。
 今から二十数年前に、『三国志』倭人伝の行程(里数)表記の様式が後代史料(主に旅行記)にどのような影響を与えているのかを調べたことがあります。そして『海東諸国紀』(注③)や『老松堂日本行録』(注④)などに倭人伝の行程記事の影響や関連性を見つけたりしました。そのときに『入唐求法巡礼行記』も読み、訳注者の足立氏の名前に触れたのです。今回、唐代の1里の調査をしていたら、懐かしい足立喜六氏のお名前に出会い、同書を久しぶりに読みました。
 同書は円仁(794~864年)の唐の五台山・長安への巡礼日記です。各旅程間の里数が事細かに記されており、唐代の里程研究にも使用できる史料です。こうした中国内の里数を日本から来た円仁に実測できるはずもありませんから、当時の中国人から聞いた、当地の里程認識が記されたものと考えざるをえません。当時の唐里は足立氏の研究によれば1里約440mの「小程」であり、円仁が記した里程もこの「小程」での値と思われます。ところが、この「小程」による里数が後の「大程」(1里約530m)での里数と異なるため、そのことを疑問視する記事が塩入良道氏による同書補注に見えます。

 「西京から二千来里については、〈小野本注〉では千三百―千六百の諸説を挙げ、実際は千五、六百里であろうとする。」(『入唐求法巡礼行記2』112頁)

 西京(長安)から北京(太原府)まで二千里とする『入唐求法巡礼行記』原文に対して、「実際は千五、六百里であろう」と、小野本の注者(小野勝年氏)は疑っているわけです。おそらく、小野勝年氏には唐代の「小程」の認識がなく、地図上の距離を「大程」で換算したのではないでしょうか。同時に、何の説明もなく小野本の注を補注で紹介した塩入良道氏にも足立氏が提起した「小程」の認識がなかったのかもしれません。ちなみに、「小程」で里程記事を理解していた足立氏は当該部分に注をいれていません。『入唐求法巡礼行記』の里程記事は『旧唐書』地理志と同様に、「小程」で理解しなければならないのです。

(注)
①足立喜六『東洋文庫論叢二十之一 長安史蹟の研究』財團法人東洋文庫、昭和八年(1933年)。
②円仁『入唐求法巡礼行記』足立喜六訳注・塩入良道補注、平凡社・東洋文庫157・442、1970年・1985年。
③申叔舟『海東諸国紀』岩波文庫、田中健夫訳注、1991年。当書と倭人伝の行程表記の類似について、次の拙稿で指摘した。
 古賀達也「洛中洛外日記」2151~2153話(2020/05/12~15)〝倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(2)~(4)〟
④宋希環『老松堂日本行録 ―朝鮮通信使が見た中世日本―』岩波文庫、村井章介校注、1987年。当書と倭人伝の韓国内陸行行程の類似について、次の拙稿で紹介した。
 古賀達也「洛中洛外日記」997話(2015/07/09)〝老松堂の韓国内陸行〟


第2804話 2022/08/08

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (13)

 唐代の1里を何メートルとするのかについて、唐代の尺(モノサシ)を求め、その実測値から1里に換算するという方法がありますが、唐尺には小尺(約24cm)と大尺(約30cm)とがあるため、どちらの尺を採用したかで、「小里」(約430m)と「大里」(約540m)という大差が発生します。この問題の存在に気づいていましたので、『旧唐書』地理志の里程記事は「小里」で記されたのではないかと推定していました。しかし、そのことを結論づけるだけの史料根拠や正確な検証方法がわかりませんでした。そこで、京都府立図書館で先行研究論文を調査し、次の記事を見つけました。

 「唐尺に關しては徳川時代以來議論があつて、その大尺を棭齋の如く九寸七分とするものヽ外、曲尺と同じとし又は九寸八分弱とする説がある。近頃でも關野博士は後者を採り(平城考及大内裏考二二頁)足立氏は前者に與さる。(前掲書三〇頁以下)この両説に對して棭齋は本朝度考中に詳しく批判してゐるから茲には論究しない。足立氏は大尺を曲尺の一尺として、唐里は大程が曲尺の千八百尺、小程が曲尺の千四百九十九尺四寸とする。棭齋の考證より算出した里程とは五十尺前後の差があるが、小程は大約わが四町に、大程は五町に相當するといひうるであらう。而して大程は長安、洛陽両京の城坊に適用されたのみで、一般にはなほ漢里の訛長した小程が用ひられた。唐末から宋代に至って漸く一般に大程が行はれたのである。(足立氏前掲書四九頁)」森鹿三「漢唐の一里の長さ」(注①)

 ここに見える「小程」「大程」こそ、わたしが仮称した「小里」「大里」に相当します。そして、注目したのが「大程は長安、洛陽両京の城坊に適用されたのみで、一般にはなほ漢里の訛長した小程が用ひられた。唐末から宋代に至って漸く一般に大程が行はれたのである。」という指摘でした。そこで、この「小程」「大程」という概念の出典を調べたところ、足立喜六氏の『長安史蹟の研究』(注②)でした。そこでは次のように定義されています。

