九州王朝(倭国)一覧

第3175話 2023/12/09

大宰政庁Ⅱ期創建年代のエビデンス (3)

 大宰府政庁Ⅱ期の創建年代を通説では八世紀初頭としており、その根拠として、土器編年と出土木簡があります。土器編年は基本的に相対編年であるため、暦年とどのようにリンクできるのかという難題があります。そこで重要となるのが木簡の編年(年代観)です。

 政庁Ⅱ期北面築地塀の下層から出土した木簡に「竺志前」と書かれたものがあり(注①)、これは『大宝律令』により筑前と筑後に分割された筑前国を意味することから、同遺構の造営は『大宝律令』(701年成立)以後とされたのですが、この判断は正しいでしょうか。九州王朝説に基づく文献史学による研究では(注②)、九州島の九国への分国は、多利思北孤による七世紀初頭と考えていますが、考古学エビデンスによっても七世紀に遡ると考えています。その根拠は2012年に太宰府市から出土した戸籍木簡です(注③)。

 大宰府政庁の北西1.2kmの地点、国分寺跡と国分尼寺跡の間を流れていた川の堆積層上部から、「天平十一年十一月」(739年)の紀年が記されたものや、評制の時期(650年頃~700年)の木簡が出土しました。その中に、「嶋評戸籍」木簡と一緒に「竺志前國嶋評」と記された木簡がありました。わたしが最も注目したのは「竺志前國」の部分でした。「評」木簡ですから、700年以前ですが、更に「嶋評戸籍」木簡に見える位階「進大弐」は、『日本書紀』天武十四年条(685年)に制定記事があり、その頃の木簡と推定できます。従って、九州島の分国時期は遅くとも685年頃よりも前になります。そうすると、大宰府政庁Ⅱ期下層から出土した「竺志前」を『大宝律令』以後とする根拠が失われるのです。

 このように、政庁Ⅱ期造営を八世紀初頭としてきた根拠が失われたことにより、その造営は七世紀後半まで遡りうることになったわけです。そうすると、政庁Ⅱ期に先行し、七世紀末頃の造営(井上信正説)とされてきた太宰府条坊の年代は更に遡り、わたしの太宰府年代観(政庁Ⅰ期と条坊は七世紀前半~中頃、政庁Ⅱ期造営を670年頃とする)に近づきます。この理解が正しければ、太宰府地域の七世紀の須恵器編年も同様に繰り上がります。詳細な編年見直しには更なる研究が必要ですが、九州王朝の都、太宰府条坊都市の復元研究に大きく影響するものと考えています。(おわり)

(注)
①次の銘文を持つ木簡が出土している。
(表) 十月廿日竺志前贄驛□(寸)□(分)留 多比二生鮑六十具\鯖四列都備五十具
(裏) 須志毛 十古 割郡布 一古
②古賀達也「九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の成立」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』2000年、明石書店。
同「続・九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の分国」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』2000年、明石書店。
③当戸籍木簡には次の文字が記されている。
《表側の文字》
嶋評 戸主 建ア身麻呂戸 又附加□□□[?]
政丁 次得□□ 兵士 次伊支麻呂 政丁□□
嶋ー□□ 占ア恵□[?] 川ア里 占ア赤足□□□□[?]
少子之母 占ア真□女 老女之子 得[?]
穴□ア加奈代 戸 附有
《裏側の文字》
并十一人 同里人進大弐 建ア成 戸有一 戸主 建[?]
同里人 建ア昨 戸有 戸主妹 夜乎女 同戸有[?]
麻呂 □戸 又依去 同ア得麻女 丁女 同里□[?]
白髪ア伊止布 □戸 二戸別 戸主 建ア小麻呂[?]
(注記:ア=部、□=判読不能文字、[?]=破損で欠如)


第3172話 2023/12/05

空理空論から古代リアリズムへ (3)

 八王子セミナーでは「前期難波宮を九州王朝の王宮と決めつけないほうがよいのでは」という意見も出されましたが、その理由がわかりませんでした。というのも、評制が施行された七世紀中頃において、全国統治が可能な宮殿・官衙、その官僚と家族・従者、商工業者、防衛のための兵士ら数万人が居住可能な大都市は、前期難波宮と難波京しか出土していないというエビデンスに基づけば、九州王朝説を是とするのであれば当地を九州王朝複都と理解するしかないと、研究発表したばかりでしたからです。これ以上、どのように説明すれば納得していただけるのか迷いました。そこで、根拠もなく決めつけているわけではないことを改めて説明するために、全国的な戸籍である庚午年籍の造籍作業を例にあげました。

 通説では、庚午年籍は庚午の年(670)に近江朝廷(天智天皇)により造籍された、初めての全国的戸籍とされています。『大宝律令』などにより、庚午年籍は永久保管が全国の国司に命じられており、六年に一度造籍される戸籍の中でも、基本となる重要戸籍とされてきました。戸籍は三十年で廃棄することを律令で定めていますが、庚午年籍だけは永久保存せよと命じているのです。大寶二年七月にも庚午年籍を基本とすることを命じる詔勅が出されています(『続日本紀』)。更に時代が下った承和六年(839)正月の時点でも、全国に庚午年籍を書写し、中務省への提出を命じていることから(『続日本後紀』)、九世紀においても、庚午年籍が全国に存在していたことがうかがえます。

 この庚午年籍を九州王朝説の視点から見れば、白鳳十年庚午の年(670)に造籍された九州王朝の「白鳳十年籍」となります。もちろん造籍を命じたのは九州王朝の天子となります(注)。この全国的造籍作業には膨大な事務作業が必要であることは、容易に推定できるでしょう。

 まず、全国の国司・評督等に統一した書式と記載ルールに基づく造籍方法を伝達し、それに基づく戸籍が全国から都へと提出されます。都では中央官僚が大量の戸籍を整理保管し、それを〝基本台帳〟として、仕丁(労役)や兵士(徴兵)、そして租税などを計算し、全国各地に通達するという事務作業が続きます。恐らく、それら作業を担当した九州王朝の中務省などの役人は数百人に及ぶのではないでしょうか。

