九州王朝(倭国)一覧

第3348話 2024/09/18

王朝交代期のエビデンス、藤原宮木簡 (5)

 701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代期を跨ぐ時代の藤原宮跡の遺構からは、大宝令より前の「官司」「官職」と理解しうる木簡が出土しています。九州王朝律令を復元するうえで貴重な史料です。わたしの知るところを「木簡庫」から転載します。

《藤原宮跡出土の七世紀官司官職名木簡》
○「舎人官」
【木簡番号】524
【本文】□□〔且ヵ〕□舎人官上毛野阿曽美□□〔荒ヵ〕□○右五→
【遺跡名】藤原宮跡大極殿院北方
【遺構番号】SD1901A
【木簡説明】(前略)舎人官は大宝・養老令官制の左右大舎人寮か東宮舎人監の前身官司と考えられる。舎人官の上にある文字は、大・左・右のいずれでもない。人名中にみえる阿曽美は朝臣の古い表記法と思われ、『続日本紀』宝亀四年五月辛巴条にみえる。

○「陶官」
【木簡番号】523
【本文】陶官召人
【遺跡名】藤原宮跡大極殿院北方
【遺構番号】SD1901A
【木簡説明】(前略)陶官が人を召喚した文書の冒頭部分にあたる。陶官は『令義解』にみえる養老令官制の宮内省管下の筥陶司の前身となるものであろう。大宝令施行期間中に筥陶司が存在したことは天平一七年(七四五)の筥陶司解(『大日本古文書』二-四〇八)の存在から確認できる。したがって、陶官という官名は飛鳥浄御原令制下にあったものと思われるが、さらにこの海(ママ)から出土した他の木簡の例からみて浄御原令施行以前にも存在していた可能性がある。官司名+召という書きだしをもつ召喚文は藤原宮木簡四九五、平城宮木簡五四・二〇九四などにもみえるが、この木簡の例などからみて、かなり古くから行われたものらしい。

○「宮守官」
【木簡番号】466
【本文】・○但鮭者速欲等云□□・以上博士御前白○宮守官
【遺跡名】藤原宮跡西南官衙地区
【遺構番号】SD502
【木簡説明】宮守官が博士に鮭を要求することについて報告した文書。宮守官は他の文献史料にない。官という呼称からみて、大宝令以前の官名か。ただ宮を守るという意味をあらわしていること、南面西門の近くで出土していることから、藤原宮の宮城門を守る官司である可能性が高い。この木簡からみると「宛先の前に申す」という文書形式では「前に申す」という語句が文書の末尾にくる場合があることを示している

○「薗職」
【木簡番号】1
【本文】九月廿六日薗職進大豆卅□〔石ヵ〕
【遺跡名】藤原宮跡北面中門地区
【遺構番号】SK1903
【木簡説明】薗職から大豆を進上してきたことを記した文書。上部は小万で切断した面で、もとの面である。したがって文書としては冒頭から残っていると考えられる。まず、薗職が大豆を進めた年月日を書き、つづけて大豆の数量を書いている。おそらく、木簡の折損している下半分か裏面に、進上した薗職の責任者名があったのではなかろうか。ただし裏面は腐蝕がはなはだしく墨痕は確認できない。薗職は他の文献史料には名前がみえない。関連する官司名としては『令義解』にみえる養老令官制として園池司がある。大宝令制下では、同令施行期間中である天平十七年の正倉院文書(『大日古』二-三九九)に園池司解があるので、大宝令官制でも園池司は存在していたと思われる。この大宝・養老令官制にみられる園池司と薗職との関係については直接的な史料がないので確言はできないが、二つの場合が考えられる。すなわち、第一の場合は薗職は国池司の前身であって大宝令施行以前の浄御原令制下の官制であると考えるものであり、第二の場合は、令外官で園池司とは別に存在したものと考える場合である。このうち、以下に述べるような事情から、第一の場合の可能性が高いものと考えられる。すなわち、薗職と同じ類の官司名として、奈良県教育委員会の調査で出土した藤原宮木簡の中に「←薗官」「薗司」と書かれた木簡が出土していることを考えると、薗職、薗官、薗司という類似した官司名が三つあることになるが、これら三つの官司がそれぞれ別個に存在したと考えるより同一官可を三様に呼称したものと考えた方が自然である。そうであるとすれば大宝・養老令の官制では各官司はその呼称として省寮職司の格付が明確にされていたわけであるから、同一官司名を司とも官とも職ともよぶということはありえない。したがって、薗職、薗司、薗官は同一官司を示し、大宝令以前の官司であって、国池司の前身と見た方がよさそうである。もちろん、薗職、薗官、薗司の三つの官司が別個のものであって、このうちの薗司、薗職等が従来の文献で知られていない大宝令施行後の官名である可能性もある。

○「蔵職」「文職」
【木簡番号】1639
【本文】・〈〉○□□□〔麻呂ヵ〕○大□〔神ヵ〕□志○蔵職\○危□□田○□\○文職○□□\○□・○□□\○□○□□
【遺跡名】藤原宮跡東方官衙北地区
【遺構番号】SD2300
【木簡説明】(前略)「蔵職」「文職」は、ともに大宝令以前の官司であろう。

○「膳職」
【木簡番号】0
【本文】膳職白主菓餅申解解→
【遺跡名】藤原宮北辺地区
【遺構番号】SD105

○「塞職」
【木簡番号】12
【本文】・「/□/□/□∥」符処々塞職等受・○常僧師首○僧\○/常僧/○常∥薬薬首市市\○僧
【遺跡名】藤原宮跡北面中門地区
【遺構番号】SD145
【木簡説明】塞職にあてた符。裏面ならびに表面上部の文字は別筆の習書である。「塞」は『万葉集』にセキと訓んで関にあてた例があり、(『万葉集』二〇三、一〇七七)、『日本書紀』大化二年正月条では「関塞」の二字にセキの古訓があるから(北野本)、関所の司と考えてよかろう。奈良県教育委員会の調査で竜田、大坂の関の存在を示唆する木簡が出土しており、『出雲国風土記』にも国内に多くの剗(関)があったことがみえる。この木簡にみえる塞は大和とその周辺にあった関をさすものか。裏面の習書は表と全く関連がない。

○「外薬」
【木簡番号】1776
【本文】外薬□
【遺跡名】藤原宮跡西面南門地区
【遺構番号】SD1400
【木簡説明】「外薬」は、外薬寮のことか。外薬寮は、天武天皇四年(六七五)正月、大学寮学生、陰陽寮ほかとともに薬および珍異等物を捧げたとみえる令前官司で(『日本書紀』同月丙午朔条)、令制の典薬寮にあたるとみられる。

これらの木簡に見える「○○官」という官司名は九州王朝が制定したものと思われ、次の例が知られています。

○「尻官」 法隆寺釈迦三尊像台座墨書(7世紀初頭)
○「見乃官」 大野城市本堂遺跡出土須恵器刻書(7世紀前半~中頃)

 飛鳥宮の役所跡と見られている石神遺跡からも、次の「○○官」木簡が出土しています。出土層位は天武期頃と見られています。

《明日香村石神遺跡出土「○○官」木簡》
○「大学官」
【木簡番号】0
【本文】大学官○□
【遺構番号】SD4089

○「勢岐官」
【木簡番号】0
【本文】・□〔道ヵ〕勢岐官前□・代□
【遺構番号】SK4060

○「道官」
【木簡番号】0
【本文】・○道官□・〈〉
【遺構番号】SD4090

 『日本書紀』天武紀にも次の「○○官」名が見え、七世紀の官司名として出土木簡と対応しているようです。

○「法官」「大弁官」 天武七年(678年)十月条
○「宮内官」 天武十一年(682年)三月条
○「法官」 天武十二年(683年)十月条
○「大弁官」 天武朱鳥元年(686年)三月条
○「太政官」「法官」「理官」「兵政官」「刑官」「民官」 天武朱鳥元年(686年)九月条