「左に唐里の大程と小程とを比較すると、
 大程 一歩は大尺五尺、一里は三百六十歩、即ち大尺一千八百尺。
 小程 一歩は小尺六尺、一里は三百歩、即ち小尺一千八百尺で、我が曲尺千四百九十九尺四寸。
 である。」(44頁)

 そして、『旧唐書』地理志などの里程記事は小程で記されていると、次のように指摘しています。

 「兎に角唐里の長安・洛陽間の八百五十里は小程の計算であって、事實に適合することが推定せられる。なほ又他の地方に就いても、舊唐書地理志の里程と實測里程とを比較して見ると、皆小程を用ひたことが明である。同時に漢書及び舊唐書に記載した里程は決して無稽の數字でないことが知られる。
 以上の諸例に就いて考へて見ると、大程は隋若くは初唐に制定せられて、之を両京の城坊に適用したが、一般に励行せられたのではなくて、地方の里程・天文又は司馬法の如き舊慣の容易に改め難いものは、なほ舊制に近い小程が用ひられたのである。茲にも前に述べた劃一的でなく、また急進的でない支那の國民性が窺はれる。我が大寶令雑令の
  凡度地五尺為歩、三百歩為里。
も亦此の小程を採用したものだと思はれる。大程は唐末から宋代に至って漸く一般に行はれる様になったと見えて、宋史・長安志・新唐書の類が皆之を用ひて居る。」(49~50頁)

 以上のように、わたしが悩み続けて至った「小里」「大里」という概念が、昭和八年に「小程」「大程」として既に発表されていたのでした。先達、畏敬すべきです。なお、足立喜六氏(1871~1949)は土木技術者・数学の専門家で、長安遺跡の実地踏破を行った人物です。(つづく)

(注)
①森鹿三「漢唐の一里の長さ」『東洋史研究』1940年。
②足立喜六『東洋文庫論叢二十之一 長安史蹟の研究』財團法人東洋文庫、昭和八年(1933年)。


第2802話 2022/08/06

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (12)

 唐代の1里を何メートルとするのかについて、先行研究を調査していますが、おおよそ次のような求め方が見られます。

(1)唐代の尺(モノサシ)を求め、その実測値から1里を換算するという方法。
(2)歴代史書に見える「尺」の変遷記事に基づき、より確かな時代の尺(モノサシ)の実測値から換算する。
(3)そうして得られた唐代の1里が長安城遺跡などの実測値に対応しているか確認する。また、『旧唐書』地理志などの里程記事との対応を検証する。

 この方法論で最初に問題となるのが、(1)の唐代のモノサシの実測値です。多数出土・伝存している唐尺には微妙に差(28cm~31.35cm。注①)があり、1800尺を1里と計算するため、その小差が1800倍に広がり、計算上の1里に更に差が生じるという問題があります。『中国古典文学大系 22 大唐西域記』(平凡社 1971)補注〝『西域記』の「一里」の長さ〟に見える、「里数を計る基礎となる唐尺の現存するものは多数あるが、その長さには小差があり、従って一定の公認された数値としては今日なさそうである。」という解説はそのことを意味しています。
 しかも、唐尺には小尺(約24cm)と大尺(約30cm)という、もっと大きな差があります(注②)。この差が1800倍され、「小里」と「大里」(いずれも古賀による仮称)の発生原因となるわけです。(つづく)

(注)
①矩斎「古尺考」(藪田嘉一郎『中国古尺集説』綜芸舎、1969年)の「現存歴代古尺表」によれば、唐代の尺(モノサシ)14品が掲載され、その1尺の実測値は28cm~31.35cmである。
②山田春廣氏(古田史学の会・会員、鴨川市)のブログ「sanmaoの暦歴徒然草」(2021年12月22日)〝実在した「南朝大尺」 ―唐「開元大尺」は何cmか― 〟によれば次の唐尺がある。
 唐小尺 金工 長さ24.3cm
 唐玄宗開元小尺 金工 長さ24.5cm
 唐玄宗開元大尺 金工 長さ29.4cm
  ※開元尺は、唐の玄宗皇帝が開元年間(713年~741年)に『開元令』で定めたとされているもの。
 従って、どの尺単位を1800倍するかで1里の長さは大きく変わる。
 唐小尺  24.3cm×1800=437.4m
 唐玄宗開元小尺 24.5cm×1800=441m
 唐玄宗開元大尺 29.4cm×1800=529.2m


第2801話 2022/08/05

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (11)

 表記テーマは、「洛中洛外日記」2660話(2022/01/13)〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (10)〟以来です。当研究をサボっていたわけではなく、『旧唐書』地理志に見える里程記事の理解が難しく、筆が進まなかったことによります。たとえば、実測距離計算が比較的可能なケースでも、下記のように一里の長さがバラバラで、この基本問題の解決が難しかったのです。

○京師⇒河南府(洛陽) 「在西京(長安)東八百五十里」 327km〔1里385m〕
○京師⇒卞州 「在京師東一千三百五十里」 497km〔1里368m〕
○東都⇒卞州 「東都四百一里」 170km〔1里424m〕
○京師⇒徐州 「在京師東二千六百里」 757km〔1里291m〕
○東都⇒徐州 「至東都一千二百五十七里」 435km〔1里346m〕