 そうした多数の中央官僚による造籍作業が可能な都城は前期難波宮しかありません。同時に官僚の家族、従者、商工業者、兵士等が居住できる大都市も難波京と太宰府条坊都市しかありません。ただし、太宰府条坊都市には、前期難波宮のような全国統治が可能な大規模宮殿・官衙がありませんから、庚午年籍の造籍作業は前期難波宮で行われたとするのが最も妥当なのです(九州島内九ヶ国の造籍作業などは、伝統的に太宰府の官僚が行ったかもしれない)。

 このように、庚午年籍の造籍という古代人が行う膨大な実務作業の現実(リアリズム)を考えたとき、前期難波宮「九州王朝複都」説が論理的(ロジカル)に導き出されるのです。わたしたち古田学派は空理空論をしりぞけ、古代のリアリズムで九州王朝史を復元しなければならないと思います。(おわり)

(注)正木裕説によれば、九州王朝系近江朝による造籍となる。
正木 裕「『近江朝年号』の実在について」『古田史学会報』133号、2016年。

 古賀達也「九州王朝を継承した近江朝廷 ―正木新説の展開と考察―」『古田史学会報』134号、2016年。


第3171話 2023/12/04

空理空論から古代リアリズムへ (2)

 前期難波宮「九州王朝複都」説を論文発表したのは2008年ですが、口頭では古田先生への問題提起を皮切りに関西例会などでそれ以前から発表してきました。ところが古田先生から批判されたこともあってか、古田学派内から様々な批判がなされました。そのおかげで、再反論のために土器編年や関連遺構の調査、前期難波宮や難波京を発掘した考古学者たちへのヒアリングなどを実施し、わたし自身も大変勉強になりました。まさに〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟を実体験できました。

 他方、これはいかがなものかと思うような〝批判〟もありました。たとえば、前期難波宮のような大規模な遺構は出土しておらず、大阪市や大阪府の〝地域おこし〟のために造作されたもので、古賀はそれを自説の根拠にしているというものです。こうした批判は、難波宮(難波京)を数十年にわたり発掘調査してきた大阪の考古学者に対して甚だ失礼なものでした。

 また、次のような批判も最近まで繰り返されています。云わく、〝文献的裏付けは何もなく、考古学的裏付けもなく、根拠となるのは「七世紀半ば、近畿天皇家が巨大王宮を建設するのを九州王朝が許すはずがない」という古賀達也氏の思考だけ〟というものです。

 この批判を受けて、わたしがこれまで発表してきた関連論文のリストを作成し、こうした批判が事実に基づかない「空理空論」であることを明らかにし、わたしの論文を正確に引用したうえで、事実に基づいた具体的な批判をいただけるよう努力しなければならないと、反省するに至りました。そこでこれまで発表した関連論文のリストを公表することにしました(多元的古代研究会の会誌『多元』に投稿させていただきました)。

2008年に発表した同テーマ最初の論文「前期難波宮は九州王朝の副都」を筆頭に、現在まで約50編の論文をわたしは発表してきました。論文の他に「洛中洛外日記」にも、関連する小文が多数あります(論文と内容が重複するものも含め、200編以上)。抜け落ちがあるかもしれませんが、各会誌・書籍で発表したそれらの論文・発表年を以下に列挙します。

《難波宮に関する論文・講演録》
【古田史学会報】古田史学の会編
① 前期難波宮は九州王朝の副都 (八五号、二〇〇八年)
② 「白鳳以来、朱雀以前」の新理解 (八六号、二〇〇八年)
③ 「白雉改元儀式」盗用の理由 (九〇号、二〇〇九年)
④ 前期難波宮の考古学(1) ―ここに九州王朝の副都ありき― (一〇二号、二〇一一年)
⑤ 前期難波宮の考古学(2) ―ここに九州王朝の副都ありき― (一〇三号、二〇一一年)
⑥ 前期難波宮の考古学(3) ―ここに九州王朝の副都ありき― (一〇八号、二〇一二年)
⑦ 前期難波宮の学習 (一一三号、二〇一二年)
⑧ 続・前期難波宮の学習 (一一四号、二〇一三年)
⑨ 七世紀の須恵器編年 ―前期難波宮・藤原宮・大宰府政庁― (一一五号、二〇一三年)
⑩ 白雉改元の宮殿 ―「賀正礼」の史料批判― (一一六号、二〇一三年)
⑪ 難波と近江の出土土器の考察 (一一八号、二〇一三年)
⑫ 前期難波宮の論理 (一二二号、二〇一四年)
⑬ 条坊都市「難波京」の論理 (一二三号、二〇一四年)
⑭ 「要衝の都」前期難波宮 (一三三号、二〇一六年)
⑮ 九州王朝説に刺さった三本の矢(前編) (一三五号、二〇一六年)
⑯ 九州王朝説に刺さった三本の矢(中編) (一三六号、二〇一六年)
⑰ 九州王朝説に刺さった三本の矢(後編) (一三七号、二〇一六年)
⑱ 「倭京」の多元的考察 (一三八号、二〇一七年)
⑲ 律令制の都「前期難波宮」 (一四五号、二〇一八年)
⑳ 九州王朝の都市計画 ―前期難波宮と難波大道― (一四六号、二〇一八年)
㉑ 古田先生との論争的対話 ―「都城論」の論理構造― (一四七号、二〇一八年)
㉒ 九州王朝の高安城 (一四八号、二〇一八年)
㉓ 前期難波宮「天武朝造営」説の虚構 ―整地層出土「坏B」の真相― (一五一号、二〇一九年)
㉔『日本書紀』への挑戦《大阪歴博編》 (一五三号、二〇一九年)
㉕ 難波の都市化と九州王朝 (一五五号、二〇一九年)
㉖ 都城造営尺の論理と編年 ―二つの難波京造営尺― (一五八号、二〇二〇年)