 藤原宮出土木簡により、『日本書紀』天武紀の検証が実証的に進めることができ、また、王朝交代研究にとって重要な木簡群であることをご理解いただけたものと思います。古田学派で進められきた『日本書紀』の史料批判や解釈論争が、これからは同時代木簡により、エビデンスベースでの検証が可能となりました。当連載で紹介できたのは藤原宮(京)出土木簡のごく一部ですが、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代研究に裨益することができれば幸いです。(おわり)


第3347話 2024/09/16

王朝交代期のエビデンス、

        藤原宮木簡 (4)

 701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代期を跨ぐ時代の遺構、藤原宮跡北面中門地区の外濠SD145から出土した木簡から、701年に起きた行政官庁・官司の名称変化と行政用語を示すものを紹介します。これらも藤原宮の時代(694~710年)に王朝交代がなされた根拠となる木簡群です。

《藤原宮跡北面中門地区 遺構SD145 出土木簡》

【木簡番号】0
【本文】←○左大臣□□□

【木簡番号】0
【本文】□〔主〕典大初□〔位〕

【木簡番号】0
【本文】・←□御命受止食国々内憂白・←□止詔大□□〔御命ヵ〕乎諸聞食止詔

【木簡番号】0
【本文】・恐々謹々頓首→・受賜味物→

【木簡番号】8
【本文】・卿等前恐々謹解寵命□・卿尓受給請欲止申
【木簡説明】卿等への上申文書。助調の一部を万葉仮名で、補なう形をとった解。仮名を小字に書かない例は宣命木簡(奈教委『概報』)にもみられる。卿は養老令では八省の長官をいう。ここでは単なる尊称か。(後略)

【木簡番号】11
【本文】・恐々受賜申大夫前筆・暦作一日二赤万呂□
【木簡説明】筆の請求に関する文書。「暦作」云々の文言からすると暦の勘造、頒布に要する筆か。大宝令制では中務省の陰陽寮が造磨、頒暦に当っている(『令集解』職員令陰陽寮条古記)。(後略)

【木簡番号】13
【本文】・内掃部司解□→・倭国○葛下郡→
【国郡郷里】大和国葛下郡
【木簡説明】内掃部司は宮内省の被管で供御の畳、席、薦等の事を分掌する官司。伴部として掃部をもつ。令制では掃部は大蔵省掃部司と宮内省内掃部司にある。掃部の伴造の系譜をひく掃部連の出身者が内掃部司の令史に任じられている例が、天平一七年四月付の正倉院文書にある(『大日古』二-四〇八頁)。この木簡の文意は不明であるが、葛下郡との関係は、同郡内に掃部氏の氏寺で義淵の建立と伝える掃守寺跡があることが注意される。

【木簡番号】17
【本文】中務省/管内蔵三人∥
【木簡説明】「管」は官司を管理するの意で、養老職員令にも「中務省/管職一寮六司三∥」などとある(『令集解』)。ただこの場合の「内蔵三人」は内蔵寮の官人のことか。大宝・養老令制では内蔵寮は中務省に所属している。

【木簡番号】18
【本文】中務省使部
【木簡説明】養老令制では中務省には使部七〇人が配属されている(『令集解』)。(後略)

【木簡番号】30
【本文】・大初位下上県白→・○□
【木簡説明】上縣という氏は他の文献史料にない。あるいは上が民(ママ、氏ヵ)で縣は名か。(後略)

【木簡番号】72
【本文】・□〔而ヵ〕薬司□〔侍ヵ〕/□□□□/○□∥・□□部□/○/□∥
【木簡説明】薬に関する官司は大宝令制では後宮十二司の薬司、典薬寮、内薬司などがある。この木簡の示す薬司は後宮十二司のそれをそのまま示すものか、あるいは典薬寮の大宝以前の前身である外薬寮(『日本書紀』天武四年正月朔条)や内薬司の前身である内薬官(『続日本紀』文武三年正月癸未条)の別称であるのかはつまびらかにしない。

遺構SD145から出土した上記木簡で注目されるのが、木簡17・18にある「中務省」(注①)という大宝令で創設された官庁名です。木簡13の「内掃部司」も中務省管轄の官司であり、木簡11の「暦作」を担当した部署も「大宝令制では中務省の陰陽寮が造磨(ママ、暦)、頒暦に当っている(注②)」とあることから、SD145の近辺に中務省があったのではないでしょうか。藤原宮(京)が律令制の王都王宮として機能していたことは、木簡0・30に見える律令制官位「大初□」「大初位下」からもうかがえます。(つづく)

(注)
①中務省(なかつかさしょう)は、律令制における八省のひとつで、天皇の補佐や詔勅の宣下、叙位など朝廷に関する職務全般を担ったことから、八省の中でも最重要の省とされた。
②『養老律令』巻十 雑令に次の条文がある。
「凡よそ陰陽寮は、年毎に預(あらかじ)め来年の暦造れ。十一月一日に、中務に申し送れ。中務奏聞せよ。内外の諸司に、各(おのおの)一本給へ。並に年の前に所在に至らしめよ。」(日本思想大系『律令』岩波書店)による。


第3346話 2024/09/15

王朝交代期のエビデンス、藤原宮木簡 (3)

 701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代期を跨ぐ時代の遺構として、藤原宮跡北面中門地区の外濠SD145があります。同遺構から出土した約500点の木簡から、王朝交代前後での変化を示す木簡を「木簡庫」より抽出して紹介します。

 最初に紹介するのは、古代史研究での郡評論争として著名な、701年に起きた「評」から「郡」への行政単位名の変化を示すSD145出土木簡です。すなわち、藤原宮の時代(694~710年)に王朝交代(評制から郡制へ)がなされた根拠となる木簡群です。

◆藤原宮跡北面中門地区 遺構SD145 出土「評」木簡◆

【木簡番号】0
【本文】己亥年十月上捄国阿波評松里
【国郡郷里】安房国安房郡〈上捄国阿波評松里〉
【和暦】(己亥年)文武3年 【西暦】699年

【木簡番号】0
【本文】上毛野国車評桃井里大贄鮎
【国郡郷里】上野国群馬郡桃井郷〈上毛野国車評桃井里〉

【木簡番号】0
【本文】下毛野国芳宜評□
【国郡郷里】下野国芳賀郡〈下毛野国芳宜評〉

【木簡番号】0
【本文】・←河評柏原里・□三烈一□〔節ヵ〕
【国郡郷里】駿河国駿河郡柏原郷〈駿河国駿河評柏原里〉

【木簡番号】0
【本文】三川国波豆評□〔篠ヵ〕嶋里大□〔贄ヵ〕一斗五升
【国郡郷里】参河国幡豆郡〈三川国波豆評篠嶋里〉

【木簡番号】0
【本文】山田評之太々里○□□□□〔邑内塩入ヵ〕
【国郡郷里】尾張国山田郡志談郷〈尾張国山田評太々里〉

【木簡番号】0
【本文】尾張国〈〉評〈〉
【国郡郷里】尾張国

【木簡番号】0
【本文】・飯□〔穂ヵ〕評若倭部柏・五戸乎加ツ
【国郡郷里】播磨国揖保郡〈播磨国飯穂評〉

【木簡番号】0
【本文】与射評大贄→
【国郡郷里】丹後国与謝郡〈丹波国与謝郡〉

【木簡番号】0
【本文】□□〔神門ヵ〕評阿尼里知奴大贄
【国郡郷里】出雲国神門郡〈神門評阿尼里〉

【木簡番号】0
【本文】海評/海里/○〓廿斤∥
【国郡郷里】隠岐国海部郡海部郷〈隠岐国海評海里〉・尾張国海部郡海部郷〈尾張国海評海里〉

【木簡番号】0
【本文】海評三家里/日下部日佐良□/軍布∥
【国郡郷里】隠岐国海部郡〈隠岐国海評三家里〉・尾張国海部郡三宅郷〈尾張国海評三家里〉

【木簡番号】0
【本文】次評/上部里/→∥
【国郡郷里】隠岐国周吉郡〈隠岐国次評上部里〉

【木簡番号】0
【本文】・吉備中国下道評二万部里・多比大贄
【国郡郷里】備中国下道郡迩磨郷〈吉備中国下道評二万部里〉

【木簡番号】0
【本文】←国後木評
【国郡郷里】備中国後月郡〈←国後木評〉

【木簡番号】0
【本文】加夜評□□〔守里ヵ〕□部
【国郡郷里】備中国賀夜郡〈備中国加夜評守里〉

【木簡番号】0
【本文】熊毛評大贄伊委之煮
【国郡郷里】周防国熊毛郡〈熊毛評〉・(大隅国熊毛郷〈熊毛評〉)