 このなかで、より安定した実測値が出せるのが京師・河南府(洛陽)間でした。唐が京師(長安)と東都(洛陽)の東西二京制を採用していたこともあり、両都間の距離を記した「在西京(長安)東八百五十里」の記事は信頼性が高いことと、その陸路が黄河南岸にほぼ沿ったルートであり、地図上の実測値と実際の道行き距離が大きくは異ならないと判断できるからです。この理解を補強する地理志の次の里程記事もあります。

○京師⇒華州 「在京師東一百八十里、去東都六百七十里」

 華州は京師(長安)と東都(洛陽)の間にあり、京師までの180里と東都までの670里の合計がちょうど850里です。
 そして、長安・洛陽間は水路として黄河も使用できますので、その南岸を通る陸路が大きく迂回したり、両京間が不必要なじくざぐ行程になっていたとは考えにくいのです。それこそ、東西の都を最短距離の軍用道路で繋いだとしても不思議ではありません。こうした理解から、地理志の里程記事が一里530mや560mで書かれているとは、わたしには考えられないのです。両京間は地図上では約327kmですが、もし一里を530mや560mとすれば、その距離は450.5kmと476kmになり、実測値と大きくかけ離れてしまいます。
 しかしながら、唐代の一里についての先行研究においては、約320m(注①)から約560m(注②)までの諸説があり、当問題がそれほど簡単には解決できないこともわかってきました。このように悩み抜いた末、ようやく問題の所在と解決の糸口が見えてきましたので、本テーマを再開することにしました。まだ研究途上ですが、わたしの理解したところを紹介することにします。(つづく)

(注)
①『中国古典文学大系 22 大唐西域記』(平凡社 1971)補注の〝『西域記』の「一里」の長さ〟(416頁)に、「里数を計る基礎となる唐尺の現存するものは多数あるが、その長さには小差があり、従って一定の公認された数値としては今日なさそうである。その大略について言えば、唐代には大小二種の尺度がある(日本の曲尺と鯨尺のもと)。」として、唐代の一里を320m、441m、453m、454mとする説があることを紹介している。
②『中国古典文学大系 57 明末清初政治評論集』(平凡社 1982)巻末の「中国歴代度量衡基準単位表」には、「唐・五代」での一里は559.80mとある。


第2800話 2022/08/01

倭国(九州王朝)の天子と蝦夷国の参仏理大臣

 羽黒山を開山したと「勝照四年」棟札(注①)に記された「能除大師」は「参仏理大臣(みふりのおとど)」という名前でも伝承されています(注②)。わたしはこの能除の別称に「大臣」という官職名が付いていることが気になっていました。「勝照四年」(588年)の頃ですから、羽黒山は蝦夷国内と思われ、それであれば能除は蝦夷国の大臣だったのだろうか、あるいは倭国(九州王朝)の大臣が布教のために蝦夷国内の出羽に派遣されたのだろうかと考えあぐねていたのです。ところが意外なことから決着が付きました。
 「洛中洛外日記」で連載した蝦夷関連の拙稿を読み返していたら、次のことを既にわたしは書いていました。それは「洛中洛外日記」2391話(2021/02/25)〝「蝦夷国」を考究する(8) ―多利思北孤の時代の蝦夷国―〟で紹介した次の『日本書紀』の記事でした。

○『日本書紀』敏達十年(581年)閏二月条
 十年の春閏二月に、蝦夷数千、邊境に冦(あたな)ふ。
 是に由りて、其の魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)等を召して、〔魁帥は、大毛人なり。〕詔(みことのり)して曰はく、「惟(おもひみ)るに、儞(おれ)蝦夷を、大足彦天皇の世に、殺すべき者は斬(ころ)し、原(ゆる)すべき者は赦(ゆる)す。今朕(われ)、彼(そ)の前の例に遵(したが)ひて、元悪を誅(ころ)さむとす」とのたまふ。
 是(ここ)に綾糟等、懼然(おぢかしこま)り恐懼(かしこ)みて、乃(すなわ)ち泊瀬の中流に下て、三諸岳に面(むか)ひて、水を歃(すす)りて盟(ちか)ひて曰(もう)さく、「臣等蝦夷、今より以後子子孫孫、〔古語に生兒八十綿連(うみのこのやそつづき)といふ。〕清(いさぎよ)き明(あきらけ)き心を用て、天闕(みかど)に事(つか)へ奉(まつ)らむ。臣等、若(も)し盟に違はば、天地の諸神及び天皇の霊、臣が種(つぎ)を絶滅(た)えむ」とまうす。

 この記事は三段からなっており、一段目は蝦夷国と倭国との国境付近で蝦夷の暴動が発生したこと、二段目は、倭国の天子が蝦夷国のリーダーとおぼしき人物、魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)等を呼びつけて、「大足彦天皇(景行)」の時のように征討軍を派遣するぞと恫喝し、三段目では、綾糟等は詫びて、これまで通り「臣」として服従することを盟約した、という内容です。
 すなわち、綾糟らは自らを倭国(九州王朝)の「臣」と称し、倭国(九州王朝)と蝦夷国は、「天子」とその「臣」という形式をとっていることを現しています。これは倭国(九州王朝)を中心とする日本版中華思想として、蝦夷国を冊封していたのかもしれません。従って、能除の別称が「参仏理大臣」であることは、この『日本書紀』の記述通りであり、倭国の臣下として蝦夷国の有力者であろう能除の別称としてふさわしいのです。
 敏達十年(581年、九州年号の鏡當元年)は能除による羽黒山開山「勝照四年」(588年)の七年前であり、時期的にも対応しています。こうして、倭国(九州王朝)と蝦夷国との歴史が一つ明らかになったと思われます。ちなみに、『拾塊集』(注③)には「能除太子者崇峻天皇之子也」とあり、没年月日を「舒明天皇十三年(641年)八月二十日」(九州年号の命長二年)としています。