【古代に真実を求めて】古田史学の会編、明石書店
㉗ 「白雉改元の宮殿 ―「賀正礼」の史料批判―」 (十七集、二〇一四年)
㉘ 九州王朝の難波天王寺建立 (十八集、二〇一五年)
㉙ 柿本人麿が謡った両京制 ―大王の遠の朝庭と難波京― (二六集、二〇二三年)

【「九州年号」の研究】古田史学の会編、ミネルヴァ書房、二〇一二年
㉚ 白雉改元の史料批判
㉛ 前期難波宮は九州王朝の副都

【多元】多元的古代研究会編
㉜ 古賀達也氏講演会報告(宮崎宇史)「太宰府と前期難波宮 ―九州年号と考古学による九州王朝史復元の研究―」 (九七号、二〇一〇年)
㉝ 古賀達也氏講演録(宮崎宇史)「王朝交替の古代史 ―七世紀の九州王朝―」 (一一五号、二〇一三年)
㉞ 白雉改元の宮殿 ―「賀正礼」の史料批判― (一一七号、二〇一三年)
㉟ 感想二題 ―『多元』一四二号を拝読して― (一四四号、二〇一八年)
㊱ 「評」を論ず ―評制施行時期について― (一四五号、二〇一八年)
㊲ 九州王朝の黄金時代 ―律令と評制による全国支配― (一四八号、二〇一八年)
㊳ 難波から出土した筑紫の土器 ―文献史学と考古学の整合― (一五三号、二〇一九年)
㊴ 前期難波宮出土「干支木簡」の考察 (一五七号、二〇二〇年)
㊵ 天武紀「複都詔」の考古学的批判 (一六〇号、二〇二〇年)
㊶ 七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動― (一七六号、二〇二三年)

【東京古田会ニュース】古田武彦と古代史を研究する会編
㊷ 前期難波宮九州王朝副都説の新展開 (一七一号、二〇一六年)
㊸ 前期難波宮の考古学 飛鳥編年と難波編年の比較検証 (一七五号、二〇一七年)
㊹ 前期難波宮「天武朝」造営説への問い (一七六号、二〇一七年)
㊺ 一元史観から見た前期難波宮 (一七七号、二〇一七年)
㊻ 難波の須恵器編年と前期難波宮 ―異見の歓迎は学問の原点― (一八五号、二〇一九年)
㊼ 古代山城研究の最前線 ―前期難波宮と鬼ノ城の設計尺― (二〇二号、二〇二二年)

 以上のタイトルだけでも、その内容が多岐多面にわたることを理解していただけるのではないでしょうか。考古学関連論文も少なくありません(④⑤⑥⑨⑪⑫⑬⑳㉓㉔㉕㉖㊳㊴㊵㊷㊸㊼が該当)。筑紫(糸島博多湾岸等、九州王朝中枢領域)の須恵器が難波から出土していることも論文㊳で紹介しました。
このように、わたしが書いた研究テーマとしては、九州年号研究に次ぐ論文数なのです。〝「七世紀半ば、近畿天皇家が巨大王宮を建設するのを九州王朝が許すはずがない」という古賀の思考だけ〟では、これだけの論文は書けないことをご理解いただけるものと思います。

 なお、これらの論文の多くは、古田先生に読んで頂くことを念頭に書き続けたものです。その結果、2014年(平成26年)の八王子セミナーでは、参加者からの「前期難波宮九州王朝副都説に対してどのように考えておられるのか」という質問に対して、「検討しなければならない」との返答がなされました。このときが最後の八王子セミナーとのことでしたので、わたしは初めて参加し、会場の片隅で聞いていました。先生からはいつものように批判されるものと思っていたのですが、「検討しなければならない」との言葉を聞き、その夜はうれしくてなかなか眠れませんでした。もちろん前期難波宮九州王朝副都説にただちに賛成されたわけではありませんが、はじめて古田先生から検討すべき仮説として認めていただいた瞬間でした。しかしながら、検討結果をお聞きすることはついに叶いませんでした。その翌年に先生は亡くなられたからです(2015年10月14日没、89歳)。(つづく)


第3162話 2023/11/20

三十年前の論稿「二つの日本国」 (13)

 「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」から、「六、九州王朝の末裔たち」の後半部分を転載します。『八幡宇佐宮御託宣集』に見える「筑紫九国の王・阿知根王」説話を紹介し、八世紀における九州王朝の王ではないかとしました。

【以下転載】
六、九州王朝の末裔たち(後半)

 次に国内史料に眼を転じてみよう。『八幡宇佐宮御託宣集』(神吽編、一三一三年成立)第十四巻に、朱雀天皇承平七年(九三七)の託宣中に次のような記事がある。

昔、神亀五年(七二八)より始まりて、筑紫九国を領せる王有りき。阿知根王と云う。

 そしてこの後に、神がかり的な説話が記された後、編者による解説が次のように記されている。

私に云う。聖武天皇神亀五年、大宰府少貳藤原廣継、軍兵一万五千人を率いて、国王を自称し、九州を押領、謀叛をおこす。(中略)この筑紫九国を領する王、阿知根王は廣継か。彼の託宣とこの廣継とは時代は同じ。故に之を載す。之を尋ぬべし。

 『八幡宇佐宮御託宣集』には、九三七年の託宣中に九州の王、阿知根王の存在が記され、同書編纂時の十四世紀ではその実態が理解できず、編者の私見として藤原廣継のことではないかと解説を加えているのだ。そして、その根拠として挙げているのは、ともに聖武天皇の時代であるという点だ。しかし、編者は自信がないらしく、率直に「之を尋ぬべし」と困惑した様子を記している。
編者の困惑は当然である。世に言う「広嗣の乱」は天平十二年(七四〇)のことであり、託宣に記された神亀五年(七二八)とは年次が一致しないのだ。また、阿知根王の説話に登場する人物に、酒井常基・酒井有基・宇佐千基・三高朝臣左大臣などが見えるが、広嗣の乱においてはかかる人物の名前は見えない。こうしたことからも、阿知根王は藤原広嗣とは別人としなければならない。とすれば、筑紫九国の王とされた阿知根も九州王朝の王である可能性は少なくないと思われる。