【木簡番号】82
【本文】吉備道中国浅口評神部
【国郡郷里】備中国浅口郡〈吉備道中国浅口評神部〉
【木簡説明】浅口評は浅口郡か。『倭名鈔』では浅口郡は備中国にある。ただし神戸郷は同郡にはない。形態が不明で文書か荷札か判断しがたい。

【木簡番号】145
【本文】三方評竹田部里人○/粟田戸世万呂/塩二斗∥
【国郡郷里】若狭国三方郡竹田郷〈若狭国三方評竹田部里〉
【木簡説明】三方評竹田部里は『倭名鈔』には該当する郷名はない。ただし、平城宮出土木簡には竹田部里にあたる竹田郷丸部里(『平城宮木簡一』三三二)、竹田里(『平城宮木簡二』二六六五)がある。

【木簡番号】146
【本文】庚子年四月/若佐国小丹生評/木ツ里秦人申二斗∥
【国郡郷里】若狭国大飯郡木津郷〈若佐国小丹生評木ツ里〉
【和暦】(庚子年)文武4年 【西暦】700年
【木簡説明】庚子の年は文武四年(七〇〇年)。小丹生評木ツ里は『倭名鈔』では大飯郡木津郷にあたる。大飯郡は天長二年に遠敷郡より分置された(『日本書紀』天長二年七月辛亥条)。津をツと表記するのは国語史上注目される。用例としては大宝二年美濃国戸籍や藤原宮出土の墨書土器「宇尼女ツ伎」(奈教委『藤原宮』)にもみえる。

【木簡番号】150
【本文】←治国春部評春→
【国郡郷里】尾張国春部郡〈←治国春部評春→〉
【木簡説明】春部評は尾張国春部郡と思われるが、『倭名鈔』では同郡に「春□郷」はみえない。

【木簡番号】157
【本文】出雲評支豆支里大贄煮魚/須々支/→∥
【国郡郷里】出雲国出雲郡杵筑郷〈出雲評支豆支里〉
【木簡説明】出雲評支豆支里は『倭名鈔』の出雲郡杵筑郷にあたる。『風土記』にも出雲郡杵築(寸付)郷や支豆支社の名がみえる。『延喜式』では出雲国は贄の貫(ママ、貢ヵ)進国にはいっていない。

【木簡番号】159
【本文】・○伊余国久米評□・「天山里人○宮末呂」
【国郡郷里】伊与国久米郡天山郷/伊予国久米郡天山郷〈伊余国久米評天山里〉
【木簡説明】久米評天山里は、『倭名鈔』には久米郡天山郷とみえる。裏は別筆、表にも里名記載の墨痕がある。

【木簡番号】163
【本文】海評/中□〔田ヵ〕里/支止軍布∥
【国郡郷里】隠岐国海部郡〈隠岐国海評中田里〉・尾張国海部郡〈尾張国海評中田里〉・紀伊国海部郡〈紀伊国海評中田里〉・豊後国海部郡〈豊後国海評中田里〉

【木簡番号】164
【本文】海評/海里人/小宮軍布∥
【国郡郷里】隠岐国海部郡海部郷〈隠岐国海評海里〉・尾張国海部郡海部郷〈尾張国海評海里〉
【木簡説明】海評海里は『倭名鈔』では隠岐国海郡と尾張国にある。同評同里の木簡は、奈良県教育委員会調査の藤原宮出土木簡(奈教委『藤原宮』)にみえる。軍布の訓はメ、海藻をいう。

【木簡番号】165
【本文】宇和評小物代贄
【国郡郷里】伊与国宇和郡/伊予国宇和郡〈宇和評〉
【木簡説明】宇和評は伊予国宇和郡。

【木簡番号】168
【本文】大荒城評胡麻□
【国郡郷里】上野国邑楽郡〈上野国大荒城評〉
【木簡説明】大荒城評は上野国邑楽郡かあるいは飛騨国荒城郡か。胡麻は『延喜典薬式』では上野国年料雑薬にみえる。

【木簡番号】170
【本文】神前評□山里
【国郡郷里】播磨国神埼郡蔭山郷〈播磨国神前評□山里〉・近江国神埼郡〈近江国神前評□山里〉・肥前国神埼郡〈肥前国神前評□山里〉
【木簡説明】神前評は神前郡で、近江国・播磨国・肥前国にみえる。

【木簡番号】171
【本文】海評三家里人/日下部赤□/軍布∥
【国郡郷里】隠岐国海部郡〈隠岐国海評三家里〉・尾張国海部郡三宅郷〈尾張国海評三家里〉
【木簡説明】海評三家里は『倭名鈔』では尾張国にある。

【木簡番号】172
【本文】次評/新野里/○軍布∥
【国郡郷里】隠岐国周吉郡新野郷〈隠岐国次評新野里〉
【木簡説明】次評新野里は『倭名鈔』の隠岐国周吉郡新野郷にあたる。

【木簡番号】176
【本文】・上毛野国車評・○□□□
【国郡郷里】上野国群馬郡〈上毛野国車評〉
【木簡説明】上毛野国車評は上野国群馬郡にあたる。車評は奈教委調査の藤原宮出土木簡(奈教委『藤原宮』)にもある。

【木簡番号】179
【本文】与射評大贄伊和→
【国郡郷里】丹後国与謝郡〈丹波国与謝郡〈与射評〉〉
【木簡説明】与射評は丹波国(後、丹後国)与謝郡。「伊和→」は伊和志か。『延喜式』では丹後国は交易雑物として小鰯腊一二籠を出すことになっている。

【木簡番号】186
【本文】・大伯評□〈〉三斗・〈〉
【国郡郷里】備前国邑久郡〈大伯評〉
【木簡説明】大伯評はのちの備前田邑久郡にあたる。

【木簡番号】192
【本文】熊野評大贄塩塗近代百廿隻
【国郡郷里】丹後国熊野郡〈熊野評〉

【木簡番号】194
【本文】・□〔志ヵ〕加麻評□・柏
【国郡郷里】播磨国飾磨郡〈播磨国志加麻評〉
【木簡説明】志加麻評は『倭名鈔』では播磨国餝磨郡にあたる。柏は『延喜民部式』では年料別貢雑物として播磨国が貢進することになっている。

【木簡番号】211
【本文】←□〔河ヵ〕評柏原里玉作部下□
【国郡郷里】駿河国駿河郡柏原郷〈駿河国駿河評柏原里〉
【木簡説明】柏原里は、『和名鈔』の駿河国駿河郡柏原郷にあたる。同里の荷札は、奈教委『藤原宮』(一〇一頁)にもみえる。

◆藤原宮跡北面中門地区 遺構SD145 出土「郡」木簡》◆

【木簡番号】0
【本文】知夫利郡由良里軍□〔布〕→
【国郡郷里】隠岐国知夫郡由良郷〈隠岐国知夫利郡由良里〉

【木簡番号】151
【本文】・尾治国知多郡→・大寶二年
【国郡郷里】尾治国知多郡
【和暦】大宝2年 【西暦】702年

【木簡番号】154
【本文】綾郡→
【国郡郷里】讃岐国阿野郡
【木簡説明】讃岐国綾郡の貢進荷札の断簡。平城宮第二次内裏西外郭より出土した和銅頃と推定される木簡とよく似た書風である(『年報一九七五』)。

【木簡番号】156
【本文】出雲国嶋根郡副良里伊加大贄廿斤
【国郡郷里】出雲国嶋根郡副良里
【木簡説明】嶋根郡副良里は『倭名鈔』に該当する郷名が見えないが、同郡内には現在の地名に福浦が残されている。烏賊は『延喜式』では出雲国の調の品目のなかに、烏賊廿斤としてみえる。『養老賦役令』調絹絁条では烏賊卅斤を正丁一人が貢納することになっている。