(注)
①『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』国立歴史民俗博物館、平成九年(1997)。表面に次の記載がある。
「出羽大泉荘羽黒寂光寺
 (中略)
 羽黒開山能除大師勝照四年戊申
  慶長十一稔丙午迄千十九年」
②「出羽三山史年表(戸川安章編)」(『山岳宗教史研究叢書5 出羽三山と東北修験の研究』昭和50年(1975)、名著出版)によれば、能除の別称を「参弗理大臣」とする。
 『出羽国羽黒山建立之次第』(同)には「崇峻天皇の第三の御子、(中略)名を参弗梨の大臣と号し上(たてまつ)る。」とある。
③『拾塊集』(著者・成立年代ともに不明)『山岳宗教史研究叢書5 出羽三山と東北修験の研究』昭和50年(1975)、名著出版。


第2783話 2022/07/08

道鏡(兄)と弓削浄人(弟)の兄弟統治

 「高良玉垂宮大祭礼」(御神幸祭)が称徳天皇からの勅使参向により神護景雲元年(767年)に始まり、その二年後に宇佐八幡宮神託事件(注①)が発生していることに気づき、『続日本紀』を精査中です。宇佐八幡宮神託事件を中心に繰り返し読んでいますが、道鏡は朝廷内の権力抗争の敗者に過ぎず、皇位簒奪未遂の「悪人」と決めつけるには証拠不十分で、むしろ冤罪ではないのかと思うほど、『続日本紀』の記事は不審だらけです。この点については結論を急がず、検討を続けますが、今回、わたしが注目したのは道鏡の弟、弓削浄人(ゆげのきよひと、清人とも記される。注②)の存在です。
 弓削浄人は、天平宝字八年(764年)七月に宿禰姓を賜与され、同年九月の藤原仲麻呂の乱を経て、兄の道鏡が朝政の実権を掌握すると、従八位上から一挙に十五階の昇叙により従四位下に昇進。氏姓を弓削御浄朝臣に改め、衛門督に任ぜられます。
 天平神護元年(765年)正月に乱での功労により勲三等を与えられ、同年中に従四位上・参議として公卿に列すると、翌天平神護二年(766年)には正三位・中納言、その後も神護景雲元年(767年)に内豎卿を兼ね、同二年(768年)大納言、同三年(769年)従二位と道鏡政権下で急速に昇進を果たし、大宰帥に任じられ、大宰主神・中臣習宜阿曾麻呂と共に、道鏡を皇位に就けることが神意に適う旨の宇佐八幡宮の神託を奏上し、「宇佐八幡宮神託事件」を引き起こします。
 宝亀元年(770年)称徳天皇の崩御により道鏡と共に失脚し、弓削姓(無姓)に戻され、三人の子(広方、広田、広津)と共に土佐国へ流罪となりますが、桓武朝初頭の天応元年(781年)に赦免され、本国の河内国に戻りますが、平城京に入ることは許されませんでした。
 この道鏡(兄)と弓削浄人(弟)の関係は、仏教僧侶として法王と称された道鏡は権威の象徴で、大納言として従二位まで上り詰めた弓削浄人は権力の象徴とすれば、『隋書』俀国伝に見える阿毎多利思北孤とその弟による九州王朝独特の制度、兄弟統治(注③)を思い起こします。そして、もし道鏡が皇位につけば、おそらく法王から法皇になり、法隆寺釈迦三尊像光背銘の上宮法皇(多利思北孤)と同じ称号になります。これこそ、わたしの作業仮説(思いつき)、「物部系で筑後出身の習宜氏(阿曾麻呂)と弓削氏(道鏡)らが結託して、大和朝廷の天皇位簒奪(九州王朝王族の復権)を目論んだ事件」ということになりそうです。(つづく)

(注)
①ウィキペディアでは次のように解説している。
 宇佐八幡宮神託事件。奈良時代の神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮より称徳天皇(孝謙天皇)に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けて、弓削道鏡が天皇位を得ようとしたとされ、紛糾が起こった事件。道鏡事件とも呼ばれる。同年旧暦の10月1日(11月7日)に称徳天皇が詔を発し、道鏡には皇位は継がせないと宣言したため、事件の決着がついた。
②弓削浄人(ゆげのきよひと)、清人とも記される。道鏡の弟。氏姓は弓削連のち弓削宿禰、弓削御浄朝臣。
③『隋書』俀国伝に次の記事が見える。
 「俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出て政を聽き、跏趺坐し、日出づれば便(すなわち)理務を停め、云う『我が弟に委ねん』と。」『隋書』俀国伝
 古田先生はこの記事により、俀王は「天を兄とし、日を弟とする」という立場に立っており、俀王の多利思北孤は宗教的権威を帯びた王者であり、実質上の政務は弟に当る副王にゆだねる、そういう政治体制(兄弟統治)だと指摘された。