 このように、九州王朝が八~九世紀においても存続していたとする視点からすれば、その痕跡や伝承が中国や朝鮮、そして九州内に残っていたとしても何ら不思議ではない。これらの厳密な分析、そして更なる史料探索は今後の課題とするが、我々の眼前にありながら、そのことに気づかないということも少なくないのではなかろうか。本稿にて提起した「二つの日本国」という概念の導入により、多くの史料が真実の輝きを増して、我々に訴えかけてくる、そのように思われてならない。(つづく)
【転載おわり】


第3159話 2023/11/13

三十年前の論稿「二つの日本国」 (12)

 「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」から、「六、九州王朝の末裔たち」の前半部分を転載します。国外史料(『旧唐書』『三国遺事』など)に見える謎の日本国王記事を紹介しました。

 【以下転載】
六、九州王朝の末裔たち(前半)

 『旧唐書』本紀には日本国に関して不思議な記事が二つある。
①日本国王幷妻還蕃、賜物遺之。〈順宗貞元二一年(八〇五)二月条〉
②日本国王子入朝貢方物。王子善碁、帝令待詔顧師言與之對手。〈宣宗大中二年(八四八)三月条〉

 ①は日本国王夫妻の帰国記事、②は日本国王子の来朝記事だが、ともに日本側史料には対応する人物、記事は見えない。従来これらの記事はどのように学界で扱われてきたのだろうか。管見では②の記事について、貞観四年(唐咸通三年、八六二)に入唐した真如親王とする説(宮崎市定氏)や、新羅人とする説(池田温氏)などが見受けられる。しかしながら、いずれの説も、年次が違っていたり、日本国王子を新羅人としたりで、およそ万人を首肯させうる論証とは言い難いようだ。なお、①を本格的に論究した論文には未だ探しえていない。

 両記事は『新唐書』には見えないが、②は『旧唐書』の他に『杜陽雑編』(九世紀末成立)、『冊府元亀』(十一世紀初頭成立)、その他にも記載されており、かなり注目をあびた事件であったようだ。にもかかわらず、近畿天皇家にこれに対応する伝承がないのは、どういうわけか。『旧唐書』の記事なのだから、この場合の日本国は近畿天皇家とするのが古田説の立場であるが、八世紀以後の二つの日本国という概念を援用できれば、これに二例の日本国記事を九州王朝の国王夫妻と王子のことと理解することが一応可能である。しかし史料批判上、こうした方法が許されるのかという問題もあるので、一試論として提起するにとどめておきたい。

 次に紹介するのは朝鮮半島側の文献『三国遺事』にある、これも謎とされる日本国記事である。

 貞元二年丙寅(七八六)十月十一日、日本王文慶{日本帝紀を按ずるに、第五十五主は文徳王なり。疑うらくは是れか。余に文慶なし。或る本に云わく。是の王の太子なりと。}、兵を挙げて新羅を伐たんと欲す。新羅に万波息笛有りと聞きて、兵を退かせ、金五十両を以て、使を遣わして、其の笛を請えり。〈紀異第二、元聖大王条〉 ※{ }内は細注。

 七八六年は桓武天皇の時代であり、文慶などという天皇は近畿天皇家にはいない。そこで『三国遺事』の編者も困ったらしく、細注にて二つの説を記している。一つは五十五代文徳天皇のことではないか。もう一つは或る本の説として文徳天皇の太子ではないか、という二説だ。しかし、これらいずれも否であることは明白だ。文徳天皇の在位は八五〇年から八五八年であり、時代的に一致しない。王子としても文慶という名は見えない(是の王を桓武とすれば、その時の皇太子は安殿親王、後の平城天皇でこれも文慶ではない。)
したがって、この文慶王は九州王朝の王と見るべきではあるまいか。となれば、筑紫の君薩夜麻以来、歴史の表舞台から姿を消した九州王朝の王の名前が一人明らかとなったわけである。(つづく)
【転載おわり】


第3157話 2023/11/11

八王子セミナー・セッションⅡの論点整理

 今朝は久しぶりに東京に向かう新幹線車中でこの「洛中洛外日記」を書いています。窓側のE席を取れましたので、富士山(注①)が見えることを願っています。ちなみに東海道新幹線から見える名山の一つに、滋賀県と岐阜県に跨がる伊吹山(1,377m)がありますが、今日は青空の下に映えていました。富士山のような秀麗さとは異なり、そのゴツゴツとした威容は、荒ぶる神々を齋くに相応しい名山ではないでしょうか。

 旅の目的地はもちろん八王子市の大学セミナーハウスです。今日、明日と二日間にわたって開催される八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2023)に参加するためです。2015年に古田先生が亡くなられて以降「古田武彦記念」と銘打って、はやいもので6回目のセミナーとなりました。

 わたしは明日の午後に行われるセッションⅡ〝遺構に見る「倭国から日本国へ」〟で研究発表「律令制都城論と藤原京の成立 ―中央官僚群と律令制土器―」とパネルディスカッションに参加します。先日、同セッションの司会をされる橘高修さん(東京古田会・副会長)より、論点整理を兼ねたタイムテーブルが送られてきました。セミナーを有意義なものとするためのご配慮です。そうしたお気持ちに応えるべく、提示された三つの論点ごとにわたしの見解を付記し、返信しました。その部分を転載します。〝エビデンス重視〟を念頭に置いたものですが、いかがでしょうか。