【木簡番号】169
【本文】□〔神ヵ〕郡前里鮎十八斤

【木簡番号】178
【本文】・安芸国佐伯郡雑腊二斗・【「〈〉□□□」】
【国郡郷里】安芸国佐伯郡
【木簡説明】裏面は倒書で別筆の楽書である。

【木簡番号】177
【本文】伊豆国仲郡
【国郡郷里】伊豆国那賀郡
【木簡説明】仲郡は、『倭名鈔』の那賀郡にあたる。

以上のように、各地からの荷札木簡に記された「評」「郡」木簡の同一遺構SD145からの出土という事実は、この藤原宮が王朝交代の舞台であったことを示しています。なぜならその当時、律令制(中央官僚約八千人)による全国統治が可能な規模を持つ大都市(条坊都市)と宮殿・官衙遺跡は日本列島内でここだけだからです(注)。(つづく)

(注)九州王朝の複都難波宮(京)は686年に焼失している。大宰府政庁Ⅱ期は規模が小さく、全国統治が可能な宮殿・官衙遺構とはできない。


第3345話 2024/09/13

王朝交代期のエビデンス、

        藤原宮木簡 (2)

 『日本書紀』によれば持統八年(694年)に藤原遷都し、古田説では701年に九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)へ王朝交代します。その痕跡が藤原宮跡北面中門地区出土木簡に見えます。その代表的な遺構にSD145があります。出土点数が500点を超えますのでテーマ毎に分けて説明します(「木簡庫」に登録されているものは300件)。最初に紀年銘木簡を紹介します。今回は年次順に並べました。

《藤原宮跡北面中門地区 遺構SD145 出土木簡》

【木簡番号】166
【本文】・辛卯年十月尾治国知多評・入見里神部身〓三斗
【遺構番号】SD145
【国郡郷里】尾張国智多郡〈尾治国知多評入見里〉
【和暦】(辛卯年)持統5年 【西暦】691年
【木簡説明】辛卯の年は持統五年(六九一年)にあたる。知多評入家(ママ、見ヵ)里は『倭名鈔』には該当する郷名はない。

【木簡番号】162
【本文】・甲午年九月十二日知田評・阿具比里五□〔木ヵ〕部皮嶋□養米六斗
【遺構番号】SD145
【国郡郷里】尾張国智多郡英比郷〈尾張国知田評阿具比里〉
【和暦】(甲午年)持統8年 【西暦】694年
【木簡説明】甲午の年は持統八年(六九四年)。養米は、衛士、仕丁などに支給される国養物と関連をもつものか。関連史料はなく不詳。阿具比里は『倭名鈔』の尾張国智多郡英比郷か。

【木簡番号】0
【本文】乙未年木□〔津ヵ〕里/秦人倭∥
【遺構番号】SD145
【国郡郷里】若狭国大飯郡木津郷〈若狭国遠敷郡木津里・若佐国小丹生評木津里〉・近江国高島郡木津郷〈近江国高島郡木津里〉・丹後国竹野郡木津郷〈丹後国竹野郡木津里〉
【和暦】(乙未年)持統9年 【西暦】695年

【木簡番号】39
【本文】・乙未年八月十一日○舎人□□□〔秦内麻ヵ〕□・〈〉□□
【遺構番号】SD145
【和暦】(乙未年)持統9年 【西暦】695年
【木簡説明】乙来(ママ、未)年は持統九年(六九五年)。大宝令以前の舎人については、『日本書紀』に左右舎人(天武一三年正月丙午条)、左右大舎人(朱鳥元年九月甲子条)、大舎人(持統五年二月朔条)が見える。また奈良県教育委員会の調査でも「左大舎人寮」と書かれた木簡が出土している(奈教委『藤原宮』七六)。

【木簡番号】175
【本文】乙未年御調寸松
【遺構番号】SD145
【国郡郷里】参河国渥美郡〈参河国渥美郡寸松里/参河国渥美郡村松山〉
【和暦】(乙未年)持統9年 【西暦】695年
【木簡説明】乙未の年は持統九年(六九五年)にあたる。寸松里は木簡一七三参照。

【木簡番号】184
【本文】□年分乙未年六月但→
【遺構番号】SD145
【国郡郷里】但馬国・尾張国知多郡但馬郷)
【和暦】(乙未年)持統9年 【西暦】695年
【木簡説明】(前略)某年の未進分を「乙未年」に京(ママ、貢ヵ)進したときの荷札か。「乙未年」は持統天皇9年(695)。「但」以下は欠損により不詳であるが、但馬国、もしくは尾張国智多郡但馬郷が候補となる。郷名からはじまる荷札も知られるが、尾張国荷札について郷名のみが記された事例はほとんどみられないことから、但馬国の可能性が高いと判断した。藤原宮跡北面中門地区(藤原宮第18次調査)SD145出土。(以上、但馬集成より)。乙未の年は持統九年(六九五年)にあたる。乙未の年、某年分の貫(ママ、貢ヵ)進を行ったことを示しているから、この某年は乙未の年より前のものと考えられる。

【木簡番号】155
【本文】丙申年七月旦波国加佐評□〔椋ヵ〕→
【遺構番号】SD145


第3344話 2024/09/11

王朝交代期のエビデンス、藤原宮木簡 (1)

 「洛中洛外日記」3336~3341話(2024/08/29~09/05)〝同時代エビデンスとしての「天皇」木簡 (1)~(6)〟で紹介した飛鳥宮遺跡の木簡は、王朝交代前の七世紀第4四半期のものが中心でした。その続編として、王朝交代期(701年前後)の藤原宮木簡を紹介します。飛鳥宮遺跡よりも出土数が多いので、重要な遺構を中心に見ていくことにします。

 『日本書紀』によれば、持統八年(694年)に藤原遷都がなされていますが、藤原宮造営がいつ頃から始まったのかについてのエビデンスとして注目された干支木簡が遺構SD1901Aから出土しています。同遺構は藤原宮大極殿のすぐ北方の宮内下層から発見された大溝(運河)で、次のように説明されています。

〝大溝は幅約七メートル、深さ二メートルを越える大規模なもので、平らな底に、両岸が垂直に近い形になる人口の溝である。(中略)大溝は役割を終えてのち一気に、しかも入念、堅固に埋められており、その後に大極殿院施設の建設が行われている。〟木下正史『藤原京』58~59頁、中公新書、2003年。

 この大溝下層の粗砂層からは約130点の木簡が出土しており、その中に、「壬午年」(天武十一年・682年)「癸未年」(天武十二年・683年)「甲申年」(天武十三年・684年)の干支木簡が出土し、藤原京・宮の造営時期を判断する上でのエビデンスとして重視されました。奈良文化財研究所HPの「木簡庫」より、大溝(遺構番号SD1901A)から出土した重要な木簡を紹介します。

《藤原宮大極殿北方の下層大溝SD1901A出土木簡》
【木簡番号】522
【本文】・甲申年七月三日○□〔部ヵ〕□□\□○□・○日仕○甘於連
【遺構番号】SD1901A
【和暦】(甲申年)天武13年 【西暦】684年
【木簡説明】(前略)甲申年は天武一三年(六八四)。日仕とはその日勤務したことを示すものか。ここでは甘於連が出勤執務したことを意味する。但し律令等に日仕の用語はみえない。甘於連は『続日本紀』天平神謹二年四月丁未条にみえる甘尾氏のことか。

【木簡番号】523
【本文】陶官召人
【遺構番号】SD1901A
【木簡説明】(前略)陶官が人を召喚した文書の冒頭部分にあたる。陶官は『令義解』にみえる養老令官制の宮内省管下の筥陶司の前身となるものであろう。大宝令施行期間中に筥陶司が存在したことは天平一七年(七四五)の筥陶司解(『大日本古文書』二-四〇八)の存在から確認できる。したがって、陶官という官名は飛鳥浄御原令制下にあったものと思われるが、さらにこの海(ママ)から出土した他の木簡の例からみて浄御原令施行以前にも存在していた可能性がある(総説参照)。官司名+召という書きだしをもつ召喚文は藤原宮木簡四九五、平城宮木簡五四・二〇九四などにもみえるが、この木簡の例などからみて、かなり古くから行われたものらしい。