第2782話 2022/07/04

神護景雲元年に始まった高良社大祭礼

 上妻郡上広川庄古賀村の大庄屋で高良玉垂命の神裔、稲員安則が著した『家勤記得集』(注①)を読んでいて、とても興味深い記事に気づきました。高良玉垂宮大祭礼が神護景雲元年に始まったとする次の記事です。

「大祝旧記に曰く、玉垂宮神事祭礼年中六十余度これを執行す。然りといえども春冬二季の祭祀五月九月両会の神事をこれをもって一社の大営なり。
 称徳天皇〔第四十八代なり、孝謙帝重祚〕神護景雲元年(767年)丁未冬十月十三日勅使参向あり。明神朝妻に御幸し、大祝物部保維神輿に神体を奉遷す。(中略)これより毎歳大祭礼を行わる。光厳天皇〔第九十六代なり〕正慶二年(1333年)壬申(ママ)鎌倉北條家滅亡す。これにより諸国乱逆おこる。故に大礼断絶す。然りといえども毎歳九月九日祭礼を執行すること今に絶えず。」『家勤記得集』3頁 ※〔 〕内は二行細注。
「同(寛文)九年(1669年)己酉秋九月九日、高良社大祭礼を執行す。称徳天皇御宇始めてこれを行う。光厳天皇御宇断絶し、その後行われず。今年大祝保正と座主月光院寂源とこれを談じ、太守(久留米藩主)に訴え古例に任せこれを再興す。」同52頁

  今日の高良大社の大きなお祭りは秋の例大祭「高良山くんち」(注②)ですが、古来より最も尊重されてきたのは「高良玉垂宮大祭礼」(御神幸祭)でした。この大祭礼が称徳天皇からの勅使参向により神護景雲元年(767年)に始まったというのです。わたしはこの年次を知り、驚きました。この年の二年後に宇佐八幡宮神託事件が発生しているからです。そこで、『続日本紀』に記された同事件(注③)を精査することにしました。(つづく)

(注)
①稲員安則『家勤記得集』元禄九年(1696)。久留米郷土研究会、昭和五十年(1975)。
②旧暦の九月九日に近い十月九日に行われている祭礼。「くんち」の語源としては、「九日」や「宮日」など諸説ある。
③ウィキペディアに次の解説がある。
 宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)、奈良時代の神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮より称徳天皇(孝謙天皇)に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けて、弓削道鏡が天皇位を得ようとしたとされ、紛糾が起こった事件。道鏡事件とも呼ばれる。同年旧暦の10月1日(11月7日)に称徳天皇が詔を発し、道鏡には皇位は継がせないと宣言したため、事件の決着がついた。


第2780話 2022/07/02

筑後の弓削氏と現代の弓削さんの分布

 高良玉垂命の末裔の稲員(いなかず)家が草部・日下部を称していた頃、御井郡の大領・少領や弓削郷の戸主であったことから、筑後地方の弓削氏について史料調査しました。高良玉垂命研究の碩学、古賀壽(たもつ)さんから二十数年前にいただいた論文や史料を改めて精査したところ、次の弓削氏がありましたので紹介します。
 高良山に仏教を開基した人物は隆慶上人とされており、「白鳳二年癸酉」(673年)のことと伝えられています(注①)。この隆慶上人の伝記『高良山隆慶上人傳』には、上人の母親が弓削氏の出身であると記されています。

 「上人諱ハ隆慶。世姓ハ紀氏。人皇八代孝元天皇十一世ノ之苗裔。武内大臣八代ノ之的孫ナリ也。父ハ紀ノ護良。母ハ弓削氏ナリ。自當社垂迹已降。紀氏累代 監察シ九國ヲ 守禦ス三韓ヲ。故ニ九州尤モ重ンス 其ノ氏族。」『高良山隆慶上人傳』(注②)

 同じく高良山史料『筑後国高良山寺院興起之記』には隆慶上人の母親について次のように記されています。

「正覚寺
 白鳳七年、隆慶上人ノ寿母、弓削戸部岩人麻麻呂ガ娘、老後髪ヲ薙リ、衣ヲ染メ、北澗ニ隠ル。弥陀三尊ヲ安ンジ、二六時中唱名念仏ス。朱鳥十年六十八歳ニシテ逝ス。」『筑後国高良山寺院興起之記』(注③)

 以上の史料状況から、古代の筑後に弓削氏がいたことがわかります。また、『日本書紀』持統四年(690年)十月条に、筑紫君薩夜麻と共に唐の捕虜になった人物に「弓削連元寶の児」が見えます。筑後出身とまでは断定できませんが、筑紫君に付き従っていることから、筑紫の弓削氏と考えるべきでしょう。
 ちなみに、現代の名字としての弓削さんの分布は次の通りで、宮崎県南部や福岡県筑後地方・鹿児島県・千葉県香取市に多いことが注目されます。道鏡の出身地とされる河内国弓削村がある大阪府には濃密分布地が見えないようです。(つづく)