【以下転載】
《論点Ⅰ》7世紀前半における倭国と日本国の関係:従属関係か並列関係か
(1) 七世紀前半に「日本国」という名称・領域はなかったと思うので、設問の表現がやや不適切だが、わかりやすく表現したものとのこと。
(2) 七世紀前半の近畿天皇家(ヤマト王権)の実態を示すエビデンスが『日本書紀』に限られ、恣意的な文献解釈による論議となるのではないか。
(3) 九州王朝(倭国)は『隋書』と法隆寺釈迦三尊光背銘などがエビデンスとなる。従って、年号(九州年号)を持ち「天子」「法皇」を名乗る九州王朝と、年号を持たず「大王」「大王天皇」を名乗ったと考えられる近畿天皇家とでは、両者は対等ではなく従属関係と考えるほかない。

《論点Ⅱ》倭国の近畿進出はあったか?あったとすればいつ頃か?
(1) エビデンスは考古学と『宋書』倭国伝(注②)くらいで、いずれもが5世紀における九州王朝(倭国)の東方浸出を示唆している。
(2) 難波(上町台地)は列島支配の拠点である。5世紀における列島最大規模の倉庫群が出土し、王権あるいはその出先機関の倉庫群と考えられている(注③)。九州は博多湾岸の比恵・那珂遺跡が拠点。
(3) 倭京二年(619)に難波に天王寺を創建したと『二中歴』年代歴の細注(注④)に見える。この年代は出土創建瓦の編年による考古学的見解(620年頃)と見事に対応している。九州年号による記事であり、造営主体の「聖徳」は九州王朝の有力者(利歌弥多弗利か)と思われる。
(4) 652年(白雉元年)に前期難波宮が創建され、その規模(列島最大)と様式(国内初の朝堂院様式)から、当時の列島の頂点となる遺構である。その地で、評制による全国の律令制統治が開始された(「難波朝廷、天下立評給時」『皇太神宮儀式帳』注⑤)。
(5) 列島最大規模の条坊都市難波京に食料を増産供給するための巨大灌漑施設「狭山池」(古代で最大規模)が築造されるが、狭山池北堤で検出されたコウヤマキの伐採年が年輪年代測定により616年とされ、狭山池築造年代の根拠となった。築造には水城と同じ敷粗朶工法が採用されており、九州王朝の勢力による、複都難波京造営のための長期的計画的な食糧増産体制が準備されたと考えられる(注⑥)。

《論点Ⅲ》先行条坊は何のために造られたか?造ったのは倭国か天武かそれとも・・?
(1) 藤原京整地層出土土器編年(須恵器坏B出土)と藤原宮下層出土の井戸ヒノキ板の年輪年代測定(682年伐採)などから天武期の造営とするのが最有力(注⑦)。
(2) 飛鳥池出土の「天皇」・皇子(天武の子供たち。大津皇子、舎人皇子、穂積皇子、大伯皇子)・「詔」木簡により、天皇と皇子を称し、「詔」を発していた天武ら(近畿天皇家、後の大和朝廷)による造営とするのが妥当(注⑧)。その他の勢力によるとできるエビデンスはない。
(3) (1)と(2)の史料事実に基づけば、王朝交代の準備として天武・持統らが全国統治のために造営したとする理解が最も穏当である。
【転載おわり】

追伸 今、富士駅を通過しました。富士山は雲に隠れて見えません。残念。復路に期待します。

(注)
①富士山の名前の由来について、下記の「洛中洛外日記」で論じたことがある。
「洛中洛外日記」694話(2014/04/15)〝JR中央線から富士山を見る〟
「洛中洛外日記」882話(2015/02/25)〝雲仙普賢岳と布津〟
「洛中洛外日記」2673話(2022/02/02)〝言素論による富士山名考〟
②『宋書』倭国伝の倭王武上表文中に次の記事が見える。
「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」
③南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」『研究紀要』第19号、大阪文化財研究所、2018年。
古賀達也「洛中洛外日記」1927話(2019/06/20)〝法円坂巨大倉庫群の論理(5)〟
④「倭京 二年難波天王寺聖徳造」
⑤古賀達也「洛中洛外日記」601話(2013/09/29)〝文字史料による「評」論(3)〟
同「文字史料による『評』論 ―『評制』の施行時期について―」『古田史学会報』119号、2013年。
同「『評』を論ず ―評制施行時期について―」『多元』、145号、2018年。
⑥同「洛中洛外日記」418話(2012/05/27)〝土器「相対編年」と「絶対年代」〟
同「洛中洛外日記」1268話(2016/09/07)〝九州王朝の難波進出と狭山池築造〟
⑦同「洛中洛外日記」2726話(2022/04/22)〝藤原宮内先行条坊の論理 (3) ―下層条坊遺構の年代観―〟
同「洛中洛外日記」3037話(2023/06/09)〝律令制都城論と藤原京の成立(3)〟
⑧同「洛中洛外日記」444話(2012/07/20)〝飛鳥の「天皇」「皇子」木簡〟
同「洛中洛外日記」689話(2014/04/03)〝近畿天皇家の称号〟
同「七世紀の『天皇』号 ―新・旧古田説の比較検証―」『多元』、155号、2019年。

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8,古代史セミナー2023セッション Ⅱ
遺構に見る「倭国から日本国へ」 次第 古賀達也
 
解説

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第3156話 2023/11/10

三十年前の論稿「二つの日本国」 (11)

 「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」から、「五、二つの日本国」の後半部分を転載します。ここでは、これまでの『三国史記』の国名表記の史料批判の結果、七〇一年の王朝交代後の八世紀~九世紀における、「二つの日本国」(九州王朝と近畿天皇家)という新たな概念が必要としました。

【以下転載】
五、二つの日本国(後半)

 そうすると次に問題となるのが、近畿天皇家の日本国への更号の時期であるが、直接そのことを記した史料はないので、総合的な判断が必要となる。それでは検討してみよう。まず、その上限であるが、『新唐書』の次の記述「或は云ふ、日本は乃ち小国、倭の併す所と為る。故にその号を冒せり、と。」を信用するならば、その更号は九州王朝から列島の代表権を奪って以後と考えられる。そうすると、その候補としてまず指摘できるのは、九州年号が終わって、近畿天皇家最初の年号「大宝」が建元された年、七〇一年だ。次に下限は明白だ。『日本書紀』が成立した年、七二〇年である。なぜならその書名が示すとおり、自らの国名を日本国としてその歴史を編纂したものだからだ。また、七一二年に成立した『古事記』で、天皇名などに使用されていた「倭」の字が、『日本書紀』では「日本」と改められていることからも、当時の近畿天皇家が日本国を名乗っていたことは自明である。