【木簡番号】524
【本文】□□〔且ヵ〕□舎人官上毛野阿曽美□□〔荒ヵ〕□○右五→
【遺構番号】SD1901A
【木簡説明】(前略)舎人官は大宝・養老令官制の左右大舎人寮か東宮舎人監の前身官司と考えられる。舎人官の上にある文字は、大・左・右のいずれでもない。人名中にみえる阿曽美は朝臣の古い表記法と思われ、『続日本紀』宝亀四年五月辛巴条に見える。

【木簡番号】528
【本文】□〔豊ヵ〕□評大伴部大忌寸廿六以白
【遺構番号】SD1901A
【国郡郷里】摂津国豊嶋郡〈豊□評〉・遠江国豊田郡〈豊□評〉・武蔵国豊嶋郡〈豊□評〉・安芸国豊田郡〈豊□評〉・長門国豊浦郡〈豊□評〉
【木簡説明】(前略)評名と人名とが記されている。豊ではじまる郡は摂津国豊嶋郡、武蔵国豊嶋郡、安芸国豊一田郡、長門国豊浦郡、遠江国豊田郡があるが、この木簡にみえる評名との関係は確められない。末尾に「以白」と記しているところからみて文書の断片であろう。廿六は年齢か。

【木簡番号】531
【本文】□進~大~肆□□→
【遺構番号】SD1901A
【木簡説明】進大肆は天武十四年(六八五)制定の位階で、最下位から二番目の位。上から墨繰で沫消している。

【木簡番号】544
【本文】癸未年十一月/三野大野評阿漏里/□〔阿ヵ〕漏人□□白米五斗∥
【遺構番号】SD1901A
【国郡郷里】美濃国大野郡上杖郷〈三野大野評阿漏里〉・美濃国大野郡下杖郷〈三野大野評阿漏里〉
【和暦】(癸未年)天武12年 【西暦】683年
【木簡説明】(前略)癸未年は天武一二年(六八三)にあたり、今のところ里の表記をもっている最も古い史料である。阿漏里については、正倉院文書中に美濃国大野郡上荒郷に本貫をもつ阿漏人大嶋、阿漏君国麻呂の記載があって(『大日本古文書』二五-一四三・一四四)、ここからみると上、下に分かれる前の荒郷の前身が阿漏里ではないかと考えられる。『倭名鈔』には美濃国大野郡の項に上杖、下杖郷がみえる。

【木簡番号】545
【本文】・壬午年十月〈〉毛野・□〔芳ヵ〕□□〔評ヵ〕
【遺構番号】SD1901A
【国郡郷里】下野国芳賀郡〈□毛野芳□評〉
【和暦】(壬午年)天武11年 【西暦】682年
【木簡説明】(前略)壬午年は天武一一年(六八二)でSD1901A溝から出土した木簡の最古の紀年をもっている。

【木簡番号】546
【本文】旦波国竹野評鳥取里大贄布奈
【遺構番号】SD1901A
【国郡郷里】丹後国竹野郡鳥取郷〈旦波国竹野評鳥取里〉
【木簡説明】贄についての貢進物の荷札。旦浪(ママ、波の誤り)国竹野評鳥取里は『和名鈔』では、丹後国竹野郡鳥取郷にあたる。丹後国の分離は和銅六年(七一三)。『延喜式』にみえる丹後国からの貢進物に布奈はみえない。

【木簡番号】547
【本文】海評佐々里/阿田矢/軍布∥
【遺構番号】SD1901A
【国郡郷里】隠岐国海部郡佐作郷〈隠岐国海評佐々里〉
【木簡説明】海評佐々里は『倭名鈔』の隠岐国海部郡佐作郷にあたる。軍布の訓はメで海藻である。阿国矢は人名で、氏は欠いている(東野治之「藤原宮木簡における無姓者」『続日本紀研究』第一九九号参照)。

【木簡番号】548
【本文】・宍粟評山守里・山部赤皮□□
【遺構番号】SD1901A
【国郡郷里】播磨国宍粟郡安志郷〈播磨国宍粟評山守里〉
【木簡説明】(前略)宍粟評は『倭名鈔』の播磨国宍栗郡にあたる。

【木簡番号】552
【本文】鴨評□
【遺構番号】SD1901A
【国郡郷里】参河国賀茂郡〈鴨評〉・(伊豆国賀茂郡〈鴨評〉・美濃国賀茂郡〈鴨評〉・佐渡国賀茂郡〈鴨評〉・播磨国賀茂郡〈鴨評〉・安芸国賀茂郡〈鴨評〉
【木簡説明】(前略)鴨評は『倭名鈔』にみえる参河国賀茂郡、伊豆国賀茂郡、美濃国加茂郡、佐渡国賀茂郡、安芸国賀茂郡のいずれかに相当するか。

 これらの木簡から判断できる同遺構SD1901Aの年代観は天武期末頃とできます。干支木簡の他に天武十四年から大宝律令で新位階制が採用されるまで使用された「進大肆」(木簡番号531)、700年まで採用された行政単位「評」もその年代観と対応しています。また、飛鳥浄御原令以前の官司名とみられる「陶官」(木簡番号523)「舎人官」(木簡番号524)もこの年代観を支持しています。こうした木簡は当地近辺に官衙があったことを示唆しています(注)。
他方、出土土器編年については次のように説明されています。

〝木簡と一緒に多量に出土した土器群も、藤原宮の外濠や内濠、東大溝、官衙の井戸などから出土する藤原宮使用の土器群よりも、はっきりと古い特徴が窺われる。〟木下正史『藤原京』60~61頁、中公新書、2003年。

 以上の年代観などから、天武期末頃に大溝が掘削され、藤原宮造営のための資材運搬用の運河として使用されたとする通説が成立しました。この大溝は既にあった条坊道路を取り壊して造営されていますから、藤原京条坊は天武期末頃よりも早い段階で造営されていたことになります。その造営範囲と時期は今後の発掘調査で明らかになることと思います。
これらの出土事実から、既にあった条坊を取り壊して、運河用大溝を造り、使用後は埋め立てて、そこに藤原宮大極殿が造営されたことがわかりました。なぜこのような計画性のない王都王宮の造営がなされたのかについて、学界でも古田学派でも諸仮説が提起されており、注目されます。いずれにしましても、出土木簡というエビデンスとの整合性が重要であることは言うまでもありません。なお、木簡に記された地名(美濃国・下野国・旦波国・隠岐国・播磨国)から、天武期当時の勢力範囲がうかがえます。(つづく)

(注)七世紀(九州王朝時代)の官職名
○「尻官」 法隆寺釈迦三尊像台座墨書(7世紀初頭)
○「見乃官」 大野城市本堂遺跡出土須恵器刻書(7世紀前半~中頃)

○「大学官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「勢岐官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「道官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「舎人官」 藤原宮跡大極殿院北方出土木簡(天武期)
○「陶官」 藤原宮跡大極殿院北方出土木簡(天武期)
○「宮守官」 藤原宮跡西南官衙地区出土木簡
○「加之伎手官」 藤原宮跡東方官衙北地区出土土器墨書
○「薗職」 藤原宮北辺地区出土木簡
○「蔵職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「文職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「膳職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「塞職」 藤原宮跡北面中門地区出土木簡
○「外薬」 藤原宮跡西面南門地区出土木簡
○「造木画処」 藤原宮跡東面北門地区出土木簡


第3343話 2024/09/10

『魏書』の中国風一字名称への改姓記事

 ある調査のため『魏書』(注①)全巻を斜め読みしたのですが、興味深い記事がありました。「官氏志九第十九」(魏書 一百一十三)の末尾に見える「一字名称への改姓記事」の一群です(少数ですが二字の姓も見えます)。

 北魏(386~535年)は中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国ですが(注②)、国内で中国化を目指す勢力と鮮卑族の風習を守ろうとする勢力による対立が続きました。孝文帝の漢化政策により鮮卑の服装や言語の使用禁止、漢族風一字姓の採用などが実施されました。