【弓削さんの分布】※web「日本姓氏語源辞典」で検索。
 人口 約7,000人 順位 2,093位

〔都道府県順位〕
1 宮崎県 (約900人)
2 福岡県 (約700人)
3 鹿児島県(約500人)
4 千葉県 (約500人)
5 東京都 (約400人)
6 京都府 (約400人)
7 大阪府 (約400人)
8 兵庫県 (約400人)
9 神奈川県(約300人)
10 滋賀県 (約300人)

〔市区町村順位〕
1 宮崎県 宮崎市 (約400人)
2 滋賀県 長浜市 (約200人)
3 鹿児島県 鹿児島市 (約130人)
4 福岡県 久留米市 (約130人)
4 宮崎県 小林市 (約130人)
6 福岡県 八女郡広川町(約130人)
7 宮崎県 西都市 (約120人)
8 兵庫県 加古川市 (約110人)
9 千葉県 香取市 (約100人)
10 熊本県 熊本市 (約100人)

(注)
①『高良記』(『高良玉垂宮神秘書同紙背』高良大社発行、昭和47年・1972年)には次の白鳳年号が見えることから、本来の九州年号「白鳳」(661~683年)で正しく記された「白鳳十三年癸酉」が、『日本書紀』の影響により、「天武天皇二年癸酉」→「天武白鳳二年癸酉」→「白鳳二年癸酉」へと、後代に改変されたものと思われる。これを「後代改変型白鳳」とわたしは称し、本来の九州年号と峻別する必要を主張している。
「一、天武天皇四十代、御ソクイ二年にタクセンアリテヨリ、外宮ハ サウリウナリ」 17頁
「天武天皇四十代白鳳二年ニ、御ホツシンアリシヨリコノカタ(後略)」 32頁
「人皇四十代天武天皇白鳳二年、(後略)」 39頁
「一、御託宣ハ白鳳十三年也、天武天皇即位二年癸酉二月八日ノ御法心也」 82頁
 後代改変型白鳳については、次の拙稿を参照されたい。
 古賀達也「洛中洛外日記」1883話(2019/05/03)〝改変された『高良記』の「白鳳」〟
 同「洛中洛外日記」1930話(2019/06/30)〝白鳳13年、筑紫の寺院伝承〟
②「高良山隆慶上人傳」『續天台宗全書 史傳2』天台宗典編纂所、昭和六三年(1988年)。
③古賀壽「〔訓読〕筑後国高良山寺院興起之記」『高良山の文化と歴史』第5号、高良山の文化と歴史を語る会、平成五年(1993年)。


第2779話 2022/07/01

御井郡弓削郷にいた稲員氏(草部氏)

 高良玉垂命の末裔の稲員(いなかず)家(旧・草壁氏。草部・日下部とも記される)の研究をしていたとき、同家の墓地を訪問したことがありました。墓石正面の上部に削られた痕跡があり、恐らくは家紋の菊花が削られたのではないかと思われました。稲員家は正応三年(1290)に上妻郡広川庄古賀村に転居する前は御井郡稲員村に居住しており、高良山から稲員村に移る前は草壁氏を名のっていました。
 久留米市の地図を見て驚いたのですが、その御井郡稲員村は現在の久留米市北野町にあり、道鏡を祀っていた法皇宮と同じ町内だったのです。しかも稲員氏が草部や日下部を称していた頃、御井郡の大領・少領や弓削郷の戸主であったとする史料が残っており、『家勤記得集』の「発刊によせて」(注①)で古賀壽氏がそのことを紹介しています。

〝筑後の草部氏も、『高良縁起』(石清水文書)、『高良玉垂宮縁起』(御舟本)に「長日下部公」「弓削郷戸主草部公富松」「大領草部公吉継」「少領草部公名在」などとあるところから、公(君)姓を称する古代豪族で、高良山下御井郡弓削郷を本貫の地とし、御井郡司に任じた氏族であったことが推定される。〟『家勤記得集』「発刊によせて」古賀壽

 すなわち、法皇宮がある御井郡弓削郷の戸主も後の稲員氏だったというのです。また、御井郡の郡衙は弓削郷にあったと考えられており(注②)、稲員村や弓削村(郷)の地に草部氏は郡司や戸主として重きをなしていたのです。そうすると法皇宮にあった菊花紋瓦は草部氏・稲員家の家紋だったのではないでしょうか。そして、その地で道鏡を祀っていたことになり、神護景雲三年(769)に起きた宇佐八幡ご神託事件は九州王朝王族の復権のための物部系氏族による〝共同謀議〟とする、わたしの作業仮説(思いつき)の傍証に菊花紋はなりそうです。(つづく)

(注)
①稲員安則『家勤記得集』元禄九年(1696)。久留米郷土研究会、昭和五十年(1975)。
②津田勉「『高良縁起』の成立年代」(『神道宗教』第170号、1998年)に次の指摘がある。
 「ところで、御井郡の郡衙跡ともいわれるヘボノキ遺跡は、まさに弓削郷に存在する。弓削郷は筑後国府(枝光国府・朝妻国府)に隣接する筑後川沿いの郷であり、現在も弓削の地名は使われている。国衙と郡衙とが近接している実態は、御井郡の郡・郷を支配していた郡司と国司が強く結びついていたことを如実に示している。」60頁
 なお、弓削地名は筑後川の両岸に遺っており、法皇宮は北岸の北野町、ヘボノキ遺跡は南岸の東合川町にある。筑後国の中で御井郡のみが筑後川の両岸にまたがっている。