 こうして上限は一応七〇一年が有力、そして下限は七二〇年とできるが、『旧唐書』帝紀長安二年(七〇二)に「冬十月、日本国遣使貢方物。」という記事が見えることから、七〇二年には日本国という国号が中国から承認されていたとも考えられよう。

 以上の考えをまとめると、六七〇年に倭国(九州王朝)は国号を日本国と改めた。その後、列島の中心権力者となった近畿天皇家は日本国(九州王朝)の国号を受け継ぎ、遅くとも七〇二年には中国からも日本国の代表者であることを承認された(国際承認)。こうした一連の動きが、『旧唐書』では倭国(九州王朝)・日本国(近畿天皇家)という別国表記として、『新唐書』では日本国(近畿天皇家)のみの立伝として表現された。また、『三国史記』では倭国、日本国とも九州王朝のこととして記されており、例外的に近畿天皇家も顔を出していた、このように言えそうだ。したがって、これら外国史書を理解する場合、二つの日本国(九州王朝と近畿天皇家)という新たな概念が必要となろう。そして、この「二つの日本国」という概念導入により、従来謎とされてきた、いくつかの問題の解決が可能と思われる。(つづく)
【転載おわり】


第3155話 2023/11/09

三十年前の論稿「二つの日本国」 (10)

 「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」から、「五、二つの日本国」の前半部分を転載します。
ここでの要点は、倭国が日本国に国号変更した時期を六七〇年としたこと、国名の「倭」を忌避したのは九州王朝であって、大和朝廷ではないとしたことです。〝「倭名を悪んだ」のが近畿天皇家ではなく、九州王朝であることは次の点からも明らかであろう。すなわち、『続日本紀』の宣命には天皇の修飾語として「倭根子」「大倭根子」という文字がたびたび出現する。また、みずからの都の名前に「大倭」という字を当てていることから、「倭」という字を嫌ったという痕跡、これを見いだせないのである。〟と、三十年前にわたしは考えたわけです。

 【以下転載】
五、二つの日本国(前半)

 前節までで、『三国史記』における日本国と『旧唐書』にある日本国の概念は一致しないことを論証してきたが、ここではそれぞれの日本国という国号がどの時点で成立したのかについて論究する。

 中小路俊逸氏によれば、『旧唐書』と『新唐書』の史料批判から、日本列島には併合した国と併合された国とがあり、ともにある時点で国号を日本と名乗ったとされる。そして、その更号の時期は、併合された国(九州王朝)は併合される以前でしかありえず、併合した方の国(近畿天皇家)は併合して以後という場合がありうるとされた(3)。こうした捉え方は概括的において妥当と考えられる。そこで、こうした大局観に立ちつつ、具体的な年次を検討してみよう。
まず、九州王朝が倭国から日本国へと国号を変更したのは『三国史記』に記された六七〇年と考えられる。ただし、それ以前に「自称」として倭国が日本国をも名乗っていた可能性は、『日本書紀』に引用された朝鮮半島側により否定できないが、「自称」と「国際認知」とは一応区別すべきものと考える。また、国名の変更はその国が勝手にできるというものでもないようだ。東アジアにおいては、やはり中国の承認が不可欠であったと考えるべきであろう。たとえば、『続日本紀』天平七年(七三五)二月条には、新羅が国号を無断で王城国と変えたという理由で、新羅使節を追い返したりしている。おそらくこの場合も近畿天皇家が更号を認めなかったというよりも、中国が認めていないという事実が先行していたのではないか。

 したがって、九州王朝の更号は六七〇年と考えられるが、『新唐書』日本伝もそのことを支持しているように見える。たとえば「咸亨元年(六七〇)、遣使賀平高麗」の直後に「後にやや夏音を習い、倭の名を悪み、更えて日本と号す」とある。この記事は長安元年(七〇一)の前にあることから、その更号の時期が六七〇から七〇一の間となる。よって六七〇年もその範囲に入っている。なお、付言すれば、「倭名を悪んだ」のが近畿天皇家ではなく、九州王朝であることは次の点からも明らかであろう。すなわち、『続日本紀』の宣命には天皇の修飾語として「倭根子」「大倭根子」という文字がたびたび出現する。また、みずからの都の名前に「大倭」という字を当てていることから、「倭」という字を嫌ったという痕跡、これを見いだせないのである(4)。よって、この点からも「倭」の字を嫌ったのは九州王朝としなければならない。このように『三国史記』と『新唐書』の双方が九州王朝の日本国への更号を六七〇年とすることを支持する、あるいは否定しないのである。(つづく)

〈註〉
(3)「旧・新唐書の倭国・日本国像」『市民の古代・九集』所収。
(4)この視点は、井上秀雄著『倭・倭人・倭国』(人文書院)より得た。同書は大和朝廷一元史観を否とし、北部九州および朝鮮半島南岸に倭が存在したことを論証されている。ただし九州王朝説のように独自の国家が存在したとはされていない。
【転載おわり】


第3154話 2023/11/08

三十年前の論稿「二つの日本国」 (9)

 「洛中洛外日記」前話に続いて、「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」から、「四、新羅と近畿天皇家」(後半)を転載します。
『三国史記』新羅本紀では九州王朝の後裔を日本国と記述し、大和朝廷を倭国と表している事例(哀荘王三年十二月条)があるなど、『旧唐書』の倭国(九州王朝)・日本国(大和朝廷)とは真逆の国名表記となっていることには、どのような歴史背景があったのか、それとも『三国史記』編纂時の認識や情報の混乱によるものなのか、興味深い問題です。もしかするとこれは、『旧唐書』と『新唐書』での倭国と日本国の併合関係、すなわち、どちらの国がどちらの国を併合したのかという、その関係が両書では逆転しているように見えることとも関係するのかもしれません。