 この漢族風一字姓とは異なりますが、古田先生は倭国では中国風一字名称が採用され、『宋書』倭国伝に見える倭王の名前「讃」「珍」「済」「興」「武」がそうであると指摘しました。北魏においては漢族風一字姓への改姓が強力に推し進められたことが『魏書』「官氏志九第十九」に次のように記録されています。比較しやすいように、旧姓と改姓に「 」を付しました。

獻帝以兄為「紇骨」氏、後改為「胡」氏。
次兄為「普」氏、後改為「周」氏。
次兄為「拓拔」氏、後改為「長孫」氏。
弟為「達奚」氏、後改為「奚」氏。
次弟為「伊婁」氏、後改為「伊」氏。
次弟為「丘敦」氏、後改為「丘」氏。
次弟為「侯」氏、後改為「亥」氏。
七族之興、自此始也。
又命叔父之胤曰「乙旃」氏、後改為「叔孫」氏。
又命疏屬曰「車焜」氏、後改為「車」氏。
凡與帝室為十姓、百世不通婚。太和以前、國之喪葬祠禮、非十族不得與也。高祖革之、各以職司從事。
神元皇帝時、餘部諸姓内入者。
「丘穆陵」氏、後改為「穆」氏。
「步六孤」氏、後改為「陸」氏。
「賀賴」氏、後改為「賀」氏。
「獨孤」氏、後改為「劉」氏。
「賀樓」氏、後改為「樓」氏。
「勿忸于」氏、後改為「於」氏。
「是連」氏、後改為「連」氏。
「僕蘭」氏、後改為「僕」氏。
「若干」氏、後改為「茍」氏。
「拔列」氏、後改為「梁」氏。
「撥略」氏、後改為「略」氏。
「若口引」氏、後改為「寇」氏。
「叱羅」氏、後改為「羅」氏。
「普陋茹」氏、後改為「茹」氏。
「賀葛」氏、後改為「葛」氏。
「是賁」氏、後改為「封」氏。
「阿伏於」氏、後改為「阿」氏。
「可地延」氏、後改為「延」氏。
「阿鹿桓」氏、後改為「鹿」氏。
「他駱拔」氏、後改為「駱」氏。
「薄奚」氏、後改為「薄」氏。
「烏丸」氏、後改為「桓」氏。
「素和」氏、後改為「和」氏。
「吐谷渾」氏、依舊「吐谷渾」氏。
「胡古口引」氏、後改為「侯」氏。
「賀若」氏、依舊「賀若」氏。
「谷渾」氏、後改為「渾」氏。
「匹婁」氏、後改為「婁」氏。
「俟力伐」氏、後改為「鮑」氏。
「吐伏盧」氏、後改為「盧」氏。
「牒云」氏、後改為「雲」氏。
「是雲」氏、後改為「是」氏。
「叱利」氏、後改為「利」氏。
「副呂」氏、後改為「副」氏。
「那」氏、依舊「那」氏。
「如羅」氏、後改為「如]氏。
「乞扶」氏、後改為「扶」氏。
「阿單」氏、後改為「單」氏。
「俟幾」氏、後改為「幾」氏。
「賀兒」氏、後改為「兒」氏。
「吐奚」氏、後改為「古」氏。
「出連」氏、後改為「畢」氏。
「庾」氏、依舊「庾」氏。
「賀拔」氏、後改為「何」氏。
「叱呂」氏、後改為「呂」氏。
「莫那婁」氏、後改為「莫」氏。
「奚斗盧」氏、後改為「索盧」氏。
「莫蘆」氏、後改為「蘆」氏。
「出大汗」氏、後改為「韓」氏。
「沒路真」氏、後改為「路」氏。
「扈地於」氏、後改為「扈」氏。
「莫輿」氏、後改為「輿」氏。
「紇干」氏、後改為「干」氏。
「俟伏斤」氏、後改為「伏」氏。
「是樓」氏、後改為「高」氏。
「尸突」氏、後改為「屈」氏。
「沓盧」氏、後改為「沓」氏。
「嗢石蘭」氏、後改為「石」氏。
「解枇」氏、後改為「解」氏。
「奇斤」氏、後改為「奇」氏。
「須卜」氏、後改為「卜」氏。
「丘林」氏、後改為「林」氏。
「大莫干」氏、後改為「郃」氏。
「爾綿」氏、後改為「綿」氏。
「蓋樓」氏、後改為「蓋」氏。
「素黎」氏、後改為「黎」氏。
「渴單」氏、後改為「單」氏。
「壹斗眷」氏、後改為「明」氏。
「叱門」氏、後改為「門」氏。
「宿六斤」氏、後改為「宿」氏。
「馥邗」氏、後改為「邗」氏。
「土難」氏、後改為「山」氏。
「屋引」氏、後改為「房」氏。
「樹洛于」氏、後改為「樹」氏。
「乙弗」氏、後改為「乙」氏。
東方宇文、慕容氏、即宣帝時東部,此二部最為強盛,別自有傳。
南方有「茂眷」氏、後改為「茂」氏。
「宥連」氏、後改為「雲」氏。
次南有「紇豆陵」氏、後改為「竇」氏。
「侯莫陳」氏、後改為「陳」氏。
「庫狄」氏、後改為「狄」氏。
「太洛稽」氏、後改為「稽」氏。
「柯拔」氏、後改為「柯」氏。
西方「尉遲」氏、後改為「尉」氏。
「步鹿根」氏、後改為「步」氏。
「破多羅」氏、後改為「潘」氏。
「叱干」氏、後改為「薛」氏。
「俟奴」氏、後改為「俟」氏。
「輾遲」氏、後改為「展」氏。
「費連」氏、後改為「費」氏。
「其連」氏、後改為「綦」氏。
「去斤」氏、後改為「艾」氏。
「渴侯」氏、後改為「緱」氏。
「叱盧」氏、後改為「祝」氏。
「和稽」氏、後改為「緩」氏。
「冤賴」氏、後改為「就」氏。
「嗢盆」氏、後改為「溫」氏。
「達勃」氏、後改為「褒」氏。
「獨孤渾」氏、後改為「杜」氏。
凡此諸部、其渠長皆自統眾,而尉遲已下不及賀蘭諸部氏。
北方「賀蘭」、後改為「賀」氏。
「鬱都甄」氏、後改為「甄」氏。
「紇奚」氏、後改為「嵇」氏。
「越勒」氏、後改為「越」氏。
「叱奴」氏、後改為「狼」氏。
「渴燭渾」氏、後改為「味」氏。
「庫褥官」氏、後改為「庫」氏。
「烏洛蘭」氏、後為「蘭」氏。
「一那蔞」氏、後改為「蔞」氏。
「羽弗」氏、後改為「羽」氏。

 この改姓リストを見ると、国を挙げて中国化を進めたことがわかります。北方系異民族である鮮卑族の王朝が漢民族の文化を積極的に受け入れたという事実は、歴史現象としても興味深いものです。

 この中国化という視点で日本列島の動向を考えると、『宋書』倭国伝に見える倭王が中国風一字名称を採用したことは、五世紀の倭国(九州王朝)に於いて中国化が進んでいたのかもしれません。多利思北孤の時代(七世紀初頭)になると、「阿毎多利思北孤」と倭語の名前が『隋書』俀国伝に記されていますから、中国の天子に宛てた国書の自署名に中国宇一字名称ではなく、「阿毎多利思北孤」を使用したと考えざるを得ません。従って、この時代には倭国の中国化は進まず、倭国文化(万葉仮名、舞楽など)が花開いたのではないでしょうか。

(注)
①『魏書』(一)~(三)、百衲本二十四史、台湾商務印書館。
②国号は魏だが、戦国時代の魏や三国時代の魏と区別するため、通常はこの拓跋氏の魏は「北魏」と呼ばれている。


第3325話 2024/07/15

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (8)

 孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」の有力候補地として、大阪天満宮境内に鎮座する「大将軍社」に注目しています。しかし、「大将軍」とはどのような神格なのかよくわかりません。そこで、従来説にとらわれることなく、古代史研究のテーマとして考えたところ、『宋書』倭国伝に記された倭王武の称号「安東大將軍倭國王」をエビデンスとできることに気づきました。