第2778話 2022/06/30

上弓削の法皇宮と稲員家の菊花紋

 久留米市の研究者、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)からいただいた『北野町の神社と寺院』(注①)にある法皇宮の解説には、「法皇宮は北野町上弓削の氏神で、祭神は後白河法皇を奉祀するといわれる。また弓削の道鏡を祀るとの説もある。法皇説としては棟瓦の中央と両端に菊花の御紋章が三ヶ所入れられていた。ところが戦時中に村の駐在所の指示により、勿体ないから取りはずせとのことで、これを処理したとのことであるが、その現物は現在残ってはいない。」とあります。これは、よくよく考えるとおかしなことです。後白河法皇を祀っているのであれば、菊花紋の瓦をはずせなどと駐在所のおまわりさんに言えるはずがありません。それこそ、後白河法皇の霊に対して失礼な所業だからです。戦時中であればなおさらです。従って、駐在所が菊花紋瓦を取りはずせと指示したのは、この法皇宮に祀られているのは後白河法皇ではなく、弓削の道鏡だとおまわりさんも知っていたからではないでしょうか。その証拠に、江戸時代の地誌(注②)には、祭神は道鏡であると記録されています。
 このことと対応するのですが、筑後地方には菊花を家紋とする一族があり、同様に御上に対して差し障りがあるとして使用を止めさせられています。その一族とは、高良玉垂命の末裔で高良大社の神事を執り行っていた稲員(いなかず)家(旧・草壁氏)です。草壁氏は草部・日下部と記されることもあり、御井郡稲員村に居住したことから稲員氏を名乗ります。正応三年(1290)に上妻郡広川庄古賀村に転居し、江戸時代には筑後国上妻郡広川村古賀の大庄屋となり、久留米藩に仕えました。大庄屋職にあった稲員安則が寛永十年~元禄九年(1633~1696)に書き留めた『家勤記得集』(注③)末尾に次の一文が見えます。

〝稲員家の紋、古来は菊なり、今は上に指合うによりて止むる由なり。〟『家勤記得集』

 九州王朝の王族と思われる高良玉垂命の子孫(注④)、稲員家の家紋が菊花紋であり、後世において差し障りがあり、止めたとの記事です。それでは御井郡北野村弓削の法皇宮の菊花紋瓦と、上妻郡広川村の大庄屋稲員家の菊花紋とは何か関係があるのでしょうか。(つづく)

(注)
①『北野町の神社と寺院』三井郡北野町教育委員会、昭和62年(1987)。②伊藤常足編『太宰管内志』天保十二年(1841)。歴史図書社刊、昭和44年(1969)。
③稲員安則『家勤記得集』元禄九年(1696)。久留米郷土研究会、昭和五十年(1975)。
④古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。


第2777話 2022/06/28

三井郡北野町弓削の法皇宮の祭神

 一昨日の久留米大学での講演で、神護景雲三年(769)に起きた宇佐八幡ご神託事件は九州王朝王族の復権のための物部系氏族(弓削氏、習宜氏)による〝共同謀議〟とする作業仮説(思いつき)をわたしが発表することを事前に予想されていたかのような資料を提供されたのが、地元久留米市の研究者、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)でした。
 その資料とは、昭和62年(1987)発行の『北野町の神社と寺院』(注①)に収録された「法皇宮」のコピーです。三井郡北野町教育委員会によるもので、久留米市との合併前(注②)の資料です。同町は筑後川の北岸に位置し、小郡市の南側にあります。同地の上弓削にある法皇宮は以前から注目していた神社で、『北野町の神社と寺院』には次の解説があります。

 「一、法皇宮
   (北野町大字上弓削字屋敷に祀る)
 法皇宮は北野町上弓削の氏神で、祭神は後白河法皇を奉祀するといわれる。また弓削の道鏡を祀るとの説もある。法皇説としては棟瓦の中央と両端に菊花の御紋章が三ヶ所入れられていた。ところが戦時中に村の駐在所の指示により、勿体ないから取りはずせとのことで、これを処理したとのことであるが、その現物は現在残ってはいない。
 道鏡は奈良時代仏教の興隆期に太政大臣禅師、翌年に法王となり位人臣を極めたが、さらに天皇の位までうかがった。併し忠臣和気清麻呂に阻まれ下野国薬師寺の別当に貶され、宝亀三年(一二一六年前)配所で没した。この史実から逆臣であった道鏡が神に祀られるはずがなく、ただ弓削の姓から弓削の地名に通じたものであろうか。(後略)」

 この解説は一元史観を前提とした歴史認識に基づいており、わたしから見ると問題が多い解説です。法皇宮現地にある説明板の内容はこの認識よりも更に後退したもので、道鏡祭神説は記されていないようです。わたしの史料調査によれば、道鏡祭神は学者の「説」ではなく、現地伝承を伝えた史料事実なのです。たとえば江戸時代の地誌『太宰管内志』(注③)には、次のように法皇宮の祭神を道鏡とする伝承を記録しています。