 【以下転載】
四、新羅と近畿天皇家(後半)

 『三国史記』『続日本紀』ともに、相手の無礼を主張しているが、具体的には何を意味するのか。おそらく、その一つは列島代表者としての近畿天皇家の認知に関することと想像される。『三国史記』の記述から見る限り、新羅は九州王朝のみを日本国として認知し、近畿天皇家に対しては、実際には使節が往来しているにもかかわらず、それを記さないという態度をとっている。ようするに、日本国の代表とは認めていないのである。先にあげた、国書不在の口頭外交もそのことの現れではあるまいか。かかる対応は『旧唐書』の記す所の、中国側の態度とは正反対である。したがって、近畿天皇家にすれば、中国から認知されているにもかかわらず、新羅が認知しないことを「礼を欠く」としたのではないか。

 こうした一連の新羅と近畿天皇家、および東アジアの緊張状態を視野に入れた時、新羅が王族の一人、均貞を仮の王子として「倭国」へ人質に差し出そうとして本人の拒絶にあうという、先の『三国史記』の記事の内実が理解できるのである。これら『続日本紀』に記された近畿天皇家と新羅の国交記事からも、『三国史記』八〇二年条の「倭国」が、「日本国」=九州王朝との別国表記とすれば、それは近畿天皇家を指すという理解が妥当性を持つと考えられるのである。また、次節でふれるが、九州王朝は「倭」の字を嫌い、逆に近畿天皇家は自らの都を「大倭(やまと)」としていることから、この「倭」は「やまと」の意であるとの思量も可能であろう。

 さて、これら一連の論証は必然的に次のテーマを明らかとする。それは古田氏が倭国(九州王朝)から日本国(近畿天皇家)への中心権力の移動時期を論証する際の根拠とされた。『三国史記』文武王十年(六七〇)の記事は、その文面が示すとおり九州王朝の国号変更、すなわち倭国から日本国への変更記事と見るべきあったこと、これである。なぜなら、『三国史記』における倭国(六七〇年以前)と日本国(六七〇年以後)が同じ国である以上、文武王十年条の記事はそのまま国号変更記事と見るのが道理だからだ。古田氏は『旧唐書』の文脈によって倭国=九州王朝、日本国=近畿天皇家とされ、その定理を『三国史記』にまで援用されたのだが、その方法が否であること、これが一連の論証の帰結であった。次章ではこの帰結に立脚して、日本国という国号成立について論を進める。

 【転載おわり】(つづく)


第3153話 2023/11/07

三十年前の論稿「二つの日本国」 (8)

 今回は、「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」から、「四、新羅と近畿天皇家」(前半)を転載します。ここでは、九州王朝の後裔を日本国とする『三国史記』新羅本紀には、大和朝廷を倭国と表している事例(哀荘王三年十二月条)があることを紹介しました。すなわち、『旧唐書』の倭国と日本国とは真逆の国名表記が出現するのです。なぜこのような史料情況が発生したのか、理由はよくわかりませんが、不思議な現象です。

 【以下転載】
四、新羅と近畿天皇家

 それでは『三国史記』に新羅と近畿天皇家との関係を示す記事はないのであろうか。実はそれらしき記事がある。『失われた九州王朝』でも紹介された次の記事だ。

 均貞に大阿飡を授け、仮に王子と為し、倭国に質と以さんと欲す。均貞、之を辞す。〈新羅本紀、哀荘王三年(八〇二)十二月条〉

 この記事は八〇二年の事件であり、倭国が日本国へと国号変更した後のできごとだ。にもかかわらず、ここには旧国名の「倭国」と記されている。古田氏はこの倭国を九州王朝の後裔のこととされたが、これまでの論証の帰結からすれば事態は逆転する。この倭国こそ近畿天皇家を指し示す事例と考えられるのだ。

 『続日本紀』によれば、八世紀後半に至って近畿天皇家は対新羅強硬姿勢をとりはじめる。それは天平勝宝四年(七五二)六月条の記事からも推定できる。この時、新羅から王子金泰廉ら三百七十余名の大使節団が訪れているが、その内容は口頭での外交に留まり、国書を渡すことはなかった。こうした新羅使節の対応に対し孝謙天皇は、今後は新羅国王自ら来朝するか、代理であれば必ず上表文を持参するように申し渡している。いわば、新羅側の国書なき口頭外交を不満としているのだ。また、前節(二、すれちがう国交記事)にて指摘した『三国史記』と『続日本紀』に唯一対応可能な(7)の記事だが、具体的には『続日本紀』天平勝宝五年(七五三)二月条の「従五位下小野朝臣田守を以って遣新羅大使と為す。」という記事と対応しうる。そして、この田守の外交が失敗に終わったことが『続日本紀』天平宝字四年(七六〇)九月条の新羅の国使とのやりとりの中、近畿天皇家側の「小野の田守を派遣したとき、彼の国は礼を欠いた。故に田守は使事を行わず帰還した。」という発言により明らかとなる。他方、こうした外交上の失敗とは裏腹に、あるいはそれを見通した上で、この時期近畿天皇家は新羅との戦争準備を着々と推し進めている。

 たとえば、『続日本紀』天平宝字三年(七五九)八月には、大宰帥船親王を香椎廟に派遣して、新羅征伐の状を奉納している。翌九月には諸国に命じて五百艘の船を造営させ、三年以内に新羅を征伐する為とその目的を記している。このような近畿天皇家の圧力を感じてか、天平宝字七年(七六三)二月に新羅は二百十一名からなる大使節団を近畿天皇家に送っている。しかし、そこでも近畿天皇家は「今後は王子か、さもなければ執政大夫を派遣せよ」と強圧的な対応に終始している。こうして新羅と近畿天皇家は抜き差しならぬ緊張関係へと入っていく。しかも、近畿天皇家は渤海とは緊密な友好関係を作っており、新羅は北の渤海と南の近畿天皇家(あるいは九州王朝ともか)の挟撃を受ける危機的な状態に陥ったものと推定される。
【転載おわり】(つづく)