 『宋書』倭国伝には次の記事が見え、倭王武が自称していた「安東大將軍」を宋が承認しています。

 「興死、弟武立、自稱、使持節都督・倭・百濟・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・七國諸軍事・安東大將軍・倭國王」
「詔除武、使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六國諸軍事・安東大將軍・倭王」

 わが国の古代史において、「大将軍」を名乗った最も著名な人物こそ九州王朝(倭国)の倭王武ではないでしょうか。『宋書』倭国伝には武の上表文が掲載されており、九州を拠点として朝鮮半島(海北)や日本列島(東西)各地へ侵攻したと主張しています。それは次の有名な一文です。

 「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」

 このことを宋が承認した結果、自称した七国のうち、百済を除く六国の支配者であることを示す称号「使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六國諸軍事・安東大將軍・倭王」を宋は認めたわけです。
そこで次に問題となるのが、倭王武が征服した東の「毛人五十五國」に難波が含まれているのかどうかです。結論から言えば、含まれていると考えざるを得ません。次の考古学事実がそのことを証言しています。

 「古田史学の会」が2019年6月16日に開催した古代史講演会(大阪市、i-siteなんば)で、南秀雄さん(大阪市文化財協会)により「日本列島における五~七世紀の都市化 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地」という講演がなされ、古墳時代(5世紀頃)の難波について次のように紹介されました(注)。ちなみに、南さんは30年以上にわたり難波を発掘してきた考古学者で、広範な出土事実に基づく説得力ある講演でした。

《発表レジュメより転載》
❶ 古墳時代の日本列島内最大規模の都市は大阪市上町台地北端と博多湾岸(比恵・那珂遺跡)、奈良盆地の御所市南郷遺跡群であるが、上町台地北端と比恵・那珂遺跡は内政・外交・開発・兵站拠点などの諸機能を配した内部構造がよく似ており、その国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如くである。

❷ 上町台地北端は居住や農耕の適地ではなく、大きな在地勢力は存在しない。同地が選地された最大の理由は水運による物流の便にあった(瀬戸内海方面・京都方面・奈良方面・和歌山方面への交通の要所)。

❸ 都市化のためには食料の供給が不可欠だが、上町台地北端は上町台地や周辺ではまかなえず、六世紀は遠距離から水運で、六世紀末には後背地(平野区長原遺跡等の洪積台地での大規模な水田開発など)により人口増を支えている。狭山池築造もその一端。

❹ 上町台地北端の都市化の3段階。
a.第1段階(五世紀) 法円坂遺跡前後
古墳時代で日本最大の法円坂倉庫群(十六棟、計1450㎡以上)が造営される。他地域の倉庫群(屯倉)とはレベルが異なる卓越した規模で、約千二百人/年の食料備蓄が可能。(後略)

 以上の考古学的出土事実から、九州王朝(倭国)が倭王武(安東大将軍)の時代(5世紀)に難波へ進出し、博多湾岸の比恵・那珂遺跡に匹敵する規模の都市化を推し進め、列島最大の法円坂倉庫群を造営したことがうかがえます。(つづく)

(注)古賀達也「難波の都市化と九州王朝」『古田史学会報』155号、2019年。


第3314話 2024/06/29

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (5)

 今日は博多に向かう新幹線車中で「洛中洛外日記」を書いています。二十数年ぶりに開催される久留米高専化学科11期(昭和51年卒)の同窓会に参加することと、明日、久留米大学公開講座で講演するため(注①)、帰郷します。わたしが久留米大学講演のために帰郷することを知った旧友が、地元の同窓生に呼びかけて、博多で同窓会を開催することになりました。聞けば、全国各地に散らばった同窓生も幾人か出席するようで、ありがたいことです。

 織田信長と摂津石山本願寺との合戦布陣図『石山古城図』(注②)に見える、長柄地域の天満山に置かれた「織田信長本陣」の文字にわたしは注目しました。織田軍の本陣が置かれた地ですから、周囲を見渡すことができる高台であり、川を距てた南の上町台地にある摂津石山本願寺を展望でき、かつ、距離も遠からず、近からずという地勢的に絶妙な場所であったことがうかがえます。そこで、天満山があったと思われる位置を現代の地図と比較したところ、大阪天満宮が鎮座している所のようです。大阪を代表する神社の一つであり、それに相応しい選地がなされたものと思われますから、織田軍本陣が置かれた地と考えてよいでしょう。
そこで、大阪天満宮のホームページを調べたところ、もともと当地には孝徳天皇の難波長柄豊碕宮を守護するため、白雉元年(650)に大将軍社が創建され、平安時代には菅原道真が大宰府下向の途中、当神社に参詣したと伝わっています(注③)。

 この伝承で注目されるのが、白雉元年に大将軍社が創建されたという部分です。白雉元年とありますから、本来は九州年号の白雉元年(652年)のときと思われ、前期難波宮の創建時に、〝北の守り〟として、「大将軍」と呼ばれた有力者がこの地(難波長柄)に居館を構えたものと思われます。すなわち、九州王朝の〝東の都〟難波京(前期難波宮)北方の防衛を命じられた九州王朝(倭国)の配下の「大将軍」の居館が天満山に造営され、後に大将軍社として祀られたのではないでしょうか。従って、この難波長柄の「大将軍」の居館こそ、今の大阪天満宮の地にあった、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮ではないでしょうか。

 しかしながらこの仮説には、当地が「天満山」と呼ばれるに相応しい高台なのか今のところ不明ですし、また、現在の「豊崎」地名の場所とは異なるという弱点があります。梅雨があけたら現地調査します。(つづく)

(注)
①久留米大学公開講座2024年。【九州の古代史 ―九州王朝論を中心に】
□6月30日(日) 古賀達也 九州王朝の天子と臣下の天皇たち ―「天皇」号と「天皇」地名の変遷―
□7月7日(日) 正木裕 氏 王朝交代と隼人
□会場 久留米大学御井キャンパス
②『石山古城図』国会図書館蔵。江戸期成立の絵図と思われる。
③大阪天満宮のHPには次のように説明されている。
https://osakatemmangu.or.jp/about
大阪天満宮の創始(御鎮座)
奈良時代 白雉元年(650年)孝徳天皇様が難波長柄豊崎宮をお造りになりました頃、都の西北を守る神として大将軍社という神社をこの地にお祀りされました。以来この地を大将軍の森と称し、又後には天神の森ともいわれ、現在も南森町北森町としてその名を残しております。

 平安時代延喜元年(901年)当宮の御祭神である菅原道真公は太宰府へ向かう途中この大将軍社をお参りになり旅の無事を御祈願なされました。その後道真公は、太宰府において、お亡くなりになり、その50年あまり後の天暦三年(949年)この大将軍社の前に一夜にして七本の松が生え、夜毎にその梢を光らせたと申します。

 これをお聞きになりました村上天皇様は、勅命によって、ここにお社をお建てになり、道真公のお御霊を厚くお祀りされました。以来、一千有余年、氏子大阪市民はもとより広く全国より崇敬を集めています。

 大将軍社

 菅公が大宰府に向かう前に参拝したという大将軍社は、境内の西北に鎮座しています。天満宮の御鎮座よりも約300年遡った650年に創建されています。大将軍社があった場所に、大阪天満宮が創建されたことになります。
現在では、摂社として祀られており、大阪天満宮では元日の歳旦祭の前に、大将軍社にて「拂暁祭(ふつぎょうさい)」というお祭りを行い、神事の中で「租(そ)」と言ういわゆる借地料をお納めする習わしになっております。


第3312話 2024/06/27

関川尚巧(元橿原考古学研究所)さん

           との考古談義

 一昨日、奈良市で関川尚巧(せきかわ ひさよし)さんと長時間考古学・古代史談義をしました。関川さんは元橿原考古学研究所の考古学者で、学生時代から40年近く大和・飛鳥を発掘されてきた方です。今でも、発掘の現地指導をしているそうです。そうした永年の経験に基づいた〝大和に邪馬台国はなかった〟とする『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』(注①)の著者でもあります。「古田史学の会」でも講演していただきました。