「○弓削
 〔和名抄〕に御井郡弓削あり、(中略)〔筑後地鑑中巻〕に御井郡上弓削下弓削二村あり、弓削ノ杣ノ事はいまだ考へず、上弓削村に法皇宮あり道鏡ノ靈を祭れりと云」『太宰管内志』筑後之四(御井郡下)

 このように江戸時代の地誌には「道鏡ノ霊を祭れりと云」とあり、後白河法皇のことは見えません。従って、後白河法皇祭神説こそ明治以後に作られた「説」である可能性が大です。もちろんその理由は、明治以後の国家神道の台頭により、皇位簒奪を謀った悪人とされた道鏡(注④)を祀ることを憚ったためと思われます。(つづく)

(注)
①『北野町の神社と寺院』三井郡北野町教育委員会、昭和61年(1986)。
②三井郡北野町は2005年に久留米市と合併し、久留米市北野町になった。
③伊藤常足編『太宰管内志』天保十二年(1841)。歴史図書社刊、昭和44年(1969)。
④ウィキペディアでは、道鏡が「日本三悪人」の一人とされていることを紹介している。
〝道鏡(どうきょう、文武天皇4年(700年)? – 宝亀3年4月7日(772年5月13日))は、奈良時代の僧侶。俗姓は弓削氏(弓削連)で、弓削櫛麻呂の子とする系図がある。俗姓から、弓削 道鏡(ゆげ の どうきょう)とも呼ばれる。平将門、足利尊氏とともに日本三悪人と称されることがある。〟


第2776話 2022/06/27

神護景雲三年(769)、九州王朝の復権未遂事件

 昨日の久留米大学での講演で、わたしはとんでもない思いつき(作業仮説)を恐る恐る発表しました。「たぶん間違っているかもしれませんが」と始めた腰が引けた発表とは、神護景雲三年(769)に起きた宇佐八幡ご神託事件(注①)、すなわち弓削の道鏡を天皇位につけよという宇佐八幡神のお告げを大宰主神・習宜阿曾麻呂(注②)が上奏した事件の真相は、九州王朝王族の復権のための物部系氏族(弓削氏、習宜氏)による〝共同謀議〟ではないかとするものです。この思いつきに至った状況証拠は次のようなことでした。

(1) 『新撰姓氏録』によれぱ、弓削氏と習宜氏は共に物部氏系の神を祖先とする。
(2) 習宜阿曾麻呂の習宜は「すげ」とは訓めず、「すぎ」と訓むべきである。
(3) 「すぎ」は現代の名字では「杉」の字を当てるのが一般的と思われる。
(4) 杉さんの名字分布を調べたところ、県別では福岡県が最多で(2位は岡山県)、うきは市を中心として筑後地方が最濃密地域である。
(5) このことから、習宜阿曾麻呂の出身地は筑後地方とするのが有力である。
(6) 『続日本紀』によれば、習宜阿曾麻呂の任地は九州内(豊前国・大宰府・種子島・大隅国)に限られており、奈良県出身とする通説よりも、福岡県(筑後地方)出身とする方が妥当である。
(7) 『和名抄』によれば、筑後国に物部郷があり、名字の物部さんも岡山県に次いでうきは市が多い。
(8) 杉さんと物部さんが共通して福岡県と岡山県に多いことは偶然ではなく、両者に何らかの関係があることを指し示している。
(9) 弓削の道鏡の出身地は河内国とされているが、筑後国にも弓削郷があり、久留米市北野町上弓削にある法皇宮は後白河法皇を祭神とするが、弓削の道鏡を祀るとする説がある(注③)。
(10)『養老律令』官位令の規定によれば、大宰府主神の官位は正七位下とされているが、習宜阿曾麻呂は従五位下と比較的高位であり、左遷後も変化していない。

 以上のような状況証拠により、物部系で筑後出身の習宜氏(阿曾麻呂)と弓削氏(道鏡)らが結託して、大和朝廷の天皇位簒奪(九州王朝王族の復権)を目論んだのではないかとの作業仮説(思いつき)に至りました。果たして、この思いつきが史料根拠に基づいた学問的仮説にまで発展するのか、今のところあまり自信はありませんが、研究を続けたいと思います。

(注)
①ウィキペディアに次の解説がある。
 宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)、奈良時代の神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮より称徳天皇(孝謙天皇)に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けて、弓削道鏡が天皇位を得ようとしたとされ、紛糾が起こった事件。道鏡事件とも呼ばれる。同年旧暦の10月1日(11月7日)に称徳天皇が詔を発し、道鏡には皇位は継がせないと宣言したため、事件の決着がついた。
②習宜阿曾麻呂は「すげのあそまろ」と呼ばれているが、「宜」の字は「げ」ではなく、「ぎ」と読むべきで、その出身地を筑後地方(うきは市)付近とする見解を次の「洛中洛外日記」で発表した。
 古賀達也「洛中洛外日記」2679~2680話(2022/02/08~09)〝難波宮の複都制と副都(8)~(9)〟
③『北野町の神社と寺院』三井郡北野町教育委員会、昭和61年(1986)。同書関係部分のコピーを犬塚幹夫氏(古田史学の会・会員、久留米市)より、久留米大学講演時に提供していただいた。