第3152話 2023/11/05

八王子セミナー発表資料集を精読

 今月11~12日に開催される八王子セミナー(注①)発表資料集「倭国から日本国へ」が届き、精読しています。発表テーマは次の通りです。

【古田武彦氏の業績に基づく論点整理】
大越邦生 そうだったのか「倭国から日本国へ」

【セッションⅠ】理系から見た「倭国から日本国へ」
谷川清隆 「地天泰」分類の進展 ―倭国から日本国へ―
川端俊一郎 法隆寺(南朝尺2等材)は太宰府法興寺の移築
谷本 茂 国名変遷の基本問題 ―倭国・扶桑国・日本国の関係―

【セッションⅡ】遺構に見る「倭国から日本国へ」
新庄宗昭 飛鳥時代(7世紀後半)の遺構解釈 ―飛鳥浄御原宮と藤原京―
古賀達也 律令制都城論と藤原京の成立 ―中央官僚群と律令制土器―

 いずれも古田学派論客にふさわしい内容です。なかでも谷本さん(古田史学の会・会員、神戸市)の資料に見える「旧新両唐書の“国名変更”解説の再検討」は、『新唐書』日本国伝の新読解を提起し、通説も古田説も誤読に基づいているとするものです。漢文解釈のハイレベルで難解な同仮説を、初めて聞くことになる参加者に短時間(30分)でどのように谷本さんが説明されるのだろうかと注目しています。

 セッションⅡでは、新庄さんとわたしの発表に基づいて、谷本さん・和田昌美さん(多元的古代研究会・事務局長)と司会の橘高修さん(東京古田会・副会長)も交えてパネルディスカッションが行われます。おそらく論点は、藤原京・藤原宮の造営時期と造営主体を、エビデンスに基づいてどのように理解するのかに集約されるものと思います。ちなみに、新庄さんとわたしの見解は八割方同じなのですが、藤原京(先行条坊)造営を孝徳期頃と古く見る新庄さんと(注②)、天武期頃とするわたしとで論議が進むことと思います。

 わたしは『日本書紀』などの文献解釈の前に、重要な考古学的史料事実を明らかにし、その有力エビデンスの存在を論者間で合意することから始めて、それらエビデンスの全てと矛盾なく整合する解釈(論証)とはどのようなものか、という順序で対話を進めたいと考えています。この方法は同セミナーの趣旨(evidence-based)にふさわしいと思います。

(注)
①正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」、公益財団法人大学セミナーハウスの主催。実行委員会に「古田史学の会」(冨川ケイ子氏)も参画している。
②新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。


第3150話 2023/11/03

三十年前の論稿「二つの日本国」 (7)

 今回は、「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」から、「三、倭国の特産品、明珠の証言」を転載します。倭国は古くから特産物の宝石(珠類)を中国に献上してきたことが知られています。たとえば『三国志』倭人伝に倭国の産物として「真珠・青玉」が見え、壹與が白珠や孔青大句珠を献上したことが記されています。

 「出真珠、青玉。其山有丹。」
「壹與、遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人、送政等還、因詣臺。獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。」『三国志』倭人伝

 『隋書』や『旧唐書』にも同類の記事があり、『三国史記』新羅本紀の次の記事に見える「明珠一十箇」に対応しています。

 日本国王、使を遣わし、黄金三百両、明珠一十箇進ず。〈憲康王八年(八八二)四月条〉

 こうした倭国(九州王朝)の特産物と『三国史記』に見える「明珠」との対応を、新羅本紀の国交記事に登場する日本国は近畿天皇家ではなく、九州王朝の後裔であることの傍証としました。

 【以下転載】
三、倭国の特産品、明珠の証言

 『三国史記』に表れた日本国から新羅への献上品は黄金と明珠だ。これと対応するのが同じく『三国史記』の倭国記事である。倭国からの献上品、あるいは特産物が記された記事は次の通りだ。

 使を倭国に遣わして、大珠を求めしむ。〈百済本紀、阿莘王十一年(四〇二)五月条〉
倭国、使を遣わして夜明珠を贈る。王、優礼して之を待う。〈百済本紀、腆支王五年(四〇九)条〉

 これらの記事から、九州王朝倭国の特産品に「大珠」「夜明珠」が記されており、先の日本国の献上品「明珠」と対応していることがわかる。それに比して、「六国史」などに記された近畿天皇家から新羅への献上品は「錦」「絁」などであり、その趣を異にしている。このように献上品・特産物といった点からも『三国史記』の倭国と日本国はともに九州王朝であるとする本仮説を支持するのである。
余談ながら、倭国の献上品・特産品については『旧唐書』にも次の記述がある。

 倭国、琥珀、瑪瑙を献ず。琥珀は大なること斗の如く、瑪瑙は大なること五斗器の如し。〈帝紀、永徴五年(六五四)十二月条〉

 ここでは倭国の献上品として具体的に琥珀と瑪瑙を記し、その大きさについても特筆している。これなども、先の「大珠」に通じるものと言えよう。次に「明珠」「夜明珠」で思い起こされるのが、『隋書』俀国伝の次の記事だ。

 如意宝珠有り。其の色青く、大きさ鶏卵の如し。夜は則ち光有り、と云う。魚の眼精なり。

 また有名な『魏志』倭人伝にも「真珠・青玉を出だす」「白珠五千孔・青大句珠二枚、異文雜錦二十匹を貢す」という記事が見えることから、三世紀から九世紀に至るまで、倭国は「珠」を献上品とする伝統を持っていたようである。また、おそらくは他国もこうした倭国の「珠」を珍品として重宝したものと思われる。
【転載おわり】(つづく)