 今回の面談では、「多元的古代研究会」「古田史学の会」創立30周年記念東京講演会(日程・会場は未定)での講演依頼とその打ち合わせを行いました。「古田史学の会」からは正木事務局長・竹村事務局次長・上田事務局員とわたしが出席し、打ち合わせ後は三時間にわたり考古学や古代史について歓談が続きました。

 関川さんの遺跡発掘体験談の数々をお聞きしましたが、なかでも太安萬侶墓発掘時(注②)のエピソードはとても興味深いものでした。同墓は茶畑開墾中に発見されたとのことで、そのとき墓誌が移動したため、墓誌本来の位置が不明だったのですが、墓誌の破片の一部が本来の場所に残っていることを関川さんが発見され、その破片の場所が本来の墓誌の位置であることを確定できたとのことでした。この他にも、飛鳥や奈良県から出土した多くの有名な遺跡発掘調査に関川さんが携わられていることをうかがうことができました。

 ちなみに、「邪馬台国」畿内説は全く成立せず、北部九州であるという点は、わたしたちと完全に意見が一致したことは言うまでもありません。氏の考古学に対する情熱や真摯な学問精神は共感するところ大でした。関東の皆さんにも関川さんの講演を聴いて頂きたいと願っています。

(注)
①関川尚巧『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②1979年(昭和54年)、奈良県奈良市此瀬町の茶畑から安万侶の墓が発見され、火葬された骨や真珠が納められた木櫃と墓誌が出土した。


第3293話 2024/05/29

『東京古田会ニュース』216号の紹介

『東京古田会ニュース』216号が届きました。拙稿「古代都市成立の指標 ―都城論争の収斂を求めて―」を掲載していただきました。同稿では、昨年11月の八王子セミナーで発表した律令制都城の〝絶対条件〟として次の5点を示し、少なくともこれら全てを満たす七世紀の都城は難波京(前期難波宮)と藤原京(藤原宮)だけと結論づけました(注①)。

【律令制王都の絶対5条件】
《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら計数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。

さらに「古代都市」の指標(必要条件)として提唱された〝G・V・チャイルドの古代都市成立の十基準〟(注②)などを紹介しました。そして、日本古代史が空理空論でなければ、研究者が合意できる「律令制都市存立の必要条件」と、誰もが知りうる「考古学的出土事実」にのみ基づいて、九州王朝都城を探るべきと主張しました。
『東京古田会ニュース』216号掲載記事で注目したのが、つぎの遺跡巡り旅行記でした。

○大宮姫伝承を訪ねて 東久留米市 村田智加子
○和田家文書をみちづれに「和田家文書と国東半島」の旅行に参加して 白井市 讃井優子

当地の状況が目に浮かぶような旅行記です。なかでも村田さんが紹介された鹿児島県の大宮姫伝承の報告は懐かしく拝読しました。わたしは学生時代に指宿市や枕崎市を旅行した経験もあり、初めて書いた長文の論文が「最後の九州王朝 ―鹿児島県「大宮姫伝説」の分析―」(注③)だったこともあり、とても印象深い旅行記でした。
会員の皆さんからの『古田史学会報』への遺跡巡り報告の投稿をお待ちしています。

(注)
①同セミナーでのわたしの演題と論旨は次の通り。
《演題》律令制都城論と藤原京の成立 ―中央官僚群と律令制土器―
《要旨》大宝律令で全国統治した大和朝廷の都城(藤原京)では約八千人の中央官僚が執務した。それを可能とした諸条件(官衙・都市・他)を抽出し、倭国(九州王朝)王都と中央官僚群の変遷、藤原京成立の経緯を論じる。
②Vere Gordon Childe (1950),The Urban Revolution. The Town Planning Review 21.
③古賀達也「最後の九州王朝 ―鹿児島県「大宮姫伝説」の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。


第3282話 2024/05/07

難波宮湧水施設出土「謹啓」木簡の証言

 泉論文(注①)では、下層遺跡から出土した「贄」木簡を孝徳朝宮殿の根拠としたのですが、前期難波宮北西の湧水施設(SG301)から出土した次の「謹啓」木簡(注②)も自説(前期難波宮天武朝説)の根拠としました。

・「謹啓」 ・「*□然而」 *□[初カ](遺物番号533)

 同水利施設は、井戸がなかった前期難波宮の水利施設と見なされ、七世紀中葉の造営であることが出土土器編年(須恵器坏G、坏H)により判明しました。さらに年輪年代測定により、湧水施設の木枠の伐採年が634年であったことも、「洛中洛外日記」で紹介した通りです(注③)。

 この従来説に対して、泉論文では、「謹啓」木簡は七世紀後葉の飛鳥池や石神遺跡の天武朝の遺構から出土しており、難波宮出土の「謹啓」木簡も天武朝のものと理解できるとされました。そして、「謹啓」木簡の出土層位(第7B層)は水利施設の最下層であり、難波宮水利施設が天武朝(七世紀後葉)に造営された証拠とされました。従って、この水利施設を利用した前期難波宮は天武朝の宮殿であり、その下の下層遺跡を孝徳朝の宮殿としたわけです。

 しかしながら、前期難波宮を九州王朝(倭国)の複都の一つとするわたしの見解によれば、この「謹啓」木簡は九州王朝の難波進出の痕跡であり、前期難波宮九州王朝王宮説を示唆する傍証となります。すなわち、飛鳥に居した近畿天皇家の天武らよりもはやく九州王朝の難波宮では「謹啓」という用語が使用されていたと理解することができるからです。泉論文の「謹啓」木簡の証言は、九州王朝が採用していた「謹啓」という用語を、七世紀後葉に実力者となった天武らが飛鳥で使用開始したことに気づかせてくれたという意味で、貴重なものとわたしは評価しています。(つづく)

(注)
①泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
②『難波宮址の研究 第十一 ―前期難波宮内裏西方官衙地域の調査―』大阪市文化財協会、2000年。
③古賀達也「洛中洛外日記」3278話(2024/05/01)〝泉論文と前期難波宮造営時期のエビデンス〟


第3280話 2024/05/05

難波宮西側谷出土

    「贄」「戊申年」木簡の証言

 泉論文(注①)で、孝徳朝宮殿の根拠とされた「贄」木簡(前期難波宮整地層直下の土壙SK10043出土)は、その北側約450mの地点から検出された東西方向の谷からも出土しています。出土層位は前期難波宮のゴミ捨て場跡と考えられており、その第16層から33点の木簡が出土しています(注②)。その中に次の表記を持つ木簡が特に注目されました。

 「委尓ア栗□□」(4号木簡) ※「尓ア」は贄(にえ)。
「戊申年」(11号木簡) ※戊申年は648年。

 泉論文では、土壙SK10043から出土した「贄」木簡とあわせて、隣接する二地点から「贄」木簡が出土したことは、その近傍に孝徳天皇の宮殿があった根拠としました。しかも「戊申年」(648年)木簡と伴出したことにより、下層遺跡の建物の造営が孝徳朝の頃とする根拠にもなりました。こうした指摘も、近畿天皇家一元史観の通説では反論困難です。

 この点も、前期難波宮を九州王朝(倭国)の複都の一つとするわたしの見解に立てば、これらの木簡は九州王朝の難波進出の痕跡であり、前期難波宮九州王朝王宮説を示唆する傍証とできることは前話で述べたとおりです。また、『伊予三島縁起』に見える「孝徳天王位、番匠初。常色二戊申、日本国御巡礼給。」(孝徳天皇のとき番匠の初め。常色二年戊申、日本国をご巡礼したまう。)は、九州王朝による難波宮造営のための「番匠」派遣記事であり、九州年号の「常色二年戊申」と難波宮出土「戊申年」木簡との年次(648年)の一致は偶然ではなく、何らかの関係を示唆するとの正木氏の指摘もあります(注③)。(つづく)

(注)
①泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
②『大阪城址Ⅱ 大阪城跡発掘調査報告書Ⅱ ―大阪府警察本部庁舎新築工事に伴う発掘調査報告書― 図版編』大阪府文化財調査研究センター、2002年。
③正木裕「常色の宗教改革」『古田史学会報』85号、2008年。